僕は、海から帰ってきたヒメを浴室に運んでシャワーを浴びせ、浴槽に水を入れながら冷蔵庫に一匹残っていたアジを食べさせた。 満腹するとすぐに、ヒメは浴槽の中で眠りに就いた。初めての海にヒメも疲れたのだろう。僕のせいだ。
 ヒメが眠ると、僕は浴室の洗い場に座ったままスマホを開いた。ネットの通販で買い物だ。
 買う物はたくさんあった。まず、ブルーシート。10メートル四方の物を、全部で5枚。どれくらい必要かわからなかったので、とにかく多めに。次に、折り畳み式の大きな衝立。高さ、幅ともに180センチの物を二枚。自家用のプール。ビニール製で、直径180センチ、深さ50センチの円形の物。色は水色。ホースを1本。長さは30メートル。ガムテープを五巻。
 ホームセンターでも買えたかもしれない。でもホームセンターの開店時間を待っていられなかった。買っても持って帰れない。どうせ配達を頼むことになる。それなら。
 ヒメが眠っている間にと思い、僕は作業に取りかかった。
 まずは家具の移動。僕の部屋にそもそも家具はそう多くない。
 ダイニングキッチンにあったのは、ラックに乗せたテレビとビデオデッキ。それに小さなテーブル。それだけだ。テレビとビデオデッキはラックごと廃棄することにした。電気製品は危険だ。ヒメが来てからビデオも見てない。最低限のニュースくらいならスマホで十分だ。玄関の外へ運び出す。
 テーブルも処分する。ヒメが来るまで僕はそのテーブルで食事をしていた。ヒメが来てからは使っていない。食事の時は僕の分もトレーに乗せてヒメといっしょに浴室で食べていた。テーブルももう必要ないだろう。
 洋室にあったのは、洋服ダンスと本棚。それに学生時代から使っている机と椅子。
椅子は回転式。ヒメが乗ってそこから落ちたら危ない。椅子も玄関の外へ運び出す。机は……僕一人で外まで運び出すのは無理だった。なんとかダイニングまで運ぶ。
 それから、洋服ダンスと本棚。これも、ダイニングまで。キッチンスペースの反対側の壁際に寄せた。
 作業が一段落したところで浴室へ行ってヒメの様子を見た。ヒメはまだ眠っていた。
 いつの間にか夜が明けていた。僕は近くのコンビニへ走った。ヒメの食べ物の買い出しだ。スーパーもまだ開店前だ。自転車は大学に置いたままだ。
 ヒメが起きるのを待って、ヒメに食事をあげた。ハムとチーズとパン。それからヒメにシャワーを浴びせてあげた。僕がいっしょにいれば、ヒメは浴室から外へ出ようとはしなかった。
 ヒメを見ながら通販で注文した品物が届くのを待つ。全部そろったところで、次の作業だ。
 何もなくなった洋室の床にブルーシートを敷き詰める。ブルーシートの端をサッシ戸のすぐ内側にガムテープで留める。サッシ戸に向かって左側の壁の壁際からブルーシートを壁に沿って持ち上げる。1メートルくらいの高さのところでガムテープで壁に貼り付ける。釘で打ち付けた方がしっかり固定できるのだろうけど、そんなことをしたら大家さんに叱られる。右側の壁にも同じようにブルーシートを張り付ける。
 次はダイニングキッチン。壁際に寄せてあった机、洋服ダンス、本棚にブルーシートを被せて、ガムテープで留める。洋服ダンスはこれからも使わなければならない。シートを下から持ち上げれば衣類を出仕入れできるようにした。本棚にあるのは最低限の書籍と文房具、それにタブレット。これもシートを持ち上げれば出し入れできるようにした。ダイニングの壁には玄関のインターフォンの受話器が設置されていた。さすがにこれは使えないと困る。その部分にはシートが被らないようにする。
 シートをそのまま洋室の方に伸ばす。ダイニングキッチンと洋室の間には引き戸があったけどそこは開けっ放しのままにした。以前から閉めたことがなかったけど。伸ばしたシートにその引き戸を回り込ませて洋室の壁のシートにガムテープでつなぎ合わせる。
 その次はキッチンスペースだ。玄関に置いておいた折り畳み式の衝立を持ち込む。縦横とも180センチ。広げるとなかなかの大きさだ。この衝立で壁際のキッチンスペースを囲む。キッチンにはコンロがある。危険だ。ガスの元栓は閉めてあるけど、念のため。
 衝立のキャスターをロックして、更にガムテ―プを使って動かないように床に固定する。衝立にもブルーシートを被せてガムテープで留める。
 冷蔵庫は使う必要がある。いや、必需品だ。衝立の端、浴室側のわずかな隙間からキッチンへ入って冷蔵庫を開けられるようにする。そこから食べ物や食器の出し入れもできる。
 それから、机や本棚にかけたシートと同じように、衝立に被せたシートを洋室の方に伸ばす。
 その先にクローゼットがあった。忘れていた。クローゼットの中には布団がある。クローゼットを開けて、中の布団を持ち出して、ダイニングでシートを被せてあった机の下へ押し込む。閉めたクローゼットの扉をシートで覆って、洋室の壁のシートに繋げる。そこもガムテープでつなぎ合わせる。ダイニングキッチンにブルーシートに囲まれた通路ができた。
 浴室前の短い廊下にもブルーシートを敷いてガムテープで留める。シートをダイニングキッチンの通路まで伸ばし、さらに洋室に敷いたシートまで繋げる。
 部屋の床はすべて、ブルーシートで覆われた。
 次に、ビニールプール。洋室、いや、元洋室だったところの壁際、サッシ戸の近くに広げて、自転車用の空気入れで膨らませた。子供用の物だけど、仕方ない。もっと大きな物もあったけど、部屋の中に置くにはこれくらいの大きさが限界だ。
 巻いたまま玄関に置いておいたホースを取ってきて、その片端をプールの中に入れる。ホースを伸ばしながら浴室へ。ヒメはまだ、浴槽の中で眠っている。
 浴室の水道にホースを繋げ、蛇口のレバーを上げると急いでまた洋室へ。プールに入れたホースの片端を手に持って、待つ。間もなく、水道から届いた水が、ホースから噴き出してきた。
 プールの中に十分に水が溜まったところで、ブルーシートを敷き詰めた床にホースを向ける。ビショビショになるまで、ブルーシートを濡らす。
 浴室へ戻ると、ちょうど目を覚ましたヒメが浴槽から顔を出していた。浴室に入った時に僕が起こしてしまったのかもしれない。でも、丁度いいタイミングだ。僕はヒメを抱き上げると、そのまま浴室から出て、ブルーシートを敷いた廊下に降ろした。
ヒメが身体を起こして部屋の奥を見た。すっかり様変わりした部屋の中を。
 すぐに、ヒメが動き出した。ヒメは濡れたシートの上を滑るように進んだ。いや、文字通り、滑っていた。真っ直ぐにダイニングキッチンを通り抜けたヒメは、広くなった奥の洋室のシートの上で身をひるがえして僕の方を見た。
 ありがとう、て、そう言っていた。
「気に入ったかい?」
 僕もヒメを追って奥の洋室に入った。
 濡れた部屋の中を一周したヒメがプールに気が付いた。ヒメがまた僕の方を見た。
「いいよ、入ってみて」
 僕がそういうと、ヒメは頭からプールに滑り込んだ。ヒメが、プールの中を一周する。回遊できるほど大きくはないけど、狭くなった浴槽よりは自由に動ける。
 何周かしてから、ヒメが顔を出した。よろこんでいた。ヒメは、よろこんでいた。僕にはそう見えた。ヒメは、満足してくれたようだ。
「ヒ、メ」
 改めて、僕はヒメを呼んでみた。ヒメは、照れているのを隠すたように、また水に潜ってしまった。

