スペクルム カノン

 朝早くに、刃や隣のクラスの西野達から遊びに行かないかとSNSで誘いがあったが即断った。
 何故なら、カラオケだからだ。華音は絵も苦手だが、歌も苦手なのだ。
 聴くだけなら音楽も悪くないとは思うのだが、自分で歌うとなると、どうも聞くに耐えられないものになってしまう。
 芸術センスがゼロに等しい事を自覚しているだけマシだと思い、その辺は気にしない。とは言え、たとえ遊びでも自分の芸術センスのなさを晒す事はプライドが許さない。
 元々1人で過ごすのが苦ではない華音は、1人気ままに街をぶらついていた。

 高層ビルが建ち並び、車も人も多い街中は活気に溢れている。
 店先で客寄せをする、オシャレなショップ店員の横を通り過ぎるが、その先もそのまた先も同じ様な光景と擦れ違った。
 見渡す限り、ファッション関連の店が多い。道行く人も、老若男女問わずオシャレな人ばかりだ。
 今日は日差しが暖かいので、薄着の人や半袖の人も目立つ。
 華音はいつもの様に、水色の七分袖パーカーとボーダーの半袖シャツ、踝がチラリと見えるインディゴブルーのデニムと言う、シンプルで無難なコーディネートだ。
 芸術センスがない華音にとって、ファッションの世界も理解し辛く、センスもないので、興味がない。
 それでも、時折若い女性グループが華音に熱っぽい視線を向け、「カッコイイ」ときゃーきゃー騒いでいた。本人は、毎度の如く気が付かない。

 やがて、オシャレストリートから抜けると、古書店が目に入った。
 初老の男女達が吸い込まれていくそこに、華音も踏み入れた。
 キラキラとした物や人で溢れているファッション店とは真逆で、薄暗くて静かで地味だった。けれど、フワッと古紙の匂いがし、祖父母の家に来たかの様な落ち着く場所だ。
 華音は本の山に半分隠れた眼鏡の男性店主の居るカウンターの前を通り過ぎ、一番端の本棚に手を伸ばした。


 出掛けた時と同じく、両手をスッキリさせた状態で帰路を歩く華音。
 古書店を満喫し、適当にファーストフード店で昼食を済ませ、後は自宅でゆっくりするつもりだ。
 買い出しに出掛けた家政婦の水戸も、そろそろ帰宅している頃だ。
 水戸がお茶を淹れてくれる光景を思い浮かべ、ハッと華音は思い立つ。

 たまにはお茶請けに何か買って帰ろう。

 水戸が作ってくれるお菓子も美味しいが、日頃のせめてものお礼だ。
 そうと決まれば、華音は道を引き返す。
 まだ駅からはそんなに離れていないので、構内の店で何か買おう。
 水戸は何が好きなのか、あまり本人の口から聞かない事を考え、悩みながら住宅街を歩いていく。
 駅が見えて来た所で、駅よりも目立つものが視界一杯に広がった。
 人集り、大きな赤い車体、立ち昇る炎…………火事だ。しかも、その辺り一帯の住宅をまるごと飲み込む、大規模な火災である。
 既に消火活動は開始されているが、一向に炎の勢いが弱まらない。地元のテレビ局も来ていて、カメラがその様子を鮮明に映している。
 人集りの最前列で、若い女性が消防隊に取り押さえられていた。
 女性は綺麗な髪を乱し、泣き叫んでいる。

「止めないで! 中に、娘がいるの! 私が助けなきゃ……」
「奥さん、落ち着いて。今我々が……」

 消防隊も、同情の色を露にするが、如何せん、炎の勢いが強すぎて建物に近付けない。
 燃え尽きた天井や柱が屋内に散らばり、防火服を身に纏った彼らでも女性の娘を助けに行くのは極めて困難な事なのだ。
 現状を理解した華音は、火災現場に背を向けて歩き出す。
 向かったのは住宅街の中にある公園。親友と出逢った場所であり、月の魔女と一戦を交えた場所だ。
 アルナによって破壊された遊具は、いつの間にか元通りだ。
 華音はそれには目もくれず、公衆男子トイレに入った。
 蛇口の上に設置された、古ぼけた鏡にスペクルムの魔法使いが映った。

「……魔物の仕業ではないぞ」

 オズワルドはあまり協力的ではなさそうだが、華音の目は真剣なままで少しも揺らがなかった。
 華音は鏡面に手を置いた。

「それはどうでもいい。お前って、水の加護のおかげで炎が効かないんだよな。普通の炎でもか」
「まさか、さっきの民家に飛び込むつもりか? 人が多いし、テレビとやらが来ていたから目立つぞ」
「……それでも、このまま見捨てる事なんて出来ないよ」
「……お人好しめ。いいだろう」

 オズワルドが手を重ねると、青白い光が生まれ、華音を包み込んだ。

 鏡の欠片が装飾された青いラインの入った白いローブを靡かせ、水色の髪の少年が塀を駆け抜ける。
 周囲の気温が上昇し、煤焼けた匂いが鼻を掠め、炎が目の前に見えた。
 琥珀色の瞳に揺らぐ炎を映すと、覚悟を決めて塀から地上へ降りて表札の横を通り過ぎる。
 その白いローブを、人集りやテレビ局は見逃さなかった。
 すぐに女性アナウンサーがマイクを持ち、男性カメラマンがカメラを回す。

「今、不思議な格好をした少年が――――」
「うわっ! 何だ、コイツ」

 突然カメラマンが声を上げ、アナウンサーはマイクから口を離した。
 横を見ると、カメラのレンズの前に青みがかった烏が羽ばたいていた。まるで、撮影を邪魔するかの様に。


 多少の注目を浴びてしまったが、記録に残らなければ問題ない。華音は、撮影妨害してくれた使い魔に感謝し、炎の中を進んでいく。
 炎の海と化したそこには、家具や崩れた天井が廃材となって炎を上げている。よく手入れされていたであろう部屋は無残な状態だ。
 何とか安全な道を見つけ、女の子を探す。
 1人取り残されてしまったその子は今、何処でどんな状態なのだろうか。
 正直嫌な予感も過るが、華音は助けられるならば助けたいと言う一心で進んでいった。
 こんなにも炎が間近なのに、熱さも息苦しさも感じない。見えない力が華音をまるごと包み込んで護っている。オズワルドの水の加護のおかげだ。
 オズワルドは普通の人間の気配を察知する事は出来ないらしく、華音の好きな様に歩かせている。

『……20分以内に助け出せれないなら、諦めろ。そうでなければ、カノン。お前が死ぬ。それは私としては困るからな』

 華音が階段を上がっていると、脳内にオズワルドの声が響いた。
 憑依時間を忘れた訳ではなかった為、華音はしっかりとした口調で返す。

「オレだって、まだ死にたくないよ。お前の為じゃない。大切な人が居るから」

 家で帰宅を待っている水戸、いつも学校で逢う刃と雷、まだ知り合ったばかりだけど憎めない桜花……華音にはそんな人達が居る。彼らが存在しなかったら、命を簡単に投げ出していたかもしれない。それぐらい、華音にとって自分と言う存在は不確かなモノだった。
 違う人生を送っている別人なのに、やはり同じ生命体。本質は同じで、つい、オズワルドの顔に笑みが浮かんだ。

『そうか。同じだな』
「同じ?」
『あの娘が居るからオレは――――』

 ガコン!

 天井が崩れて、華音の背後擦れ擦れに落下した。
 階段が塞がれ、戻る道を絶たれたが進むべき道はまだあった。
 華音はあと3段だった階段を上り終え、そこで扉の前で倒れている6歳ぐらいの女の子を発見した。
 華音は急いで駆けつけ、女の子を抱き起こす。
 息はあるが、意識はない。煙を大量に吸ってしまった為だった。
 早く外へ連れ出さなければ、この場所も、女の子自身の命も危ない。
 華音は辺りを見渡し、道を探す。
 先程来た道は既に塞がれているので除外、後は女の子が倒れていた扉の向こう。
 扉を開けると、ブワッと煙と炎が吹き出した。
 華音は、反射的に目を伏せて腕で顔を覆って、抱えている女の子を庇う様に身体を横へ捻った。
 煙と炎の勢いが治まると、その向こうに部屋が広がっていた。チェストやベッドなどは炎に飲まれてしまっているが、大きな硝子戸は無事だった。
 華音はそこに目を付け、女の子をギュッと抱えて炎に飛び込んだ。

 魔法使いを憑依させた華音に引っ付いている女の子も、加護の対象となっている様で全く被害を受ける事はなかった。
 炎を抜けて硝子戸の前に立つと、下の様子が窺えた。
 相変わらずの人集りの中で、母親は項垂れて消防隊に宥められている。
 女の子を送り届けなければ……と、華音が強い決意を固めると、女の子が腕の中で蠢いた。
 視線を下げると、大きな茶色の瞳と目が合った。

