彼がふわりと笑う。口が動く。
「心花ちゃん」
優しく呼ばれて心が浮き立つ。鼓動が早まる。頬が火照る。名前を呼ばれるだけで嬉しくて、彼が愛おしく思えてくる。
「はいっ」
彼が私の手をとる。
「辛いときがあったら、僕を思い出して。僕は心花ちゃんの味方だよ」
その言葉になぜだか違和感を覚える。それと同時に心がぽかぽかとして、涙が零れる。目の淵から頬から顎へ。温かく懐かしい涙。意図せず流れた涙に少々驚いたが、またもや違和感にすり替わる。
「あなた、どこかで——」
言いかけて口を噤んだ。彼が消えかけていたから。
「え、ちょっ、待って!」
呼び掛けも虚しく、彼の身体は透き通ってゆく。急展開過ぎてついていけない。
「心花ちゃん」
「な、なに……?」
彼が私の腑抜けた顔を見て少し笑う。小馬鹿にするような笑い方じゃなくて、安心したような優しい笑みだった。
「————」
「っ、え」
囁かれた言葉に咄嗟に身動きが取れなくなった。そうしている間にも、彼が消えていく。不思議と別れは辛くなかった。
「待って待って、名前だけでも——」
「ごめんね」
困ったように笑って、彼が消えた。
ぱちん、と音がして、花びらが風で撒き上がり、消えた。もう一度、ぱちん、という音が聞こえた。花びらが舞う。視界が桃色に染まる——。
*
「……心花ちゃん」
真っ暗な空間で誰かが呟いている。
「心花ちゃん」
誰か——彼は、彼女の名を祈るように呼んでいる。
「心花ちゃん……」
苦しみの滲む声が響いている。
ずっと。
ずっと。
*
私を起こしたのは、酷く煩わしい目覚まし時計の音だった。
「ん……」
細く目を開けると陽光が目をさした。
さっきの男の子は夢だったのか。夢の中の私は彼にかなり恋していたような気がするのでかなり残念だ。なんだか朦朧としている今も彼を求めている自分がいる気がする。
ゆっくり起き上がる。目覚まし時計も止めておいた。そしてそっと手を見つめた。彼に手をとられたときの温もりが蘇ったような気がする。きゅ、と手を握りしめて階下へ向かった。
「あら、おはよう心花」
「おはよー」
母との会話もそこそこに洗面台を目指した。
ささっと制服に着替えて髪を梳かす。大きく広がった癖毛をヘアオイルを使って整えた。そして高い位置で結う。
「よし」
次は顔を洗う。最近ニキビが酷いので保湿も忘れずやった。ついでに日焼け止めも塗る。
いつもはかるーくメイクをするが、肌荒れがすごいのでやらないことにする。
鏡で変かどうかチェックし、キッチンへ向かった。
炊きたてのお米を茶碗に盛り、冷蔵庫に入っていた納豆とキムチを取り出す。適量をお米に乗せた。母が作ってくれていた味噌汁もお椀に入れ、コップにお茶も注ぐ。
ガッと喰らい、歯を磨いて保湿リップだけ塗った。鞄を引っ掴んで家を出る。
「いてきま!」
「はーい、いってらっしゃい」
「おい、りるち」
「なに、ここ」
学校に着いた。自分の机に鞄を置き、すぐに大好きな親友の莉瑠——私はりるちと呼んでいる——のもとへ向かい、荒々しく話しかけた。ちなみにりるちには『ここ』と呼ばれている。
「非常事態だ」
「なーにさそんなに勿体ぶって」
「好きな人出来たかもしれん」
「……は?」
ようやくりるちが目線をスマホから私に向けた。
「ガチで言ってんの」
本当に驚いたような瞳だった。透き通ったその目が私を捉えて離さない。
「ガチでーす」
「え、誰? 山西じゃないっしょ?」
「あいつとは別れたやん、あいつまじやばいし」
山西とは、私が以前まで付き合っていた人だ。束縛が激しくてすぐに別れてしまったが。
「誰、誰誰」
「ふふふ、なんと!」
「はよ」
「夢に出てきた人!」
「……はぁ?」
りるちの好奇心できらきらしていた目が一瞬にして冷めきった。なんて冷ややかなのだ。やめてくれ、いたたまれん。
「や、ほんっとにかっこよかったんよ、それにまだほんとに好きかわかってないから——」
「おめーがどんな人かよぉくわかった、よし、目ぇ覚ませ」
「話遮らないでもろて」
「いやいや夢は……少女漫画かよ」
汚物を見るような目でこちらを見てくる。だからやめてくれ。
「ま、また会えるといーね」
「そだねぇ」
りるちはこういうツンデレな部分があるから大好きなのだ。つんつんしてても必ずデレてくる。りるちって猫なのか?
*
「心花ちゃん」
彼が彼女の名前を呟く。手元にあるのは、彼女とのツーショットだ。二人とも仲良さげに、楽しそうに写っている。
「クソ……」
大切に扱われていたその写真が、彼の手によってしわくちゃになった。握り締めたのだ。
「心花ちゃん……」
喘ぐような呼吸に続いて、泣き出しそうな弱い声が聞こえた。
写真に写る彼の顔が、醜く歪んでいる。
*
目が覚める。
「ああぁ、また出てきてくれなかった……」
こんなに悔しくてもどかしくなったのは初めてだ。
これで彼が夢に出てこなくなって一週間。ついに休みになってしまった。危うく彼のことを忘れてしまいそうになる。もう一度彼を思い出してみる。
艶々の黒髪に、切れ長でガラスのような瞳。スラッとした細身の身体。色白で声が低くて優しい。すごく暖かい雰囲気の人。
思い出しただけでうっとりしてしまう。だが同時にやはり違和感を覚えてしまう。
最後に言われた言葉がどうしても思い出せないのも、夢の中で彼に覚えた既視感も、なんだか変だ。
「あんたもりるちみたくツンデレちゃんかよ……」
やるせない日々が続いて段々ムカついてきてしまった私は、この休みを利用して夢について徹底的に調べてみることにした。
「待っとけ、愛しの誰かさん!」
パパっと起き上がり、早速スマートフォンで自由に夢を見る方法、と打ち込み、検索する。
一つのサイトに行き着いた。明晰夢についてが語られているサイトだ。ちなみに明晰夢とは、夢を見ているときに、自分は今夢を見ている、夢の中にいる、と自覚しながら見る夢のこと。
自覚するだけで自由に見れるのか?と少々疑いながら読み進めていく。
正直に言うと、あまり役に立たなさそうな記事だった。今の私の状況を打開することに少しは役立ってくれそうではあるが、何かが違うなぁと感じてしまった。そんな気持ちで読んで、試してみても結果は変わらないだろう。
——だが、たった一文だけ。
すごく目を引かれる言葉を見つけた。
『夢に出てくる人は、自分が見たことのある人』
その一言に、なんだか違和感が薄まったような気がした。やはり、私は彼を知っている。
本当かどうかはわからない。でも、信じたいと思っている自分がいた。
「うし、探すどー!」
気合を入れるために雄叫びをあげる。まずは自分の卒業アルバムを見漁ることにした。
幼稚園、小学校、中学校。どれもじっくり細部まで見たが、それらしい人は見当たらなかった。
年上や年下の可能性もある。今度はパソコンを開いて中に保管されている小さい頃の写真を見ることにした。昔から色んな人と仲良くしていたので、一緒に撮った写真が残っているはずだ。
「どれどれー」
千枚以上もある写真を根気よく見ていったが、やはりいなかった。
若干の焦燥を感じながらも空腹感に気づく。調べ始めて3時間くらい経っていた。
せっかくだし、幼馴染と食事でもしながら彼のことについて調べてみようか。
自分で言うのもなんだが、なかなかの名案だと思った。すぐに連絡する。
『おひさー! 急だけど、今からご飯行かない? 久しぶりに話したいしさ!』
打ち込みながら、成人女性のような気分になっていた。こんなのまるで同窓会の連絡じゃないか。少し前まで遊び慣れた仲だったのに、途端に距離を感じて少し寂しくなる。家は近いのに互いにスケジュールが合わなくなるのも寂しさを加速させた。
彼女——真由歩は、すぐに返事をくれた。
『え、心花!? 超久しぶりじゃん! 行く行く〜! いい機会だし、他の子も誘ってプチ早め同窓会でもする?笑』
驚いた、私とほとんど同じことを思っているとは。なんだか嬉しくなる。
『いいね、そうしよ〜! ひるびよりで良き?』
『良き! 私から他の子に伝えとくね! 昼頃適当に向かう!』
私は了解です、と書かれた女の子のスタンプを送り、わくわくしながら着替え始めた。
ひるびよりは、私たちが小学生のときからある和を基調としたカフェだ。小学生はなかなか友達同士で行けなかったが、みんなの記憶に残る結構好きな店だったりする。
現在進行形で肌の上で戦争が起きているのでメイクは日焼け止めと目元、口元だけにし、髪をヘアオイルで整える。
必要最低限しか入れていない鞄を持ち、家を出た。
ひるびよりは自転車で十分もかからないところにある。
だいぶ飛ばしたつもりだったが、真由歩たちはもう着いていた。すぐに彼女たちに近寄る。
「久しぶりー! 待たせてごめん〜」
手を合わせ、謝罪の意を込める。
「待ってない待ってない! それよりほんと久しぶり、心花は変わってないねー」
真由歩がさっぱりとした口調で答える。
真由歩はというと、なかなかの変わりようだった。小学生の真面目な出で立ちは消え失せ、はっちゃけた衣服やメイクになっている。高校デビューというやつだ。
他の懐かしい面々は変わっておらず、こっそり笑ってしまった。
ひるびよりに入ると、首筋に浮かんでいた汗が引いていく。そこには昔から変わらない落ち着いた空間が拡がっていた。
席に案内され、再会の少しの気まずさを吹き飛ばすように率先して真由歩が話し出す。こういうところは変わっていなくて、心が暖かくなった。
「二、三年ぶりだよね、懐かしいなぁ」
「ねー」
みんな同調する。
「彼氏とか出来た人ー?」
盛り上げるため、私が言う。みんなの反応は頬を染めたり露骨に顔を背けたりと様々だった。
「今日はね、私がちょっと訊きたいことがあって集まってもらったんだけど。あ、わざわざありがとね」
好きな人、というか気になる人の相談なんて初めてでなんだか変に緊張してくる。
「私ね、好きな人……うん、好きな人、できたの。急に夢に出てきた人なんだけど。どこかで見たことがあって。みんなに知ってるか訊きたくて来てもらいました。完全なる私利私欲でごめん!」
恥ずかしくて一息で吐き出した。耳まで真っ赤になっている自信がある。
「いやぁ、心花に好きな人ね……」
「ここちゃん、やっと……」
なんだかほっとしたような顔をされている。何故だ。
「えっと、特徴は……」
細かく特徴を伝える。顔を忘れかけていてかなり焦ってしまった。
「……それ、多分……」
「わっ、わかるの!?」
こんなに早く情報が収穫出来てしまって良いのだろうか。だが今は一刻も早く知りたい。会いたい。話してみたい。
「いや……うん、それっぽい人はわかるんだけど……」
真由歩にしては珍しく歯切れが悪い。なにか後ろめたいことがあるのだろうか。
「言って、いいのかな」
真由歩が周りに慎重に意見を求める。誰もが複雑な顔色だった。
「言う、けど……いい、よね。……それ——花崎優羅くんだと、思う」
「——へ?」
いきなり知らない人の名前が出され、困惑が隠せない。
「ああ、えっと……まず、最初から説明するね。まず、小学二年までの間に優羅って子がいたの。優しくてなかなかにイケメンだった子」
全くわからなくて当惑の視線を周りに投げる。でもみんな俯いたままでなにも話そうとしない。異質な空気に背筋が伸びる。
「心花、優羅とすんごい仲良くてね。いつも一緒って感じだった。……でも」
真由歩の美しい顔が歪む。そんな顔をするなんて知らなかった。
「……優羅が家庭内暴力を受けてるって、水泳の時間に心花が気づいて担任に言ったの」
「家庭内、暴力……」
恐ろしい言葉が出てきて思わず言葉を落とす。
「……そしたらっ……」
これ以上ないくらいの憎悪が真由歩の顔に浮かぶ。
「優羅、いなくなっちゃって……っ」
今度は泣き出しそうになる真由歩。真由歩は小さな頃から感情の起伏が激しい子だった。今も当時を思い出して苦しいのだろう。寄り添ってあげたいのにわからないからどうもできない。周りにいた子たちが真由歩の背を摩っていた。
「母親が、学校に呼ばれた日の次の日のことだったの。きっと二人で逃げたんだよ……心花、自分に責任感じて泣き喚いて気を失っちゃって。ショックで記憶、なくしたんだよ。これが、全部」
「…………」
なんだか本当に少女漫画のようだ。いつかのりるちの言葉が蘇る。自分の身に起きたことだとは思えなくて、ふわふわとしてくる。
「ご、ごめん。なかなか信じらんなくて……長く説明ありがとう」
「ううん。いいの。あ、写真あるけど……見る?」
気を遣わせてしまっている。申し訳なさでいっぱいになった。断ると真由歩に悪いし気になるしで見せてもらうことにする。
「見るー」
わざと明るめな声を出す。
真由歩がスマートフォンで写真を見せてくれた。
幸せそうに笑う彼——優羅さんと、勝気な真由歩が楽しそうに写っている。
「ええやば、かっこよ」
思わず口から言葉が漏れた。そして——夢に出てきた彼に、そっくりだった。
「心花、優羅にものすごくデレデレしてたんだよ。思い出した……?」
申し訳ないが思い出せない。だがそう言うのも申し訳なくて、「少しだけ思い出してきたかも」と嘘をついてしまった。
「そっか」
私の嘘に気づいてか気づいていないのか、少し微笑んで答えた。
「さあ、私の相談にものってもらったし、他のこともっとみんなでたくさん話そう!」
ぱちんと手を打ち、この話は終わりの合図をする。先程から空気がどうも重い。
「あ……うん、そうしよっか!」
私の思惑を感じ取ってくれたのか、真由歩がそう言ってくれた。
*
「優羅? なにしてんの」
部屋で写真を眺めていたら、母の声が聞こえてきた。
「っ、母さん」
「……なにそれ?」
母がこちらを覗き込む。
「あ、いや……」
優羅が慌てて“それ”を隠した。
「ねえ。今隠したでしょう。出しなさい」
「……っ」
唇を噛む。見せなきゃ殴られることなんて目に見えていた。きっと、見せても殴られてしまうだろうが。
