スペクルム カノン

 オズワルドとドロシーは最後に竜族一家と朝食を共にした。これ以上の迷惑は掛けられなかったので礼を言ってすぐに帰りたかったのだが、陽気な彼らのペースに流されて気付いたら食卓を囲っていた。
 料理は肉とスパイスばかりの夕食とは違い、果物を中心としたあっさりとしたもので異国の2人にも馴染みやすかった。特にオズワルドは数日ぶりの食事とあって、胃に優しくありがたかった。
 食後の紅茶と談笑を楽しんだ後、オズワルドとドロシーは皆に礼を言って席を立った。

「一晩のつもりが私の不注意のせいで長居してしまった。迷惑をかけてすまなかった。それからありがとう。……これを」

 オズワルドが懐から取り出した巾着をイーサンに差し出した。
 何かよく分からないまま取り敢えず受け取ったイーサンはずっしりとした重さに驚き、次いで中身を確認して首をゆるゆる横に振った。

「これは受け取れないよ。家は宿屋ではないからね」

 貫禄のある笑顔で、オズワルドにそれを返した。
 あっさり返されてしまった金貨の重みに、オズワルドは納得がいかず「しかし……」と食い下がろうとした。
 今度はイーサンの妻が前に出て来て、笑顔で制した。

「いいのよ。見返りを求めた訳じゃないから反って悪いわ。オズワルドくんが元気になってくれただけで満足よ」

 オズワルドはどうにも背中がむず痒かったが、小さく頭を下げて大人しく巾着をしまった。
 しかし、まだオズワルドとドロシーの顔は納得しておらず、イーサンは微笑むと人差し指を立てた。

「それなら、1つ頼み事があるんだが」
「はい! 何でしょう?」

 真っ先に応えたドロシーの表情はパッと明るくなり、オズワルドもイーサンの言葉を期待している様子だった。

「まったく……律儀だねぇ。うん。頼み事と言うのは、伝言……みたいなものだ。ヴィダルシュ城に私の孫が騎士として務めていてね、数日前に別件でヴィダルシュに行った時についでに挨拶しようかと思ったのだが……何せ突然だったから不在で逢う事が出来なかったんだ。だから、孫に宜しく伝えておいてほしい」
「お孫さん……ですか……」

 ドロシーは目を瞬かせ、記憶を手繰り寄せる。
 騎士は第1から第3までの団があり、それぞれ団長、副団長を含め40人体制だ。さすがに1人1人の顔と名前は記憶していなかった。
 オズワルドもまた、騎士団とはあまり関わりのない為にイーサンの孫が誰なのか見当が付かなかった。
 2人が黙り込んだ事を見兼ねてイーサンはこう付け加えた。

「マルス・リザ―ディア。黒と浅葱の2色の髪が特徴的だから見ればすぐに分かるよ。それに、彼は第2騎士団の副団長を任されているみたいだからね」
「あっ……」

 オズワルドとドロシーは同時に声を漏らすと、脳裏にあの陽気な騎士の顔が浮かんだ。ミッドガイア王国を発つ時に見送ってくれたのが彼だった。
 そもそも、イーサンが最初に名乗った時にファミリーネームで気付けた筈だった。
 異国の地での意外な繋がりに驚きつつも、2人はもう1度リザ―ディア一家にきちんと礼を述べた後ブルーヴェイル王国を発った。


 帰りの海上列車の中、ドロシーは行きの時の様にはしゃぐ事はせずにオズワルドの隣に座って静かにしていた。
 スペースがあるのに、はたまた向かい側が空いているのにもかかわらず、ピッタリ密着して来るドロシーにさすがに困惑したオズワルドは窓の方に寄って少しだけスペースを空けた。が、また詰められて壁とドロシーに挟まれる形になり今度こそ抜け出せなくなった。
 オズワルドは溜め息をついた。

「ドロシー。そんなに密着する意味あるか? 端から見たら不自然だぞ」
「端から見たら恋人に見える……の間違いではありませんか?」

 ドロシーは何食わぬ顔で言って見せ、オズワルドは頭痛がしてきた。

「夜あんなに恥ずかしがっていたのに、何が違うと言うんだ」
「よ、夜……って、変な言い方しないで下さい! それはもう1段階先と言いますか……。と、とにかく! まずはこう言う距離感をとってからですね……」
「はいはい。ところで……」

 ドロシーを適当にあしらった後、オズワルドはさらりと話題を変えた。
 それに不服ながらも、ドロシーは話を聞く体制を取った。

「結局私は何日寝ていたんだ?」
「えーっとですね……。5日間です」
「そんなにか。何というか、迷惑掛けたな。お前には礼を言っていなかった……ありがとう。その……色々……」

 オズワルドは珍しく歯切れが悪く、ドロシーと目を合わせようとしなかった。ふと、窓硝子に映る自分の姿が目に入り、そこに黒髪黒目の別次元の自分の姿が重なった。

 あれ? 何か忘れている様な……。

 ドロシーは暫く不思議そうにオズワルドを見つめていたが、はたと重要な事を思い出してやや大きめな声を上げた。弾みで、オズワルドの思考は何処かへ行った。

「あと2日後ですわ!」
「2日後……あぁ」

 初めは何の事だか心当たりがなかったオズワルドだが、思い出して少しばつが悪そうに表情を歪めた。

「国立記念祭、か」

 ミッドガイア王国国立記念祭。年に1度王都ヴィダルシュを中心に行われる国の恒例行事で、王都では街全体が華やかに飾り付けられて露店も増え1日の終わりには打ち上げ花火を上げるのだ。
 また、ヴィダルシュ城には各国の代表が集い会食や舞踏を楽しむ。国にとっては他国との交友を深める行事でもあった。

「そうですわよ。16になったわたしも行事への参加が許されたので、とても楽しみにしているのです。しかし、不安でもあるのです……」
「そこは陛下や王子がエスコートしてくれるだろ。シンシア王女も居るし」
「そうですね。唯、それでも不安がありまして……だから、ですね」

 ドロシーは上目遣いにオズワルドを見たが、彼は眉1つ動かさなかった。
 ムッとしてドロシーは続けた。

「オズワルド、貴方に行事への参加をしていただきたいのです」
「それは……出来ないな」

 いつもは即答するオズワルドが少しばかり間を置きながら控えめに返答すると、ドロシーは落胆しすぐに彼を問い詰めた。

「何故ですか? 貴方は宮廷魔術師。地位も実力も申し分ない筈です。それに、他国からも宮廷魔術師は招かれます。……やはり、エルフが来るからでしょうか」

 最後の言葉は問いと言うよりは確認だった。
 オズワルドは最後の言葉に深く頷いた。

「私はハーフエルフだ。どの種族にもよく思われていない……特にエルフには。せっかく友好な関係にあるのにそれを自ら崩す事など出来ない。お前はもう随分と立派だよ。1人でも大丈夫だ。自信を持て」
「……わたし、どうしても納得がいきませんわ」
「何がだ」
「だって、オズワルドにもエルフの血が流れているのに……。半分は同族なのに。そんなに避ける事、ないのに……」
「それは……」

 “穢れた血”だから……。

 表面上は笑顔で固い握手を交わしているが、実のところエルフにとって人間は憎むべき種族。決して相容れぬ存在なのだ。それを否定するかの様なオズワルドの存在は国辱そのもの。
 ハーフエルフをミッドガイア王国の宮廷魔術師に据えている事には渋々目を瞑っている彼らだが、国の重要行事に参加したとなると忽ち態度を一変させ平和条約破棄と言う事も十分にあり得る。
 オズワルドは曖昧に笑うと、ドロシーの頭を撫でた。

「どちらにせよ、私はそう言った華やかな場所は好まない。ダンスも得意ではないからな」
「ダンスが得意ではない、は嘘ですよね!? 貴方、歌もダンスも得意だし、文字も絵も上手だし、頭は良いし、運動神経抜群で強いし、容姿端麗……あと、優しい」

 ドロシーは頭を撫でられている事に頬を赤らめていたが、やがてオズワルドの手が離れると微かに寂しそうな顔をし、すぐに眉をつり上げて八つ当たりの様に言い放った。

「苦手な事ないんですか!? 隙がなさ過ぎです!」

 オズワルドは数秒考える素振りをすると、天井を仰ぎぼやいた。

「あるよ。多分、1つだけ」
「えっ? えっ? 何です?」

 ドロシーが純粋な目を向けて身を乗り出すと、オズワルドはそっぽを向いて目を閉じた。

「……言わない」

 鼓動が速くなり、身体が熱くなる。
 隣で心地良い薔薇の香りがいつまでもしていたのだった。
「ドロシー王女。出来ましたよ」

 メイドが1歩下がり、一礼した。
 目の前の姿見には、ドレス姿のドロシーとその1歩後ろにメイドが映っていた。
 此処はドロシーの自室の隣にある試着専用の部屋で、広い室内に置かれたクローゼットの中には数え切れない程の大量のドレスやその他の衣装が収納されている。
 ドロシーは全体を確認し、笑顔で頷いた。

「ありがとうございます」

 国立記念祭用に仕立てられたドレスは彼女には珍しい漆黒で、控えめのレースとリボンにフリル、そして腰回りを美しく見せるAラインと足首までの長さの裾が大人っぽさを演出している。豊満な胸元を強調する様に露になったデコルテの上で、薔薇の形にカットされたルビーのペンダントが天井の明かりを乱反射させて煌めく。ピアスも同じ物だ。
 また下ろした髪はサイドで丁寧に編み込んであり、青みがかった白の花飾りが差してある。
 光沢のある純白のヒールはステップが踏みやすいように、やや控えめの高さだ。
 鏡に映る窓硝子に、七色の光が映り込む。
 ドロシーは振り返り、窓の近くまで歩いて行くとそれをじっくりと眺めた。

「花火。今年も綺麗ですわ」

 闇夜を彩る光の花々はとても幻想的で、咲いて散る度に心が弾む。
 この日の為にヴィダルシュの街は街を飾り付けて商いを増やし、盛り上げてきた。早朝から種族問わず心が満たされた1日は、打ち上げ花火で締めくくる。
 しかし、王城の祭りはこれからだ。街を見て回っていた各国の代表が集まり、会食と舞踏を心ゆくまで楽しむ。
 ノックの音が聞こえ、次いで扉の向こうから気品のある女性の声がドロシーを呼んだ。
 ドロシーがメイドを引き連れて扉へ向かい、メイドが扉を開けるとそこには姉のシンシア王女が立っていた。
 シンシアもこの日の為に銀髪に映えるワインレッドのドレスを着用し、ドレスと同じ生地で作られたリボンをいつものハーフアップした髪に付けていた。