 六月になった。
 僕がヒメのために、改装? DIY? した部屋を、ヒメは気に入ってくれた。今ではヒメは、起きている間はずっと洋室にいる。ブルーシートの上を這いまわったり、プールに浸かったり。ヒメにしてみればけして広くはないスペースだろうけれど、それでも好きなように動き回っている。
 昼間でもサッシ戸の前のカーテンは閉めていた。水路の対岸からは僕の部屋は丸見えだ。ヒメの姿を見られたらたいへんだ。
 布製のカーテンはすぐにビショビショになった。僕は通販でビニール製のカーテンを買って付け替えた。
 僕も、部屋にいる時はTシャツと短パンでいた。濡れてもいいように。
 暑くなってきていた。僕が大学へ行っている昼間、閉め切った部屋の中の温度はかなり高くなっているはずだ。ヒメは大丈夫だろうか。心配になる。
 ヒメにとってもっとも快適な温度は、どれくらいなのか……わからない。これからもっと暑くなったら、エアコンで冷房を入れておいた方がいいだろうか。そんなことを考えた。でも、冷房が効きすぎて、かえって寒くなってしまったら……
 部屋には水を張ったプールも、浴槽もあるし。暑くなったら、自分で何とか……ヒメに任せる、しかないだろう。そう思い直した。
 そしてそのヒメは……更に大きくなっていた。身長は、160センチ……いや、尾ひれの部分まで入れるともっと大きいかもしれない。僕と同じくらいだ。
 体つきは、変わらない。相変わらず、スマートでシャープ。
 身体の色は……青が、一段と輝きを増した。尾ひれの先端まで、輝く青。サファイアの光度が増したように見える。そんなことがあるのか僕にはわからないけど。
 触手の透明な部分はすっかりなくなり、真っ白になった。少し長くなったかもしれない。全身が大きくなったから、だけじゃなくて。
 顔つきは、変わらない。あどけない少女の顔。いや、少しだけおとなびただろうか……僕がそう感じているだけかもしれない。
 ヒメの生活パターンは、また少し、変わった。
 睡眠時間が短くなった。朝食を摂った後も、ヒメは眠らずに部屋の中を動き回るようになった。仕方なく僕は、ヒメを部屋に残したまま大学へ行った。後ろ姿を見つめられながら部屋を出るのは、ほんとにつらかった。でも……仕方ない。
 食事は洋室のブルーシートの上で食べた。ヒメは、シートの上に直に置いた皿に直接口を付けて。僕は胡坐をかいて、トレーを膝に乗せて。
 動いていない時のヒメは、いつも腹ばいか、その姿勢のまま上半身を起こしていた。ヒメは、映画やアニメの人魚みたいにお尻をついて座ることができないみたいだ。だから、食事の時は腕立て伏せの姿勢になる。そんな姿勢でもヒメは少しも苦しそうじゃない。いつまででもそうしていられる。僕はヒメの身体の柔らかさと腹筋背筋の強さに感心した。
 大学から戻ると、夕食だ。大学の帰りにそのままスーパーに寄るようにした。
 夕食後もヒメは眠らなかった。だから夕食後はまずシャワーを浴びることにした。シャワーの時は浴室を使った。
 それから部屋の掃除。シャワーを出しっ放しにしてヒメに一人で浴びていてもらって、その間に僕は雑巾で部屋じゅうのブルーシートを拭いた。カーテンとサッシ戸を開けて湿った空気の換気もした。ビニールプールの水をテラスに流して、プールも雑巾で拭いた。
 それからまた、浴室へ。シャワーを止めて水道にホースを繋ぐ。ヒメといっしょに浴室を出る。プールに新しい水を入れながら、シートにも水を撒く。ヒメは、シートの上を滑ってホースから出る水を追いかけた。
 それから深夜まで、ヒメと過ごした。プールで水を浴び、部屋の中を滑って動き回るヒメを見ながら。
 部屋の灯りは暗くしていた。カーテンは閉めているものの、深夜まで部屋の灯りが点いているのもどうかと思って。ヒメもきっと、暗い方が好きだ。僕は勝手にそう思った。暗闇の中では、ヒメの肌は輝かない。サファイアの、海の輝きを見ることができない。それでも……それでもヒメは、十分にきれいだった。
 深夜、ようやくヒメが眠りに就く。眠くなると、ヒメは自分で浴室へ行って、浴槽の中で丸くなった。やっぱりそこが、ヒメのベッドだ。ヒメに合わせて僕も睡眠を摂った。濡れたシートの上にそのまま布団を敷くわけには行かないから、浴室前の廊下のブルーシートをまくり上げてそこに布団を敷いた。
 僕の睡眠時間も必然的に短くなっていた。僕の中に分泌し続けているアドレナリンのせいだろう、ヒメといる時は少しも眠くならなかった。でも、布団に入ると途端に睡魔が襲ってくる。あっという間に意識を失う。そして僕は……ヒメの夢を見た。