控えめに写真を差し出す。
「……あら。懐かしいわね、この子」
母の瞳に冷たい色が宿る。写真を持つ手に力がこもっていく。
「私の優羅への愛情を虐待だなんて騒いだ子だったかしらぁ?」
「っ、か、母さん。それ、捨てるつもりだったから。返して欲しいな。捨てるから」
「……私に指図するな! なんでこんなものをいつまでも持ってたのよ! ふざけるな! 写真なんて全部捨てただろう!? まだ持ってたのか! なぁ!?」
ヒステリックな声と共に拳が頬に降ってくる。何度も殴られた。優羅は痛みに静かに耐え、再び唇を噛む。
「ごめん、ごめんなさい! 母さん」
「黙れ!」
蹴られ殴られ散々だ。もう痛みにも慣れてしまったが。
また痣になってしまう。
そんなことを冷静に考えながら拳をただ受ける。
また酒を飲んでいるのだろう。力の入れ方が単調でそれでも強くて痛い。
そして終わりは突如として訪れる。
「……あぁ、優羅。ごめん、痛かったでしょう」
「……大丈夫。僕が悪いから。ごめんね、母さん」
突然猫なで声を出し、優羅を強く抱きしめる。優羅は無感情に、ただただ決まった言葉を紡ぐ。そして母が眠るまでがワンセットだ。
母の手に強く握られている写真をそっと抜き取り、ごみ箱に捨てる。
「ごめんね、心花ちゃん」
苦しみが滲んだ声が漏れた。
*
「ただいまー」
「おかえり」
リビングへ入ると、私が帰るまでちょうど寝ていたのか、ぼさぼさの髪の毛をした母が出迎えてくれた。
「真由歩ちゃんとか変わってなかったー?」
「いや、すんごい派手になってたよ、真面目なとこは変わってないけど」
笑い混じりになりながら言う。
鞄などを置き、ソファに腰をおろして休んだ。
「やっぱり真由歩ちゃんはいい子だねぇ」
「ほんと。羨ましいくらい可愛いし」
「あんたも充分可愛いんだから自信持ちなよー」
「いや無理無理ー」
うちの親は親バカだ。昔は恥ずかしかったが、今はもう吹っ切れて、私のことを真っ直ぐに愛してくれる母に感謝しかない。
「あ、そういやさ、お母さんに聞きたいことがあって」
優羅さんのことだ。
「んー? なになに、好きな人?」
母は目を輝かせながら私を見つめてくる。
「うん、まぁ……そんな感じ」
「えー! なに、誰!?」
突如として乙女になった母に多少呆れながら話す。
「えーと。……優羅って子なんだけど、最近夢に出てきてさ。なんか知ってる? 私、会ったことあるけど覚えてなくて」
真由歩たちに話したときよりも恥ずかしい。目線をずらす。
「……優羅くん、て……」
きゃぴきゃぴとした空気が一瞬にして消えた。
「あんた、思い出して……は、ないのか……」
「あ、えと……う、ん」
シリアスな雰囲気に呑まれそうになる。母の顔へ視線を向けた。かなり険悪な表情だ。
「……これも運命なのかな」
「え? ごめん、なんて?」
聞き取れなくて母に尋ねる。
「ううん。なんでもない」
少し悲しそうに微笑み、母もソファに座る。少し長くなるけど、と前置きをして話し出した。
小学二年生までいたこと。虐待を受け、いなくなってしまったこと。現在も連絡がとれないこと。
昔を懐かしむように、それでも淡々と話す母の姿がなんだか痛々しかった。
「どう、なにか思い出したりはした?」
「いや……全く。ごめんね、せっかく話してくれたのに」
「そっか」
気にしていないような表情で母が言う。そして、あっと思い出したかのように続けた。
「そういえばだけど、優羅くん、一度、心花と逃げようとしたことあるんだよ。もちろん、私には教えてくれたし、私も応援してたくらいなんだけど」
頭をがつんと殴られたような気がした。
「そ……うなんだ」
なんだろう。この苦しい痛み。
脳内で鐘が鳴っているようだ。がんがんと響くような痛みが頭に刻まれる。
思わず顔を顰めて頭を抱え、ソファに倒れ込んだ。
「ちょ、心花!? なに、大丈夫!?」
「うん……ちょっと記憶来たわ」
なんとなく、記憶が戻るのかなとか思って言う。心配はかけたくなかったので、笑顔をしっかり貼り付けた。
「ほんと? ごめんね、こんな話したから……」
「大丈夫大丈夫! ちょっと休んでたら治るから。ちょっと横になってるね」
「わかった……。なにかあったら呼んでね」
話すだけで頭痛が加速する。母が遠ざかる気配がして、ふぅ、と息を吐き出し、ゆっくりと横になった。
心臓の音だけが耳を支配している。
私は眠気に負けて目を閉じた。そのまま意識が途切れていく。
*
「じゃあ、いってくるね、母さん」
「…………」
相変わらずの沈黙に胸が冷えてゆく。
気にしたら負けなのだと学んでいるので気にせず家を出た。心の内とは違って暖かい気候に苛立ちを隠せない。力任せに自転車に跨って漕いだ。
部活へ行くだけでこんなに苦しい思いをしなくちゃいけないことに更に苛立ちが募る。
こんなときには心花の顔が見たくなるものだ。写真を取り出そうとして、やめた。昨日のうちに捨ててしまったじゃないか。またもや苛立ちが顔を出す。
「クソ……ぁぁああ!」
人気のない場所で思わず叫ぶ。
そこで優羅は気づいてしまった。
今一番会いたくて、でも一番会いたくない彼女が、そこに立っていたことに。
*
「あぁあ!?」
目が覚めた瞬間汚声が漏れた。頭痛は嘘みたいに消えている。
「っ、なに!? ゴキブリでも出た!?」
「うぇ、そんな例えしないでよ気持ち悪い! て、そうじゃない!」
母とのくだらない会話にツッコミを入れつつ話す。
「思い出した! 大体だけど!」
夢に優羅が出てきてくれたのだ。そこでたくさん教えてくれた。
「えぇ嘘ぉ!? そんな少女漫画みたいなことあってたまるの!?」
「そこはよかったね……ってしんみりしながら駆け寄るとこじゃないかな!?」
なんで漫才なんてしているんだ。なんだか想像していた反応じゃない。
「で、ほんとに思い出したの?」
急に真面目になって少々驚く。だがしっかりと頷いた。
「思い出した。どんな会話してたのかも、優羅が、どんな傷を背負ってたのかも」
そして、当時の私が優羅のことをどれだけ好きだったのかも。
「そう……よかったね」
優しく破顔した母は、それから思い出したように私の頭を撫でる。優しくて、愛おしむような手つきだった。
「お母さんは、優羅がどこにいるか知らない?」
「知ってたらもっと早く伝えてたよー、もう、どこにいるんだか」
やるせなさそうに笑み、肩をすくめる。それを見て、私はあることを小さく決意した。
「私、明日小学校行く」
母の目を見て伝える。
「あらあらまあまあ行動が早いこと。……見つかるといいね、行ってきなさい」
ぱちぱちと瞼を下げながら、それでも了承してくれる母。にこりと微笑んで頷いた。
頼れる母がいてよかった。そう思う反面、虐待に悩む彼がとてもいたたまれなくて胸が渦巻いた。
そした迎えた翌日。
近場ということで歩いて小学校へ向かう。
なんだか小学生に戻ったような気分だ。昔を思い出し懐かしみながら人気のない場所へと歩いていく。
その時だった。
前方から声が聞こえた。
「クソ……ぁぁあああ!」
透き通った声の切実な叫びの響きに、優羅だ、と唐突に思った。
「っ、優羅? 優羅なんでしょ?」
気がついたときには口をついて出ていた言葉に相手が面食らっているのが遠目でもわかる。
「え、あ、あぁ……そうだけど……心花ちゃん、だよね?」
「そ、そう!」
覚えていてくれた、という嬉しさで心が弾む。
こんなに調子が良くて良いのだろうか。昨日やっと彼のことがわかったというのにもう会えてしまった。どこかでツケが回ってきそうだ。とりあえず今はこの幸せを味わうことにする。
彼がこちらへ近づいて来た。私も近づく。
「久しぶり。元気だった?」
夢と同じ優しい笑みに胸が高鳴る。
「うん。元気だよ。優羅は?」
そう尋ねると、少し困った顔をされた。虐待のことを気にしているのだろうか。私が告発してしまったし、気にすることじゃないのに、と思う。でも、つつかれてほしくないのかもしれない。
私はそれ以上その話題を続けることをやめた。
「どこの高校行ってるの?」
代わりにそう尋ねる。
「すぐそこの花柳高校。今日は部活だけど」
少し迷う素振りを見せ、それでも答えてくれた。
「そうなんだ。私、波高」
「そこ偏差値高くない? すごいね」
褒められて顔が熱くなる。そんなことない、と否定しながらも口元がだらしなく緩んだ。
「じゃあ、僕もう部活行くね。またね」
「あ、うん、また!」
短い時間でも話せて幸せだった。大きく手を振り、精一杯の笑顔を浮かべる。
優羅も返してくれた。
「ふふふ」
にやけが止まらない。いろいろと思うところはあるが、それでも今は彼に会えたことが嬉しい。
軽い足取りで家路についた。
*
まさか彼女に会うなんて。
夢にも思っていなかった。
今にも舞い上がってしまいそうだ。
彼女は会わない間にどんどん綺麗になっている。
——優羅はどうだ?
散々母を苦手に思っておいてなにも行動しない母の言いなり。
こんなやつと彼女など全く違う。
再び気分が下がっていく。
やはり優羅は全部駄目なのだ。
このあとの部活にはほとんど力が入らなかった。
*
それから度々優羅と会うようになった。
会えるのは大体朝か放課後だ。休みの日は予定があるというので会えていない。虐待に関係があるのかもしれないのであまり踏み込んではいないが、いつか話してくれるときが来るのかなぁと思っている。
だが、彼も私のことを受け入れてくれているみたいで、私の胸はいつもどきどきと忙しい。
りるちに別れを告げ、早々に彼の元へ行く。
いつもなんとなくで待ち合わせしているのは花柳公園だ。狭くて人があまり来ないのでかなりうってつけの場になっている。
歩いて向かうと、そこにはもう既に彼がいた。三人くらい座れるベンチに座っている。
空いたスペースに腰掛ける。彼が私に気づき、ちらっとこちらを覗いたことがわかる。
彼と過ごす時間は話したり話さなかったりだ。沈黙も心地よいので私はあまり気にしていない。
「ね、この問題わかる?」
「んと、これは——」
彼に解き方を教えてもらったりもしている。
そのとき、ズキ、と頭が痛んだ。
「——っ」
思わず顔が歪む。
「……心花ちゃん? 大丈夫?」
「ああ……ごめん、多分偏頭痛。最近酷くてさ」
「……そっか。お大事にしてね」
「ふふ、ありがとう」
優羅に心配の言葉をもらい、なんだか少し痛みが薄らいだ。
彼がなにか言いたそうにこちらを見ている。
「ん、どしたの?」
「ああ……いや、なんでもない」
そう言って彼はふわりと微笑んだ。その切ない笑みに不覚にもときめいてしまう。
「じゃ、ばいばい」
「うん、またね」
一緒に過ごして二時間くらい経ったら帰る。それがもう暗黙の了解のようなものになっていた。
先程の頭痛がまたもや顔を出し、帰るときに少しふらっとしてしまった。
「っ、心花ちゃん!」
「ぅ……っ、あっ、ごめん! ありがと……」
慌てて抱きしめられ、恥ずかしさと申し訳なさが交差する。
「ごめん、またね」
羞恥心に殺されそうになりながらも別れを告げた。
「いや……心配だから送らせて」
「えっ!? さすがに悪いよ」
突然の胸きゅんイベントにたじろぐ。顔から湯気が出そうだ。
「いや、倒れちゃ駄目だから送るよ。ほら、手」
「え!?」
有無を言わせないその雰囲気と差し出された手のひらに胸が騒ぐ。
今日の優羅、変だ。積極的すぎて心がもたない。
「ね、手」
「……っ」
どうにでもなってしまえ!
そんなふうに心の中で叫んだあと、手汗を拭いて手を乗せた。包み込むような、それでいて骨ばっていて硬い手が触れる。
どんどん彼のことを好きになっていく。
もう抑えられない。
「ねぇ、優羅」
「ん? どした」
そうやって尋ねるときに首を傾げる癖も、恥ずかしいと頭をかく癖も、嬉しいと指先を弄るのも、全部、全部大好きで。
心臓がうるさい。
顔が熱い。
好きで堪らない。
「っ、優羅が、好きです」
ついに言葉が零れた。恥ずかしくて目を合わせられない。俯いて返事を待つ。
「え、と」
困らせてしまっただろうか。本当に、なにをしているのだろう、私は。
「僕も、心花ちゃんが好きです」
「……え」
瞬時に顔を上げる。
「ほ、ほんと!?」
照れたような、困ったような、嬉しいような顔をした優羅。
「本当だよ。好き」
優羅が滲む。涙だと気がついたのは優羅が拭ってくれたときだった。
「え、えっ、泣かないで」
不器用そうに親指の腹で優しく拭われて、更に涙がとめどなく溢れた。
「ごめんっ、でも、ありがとう……」
そう言うと優羅は私を抱き寄せてくれる。私は遠慮なしにしがみついた。
人生で一番幸せだと、そう思った。
「ただいまー!」
「おかえり、なんか機嫌いいね」
開口一番に母に言われる。
「わかるー?」
「わかるよー。なになに、なんかあったの?」
付き合って家の近くまで送って貰えた。
そんなことを言いそうになり、慌てて口を塞ぐ。せっかくだし、三ヶ月後に迫る母の誕生日に言いたい。
「ふふ、なーいしょ!」
言いながら先程まで握られていた手を眺める。
温かくて大きい手だったな。
そう思ってまたにやにやとした汚い笑みが顔中に広がっていることがわかった。
「もー、また教えてよー?」
「もちろん!」
首を縦に振る。その時——
「っ——……」
割れるような鈍痛が私を襲った。
立っていられなくてその場にしゃがみこむ。
「ぅ……」
「ちょっ、心花! 大丈夫!? しっかり!!」
頭の上で母の焦る声がする。答える気力もなくて呻いた。
「う、いたい……痛いよぉ……」
私は意識を保っていられなくて、その場にそっと倒れた。
*
彼女に告白されて、僕も好きだなんて言ってしまった。
ふわふわとした高揚に包まれていた優羅は、不意に冷静になってそう思った。じわじわと後悔が染み込んでくる。
もしも母にバレたら。
——殺されてしまうんじゃないか?