「お姉様! 素敵ですわ」

 ドロシーが興奮気味に言うと、シンシアは頬を染めて「そんな事より」と話題を戻した。

「もう支度はよくて?」
「はい!」
「では、行きますわよ。くれぐれも粗相のないようにね」
「勿論ですわ」

 シンシアに連れられ、ドロシーはパーティ会場へと向かった。


 居館の大広間は床一面に金色の花の刺繍が施されたボルドーの絨毯が敷かれ、純白な内壁には金の縁の窓枠が幾つか嵌め込まれて薄いカーテンが掛けられている。そして、天井では全てにダイアモンドを使用した巨大なシャンデリアが星の様にキラキラ輝いていた。
 東側には料理の並んだ丸テーブルが幾つか置かれ、西側には広いスペースが設けられている。
 今宵の来客である人間、エルフ、竜族、小人、獣人の王族や宮廷魔術師が此処に集っていた。
 皆、各々立食をしたり、談笑を楽しんだりしてざわついていた。人口比率は東側に集中しているが、西側にもちらほらとダンスの練習をする者達の姿が見受けられた。
 大扉が開き、まずはシンシアが、そして少し落ち着かない様子のドロシーが入って来た。皆の視線が自然と2人に、特に姉の背に隠れているドロシーへと向いた。

「き、緊張……しますわ」
「……堂々としていなさい」

 シンシアはドロシーに向き直って両肩を掴むと、口角を上げた。それに倣い、ドロシーも必死に笑顔を作った。
 シンシアが先に皆の輪に加わり、ドロシーは胸を張って歩き出した。
 ドロシーが歩く度に薔薇の香りがふわりと香り、髪が波打ち豊満な胸がユサリと揺れる。そんな可愛らしさの中に上品さと妖艶さを兼ね備えた王女に心奪われない男性は居なかった。
 何名かの男性が我先にとドロシーに声を掛けて来た。

「ドロシー王女! よかったら食事をご一緒に……」
「あの、希望があれば僕が料理取って来ます!」
「いつもの赤いドレスも素敵ですが、そちらも素敵ですね。よくお似合いです」

 彼らは皆、ミッドガイア王国の王族でドロシーの婚約者候補の者達だった。他にも、妖精や獣人も頬を紅潮させて寄って来ていた。
 ドロシーは1人1人に笑顔で応え、それがまた周りからの好感度アップに繋がって同性からも嫉妬ではなく羨望を向けられた。
 また1人、婚約候補者がやって来た。既に出来上がった逆ハーレムにも物怖じせず、ドロシーの隣を陣取った。

「あら。ご無沙汰しておりますわ。フレイ様」

 ドロシーが嫌な顔をせずに微笑むと、フレイと呼ばれた彼はその反応を待っていたとばかりにすぐに微笑み返した。他の男性陣には白い目で見られているが、彼の世界には目の前の想い人以外は存在していなかった。

「ドロシー様、暫く見ないうちにこんなにご立派に……。そして、益々美しくなられた」
「お褒めいただけて光栄ですわ。フレイ様も男らしくて素敵です」
「私は予てよりこの時を待っておりました。貴女が社交界デビューをなさる……この時を」

 フレイの真っ直ぐな瞳がドロシーの瞳を捕らえた。

「以前城内でお見掛けした時から私は一時も貴女の事を忘れる事が出来ず、それからお話する機会にも何度か恵まれ、明るく……時には力強い、崖上に咲き誇る一輪の花の如く美しい貴女にどんどん惹かれていきました。そして、今宵この胸の内を貴女にお伝えしたい」

 フレイは軽く息を吸い、ギュッとドロシーの手を掴んだ。

「ドロシー様、私は貴女の事が好きです。私と結婚して下さい」

 すると、ドロシーよりも先に周りの男性陣が反応し、フレイに罵声を浴びせ始めた。
 婚約の申し込みはハートフィールド国王陛下を通してからでないと行ってはならない規則になっており、当然フレイの行為は規則違反だった。
 フレイは罵声にも負けず、ドロシーの桜色の唇が動くのをじっと待っていた。
 やがて、ドロシーはフレイの手をそっと振り解くと眉を下げて笑った。

「ごめんなさい。貴方のお気持ちはとても嬉しいです。しかし、わたしには既に想いを寄せている方がいるのです。その方以外はわたしの心を奪う事など出来ないでしょう……」

 ドロシーの脳裏には、水色の髪に琥珀色の瞳の宮廷魔術師の姿が浮かんでいた。彼はドロシーの想いを本気で受け取る事はないだろう。けれど、それでもドロシーは構わないと思える程に彼に心を奪われていた。きっと、これからも。
 盛大にフラれてしまったフレイは勿論、他の男性陣も落胆し、暫し言葉を失った。
 そして、すぐに王女の恋慕の相手の姿を血眼で探した。
 だが、居る筈はない――――と、ドロシーは思っていたのだが、ふと視界の端に水色の髪が見えた気がして、視線を横へずらして見ると……

「え? 嘘……」

 濃紺のローブを着た水色の髪の男性の後ろ姿があった。彼はハートフィールド国王陛下と立食していた。
 ドロシーの視線に気付いた王が手招きし、ドロシーは先程とは真逆の何処か頼りない足取りで彼らのもとへ歩み寄った。
 王の姿を認めたドロシーの取り巻き達はさすがにバツが悪くなって、そそくさと散っていった。

「あ、あの……」

 ドロシーが声を掛けると彼が振り返り、その顔にドロシーは瞠目して落胆した。
 彼はオズワルドではなかった。
 冷静になってみれば、共通点は性別と水色の髪と言うだけで、髪の長さは肩より下で束ねて横に流しており、瞳は真っ青な海の色、背丈も彼よりもう少しあって顔も大人びていた。しかも、男性はエルフだった。
 ヒト違いだった事が恥ずかしくなり、ドロシーは言葉を失って目を伏せた。顔が沸騰しそうなぐらい熱かった。
 王は娘の機微に気付いて微苦笑すると、エルフの彼を手の平で指し示した。

「こちら、アゲートヘイム王国の宮廷魔術師の方だ」

 紹介に預かった彼は恭しく一礼した。

「お初にお目にかかります。ドロシー様。私はダンタリオン・D・ブルースターと申します。以後、お見知りおきを」
「あ……は、はい」

 ダンタリオンの優しげな笑みに、一層ドロシーの鼓動が早まった。
 外見だけでない。ダンタリオンの1つ1つの所作に、愛しい彼の面影を見た。
 ダンタリオンは不意に視線を外し、窓の外を見た――――と言うより、訊いている風だった。
 ドロシーは首を傾けた。

「どう……なさいましたか?」
「いえ」

 ダンタリオンは何事もなかったかの様に取り繕い、ドロシーに手を差し出した。

「ドロシー様。よろしければ、私と一曲踊っていただけませんか?」
「えっ……あ、はい。お願い、します……」

 ドロシーが怖ず怖ずと手を重ねると、ダンタリオンは微笑みその手を引いて皆が集まりだした方へと誘った。
 その時、ドロシーは一瞬誰かの視線を感じて振り返ったが、その先で兄のヴィルヘルム王子がエルフの来客達と会話しているだけだった。
 ドロシーがダンタリオンに連れられて去って行くと、ヴィルヘルムはもう1度ドロシーに視線を向けた。その視線は兄のものではなく、1人の男のものであったが、誰もそれに気付く事はなかった。
 端に構えた音楽集団らのヴァイオリンの優雅な演奏が始まると、ペアとなった者達が踊り出す。
 踊りながら、ダンタリオンはヴァイオリンの演奏ではない、もっと美しい音色を1人聴いていた。

 エルフ語。しかも、この歌は……。一体誰が歌っているのだろうか。
 居館から騎士の宿舎まで続く石造りの道を歩いていたマルスは足を止め、空を仰いだ。
 今宵の空はいつにもなく沢山の星で彩られていて美しく、つい溜め息が零れてしまう。数刻前まで星の代わりに夜空を七色に染め上げていた花火も美しかったが、やはり自然には敵わない。
 星が瞬き、涼しげな澄んだ夜風が吹き抜ける。
 すると、その合間を擦り抜ける様に綺麗で悲しい旋律が聞こえてきた。マルスの耳にもはっきりと届くそれは歌だった。しかも、声に聞き覚えがあった。
 マルスは宿舎へ向いている身体を声のする方へと向け、歌に誘われる様に歩いて行った。


 紺碧の空にちりばめられた星々は手を伸ばせば届きそうなぐらい近くに感じられ、じっと見つめていれば吸い込まれてしまいそうだった。
 夜間は誰も出入りしない食料庫、その屋根の上にオズワルドの姿はあった。
 不安などを感じた時此処で歌うのが好きだった。
 皆が住む場所とは離れた場所にあるので、歌声を聞いて不快な想いをさせる事もない。実際、オズワルドの歌声は種族や性別、年齢を問わず全ての者を魅了する力があるのだが、ハーフエルフと言う事だけで皆は認めようとはしなかった。
 オズワルドの心を映した様な悲しい旋律は星空へ美しく響き渡る。
 恐らく居館に居るエルフらの耳には届いてしまっているだろうが、それはもうどうしようもないし、どうでもよかった。今は不安を紛らわす為に歌いたかった。

「いやあ……綺麗なもんっすね」

 背後から青年の声が聞こえ、オズワルドはピタリと歌うのを止めた。
 訝しげに向き直れば、黒と浅葱の2色の短髪の青年が窓から屋根へ足を下ろしていた。
 青年はへらへら笑いながらオズワルドに躊躇いなく近付いて来る。

「リデル様、こんばんは!」
「……マルス。私に何か用か?」

 オズワルドの目はまだ警戒の色を宿していた。
 マルスは両手を挙げ、敵意がない事を必死に示す。

「ちょ、酷いっすよ~! 僕達、街でデートした仲じゃないですかっ」
「はぁ?」

 オズワルドの眼光が更に鋭くなり、いよいよマルスにも余裕がなくなった。

「恐い恐い恐い!! 今日はいつもに増してツンツンしてません!?」
「私は通常通りだが? 大体、用もないのにこんなところにまで来るな」
「え~……。だって、綺麗な歌声が聞こえたんですもん。気になるに決まってるじゃないっすか」
「それは…………悪かった」
「えぇっ!? な、何でリデル様が謝るんです? えーっと、僕褒めているっすよ?」
「そう言う事だからお前は宿舎に戻れ。これから休憩なんだろ?」
「どう言う事!? うーん……じゃあ、分かりました。戻ります」

 マルスにしてはあっさりと引き下がり、踵を返した。
 不思議に思ったが、オズワルドは邪魔者を追い払えて満足だった。
 正直なところマルスの事は嫌いではないが、だからこそ一緒に居たくなかった。今日の様な日は、特に。何事もなく行事を終わらせるにはハーフエルフである自分は空気を演じなければならない。
 ところが、残念な事にマルスは数分後に戻って来た。しかも、未開封のワインボトルを抱えて。
 隣に立ち並んだマルスに、オズワルドは顔を思い切り顰めた。

「何しに来た」
「何しにって、こんな星明かりの下でやる事といったら!」

 マルスはワインボトルを自分の顔まで持って行き、横から満面の笑みを浮かべた顔をひょこっと出した。

「これでしょう!」
「それ……騎士(なかま)達とやればよくないか?」
「何処までも今日はツンツンなんですね……。マルス、悲しくて泣いちゃう。だけど、いつかデレが来ると信じてるっす!」
「何だそれは。よく分からないが、私に構うな。今は独りで居たい」
「……だから、構いたくなるんすよ」