 その夜も僕は、ヒメが浴槽の中で丸くなったのを見届けてから、浴室前に敷いた布団の上に横になった。
 ヒメが眠る浴室の方を見ながら、思った。
 以前は浴槽の出入りのためにヒメを抱き上げてあげなければならなかった。でも、大きくなったヒメはもう、浴槽の出入りも自分でできるようになっている。僕が抱き上げる必要はない……それが、少しさびしい。もっとも、今のヒメは、重くて、僕には持ち上げることはできないかもしれない……それに……
 ヒメと暮らし始めた頃、ヒメは、僕が小さい時に家にた熱帯魚の「ヒメ」だった。
 少し大きくなったヒメは、僕にとって手のかかる妹みたいな存在だったかもしれない。
 でも今のヒメは……女性。大人の女性だ。男性の僕が、女性であるヒメの身体を抱き上げていいものなのか……
「私、前からヒロ君のこと、好きだったんだ」
 いつか沙季さんに言われた言葉を思い出した。
 ヒメは……僕のことをどう思っているのだろうか。
 そんなことを思いながら、僕は眠りに落ちていた。
 
 右頬に、冷たい感触が走った。僕は、熟睡していた。何が起きているのかわからない。
 また、冷たい感触。今度は首筋だ。僕は目を開けた。真っ暗だ。
 起き上がろうとした。身体が動かない。自分の顔を左右に動かしてみた。顔は、動いた。動いた顔を、右側に回した。
 ヒメだった。僕の顔のすぐ横に、ヒメの顔があった。真っ暗な中、あの、ダイアモンドの目が光っていた。
「ヒメ……」
 かろうじて声が出た。
 ヒメが、僕を見つめながら、舌を出した。細くて、長い舌。暗くてその色はよくわからない。確か、ヒメの舌は、肌と同じ、青い、海の色。そんなことをぼんやりと思い出した。
 ヒメが、その舌で、僕の頬を、舐めた。いや、頬に触った。
 冷たかった。わかった。さっきの感触は、これだったのだ。
 続いて、僕の首筋を、もう一度。
 ヒメは、何をしているのだろうか。覚めきれない頭の中で、僕は考えていた。
 僕を、食べようとしているのだろうか……
 怖くはなかった。ヒメが、そんなことするはずない……そう思った。
 ヒメの舌が、僕の胸に伸びた。
 僕を食べるのではないとしたら、ヒメは……
 僕は、すぐそこにあったヒメの額に、自分の唇をあててみた。
 ヒメが顔を上げた。ヒメと目が合った。
 ヒメの舌が僕の胸から離れた。いったん持ち上がったヒメの舌が、僕の口元を左右に横断した。ヒメは僕に……キスしてくれたのだ。
 右腕を動かしてみた。動いた。
 動いた右腕を、ヒメの方に伸ばした。ヒメの身体があった。ヒメに、触った。ヒメの身体に触れるのは、いつ以来だろう。冷たくて、でも柔らかくて、スベスベとした、ヒメの身体。
 僕はそのままヒメを抱き寄せた。いや、ヒメが、ヒメの方が僕を、抱き寄せていた。ヒメの方が僕よりもずっと、力が強かった。
「ヒ……メ」
 声を出してみた。声は、出た。
「……向こうへ、行こう」
 僕はダイニングキッチンの方を見た。ヒメにとっては、布団の上よりも濡れたシートの上の方が気持ちいいだろう、そう思ったから。
 僕とヒメは抱き合ったまま、敷き詰めたブルーシートの上を滑るようにして、いや、本当に滑って、衝立と家具に挟まれてできた狭い通路に移動した。僕を抱いたヒメが僕を運んでくれた、て言った方がよかったかもしれない。
 僕は、改めてヒメを抱きしめた。
 僕の両手が、ヒメの背中の、あの柔らかな触手を感じていた。僕の全身が、ヒメの全身を感じていた。
 ヒメの頬に、鼻に、口に、首に、口づけた。ヒメも、その舌で僕の顔じゅうを撫でてくれた。
 更に強く、力を入れてヒメを抱きしめた。僕の身体をヒメに押し付けた。僕は、射精していた。それでも僕はヒメから離れなかった。ヒメも、僕から離れようとしなかった。ヒメと一つになれた。僕は、そう感じていた。

 どれくらい時間が経っただろうか。僕は目を開けた。いつのまにか眠ってしまっていたようだ。
 僕の横にいた、ヒメがいない。
 ヒメ……ヒメは……
 僕は起き上がった。起き上がることができた。暗い部屋の中に、ヒメの姿を探した。
 いた。ヒメは、奥の洋室のサッシ戸の前で、外を見ていた。僕の方に背中を向けて。
 閉めておいたはずのカーテンは少しだけ開いていた。カーテンの間から弱い光が差し込んでいた。月明りだろうか……
 