最悪な考えに胃がもたれる。
でも、今だけは、この幸福感に溺れてもいいんじゃないか。
写真越しでしか会えなかった彼女に会えて、更に告白されて、付き合えることになって。
こんなに幸せなこと、ないだろう。
強ばっていた顔の筋肉が緩んでいく。
やっぱり、今だけは、彼女のことをもっと好きになってもいいだろう?
*
目が覚めた。
真っ白な天井が目に眩しい。ここはどこだろう。
「心花!?」
隣から叫ぶような母の声が聞こえた。
「……お母さん?」
か弱い声が喉の奥から零れる。
母の顔色が悪い。真っ青で、今にも倒れてしまいそうだ。
「あんた……! 今先生呼んでくるからね、待ってね」
震えた声を発する母は、安堵し、泣きそうな顔に変わる。
なんでこうなってしまったんだろう。
一人残され、ぼうっと考える。
確か、玄関先で倒れてしまったんだっけ。ということはここは病院か。
そこまで思い出して優羅の存在を忘れていたことに気がついた。今、何時だろう。もしも放課後の時間になっていたら、彼は一人で寂しく待っていることになってしまう。そこで初めて彼の連絡先を知らないことに気づいた。これはなかなかに痛い。
「はぁ」
ため息をついたとき、母が医師と共に病室へやってきた。
「これから少し検査があります。移動しましょう、車椅子に乗ってください」
「あ……はい」
車椅子なんて人生で初めてだ。ただの頭痛で車椅子など馬鹿げていないか?
そう思ったが口に出さず、ありがたく車椅子に座る。楽ではあるし、わざわざ言うことでは無い。
二時間ほどで検査が終わった。結果は次の日にわかるそうだ。
帰宅とはなったが、なにかあったらすぐに病院へ来るように言われた。
「……お母さん、今日って何日?」
「……今日? えーと、二十五日」
「そっか。ありがと」
昨日から一日経ったのか。
「今、何時?」
「午前十時四十分ちょい前」
「わかった。ありがと」
ということはまだ授業を受けている時間だ。これから帰って会いに行けば会えるかもしれない。
「お母さん、今日帰ったらさ、優羅に——」
「今日はやめときな」
「そ……だよねー」
窶れたような顔できっぱり言われて逆らえるわけがない。仕方がないので応じることにした。
それから私たちが帰れたのは三十分後だった。
母は倒れたことに関して私になにも言わないし聞いてこない。私も言ってはいけないような気がして、何事もなくその日が終わった。一つ気がかりだったのは、やはり優羅のことだった。
翌日、早朝から病院に呼び出された。
病院へ着くと、かなり空いていた。すぐに呼ばれて結果を言い渡される。
「心花さん、落ち着いて聞いてくださいね」
「え」
思わず息を呑む。そんな言葉を言われるなんて、重たい病気だったのだろうか。途端に緊張で身が固まった。
隣では、母が深く俯いている。
「血液検査とMRI検査、その他諸々の結果から、心花さんは——夢脳病であることが、わかりました」
重々しく放たれた言葉に肩透かしを食らったような気分になった。聞いたこともない病名だ。
「夢について、最近よく考えていましたか?」
「え、あぁ……はい」
「やはりそうですか……。夢脳病は、夢のことを強く考え、ストレスが蓄積されることで発症する病です」
「はぁ……」
夢のことを考えただけで?と疑問に思わずにはいられない。納得がいなかい。
「夢脳病は、なかなか見られない病気です。なので治療法が我々にもわからないのです。それに加え——」
医師が言いずらそうに躊躇った。それでも医師ということを思い出したのか、背を伸ばし、悲痛な面持ちで告げた。
「——心花さんの場合は、もう、手遅れです」
「……え?」
医師の言葉を咀嚼して飲み込むまでに時間がだいぶかかった。手遅れ、という言葉が脳内で響き、身体を強ばらせる。冷や汗が噴き出す。段々と全身が震え出す。なんだか気持ちが悪くなってくる。
隣を見やると、母の顔が土気色になっていた。ボーッとしていて目の焦点が合っていない。それを見て私は急に冷静になった。
「それは、もう、治らないんですか」
「……残念ですが、今の我々の力では……。進行を遅らせる薬は処方しますので、朝昼晩飲んでください。なかなか効かなくなってきたら、入院になります」
「……そうですか。わかりました。もって何ヶ月ですか」
淡々とした医師の説明にこれまた淡々と応じる。
「そうですね。二ヶ月程度でしょうか。ですが、希望は——」
まだ真面目そうに医師が話していたが、耳の右から左へ抜けていった。二ヶ月って、母の誕生日は一緒に過ごせないのか?
そう思ったらなんだか苦しくなって視界が揺らいだ。清潔に保たれていたであろう真っ白なテーブルに雫が落ちる。
絶望ってこういうことを言うのか。
自分の未来が絶たれたショックと、どうでもいいことを考えている呆れで感情がぐちゃぐちゃだ。半ば泣き笑いになる。
隣で死にそうになっていた母も、今は堰を切ったように泣き出している。
医師がなにか言っている。聞く気力も抜け落ちて、私たちはずっと泣いていた。
*
「ただいま、母さん」
興奮冷めやらぬ声で、家全体まで聞こえるよう呼びかけた。
「………おい、優羅!」
リビングから母の怒声が飛んでくる。なにかやらかしてしまったか?
「な、なんですか……?」
敬語なんてみっともねぇな、と自身を鼻で笑った。もちろん母にバレないように。
「お前、なんで帰りが遅くなったんだ」
「え……と」
別に遅れてないじゃないか。決まった時間もなにもないのに。
反論だけが胸の内側に募る。
「学校で先生に手伝い任されて。それでちょっと手こずって……」
「嘘つくな!」
目を見開く。なぜわかったんだ。
「お前女といるだろ! 知ってんだよ! お前を育てるために私はいつも働いてんのに! ふざけんなよ!」
優羅に答える隙を与えぬように腹に拳が襲ってくる。
「ごめっ、ごめんなさい!」
「謝るってことは認めるってことだよなぁ!? ふざけんのも大概にしろよ!」
脚に、腕に、腹に、顔に、背に、母の手と足が飛んでくる。
ふざけてんのはそっちだろ。そっちは父さん捨てて彼氏と遊び呆けているのに僕は駄目なのか?
不満ばかりが溜まっていく。痛みはもう慣れた。
やがて母の動きが止まり、呟きが聞こえてきた。
「こいつのせいで彼氏ともなかなかうまくいかない。それに女と遊んでばっか、それに私のこと、きっと内心馬鹿にしてるんだ……」
母が泣いている、と優羅が気づいたのは、彼女が蹲ったときだ。
「母さん」
仕方なくあやすことにする。
「ごめん、本当にそんなつもりなかったんだ。向こうから勝手に言い寄られて……」
心花ちゃんごめんなさい、と心の中で謝る。自分の口から彼女を悪く言うことを言ってしまうことに嫌悪感しかない。
「いいよ。もう終わらせるから」
「え? ……っ!」
母の手が優羅の首へ伸びる。そのまま優羅の首を掴み、力を込めていった。
「う、かあさ、くるし——」
「こいつのせいで全部上手くいかない。じゃあ消しちゃえばいいんだ!」
母が本当に楽しそうに言う。その狂気が優羅を蝕む。
息が出来ない。
苦しい。
——死んじゃう。
心花を残して死ねるわけがない。優羅は母の腹を蹴り、その呪いから逃れようとした。初めての反抗だった。
「ぐ、ぁあ! お前! 許さねえ! 死んじまえ!!」
怒りの言葉が胸に突き刺さる。母がもう一度優羅を殺そうとこちらへ向かってくる。
「じゃあ言わせてもらうけどさ」
冷たい言葉が溢れ出す。母の動きが止まった。
「なんで僕を産んだの? こんなに苦しい思いして生きるなら生まれて来たくなかったよ」
言いながら涙が零れる。拭わず、母をじっと見据えた。
「……産まないと殺すって言われたからよ! だから今まであんたを嫌々育ててきた! なにか文句でもあるわけ? あるなら勝手に死んでろよ!」
質問に答えてしまうあたり、母に愛情は本当にないのだろう。察してしまった優羅は家を飛び出した。
もういいや。死のう。
心花のことなど頭になかった。優羅はただただ苦しくて死にたかったのだ。
公園に着いて一夜を明かす。
今日、心花が来なかったら死のう。朝が来て思った。
心花はその日、来なかった。
*
なんのために生きてるんだろう。どうせすぐ消える命なのに。
りるちが執拗に私の顔の前で手を振っている。
「おーい、死んだ?」
うん、死ぬよこれから。
皮肉が漏れそうになる。
「生きとるわい」
普段と変わらないツッコミをして笑う。りるちには空元気なことがバレているだろうな。
授業中、苦しくて苦しくてトイレに駆け込み吐いた。これも症状なのだろうか。そう思ったらまた気持ち悪くて吐いた。だがもう胃液しか残っていなくて、喉と口の中がヒリヒリした。
……死にてえなあ。
もう死んじゃおっかな。
優羅が自殺未遂をしたことは、テレビで知った。学校から帰ってきてすぐ、母が私にテレビを見ろと言ったのだ。
首吊り自殺未遂らしい。公園のジャングルジムで、ジャングルジムに首を服の切れ端で括り付けられていたのを発見されたらしかった。
もちろん名前や顔は出ていないが、公園がいつも話している公園だったので確信した。
——一番初めに浮かんだのは、羨ましいという感情だった。
思ってから激しい後悔に見舞われる。
「虐待、悪化しちゃったのかな」
母が難しそうに言う。母は私の病気がわかってから覇気が全くないので表情を変えてくれるだけでも嬉しかった。
「私病院行ってくる」
「えっ、送ろっか?」
「大丈夫」
返事も待たず飛び出した。
彼がいたのは、市の総合病院だった。私もお世話になった病院だ。
「優羅!」
病室に入り、名を叫ぶ。
「……心花ちゃん?」
控えめな声が聞こえてきた。
「優羅っ」
私は彼に抱きついた。そしてなにかが切れたように泣いた。
「優羅っ、大丈夫?」
「どうってことないよ。心花ちゃんはどしたの」
私は泣きながら全部話した。病気のことも、優羅を忘れてしまったことも、なにもかも。
優羅は驚きながらもしっかり聞いてくれた。余命を話したときはかなり顔を歪めたが、それでも穏やかに聞いてくれた。彼も話してくれる。かなり悲惨で、聞いているだけで胸が痛くなった。
「僕、ずっと虐待受けてて。小二のとき、助けてくれたの嬉しかったなぁ。なにも言わずにいなくなってごめんね。それから遠くには行ってないけど引っ越して、暫くは外に出るなって言われて、一年は出なかったかな。それから……」
ここで彼は衝撃的な一言を放った。
「僕、夢脳病になってたんだ」
「えっ」
「ああ、僕の場合は軽いものだよ。頭痛と腹痛程度。……心花ちゃんが夢に出てきたんだ」
「わ、私も! 私も優羅が夢に出てきたの」
どんどん繋がっていく。
「それで、心花ちゃんのこともっと好きになって」
「私もそうだよ。私はこんなんになっちゃったけど……」
「ふふ、大丈夫だよ。僕も、いるから」
実は家出してきたんだ、と言って顔が暗くなった。そうだ、彼は自殺未遂をしたのだ。
「……殺されかけちゃってさ」
私の思想を見抜いたのか、自殺未遂前夜のことを教えてくれた。
「もういいやーって。心花ちゃんいるから、生きるのもありかも?って、助けられて思ってるよ」
そんな雰囲気じゃないのに少し照れた。
「私、死ぬまでならずっと優羅と一緒にいるから。だから、死なないで」
先程までの死にたい気持ちも消えて彼に言った。彼のことを知って改心し、せっかく二ヶ月も生きていられるなら彼に尽くしたいと思ったのだ。
「心花ちゃんがいてくれるなんて心強いなぁ。……あ、じゃあ、ちょっとお願いしてもいい?」
「もちろん」
「この病室に母さんが来たら、追い返して欲しいんだ」
少々意外なお願いに目を見開く。だがなにも触れずにわかった、とだけ返事をした。
日付は変わり、高校へ行く日。
母には高校は行かなくてもいいと言われたが、楽しいので強引に振り切り通っている。
「りるちー!」
前方にりるちを発見した。体力がある限り走り、りるちに抱きつく。
「ぎゃぁあ! 急になにすんの!」
りるちが体制を崩す。そしていつもの如く小言を言った。
「ふふふふ」
笑って誤魔化し、腕に力を更に込めた。
「きついきつい吐く!」
「ふっふー」
その後もおぶったりおぶられたりと楽しかった。
だが、楽しいものにはやはり代償があって、午後の授業は頭痛と腹痛で力が入らなかった。
放課後は優羅と過ごす。病院に着き、既に顔見知りとなった看護師さんと一言二言話してから優羅のもとへ向かった。
「ゆーら」
「心花ちゃん」
扉からひょっこりと顔を出し、優羅の名前を呼んだ。
「もうすぐ退院でしょ? やっとだね」
「そうだね、いろいろ検査したりしたし、結構経ったね」
からりと笑う彼の顔は明るかった。自殺を企んだ人には見えない。
自殺を図ったあと、どうしてこうなったのかを本人、教師や友達、親に警察が訊き回ったそうだ。お陰でもう辛いことはかなり減り、よく眠れるようにもなったらしい。母とは絶縁状態らしかった。
私は刻一刻と病が身体を蝕んでいる。明るくなっていく優羅と暗くなっていく私、という対比が悔しくて辛くて唇を噛んだ。
「心花ちゃんは今元気そう? 大丈夫?」
彼は会うと必ずそう訊く。心配で仕方がないという顔に微笑みを零して答えた。
「全然平気だよ。まあ、この病気ほんとに先が読めないから今から倒れるとかあるだろうけどね」
少し意地悪に言ったら、優羅は泣きそうになっていた。
「そんなこと言わないで」
「ふふ」
そのとき——。
「っ!」
急に身体が段々痛くなって来た。
「いてて……」
フラグ立ったかな、とかどうでもいいことを考えて、優羅の病室を出ようとする。
「ちょっと待って心花ちゃん、今体調悪くなってんじゃないの?」
「や……へい、き」
彼の手を振り切って病室から飛び出す。彼に弱い姿を見せたくなかった。
「ぁあぁ……痛い、痛い痛い、痛いよぉ」
泣きそうなほど痛くて弱い声が漏れる。調子に乗ったことが効いてきたみたいだった。
身体が恐ろしく痛い。
手が、足が、頭が、腹が、背が、腰が、目が、口が、喉が、肺が、心臓が、
痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
なんで。
なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで
——なんで私が。
ついに、考えないようにしていたことを考えてしまった。手を握り締め、歯を食いしばる。
病室から優羅が出てくる。すぐに私を見つけて、身体をそっと持ち上げた。懸命になにか話している。
聞き取れなくて、代わりにむせた。鉄の匂いがしたので、吐血でもしてしまったのだろう。
「ぅ、あ、はぁ……は、」
意識が保っていられない。私はその場に伏した。
目が覚めたとき、私は入院していた。
「心花!」
「心花ちゃん!」
母と優羅のぐちゃぐちゃな顔が視界いっぱいに広がる。途端に安堵したような顔に変わった。
「よかった……心花ちゃん……」
「送っていけばよかったね……ごめんね、痛い思いさせて……」
「私は大丈夫だよ。死ぬときの予行練習、みたいな?」
笑ってもらうために言ったが、二人の目は真剣だった。
「心花が死んだら私、どうしたら……」
母が顔を覆い、泣き出した。胸が締め付けられて苦しい。
父は早くに亡くなっている。
死にたくない。
強く願ってしまった。
優羅は、喪失感を顔全体に浮かべて唇を噛み締めていた。
母が帰って医者にもいろいろ見てもらったりしたあと、優羅と病室で二人きりになった。
「ねえ優羅」
「なーに」
「退院祝いあげるよ」
「え、大丈夫だよ、申し訳ないし」
彼はそうやってすぐ謙遜するのだ。私は知っている。
「やだ、あげる、何欲しい?」
「んー……」
こうなると私は引かない。優羅もそれを知っているので、素直に考え始めた。そして名案を思いついたと言って私に告げた。
「心花ちゃんとぎゅーがしたい」
「え、そんなのでいいの?」
毎日のように優羅は私のことを抱きしめてくれている。なのに、いいのか?