 ワインボトルを下ろしたマルスの表情はこれまで見た事のない真剣なもので、サファイアブルーの猫目は真っ直ぐオズワルドの琥珀色の瞳を見つめていた。
 オズワルドはいつもと違うマルスの様子にゾクッとした。
 暫しの沈黙が下りると、先にマルスの方が口を開いた。

「僕はオズワルド・リデル様、貴方の事が好きです」
「それは前にも聞いたが……」

 オズワルドが相変わらずのマルスの雰囲気に戸惑いつつ返すと、マルスは苦笑した。

「ええ。言いましたね。でも、リデル様……何か勘違いしてません?」
「言っている意味が……」
「僕、ゲイなんですよ」
「…………」
「だからですね? 好きって言うのは恋愛対象として、です」
「…………!?」

 オズワルドは一気に青ざめ、後退る。踵が屋根の縁を踏んだ。

「そ、そそそれは……! ちょ、ちょっと……と言うか、大分? と、とにかく無理だ!」
「そんなに!? その反応、さすがに傷付くっすよ!?」

 オズワルドの狼狽え様に、マルスも狼狽えた。

「わ、悪い……。そう言った趣味はない、から」
「でしょうね!? 大抵はそうっすよ! それより落ちるっすよ!!」

 マルスが手を伸ばすと、オズワルドは更に引き下がり身体がぐらついた。

「あっ……」

 重力に従って、身体が落ちていく。
 マルスの伸ばした手は空を掴んだだけだった。

「リデル様――!」

 マルスの叫びが木霊すると、突然オズワルドを目映い光が包み一瞬で消し去った。

「はあ……」

 マルスが驚く間もなく後ろからオズワルドの溜め息が聞こえ、振り返ってみれば彼が脱力した様にしゃがみ込んでいた。
 心配せずとも、魔術師である彼ならば空間移動魔法で回避出来たのだ。

「……何か、申し訳なかったっす」

 マルスが悄然とすると、オズワルドは立ち上がって目を伏せた。

「いや、私も過剰反応してしまったようだ」
「そう、すね」

 先程の反応は同性愛に対する拒絶反応だった。それも、既に経験して心的障害になっているぐらいの……。
 マルスは取り繕う様に、ニコリと笑った。

「でも、僕は貴方をどうこうする気はありません。と言うより、ドロシー王女に焼き殺されます」
「あぁ……」

 ドロシーがマルスを焼き殺すところを容易に想像出来たオズワルドは同意した。

「想い……伝えられただけで僕は満足ですし!」
「その、まあ……何か悪かった」
「リデル様謝ってばかりですね。うーん……ま、そうそう僕と同類のヒトって居ないっすよ。ただね、1つだけお願いしたい事があるんです」
「……何だ? 内容次第ではお前を」
「皆まで言わないで下さい! 恐いんすよ、目が!」

 コホンと咳払いして、マルスは改めてオズワルドに真剣な目を向けた。

「オズワルド様……って、お呼びしてもいいですか?」
「……は?」

 拍子抜けする頼み事に、オズワルドはポカンとしてしまった。

「ファーストネームでお呼びした方が親しみ感あるって言うか……。駄目っすか?」
「駄目も何も……私は呼び方など気にしていない。周りが勝手にファミリーネームで呼んでいるだけだ。好きな様に呼べばいい」
「そうっすか! じゃあ、オズワルド様で! あの……前々から気になっていたんですけど、それって本当にファミリーネーム(・・・・・・・・)なんすか?」
「……どう言う意味だ」
「あぁ……いえ、別に。特に確信がある訳じゃないっすけど、何となく。ミドルネームなんじゃないかって思って。僕の思い過ごしならいいです」

 マルスはなかなかに勘の鋭い男だった。
 オズワルドはいつだって気を張って生きている。周りに弱みを見せない様にと、どんな時でも冷静で傲慢な男を演じてきた。隙を見せてしまったのはドロシーの前ぐらいで、それ以外の者は気付く筈もないと思われたのだが……。
 オズワルドはマルスに対して嘘をつく必要はないと感じ、小さく首肯した。

「今まで誰も気付く事はなかった。疑いもしなかったよ」
「……本当の家名を名乗れない理由、あるんすよね」
「理由なく隠す必要などないだろう」

 無意識にオズワルドの視線は、マルスの鎧の右肩部に刻まれた国章に向いていた。
 目敏いマルスはその意味に気付くと、急に心臓がキュッと締め付けられる様な想いがした。実際に痛んでなどいないのに、つい心臓を押さえていた。

「……どうした?」

 オズワルドは悲痛な表情を浮かべるマルスに不安の目を向けた。
 マルスはハッと気付くと、コロッと表情と態度を改め楽しそうにまたワインボトルを前に出した。

「とにかく飲みましょうよ。ね? オズワルド様」
「……仕方ない。今夜だけ付き合ってやる」
「ちょっ。その言い方変に解釈しちゃうじゃないっすか」
「その愉快な頭、磨り潰してやろうか」
「いやいや! 冗談ですって! もう、恐いなぁ」

 2人は並んで座り、マルスが何処からか出したワイングラス片手に星空の下ワインを酌み交わした。
「このワイン、この間お祖父ちゃんが持って来てくれたんすよ。僕、別の用事で直接は逢えなかったんですけど……」

 言いながら、マルスはワイングラスを揺らした。
 オズワルドはワイングラスから口を離し、マルスを見た。

「お祖父ちゃんって……。あ、そうだ。お前に宜しく頼むって言っていた」
「え? お祖父ちゃんが? んん? オズワルド様、そう言えばブルーヴェイルへ行っていましたよね。あーと言うか、寝込んだって聞いて僕凄く心配で!」
「そう。そこで世話になったのが、お前の祖父達だったんだ」
「なるほど! それなら納得です」

 マルスは嬉しそうに、最後の一口を口に流し込んだ。
 オズワルドも最後の一口を飲み干し、空になったワイングラスを弄びながらマルスの方を見ずに言った。

「お前、竜族の血が流れているんだな」
「そうっすよ。混血ってやっぱりよく思われないみたいで、あえて口にはしませんでしたが、その通りです。でも、僕は殆ど人間です。母がハーフドラゴンで父が人間なので、クォーターなんすよ。浅葱色の髪と八重歯、ちょっと縦長の瞳孔……あと、服で見えないところに鱗があったりするんですけど、竜族っぽいところはそれぐらいっすね。それと、最長寿の血のお陰か実年齢より大分若く見えるんですよ」
「それで……魔力が異様に強いのか」
「人間でもドロシー王女みたいに魔力強い人も居ますがね。騎士で魔力が強い人ってこれまで居ないから、悪目立ちしちゃうんすよ。だから魔力が弱いフリをしていました」
「フリ……か。では、魔法鏡の事は? 前にはぐらかしたが」
「その事っすね。別にはぐらかした訳じゃないっす」

 マルスは頬を掻き、天を仰ぐ。

「単純に、あれの名称だとは思わなかったんすよねー」
「と言う事は、お前やっぱりあの部屋に行ったのか」
「はい。魔力の強い者にしか扉の開けない、あの部屋に。……彼、ここ数日大変そうでしたよ?」
「彼……? あ」

 思い出した。
 帰りの海上列車ではドロシーの相手ですっかり忘れてしまったが、こうしている間にも向こうの次元では魔物が暴れ回っているのだ。
 魔物を前に華音は為す術もなく、狼狽えていたに違いない。
 マルスはニヤリと笑った。

「だけど、大丈夫! 優秀なケントくんが頑張ってくれましたから」
「ケント? まさか、それって……」
「そ。竜泉寺賢人、別次元(リアルム)の僕っすよ。使い魔を送り込んでですね、見つけて協力をお願いしたんです。いやあ、時間かかりましたよ。まさか、牢に捕らえられているとは思ってもみませんでした」
「とんだ罪人じゃないか。大丈夫なのか?」
「確かに罪を犯しましたけど、彼いい人っすよ。ちょっと、あれなだけで……」
「あれって何だ」
「ちなみに、僕の使い魔は恐竜みたいなカッコイイ見た目のトカゲなんです」

 マルスは両の手の平でトカゲの大きさを示し、楽しそうに語った。

「つぶらな瞳はエメラルドグリーンで、お腹がふっくらしているんです。そして、剣に変身出来るんですよ。カッコイイっすよ~」
「マルス」

 オズワルドが真剣な顔をすると、マルスは笑顔を引っ込めて返事をし続きを待った。

魔女達(プラネット)が向こうに行っている事はもう分かっているんだな」
「ええ」

 オズワルドは魔女達(プラネット)別次元(リアルム)へ行った事を国王陛下にしか話していなかった。王からも公言しておらず、ドロシーだけは王が直接話して頼んだから知っている。その為、魔法鏡の間に入る事さえ叶わない力のない者達には当然ながら何も伝えられていなかった筈なのだ。それを唯の騎士の一員になりすましていたマルスが知ったのは、暢気なフリをして周囲に気を配っていたからだ。常に宮廷魔術師の動向を探り、それなりに状況を把握したのだ。

「魔物を使って無差別に生命力を奪っている事も?」
「ええ。ですが、その目的を僕はまだ知りません」
「そうか。じゃあ、そこから話そう」

 オズワルドは語った。
 魔女達の目論見を。リアルムの東京で眠るブラックホールの魔女を蘇らせる為、糧となる生命力を集めていると言う事。そして、目覚めた暁にはホワイトホールの魔女も呼び、時空間を歪めてこの星の歴史を巻き戻す――――即ち歴史改竄を行うと言う事を。
 話を聞き終えたマルスは暫し沈黙した。情報処理が全く追いついていない状態だった。
 オズワルドは両の口角を上げた。

「何、簡単な事だ。深く考える事はない。ブラックホールの魔女を目覚めさせなければいい。その為には糧となる生命力を奪わせない様にする事。私達は魔物を倒しつつ魔女へ近付き殲滅する。そうすれば終わりだ」
「そうっすね。やる事は至ってシンプル。そう言えば、魔女とは関係ないかもですが先日……丁度オズワルド様が出掛けられた時に妙な事が起きましてね」
「妙な事とは?」
「突然、奇妙な魔力を感知しまして……行ってみると、そこでヴィルヘルム王子が倒れていたんです」

 ヴィルヘルムと聞いて、オズワルドの顔が青ざめた。それを横目に、マルスは続けた。

「幸い命に別状は……と言うか全く何もなかったのですが、反ってそれが妙でして。ヴィルヘルム王子もご自分の身に何が起きたのか分かっていない様子で、少々ぼんやりしていました」
「妙な魔力にヴィルヘルム王子……」

 オズワルドは顎に手をやって、思案する。前にもヴィルヘルム王子の背後に何者かの気配を感じた。結局正体は掴めず仕舞いだった。そんな奇妙な相手に、さすがのオズワルドもいくら考えたって分かる筈もなく、潔く考えるのを止めた。
 マルスも同じ気持ちだったのか、気を利かせて別の話題を振った。

「それにしたって、そこまでして過去に戻りたいって一体。僕には理解出来ませんね」
「だろうな。私も消し去りたい過去はあるが、その結末になる前の分岐点に戻って望んだ結末になる方へ進む……と言うのは理解に苦しむ。だが、アイツら……特にシーラは本気だった。そう、何百年もかけて着々と準備を進めていたからな。今更……引き返す事など出来ないんだろう」

 オズワルドは目を閉じ、約400年前の記憶を呼び覚ます。思い出したくもない過去の一部にシーラは存在した。
 声だけが脳内に蘇った。

 ――――エルフかと思えば、半分は人間……。ハーフエルフか。珍しい。お前、それだけの魔力を持っていて魔術も使えないのか?
 