 その時。
 ヒメの背中が、光り始めた。
 背中だけじゃない。ヒメの頭から首、背中、腰に掛けて生えていた、あの、白くて柔らかい触手が……光り始めた。無数の触手がいっぺんに、青く……青く光り始めた。
 どこかの光を反射している、のではなかった。ヒメが……ヒメ自身が、光っていた。発光していた。
 きれい……だった。美しかった。
 なぜだろう。涙が出てきた。
 僕はヒメに近づこうとした。でも、動けなかった。近寄っちゃいけない。そう思った。
 きれい……美しい……いや、そんな言葉じゃ足りない。言葉が見つからない。
 それは……天使の美しさ……女神の美しさ……そう……神々しい……
 そんな言葉が頭に浮かんだ。でも……そんな言葉じゃ、まだ……それでも、まだ、足りない。
 ヒメの背中が、言っていた。光の束になったヒメの背中が、言っていた。動けないでいる僕に向かって、言っていた。
 わたしを見て。一番きれいな、わたしを見て。
 わかった。僕にはわかった。
 ヒメは、おとなになったんだ。今、この瞬間、ヒメは、おとなになったんだ……
 涙が、涙が止まらなかった。僕はただ、光り輝くヒメを、見つめていた。

 その次の日。夕方から小雨が降り出していた。そろそろ梅雨入りの時期だ。僕は濡れながらアパートへ向かって自転車を飛ばした。
 前の夜のことを思い出していた。今夜も、ヒメは僕のところへ来てくれるだろうか。そして今夜も、ヒメは、光り輝いてくれるだろうか……
 アパートへ着くと、ヒメはサッシ戸のカーテンの間から外を見ていた。
 前の夜、ヒメが青く光り輝いていた時、あの時もヒメは外を見ていた。ヒメは、月を見ていたんだと思う。月の光を吸収して、その力でヒメも光輝いていたんじゃないかと思った。
 今、ヒメが見ているのは、月じゃなくて、雨。ヒメが雨を見るのは初めてかもしれない。もちろんヒメは、光ってはいない。
 ヒメは今、何を思っているのだろう。雨を浴びたいのだろうか。シャワーを浴びるように。
 夕食後。いつもならシートの上を動き回る時間。でも、今日のヒメはずっと、サッシ戸から外を見ている。
 僕は、夜が更けるのを待った。
 深夜。ヒメは相変わらずサッシ戸の前で外を見ている。僕は、サッシ戸を開けてやった。ヒメが僕の顔を見た。
「いいよ、お行き」
 僕がそう言うと、ヒメはサッシ戸からテラスに這い出した。雨の深夜だ。誰かに見られることはないだろう。万一見られても、きっと暗くてわからないだろう。そう思った。
 小雨を浴びながら、ヒメがテラスを這いまわり始めた。コンクリートのテラスだ。ブルーシートの上のようには行かない。痛くないか、擦り剥いたりしないか、僕は心配しながらヒメを見守った。
 大丈夫そうだ。ヒメは、嬉しそうだった。楽しそうだった。やっぱりヒメは、雨を浴びたかったのだ。そう思った。
 狭いテラスを行き来していたヒメが、金網のフェンスの前で上半身を起こした。水路を見ているのだ。
 波に乗って、ヒメがやってきた水路。海から、自分で泳いで戻ってきた水路。
 水路を見ていたヒメが、後ずさりした。と、次の瞬間、ヒメが身体を反らして金網めがけてジャンプした。いったん金網に両手をかけたかと思うと、真上に飛び上がって金網を超えた。そしてそのまま、水路に頭から飛び込んだ。
「うわ!」
 僕は思わず声を上げた。ヒメの身体能力の高さに驚いたのと、ヒメが無事かという心配と、両方だった。
 僕は裸足のままテラスに飛び出して、金網越しに水路を見下ろした。
 ヒメは、無事だった。水路から顔を出して、こっちを見上げていた。ほっとした。
 ヒメはそのまましばらく、僕の方を見ていた。待っているだろうか。僕を。僕を?
 僕は水路の下にいるヒメに向かって叫んだ。
「僕は行けないよ!」
 わかったようだ。ヒメが水中に潜った。すぐに、ヒメの背中の触手が水面に現れた。
 次の瞬間、触手が水を切って進み始めた。海の方に向かって。あっという間に触手が水しぶきに変わった。すごいスピードだ。そしてそれも、すぐに見えなくなった。
 急に不安になった。ヒメは……戻ってきてくれるだろうか。今度こそ本当に、海に帰ってしまうのではないか……
 部屋に戻った僕は、サッシ戸を開けたまま、ブルーシートの上に座り込んだ。ヒメが外を見ていた、同じ場所に。
 僕は水路の方を見ながら、ヒメを待った。