「いいの。じゃあ、いつもより長め、とか」
「……わかった」
ベッドから身を起こし、両手を広げる。優羅も両手を広げて、割れ物を扱うかのように優しく抱きしめた。
「優羅」
「ん?」
「だいすき」
優羅に抱きしめられるといつも安心して心がぽかぽかする。
彼の身体が熱い。照れているのかもともとなのかは分からなかった。
「僕も好きだよ」
「ほんと?」
「本当。大好きだよ」
そう言って優羅は私の頭に唇を落とした。
優羅は今までで一度も唇にキスをしてくれたことがない。いつも頭だ。
優羅が私を強く抱きしめる。私も返した。
幸せだった。すごく。
*
彼女と抱きしめあった次の日病院に行くと、彼女が浅い呼吸を繰り返していた。
「っ、心花ちゃん!」
「……ゆうら?」
心臓が凍ったかと思った。強ばる指を必死で動かして心花の母親を呼ぶ。今日に限っていなかったのだ。
「心花ちゃんしっかりして、お願い、死なないで……」
視界が滲む。嗚咽が漏れる。ベッドに縋りついて彼女の名を叫ぶ。
「優羅、どしたの、はぁ……」
「喋らなくていいから……お願い、心花ちゃん……っ!」
半ば叫んだ。そして医師を呼んだ。
到着した医師は厳しい顔をして「これはもう……手遅れです……申し訳ない……」と言った。優羅は医師に殴り掛かる勢いで胸倉を掴んだ。
なにか言ってやろうと思ったが、言葉の前に涙が溢れて止まらなく、跪いた。
「ぁぁああああああぁぁ!!」
喉の奥から声が零れ出す。
「ゆうら」
彼女のか細い声がした。すぐに向かう。
「うわぁ、酷い顔……そんなに泣かないでよ……」
彼女の細い手が優羅の顔に添えられる。
掠れた声で笑う彼女を堪らず抱き締めた。
「ゆうらー?」
「……なーに」
「だーいすき」
その言葉に優羅はぼろぼろと涙を落とした。
「僕も……大好きだよ」
そう言って優羅は心花の唇にキスをした。
心花が目を見開く。そして、花が咲いたようにふわりと笑った。
そして彼女は目を閉じる。
優羅の声も聞こえないかのように。
そして眠るように。
彼女は、亡くなった。
*
あれから彼女の葬儀やらなにやらはすぐに執り行われた。優羅はそこに行けなかった。
一人暮らしをしていることも拍車をかけて、優羅は家に引きこもるようになった。
泣いては眠ってを繰り返し、食事もろくにしなかった。
そんなときだ。
まるで優羅がこうなることを見越していたかのように、夢を見た。
「あーあー、聞こえてる? 聞こえてるか、夢だし」
笑いながら言う彼女に、優羅は一瞬混乱し、すぐに夢だと気づいた。また泣きそうになって唇を噛む。痛くなかった。
「えーと、まずは。勝手に死んじゃってごめんね。実は天界から優羅のことめちゃくちゃ見てました。あっ、さすがにトイレとかお風呂は見てないよ!?」
思わず笑みが零れる。赤面する心花が可愛くて仕方がない。
「えーと、それで。今日は最後にメッセージを遺しに来ました! いぇーい! ぱちぱちー」
自分で効果音をつける心花にまたもや笑ってしまう。
「まず。大好きです。死んじゃっても優しくてかっこいい優羅のこと忘れられなくて困ってます! 優羅がかっこいいせいです!」
「ごめんごめん」
「そして。ぼろぼろだった私を助けてくれてほんとに感謝してる。小二までのときも、いっぱい遊んでくれてありがとう。せっかく付き合えたのに死んでほんっとにごめんなさい。でも私は死んでも優羅のこと想ってる!」
泣きながら訴えてくる彼女に、自然と優羅まで涙していた。
「大好き! 最期ちゅってしてくれたのもう好き! あのタイミングで死にたくなかった! あの世で一番幸せなのは私だ!!」
「僕も大好きだよ、僕こそ世界一幸せだ……!」
二人とも泣きまくって目元が赤くなる。でも笑顔は絶やさなかった。
「あとお願いがあって。私の友達にいろいろ伝えて欲しいんだ。私、手紙とか書けないから。それから、私のお母さんに会ってほしい。誕プレとかあるからさ。それと、あともう一つ。優羅、優羅のお母さんとちゃんと話してみてほしいんだ。優羅なら出来る。頑張れるよ!」
その言葉に驚いて口を開ける。まさか優羅のことを頼むとは。
「じゃあまたね! また必ず会おう!」
「……うん、またね、心花ちゃん!」
笑顔で別れた。
桃色の花びらが視界を塞ぎ、心花が消える。またもや桃色の花びらが視界を覆い、優羅は目を覚ました。
目に涙が溜まっている。布団にも染み込んでいた。
彼女をまた鮮明に思い出し、だくだくと涙が零れてくる。
すぐに拭い、心花の家を訪ねようと準備を進めた。
なかなか動いていなかったので身体中が重い。
日の下を歩くこともかなりしんどかった。だが、心花のためを想えばなんともなかった。
「……優羅くん」
「……ご無沙汰してます。葬儀にも行かず、すみませんでした」
チャイムを鳴らすと、すぐに出てくれて家に上がらせてもらった。彼女の母の窶れた顔が痛々しい。
「今日は、心花さんに言われてここに来ました。誕生日プレゼントとかがあるみたいです」
「……やっぱりなにかあったんだね」
懐かしそうに彼女が微笑んだ。すぐに痛々しい笑顔に変わる。
「ちなみにだけど、あなたたちは付き合ってるんでしょ?」
「あれ、心花ちゃん言ってなかったんですか!?」
思わず大声が出る。
「そうなんだよ、いつも優羅くんのことよく話してくれてたのに付き合ったのは言わなくて!」
少し怒りっぽい声に変わった。空元気なのが見てすぐわかる。
「彼女のことだから、きっとこれが誕生日プレゼントなんだろうな」
そう言ったら心花の母は、驚いたあとすぐ泣き出した。我慢の糸が切れてしまったのだろう。
ほら、心花ちゃん、見て。心花ちゃんの周りにこんなに泣いてくれて、僕がいることを喜んでくれる人がいたんだ。今すごく嬉しいよ。
心の中で心花に話しかける。優羅もこっそり一緒に泣いた。
勢いに乗って、優羅の実母にも会いに行くことにする。
今となっては懐かしい道を歩き、見慣れた家のチャイムを押す。躊躇ってしまったが、夢の中の心花の言葉を思い出し、押した。
数分したあと静かに扉が開く。
「……優羅」
「……母さん」
気まずかったが、気にせず家に入った。
「元気だった?」
「お陰様でね」
母は少し苛立っているのか、腕と脚を組み、更に刺々しい声だった。そして母は衝撃的な一言を放つ。
「あんたの彼女が来たわよ」
「っ、え?」
眉を顰めながら母が言う。呆けた声が漏れた。
「えらっそうに説教してきたわ。なんなのよあいつ」
「そっか……僕の彼女がごめんね」
心臓がきゅうっと締め付けられた。影でこんなことをしているなんて知らなかった。また泣きそうになる。
「まあ……私もいろいろやりすぎたわ。ごめんなさい」
「え」
つっけんどんな言い方だが、しっかりと謝られた。驚きが隠せなくて声が出る。
「あんたの彼女にやりすぎって、それじゃあ犯罪って言われたのよ。確かにやりすぎたし。昔はちゃんと愛情注げてたはずなのにいつの間にかこんなんになって。申し訳ないとは思ってるわよ」
「……っ、充分だよ。ごめんね、ありがとう」
いつの間にか涙が零れていた。母が面倒そうにそれを親指で拭う。
「もー、何してんのよ、みっともないわね」
昔の母に戻ったような気がした。更に涙が溢れ出す。
一人暮らしをしていたアパートは、その日のうちに出た。
「……誰だよあんた」
「優羅です」
莉瑠という女性が不機嫌そうに、それでいて泣きそうにこちらを見る。心花が会ってくれと言っていた女性だ。
ここは彼女とよく話していた公園だ。実家から出てきてすぐに向かったら、そこに莉瑠がいた。
「なに、ここの彼氏?」
この人は心花のことを“ここ”と呼ぶのか。親密そうで羨ましい、と思ったが、その彼女ももういないのだ。彼女の悲しみは計り知れなかった。
「……そうです。心花ちゃんに言われて来ました。話して欲しい、と」
「あっそ。あの子、結局夢の中のやつと付き合えたんだ」
「そうです。心花ちゃんが僕のこと見つけてくれて」
そう言うと莉瑠は下を向く。悔しそうに、苦しそうに全てを吐き出す勢いで呟き始める。
「……めでたいのに、なんで当の本人はいないんだよ。ねえ、あんたなんか知ってんでしょ。なんか知ってんでしょ!」
堰を切ったように彼女が優羅の胸倉を掴んだ。
切実そうに優羅を見つめる莉瑠の瞳には、大粒の涙が溢れんばかりにのっていた。
「……心花ちゃんは、病気でした」
そう言うと彼女は息を呑んだ。ついに涙が頬に垂れる。
「病院に行ったらもう手遅れで。それで、そのまま……」
唇を噛む。やるせなさでどうにかなりそうだった。
「じゃあなんで私には言ってくれなかったの!? 私のこと信用出来ないから!? ……明日はここに会えるはずって、ずっと待ってたのに……待ってたのに!!」
悲痛な叫びが胸を穿つ。優羅も共に泣きそうになった。
「……彼女のことだから、心配かけたくなかったんだと思います。でも、あなたのこと、よく僕に話してくれましたよ」
「……っ、うあぁああぁあ」
箍が外れたように叫び泣き出した。膝から崩れ落ちて泣き出す。優羅も隣で泣いていた。
*
誰かが空から覗いている。
「あーら、みんな泣いちゃって。……私のこと、そんなに大事に想っててくれてたの? なら、言ってくれたらよかったのに、もう、ツンデレりるち野郎」
心花だった。人でなくなった心花は彼らを見回し、自身も涙を零す。
「大好きだよ」
ほろほろと心花の身体が崩れ出す。成仏の時間だ。
もう後悔はなかった。真由歩には、私が死んだことは言わなくていい。
私のこと、忘れないでね。
そんな願望を口に出して、心花は消えた。
*
「心花ちゃん」
この声が聞こえますか。
僕は君のこと、きっとずっと忘れられないです。
僕はこれから、色んな困難に当たると思います。
でも、君のことを思い出したら、大丈夫な気がしています。
「心花ちゃん……」
今までずっとありがとう。
僕はずっと、心花ちゃんが大好きです。
「心花ちゃん」
優しく呼ばれて心が浮き立つ。鼓動が早まる。頬が火照る。名前を呼ばれるだけで嬉しくて、彼が愛おしく思えてくる。
「はいっ」
彼が私の手をとる。
「辛いときがあったら、僕を思い出して。僕は心花ちゃんの味方だよ」
その言葉になぜだか違和感を覚える。それと同時に心がぽかぽかとして、涙が零れる。目の淵から頬から顎へ。温かく懐かしい涙。意図せず流れた涙に少々驚いたが、またもや違和感にすり替わる。
「あなた、どこかで——」
言いかけて口を噤んだ。彼が消えかけていたから。
「え、ちょっ、待って!」
呼び掛けも虚しく、彼の身体は透き通ってゆく。急展開過ぎてついていけない。
「心花ちゃん」
「な、なに……?」
彼が私の腑抜けた顔を見て少し笑う。小馬鹿にするような笑い方じゃなくて、安心したような優しい笑みだった。
「————」
「っ、え」
囁かれた言葉に咄嗟に身動きが取れなくなった。そうしている間にも、彼が消えていく。不思議と別れは辛くなかった。
「待って待って、名前だけでも——」
「ごめんね」
困ったように笑って、彼が消えた。
ぱちん、と音がして、花びらが風で撒き上がり、消えた。もう一度、ぱちん、という音が聞こえた。花びらが舞う。視界が桃色に染まる——。
*
「……心花ちゃん」
真っ暗な空間で誰かが呟いている。
「心花ちゃん」
誰か——彼は、彼女の名を祈るように呼んでいる。
「心花ちゃん……」
苦しみの滲む声が響いている。
ずっと。
ずっと。
*
私を起こしたのは、酷く煩わしい目覚まし時計の音だった。
「ん……」
細く目を開けると陽光が目をさした。
さっきの男の子は夢だったのか。夢の中の私は彼にかなり恋していたような気がするのでかなり残念だ。なんだか朦朧としている今も彼を求めている自分がいる気がする。
ゆっくり起き上がる。目覚まし時計も止めておいた。そしてそっと手を見つめた。彼に手をとられたときの温もりが蘇ったような気がする。きゅ、と手を握りしめて階下へ向かった。
「あら、おはよう心花」
「おはよー」
母との会話もそこそこに洗面台を目指した。
ささっと制服に着替えて髪を梳かす。大きく広がった癖毛をヘアオイルを使って整えた。そして高い位置で結う。
「よし」
次は顔を洗う。最近ニキビが酷いので保湿も忘れずやった。ついでに日焼け止めも塗る。
いつもはかるーくメイクをするが、肌荒れがすごいのでやらないことにする。
鏡で変かどうかチェックし、キッチンへ向かった。
炊きたてのお米を茶碗に盛り、冷蔵庫に入っていた納豆とキムチを取り出す。適量をお米に乗せた。母が作ってくれていた味噌汁もお椀に入れ、コップにお茶も注ぐ。