 ――――あぁ……人間の国でエルフを見るのは珍しいか。未だに啀み合っているからな。何故此処に居るのか、か。そうだな……この世界を変える為、かな。

 ――――さて、私は失礼させてもらおうか。……せっかく鎖は切れたんだ。何処でも自由に行くといい。だが、生き残る為にはまず魔術を使える様になる事だ。そうしなければ、また同じ目に遭うだけだ。

 今でも脳内に鮮明に残る妖艶な女性の声。それがシーラのものであったと知ったのは魔法大戦の時だった。その時、オズワルドは「世界を変える」の本当の意味を知った。
 シーラもオズワルドに気付いた様だが2人は相容れず、結果としてオズワルドが魔女達の目論見を阻止する事となり今に至る。

「んー……ま、分かり合えないからこそ争ってる訳ですよね。彼女達の都合で星の歴史改竄されたら、今が1番幸せ! って思ってる人達が可哀想ですし、僕もやり直しとか堪ったもんじゃないんで絶対阻止したいっすね」

 マルスは八重歯を見せて笑うと立ち上がり、うんっと伸びをした。鎧がカシャンと音を立てた。
 オズワルドも立ち上がり、何処までも綺麗な星空を仰いだ。
 いつも同じ様に煌めいている星。けれど、1つ……また1つと一生を終えて、また新しい星が生まれ、この美しい景色を保ち続けている。そう言った命の連鎖があるからこそ、星は輝いて見えるのだ。
 そんな星の1つに生きる者達もまた同じ。沢山の歴史を積み上げ、後世に繋げていくのだ。そうやって命は成り立っている。
 命は終わりがあるから美しく、終わりがあるから始まるのだ。その自然の理を覆すなど絶対にあってはならない。
 綺麗な星空を護ると、オズワルドは今一度決意を固めた後、軽く息を吸い込んで歌い始めた。マルスが居る事もお構いなしに、心地良さそうに、優雅に。
 悲しい旋律だが変わらず美しかった。星々も歌に合わせて煌めき、歌に誘われてやって来たオズワルドの使い魔である白梟と鷲が踊るように周りを羽ばたいた。
 マルスはニヤリと笑うと、独特なステップを踏みながらそこに混じった。

「竜の血が騒ぐっす~。えい! 竜の舞っ」

 視界に酔っ払いの踊りの様なものが入ると、オズワルドは顔を顰めて歌うのを止めた。

「何だ、そのふざけた踊りは。酔ったか」
「いやいや! あれだけじゃ全然! と言うか、酷すぎますー」

 慌てふためくマルスを横目に、オズワルドは歌いながら軽やかに舞い始めた。
 マルスの口から思わず感嘆の声が漏れた。
 星明かりに照らされたオズワルドの全身が淡く光り、舞う度にふわりと白いローブが翻り光が散る。高らかに響き渡る美しき歌声は全てのものを魅了し、優しく包み込む。此処だけが世界から切り離された様な、特別な場所に招待された様な心地になる。
 この空間の支配者であるオズワルドはまるで水の精霊の様だった。



 マルスは虜になりつつも、オズワルドの視線の先をしっかりと理解していた。オズワルドにとっての星空はきっと……。

 愛しの姫君……に捧ぐ愛の歌っすね。

 本人はまだ無自覚の段階だが、歌はちゃんとその心を映して遠く離れた場所に居る愛する者に向かって美しく、儚く響き渡っていた。
 


 芸術の秋……なんてものは鏡崎華音には関係ない。冬だろうが、春だろうが、夏だろうが、芸術と呼べる代物は創造出来ないのだ。
 本日の美術の授業は散々だった。牛をテーマに1枚絵を仕上げると言うものだったが、何故か教師に「鏡崎くん、テーマは牛よ? それ、猫じゃないの」なんて注意されてしまった。
 黒毛和牛を描いてしまったのが失敗だったか……と華音は本気で思ったのだが、そう言う問題ではなかった。
 とにかく、クラス中に笑われるわ、親友達にネタにされるわ、鏡の向こうの魔法使いに馬鹿にされるわで大変な1日だった。
 更に、止めは熱心な美術教師からの特別授業が待っていた。彼女曰く「コツを掴めば、猫じゃなくなる!」のだとか。
 帰りのホームルームが終わった途端に美術教師が迎えに来て、半ば引き摺られる様にして本日2度目の美術室へ。
 そこで美術の基礎をみっちり教えられ、帰りが遅くなってしまった。成果は勿論なかった。

 もう季節は10月上旬。夜風はやや冷たい。春先まで大活躍だったブレザーがまた役に立つ。
 華音は辟易しながら1人きりで帰路を辿る。
 高木雷は家の手伝い、風間刃はアニメグッズ予約、赤松桜花は女友達と寄り道……と言う訳で1人なのである。
 辺りはすっかり暗いが、時間にしたらまだ18時を回った所だ。だから危機感はなかった。それに、自分は男子高校生だ。襲う奇人などいないだろう。
 そんな安心感からか、隣から突如響いた羽音に必要以上に動揺してしまった。

「何だ……ゴルゴか」

 隣には何食わぬ顔で使い魔のゴルゴンゾーラが羽ばたいていた。さしずめ、護衛と言ったところだった。
 奇人に襲われる事はなくとも、魔物に襲われる可能性はゼロではない。ゴルゴの存在は心強かった。

「魔物と言えば……」

 華音はここ数日前の事を回想する。
 あれはこんな暗い道を1人で歩いていた時だった。物陰から突如魔物が現れ、ゴルゴが駆け付けて来てくれたのはいいが肝心の魔法使いの姿が何処にもなかった。
 以前も城下街に行っていたとかでなかなか応答してくれなかったが、今回は訳が違うみたいで数日経ってもオズワルド・リデルが姿を現す事はなかった。
 それなのに華音がこうして無事で居られるのは、魔物を倒してくれた者が居たからだ。それは桜花ではない。桜花もドロシー・メルツ・ハートフィールドが応答してくれなくて困っていた。
 街灯の光だけ、しかも逆光になっていた為に魔物を倒してくれた人物の顔を拝む事は出来なかったが、背格好からして男であり剣を持っていた。
 何者だったのだろうか。
 まだオズワルドにはこの事は話せていなかった。
 もし、今回また彼に出くわす事になれば華音に憑依したオズワルドは間接的にだが接触する事になる。その時でも遅くはないと思っていた。

 カサッ……。

「魔物か!?」

 つい身構えた華音だが、近くの木々が風に揺れているだけだった。
 ホッと胸を撫で下ろすと、街灯の下に人影が佇んでいる事に気付いた。
 背格好からして男。少し離れている為、あまり顔の詳細は分からないが髪は黒の短髪、服装は黒の長袖Tシャツにベージュのズボンと言うシンプルな格好だった。
 きっと誰かを待っているのだろう。道の先をじっと見据えている。しかし、それが獲物を狙う視線だった事は華音もゴルゴも気付かなかった。
 当然、華音は見知らぬ青年の横を通り過ぎる。

「ねえ、ちょっと君」

 だから、突然呼び止められて驚いた。
 華音は取り繕い、顔に笑みを貼り付けて振り返った。

「はい? 何でしょう」
「綺麗だね」
「はい!?」

 青年の顔が思ったよりも近くにあり、また発言にも衝撃を受け、華音は反射的に後退った。
 青年は恐ろしいぐらいにすぐ間合いを詰めてきた。

「あぁ……声からして男の子か」
「いや! 格好見れば分かるでしょう」
「あまりに綺麗な顔してて華奢な体付きしてるから女の子かと思っちゃった。うん。でも、性別は重要じゃないね。要は味が大事さ」
「味!?」

 華音は訳が分からなかった。
 こうしている間に青年の逞しい両腕が華音を捕まえていた。
 がっちりホールドされて動けない。

 オレ、これから何されるの!?

 再び青年の顔が近付いてくる。この距離ならはっきりと顔が見える。オリーブ色の猫目で端整な顔立ちだった。男の華音から見てもイケメンだと思った。
 だが、いくら相手がイケメンでもこんな状況誰も喜びはしないだろう。特に同性は。唯々恐ろしいだけだ。
 逃げ出したいのに、筋力があまりない華音ではこの抱擁からは逃れられない。
 青年の顔が、唇が迫ってくる。
 さすがの華音も、これから自分の身に起こる事を悟った。

「や、やめろ!」

 身体を捻ると、強風が吹いた。
 ゴルゴだ。
 強風によって青年が体勢を崩した隙に華音は逃げ去った。

「ありがとう! ゴルゴ」

 隣を羽ばたく使い魔に礼を言った。
 背後では青年が突っ立ったまま、華音と烏を見送っていた。

「なるほどね。やっぱり彼がそうか」

 舌舐めずりをした青年の肩から、にょろりととげとげのトカゲが顔を覗かせた。



 翌朝、華音が登校して来ると教室内がざわついていた。何事かと自然と傾けた耳に入ってきたのは女子達の妙な噂話だった。

「最近、夜道を歩いていると突然イケメンに唇を奪われるんだって!」
「何それー。マジなの?」
「うん。だって、あたしの友達が被害にあったのよ! イケメンじゃなきゃ許さなかったってさ」
「いや、イケメンでもそれは犯罪じゃない? 変質者だよ」

 男子達は無関心な様子だが、華音だけは落ち着かなかった。
 それに気付いた刃が華音を小突いた。

「まっさか、華音ちゃん襲われたんじゃないの~?」
「そ、そうなのか?」

 雷も恐る恐る訊いてきた。
 周りのざわつきが治まり、視線が一斉に戸惑った様子の優等生に集中した。
 男女共に認める美形男子高校生ならあり得る話だった。
 華音は咄嗟に笑みを顔に貼り付けた。

「そんな訳ないだろ? 女の子ならともかく、オレなんて襲わないよ」

 未遂だし!