 三時間が過ぎた。僕は立ち上がって、テラスに出た。金網のフェンスに手をかけて、そこから水路を、そしてその向こうの海を見る。何回目だろうか。やっぱり、じっとしていられない。
 ヒメは……帰って来ない。夜明けが近い頃だ。雨模様だから、外は少しも明るくならない。
 あきらめて部屋にもどる。ブルーシートの、同じ場所に腰を下ろす。そしてまた、水路の方を見る。
 その瞬間。金網の向こうに顔が見えた。ヒメだ。
 僕は立ち上がった。ほぼ同時に、ヒメが飛び上がった。ヒメは、あっという間にフェンスを飛び越えてテラスに飛び降りていた。コンクリートのテラスに両手を突くと、その勢いのまま弾むようにしてテラスに降りようとしていた僕に飛びついてきた。
 尻もちをついた僕の上を滑るようにして部屋の中に入ってきたヒメは、そのままシートの上をクルクルと回転した。
「おかえり、ヒメ」
 僕が言うと、ヒメはいったん僕を見て、それからまた回転を始めた。興奮冷めやらぬ、そんな様子だ。楽しかったのだろう。
 僕は浴室へ行って、水道の蛇口にホースを繋いだ。ホースを洋室まで引っ張ってきて、プールの中に水を出した。
 ヒメがプールに飛び込んだ。僕はホースの水をヒメに向けた。水を浴びたヒメが、顔を上げた。
「今、きれいにしてあげるからね」
 わかったようだ。ヒメがプールの中で身体をくねらせた。
 水をかけながら、ヒメの身体を点検した。怪我や擦り傷もなさそうだ。
「楽しかったかい?」
 改めてヒメに訊いた。ヒメがまた顔を上げて僕を見た。
 とっても楽しかったよ、ヒメの顔はそう言っていた。

 それから毎夜、ヒメは水路から海へ出かけた。今のヒメにはそれくらいの運動が必要なのだろう。
 その代わり、僕といる時間は短くなった。それに……ヒメが僕のところへ来てくれたのも、あの一度きり。ちょっと、さびしかった。
 海に行く時、ヒメはテラスから軽々とフェンスを飛び越えた。帰って来る時は自分でコンクリートブロックを登ってきた。ヒメの指先は吸盤になっていて、それを使ってコンクリートブロックも簡単に登ることができるようだった。
 フェンスの向こうまで登ってきたヒメがフェンスを飛び越えて着地する時に痛くないように、僕はテラスにマットレスを置いてあげた。これもネットの通販で買った。
 ヒメの姿を誰かに見られないか、少し心配した。水路や海では、ヒメはたぶん水中に潜っている。暗い夜だし、ヒメの泳ぎは早い。だいじょうぶだろう。
 テラスから水路に上り降りする時もヒメの動きは素早い。部屋やテラスは暗くしているし、そもそも深夜に僕のアパートを覗く人はいないだろう。そう思った。
 一つだけ気になることがあった。ヒメはいつも、水路に飛び込んだ後しばらくの間、僕を見上げていたことだ。暗い夜の水路だ。ヒメの顔も目も、明るい中にいる時のようには輝かない。それでも微かに光るヒメの目が、僕を見上げていた。
 僕を、誘っている……いっしょに行こう、そう言っている。僕にはそう思えた。
 でも……それは……僕にはできない。いや、それなら……それなら、僕も。

 次の週末。ヒメを部屋に残したまま、僕は自転車で買い物に出かけた。
 行く先はマリンスポーツの専門店。このあたりの海岸はサーフィンやボードセイリングのスポットだ。だから、近くにそういう店もあった。もちろん僕は、マリンスポーツ、ていう柄じゃない。でも。それでも。
 そこで僕は、ウエットスーツを買った。真夏ならともかく、この時期に水に入るためには必需品だ。通販でも手に入ったのだろうけど、さすがにこれは、試着してみないと。そう思った。
 それから、足ヒレ。ダイビングをする時に使うもの。フィン、ていうらしい。深く潜るつもりはないけど、やっぱり素足というわけには行かない。
 そして、ゴーグルとシュノーケル。ゴーグルもダイビング用のもので、鼻で息をするためのマスクがついている。シュノーケルは必要ないと思ったけど、セットで安くなるって、店長さんに勧められて。
 ヒメの食費やこの前の部屋の内装で、わずかな貯金は使い果たしていた。だからカードで。分割払い。
 店長さんは、いかにもサーファー、ていう感じのおじさんだった。その店長さんに着方や使い方を説明してもらって、実際に試着してみた。
 僕が試着室で試着をしていると、隣の試着室から話し声が聞こえた。他のお客さんが話をしているらしい。
「津波起こした海底火山、ようやく治まったみたいね」
 女性の声。ヒメを僕の部屋に運んできた、あの津波、あの火山のことだ。
「海底火山って、どうなってるのかな? ねえ、潜ってみない?」
 女性の声が続ける。
「また噴火したらどうすんだよ。危ないよ」
 男性の声。
「弱虫ね」
「……それに、どうやってそこまで行くんだよ」
「ショウちゃんのクルーザーで」
「そんなとこまで無理だよ。それに深い海底だろ? 行っても潜れないよ」
「そっか……残念」
 話を聞きながら、僕は思った。
 そこは……そこはきっと、ヒメの故郷だ。
 活動が治まった……ヒメの故郷は、無事だっただろうか……試着したウエットスーツを脱ごうとしていた僕の手が止まった。
 そこには、ヒメの家族や仲間もいるのだろうか……だとしたら……ヒメはやっぱり、そこに帰った方が……
 そんな考えがまた、浮かんできた。僕はあわててそれを否定した。
 ヒメは、海へ行っても必ず、僕の部屋に帰って来る。ヒメの故郷は火山のある海じゃない。ヒメの故郷は、僕のアパートだ。