「おかあ……さん? あれ……ちがう…………おにいちゃん、だぁれ?」

 声は掠れていて、囁く様な声量だった。
 華音は柔らかな笑みを浮かべ、自分の唇の上に人差し指を立てた。

「……魔法使いだよ。今から、キミをお母さんのところへ届けるからね。オレの事は秘密だよ?」
「うんっ……ひみつ…………」

 女の子はまたスッと気を失い、華音はもう一度微笑んだ後、硝子戸をガラッと開けてベランダに出ると、手摺から飛び降りた。


 華音は女の子を母親のもとへ届け、周りの声を無視して人集りから遠ざかった。
 まだ、使い魔が邪魔をしてくれている様で、カメラには一切映る事はなかった。
 人集りが見えなくなったところで、足を止める。
 オズワルドが言いかけた“あの娘”って一体誰の事なんだろうか。訊きたかったが、華音が口を開く前に上から声が降って来た。

「オズワルドモドキ、発見」

 中性的な少女の声に顔を上げれば、姿も中性的な少女が塀の上に立ってこちらを見下ろしていた。
 こちらを見下ろす瞳の色が、先程の炎を思わせた。
 華音が身構えると、脳内でオズワルドが言った。

『火星の魔女――――エンテだ』
「エンテ……」

 華音が復唱すると、エンテは無感動な口調で「おおー」と声を上げた。

「ぼくの名前、正解。じゃあ、お前の名前も教えて?」
「……は?」
「オズワルドだけど、オズワルドじゃないんでしょ? だから、名前。まさか、ないとかないよね」

 エンテは塀から飛び降り、爪先立ちでググッと華音に無表情な顔を近付けた。相手が小柄だから、華音は見上げられている状態だ。



 仰け反る華音の脳内に、またオズワルドの声が響く。

『倒したいところだが、こちらに時間がない。ここは一旦引くぞ』

 憑依時間はあと僅か。その間に、精霊を取り込んだと言う相手を倒せる筈がない。華音も納得し、エンテから飛び退いて塀の上に着地した。
 エンテはゆっくり首を傾ける。

「何? どうしたの?」

 疑問に応えず、華音は塀の上を走り去った。
 幸い、エンテがついて来る気配はなく、人目のないところで憑依が解けた。
 華音は息をつく。
 ふと、視界の端で民家の庭木に青みがかった烏が止まった。
 バサッと、羽が舞い落ちる。

「ゴルゴ! さっきはありがとう」

 言葉が通じるか未だに不明だが、一応礼を言っておく。
 使い魔は返事の代わりに、小首を傾げた。
 華音は先程の火災現場の方を眺めた。
 炎は大分鎮まり、空気も透明感を取り戻していた。救急車のサイレンの音が響き、きっとあの女の子が病院へ運ばれたのだと安心した。
 火事の件はひとまず大丈夫そうだ。
 それよりも、火星の魔女の事だ。

 何故、火災現場近くで出くわした? 桜花が見たと言う火災現場から飛び出す魔物と思しき謎の影との関連性は?

 華音は思考を巡らせる。
 バサバサと、使い魔が飛んで来て華音の肩に乗った。まるで、今は深く考えるなと言っている様だった。
 もしかしたら、オズワルドがスペクルムからこちらの様子を見て、そう伝えたかったのかもしれない。
 華音は使い魔の頭を撫で、気持ちを切り替えて帰宅する事にした。



 火星の魔女に出くわした事をまず桜花に報告し、スマートフォンを脇に放って、ふかふかしたソファーの背凭れに背中を預けた。
 後ろから、水戸の足音が近付いて来る。

「華音くん、お茶をどうぞ」

 水戸が華音の目の前に温めたティーカップを置き、硝子のティーポットから美しいオレンジの水色(すいしょく)の紅茶を注いだ。
 湯気が立ち昇り、上品な花の香りが漂った。

「ありがとう。……あ」

 華音は思い出した。水戸の為に、駅でスイーツを買う事を。
 水戸は少しスペースを空けて、華音の隣に腰を下ろして、タレた焦げ茶色の瞳を瞬かせた。

「何か忘れ物ですか?」
「うん。すっかり忘れてた……」

 華音は紅茶に角砂糖を一つ入れ、スプーンでグルグル掻き回しつつも頭を抱えた。

「私に出来る事なら、遠慮なく言って下さいね?」

 水戸がそう言うと、華音の手がピタッと止まった。視線は水戸に向けられ、水戸はドキッとした。

「華音くん……?」
「水戸さん。水戸さんは何が好き?」
「えっ」

 また、水戸の心臓が跳ねた。
 華音の漆黒の瞳に自分が映っているのが面映ゆい。
 “好き”その単語に、目の前に居る華音の顔が最初に浮かんだ。いや、質問の答えとしては違うと、水戸は首を振って考え直す。けれど、結局質問の意図が分からず、訊き返した。

「それはどう言う事でしょう? 私の好きなものは色々とありますけど……。どれが華音くんの望む答えなのか……」
「あ。ごめん。どう言うスイーツが好きなのかなって。嫌いって事はないよね。いつもお菓子を作ってくれるし」

 華音はふわりと笑った。
 その笑みも、水戸の心臓の動きを活発にした。
 水戸は熱を帯びていく頬を隠す様に片手を添え、天井を眺めながら考えた。

「スイーツですか。確かに甘い物は大好物ですけれど、どれかって言われれば……。あ、そうだ」

 水戸は視線を華音へ戻し、ニコッと笑った。

「私、モンブランが好きです」
「モ、モンブラン……」

 華音の脳裏を掠めたのは、カレーライスをやたら主張してくる、スイーツとしても――――否、食べ物として不合格なあのモンブランだった。
 華音はそんな事ある筈ないと、水戸の顔色を窺いながら恐る恐るその食べ物の名を口にした。

「カレーライスの……?」
「カレーライス? モンブランなのに、カレーライスなんですか?」

 水戸が疑問を露にし、華音は心の中でそっと息を吐いた。

「何でもない。それよりも、モンブランなんだね。勿論栗の、だよね?」
「そうです。モンブランって、ケーキの形状を現す言葉ですからね。私は栗のモンブランが一番好きです」
「今日、本当はスイーツ買ってくるつもりだったんだ。今度、栗のモンブラン買ってくるよ」
「えっ! あ、ありがとうございます」
「今日も美味しい」

 華音がお茶を一口飲み微笑む。その横顔を少しの間眺めた後、水戸は席を立つ。

「クッキーが焼けたので持ってきますね」

 水戸は香ばしい匂いのする方へ、パステルイエローのエプロンを翻して歩いていった。


 華音が浴槽に浸かり、1日の疲れを癒していると、外からけたたましいサイレンの音が響いてきた。
 昨日までは「また火事か」の一言で終わっていたそれも、火星の魔女を見掛けてからは焦りに変わった。
 数時間前の事で、まだ火星の魔女と火事との関連性ははっきりとしていないが、不安要素が消えた訳ではなかった。
 落ち着かない華音の耳に、今度はオズワルドの落ち着いた声が聞こえて来た。

「魔物が現れた。……エンテも。私とした事が、一連の火事を起こしていたのが奴だと気付かなかった」

 落ち着いてはいるが、やはり何処か悔しそうで焦りが垣間見えた。
 華音は浴槽から上がり、シャワー横の鏡に近付いた。
 全身が映る鏡に、オズワルドの姿が映っていて、早速手の平をこちらへ向けていた。
 華音は戸惑う。

「え。ちょっと、待って。この状態で憑依するのか?」
「魔物と魔女が現れたんだぞ? 他にどうすると言うんだ」
「いやいや。オレ、今何も着てないし……!」

 オズワルドが憑依したら白いローブを纏えるが、解けたら全裸だ。屋外でそんな状態になれば、警察のお世話になってしまう。
 華音はオズワルドに背を向けた。

「服着てから! 鏡は洗面台にもあるし」

 いそいそとバスルームを後にし、サッとバスタオルで身体を拭った後、服を着て、再び鏡面のオズワルドと向き合った。


 火災現場付近まで来ると、魔物が飛び出して来た。
 赤い双眸を光らせるその影の様な身体の形状は狼。3体居た。
 華音は順に飛びかかってくる3体を杖で受け流し、背後に打撃を叩き込む。
 バタバタと、魔物は倒れた。
 それから、塀に飛び乗って意識を集中させる。