 皆は完全に優等生を信じ込み、安堵した。
 周りにざわつきが戻ったところで、桜花が教室に入ってきた。
 彼女が歩く度に、チェリーブロッサムの香りが弾ける。男子も女子も頬を緩め挨拶をし、笑顔で返す桜花。
 桜花は華音の傍に来ると、笑顔を引っ込めて神妙な顔つきになった。

「おはよう。華音」
「おはよう? 桜花、どうかしたのか?」
「昨日1人で帰ったでしょう? その……変質者に襲われなかったか心配で」
「……うん?」
「屈強な男とか! 華音、敵わないって言ってたじゃない」
「屈強な男、ね」

 ある意味そうだった。あの青年の腕力に華音は敵わなかったのだ。

「オレはこれでも一応男だし、そう言うのは心配しなくてもいいよ。それよりも、桜花こそ大丈夫だった?」
「わたしは平気。電車待っていた時におじさんにホテル行かないかって誘われたけど、わたし帰る場所ちゃんとあるし……断った。それぐらい」

 平然と語られた話の内容に、華音は瞠目して頬を紅潮させた。

「それ変質者だよ!?」
「違うわ? 唯、わたしが家なき子に見えたから気を遣ってくれたんだと思うわ」
「桜花……ホテルってそう言う意味じゃ…………」

 桜花の純粋な栗色の瞳が面映ゆくて、華音は言い淀んだ。

「とにかく! キミは何かこうふわふわしてるって言うか……。知らない人に何言われてもついて行っちゃ駄目だからね?」
「わたし、子供じゃないんだけど……」
「いいから!」

 2人のやり取りを横で見物していた刃と雷はニヤニヤ笑っていた。

「華音、それさ……もう彼氏通り越して父親だわ」

 雷が指摘すると、刃は耐えきれずに大笑いし出した。

「彼氏……?」

 華音が応える前に、桜花が応えた。顔が疑問一杯だ。
 華音は再び頬を紅潮させ、慌てて誤魔化す。

「た、例えだよ! と言うか、オレは父親じゃない!」
「いや、祖父さんか?」

 真剣な顔で雷が言うと、更に刃の笑い声が大きくなった。

「何で年取るんだ!」
「分からんが、落ち着いてる感じがな?」

 華音に反論されても、雷に悪びれる様子はなかった。
 3人のいつもと変わらない光景に、桜花も笑みを零した。
 チャイムが鳴り、担任教師の寒川(そがわ)先生が教室へ入ってくると皆席に着きホームルームが始まった。
 昼休憩が終わった後は体育の授業だった。毎度の事ながら、食べた後の運動を好まない生徒は多かった。
 更衣室で体操着に着替えた華音達男子はぞろぞろと校舎裏のグラウンドに集まった。何処までも広く柔らかな地面が広がるそこは全校集会や避難訓練などが行われる場所で、離れた場所に屋内プール、サッカーコート、テニスコートがある。
 女子の姿は点々とあるが、まだ半数も揃っていなかった。
 体育教師は落ち着かない様子で、何度も腕時計を確認する。彼女も女性だが、朝のメイクも着替えもすぐに済ませてしまうタイプなので、準備に時間の掛かる同性の気持ちは分からないようだ。
 チャイムが鳴る時には全員揃っているだろうと思い、集まった者達は各々雑談したりして暇を持て余した。
 しかし、チャイムが鳴り始めても全員揃う事はなかった。

「どうしたのかしら」

 不審に思った教師が一歩踏み出した途端、糸が切られたマリオネットの様にその場に頽れた。
 教師を飛び越え、赤い双眸の真っ黒な鹿が生徒達の前に出て来た。
 生徒達が悲鳴を上げると、連鎖する様に女子更衣室のある辺りからも悲鳴が轟いた。
 何事かと、校舎の中から生徒や教師が飛び出して来る。
 華音のもとへ、使い魔が舞い降りて来た。

「こんな大勢の居る前で戦いたくないけど、仕方ない」

 華音が走っていき、その背中を見送った刃と雷は魔物を前に身構えた。
 刃は完全に縮こまり、雷は勇ましく迎え撃つ体勢だ。

「アルナちゃん来てくれないかなー……」
「女の子に頼るなよな。ほら、来たぞ」
「うぇっ!?」

 刃に飛び掛かって来た鹿の魔物を、雷が拳で突き飛ばす。
 辺りには沢山の魔物が徘徊しており、次々と生徒や教師から生命力を奪っていく。
 まだ餌食になっていない者達は悲鳴を上げながら、必死に逃げ惑う。
 そんな彼らを雷が助太刀するが、完全に倒す事が出来ない彼にも限界がある。

「ちょっと! 雷くん! 俺を1人にしないでよぉ~。俺を護って」

 刃がその場に蹲って泣き言を零しているが、雷はいちいち相手にしていられず冷たくあしらった。

「自分の身は自分で護れ!」
「辛辣! この薄情者ぉ!」

 刃のもとへ、またしても魔物が迫る。
 刃は立ち上がり、必死に逃げる。

「やだやだやだ! 何で追って来るんだよ!?」

 魔物は瞳をギラつかせ牙を剥き出しに、口うるさい男子生徒を追い掛ける。
 刃の目の前で魔物に追いつかれたクラスメイトが倒れ、生命力を手に入れた魔物の標的は刃へと変更。結果、刃は2体から追われる羽目になった。

「増えたよ! 俺、そんな人気者なの!?」
「風間くん、離れて!」

 向こうからアニメキャラクターの様な可愛らしい声が聞こえ、そちらを向いた刃の視界に紅蓮の炎が目一杯映り込んだ。

「うぉ!?」

 2体の魔物は炎の餌食となり、後は刃を残すのみ。
 刃は避けようにも避ける事が出来ない。目と口を開けたまま、熱が肌を焦がす。
 開いた口からは悲鳴が溢れる。

「グロスヴァーグ!」

 刃の悲鳴も炎も、突如響いた声の後に押し寄せた大津波に呑み込まれた。
 炎が消え大津波も消えると、別次元の魔法使いの姿となった華音が呆れ顔で立っていた。その視線は刃を通り越し、焦った様子で駆け寄って来る桜花へ向けられていた。彼女も別次元の魔法使いの姿となっていた。

「桜花、何やってるんだよ。危うく刃が焼死するところだった」
「ご、ごめんなさい。風間くん、無事?」

 華音に謝った桜花は刃に視線を移した。

「あ……ああ。てかさ」

 弱々しく応えた刃の目線は何かに吸い寄せられる様に下がっていく。

「桜花ちゃん、エロくね? 前も思ったけど」
「えっ?」

 桜花がキョトンとすると、代わりに華音が意味を理解して2人の間に入った。

「ば、馬鹿! 見るなよ!」

 華音に遮られて刃の視界には豊満な胸の谷間が映らなくなった。
 刃は唇を尖らせ、「絶景を独り占めってか~」と訳の分からない独り言を呟いた。

「えっと……わたし、何か変?」

 桜花が首を傾けると、華音は背を向けたまま答えた。

「変じゃないよ。こいつの言う事は気にしなくていい」

 確かに刃の言う通り、桜花の今の格好、つまりはドロシーの格好は際どい。大きく開いた胸元に露な肩、スカートとブーツの間から覗く太股……と、目の遣り場に困る。
 オズワルドはよく平然としていられるな、と思うが洋風なあちらの世界では当たり前の服装なのだろう。ちなみに、未だに華音は慣れていない。

「おーい! 華音、赤松! こっちも頼む」

 離れた場所から雷が手を挙げていた。周囲には失神した魔物の山。
 さすが、と心の中で賞賛すると華音は桜花と共に雷のもとへ向かった。
 

 結果、魔物は殲滅。誰1人として命を失う事はなかった。今回は雷のお陰である。華音と桜花は感謝の言葉を贈った。
 皆がまだ気を失っている中、別次元の魔法使い達は新たな気配と魔力を感知した。

『カノン、あっちに魔女が居る。恐らく1人はアルナ、もう1人は……クランだ』
『オウカちゃん、魔女が居ますわ! すぐに向かいましょう』

 華音と桜花は頷き、魔法使い達に導かれて校舎の方へ走った。



 屋上――――

「さて。皆に惑わしの術をかけて……っと」

 八重歯を見せ、得意げに笑う小さな魔女が1人フェンスの上に立っていた。
 指先で空中に円を描くと、忽ち光が溢れて眼下に降り注いだ。
 途端に人がもそもそと起き上がる。頭を抱え、自分の身に起こった事を思い出そうとするが、記憶に靄がかかり失敗に終わった。
 広範囲に渡ってかけられた月属性の魔術はそこであった出来事そのものを惑わし、人の記憶を操作する。つまり、皆の記憶から魔物そのものが消えたのだ。勿論、所詮は惑わしなので何かのきっかけがあれば記憶は鮮明になる。
 華音と桜花、それに刃と雷は魔女の意思によって対象外となっている。
 金色のツインテールが風で流れた。

「アルナ。そこで何をしているのです?」

 アルナは振り返り、此方へ歩み寄って来る和装の魔女を見た。
 アルナの肩で白兎が警戒心を剥き出しにする。

「クラン、久しぶりだなっ」

 アルナがぴょんっとフェンスの内側へ飛び降りると、クランと向き合う形となり2人の間には何とも言えない重苦しい空気が流れた。
 互いの顔に笑みと余裕はあるが、嘗ての仲間を見る様な目ではなくなっていた。これは警戒、敵視。もう互いを敵と見なしていた。
 最初の一歩を踏み出したのはクラン。振り袖を揺らし、高く飛躍するとアルナに向かって手の平を広げる。

「アースキャノン!」

 手の平から放たれた無数の土の針を、アルナは魔法壁を張って術者のもとへ跳ね返す。
 クランはフッと笑い、想定済みのそれを振り袖で叩き落として着地。それからすぐに地属性のマナを集める。
 アルナは何もしない――――否、相手が動かない限りは何も出来ない。それが月属性のマナを扱う者の宿命なのだ。そもそも、本来ならば前線に出る事はないのだが、魔女故なのか、状況故なのか、自らそれを選んだ。
 エルフである彼女らが「魔女」と呼ばれる様になった訳。それはエルフの特性上、自分や同族を護る為にしか戦わない為普段は好意的でもなければ好戦的でもないそんな種族の中で、何の罪もない者達を無差別に死に追いやる彼女らは異質で「魔女」と呼ぶに相応しかったからだ。エルフ達の間では闇に堕ちたエルフとも呼ばれている。

「エーアトヴェーデン!」

 高くもなく低くもない土星の魔女の声がよく響くと、グラッと足下が揺れる。
 アルナは魔法壁を張る事だけしか頭になかった為、簡単にバランスを崩して尻餅をついた。
 揺れはまだ続いている。どうやら、校舎全体が揺れている様だ。
 日常的に地震が起こっているこの日本では珍しくない事が幸いし、誰も校舎から顔を出さず大きな騒ぎにもならなかった。クランはそれを知った上でこの魔術を放った。
 立とうにも、アルナは上手く立つ事がままならなかった。そこへ、クランは微笑み1つ。幼い顔が焦燥に歪んでいく様をじっくりと見ながら、容赦ない一撃を放つ。

「ブロックモルト!」

 バスケットボールよりもやや大きめの土の球体が次々とアルナを襲う。
 最初の一撃はくらってしまうも、魔法壁の形成が間に合って後は全て弾いた。残念ながら1つとして術者に届く事はなかったが、この隙にアルナは自身に治癒術をかけた。
 目映い光に包まれて体勢を立て直すアルナに、またもクランは魔術を放つ。地属性のマナで形成された刃が柔らかな頬を掠る。寸前でアルナは躱して直撃を避けたのだ。
 だが、クランの攻撃はこれで終わらない。次々と刃が出現し、対象目掛けて飛び交う。その全てを持ち前の瞬発力で躱したアルナは、横へ飛び退いた勢いでフェンスを蹴って空高く跳び上がる。
 太陽を背に、ツインテールが真横に靡いた小柄な影は兎の様だ。これが本物の兎であれば刃を収めるクランであるが、偽物の兎に情けをかける訳もなく。口元に笑みを浮かべ、両の手の平を対象へと向けた。