ガッと喰らい、歯を磨いて保湿リップだけ塗った。鞄を引っ掴んで家を出る。
「いてきま!」
「はーい、いってらっしゃい」
「おい、りるち」
「なに、ここ」
学校に着いた。自分の机に鞄を置き、すぐに大好きな親友の莉瑠——私はりるちと呼んでいる——のもとへ向かい、荒々しく話しかけた。ちなみにりるちには『ここ』と呼ばれている。
「非常事態だ」
「なーにさそんなに勿体ぶって」
「好きな人出来たかもしれん」
「……は?」
ようやくりるちが目線をスマホから私に向けた。
「ガチで言ってんの」
本当に驚いたような瞳だった。透き通ったその目が私を捉えて離さない。
「ガチでーす」
「え、誰? 山西じゃないっしょ?」
「あいつとは別れたやん、あいつまじやばいし」
山西とは、私が以前まで付き合っていた人だ。束縛が激しくてすぐに別れてしまったが。
「誰、誰誰」
「ふふふ、なんと!」
「はよ」
「夢に出てきた人!」
「……はぁ?」
りるちの好奇心できらきらしていた目が一瞬にして冷めきった。なんて冷ややかなのだ。やめてくれ、いたたまれん。
「や、ほんっとにかっこよかったんよ、それにまだほんとに好きかわかってないから——」
「おめーがどんな人かよぉくわかった、よし、目ぇ覚ませ」
「話遮らないでもろて」
「いやいや夢は……少女漫画かよ」
汚物を見るような目でこちらを見てくる。だからやめてくれ。
「ま、また会えるといーね」
「そだねぇ」
りるちはこういうツンデレな部分があるから大好きなのだ。つんつんしてても必ずデレてくる。りるちって猫なのか?
*
「心花ちゃん」
彼が彼女の名前を呟く。手元にあるのは、彼女とのツーショットだ。二人とも仲良さげに、楽しそうに写っている。
「クソ……」
大切に扱われていたその写真が、彼の手によってしわくちゃになった。握り締めたのだ。
「心花ちゃん……」
喘ぐような呼吸に続いて、泣き出しそうな弱い声が聞こえた。
写真に写る彼の顔が、醜く歪んでいる。
*
目が覚める。
「ああぁ、また出てきてくれなかった……」
こんなに悔しくてもどかしくなったのは初めてだ。
これで彼が夢に出てこなくなって一週間。ついに休みになってしまった。危うく彼のことを忘れてしまいそうになる。もう一度彼を思い出してみる。
艶々の黒髪に、切れ長でガラスのような瞳。スラッとした細身の身体。色白で声が低くて優しい。すごく暖かい雰囲気の人。
思い出しただけでうっとりしてしまう。だが同時にやはり違和感を覚えてしまう。
最後に言われた言葉がどうしても思い出せないのも、夢の中で彼に覚えた既視感も、なんだか変だ。
「あんたもりるちみたくツンデレちゃんかよ……」
やるせない日々が続いて段々ムカついてきてしまった私は、この休みを利用して夢について徹底的に調べてみることにした。
「待っとけ、愛しの誰かさん!」
パパっと起き上がり、早速スマートフォンで自由に夢を見る方法、と打ち込み、検索する。
一つのサイトに行き着いた。明晰夢についてが語られているサイトだ。ちなみに明晰夢とは、夢を見ているときに、自分は今夢を見ている、夢の中にいる、と自覚しながら見る夢のこと。
自覚するだけで自由に見れるのか?と少々疑いながら読み進めていく。
正直に言うと、あまり役に立たなさそうな記事だった。今の私の状況を打開することに少しは役立ってくれそうではあるが、何かが違うなぁと感じてしまった。そんな気持ちで読んで、試してみても結果は変わらないだろう。
——だが、たった一文だけ。
すごく目を引かれる言葉を見つけた。
『夢に出てくる人は、自分が見たことのある人』
その一言に、なんだか違和感が薄まったような気がした。やはり、私は彼を知っている。
本当かどうかはわからない。でも、信じたいと思っている自分がいた。
「うし、探すどー!」
気合を入れるために雄叫びをあげる。まずは自分の卒業アルバムを見漁ることにした。
幼稚園、小学校、中学校。どれもじっくり細部まで見たが、それらしい人は見当たらなかった。
年上や年下の可能性もある。今度はパソコンを開いて中に保管されている小さい頃の写真を見ることにした。昔から色んな人と仲良くしていたので、一緒に撮った写真が残っているはずだ。
「どれどれー」
千枚以上もある写真を根気よく見ていったが、やはりいなかった。
若干の焦燥を感じながらも空腹感に気づく。調べ始めて3時間くらい経っていた。
せっかくだし、幼馴染と食事でもしながら彼のことについて調べてみようか。
自分で言うのもなんだが、なかなかの名案だと思った。すぐに連絡する。
『おひさー! 急だけど、今からご飯行かない? 久しぶりに話したいしさ!』
打ち込みながら、成人女性のような気分になっていた。こんなのまるで同窓会の連絡じゃないか。少し前まで遊び慣れた仲だったのに、途端に距離を感じて少し寂しくなる。家は近いのに互いにスケジュールが合わなくなるのも寂しさを加速させた。
彼女——真由歩は、すぐに返事をくれた。
『え、心花!? 超久しぶりじゃん! 行く行く〜! いい機会だし、他の子も誘ってプチ早め同窓会でもする?笑』
驚いた、私とほとんど同じことを思っているとは。なんだか嬉しくなる。
『いいね、そうしよ〜! ひるびよりで良き?』
『良き! 私から他の子に伝えとくね! 昼頃適当に向かう!』
私は了解です、と書かれた女の子のスタンプを送り、わくわくしながら着替え始めた。
ひるびよりは、私たちが小学生のときからある和を基調としたカフェだ。小学生はなかなか友達同士で行けなかったが、みんなの記憶に残る結構好きな店だったりする。
現在進行形で肌の上で戦争が起きているのでメイクは日焼け止めと目元、口元だけにし、髪をヘアオイルで整える。
必要最低限しか入れていない鞄を持ち、家を出た。
ひるびよりは自転車で十分もかからないところにある。
だいぶ飛ばしたつもりだったが、真由歩たちはもう着いていた。すぐに彼女たちに近寄る。
「久しぶりー! 待たせてごめん〜」
手を合わせ、謝罪の意を込める。
「待ってない待ってない! それよりほんと久しぶり、心花は変わってないねー」
真由歩がさっぱりとした口調で答える。
真由歩はというと、なかなかの変わりようだった。小学生の真面目な出で立ちは消え失せ、はっちゃけた衣服やメイクになっている。高校デビューというやつだ。
他の懐かしい面々は変わっておらず、こっそり笑ってしまった。
ひるびよりに入ると、首筋に浮かんでいた汗が引いていく。そこには昔から変わらない落ち着いた空間が拡がっていた。
席に案内され、再会の少しの気まずさを吹き飛ばすように率先して真由歩が話し出す。こういうところは変わっていなくて、心が暖かくなった。
「二、三年ぶりだよね、懐かしいなぁ」
「ねー」
みんな同調する。
「彼氏とか出来た人ー?」
盛り上げるため、私が言う。みんなの反応は頬を染めたり露骨に顔を背けたりと様々だった。
「今日はね、私がちょっと訊きたいことがあって集まってもらったんだけど。あ、わざわざありがとね」
好きな人、というか気になる人の相談なんて初めてでなんだか変に緊張してくる。
「私ね、好きな人……うん、好きな人、できたの。急に夢に出てきた人なんだけど。どこかで見たことがあって。みんなに知ってるか訊きたくて来てもらいました。完全なる私利私欲でごめん!」
恥ずかしくて一息で吐き出した。耳まで真っ赤になっている自信がある。
「いやぁ、心花に好きな人ね……」
「ここちゃん、やっと……」
なんだかほっとしたような顔をされている。何故だ。
「えっと、特徴は……」
細かく特徴を伝える。顔を忘れかけていてかなり焦ってしまった。
「……それ、多分……」
「わっ、わかるの!?」
こんなに早く情報が収穫出来てしまって良いのだろうか。だが今は一刻も早く知りたい。会いたい。話してみたい。
「いや……うん、それっぽい人はわかるんだけど……」
真由歩にしては珍しく歯切れが悪い。なにか後ろめたいことがあるのだろうか。
「言って、いいのかな」
真由歩が周りに慎重に意見を求める。誰もが複雑な顔色だった。
「言う、けど……いい、よね。……それ——花崎優羅くんだと、思う」
「——へ?」
いきなり知らない人の名前が出され、困惑が隠せない。
「ああ、えっと……まず、最初から説明するね。まず、小学二年までの間に優羅って子がいたの。優しくてなかなかにイケメンだった子」
全くわからなくて当惑の視線を周りに投げる。でもみんな俯いたままでなにも話そうとしない。異質な空気に背筋が伸びる。
「心花、優羅とすんごい仲良くてね。いつも一緒って感じだった。……でも」
真由歩の美しい顔が歪む。そんな顔をするなんて知らなかった。
「……優羅が家庭内暴力を受けてるって、水泳の時間に心花が気づいて担任に言ったの」
「家庭内、暴力……」
恐ろしい言葉が出てきて思わず言葉を落とす。
「……そしたらっ……」
これ以上ないくらいの憎悪が真由歩の顔に浮かぶ。
「優羅、いなくなっちゃって……っ」
今度は泣き出しそうになる真由歩。真由歩は小さな頃から感情の起伏が激しい子だった。今も当時を思い出して苦しいのだろう。寄り添ってあげたいのにわからないからどうもできない。周りにいた子たちが真由歩の背を摩っていた。
「母親が、学校に呼ばれた日の次の日のことだったの。きっと二人で逃げたんだよ……心花、自分に責任感じて泣き喚いて気を失っちゃって。ショックで記憶、なくしたんだよ。これが、全部」
「…………」
なんだか本当に少女漫画のようだ。いつかのりるちの言葉が蘇る。自分の身に起きたことだとは思えなくて、ふわふわとしてくる。
「ご、ごめん。なかなか信じらんなくて……長く説明ありがとう」
「ううん。いいの。あ、写真あるけど……見る?」
気を遣わせてしまっている。申し訳なさでいっぱいになった。断ると真由歩に悪いし気になるしで見せてもらうことにする。
「見るー」
わざと明るめな声を出す。
真由歩がスマートフォンで写真を見せてくれた。
幸せそうに笑う彼——優羅さんと、勝気な真由歩が楽しそうに写っている。
「ええやば、かっこよ」
思わず口から言葉が漏れた。そして——夢に出てきた彼に、そっくりだった。
「心花、優羅にものすごくデレデレしてたんだよ。思い出した……?」
申し訳ないが思い出せない。だがそう言うのも申し訳なくて、「少しだけ思い出してきたかも」と嘘をついてしまった。
「そっか」
私の嘘に気づいてか気づいていないのか、少し微笑んで答えた。
「さあ、私の相談にものってもらったし、他のこともっとみんなでたくさん話そう!」
ぱちんと手を打ち、この話は終わりの合図をする。先程から空気がどうも重い。
「あ……うん、そうしよっか!」
私の思惑を感じ取ってくれたのか、真由歩がそう言ってくれた。
*
「優羅? なにしてんの」
部屋で写真を眺めていたら、母の声が聞こえてきた。
「っ、母さん」
「……なにそれ?」
母がこちらを覗き込む。
「あ、いや……」
優羅が慌てて“それ”を隠した。
「ねえ。今隠したでしょう。出しなさい」
「……っ」
唇を噛む。見せなきゃ殴られることなんて目に見えていた。きっと、見せても殴られてしまうだろうが。
控えめに写真を差し出す。
「……あら。懐かしいわね、この子」
母の瞳に冷たい色が宿る。写真を持つ手に力がこもっていく。
「私の優羅への愛情を虐待だなんて騒いだ子だったかしらぁ?」
「っ、か、母さん。それ、捨てるつもりだったから。返して欲しいな。捨てるから」
「……私に指図するな! なんでこんなものをいつまでも持ってたのよ! ふざけるな! 写真なんて全部捨てただろう!? まだ持ってたのか! なぁ!?」
ヒステリックな声と共に拳が頬に降ってくる。何度も殴られた。優羅は痛みに静かに耐え、再び唇を噛む。
「ごめん、ごめんなさい! 母さん」
「黙れ!」
蹴られ殴られ散々だ。もう痛みにも慣れてしまったが。
また痣になってしまう。
そんなことを冷静に考えながら拳をただ受ける。
また酒を飲んでいるのだろう。力の入れ方が単調でそれでも強くて痛い。
そして終わりは突如として訪れる。
「……あぁ、優羅。ごめん、痛かったでしょう」
「……大丈夫。僕が悪いから。ごめんね、母さん」
突然猫なで声を出し、優羅を強く抱きしめる。優羅は無感情に、ただただ決まった言葉を紡ぐ。そして母が眠るまでがワンセットだ。
母の手に強く握られている写真をそっと抜き取り、ごみ箱に捨てる。
「ごめんね、心花ちゃん」