「アイシクルスピア!」

 魔物の頭上に幾つもの氷の刃が出現し、降り注いで貫く。
 消滅する魔物から生命力が舞い上がっていくのを横目に、華音は先を急ぐ。
 火災現場に近付く程に、道端で倒れる人の姿が増えていく。また、彼らの生命力を孕んだ魔物との遭遇率も高くなった。
 その度に、華音は魔術で魔物を倒し、人々の生命力を取り返した。
 炎が間近に見えるのに、殆ど前進出来ていない。
 このペースで進んでいったら、魔女のところまで辿り着いた時には憑依が解けてしまう。また、前回と同じ流れになる。
 火災件数をこれ以上増やさない為にも、何としてでもここでエンテとの対決に終止符を打ちたいところだ。
 飛び出して来た魔物に魔術で止めを刺していると、塀の上に黒い影が現れた。先程の狼の魔物よりもずっと小柄で、炎に照らされた毛並みは白地に茶の斑模様が入っていた。

「あれ? ね……」
『よせ、近付くな。あれは魔物だ』

 いつになく真剣な声が脳内に響き、華音の足が止まった。
 そうは言われても、どう見ても魔物には見えない。硝子玉の様な瞳は黄緑で、ピンと立った耳に、口角の上がった口、ゆらゆら揺れる細長い尻尾が愛らしいのに。
 華音は止めた足を動かし、塀へ近付いて両手を伸ばした。

「単なる猫だよね」

 抱いた手触りも、確かな重量感も、魔物のそれとは全く違う。
 それなのに、脳内のオズワルドの声は上擦っていた。

『な、なな何触っているんだ! さっさと捨てろ。そして、水攻めにしろ』

 この慌て様……間違いなかった。

「オズワルド。お前、猫苦手だろ」
『苦手ではない。悍ましいだけだ。見た目こそ違えど、魔物と同等。騙されるな』
「苦手なのは分かったけど、水攻めはやり過ぎだよ」

 これ以上はオズワルドが可哀想な事になるので猫を離してあげようとした矢先、魔物が塀を飛び越えて出現。
 顔面目掛けてきたそれに対応しようとし、思わず猫を落としてしまった。
 気にしつつ、魔物を杖で受け止めて吹き飛ばす。
 仰向けになった魔物の目の前を、平然と先の猫が通り過ぎ、華音は安堵。すぐに、魔術で猫……ではなく、勿論魔物を水攻めにして倒した。
 また、何体か魔物(ザコ)を倒して進んでいくと、漸く魔女(ボス)の待つ炎の城――――炎を上げる家屋の前に辿り着いた。
 エンテは屋根の上に立ち、まるで炎を全身に纏っているかの様な姿で華音を見下ろしていた。
 エンテの纏う鉄製のグローブとブーツが、炎の光を反射させて赤く輝く。艶やかな黒髪が熱風に踊り、炎と同じ色の瞳がぼんやりと地上の魔法使いを映す。

「あ。オズワルドモドキ。また会った」

 相変わらず、無感動な声色だ。
 華音は杖を構え、魔女相手にどう戦うか考える。
 すると、脳内にオズワルドの声が響いた。

『カノン。戦闘になる前に、エンテに訊いておけ。何故、スペクルムの私を消しに来ないのか、と』

 華音は小さく頷き、その体勢のまま口を開いた。

「エンテ。何で、スペクルムのオズワルドを消さないんだ? オレはお前の言う通り、オズワルドモドキ。オレを消すよりも、オズワルド本人を消した方が効率が良くないか?」
「ぼくも同意見だ。……けど、」

 エンテは地上へ降り、華音に歩み寄る。

「シーラ、言った。オズワルドも、スペクルムに居場所ない。人間達に酷い事された。ぼくたち8人の魔女(プラネット)も同じ。だから、同情。オズワルドは半分人間だが、もう半分はぼくたちと一緒。エルフ。居場所のない者同士、手を取り合う。シーラはそう望んでいる。共に歴史変える」

 エンテは小さな手を差し伸べる。

「それが……お前達の目的…………」

 華音はその手を掴めず、動揺していた。
 あっさりと目的を教えてもらえたが、同時にオズワルドには決して訊けなかった素性にまで触れてしまった。
 しかし、本人は然程気にしていない様子だった。

『エンテの言う通りだ。私は人間の父とエルフの母との間に産まれた、ハーフエルフだ。ハーフエルフはどちらの種族にも属せない故、忌み嫌われ、居場所がない。だがな。私は自分の出生を恨んだ事はない。魔女達とは違うんだよ。同情? 手を取り合う? 笑わせる。必要な事は聞けた。もう用済みだ』

 オズワルドが敵意を向けるのと、エンテが敵意を向けるのはほぼ同時だった。
 エンテは掴まれる事のなかった手を引っ込め、火属性のマナを集める。

「交渉決裂。燃やしていいよね」

 マナは火球となって、華音へと風を切って飛んでいく。
 野球ボールサイズのそれが同時に3つ眼前に迫るが、華音は動揺しない。
 水の加護があるから大丈夫。
 大丈夫な筈……。
 火球が顔面に当たるか否かの所で突如嫌な予感がし、迎え入れずに横へ飛び退いた。
 ジュっと、焦げた臭いが鼻を掠めた。
 視界に入った水色の横髪の毛先が、ほんの少し焦げ付いていた。

「何これ」
『やはり精霊を取り込んでいるだけある。相手の魔力が強すぎて、水の加護があまり役に立たないようだ』
「落ち着いた声で言うなよ……」
『全力で躱せよ? さもなければ、カノンのこんがり焼きが出来上がる。おっと……ゴルゴも加えた方がいいか。カノンのこんがり焼き~ゴルゴンゾーラを添えて~』
「オシャレな料理名みたいに言うなよ……」
「何、独りで喋ってる?」

 エンテが火球を放ちながら、会話に割り込んできた。
 彼女には、憑依したオズワルドの声は聞こえない。
 火球は1つのみならず、数個が一気に襲い来る。とても1度に躱せない。
 華音は水を具現化させ、放つ。
 しかし、ジュウッと良い音を立てて水は蒸発。少しばかり勢いが弱まったものの、殆ど先と変わらない光景が眼前に迫る。
 華音は後ろへ飛び退き、横へ飛び退き、忙しなく火球を躱した。何とか、全てだ。
 荒くなった呼吸を整え、相手の動きをじっと窺う。
 また、エンテは飽きもせず、火球を空中に浮かべていた。
 華音は走って間合いを詰めるも、やはり飛んで来た火球に足止めをされてしまい、術者には到底届かない。せめて杖が届く範囲に入れれば、こちらにも形勢逆転の機会があるかもしれないのに。

 どうしたら。

 華音が思考を巡らせると、オズワルドからの指示が届いた。

『水の分身を創れ』

 サラっと言うが、華音にはそのやり方が分からない。
 取り敢えず、攻撃系魔術と同様にマナの流れを感じ取ってみる。
 すると、水のマナが華音の中に居るオズワルドの膨大な魔力に引き寄せられ、渦巻いていく。
 想像する。水が分裂し、人型へ変化していく様を。
 そうして、華音の周囲には魔法使いの姿をした自分自身が沢山居た。その数、10体。
 オズワルドは素直に感心した。

『やれば出来るじゃないか。だが、私ならば10倍の数を出せるがな』

 分身とは言え、自分が10人居るだけでも不快なのに、その10倍になったらどうにかなってしまいそうだ。おまけに、華音にとって憎き魔法使いの姿で。
 分身は個々で勝手に動き出す。戦闘能力はないが、動きは華音そのもの。華音の意思と同じく、エンテを倒そうとしている。
 華音は分身に紛れ、共にエンテに近付いていく。
 さすがの魔女も、無表情にほんの少しの焦りを見せた。

「え。オズワルドモドキたくさん。どれ? うん。どうしよ。……ま、いっか。全部、焼く」

 エンテは紅蓮の炎を、まるで竜のブレスの様に一直線に放ち、線上に居た分身を一掃する。
 蒸発して消えていく分身を見送り、華音は進む。
 まだ、半数の分身が華音の周囲に居る。
 エンテとの距離が、杖が届く程になると、魔法使いは華音唯1人となっていた。
 エンテが最後の1人へ炎を繰り出す――――その前に、華音は杖を頭上高くに放り投げ、空中で一回転した杖は青白い光を放ち、烏の姿へ戻る。
 使い魔は黒翼を大きく広げ、羽ばたいて強風を巻き起こす。
 エンテが反射的に目を閉じると、形作られていた炎はマナへと戻り分散していった。
 この僅かな隙に、華音はエンテの懐に入り、再び杖に変化した使い魔を思いっきり振るう。
 魔女は吹き飛ぶ。が、地面に背中をぶつける寸前に片手を付いて体勢を立て直し、空中浮遊した。

「驚いた。ちょっと、ぼく、危なかった」

 エンテは無表情、無感動な口調で、態とらしく額の汗を拭う仕草をする。
 火のマナが収束し始める。

「でも、まだぼくより弱い」

 更に、収束したマナが華音の足下に巨大魔法陣を描く。
 莫大な量のマナに、オズワルドは喫驚し、華音の内側から叫んだ。

『避けろ! カノン!』
「え――――」

 ドォン!