「とても有名な話です。土星の環は細かな岩石や氷塊で形成されていますね。いきますよ――――サタンブレス!」

 大量の(つぶて)が空中へ一直線に伸びる。
 アルナは魔法壁で防ぎ、跳ね返す。
 礫は更に加速して術者へ還っていくが、クランは余裕の表情で全て躱しきった。それどころか、地上へ降りて来たアルナに向かって追撃。

「グランドランス!」

 鋭利な岩が次々とコンクリートを突き破って飛び出す。一瞬で辺り一面は剣山と化すが、その中に血塗れの小さき魔女の姿はない。
 アルナはクランの真横に居た。
 クランは驚かない。空間移動の魔術は魔力の高い魔術師にとっては当たり前の能力だ。

「もうちょっと手加減してくれない? アルナ、マジで死んじゃうぞ?」
「私は本気で殺す気ですが?」

 クランは真横に手の平を向け、土の刃を何本か放つ。
 アルナは後ろへ飛び退き、最後の一撃は魔法壁で跳ね返した。
 戻って来たそれがクランの撫で肩を掠り、鮮血を滲ませた。
 クランは肩の傷よりも衣服の傷を気に掛けつつ、アルナを見た。

「シーラはこの様な事を望まないでしょうが、私はこちらが不利になるのなら貴女を殺す事も厭わないのです。オズワルドさん側なのでしょう?」
「……正確には違うけどな」

 アルナの脳裏にはオズワルドと同じだけど同じでない、別人が浮かんでいた。
 クランはゆるゆると首を横に振った。

「どちらでも構いませんが、魔女である貴女の力を与えられては困るんです。故に消します。今ここで」
「へぇ~? 目的の為なら手段を選ばない、ね。クランもそんな頑固だとエンテみたいにすーぐ死んじゃうぞ?」
「いいえ。死ぬのは貴女ですよ、アルナ」

 こうしている間にクランの周囲には莫大な地属性のマナが渦巻いており、それが巨大な砂嵐を巻き起こした。
 屋上全体が砂に覆われ、抗う事の敵わないアルナは砂と共に空中へ巻き上げられる。その際、ほわまろを庇うので精一杯だった。
 砂嵐より更に上空に巨大な魔法陣が展開し、刀身から順に下へ向かって大剣が出現。アルナの腕の中で白兎が暴れる。
 クランが大きく掲げた右手を振り下ろすと、その動きに連動して大剣がアルナの頭上目掛けて落下した。
 落下した大剣はアルナの頭部から一センチ程の所で停止した。しかも、刀身から柄まで氷細工の様に綺麗に凍り付けになっていた。
 周囲を激しく舞っていた砂も時間を止めたかの様にピタリと止まり、その全てが氷の粒へと変化していた。
 やがて大剣が砕け散り青と黄色の2色の光が舞うと、時間が動き出した。
 アルナは重力に従って落ちていく。それを飛び出した華奢な影が透かさず両腕で受け止める。
 アルナは破顔した。

「乙女のピンチに颯爽と登場! やっぱりカッコイイぞっ」

 ギュッと腕を首に巻き付けると、華音は戸惑った。

「こ、こら……アルナ」
『気色悪い』

 華音の内側でオズワルドは思いきり渋面を作った。
 アルナを抱えて華音が着地すると、桜花がローズクォーツの杖を土星の魔女に向けていた。
 華音は急いでアルナを下ろして桜花の加勢に向かう。
 2人の魔法使いが並ぶ……が、クランは子供を見る様な目で笑っていた。
 訳が分からず華音と桜花が杖を下げると、クランは恭しく一礼した。

「これ以上は長居出来ませんね。アルナを葬れず残念です。貴方たちも授業に遅れてしまいますよ? それでは」

 クランは後ろ向きに跳び一旦フェンスの縁に着地すると、背中から身を投げた。
 2人が駆け付け下を覗くと、もう土星の魔女の姿はなく光が舞っているだけだった。
 オズワルドとドロシーの魂がスペクルムに還り、華音と桜花の姿は体操服姿の高校生へと戻った。
 眼下に広がるグラウンドにはクラスメイト達が集って準備運動を始めていた。

「これ、遅れてしまう……と言うか、もう手遅れだな?」

 アルナの他人事の様に楽しげな台詞に、一層2人の気が急いた。
 2人はアルナへの挨拶もそこそこに、急いで屋上を後にした。


 息を弾ませて華音と桜花がグラウンドに戻ると、体育教師が仁王立ちで2人を出迎えてくれた。生徒達は皆、グラウンドの周りを走っていた。

「鏡崎、赤松、あんた達2人揃って何処行ってたの?」

 教師の眼差しが鋭く、華音は僅かに視線を逸らした。

「あー……えっと」

 得意の嘘もなかなか出て来ない。
 対して、桜花は怒り心頭の教師の前でも全く動じなかった。

「屋上です!」
「ちょ、桜花……」
「屋上? 2人で? 何しに?」

 教師からの容赦ない疑問符連続攻撃。1つとして華音には答えられず、また代わりに桜花が返した。勿論、的外れである。

「迷い猫を見掛けたから捕まえなきゃって思って、華音と2人で追い掛けたら屋上に来ていたんです」
「……それで? 迷い猫は捕まえたの?」

 完全に教師は疑っていた。

「ええ!」

 自信満々に辺りを見渡す桜花の栗色の瞳に黒猫が映る事はなかった。

「あ……あれ? 煉獄?」

 残念ながら使い魔は期待通りに歩いてはいなかった。オズワルドの使い魔は傍の花壇を彷徨いていたけれど。

「赤松、あんた何言ってるか分からないわよ? と言うか、2人で下の名前で呼び合っているし付き合ってるの?」

 教師が茶化すと、桜花はキョトンとし華音は頬を赤らめて弱々しく訂正した。

「た、高橋先生……付き合ってはないです」
「ふぅん? これまで多くの女子生徒をふってきたイケメン君にしちゃ、随分と初心(うぶ)な反応じゃないか」
「人聞き悪い事言わないで下さい」
「あたし、よく恋愛相談されるのよね。その殆どが「鏡崎くんにふられた!」なのよ。鏡崎の理想ってどんなだと思ったけど、なるほど。確かに高いかもしれないわね」

 高橋先生はちらりと桜花を見た。
 赤松桜花。緩やかに波打つ赤茶色の長髪に、ぱっちりとした栗色の瞳。女性らしいメリハリのある柔らかな身体。アニメキャラクターの様な可愛い声。ちょっとずれてるが愛嬌のある性格。外見だけは誰もが羨む高嶺の花。しかし、中身が頭が悪かったり男勝りだったり雑だったりする事はリアルムでは華音ぐらいしか知らない。よって、周りからの評価は高い。それこそ、優等生の華音と並ぶぐらいに。
 高橋先生はニヤリと意地の悪い笑みを作った。

「じゃあ、今からあんた達は2人仲良くグラウンド10周!」
「え!? それはさすがに……」
「わたし、走るのあんまり得意じゃないわ」

 既に疲労感を露にする2人に、高橋先生はもう一度同じ台詞を繰り返して向こうを指し示した。
 華音と桜花は言われるがまま、走り出す。入れ違いに、グラウンドを走り終えた生徒達が次々と高橋先生のもとへ戻って来た。


 華音と桜花がグラウンド10周を走り終えた頃には、皆はテニスコートへ移動していた。
 フェンスに囲まれたテニスコートは全部で4面。横並びとなっている。
 本日の授業は男女混合でダブルスをすると言う事で、今ペアを決めるべく高橋先生お手製のクジ引きを順番に引いているところだった。華音と桜花はそれに何とか間に合った。
 身を屈めて息を切らしている華音の背中を、ポンッと雷が叩いた。

「お疲れ、華音」
「雷……。うん」
「魔女には結局逃げられたか?」
「ああ。でも、逃げたと言うよりも帰った? 相手からは余裕を感じた……かな。何だか知っているヒトな気がするし、それにオレ達の事を知っているみたいだった」
「ほーん。そいつは気になるな」

 2人に気付いた刃が楽しそうに歩み寄って来た。

「2人共、何コソコソ話してるの~? 俺も混ぜ混ぜして」

 露骨に2人は嫌そうな顔をする。
 雷が冷たくあしらった。

「クジ引き、次はお前の番だろ。さっさと引いて来い」
「段々俺の扱い雑くなってるよな。ひっどいな~」

 刃は踵を返し、高橋先生の待つクジ引きコーナーへ歩いて行った。
 四角い箱が2つ、男子用と女子用でそれぞれに1~40までの数字の書かれたメモが入っている。同じ数字を引き当てた男女がペアとなる仕組みだ。
 刃が引き終えると、次は華音と桜花の番。2人が箱の中に手を入れる瞬間まだペアになれていない者達の念が湧き上がる。
 男子は桜花と、女子は華音とペアになれる事を願う。
 心なしか速度低下した空間で、華音と桜花が紙を箱から取り出す。
 ドクン、ドクン、と紙を握り締める生徒達の期待が高ぶる。

「15」

 2人同時に言うと、念を送っていた者達はガックリと項垂れた。同時に、美男美女がペアになればそれだけで絵になるし天も認めていると半ば諦め、心の中で祝福を贈った。
 2人は顔を見合わせ、桜花がポツリと呟いた。

「いつもとあまり変わらないわね」

 共闘するのはいつもの事だ。だからと言って、息がピッタリとは限らない。華音の脳裏には容赦なく炎をぶつけてくる桜花の姿が浮かび、早くも疲労感を覚えていた。
 試合の順番もクジ引きで決められ、華音・桜花ペアは一試合目、刃・柄本ペアと対戦する事となった。
 華音はジャージ姿のお下げ少女に首を傾げた。

「柄本さんって体育出来ないんじゃなかった?」

 現にラケットを持っていない。
 柄本はニンマリと笑った。

「そうだよー! だから、何と私の代わりに――――」
「あたしが相手してあげるわ」

 コートに足を踏み入れたのは、ラケットを持ちやる気漲る高橋先生だった。
 刃はギョッとし、態とらしく後退った。

「せんせーかよ!」
「何? 文句でもあるのかしら?」
「ねー……けど、どうせなら……ねぇ?」

 刃の視線はネットの向こうの桜花……の豊満な胸に向いていた。対照的に、隣の美人教師の胸は貧相だった。

「風間。まずはあんたから潰そうかしら」

 トントンとラケットを持っていない方の手でボールをバウンドさせる高橋先生の目は本気だった。
 更に刃は距離を取った。

「いやいや! 味方潰しちゃ駄目っしょ!」
「まあ、何てのは冗談で……」

 高橋先生はバウンドしたボールをラケットでキャッチすると、刃との距離を詰めた。あまりの気迫に刃はもう身動きが取れなくなった。

「だらしないわね、その格好。ズボン下げすぎよ」

 言いながら、高橋先生は手際よく刃の服装を正す。その度に、刃はくすぐったそうに身を捩った。

「ちょ、せんせーそれ、セクハラですっ」
「何処がよ? あんた、喜んでるじゃない。はい、これでよし!」
「何がよしですか!? やだやだこんな真面目くんみたいな格好……!」

 刃はすぐにズボンを下げようとしたが、高橋先生の無言の圧力に負けてやめた。
 ネットの向こうでは、桜花が髪を1つに結い上げて気合いを入れていた。

「わたし、テニスとか小学校でやった以来だけど頑張るわ!」
「うん」

 華音は曖昧に笑い返す事しか出来なかった。ペアが決まった時に抱いた不安がぶり返したのだ。今回炎に呑まれる心配はないものの、何が起こるか分からない。いつも以上に気を引き締めていこうと誓った。
 審判は柄本が務める事となり、ギャラリー(試合のない生徒達)が集まったところで試合開始。
 よく晴れた空の下で、軽快に響くラリーの音。その大半が華音と高橋先生によるものだった。時々刃が打ち返し、桜花も負けじと懸命にラケットを振るが全てが空振り。結果、シングルスの様な状況となった。
 予想外の事が起こらない安心感からか、華音はラリーを続けながら器用に考え事を始めていた。

 土星の魔女クラン。一体あのヒトは何者なんだ? オレ達が生徒だって事は気付いていたみたいだし、何処まで知っているんだ?