 その夜。夕食後、ヒメが海に行く時間。僕は浴室へ行って、ウエットスーツを着て、その上からシャワーを浴びた。
 浴室から出てヒメのいる洋室に行くと、プールの中にいたヒメがウエットスーツ姿の僕を見上げた。
「似合うかな?」
 訊いてみた。ヒメが不思議そうに首をかしげた。
「今日は、僕もいっしょに行くから」
そう言って、僕はサッシ戸を開けた。雨は降っていない。ヒメがプールから這い出して、テラスに降りる。僕もヒメを追ってテラスに出た。
 一度僕の方を振り向いたヒメが、すぐに飛び上がって金網のフェンスを越えた。そのまま水路へ飛び込む。
 僕は、フェンスの金網越しに水路を覗き込んだ。水路の下から、ヒメが僕の方を見上げていた。いつものように。
「今行くよ。待ってて」
 そう言って僕は、フェンスに設置しておいた縄梯子を水路に降ろした。
 縄梯子も通販で買った。アパートの二階の部屋にはもともと設置されているのだろうけど、一階の僕の部屋にはなかった。大家さんに言えば付けてもらえたかもしれないけど、これは自腹で。
 僕もフェンスを乗り越えた。海藻のかたまりに包まれていた小さなヒメを掬い上げた、あの日のことを思い出した。
 コンクリートブロックの塀の上から水路を見る。ヒメはまだそこで僕を待っていてくれた。
 水路の対岸を見た。住宅の窓から漏れる灯りが見えた。もたもたしてはいられない。誰かに見られないうちに。
 足ヒレを付けて、縄梯子を降りた。水面に足が届くところまで降りると、そのまま足から飛び込んだ。
 身体を水に慣らす。ヒメは僕のそばで待っていてくれた。
 額に乗せていたゴーグルを下ろし、シュノーケルを噛む。
「さ、行こう」
 僕が言うと。ヒメが海の方に向かって泳ぎ出した。例の、あのスピードで。
 僕はあわてた。とてもついて行けない。僕は泳ぎが得意、というわけではない。海は好きだった。でも、海で泳ぎたかったわけじゃない。泳ぐのは高校の体育の授業以来だ。
 僕は平泳ぎでヒメを追った。なかなか進まない。
 気が付くと、すぐそばにヒメがいた。僕を心配して、ヒメが戻ってきてくれたのだ。
 遅くてごめん……そう言おうとしたけど、シュノーケルを口に含んでいるから話せない。
 突然、ヒメが抱きついてきた。あっ、と思った瞬間、僕を抱いたまま、ヒメが泳ぎ出した。あのスピードで。
 息ができない。どうしよう。僕はシュノーケルを吐き出した。やっぱり買わなければよかった。
 ヒメが、水中に潜った。僕を抱いたまま。苦しい。僕は身もだえして、ヒメの肩をたたいた。
 ヒメが、止まった。僕の様子に気が付いてくれたようだ。水面上に顔が出た。僕は激しくむせ込んだ。
 しばらくしてようやく、呼吸が整った。水中で、ヒメが僕を支えていてくれた。いつの間にか、左足の足ヒレが無くなっていた。
「……僕は、水の中では息ができないんだよ」
 僕がそう言うと、ヒメが僕を離した。いったん僕から離れたヒメが、僕の後ろに回り込んで、また僕を抱きかかえた。ヒメが仰向けになった。ヒメに抱かれた僕も、仰向けの形になった。夜空が見えた。
 ヒメがまた泳ぎはじめた。背泳ぎのかっこうだ。今度は、さっきよりだいぶゆっくりだ。もう僕の顔が水に潜ることはない。
「……ありがとう、ヒメ」
 ヒメにお礼を言った。
 左右に視線を遣ると、水路の両岸のコンクリートブロックが見えた。その間は、暗い夜空。
 間もなく両側に見えていたコンクリートブロックが見えなくなった。水路の幅が広がったのだ。黒い幕が降りてきて、夜空も見えなくなった。橋の下をくぐっているのだ。あの、海岸沿いの道路の橋だ。
 その幕が足元の方に降りて行くと、再び夜空が現れた。小さな星が見えた。きっともう、海だ。それでもしばらく、ヒメは泳ぎ続けた。
 ヒメが、止まった。僕を離して、ゆっくりと僕の隣に移動した。
 暗い、夜の海が見えた。立ち泳ぎをしながら、僕は身体を回した。
 光の帯が見えた。夜空の星を集めたような、真っ直ぐな帯が、海の向こうに輝いて見えた。そっちの方向が海岸なのだろう。光の帯はきっと、海岸沿いを走る道路の灯りだ。
 光の帯の上にも、星を散りばめたような光が見えた。きっと、高台にある住宅の灯りだ。
 きれいだ……ヒメが見せてくれた、夜景。この場所でしか見られない、最高の夜景……
「……ありがとう」
 改めて、ヒメにお礼を言った。
 僕に顔を向けたまま、ヒメがゆっくりと、水面に沿って身体を伸ばした。ヒメの背中の触手が水面に浮かび上がった。
 その触手が……光り始めた。青く、光り始めた。
 光るヒメを見るのは、二度目だ。一度目は、月の夜だった。僕は、ヒメは月を見て光るのだと、かってに思い込んでいた。
 違った。今夜、月は見えない。
 光は……光はヒメの、喜び。歓喜。そう思った。ヒメは……喜んでいるんだ。そう思った。
 あるいはそれは……ヒメの、幸せの表現、かもしれない。僕はそう思った。
 わたし、幸せだよ。ヒロくんに出会えて、幸せだよ。
 ヒメが、そう言っていた。僕にはわかった。ヒメが、僕を見ながら、そう言ってくれていた。
 海岸の方に見える夜景は、美しかった。でも僕の目の前で光るヒメは、その何倍も、何十倍も、何百倍も、美しかった。
「……ヒメ」
 僕は足をばたつかせて、ヒメに近づいた。そして光るヒメを、思いっきり、抱きしめた。