 熱、風、衝撃、全てが一体化し、魔法使いの少年を丸呑みした。
 力に耐え切れなかったその身体は吹き飛び、電柱にぶつかった事で地上へ留まった。
 うつ伏せる華音の周辺に、幾つもの小さな水溜りが出来ていた。
 完全防御とはならなかったが、水の加護が働いた様だ。おかげで、本来ならば飛び散っている身体も、五体満足。全身の傷も、直接死に関わる程ではなかった。
 それでも、全く無事ではなく、意識をいつ手放してもいい状態だった。
 杖が烏に戻り、主を護る様にして前に出て羽ばたく。

『カノン……起きられるか?』

 オズワルドがそっと声を掛けると、華音はそれに応える様にゆっくりと身体を起こした。
 だが、全身を駆け巡る激痛のせいで膝を着いてしまった。
 ふと、右腕が視界に入る。破れた白い袖から、焼け爛れた肌が覗いていた。
 認めた瞬間、ヒリヒリと痛み出す。同時に、背中の火傷痕も疼いた。
 痛みを耐える様に閉じた瞼の裏に、ぼんやりと人影が映る。

「何で出来ないの!」

 発せられた声は母のものだ。
 そして、少しだけ輪郭がはっきりとし始めた人影もまた、母だった。
 母は右手に銀色の薬缶を持ち、振りかぶる。
 華音は両手で耳を塞ぎ、蹲った。

「……ごめんなさい……ごめんなさい…………母さん」
『カノン……』

 オズワルドはこれ以上、何も言う事は出来なかった。
 使い魔がバサバサと翼を早く動かし、慌て始める。
 塞ぎ込んでしまった華音の代わりに、彼の中からオズワルドが戦況を確認する。
 相手はほぼ無傷。現在、空中浮遊を保ったまま、再び大量のマナを集めている。
 これは先程と同等の威力。
 水の加護では、もう華音を護りきれない。今度こそ、終わりだ。

「とどめ」
『カノン! カノン! おい!!』

 エンテとオズワルドが声を発したのは同時で、その後すぐに魔術が繰り出された。
 炎の大波が術者の眼前から、対象へと降下して押し寄せる。
 熱風に髪やローブが踊り、肌がじりじり焼けても、華音は一向に記憶の世界から戻らない。蹲ったまま、記憶の中の母に怯えているだけ。
 使い魔も、必死になって風を起こして華音を護ろうとしているが、羽に火が燃え移った瞬間悲鳴を上げて華音の後ろへ飛んでいった。それと入れ替わりに、細い線の人影が横から飛び出した。

「華音!」

 声が聞こえたのと同時に、華音の身体は軽く吹き飛び、地面に叩きつけられた。
 背中の痛みに、華音の意識は現実へ帰って来た。
 虚ろだった琥珀色の瞳ははっきりと、目の前の光景を映す。
 顎の下にはふんわりと口が広がった赤い袖があり、顔を右へ向けるとくすんだ赤髪の少女の顔があった。その豊満で柔らかい胸が身体に押し当てられているが、華音に恥じらう余裕はなかった。
 血相を変え、庇ってくれた少女の名を呼ぶ。

「桜花! ご……めん。オレは……」
「良かった。無事みたいね」

 桜花は華音を見下ろしてニコリと笑い、立ち上がった。
 斜め上で結った、くすんだ赤い長髪、胸元や足元で輝く赤い宝石、胸元と太腿をしっかり見せる赤いヒラヒラの服、腰にコルセットで固定した上質な白い布……桜花のその姿はドロシー王女そのもの。
 既に魔法使いを憑依させていた。
 桜花はローズクオーツ水晶の杖と敵意を、新たな魔法使いの登場に瞬きをしている火星の魔女に向けた。

「わたしが相手よ!」
「何か、増えた。うーん、と。何だか見覚え、ある。えーっと、あ。そうだ。人間の国の王女様だ。名前までは知らない。どうでもいい。燃やすもの、増えた。それだけ」

 火の魔法少女と火の魔女が視線をぶつけ合い、火花を放つ。また、物理的にも炎をぶつけ合った。
 目の前で炎が爆ぜるのを見、華音は倒れている場合じゃない、と己を叱咤して起き上がり、味方に加勢する。
 烏は杖に変化し、自然と華音の手に収まった。
 氷の刃を敵目掛けて放つが、周囲で荒れ狂う炎の熱であっさりと溶かされてしまう。
 2つの強大な炎の力を前に、水の魔法使いの立ち入る隙はないかに思われた。
 ところが、徐々に桜花の炎が押され始め、遂にはエンテの炎に飲まれ、肥大化したそれが大波となって桜花を飲み込まんとした。
 桜花は悲鳴を上げて、全力で後退する。
 華音は全身の痛みと仲間の危機で乱れる心を、夜半の静かな水面の様に穏やかに保ち、マナの流れを感じ取る。
 少しでも水面が揺れれば飛散してしまうそれを必死に止め、脳内に浮かんだ言葉をなぞる。

「メイルストローム!」

 水のマナがぐるぐる回転し、やがて巨大な渦となって炎を丸呑みする。
 涼しげな水に、興奮状態の炎の姿はすっぽりと隠された。
 桜花が何もない所で躓き、華音が受け止める。
 2人でエンテの方を見ると、大渦潮が蒸発して形をなくし始めていた。
 炎も勢いを削がれたのか、大渦潮が消えた後に自然消滅。その開けた先に、平然と魔女が空中浮遊していた。
 華音と桜花は頷き合い、左右に散る。
 塀を走り抜け、エンテに近付く。

 エンテはどちらを先に攻撃しようかと、ゆっくりと、マイペースに悩んでいる。そうしている間に、2人の魔法使いが辿り着く。
 2人は飛躍し、華音は水を、桜花は炎を、それぞれエンテへ向かって放つ。
 エンテはルビー色の瞳に両方を映し、静かに両手を広げ、見えない力で弾き飛ばした。
 2つはマナへ還って消滅。
 更に、エンテはその両手から火球を2人へ放つ。

 華音と桜花は宙返りして地上へ着地するも、桜花だけは上手くいかず、転んで尻餅を着いた。
 対象を失った火球は夜空の煌く星の1つとなって、遥か彼方へ消えていった。
 すると、地面が大きく揺れ、亀裂が入り、火山の様にそこから炎が上がる。
 華音はどんどん炎上していく場所から逃れる為、必死に駆け抜ける。最早、桜花を気にしている余裕はない。
 一方の桜花も何とか立ち上がって、華音同様、火柱に追われて何ふり構わず逃げ惑う。
 やがて、揺れが小さくなり、火柱もピタリとやんだ。
 華音は電柱に凭れ掛かり、自分の身体を抱きかかえて肩で呼吸した。


 華音が戦線離脱すると、再び炎と炎がぶつかり合った。
 桜花は押され始める自分の炎に、更にマナを上乗せして抵抗する。
 桜花の手や額からは汗が滲むのに、エンテは無表情を保ったまま……力を半分も出していないといった様子だ。

『オウカちゃん、避けて!』

 脳内にドロシーの声が響き、桜花は横へ大きく跳ぶ。
 エンテの炎に押し出された桜花の炎が、桜花の数秒前居た場所を焼き払って消滅。アスファルトから黒煙が上がった。
 息付く間もなく、火球が桜花の頭上より降り注ぐ。
 魔術による相殺は不可能なので、躱すしかない。後ろへ大きく宙返りし、赤い長髪を振り乱しながら、クルクル軽やかに舞う。
 火球が塀や道路標識を焦がしていく。
 攻撃が一時止み、桜花は透かさず走る。

 エンテは首を傾け、自分の胸や腹を摩っていた。そこへ、桜花が飛躍して杖を振り下ろす。
 すぐに気付いたエンテはスッと躱し、地上へ着地した桜花の頭上に剣を象った炎を落とす。
 桜花は横へ跳ぶが、剣先が少し腕に掠って血が飛び散った。
 傷を押さえ、もう1度エンテのもとへ向かう。
 エンテはまた身体に違和感を覚えたのか、頻りに胸や腹を気にし始め、一時桜花から意識を外した。その為に、2度目の桜花の攻撃は躱す事が出来なかった。
 脾腹にローズクオーツ水晶がしっかり食い込み、小さな身体は簡単に吹き飛ぶ。地面に着くギリギリで体勢を立て直し、地面に立つ。