 スパン!


「ひぇっ……」

 刃の悲鳴が聞こえネットの向こうに意識を戻してみれば、見事に刃の足下にスマッシュを決めていた。
 湧き上がる歓声。その殆どが女子だった。

「あ、ごめん」

 華音が頬を掻くと、刃は涙目でボールを拾い上げた。

「俺を殺す気か!? 日頃の恨みか!?」
「日頃の恨みって……自覚あるのか」と、ギャラリーの1人である雷がつっこんだ。
「でも、いいもん。俺、怪我したらさっちゃんに手当てしてもらうから!」

 さっちゃん。養護教諭の三田(さんた)せんせいの事だ。
 華音は刃を無視し、顎に手を当てて思考の海に潜り込んだ。
 意識が戦線離脱した華音を余所に、試合は再開する。
 こんな状態でも華音は抜群の運動神経を発揮し、高橋先生とのラリーが続いた。高橋先生は「やるわね……!」と悔しそうに顔を歪めた。

「わたしも1度ぐらいは役に立つんだから!」

 高橋先生が打ち返したボールを今度は桜花が返そうとラケットを構える。
 主に男子生徒による声援が響く。

「いくわよ……――――って、あぁっ!」

 綺麗に空振り。それでも、男子達からは歓声が沸き上がった。

「赤松さん、可愛い!」
「マジ天使」
「可愛いから許す」

 確かに可愛い。

 彼らの様に口には出さなかったが、雷も内心同じ気持ちだった。
 今度は女子の甲高い歓声が響き渡る。彼女達の視線の先には華音が。
 桜花の後ろに構えていた華音がボールを的確に捉え、打ち返す。この時も、まだ華音は思考の海の中に居た。

 三田先生とクラン。顔の作りや話し方、所作……似ている気がする。修学旅行の時も、魔女の魔力を辿った先に三田先生は居た。こんな偶然、きっとない。そうすると、やっぱり同一人物……。

 先程よりももっと深く深いところまで。光も届かないその場所に、声なんて当然届く筈はなく。
 華音は返って来たボールに気付かなかった。動きを止めた華音をギャラリーが不思議そうに見ている中、謎のやる気に満ち溢れた桜花が華音が取り損ねたボールに向かっていく。

「わたしが取るわ!」

 意気揚々とラケットを構える。
 皆が声を上げる前に、バシン! とボールよりも重いものを叩いた音が響き渡った。
 華音のラケットが地面に落ち、次いで華音が倒れた。その間誰しもの目にはゆっくりと見えた。
 コロコロとボールが転がっていき、皆は悲鳴を上げ当事者である桜花は事の重大さに気付いた。
 今打ってしまったのはボールではなく、華音の頭部だったのだ。

「華音!? え……嘘、でしょう?」

 膝を付きラケットを放って華音を抱き起こすが、意識がなかった。
 隣のコートで試合していた生徒達も集まり騒ぎは肥大化する。
 ネットの向こうから刃と高橋先生が駆け付け、ギャラリーからは雷が駆け付けた。

「一旦保健室に運んだ方がいいわね」

 高橋先生は呼吸している華音にひとまず安堵するも、表情は終始曇っていた。
 動揺している桜花と刃を押し退け前に出た雷は、ヒョイッと華音を軽々と担ぎ上げた。

「俺が鏡崎を保健室まで連れていきます」
「そうね。頼むわ、高木」

 高橋先生が頷くと、雷も頷き返して彼らに背を向けて歩き出す。

「わ、わたしも行くわ……」

 その後を桜花が申し訳なさそうについていき、2人で保健室へ急いだ。


 ***


 肌寒さに目が覚めた。
 ぼんやりと視界に映るのは、仄暗い室内。全身を預けているものは感触からいって、ベッド。然程、質は良くないが、冷たい床の上で寝るよりも幾分かマシだった。
 意識が覚醒するや否や、違和感に気付いた。まず、動かした右足が何かに引っ張られたのだ。

 何だ……これ。

 鎖だ。まるで飼い犬に付けるみたいに、ベッドと自分を繋ぎ止めていた。
 何が起こったのか分からない。皆目見当も付かない。此処は学校でもなければ、自宅でもない。一瞬のうちに別世界へ飛ばされたかの様だ。
 もう1つ違和感があった。何故か自分は衣服を着ていない。脱いだ覚えなんてないのに。それから、身体の至る所にある赤い痣……見ているとゾッとした。
 ベッドの上、膝を抱えてぼんやりと天井を見つめていると、両耳が此方へ近付いて来る足音を拾った。
 何故か、心の底からゾッとする。既に冷え切った身体が更に冷えていく感覚がした。
 やがて、重たい扉が開かれて少しの間だけ外の光と空気を取り込むと男が入って来た。
 見覚えのない男だった。恰幅がよく、身形も整っている事から育ちの良さが覗えたが、表情はとても醜く悪魔の様だった。

「ルイス。暫く逢えなくて寂しかったよ。でも、大丈夫。今夜は朝まで一緒に居られるから、思う存分可愛がってあげるよ」

 優しい顔で、優しい声色でそう言ってみせたが、依然として悪魔である事には変わりなかった。
 いや、それよりも……

 ――――オレはルイスじゃない!
 
 自分とは違う誰かの感情が、言葉が、脳内に流れ込んできた。
 
 ――――オレはオズワルドだ!
 
 最大の違和感。それは自分であって自分でない事。この身体はオズワルド・リデルのもので、これは彼の記憶なのだ。
 一糸纏わぬ状態となった悪魔の手が伸びてきて押し倒される。必死に抵抗しても無駄だった。
 心も身体も穢されていく。

 やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だやめろやめろやめろやめろやめろやめろ止めろ恐い恐い恐い恐い恐い恐い嫌だ恐い気持ち悪い

 拒絶、恐怖、嫌悪、絶望がぐるぐると混ざり合い、大きな感情の塊となって襲いかかる。

 ポツリ……。

 一滴の涙が頬を伝った――――


 ***


 鈍い痛みに目が覚めた。
 ぼんやりと視界に映るのは、明るい室内。全身を預けているのは、感触からいってベッド。ふんわりと優しく肌触りが良かった。
 意識は覚醒していくのに、頭部の温度は依然冷たいまま。後頭部を外側から冷やされている感覚があった。確認してみると、ひんやり冷たいジェル状の枕が置かれていた。

「良かった……華音、目が覚めたのね」

 安堵した柔らかな声に、華音も安堵した。
 上体を起こすと、真横で桜花が丸椅子に腰掛けて此方を見下ろしていた。
 後方から降り注ぐ陽光に包まれて、まるで天使の様に可憐で美しかった。
 そんな天使の顔は華音の顔を見た途端に、戸惑いに変わった。

「ど、どうしたの? まだ……頭痛む?」
「頭?」

 後頭部に手を伸ばす。確かに、ズキズキと鈍い痛みはまだ残っていた。しかし、何故桜花はそう思ったのだろう? そんなに苦痛の表情を浮かべていただろうか……と手を頬に持って行くと液体が付着した。

「あれ? オレ、何で泣いてるんだ?」

 己の瞳から零れ落ちた涙だった。今はこれ以上溢れてくる事はないが、心がそわそわし始めた。
 俯き、思考を巡らせる。
 何か物凄い感情に呑み込まれて――――

「そうだ……オレは」

 オズワルドの記憶を見た。前にも何度か見た事はあるが、これはもっと深いところ……オズワルドが最も沈めておきたかった記憶の一部だった。
 華音が流した涙はオズワルドの悲しみが具現化したモノ。意識が同調した結果だった。
 桜花が不安そうな顔をしていたので、華音は首を横に振ってふわりと笑った。

「もう心配しなくても大丈夫だよ。……と言うか、此処って保健室だよね? オレ、いつの間に気を失ったんだ?」
「えーっと……それは……」

 桜花は華音から目を逸らし、指を組んだり解いたり落ち着かなくなった。
 今度はオズワルドではなく自分自身の記憶を手繰り寄せる。
 体育の授業でテニスをしていた事は覚えている。ペアは桜花で、刃と高橋先生ペアと試合をしていた。その最中、土星の魔女の事を考えていたら頭に衝撃が走り――――今に至る。
 先程まで天使に見えていた桜花の姿が小悪魔に変化した。
 華音はもう1度後頭部を押さえた。

「桜花……まさか、キミが」
「――――っ! ごめんなさいっ」

 桜花は椅子から下りて冷たい床の上で土下座した。

「わたしがラケットで華音の頭を打ちました……。でも、態とじゃないの」
「そうだろうなって思ったよ。いつもの事だし……じゃなくて! その格好はやめて!」

 慌ててベッドから下りた華音は桜花の顔を上げさせた。

「華音……大事なくて良かった……」

 グスッと桜花は泣き、不意打ちをくらった華音は今度は心を打たれた。

 その涙は卑怯だろ……。可愛いから許せるって、オレも相当馬鹿だな。

 華音はベッド、桜花は丸椅子に座り直し、一旦落ち着く。
 保健室である事は純白のベッドの存在と窓から見える校庭で一目瞭然だが、疑問なのが此処の主たる養護教諭の姿が見当たらない事だった。

「三田先生は居ないの?」
「ええ。だから勝手に冷却枕とベッドを借りたの。此処まで華音を高木くんが運んでくれたんだけど、授業もあるから戻ってもらってわたしが残ったのよ。華音を1人にしておく訳にはいかなかったからね……元々わたしが原因なんだけれど」
「そう言う事か。何処に行ったんだろう……」

 ガラッ。

 扉が開かれ、噂の人物が戻って来た。
「あら。生徒が来ていたのですね」

 ベッド付近から伸びる2つの人影に気付いた三田先生はカツカツと靴音を響かせて、2人に歩み寄って来た。

「三田先生! あの、体育の授業で華音が倒れた……と言うか、わたしが倒した? のでベッドに運びました。今はもう大丈夫みたいなんですけど、念の為診てあげてくれますか?」