苦しみが滲んだ声が漏れた。
*
「ただいまー」
「おかえり」
リビングへ入ると、私が帰るまでちょうど寝ていたのか、ぼさぼさの髪の毛をした母が出迎えてくれた。
「真由歩ちゃんとか変わってなかったー?」
「いや、すんごい派手になってたよ、真面目なとこは変わってないけど」
笑い混じりになりながら言う。
鞄などを置き、ソファに腰をおろして休んだ。
「やっぱり真由歩ちゃんはいい子だねぇ」
「ほんと。羨ましいくらい可愛いし」
「あんたも充分可愛いんだから自信持ちなよー」
「いや無理無理ー」
うちの親は親バカだ。昔は恥ずかしかったが、今はもう吹っ切れて、私のことを真っ直ぐに愛してくれる母に感謝しかない。
「あ、そういやさ、お母さんに聞きたいことがあって」
優羅さんのことだ。
「んー? なになに、好きな人?」
母は目を輝かせながら私を見つめてくる。
「うん、まぁ……そんな感じ」
「えー! なに、誰!?」
突如として乙女になった母に多少呆れながら話す。
「えーと。……優羅って子なんだけど、最近夢に出てきてさ。なんか知ってる? 私、会ったことあるけど覚えてなくて」
真由歩たちに話したときよりも恥ずかしい。目線をずらす。
「……優羅くん、て……」
きゃぴきゃぴとした空気が一瞬にして消えた。
「あんた、思い出して……は、ないのか……」
「あ、えと……う、ん」
シリアスな雰囲気に呑まれそうになる。母の顔へ視線を向けた。かなり険悪な表情だ。
「……これも運命なのかな」
「え? ごめん、なんて?」
聞き取れなくて母に尋ねる。
「ううん。なんでもない」
少し悲しそうに微笑み、母もソファに座る。少し長くなるけど、と前置きをして話し出した。
小学二年生までいたこと。虐待を受け、いなくなってしまったこと。現在も連絡がとれないこと。
昔を懐かしむように、それでも淡々と話す母の姿がなんだか痛々しかった。
「どう、なにか思い出したりはした?」
「いや……全く。ごめんね、せっかく話してくれたのに」
「そっか」
気にしていないような表情で母が言う。そして、あっと思い出したかのように続けた。
「そういえばだけど、優羅くん、一度、心花と逃げようとしたことあるんだよ。もちろん、私には教えてくれたし、私も応援してたくらいなんだけど」
頭をがつんと殴られたような気がした。
「そ……うなんだ」
なんだろう。この苦しい痛み。
脳内で鐘が鳴っているようだ。がんがんと響くような痛みが頭に刻まれる。
思わず顔を顰めて頭を抱え、ソファに倒れ込んだ。
「ちょ、心花!? なに、大丈夫!?」
「うん……ちょっと記憶来たわ」
なんとなく、記憶が戻るのかなとか思って言う。心配はかけたくなかったので、笑顔をしっかり貼り付けた。
「ほんと? ごめんね、こんな話したから……」
「大丈夫大丈夫! ちょっと休んでたら治るから。ちょっと横になってるね」
「わかった……。なにかあったら呼んでね」
話すだけで頭痛が加速する。母が遠ざかる気配がして、ふぅ、と息を吐き出し、ゆっくりと横になった。
心臓の音だけが耳を支配している。
私は眠気に負けて目を閉じた。そのまま意識が途切れていく。
*
「じゃあ、いってくるね、母さん」
「…………」
相変わらずの沈黙に胸が冷えてゆく。
気にしたら負けなのだと学んでいるので気にせず家を出た。心の内とは違って暖かい気候に苛立ちを隠せない。力任せに自転車に跨って漕いだ。
部活へ行くだけでこんなに苦しい思いをしなくちゃいけないことに更に苛立ちが募る。
こんなときには心花の顔が見たくなるものだ。写真を取り出そうとして、やめた。昨日のうちに捨ててしまったじゃないか。またもや苛立ちが顔を出す。
「クソ……ぁぁああ!」
人気のない場所で思わず叫ぶ。
そこで優羅は気づいてしまった。
今一番会いたくて、でも一番会いたくない彼女が、そこに立っていたことに。
*
「あぁあ!?」
目が覚めた瞬間汚声が漏れた。頭痛は嘘みたいに消えている。
「っ、なに!? ゴキブリでも出た!?」
「うぇ、そんな例えしないでよ気持ち悪い! て、そうじゃない!」
母とのくだらない会話にツッコミを入れつつ話す。
「思い出した! 大体だけど!」
夢に優羅が出てきてくれたのだ。そこでたくさん教えてくれた。
「えぇ嘘ぉ!? そんな少女漫画みたいなことあってたまるの!?」
「そこはよかったね……ってしんみりしながら駆け寄るとこじゃないかな!?」
なんで漫才なんてしているんだ。なんだか想像していた反応じゃない。
「で、ほんとに思い出したの?」
急に真面目になって少々驚く。だがしっかりと頷いた。
「思い出した。どんな会話してたのかも、優羅が、どんな傷を背負ってたのかも」
そして、当時の私が優羅のことをどれだけ好きだったのかも。
「そう……よかったね」
優しく破顔した母は、それから思い出したように私の頭を撫でる。優しくて、愛おしむような手つきだった。
「お母さんは、優羅がどこにいるか知らない?」
「知ってたらもっと早く伝えてたよー、もう、どこにいるんだか」
やるせなさそうに笑み、肩をすくめる。それを見て、私はあることを小さく決意した。
「私、明日小学校行く」
母の目を見て伝える。
「あらあらまあまあ行動が早いこと。……見つかるといいね、行ってきなさい」
ぱちぱちと瞼を下げながら、それでも了承してくれる母。にこりと微笑んで頷いた。
頼れる母がいてよかった。そう思う反面、虐待に悩む彼がとてもいたたまれなくて胸が渦巻いた。
そした迎えた翌日。
近場ということで歩いて小学校へ向かう。
なんだか小学生に戻ったような気分だ。昔を思い出し懐かしみながら人気のない場所へと歩いていく。
その時だった。
前方から声が聞こえた。
「クソ……ぁぁあああ!」
透き通った声の切実な叫びの響きに、優羅だ、と唐突に思った。
「っ、優羅? 優羅なんでしょ?」
気がついたときには口をついて出ていた言葉に相手が面食らっているのが遠目でもわかる。
「え、あ、あぁ……そうだけど……心花ちゃん、だよね?」
「そ、そう!」
覚えていてくれた、という嬉しさで心が弾む。
こんなに調子が良くて良いのだろうか。昨日やっと彼のことがわかったというのにもう会えてしまった。どこかでツケが回ってきそうだ。とりあえず今はこの幸せを味わうことにする。
彼がこちらへ近づいて来た。私も近づく。
「久しぶり。元気だった?」
夢と同じ優しい笑みに胸が高鳴る。
「うん。元気だよ。優羅は?」
そう尋ねると、少し困った顔をされた。虐待のことを気にしているのだろうか。私が告発してしまったし、気にすることじゃないのに、と思う。でも、つつかれてほしくないのかもしれない。
私はそれ以上その話題を続けることをやめた。
「どこの高校行ってるの?」
代わりにそう尋ねる。
「すぐそこの花柳高校。今日は部活だけど」
少し迷う素振りを見せ、それでも答えてくれた。
「そうなんだ。私、波高」
「そこ偏差値高くない? すごいね」
褒められて顔が熱くなる。そんなことない、と否定しながらも口元がだらしなく緩んだ。
「じゃあ、僕もう部活行くね。またね」
「あ、うん、また!」
短い時間でも話せて幸せだった。大きく手を振り、精一杯の笑顔を浮かべる。
優羅も返してくれた。
「ふふふ」
にやけが止まらない。いろいろと思うところはあるが、それでも今は彼に会えたことが嬉しい。
軽い足取りで家路についた。
*
まさか彼女に会うなんて。
夢にも思っていなかった。
今にも舞い上がってしまいそうだ。
彼女は会わない間にどんどん綺麗になっている。
——優羅はどうだ?
散々母を苦手に思っておいてなにも行動しない母の言いなり。
こんなやつと彼女など全く違う。
再び気分が下がっていく。
やはり優羅は全部駄目なのだ。
このあとの部活にはほとんど力が入らなかった。
*
それから度々優羅と会うようになった。
会えるのは大体朝か放課後だ。休みの日は予定があるというので会えていない。虐待に関係があるのかもしれないのであまり踏み込んではいないが、いつか話してくれるときが来るのかなぁと思っている。
だが、彼も私のことを受け入れてくれているみたいで、私の胸はいつもどきどきと忙しい。
りるちに別れを告げ、早々に彼の元へ行く。
いつもなんとなくで待ち合わせしているのは花柳公園だ。狭くて人があまり来ないのでかなりうってつけの場になっている。
歩いて向かうと、そこにはもう既に彼がいた。三人くらい座れるベンチに座っている。
空いたスペースに腰掛ける。彼が私に気づき、ちらっとこちらを覗いたことがわかる。
彼と過ごす時間は話したり話さなかったりだ。沈黙も心地よいので私はあまり気にしていない。
「ね、この問題わかる?」
「んと、これは——」
彼に解き方を教えてもらったりもしている。
そのとき、ズキ、と頭が痛んだ。
「——っ」
思わず顔が歪む。
「……心花ちゃん? 大丈夫?」
「ああ……ごめん、多分偏頭痛。最近酷くてさ」
「……そっか。お大事にしてね」
「ふふ、ありがとう」
優羅に心配の言葉をもらい、なんだか少し痛みが薄らいだ。
彼がなにか言いたそうにこちらを見ている。
「ん、どしたの?」
「ああ……いや、なんでもない」
そう言って彼はふわりと微笑んだ。その切ない笑みに不覚にもときめいてしまう。
「じゃ、ばいばい」
「うん、またね」
一緒に過ごして二時間くらい経ったら帰る。それがもう暗黙の了解のようなものになっていた。
先程の頭痛がまたもや顔を出し、帰るときに少しふらっとしてしまった。
「っ、心花ちゃん!」
「ぅ……っ、あっ、ごめん! ありがと……」
慌てて抱きしめられ、恥ずかしさと申し訳なさが交差する。
「ごめん、またね」
羞恥心に殺されそうになりながらも別れを告げた。
「いや……心配だから送らせて」
「えっ!? さすがに悪いよ」
突然の胸きゅんイベントにたじろぐ。顔から湯気が出そうだ。
「いや、倒れちゃ駄目だから送るよ。ほら、手」
「え!?」
有無を言わせないその雰囲気と差し出された手のひらに胸が騒ぐ。
今日の優羅、変だ。積極的すぎて心がもたない。
「ね、手」
「……っ」
どうにでもなってしまえ!
そんなふうに心の中で叫んだあと、手汗を拭いて手を乗せた。包み込むような、それでいて骨ばっていて硬い手が触れる。
どんどん彼のことを好きになっていく。
もう抑えられない。
「ねぇ、優羅」
「ん? どした」
そうやって尋ねるときに首を傾げる癖も、恥ずかしいと頭をかく癖も、嬉しいと指先を弄るのも、全部、全部大好きで。
心臓がうるさい。
顔が熱い。
好きで堪らない。
「っ、優羅が、好きです」
ついに言葉が零れた。恥ずかしくて目を合わせられない。俯いて返事を待つ。
「え、と」
困らせてしまっただろうか。本当に、なにをしているのだろう、私は。
「僕も、心花ちゃんが好きです」
「……え」
瞬時に顔を上げる。
「ほ、ほんと!?」
照れたような、困ったような、嬉しいような顔をした優羅。
「本当だよ。好き」
優羅が滲む。涙だと気がついたのは優羅が拭ってくれたときだった。
「え、えっ、泣かないで」
不器用そうに親指の腹で優しく拭われて、更に涙がとめどなく溢れた。
「ごめんっ、でも、ありがとう……」
そう言うと優羅は私を抱き寄せてくれる。私は遠慮なしにしがみついた。
人生で一番幸せだと、そう思った。
「ただいまー!」
「おかえり、なんか機嫌いいね」
開口一番に母に言われる。
「わかるー?」
「わかるよー。なになに、なんかあったの?」
付き合って家の近くまで送って貰えた。
そんなことを言いそうになり、慌てて口を塞ぐ。せっかくだし、三ヶ月後に迫る母の誕生日に言いたい。
「ふふ、なーいしょ!」
言いながら先程まで握られていた手を眺める。
温かくて大きい手だったな。
そう思ってまたにやにやとした汚い笑みが顔中に広がっていることがわかった。
「もー、また教えてよー?」
「もちろん!」
首を縦に振る。その時——
「っ——……」
割れるような鈍痛が私を襲った。
立っていられなくてその場にしゃがみこむ。
「ぅ……」
「ちょっ、心花! 大丈夫!? しっかり!!」
頭の上で母の焦る声がする。答える気力もなくて呻いた。
「う、いたい……痛いよぉ……」
私は意識を保っていられなくて、その場にそっと倒れた。
*
彼女に告白されて、僕も好きだなんて言ってしまった。
ふわふわとした高揚に包まれていた優羅は、不意に冷静になってそう思った。じわじわと後悔が染み込んでくる。
もしも母にバレたら。
——殺されてしまうんじゃないか?