「今の、結構痛かった。アルナに抓られた時よりも。ずっと」

 エンテは無表情、無感動な口調で、脾腹を押さえる。

「じゃあ、反対側もやってあげる」

 桜花は宣言通りの箇所を狙う。
 しかし、エンテの眼前で形成された無数の炎の剣が行く手を阻む。円を作っていた剣は一斉に剣先を桜花へ向けて飛んでくる。
 桜花は杖で弾くが、次々と形成されて飛んでくるそれらを完全に退ける事は出来ず、身体に生傷が増えていく。
 横殴りの剣の雨の向こう、魔女は無表情に程近いが、何処か楽しげな顔で右手を翳していた。
 剣の雨が止んだ時にはもう、桜花は爆風に飲まれていた。


 華音の白いローブのあちこちに血が滲み、足元には赤色の水玉模様が出来ている。
 息をするだけで苦しい。目を開けているのも辛い。
 向こうで微かに聞こえる敵と味方の声が遠くなり、視界も狭くなっていく。
 現実が揺らぐ。

「きゃあっ!」

 不意に、華音の耳に届いた少女の悲鳴。
 ドサッと音がし、狭くなった視界に映ったのは背中を地面に預けている桜花の姿。
 全身傷だらけで、杖は手放してしまっている。
 華音は目を見開き、叫んだ。

「桜花!」

 鉛の様に重い身体を動かし、駆け付ける。
 彼女を庇おうとするも、両足に力が入らず、一歩手前で両膝をついてしまう。
 見上げた先には、両の手の平を天へ向けて赤く輝く魔法陣を展開させている無表情な魔女の姿。
 魔法陣は外側へ向けて、どんどん広がっていき、夜空を覆っていく。
 華音と桜花の敗北どころではない。あんなものから魔術が繰り出されたら、この街全てが消し炭となる。
 華音は大切な人達の顔を思い浮かべ、歯を食いしばって詠唱する。しかし、一瞬で水面が揺れて、マナが分散してしまう。
 エンテは成す術のない地上の魔法使い達を見下ろし、可愛らしく小首を傾げた。

「ばいばい。オズワルドモドキと王女様モドキ」

 華音と桜花の内側から、スペクルムの魔法使い達の必死な叫び声が響く。魂と魔力だけを送っている彼らではそれだけで精一杯だ。
 その上、そろそろ魂の滞在時間がごく僅かに迫っていた。
 夜空を覆い尽くした魔法陣が更に強い光を放ち、炎が溢れ出る。
 エンテは無表情で、片手を振り上げる――――と、

「ごほっ!」

 突如、エンテの口から真っ赤な炎が吐き出された。
 魔法陣が消え、その後もエンテの咳き込む声が地上へ落ちて来た。
 華音は顔だけを天上へ向け、桜花も上体を起こして、魔女の異変に目をやった。
 エンテは胸をギュッと押さえ、激しく咳き込み、炎を口から散らす。無表情は完全に崩れ、苦痛に身悶えていた。
「……何が起こった」
『精霊の分離だ……! (ゲート)を護る彼らを、唯魔力の強いだけのエルフが支配出来るとは思っていなかったが……こう言う事になるとは予想外だ』

 華音の呟きに答えたのはオズワルドだった。
 桜花の方はドロシーも現状把握出来ておらず、探る様に魔女を眺めていた。
 エンテは片目をうっすらと開け、出ていこうとする精霊を押さえる様に鳩尾をギュッと両手で押し込んだ。

「勝手に出て行く事、ぼくは許さない……っ。シーラと、他の皆、一緒に幸せな世界、創る。邪魔、させない……うぐっ」

 また、エンテの口から炎が吐き出された。
 必死な魔女を前に、華音は杖を構える事すら出来ない。
 オズワルドはこれを好機だと思っているに違いないと思ったら、彼から告げられた言葉はまさにそうだった。

『今のうちに止めを刺せ。もうこちらに勝機はない』
「だけど、オズワルド……」
『相手にも正義があるなどと考えて躊躇していたら、この先切りがないぞ。お前には護りたいモノがある。私にも護りたいモノがある。だから、それを壊そうとしているアイツらを倒すんだ。見掛けはガキだが、手加減する必要はない。カノン、やれ!』
「…………分かった」

 華音は杖をしっかり構え、意識を集中させる。
 目を閉じれば全身が痛むし、耳に魔女の悲痛な叫びが雪崩込む。
 けれど、これで本当に最後にしなくてはいけない。
 水面を静かな状態に保った華音は目を開け、呪文を口にした。
 巨大な氷の剣が形成され、エンテの小さな身体を貫く。
 エンテの口から更に多くの炎が吐き出され、姿が希薄になる。

「ああ……残念。でも、ぼく死んでも、まだ皆がいる。きっと、良い世界に、なる。ぼくも、また皆と過ごせる…………」

 エンテは赤い光を散らして消え、中から女性を象った炎の塊が飛び出して何処かへと消えていった。
 華音と桜花の中からも魔法使い達が消え、2人は元の高校生の姿へと戻った。
 瞬間、緊張の糸が切れ、華音が倒れかける。

「っと……危ない」

 桜花が受け止めた。
 華音は戸惑いの目を桜花に向けた。

「桜花、怪我は……」
「え? ああ、身体のあちこちに擦り傷と、背中を強打。でも、平気よ! わたし、こう見えて頑丈だから! ……いたたっ」

 胸を張ってみせた桜花だが、すぐに腰を曲げて激痛に目を閉じた。



 電柱の上。夜風に揺れながら立つ、月の魔女アルナの姿があった。

「あらら~。エンテ死んじゃった――――うっ、ヤバ……」

 身体に違和感を覚え、咄嗟に胸を押さえると、体内で精霊が暴れだした。
 口から月色の光が漏れる。
 肩に乗った白兎は、心配そうに主を見つけている。

「でも、アルナ、イイモノ見ちゃったもんね! 苦し……。ぐぬぬ……。とにかく、早く帰ろ…………死ぬ……」

 ルビー色の瞳には、しっかりと地上の高校生2人が映っていた。
 アルナは苦しみ悶えながら空中に身を投げ、スッと消えた。

 
 誰も寄り付かない廃ビルの仄暗い一室で、12個のルビー色の瞳が輪を作ってぎらつく。
 そこへ、光が溢れて一瞬室内を照らし、中からアルナが現れた。全ての視線が彼女へ向けられる。
 アルナはその視線の1つ、人魚の様な風貌の妖艶なエルフに弾んだ声で現状報告した。

「シーラぁ。エンテが死にました! 氷の剣で一突き! あっけない最期だったぞっ」
「それはもう知っている。と、言うかだ。アルナ……」

 シーラは長い指先でアルナの額を弾き、腰に手を当てた。

「仲間の死を、そんな楽しげに報告するな」
「うぅ~だって、アルナ、べつにエンテの事何とも思ってないしぃ。それに、歴史改竄すれば、エンテだって生き返るんだし、今は問題なくない?」
「その通りだが、お前は……。まあ、いい。とにかくだ。エンテの死もそうだが、我々と精霊が分離してしまった。ここにきて、大きな戦力の低下だ」

 シーラが話を進め始め、アルナは退屈そうに割れた窓辺に腰掛けた。
 輪の中で、一番背の高い長髪の毒々しい魔女が発言する。

「と言う事は、スペクルムにもう戻れないのだな……」
「精霊の持つ時空間魔法がなくなっちゃったから……」

 隣の、神々しい魔女が静かに応える。
 毒々しい魔女と神々しい魔女は声と背丈は毒々しい魔女の方が男性っぽいが、顔つきは何処か似ていた。
 シーラの隣の、メタリックなワンピースを着た魔女が腰に手を当て、屈んでシーラに批難の目を向ける。

「ほら、シーラが甘い事言ってるからこうなっちゃったじゃない。精霊分離はいつか来るとしても、そうなる前にオズワルドを消しておくべきだったのよ。リアルムに居るのはアイツじゃないんでしょう?」
(わたくし)も同感だわ」