 桜花が立ち上がって言うと、三田先生は微笑み華音の隣に腰を下ろした。

「そう。具体的に何処が悪いのですか?」
「……後頭部を強打しました。今も少しだけ痛みがあります」

 華音は顔に笑みを貼り付けつつも、三田先生を警戒していた。
 相手も笑みを貼り付けているだけに過ぎなかった。

「それは恐いですね。今は元気でも、数時間後に死亡……なんてケースもあると聞きます。少し診せて下さいね」

 三田先生はそっと華音の後頭部に触れ、黒髪を掻き分けて腫れを確認した。

「ああ……少し腫れていますね。血は出ていない様ですが、1度ちゃんとした病院を受診して下さい」
「ありがとうございます。そうします」

 そのまま三田先生の手は滑らかに後頭部から背中に、そして膝の上に置いている手に重ねて指を絡ませた。

「あの……先生?」

 手から感じる熱と間近に感じる視線と息遣いに心臓が高鳴った。これは桜花に抱くモノとは違う……正反対と言ってもいい。これは恐怖だ。
 三田先生は華音の心境を知ってか知らずか、微笑んだまま更に手に力を込めた。

「……せっかく授業に間に合ったと言うのに残念ですね」
「どう言う事ですか?」と、桜花が割って入りさり気なく三田先生の手を華音から引き離した。

 行き場のなくなった手をシーツの上に置き、尚も三田先生は微笑んだ。

「おや、アカマツオウカさんはお気付きでない? ふふ……勿論、カガミサキカノンくんはもうお気付きでしょう」

 桜花は首を傾げ、華音は眼光を鋭くした。
 三田先生は立ち上がって室内をゆったりと歩き、姿見の前で足を止めた。
 室内を――――現実を映す鏡。然れど、此処に居る筈の人物は鏡の中には存在して居なかった。代わりに、和装姿のエルフの女性が居た。
 三田先生を追って来た華音と桜花は目を見張った。
 2人の期待通りの反応に三田先生は満足げに笑い、トンッと手の平を鏡面についた。

「鏡とは真実を映し出すものです。お2人には私はどの様に見えているのでしょうか?」
「……やっぱり、あなたが土星の魔女クランだったんだ」
「見れば見るほど、オズワルドさんにそっくりですね。ドロシーさんの事はあまり分かりませんが」
「そっくり……ね。そっちはそうでもない様に見えるけど」
「これでも、貴方とオズワルドさんの様に同じ生命体なんですよ? ちょっとアレンジしてしまいましたが、元は同じです。ですが、貴方達とは事情は異なります。此方(リアルム)の私はもう存在しません。私が成り代わったのです」
「成り代わった……? それじゃあまるで……」

 ドッペルゲンガー。

 自分自身の生き写しで、出逢ってしまったら最後。死んでしまうと言われている現象の事だ。有名な人物の中にもドッペルゲンガーを目撃した、または他人に目撃された者も居ると言う。
 華音の言わんとしている事を察して、クランは口角を上げた。

「知っての通り、この次元とは別にスペクルムと言う次元が存在しています。本来なら干渉し合う事はありませんが、私達プラネットの様に次元を超える事でそう言った現象が起こるのです。そして、因果律が乱れた事によって元居た者が消滅してしまうと言う訳です」
「じゃあ……お前のせいで死んだって事か?」
「そうなりますね。彼女には罪はなかったのですが、それも小さな犠牲に過ぎません。心配せずとも、世界を巻き戻すのですから」
「小さな犠牲……。世界を巻き戻す……」

 怒りが込み上げて来る。終始笑顔な魔女に対し、華音は感情をそのまま表情に出していた。
 クランは鏡の中の華音と桜花を見た。

「それはそうと、貴方達はどうやって鏡の向こうから彼らの力を借りているのでしょう?」
「……それをオレ達が教えるとでも?」

 華音がクランを睨むと、桜花も真剣な目で頷いた。
 クランは態とらしく肩を竦める。

「そうですか。まあ、それはこの楽しい学校生活の中で見つけるとしましょう」
「オレ達を消せば済む話だろ」
「そんな野蛮な。手荒な真似はしませんよ。それに、邪魔者が居た方が楽しいじゃないですか」
「それをお前が言うのか」
「ふふ。お怪我をされたらまたいらして下さいね。三田先生で居る時は手当しますので」

 話が一段落すると、タイミングを見計らった様にチャイムが鳴った。
 華音と桜花は鏡に映った自分自身を見、ハッとした。まだ体操着姿のままだ。今からの10分休憩で更衣室まで行き着替えを済ませ、それから全速力で化学室へ向かわなければならない。
 足早に2人は扉へ向かって歩き出し、華音が扉をスライドさせると丁度女子3人組と鉢合わせた。

「あ。ごめんね」

 華音が柔らかな声と笑顔で言うと、3人とも頬を林檎みたいに真っ赤にして両手をぶんぶん振った。

「あぁ、いえっ」
「こ、こちらこそ邪魔してすみません」
「ど、どうぞっ」

 3人のネクタイとスカートの色はボルドー、つまり1年生だ。
 華音と桜花は譲ってもらった道を礼を言いながら足早に通り過ぎた。
 2人の姿が遠くなると、1年生女子達は保健室に入った。

「今の鏡崎先輩だよね?」
「うん! 遠目でしか見た事なかったけど、近くで見るとホントイケメン!」
「物腰柔らかだったし」
「ここから出て来たって事は怪我したのかな」
「てゆーか! 一緒に居た女子の先輩、凄い可愛くなかった!? 何かこう、人形みたいな」
「分かる分かる! もしかして、鏡崎先輩の彼女?」
「え~? ふつーにあり得そうで萎える。もうあたしらに勝ち目ないやん」
「絶望的~」

 当たり前の様に室内中央のソファーに向かおうとする彼女達を養護教諭は引き止めた。

「貴女達。何度言ったら分かるんですか? ここは休憩所ではありませんよ?」
「とか言って、いつも笑って許してくれるから三田先生好き」
「右に同じ!」
「ミートゥー!」

 3人の屈託ない笑顔を前に、毎度の如く三田先生は「仕方ないですね」とつい言ってしまった。
 3人は大喜びでソファーを陣取ると、ローテーブルに大量のお菓子を並べて談笑し始めた。
 三田先生はそんな彼女達を横目に扉へ向かった。

「鏡崎くん」

 後ろから声が掛かり、華音とつられて桜花が足を止めた。
 振り返ると、保健室の前に三田先生が立って居た。

「今日はもう早退して病院に行きなさい。担任の先生には私からお伝えしておきますので」



 大きな病院(以前怪我で運び込まれた所)で精密検査をしたところ、特に異常は見られなかった。それは何よりな事だが、帰路を辿る途中華音は水戸に連絡を入れ忘れていた事に気付いた。しかも、もう自宅が見えているので今更だ。
 驚かれる事覚悟で、重厚な門を潜った。

 扉を開けて中に入ると、アルナが飛び付いて来た。

「おっかえり~! 今日は早いなっ」
「ただいま。まあ、ちょっと色々あって早退した」

 華音はアルナを引き剥がし、ローファーからスリッパに履き替えてリビングの方を一瞥した。

「……水戸さんは出掛けてるのか?」
「うん。何処に行ったかまでは知らないぞっ。それよりも、カノンと2人きりなんて新婚みたいだなっ」
「ほわまろはカウントしないのか」

 アルナの頭部には白兎がちょこんと乗っかっていた。唯でさえ重たそうな床に着く程の長さのツインテールに加え、重くはないのだろうかと思ってしまう。

「ほわまろは大事な家族だが、動物の括りだからノーカウントだ」
「私の事は勿論カウントするだろう?」

 華音と全く同じ声が真横から聞こえ、華音は驚いた様に、アルナはうんざりした様にそちらを見た。
 姿見にはオズワルドが居た。

「お前はノーカウントだよ! いちいち来ないでくれる!?」
「何故私がお前の言う事に従わなければならないんだ」

 アルナが噛みつきオズワルドが嘲笑を返す横で、華音は気まずくてオズワルドから目を逸らしていた。
 それに気付いたオズワルドはまだ噛みつくアルナを適当にあしらい、華音に声を掛けた。

「どうかしたか? またいつもの無駄な考え事か?」
「あ、ああ……。て言うか、無駄って! 一言余計なんだけど」
「お前は無駄な考えのせいで無駄な行動が多いからな」
「全てが余計だよ。……此処だと水戸さんが帰って来た時に鏡に向かって喋ってる変なひと達って思われるから、場所を変えよう」
「それもそうだな」

 態と話を逸らした事を察するも、オズワルドは頷いておいた。
 華音が移動すると、その後をヒヨコの様にアルナがついていく。正直、これからオズワルドに話したい事を部外者である彼女に聞かせていいものかと思うが、結局洗面所までついて来てしまったので追い払うタイミングを逃してしまった。
 此処で改めて華音は別次元の自分と向き合う。オズワルドは変わらず余裕のある表情をしていた。それによって、また華音の心は揺れた。

 夢の事……オズワルドに話していいものか。訊いても大丈夫なのか。

 なかなか話を切り出さない華音を見かね、オズワルドの方から話を振った。

「土星の魔女の事だが……」
「あ……ああ!」
「クランがどうかしたのか?」

 元仲間の話にアルナも割り込んできた。

「お前の通う高校に既に潜入していたのだな」
「そうなのか!? だから、アルナが皆の記憶を操作する時に居たんだ」

 アルナは驚くと同時に納得した。

「いざとなったら簡単に倒す事が出来るし、今は普段通りに過ごしておけ」
「うん……」
「但し、私がお前に憑依するところだけは見られるなよ? 色々と面倒だ」
「うん……」
「…………」

 生返事を繰り返すだけの華音をオズワルドは黙って見つめた。彼の漆黒の瞳はオズワルドを映しているものの、心は別の場所にある様だった。
 オズワルドは溜め息を吐き、腕を組んだ。

「私に何か言いたい事でもあるのか?」

 苛立ちと言うよりも、心配する声色だった。
 華音は目を伏せ、数秒置いてから口を開いた。

「オレ、前から時々お前の記憶を夢で見る様になったんだけど……」
「恐らく、私が憑依を繰り返している影響だろう。次元は違えど、同じ生命体なのだから」
「そう、なのか。何か……それが後ろめたくて」
「そんな事をずっと考えていたのか。やはり無駄じゃないか」
「無駄って! 自分自身の事……だろ? お前にとって。いや、だけど今回のは見ちゃいけないモノだったと思うから…………その、ごめん」

 今度はオズワルドが数秒置いてから口を開いた。

「それは人間に飼われていた頃の記憶か?」

 全く温度を感じさせない声だった。
 華音はバッと顔を上げて目を見開いた。

「飼われて……って、お前……」

 オズワルドは苦笑する。

「本当は誰にも話す予定はなかったのだが」
「だ、大丈夫! 記憶から消すから! そ、そうだ……アルナの魔術を使って――――って、アルナにも聞かれちゃった……」

 アルナはこてんと首を傾げた。

「ハーフエルフの扱いなんてそんなもんだぞ?」
「え……。酷すぎる」
「此方では何も意外な事ではないんだよ。特に記憶から消す必要はない。寧ろ、詳しく話しておこう。私だけお前の辛い過去を知っているのはフェアではないからな」