最悪な考えに胃がもたれる。
でも、今だけは、この幸福感に溺れてもいいんじゃないか。
写真越しでしか会えなかった彼女に会えて、更に告白されて、付き合えることになって。
こんなに幸せなこと、ないだろう。
強ばっていた顔の筋肉が緩んでいく。
やっぱり、今だけは、彼女のことをもっと好きになってもいいだろう?
*
目が覚めた。
真っ白な天井が目に眩しい。ここはどこだろう。
「心花!?」
隣から叫ぶような母の声が聞こえた。
「……お母さん?」
か弱い声が喉の奥から零れる。
母の顔色が悪い。真っ青で、今にも倒れてしまいそうだ。
「あんた……! 今先生呼んでくるからね、待ってね」
震えた声を発する母は、安堵し、泣きそうな顔に変わる。
なんでこうなってしまったんだろう。
一人残され、ぼうっと考える。
確か、玄関先で倒れてしまったんだっけ。ということはここは病院か。
そこまで思い出して優羅の存在を忘れていたことに気がついた。今、何時だろう。もしも放課後の時間になっていたら、彼は一人で寂しく待っていることになってしまう。そこで初めて彼の連絡先を知らないことに気づいた。これはなかなかに痛い。
「はぁ」
ため息をついたとき、母が医師と共に病室へやってきた。
「これから少し検査があります。移動しましょう、車椅子に乗ってください」
「あ……はい」
車椅子なんて人生で初めてだ。ただの頭痛で車椅子など馬鹿げていないか?
そう思ったが口に出さず、ありがたく車椅子に座る。楽ではあるし、わざわざ言うことでは無い。
二時間ほどで検査が終わった。結果は次の日にわかるそうだ。
帰宅とはなったが、なにかあったらすぐに病院へ来るように言われた。
「……お母さん、今日って何日?」
「……今日? えーと、二十五日」
「そっか。ありがと」
昨日から一日経ったのか。
「今、何時?」
「午前十時四十分ちょい前」
「わかった。ありがと」
ということはまだ授業を受けている時間だ。これから帰って会いに行けば会えるかもしれない。
「お母さん、今日帰ったらさ、優羅に——」
「今日はやめときな」
「そ……だよねー」
窶れたような顔できっぱり言われて逆らえるわけがない。仕方がないので応じることにした。
それから私たちが帰れたのは三十分後だった。
母は倒れたことに関して私になにも言わないし聞いてこない。私も言ってはいけないような気がして、何事もなくその日が終わった。一つ気がかりだったのは、やはり優羅のことだった。
翌日、早朝から病院に呼び出された。
病院へ着くと、かなり空いていた。すぐに呼ばれて結果を言い渡される。
「心花さん、落ち着いて聞いてくださいね」
「え」
思わず息を呑む。そんな言葉を言われるなんて、重たい病気だったのだろうか。途端に緊張で身が固まった。
隣では、母が深く俯いている。
「血液検査とMRI検査、その他諸々の結果から、心花さんは——夢脳病であることが、わかりました」
重々しく放たれた言葉に肩透かしを食らったような気分になった。聞いたこともない病名だ。
「夢について、最近よく考えていましたか?」
「え、あぁ……はい」
「やはりそうですか……。夢脳病は、夢のことを強く考え、ストレスが蓄積されることで発症する病です」
「はぁ……」
夢のことを考えただけで?と疑問に思わずにはいられない。納得がいなかい。
「夢脳病は、なかなか見られない病気です。なので治療法が我々にもわからないのです。それに加え——」
医師が言いずらそうに躊躇った。それでも医師ということを思い出したのか、背を伸ばし、悲痛な面持ちで告げた。
「——心花さんの場合は、もう、手遅れです」
「……え?」
医師の言葉を咀嚼して飲み込むまでに時間がだいぶかかった。手遅れ、という言葉が脳内で響き、身体を強ばらせる。冷や汗が噴き出す。段々と全身が震え出す。なんだか気持ちが悪くなってくる。
隣を見やると、母の顔が土気色になっていた。ボーッとしていて目の焦点が合っていない。それを見て私は急に冷静になった。
「それは、もう、治らないんですか」
「……残念ですが、今の我々の力では……。進行を遅らせる薬は処方しますので、朝昼晩飲んでください。なかなか効かなくなってきたら、入院になります」
「……そうですか。わかりました。もって何ヶ月ですか」
淡々とした医師の説明にこれまた淡々と応じる。
「そうですね。二ヶ月程度でしょうか。ですが、希望は——」
まだ真面目そうに医師が話していたが、耳の右から左へ抜けていった。二ヶ月って、母の誕生日は一緒に過ごせないのか?
そう思ったらなんだか苦しくなって視界が揺らいだ。清潔に保たれていたであろう真っ白なテーブルに雫が落ちる。
絶望ってこういうことを言うのか。
自分の未来が絶たれたショックと、どうでもいいことを考えている呆れで感情がぐちゃぐちゃだ。半ば泣き笑いになる。
隣で死にそうになっていた母も、今は堰を切ったように泣き出している。
医師がなにか言っている。聞く気力も抜け落ちて、私たちはずっと泣いていた。
*
「ただいま、母さん」
興奮冷めやらぬ声で、家全体まで聞こえるよう呼びかけた。
「………おい、優羅!」
リビングから母の怒声が飛んでくる。なにかやらかしてしまったか?
「な、なんですか……?」
敬語なんてみっともねぇな、と自身を鼻で笑った。もちろん母にバレないように。
「お前、なんで帰りが遅くなったんだ」
「え……と」
別に遅れてないじゃないか。決まった時間もなにもないのに。
反論だけが胸の内側に募る。
「学校で先生に手伝い任されて。それでちょっと手こずって……」
「嘘つくな!」
目を見開く。なぜわかったんだ。
「お前女といるだろ! 知ってんだよ! お前を育てるために私はいつも働いてんのに! ふざけんなよ!」
優羅に答える隙を与えぬように腹に拳が襲ってくる。
「ごめっ、ごめんなさい!」
「謝るってことは認めるってことだよなぁ!? ふざけんのも大概にしろよ!」
脚に、腕に、腹に、顔に、背に、母の手と足が飛んでくる。
ふざけてんのはそっちだろ。そっちは父さん捨てて彼氏と遊び呆けているのに僕は駄目なのか?
不満ばかりが溜まっていく。痛みはもう慣れた。
やがて母の動きが止まり、呟きが聞こえてきた。
「こいつのせいで彼氏ともなかなかうまくいかない。それに女と遊んでばっか、それに私のこと、きっと内心馬鹿にしてるんだ……」
母が泣いている、と優羅が気づいたのは、彼女が蹲ったときだ。
「母さん」
仕方なくあやすことにする。
「ごめん、本当にそんなつもりなかったんだ。向こうから勝手に言い寄られて……」
心花ちゃんごめんなさい、と心の中で謝る。自分の口から彼女を悪く言うことを言ってしまうことに嫌悪感しかない。
「いいよ。もう終わらせるから」
「え? ……っ!」
母の手が優羅の首へ伸びる。そのまま優羅の首を掴み、力を込めていった。
「う、かあさ、くるし——」
「こいつのせいで全部上手くいかない。じゃあ消しちゃえばいいんだ!」
母が本当に楽しそうに言う。その狂気が優羅を蝕む。
息が出来ない。
苦しい。
——死んじゃう。
心花を残して死ねるわけがない。優羅は母の腹を蹴り、その呪いから逃れようとした。初めての反抗だった。
「ぐ、ぁあ! お前! 許さねえ! 死んじまえ!!」
怒りの言葉が胸に突き刺さる。母がもう一度優羅を殺そうとこちらへ向かってくる。
「じゃあ言わせてもらうけどさ」
冷たい言葉が溢れ出す。母の動きが止まった。
「なんで僕を産んだの? こんなに苦しい思いして生きるなら生まれて来たくなかったよ」
言いながら涙が零れる。拭わず、母をじっと見据えた。
「……産まないと殺すって言われたからよ! だから今まであんたを嫌々育ててきた! なにか文句でもあるわけ? あるなら勝手に死んでろよ!」
質問に答えてしまうあたり、母に愛情は本当にないのだろう。察してしまった優羅は家を飛び出した。
もういいや。死のう。
心花のことなど頭になかった。優羅はただただ苦しくて死にたかったのだ。
公園に着いて一夜を明かす。
今日、心花が来なかったら死のう。朝が来て思った。
心花はその日、来なかった。
*
なんのために生きてるんだろう。どうせすぐ消える命なのに。
りるちが執拗に私の顔の前で手を振っている。
「おーい、死んだ?」
うん、死ぬよこれから。
皮肉が漏れそうになる。
「生きとるわい」
普段と変わらないツッコミをして笑う。りるちには空元気なことがバレているだろうな。
授業中、苦しくて苦しくてトイレに駆け込み吐いた。これも症状なのだろうか。そう思ったらまた気持ち悪くて吐いた。だがもう胃液しか残っていなくて、喉と口の中がヒリヒリした。
……死にてえなあ。
もう死んじゃおっかな。
優羅が自殺未遂をしたことは、テレビで知った。学校から帰ってきてすぐ、母が私にテレビを見ろと言ったのだ。
首吊り自殺未遂らしい。公園のジャングルジムで、ジャングルジムに首を服の切れ端で括り付けられていたのを発見されたらしかった。
もちろん名前や顔は出ていないが、公園がいつも話している公園だったので確信した。
——一番初めに浮かんだのは、羨ましいという感情だった。
思ってから激しい後悔に見舞われる。
「虐待、悪化しちゃったのかな」
母が難しそうに言う。母は私の病気がわかってから覇気が全くないので表情を変えてくれるだけでも嬉しかった。
「私病院行ってくる」
「えっ、送ろっか?」
「大丈夫」
返事も待たず飛び出した。
彼がいたのは、市の総合病院だった。私もお世話になった病院だ。
「優羅!」
病室に入り、名を叫ぶ。
「……心花ちゃん?」
控えめな声が聞こえてきた。
「優羅っ」
私は彼に抱きついた。そしてなにかが切れたように泣いた。
「優羅っ、大丈夫?」
「どうってことないよ。心花ちゃんはどしたの」
私は泣きながら全部話した。病気のことも、優羅を忘れてしまったことも、なにもかも。
優羅は驚きながらもしっかり聞いてくれた。余命を話したときはかなり顔を歪めたが、それでも穏やかに聞いてくれた。彼も話してくれる。かなり悲惨で、聞いているだけで胸が痛くなった。
「僕、ずっと虐待受けてて。小二のとき、助けてくれたの嬉しかったなぁ。なにも言わずにいなくなってごめんね。それから遠くには行ってないけど引っ越して、暫くは外に出るなって言われて、一年は出なかったかな。それから……」
ここで彼は衝撃的な一言を放った。
「僕、夢脳病になってたんだ」
「えっ」
「ああ、僕の場合は軽いものだよ。頭痛と腹痛程度。……心花ちゃんが夢に出てきたんだ」
「わ、私も! 私も優羅が夢に出てきたの」
どんどん繋がっていく。
「それで、心花ちゃんのこともっと好きになって」
「私もそうだよ。私はこんなんになっちゃったけど……」
「ふふ、大丈夫だよ。僕も、いるから」
実は家出してきたんだ、と言って顔が暗くなった。そうだ、彼は自殺未遂をしたのだ。
「……殺されかけちゃってさ」
私の思想を見抜いたのか、自殺未遂前夜のことを教えてくれた。
「もういいやーって。心花ちゃんいるから、生きるのもありかも?って、助けられて思ってるよ」
そんな雰囲気じゃないのに少し照れた。
「私、死ぬまでならずっと優羅と一緒にいるから。だから、死なないで」
先程までの死にたい気持ちも消えて彼に言った。彼のことを知って改心し、せっかく二ヶ月も生きていられるなら彼に尽くしたいと思ったのだ。
「心花ちゃんがいてくれるなんて心強いなぁ。……あ、じゃあ、ちょっとお願いしてもいい?」
「もちろん」
「この病室に母さんが来たら、追い返して欲しいんだ」
少々意外なお願いに目を見開く。だがなにも触れずにわかった、とだけ返事をした。
日付は変わり、高校へ行く日。
母には高校は行かなくてもいいと言われたが、楽しいので強引に振り切り通っている。
「りるちー!」
前方にりるちを発見した。体力がある限り走り、りるちに抱きつく。
「ぎゃぁあ! 急になにすんの!」
りるちが体制を崩す。そしていつもの如く小言を言った。
「ふふふふ」
笑って誤魔化し、腕に力を更に込めた。
「きついきつい吐く!」
「ふっふー」
その後もおぶったりおぶられたりと楽しかった。
だが、楽しいものにはやはり代償があって、午後の授業は頭痛と腹痛で力が入らなかった。
放課後は優羅と過ごす。病院に着き、既に顔見知りとなった看護師さんと一言二言話してから優羅のもとへ向かった。
「ゆーら」
「心花ちゃん」
扉からひょっこりと顔を出し、優羅の名前を呼んだ。
「もうすぐ退院でしょ? やっとだね」
「そうだね、いろいろ検査したりしたし、結構経ったね」
からりと笑う彼の顔は明るかった。自殺を企んだ人には見えない。
自殺を図ったあと、どうしてこうなったのかを本人、教師や友達、親に警察が訊き回ったそうだ。お陰でもう辛いことはかなり減り、よく眠れるようにもなったらしい。母とは絶縁状態らしかった。
私は刻一刻と病が身体を蝕んでいる。明るくなっていく優羅と暗くなっていく私、という対比が悔しくて辛くて唇を噛んだ。
「心花ちゃんは今元気そう? 大丈夫?」
彼は会うと必ずそう訊く。心配で仕方がないという顔に微笑みを零して答えた。
「全然平気だよ。まあ、この病気ほんとに先が読めないから今から倒れるとかあるだろうけどね」
少し意地悪に言ったら、優羅は泣きそうになっていた。
「そんなこと言わないで」
「ふふ」
そのとき——。
「っ!」
急に身体が段々痛くなって来た。
「いてて……」
フラグ立ったかな、とかどうでもいいことを考えて、優羅の病室を出ようとする。
「ちょっと待って心花ちゃん、今体調悪くなってんじゃないの?」
「や……へい、き」
彼の手を振り切って病室から飛び出す。彼に弱い姿を見せたくなかった。
「ぁあぁ……痛い、痛い痛い、痛いよぉ」
泣きそうなほど痛くて弱い声が漏れる。調子に乗ったことが効いてきたみたいだった。
身体が恐ろしく痛い。
手が、足が、頭が、腹が、背が、腰が、目が、口が、喉が、肺が、心臓が、
痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
なんで。
なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで
——なんで私が。
ついに、考えないようにしていたことを考えてしまった。手を握り締め、歯を食いしばる。
病室から優羅が出てくる。すぐに私を見つけて、身体をそっと持ち上げた。懸命になにか話している。
聞き取れなくて、代わりにむせた。鉄の匂いがしたので、吐血でもしてしまったのだろう。
「ぅ、あ、はぁ……は、」
意識が保っていられない。私はその場に伏した。
目が覚めたとき、私は入院していた。
「心花!」
「心花ちゃん!」
母と優羅のぐちゃぐちゃな顔が視界いっぱいに広がる。途端に安堵したような顔に変わった。
「よかった……心花ちゃん……」
「送っていけばよかったね……ごめんね、痛い思いさせて……」
「私は大丈夫だよ。死ぬときの予行練習、みたいな?」
笑ってもらうために言ったが、二人の目は真剣だった。
「心花が死んだら私、どうしたら……」
母が顔を覆い、泣き出した。胸が締め付けられて苦しい。
父は早くに亡くなっている。
死にたくない。
強く願ってしまった。
優羅は、喪失感を顔全体に浮かべて唇を噛み締めていた。
母が帰って医者にもいろいろ見てもらったりしたあと、優羅と病室で二人きりになった。
「ねえ優羅」
「なーに」
「退院祝いあげるよ」
「え、大丈夫だよ、申し訳ないし」
彼はそうやってすぐ謙遜するのだ。私は知っている。
「やだ、あげる、何欲しい?」
「んー……」
こうなると私は引かない。優羅もそれを知っているので、素直に考え始めた。そして名案を思いついたと言って私に告げた。
「心花ちゃんとぎゅーがしたい」
「え、そんなのでいいの?」
毎日のように優羅は私のことを抱きしめてくれている。なのに、いいのか?