 花冠を付けた魔女も深く頷く。

「そう言うな。奴の過去を知る者として、放ってはおけないのだ。しかし、私も何もしていなかった訳ではない」
「……と、言うと?」

 和装の魔女が問い掛ける。
 皆、シーラの次の言葉に期待を寄せていた。輪の外のアルナも、興味津々な様子だ。
 シーラは答える。

「スペクルムに、私の使い魔を置いて来た。いずれ、役に立つだろう。今は、ブラックホール……そして、ホワイトホールの復活に全力を注ごう」

 全員は首肯する。
 輪の中央には丸椅子が置かれ、その上に、大きめの鳥籠が置かれていた。その中で、淡く光る幾つもの生命力が微かに揺れた。




 橋を渡り、城門へ足を踏み入れようとした時、傍らの水面が揺れた。

「ヴィルヘルム王子? どうかしましたか?」

 前を歩いていた護衛騎士が、後ろで足を止めたヴィルヘルムを振り返った。
 水面が穏やかになり、気のせいだったかと(かぶり)を振って、ヴィルヘルムは騎士に続いて城門を潜る。
 ヴィルヘルムの背中が遠ざかると、水面から白い海洋生物が顔を覗かせた。
 離れたつぶらな赤い瞳に、大きく横へ広がる口、透き通る水面からはどっしりとした身体が見え、背びれがなくて表面がツルツルしていた。
 城門が2人の門番によって閉じられると、その生物は水中深くへと潜っていった。



名前:エンテ
性別:女
年齢:13歳(外見)
身長:144cm
魔力属性:火
一人称:ぼく

【プラネット】のボーイッシュな火星の魔女。
無表情、無感動口調で感情が全く相手に伝わらないが、過去を変えたい気持ちは割と強い方だ。
火そのものが大好きで、生物だろうが物だろうが魔術で燃やしてしまう。



 鏡崎家具と言えば、日本有数の家具・インテリア企業トップ(ファイブ)に入る有名企業だ。
 時代に合ったスタイリッシュなデザインでありながらも、何処か落ち着く雰囲気を持つ商品は年齢、性別問わず人気があり、鏡国高校や鏡崎宅にも商品の一部が置かれている。
 鏡崎家具は華音の祖父が設立したが、今の有名企業へ発展したのは、祖父が亡くなって社長が父の鏡崎音夜(かがみさきおとや)へ代わった後だ。
 しかし、そんな最中、音夜も病に倒れてしまい懸命な治療も虚しく他界。専務であり、妻である華織(かおり)が父の遺言通りに継ぐ事になったのだが、当時は父の様に経営が上手くいかずに徐々に経営が傾いてしまった。
 一時は倒産寸前まで追い込まれたが、華織の努力もあって今の鏡崎家具があるのだ。


 朝目覚めて身支度を済ませた華音は、水戸の待つリビングへ行かずに反対側の和室へ足を運んだ。
 洋風な家の中で浮いている此処には、音夜の仏壇が置いてある。
 華音は座布団の上で正座し、遺影の父に笑い掛けた。

「最近何だか忙しくてさ。まあ、母さんの方が忙しいけどね。もうずっと家に帰って来ないよ。でも、父さんが遺した会社の為だから仕方ないよね」

 父は黙ったまま、笑顔で息子の話に耳を傾けている。
 こうして向かい合うと、2人は本当によく似ている。
 艶やかな黒の短髪に、睫毛の長い漆黒の瞳、白い肌、あどけなさの残る笑顔もそっくりだ。まるで、未来の自分を映す鏡の様だ。

「それじゃあ、もう行かなきゃ。またね、父さん」

 華音はもう一度遺影に微笑むと、立ち上がって父との別れを告げる。


 廊下を出てすぐに、水戸が声を掛けてきた。手には、ハンガーにかかったままのブレザーを持っている。

「おはようございます、華音くん。こちら、クリーニングに出してしまいますね」
「うん。頼むよ」

 今日から、カッターシャツにネクタイ、ズボンで登校するつもりだ。恐らく、もうブレザーを羽織ってくる生徒は殆どいないだろう。
 水戸は穏やかな顔で返事をした後、少し憂いを宿した顔で続ける。

「……それで、あの。華織様は今夜帰宅されるご予定でしたが、お仕事の方が忙しいらしく、帰れないそうです」
「そっか。それなら仕方ないね。オレなら気にしてないから、気にしないで」
「そうですか……。また華織様からご連絡がありましたら、お知らせしますね」
「ありがとう。――――あ」

 ズボンに手が触れた時、ポケットが平らな事に気付いた。
 いつも入れているスマートフォンを洗面台に置きっぱなしにしていた。
 華音はリビングへ向いていた足を洗面所の方へ向け、取りに向かう。
 その背中に、水戸は「朝食出来ていますので」と言うと、リビングへと歩いていった。
 

 気にしてない、それは水戸を気遣った言葉ではなく、華音の本音だった。
 母が帰って来る事を心底望んでなどいない。一緒に生活を共にしている水戸の方がよっぽどか大切だ。
 逆に母が帰って来られないと知って、安心感さえ抱いてしまった。
 本当は、そんな自分自身が嫌で堪らない。こうして何不自由なく生活出来ているのは、母の存在があるからこそ。もっとちゃんと向き合わなければならないのに。
 しかし、華音から母に接する事はないし、母も現に連絡事項は全て水戸を通じて伝えるので、話す機会すらない。
 華音と母の関係はあの日のまま凍り付き、進んでいなかった。
 どうしてこんな事になってしまったのだろう。思い出そうとしても、背中の火傷痕が疼くだけで、恐怖だけが残ってしまう。
 華音は洗面台脇に置かれたスマートフォンを手に取ってズボンのポケットに滑り込ませると、鏡を見る。

「……こんなところに寝癖付いてたな」

 分かりきっていた表情よりも、髪の方が気になって手櫛で軽く整えた。
 所々はねていて、アホ毛もあるが、こればかりは直らなかった。
 ゆらりと、水面が揺れる様に鏡面が揺れ、黒髪の高校生が水色髪の魔法使いへと変化した。スペクルムの魔法使いオズワルド・リデルだ。

「オズワルド。えっと……おはよう?」
「ああ。お前の父親はお前そっくりだな。いや、お前が父親そっくりなのか。もう他界していたのだな」

 オズワルドは、窓の外から使い魔が見た光景を思い出して、憂いの表情を浮かべた。
 仏壇はスペクルムにはない風習だが、華音の様子から察した。
 華音は苦笑した。

「見てたんだ。そう。もう8年近くなるかな……。オズワルドの父さんは……」

 言ってから、オズワルドの父親が人間である事を思い出した。
 今度はオズワルドが苦笑した。

「人間は400年も生きられないからな?」
「……ごめん。あれ? でも、母親はエルフ……」

 エルフが1000年生きる事はオズワルドから聞いていたが、オズワルドの表情に変化はなかった。

「処刑されたよ」
「しょ、処刑!?」

 華音は目を見張った。

「スペクルムでは他種族同士の交際は認められていないんだ。特に、人間とエルフは啀み合っている。今は処刑される事はないが、当時は見つかればすぐに処刑された」
「そんな……。お前、よく生きていたな……」
「私もそう思うよ。しかし……いや、やめよう」
「え、何」
「私の話よりも、魔女の話だ」

 オズワルドは、いつもの自信たっぷりな表情で笑った。

 華音が、8人の魔女(プラネット)を殲滅させる任務を代行する事となって数週間。漸く、1人目となる火星の魔女を倒す事が出来た。
 あと、残るは7人。うち、1人はきっとまだこの地区に居ると推測されるので、次のターゲットはその魔女――――アルナに決まった。

「エンテは居場所がないから、歴史を変えるって言っていたけど……。それって、オズワルドが推測していた、ブラックホールの魔女の復活と関係あるのかな」

 華音が問い掛けると、オズワルドは強く頷いた。

「歴史を変えると言うのなら、その線は強くなったな。ブラックホールは時空を歪める天体だ。それだけでは意味をなさないが、ホワイトホールと合わせれば、過去と現在と未来を繋げる事が出来る。つまり、奴らの言う所の歴史の改竄が可能な訳だ。一般に、(ゲート)から送られてくるマナを私達魔術師は扱う訳だが、この2つからはそれとは別に、時空を操れる力を受け取れるのではないかと思う。何せ、闇属性と光属性を扱う魔術師を見た事がないからな。私の知らない力があっても不思議ではない」
「ホワイトホールって、マルチバースを繋げているワームホールの事だよね。じゃあ、ホワイトホールの魔女も居るって事?」
「ああ。私は見た事がないが……」
「それなら、今度こそアルナを生け捕りにして、もっと詳しく訊いておいた方がいいんじゃないか? ブラックホールの魔女とホワイトホールの魔女の居場所とか。結局、その2人が歴史改竄の能力を持っているなら、そこを抑えるべきだと思うけど」
「その通りだな。だが、エンテ以上の事をアイツが知ってるか怪しいところだ。前戦ってみて、想像よりもアホだったのでな……」

 オズワルドは態とらしく肩を竦めた。
 アルナの脳レベルに関しては、華音も否定する材料がなく、頷くしかなかった。
 捕まえやすいのは確かだが、それに意味がない可能性の方が高い。欲しい情報と交換を条件に人質に取ったとしても、他の6人は放置しそうだ。