 彼は、ゆっくりと、泳ぎ始めた。
 ようやく身体が動かせるようになった。
 ものすごい衝撃だった。彼の周囲の世界は一変してしまった。そして彼自身も深い傷を負った。傷が癒えるまでにかなりの時間を要した。
 動けるようになった彼が最初に感じたのは、空腹。
 食べ物を探さなければ。
 以前は彼の周囲に豊富な食物があった。魚やイカ類。しかし今、その姿は見えない。
 探せ。食物を探せ。
 海底から噴き出したマグマが、それまでそこに存在しなかった大きな岩礁を造っていた。今も高温の泡を吹き続けている岩礁を大きく迂回し、北側の海に出た。
 その時。
「声」を聴いた。はるか遠くから、海の中を響いて届いて来る、「声」。
 雌だ。雌の声だ。
 食欲と共に、彼が感じたもう一つの本能。
 自分の子孫を造らなければ。そのために、雌を確保しなければ。
 その声は、歓喜に満ちていた。
 雄だ。その雌は、別の雄と一緒にいるのだ。
 奪え。その雌を、奪え。
 彼は声のする方に向かって泳ぎ始めた。

 同じ方角から、別の「音」が聞こえた。「声」ではなく、「音」だ。
 以前にも聴いたことがある。海の上を走る、大きなかたまり。
 生物ではない。しかし、そのかたまりの上には、生物がいる。つまり、食物が。
 まずは、食物だ。空腹を満たす。雌を捕まえるのは、それからだ。
 彼は、その巨大な尾ひれを大きく動かして、速度を上げた。

 金曜日。大学での仕事中も、僕の胸はときめいていた。
 週末だ。ヒメと過ごせる。ヒメと、海へ行ける。そう思って。
 前の週の週末、僕はヒメといっしょに海に行った。あらからヒメと海に行っていない。あの夜はさすがに疲れた。久し振りに泳いだこともあったけど、翌日はなかなか起き上がれなかった。だから、毎夜、ていうわけには行かない。それに、僕がいっしょだとヒメの泳ぐ速度が遅くなる。水中に潜ることもできない。僕のせいで人に見つかってしまうかもしれない。そう思った。だから。
 でも、今日は週末。今日なら。
 僕の睡眠時間はますます短くなっていた。それでも仕事中、眠くなることはなかった。僕の中ではきっと昼間でもアドレナリンが生産され続けているのだろう。そのせいで眠くならない、そう思っていた。
 昼休み。ヒメと海に行くなら、今のうちに少し睡眠を摂っておいた方がいいかもしれないと思った。僕は事務机に座ったまま、目を閉じた。
 一瞬、意識が遠のいた。気が付くと、十五分が過ぎていた。仮眠していたようだ。かえって頭が重くなったような気がした。僕はスマホを開いた。寝ぼけている頭を覚醒させるためだ。
 ニュースの記事が目に入った。
『太平洋上で小型漁船行方不明』
 気になった。開いてみた。
『太平洋上を航行中の小型漁船と連絡とれず。遭難の可能性。原因不明。天候は晴天、海上も穏やかであったと思われる』
 そんな記事だった。記事の下に小さな地図が表示されていた。見覚えがあった。太平洋、例の海底火山のあるあたりと、日本列島、僕たちのいる、この街あたり。以前、タブレッドでヒメに見せてあげた、あの地図。
 漁船が行方不明になった場所だろう、海底火山と日本列島のちょうど中間点あたりに×印が表示されていた。
 気になった。ヒメを運んできた、海底火山。ヒメの故郷だったかもしれない、海底火山。そこから僕のアパートのあるこの街を直線で結んだ、その線上に、×印はあるように見えた。
 単なる……偶然だ。遭難なら、気の毒なことだ。でも、ヒメには、僕とヒメには、関係ない。そう思い直した。
 その時。職員同士が話しているのが聞こえた。
「人魚がいるらしいわよ」
 心臓が、止まりそうになった。
「どこに?」
「それが、すぐそこの海岸」
「まさか」
「でも、見たって、SNSで話題になってる」
 僕もすぐに検索してみた。
 あった。確かに、人魚を見た、ていう記事。そして、それに対する、書き込み。
『見間違いだろ』
『フェイクに決まってる』
『何かのキャンペーン?』
『でもホントだったら、夢あるね』
『日本の、しかもそんなとこに?』
『私も人魚、見てみたい』
『近所だから行ってみる』
『人魚いたら、録画して』
『いっそのこと捕まえてよ』
『よし、捕まえに行こう!』
 息が、できなかった。スマホを持つ手が、震えた。
 ヒメは、あれから毎夜、海に出かけていた。ヒメだけなら、人に見つかることはない、そう思っていた。それなのに……
 どうしよう。ヒメに……海に行くことを止めさせようか。でも、一晩中ヒメを部屋に閉じ込めておくなんて、できない……どうしよう。どうすればいい?
 スマホを閉じた僕は、そのまま机の上に、顔をうずめた。

 僕がアパートへ帰ると、ヒメはプールの中にいた。
 今日もヒメは、海へ行くことを楽しみしているはずだ。でも……海岸にはきっと、人がいる。
 SNSの書き込みを思い出した。
「人魚を見てみたい」「録画して」「捕まえに行こう」
 だめだ。ヒメが見つかったら、たいへんだ。
 その時……気が付いた。ヒメの様子がおかしい。ヒメはいつも、僕が帰るとすぐにプールから顔を出して、食事を催促してきた。でも今日は……ヒメは、プールの中で丸まったままじっとしている。
「……ヒメ?」
 僕は声をかけてみた。ヒメは、動かない。
 ヒメのこんな様子を見るのは、初めてだ。体調が悪いのだろうか。心配になった。
 僕はダイニングの衝立のブルーシートをまくり上げてキッチンに入った。冷蔵庫の中にあった刺し身を皿に盛りつけ、またヒメのところへ。
「食事だよ」
 僕がプールに向かって皿を差し出すと、ヒメが顔を出した。その顔は……憂鬱そう? に、見えた。気のせいだろうか。
 ヒメは、刺し身の皿に少しだけ口を付けただけで、またすぐに水の中に顔を沈めてしまった。僕はため息をついた。
「……ヒメ、大丈夫かい?」
 僕はプールの横に座って、水の中で丸くなっているヒメに呼び掛けた。ヒメは動かない。
 ヒメは……海に行けないのがわかっていて、それで元気がないのだろうか。
 サッシ戸のカーテンを、開けてみた。ヒメがプールから顔を出した。
 サッシ戸に手をかけて、少しだけ、開けてみた。ヒメは……動かない。もう少し広く……それでもヒメは……動かない。もう少しだけ……ヒメはまた、プールに潜ってしまった。ヒメは……外に出ようとしない。海に行こうとしない。
 海で何かあったのだろうか。前の夜、人に見られてしまったことをヒメもわかっているのだろうか。それがSNSの話題になっていることも……
 ひとまず安心ではある。ずっと部屋にいれば、誰かに見つかることはない。でも……
 僕の心の中の天秤は、左右に大きく揺れていた。
「テロリン」
 そんな僕の心の天秤を押し倒すように、スマホが鳴った。ラインの着信音だ。僕はスマホを開いた。
 沙季さんからだった。
『会いたい。会ってもらえないかな。ヒロ君に、会いたい』