「いいの。じゃあ、いつもより長め、とか」
「……わかった」
ベッドから身を起こし、両手を広げる。優羅も両手を広げて、割れ物を扱うかのように優しく抱きしめた。
「優羅」
「ん?」
「だいすき」
優羅に抱きしめられるといつも安心して心がぽかぽかする。
彼の身体が熱い。照れているのかもともとなのかは分からなかった。
「僕も好きだよ」
「ほんと?」
「本当。大好きだよ」
そう言って優羅は私の頭に唇を落とした。
優羅は今までで一度も唇にキスをしてくれたことがない。いつも頭だ。
優羅が私を強く抱きしめる。私も返した。
幸せだった。すごく。
*
彼女と抱きしめあった次の日病院に行くと、彼女が浅い呼吸を繰り返していた。
「っ、心花ちゃん!」
「……ゆうら?」
心臓が凍ったかと思った。強ばる指を必死で動かして心花の母親を呼ぶ。今日に限っていなかったのだ。
「心花ちゃんしっかりして、お願い、死なないで……」
視界が滲む。嗚咽が漏れる。ベッドに縋りついて彼女の名を叫ぶ。
「優羅、どしたの、はぁ……」
「喋らなくていいから……お願い、心花ちゃん……っ!」
半ば叫んだ。そして医師を呼んだ。
到着した医師は厳しい顔をして「これはもう……手遅れです……申し訳ない……」と言った。優羅は医師に殴り掛かる勢いで胸倉を掴んだ。
なにか言ってやろうと思ったが、言葉の前に涙が溢れて止まらなく、跪いた。
「ぁぁああああああぁぁ!!」
喉の奥から声が零れ出す。
「ゆうら」
彼女のか細い声がした。すぐに向かう。
「うわぁ、酷い顔……そんなに泣かないでよ……」
彼女の細い手が優羅の顔に添えられる。
掠れた声で笑う彼女を堪らず抱き締めた。
「ゆうらー?」
「……なーに」
「だーいすき」
その言葉に優羅はぼろぼろと涙を落とした。
「僕も……大好きだよ」
そう言って優羅は心花の唇にキスをした。
心花が目を見開く。そして、花が咲いたようにふわりと笑った。
そして彼女は目を閉じる。
優羅の声も聞こえないかのように。
そして眠るように。
彼女は、亡くなった。
*
あれから彼女の葬儀やらなにやらはすぐに執り行われた。優羅はそこに行けなかった。
一人暮らしをしていることも拍車をかけて、優羅は家に引きこもるようになった。
泣いては眠ってを繰り返し、食事もろくにしなかった。
そんなときだ。
まるで優羅がこうなることを見越していたかのように、夢を見た。
「あーあー、聞こえてる? 聞こえてるか、夢だし」
笑いながら言う彼女に、優羅は一瞬混乱し、すぐに夢だと気づいた。また泣きそうになって唇を噛む。痛くなかった。
「えーと、まずは。勝手に死んじゃってごめんね。実は天界から優羅のことめちゃくちゃ見てました。あっ、さすがにトイレとかお風呂は見てないよ!?」
思わず笑みが零れる。赤面する心花が可愛くて仕方がない。
「えーと、それで。今日は最後にメッセージを遺しに来ました! いぇーい! ぱちぱちー」
自分で効果音をつける心花にまたもや笑ってしまう。
「まず。大好きです。死んじゃっても優しくてかっこいい優羅のこと忘れられなくて困ってます! 優羅がかっこいいせいです!」
「ごめんごめん」
「そして。ぼろぼろだった私を助けてくれてほんとに感謝してる。小二までのときも、いっぱい遊んでくれてありがとう。せっかく付き合えたのに死んでほんっとにごめんなさい。でも私は死んでも優羅のこと想ってる!」
泣きながら訴えてくる彼女に、自然と優羅まで涙していた。
「大好き! 最期ちゅってしてくれたのもう好き! あのタイミングで死にたくなかった! あの世で一番幸せなのは私だ!!」
「僕も大好きだよ、僕こそ世界一幸せだ……!」
二人とも泣きまくって目元が赤くなる。でも笑顔は絶やさなかった。
「あとお願いがあって。私の友達にいろいろ伝えて欲しいんだ。私、手紙とか書けないから。それから、私のお母さんに会ってほしい。誕プレとかあるからさ。それと、あともう一つ。優羅、優羅のお母さんとちゃんと話してみてほしいんだ。優羅なら出来る。頑張れるよ!」
その言葉に驚いて口を開ける。まさか優羅のことを頼むとは。
「じゃあまたね! また必ず会おう!」
「……うん、またね、心花ちゃん!」
笑顔で別れた。
桃色の花びらが視界を塞ぎ、心花が消える。またもや桃色の花びらが視界を覆い、優羅は目を覚ました。
目に涙が溜まっている。布団にも染み込んでいた。
彼女をまた鮮明に思い出し、だくだくと涙が零れてくる。
すぐに拭い、心花の家を訪ねようと準備を進めた。
なかなか動いていなかったので身体中が重い。
日の下を歩くこともかなりしんどかった。だが、心花のためを想えばなんともなかった。
「……優羅くん」
「……ご無沙汰してます。葬儀にも行かず、すみませんでした」
チャイムを鳴らすと、すぐに出てくれて家に上がらせてもらった。彼女の母の窶れた顔が痛々しい。
「今日は、心花さんに言われてここに来ました。誕生日プレゼントとかがあるみたいです」
「……やっぱりなにかあったんだね」
懐かしそうに彼女が微笑んだ。すぐに痛々しい笑顔に変わる。
「ちなみにだけど、あなたたちは付き合ってるんでしょ?」
「あれ、心花ちゃん言ってなかったんですか!?」
思わず大声が出る。
「そうなんだよ、いつも優羅くんのことよく話してくれてたのに付き合ったのは言わなくて!」
少し怒りっぽい声に変わった。空元気なのが見てすぐわかる。
「彼女のことだから、きっとこれが誕生日プレゼントなんだろうな」
そう言ったら心花の母は、驚いたあとすぐ泣き出した。我慢の糸が切れてしまったのだろう。
ほら、心花ちゃん、見て。心花ちゃんの周りにこんなに泣いてくれて、僕がいることを喜んでくれる人がいたんだ。今すごく嬉しいよ。
心の中で心花に話しかける。優羅もこっそり一緒に泣いた。
勢いに乗って、優羅の実母にも会いに行くことにする。
今となっては懐かしい道を歩き、見慣れた家のチャイムを押す。躊躇ってしまったが、夢の中の心花の言葉を思い出し、押した。
数分したあと静かに扉が開く。
「……優羅」
「……母さん」
気まずかったが、気にせず家に入った。
「元気だった?」
「お陰様でね」
母は少し苛立っているのか、腕と脚を組み、更に刺々しい声だった。そして母は衝撃的な一言を放つ。
「あんたの彼女が来たわよ」
「っ、え?」
眉を顰めながら母が言う。呆けた声が漏れた。
「えらっそうに説教してきたわ。なんなのよあいつ」
「そっか……僕の彼女がごめんね」
心臓がきゅうっと締め付けられた。影でこんなことをしているなんて知らなかった。また泣きそうになる。
「まあ……私もいろいろやりすぎたわ。ごめんなさい」
「え」
つっけんどんな言い方だが、しっかりと謝られた。驚きが隠せなくて声が出る。
「あんたの彼女にやりすぎって、それじゃあ犯罪って言われたのよ。確かにやりすぎたし。昔はちゃんと愛情注げてたはずなのにいつの間にかこんなんになって。申し訳ないとは思ってるわよ」
「……っ、充分だよ。ごめんね、ありがとう」
いつの間にか涙が零れていた。母が面倒そうにそれを親指で拭う。
「もー、何してんのよ、みっともないわね」
昔の母に戻ったような気がした。更に涙が溢れ出す。
一人暮らしをしていたアパートは、その日のうちに出た。
「……誰だよあんた」
「優羅です」
莉瑠という女性が不機嫌そうに、それでいて泣きそうにこちらを見る。心花が会ってくれと言っていた女性だ。
ここは彼女とよく話していた公園だ。実家から出てきてすぐに向かったら、そこに莉瑠がいた。
「なに、ここの彼氏?」
この人は心花のことを“ここ”と呼ぶのか。親密そうで羨ましい、と思ったが、その彼女ももういないのだ。彼女の悲しみは計り知れなかった。
「……そうです。心花ちゃんに言われて来ました。話して欲しい、と」
「あっそ。あの子、結局夢の中のやつと付き合えたんだ」
「そうです。心花ちゃんが僕のこと見つけてくれて」
そう言うと莉瑠は下を向く。悔しそうに、苦しそうに全てを吐き出す勢いで呟き始める。
「……めでたいのに、なんで当の本人はいないんだよ。ねえ、あんたなんか知ってんでしょ。なんか知ってんでしょ!」
堰を切ったように彼女が優羅の胸倉を掴んだ。
切実そうに優羅を見つめる莉瑠の瞳には、大粒の涙が溢れんばかりにのっていた。
「……心花ちゃんは、病気でした」
そう言うと彼女は息を呑んだ。ついに涙が頬に垂れる。
「病院に行ったらもう手遅れで。それで、そのまま……」
唇を噛む。やるせなさでどうにかなりそうだった。
「じゃあなんで私には言ってくれなかったの!? 私のこと信用出来ないから!? ……明日はここに会えるはずって、ずっと待ってたのに……待ってたのに!!」
悲痛な叫びが胸を穿つ。優羅も共に泣きそうになった。
「……彼女のことだから、心配かけたくなかったんだと思います。でも、あなたのこと、よく僕に話してくれましたよ」
「……っ、うあぁああぁあ」
箍が外れたように叫び泣き出した。膝から崩れ落ちて泣き出す。優羅も隣で泣いていた。
*
誰かが空から覗いている。
「あーら、みんな泣いちゃって。……私のこと、そんなに大事に想っててくれてたの? なら、言ってくれたらよかったのに、もう、ツンデレりるち野郎」
心花だった。人でなくなった心花は彼らを見回し、自身も涙を零す。
「大好きだよ」
ほろほろと心花の身体が崩れ出す。成仏の時間だ。
もう後悔はなかった。真由歩には、私が死んだことは言わなくていい。
私のこと、忘れないでね。
そんな願望を口に出して、心花は消えた。
*
「心花ちゃん」
この声が聞こえますか。
僕は君のこと、きっとずっと忘れられないです。
僕はこれから、色んな困難に当たると思います。
でも、君のことを思い出したら、大丈夫な気がしています。
「心花ちゃん……」
今までずっとありがとう。
僕はずっと、心花ちゃんが大好きです。