「でも、前にオズワルドが魔物を使って魔女達がブラックホールの魔女を捜索しているんじゃないかって推測したけど、それが本当ならまだ見つかっていないって事……」
「それまでに7人を殲滅させれば、復活はない。恐らく、奪った生命力は奴の復活の材料だから。100年前の魔法大戦の時も、魔物が奪った生命力をブラックホールの魔女に与えていた。そう……。シーラは400年前に「世界をこの手で消す」そう言って、後に魔法大戦を引き起こしたんだ……」

 不敵に笑う水星の魔女を思い出し、オズワルドは揺れる琥珀色の瞳を伏せた。
 シーラは今度こそ、有言実行するつもりだ。100年前叶わなかった夢を、別次元まで来てその手で。
 リアルムとスペクルムはまるで鏡合わせの世界で、2つで1つ。どちらか一方の時間だけを操作する事は不可能。
 従って、魔女がもし歴史改竄に成功した場合はスペクルムだけでなく、リアルムの歴史も変わってしまう。
 居た筈の人物やあった筈の物が消滅し、居なかった筈の人物やなかった筈の物が誕生すると言う事だ。それはつまり、破滅と同意語。
 現在(いま)のオズワルドも華音も、皆、なかった事とされてしまう。
 スペクルムだけの問題ではないと言うのはそう言う事だ。
 これまで華音の中で夢現だった事が妙に現実味を帯びてきた。唯、魔物を倒すだけではオズワルドの役目を代行した事にならない。歴史改竄そのものを阻止しなくては意味がないのだ。



「あと7人か……」
「何があと7人だ?」

 独り言に応える声があり、華音は机に預けていた上体を慌てて起こした。
 顔を正面に向けると、雷と刃がスマートフォン片手に立っていた。今、声を発したのは雷だった。

「あー……いや。何か夢とごっちゃになってたみたい。気にしないで」

 華音は小さく笑いながら、立ち上がる。
 親友の背後に見える壁掛け時計は、もうとっくに昼休みの時間を示していた。
 授業中も、魔女と歴史改竄の事を考えており、チャイムの音も耳を右から左へ通り抜けていた。
 華音が一歩踏み出すと、2人も歩き出す。

「華音ちゃん、最近ぼんやりしてるよな~。恋は盲目! そう言う事か!?」

 右隣を歩く刃は、拳を握り締めて確信に満ちた嬉しそうな顔をしている。
 左隣の雷も、何だか嬉しそうだ。
 そう言えば、この2人の中で華音と桜花が付き合っている事になっていた。未だ、華音はそれを弁解出来ていなかった。

「ぼんやりしているのは否定しないけど……。原因は桜花じゃないから」

 すると、2人はニンマリと笑った。

「俺、桜花ちゃんの事言ってねーし?」
「鏡崎、何かもう駄目駄目だな」
「うっ……」

 弁解しようとするだけ、事態が悪化する。
 華音はこれ以上、言葉を紡ぐのをやめようと誓った。
 廊下で、何人かの生徒と擦れ違う。皆、3人と同じくブレザーを羽織っておらず、景色はこの一週間で大分初夏に近付いた。あと数週間もすれば、全校生徒夏服へ切り替わる。

「まさか、中間もその調子じゃねーだろうな?」

 雷がニヤニヤしながら、華音の顔色を窺った。
 来週は中間テストがあり、今日の授業で教師がテスト範囲の説明をするまで華音はすっかり忘れていた。焦りはしなかったが、学校生活に意識が向いていなかった自分に驚いた。
 それだけ、非現実な出来事に振り回されていたのだ。
 華音は瞬きし、落ち着いた様子で答えた。

「さすがにテストはちゃんと受けるよ。オレの事より、2人は大丈夫か? 特に刃」
「うん? 俺の心配してくれんの? 華音ちゃんやっさしぃ~!」

 刃が華音に抱きつこうとし、華音が少しかがむと、頭上を色黒の拳が横切った。
 ゴスッと音がした。

「雷! ぶったな!? 俺のハリのある左頬を!!」

 刃は焦げ茶色の瞳を潤ませ、少し赤くなった左頬を摩る。
 雷はやめるどころか、拳を構え、臨戦態勢。

「よし、じゃあ平等に右頬もやってやろう」
「や、やめろ! 腫れ上がってハムスターみたいになっちゃうっ。そんな俺、可愛すぎてもう鏡が見られなくなる!」

 2人のお決まりの茶番に挟まれ歩く事数分、漸く食堂についた。

 本日の食事は男3人で摂る。この前まで同席していた美少女桜花は、今は別の女子グループの中だ。
 友達の作り方が分からないと悩んでいた事を聞いていた華音は、楽しそうにしている桜花を一瞥して安心した。けれど、やはり周りに合わせて料理を選んでいるのは気がかりだった。

 桜花はそわそわしつつも、一生懸命周りに合わせて笑顔を作った。
 ところが、話題が来週の中間テストの事となり、みるみるうちに桜花の顔が青褪めた。

「テ、テスト……。テストなんだね」
「そうだよ~。桜花ちゃん、この学校に転校してきたからには相当頭良いんでしょ?」
「ここ偏差値高いもんね~」
「私なんて、制服目当てで入っちゃったから、正直授業ついてくのキツイ」

 他の女子3人が期待の眼差しを桜花に向け、桜花は無理矢理笑みを作るしかなかった。
 最早返答は「そうだね」ばかりになっていた。
 女子の1人が桜花の背後に視線を向け、両手で頬を包み込んで恍惚とした表情を浮かべた。
 桜花が振り返ると、親子丼をガッツリ頬張る華音の横顔が見えた。

「やっぱり、今回のトップも鏡崎くんかなぁ」
「当然だよ。鏡崎くん以外考えられない」

 隣の女子も、同じ表情で熱く語る。

「本当、天才だよねぇ。授業はしっかり聞いてるけど、噂によれば家では一切勉強しないみたいだし、塾にも行ってないんだって」
「鏡崎くんってさ。頭良いし、運動神経抜群だし、優しいし、顔もカッコイイし、お金持ちだし、まさに理想の男子! あぁ~結婚したい!」
「でも、ライバル多すぎて私勝てる気がしない……」
「と言うか、告白を受け入れてもらえた女の子居ないらしいよ。鏡崎くんの理想って、意外と高いのかも……」

 恋の話に花を咲かせたかと思えば、溜め息をついてどんより女子達の空気は重たくなった。
 桜花は3人を順番に見た後、遠慮がちに話を戻した。

「あ……えっと、彼ってそんなに頭良いんだ」
「先生も教える事ないんじゃないかってぐらいね。あと、教えるのも上手いんだよ~。あたし、前にちょっと勇気出して聞いてみたら、丁寧に分からない所を教えてくれて」

 彼女はその時の事を思い出したのか、頬をまた赤く染めている。
 桜花はもう一度華音を見た。

「ふぅん……」

 視線を感じて華音がふと、横を向くと、桜花と視線が合った。だが、桜花がすぐに逸らした為に一瞬だけだった。
 華音も視線を戻し、親友との談笑に戻った。

「でさ~時の魔法使いの力で、その後過去に行くんよ。そんで、護れなかった恋人を今度こそ護ったワケ。そうして、未来では2人は永遠に結ばれる事となったのさ」

 刃が今期の深夜アニメの内容を語り、珍しく雷も興味を示していた。

「そりゃ良いな。変えたい過去を変えられるなんて、すっげー良い。俺もそんな力があったらなぁ」
「だろ。共感得られるってとこも魅力でさ~。俺も時を渡って、可愛い女の子と出逢いたい!」

 一瞬目を離した隙に、話がここまで発展していたとは。また、今朝華音がずっと考えていた事と重なっていたので一層驚いた。
 歴史改竄は最早、ファンタジーの世界ではなく、現実の世界で起ころうとしているのだ。

「……オレは今のままで良い」
「なんだよー。かがみん、つれないな」
「本当に変えられるワケねーんだから、せめて理想だけでもいいと思うけどなー」

 唇を尖らせる刃も、苦笑を浮かべる雷も、此処で食事をしている生徒達も、皆知らない。華音だけが知っている事実。
 華音はもう一度桜花を一瞥し、少し考えた。
 果たして、同じ使命を背負った桜花はそこまで知っているのだろうか?
 分からないので、後で桜花のSNSのアカウントにメッセージを送る事にし、空になったどんぶりと湯呑を乗せたトレーを持って席を立つ。

「鏡崎、もう行くのか?」

 まだ、雷の食器にはおかずが残っていた。

「残り時間寝るから」
「寝るって。かがみん、テスト近いのに余裕だなぁ」

 まだ、刃の食器にもおかずが残っていた。

「いつもの場所で寝てるから、時間になったら起こしに来てよ。それじゃ」

 華音は2人の生返事を背中で聞きながら、食器返却口へ向かった。
 陽の当たるいつもの窓際の席で、オズワルドは優雅に紅茶を飲んでいた。外からは小鳥の囀りも聞こえ、実に静かだ。
 星が歌う夜の静寂と月光に包まれた優しい景色も好きだが、小鳥が歌う昼の静寂と陽光に包まれた穏やかな景色も好きで落ち着く。
 ローズブラウンの茶液から光が弾け、甘い香りを散らす。バターをたっぷりと使用したショートブレッドと合わせると、最高のティータイムだ。
 オズワルドはティーカップをソーサーに置き、小皿に行儀よく並んだショートブレッドを1つ手に取って口へ運ぶ。
 一口齧れば、バターの風味が口一杯に広がり、程よく焼き上がった生地がほろほろと舌の上で解けていく。更に、紅茶を口に含めば、甘味と酸味と渋味が調和されて絶妙な味わいとなるのだ。
 宮廷魔術師として他国と戦う事のない平和な現代での、オズワルドの楽しみの1つである。
 ところが、水色の横髪に覆い隠された、人間より遥かに優れた聴力を持つハーフエルフの耳に流れ込んで来た足音は、静寂をぶち壊すものだった。
 小さな歩幅でドタバタと聞こえる足音は、此方へ向かって来ている。
 そして、自室の扉が勢いよく開かれた。

「オズワルド! いらっしゃいますか? わたし、オズワルドにお訊きしたい事がありまして」

 既に、扉の内側には赤いふわふわのドレスを着た12歳ぐらいの赤髪の少女が立って居た。
 オズワルドは食べかけのショートブレッドを皿に置き、顔だけを彼女へ向けた。

「ドロシー王女。いくら、王族の者でも他人の部屋に入る時はノックをしてから。勝手に入ってはいけませんよ……」

 ドロシーはドレスが床につかない様、小さな手で摘みながらオズワルドの前にやって来た。表情は、何故か不機嫌になっていた。

「それは分かりましたけれど、何です? その他人行儀な喋り方は」
「……他人ですから」
「その通りですけど、わたしが言っているのはそう言う事ではなくて……。わたしが幼い頃から一緒に居るのに、どうして敬語で話すんですか? それに、わたしの事は呼び捨てで構わないと、前にも言ったじゃありませんか」

 ドロシーは怒りとは別の感情で頬を赤く染め、高鳴る心臓を両手で押さえた。
 オズワルドは席を立ち、王女を真っ直ぐ見つめた。

「私は宮廷魔術師で貴女よりも身分が低い。それに、ハーフエルフ……。本来、王族と話す事も許されない存在なんです。ドロシー王女は、もっとご自分の立場を」
「ひどい……ひどいですわ。貴方の仰る通り、立場はわきまえなくてはなりません。しかし、そればかりに縛られるのは嫌です…………わた、し……は」

 ポロポロと、アメジスト色の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
 嗚咽も聞こえ始め、さすがのオズワルドも狼狽えた。
 何を言っても泣き止まない王女を前に、遂には折れ、宮廷魔術師の仮面が外れた。

「あー……ドロシー王女、いや、ドロシー」

 フッと、ドロシーが泣き止んで顔を上げた。

「じゃあ、お前が望む様にしよう」

 オズワルドが小さく笑うと、ドロシーの顔がパッと明るくなった。

「では、これからもその話し方でお願いしますわ!」
「ああ。だが、ハートフィールド国王陛下とヴィルヘルム王子とシンシア王女の前では王女として扱うからな」
「はい! あ。そこ座っても良いですか?」
「どうぞ」

 オズワルドが椅子を引くと、ドロシーは幸せそうに腰掛けた。
 オズワルドも向かいに座った。
 話があるとの事だったので、ドロシーの分の紅茶も用意する。

「ありがとうございます。オズワルドの淹れた紅茶はとても美味しくて、す……きです」

 ティーカップを受け取ったドロシーは、何処か歯切れが悪く、顔もほんのり赤かった。
 オズワルドは食べかけのショートブレッドを咀嚼し、琥珀色の瞳を瞬かせた。

「ドロシー。熱でもあるのか?」
「そ、そうなんです。オズワルドに訊きたい事と言うのは、まさにその事で……。最近、身体が熱くなって胸がギュッと苦しくなるんです」
「……病気かもしれないな。医者には診てもらったのか?」
「ええ。でも、原因不明で。それと、その症状が起こるのは特定の相手の前だけなんですわ」

 ドロシーは目を伏せ、ティーカップを持っていない方の手で膨らみ始めた胸を押さえる。
 オズワルドは紅茶を一口飲み、落ち着いた声で告げた。

「それは恋だな」
「恋!?」

 ドロシーは雷に撃たれた様な衝撃を受け、目を見開いて両手を重ね合わせた。

「では、わたしはオズワルド。貴方に恋をしているんですわね!」
「え……」
「漸く、このモヤモヤが解消されました」
「いや、待て。一般に恋と呼ぶ事もあるが、全てがそうではない。お前の場合は、恋ではない。やはり、ちゃんとした医者に診てもらった方が……」
「いいえ! 恋ですわ! わたし、オズワルドと恋人になりたいですわ!」

 ドロシーは立ち上がり、オズワルドの手を両手で掴んだ。
 オズワルドの顔は引き攣る。
 好かれる事は悪い事ではない。けれど、オズワルドにとってあまりにも荷が重い。
 他者と愛し合う事は、もうとっくの昔に諦めてしまっていた。


 ***


 刃と雷が談笑しながら、校舎周辺の広い芝生に向かうと、宣言通り華音が横になっていた。
 2人にとってもう見慣れた光景であるが、あまりに無防備過ぎる。いくら校内とは言え、女子生徒達からの人気も高い、綺麗な少年がこんな所で寝ているなんて、いつか犯罪に巻き込まれてしまいそうだ。
 近年は物騒なので、校内での犯罪も有り得ない話ではない。

「かがみん、襲われても文句言えねーよな」
「お前が一番危険だから、大丈夫だろ。と、言うより……あれ、何だ」

 雷は、華音の規則的に上下する胸の上に乗っている黒い物体を指差す。
 よく見ると、少し青みがかっていて形状も丸っこい。

「烏かな」

 刃は正解を口にしたが、雷と目が合うと共に首を傾げた。
 何故、烏が華音の上に鎮座しているのか。いくら相手が無防備でも、警戒して近付く事はないだろう。これでは、まるで華音が従えているみたいだった。
 先日のゲームセンターで一瞬見た覚えもあり、益々謎が深まった。
 2人が静かに観察していると、華音の瞼がゆっくりと持ち上がった。

「う……ん……何だか重たい…………」

 徐々にくっきりとして来た漆黒の瞳に映ったのは、サファイアブルーの瞳。ばっちり目が合ってしまった。
 華音は驚き、飛び起きる。

「ゴ、ゴルゴ!? あ……。だから、今の夢……」

 華音は頭を押さえ、夢を思い出す。
 オズワルドとドロシーの夢だった。紅茶の香りも、お菓子の甘さも、胸が締め付けられる感覚も、全てが現実のモノの様にはっきりと残っている。
 これはきっと、夢ではなくて、オズワルドの記憶だ。
 華音は初めてドロシー本人を見たが、たったそれだけでオズワルドにとっての大切な人である事が理解出来た。
 使い魔の羽毛に触れようとすると、使い魔は何かに気付いて飛び去ってしまった。華音の手が空を撫でる。
 横を見ると、親友達が居た。

「刃、雷。ごめん。自分で起きた」
「そりゃいいんだけど、さっきの烏はゴルゴ……って言うのか。知り合い?」

 刃がその名に笑いを堪えながら訊き、華音は空を撫でた手で自分の乱れた黒髪を整えた。

「知り合いって言うか……。知り合いのペットみたいなもの」
「へえ。烏なんて飼ってるの珍し~。魔法使いみたいじゃん」

 何気ない刃の返しに、ぎくりとする。

「瀕死のところを助けたんだってさ」

 それっぽい事を言ってみるも、自分で言ったその言葉が真実である様に思えた。オズワルドと使い魔の出逢いなんて、聞いた事もないし、見た事もないのに。
 華音の脳裏に、雨音が響き、荒れ果てた街の路地裏で横たわる烏がうっすらと視えた。誰かが、歩み寄って来る――――そこで、音と映像は途切れた。

「鏡崎? 何だ? 突然ボーッとして」

 雷が兄の顔で、華音の顔を覗き込んだ。

「ううん。何でもない。教室戻ろうか」

 華音は笑みを浮かべ、立ち上がった。