 翌日の土曜日。僕はずっとヒメのそばにいた。あいかわらず、ヒメに元気は……ない。ずっとプールの中にいる。プールから、出ない。
 時々、プールの中から顔上げて、外を、水路の方を見ていた。いや、水路じゃない。斜め右、水路が流れる方向。そう、海。ヒメは海の方を見ていた。
 やっぱり海へ行きたいのだろうか……でも違う。サッシ戸を開けてあげても、ヒメは外へ出ようとしない。プールに潜ってしまう。まるで隠れるように。それでもまた、しばらくすると、海の方を見る。海の方を、気にしている……
 それまでヒメは、眠る時は浴槽の中で寝ていた。今は、浴槽へも行かない。ずっとプールの中にいる。プールの中で、眠る様子もない。眠ることさえできないのだろうか……
 シャワーを浴びさせてあげようと思って、浴室でシャワーを出してみた。浴室から届くシャワーの音を聞いても、ヒメは動かない。抱き上げて浴室へ連れてゆくことはできるかもしれないけど、そんなことをしても……ヒメはきっと、喜ばない。
 食欲もない。シャワーも浴びようとしない。病気だろうか……心配だった。もう、海に行かなければ安心、なんて、言っていられなかった。
 医者に見せた方がいいのだろうか……わかってる。そんなことできない。誰にも……誰にも相談できない。
 ふと……思った。沙季さんなら……ヒメのことを、僕とヒメのことを、わかってくれるだろうか。
 スマホを開いた。『会いたい』ていう沙季さんからラインは、そのままにしてあった。僕は……沙季さんと会うことにした。

 沙季さんとは翌日の日曜日の昼過ぎ、駅前の喫茶店で待ち合わせた。
 沙季さんと最後に会った時、僕は沙季さんと海岸まで歩いた。沙季さんが、「海が見たい」て言ったから。でも今の僕は、海を見たくなかった。海岸に近づきたくなかった。
 僕たちは、窓際のテーブル席に向かい合って座った。コーヒーが運ばれてくると、沙季さんがゆっくりと話し始めた。
「……会社の三つ先輩だったの。私のこと、いろいろと面倒みてくれて……」
 沙季さんが、他に好きな人ができた、て言ってた、その人のことだ。
「てきっり、私に好意をもってくれてるんじゃないかって、そう思っちゃって……でも、私の勘違いだった。他に……付き合ってる人がいたの。その人」
 僕は、黙って聞いていた。
「私、ばかだから……世間知らずで」
 そんなことない……て、思った。少なくとも僕なんかよりは、ずっと……
「でね、今さら……私の方からこんなこと言えた義理じゃないんだけど……」
 義理、て、何だろう。
「ヒロ君とまた、時々会えたら、て、思って……こうやってまた、私の愚痴、聞いてくれたら、て……」
 僕も、沙季さんに話したいことがある……
「もちろん、付き合うとか、そういうんじゃなくて、友達として……最初から……」
 僕は……黙っていた。
「やっぱり……だめかな……私のこと、もう、嫌いかな……」
 沙季さんのことは、嫌いじゃない……でも……そうじゃなくて……
「会って欲しい人がいる」
 僕の方から切り出した。
「え?」
 沙季さんの驚いた顔。当たり前だろう。
「……それって、女の人?」
「……たぶん」
 そう、たぶん。
「だから、今から僕のアパートに来てほしい」
「ヒロ君のアパートに今、その人がいるっていうこと?」
「……うん」
 僕はうなずいた。
「ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの」
 沙季さんの声が大きくなった。
「ヒロ君に彼女がいるなら、私……」
「いや、そうじゃなくて……」
 何て説明していいのか、僕にもわからなかった。
「……とにかく、来てほしい」
 沙季さんがうつむいた。
「……行けない。やっぱり、会えないよ」
 沙希さんがいきなり立ち上がった。そのまま出口に向かおうとする。
「待って」
 僕は沙季さんの腕をつかんだ。沙希さんがテーブルにぶつかって、テーブルの上のコーヒーがこぼれた。
 沙季さんはそれに反射するように、テーブルの上にあったおしぼりを手に取ってこぼれたコーヒーを拭いた。
 すぐに店員さんが来て、沙季さんといっしょにテーブルを拭き始めた。
「……ごめんなさい」
 沙季さんが、誰に向かってでもなく、つぶやいた。
「……行こう」
 僕も、ゆっくりと立ち上がった。

 僕は黙ってアパートまで歩いた。沙季さんも黙ったまま、僕に付いてきてくれた。
 アパートに着くと、僕は部屋の玄関のドアを開けて、沙季さんを先に入れた。
「……何? これ」
 薄暗い部屋の中、奥まで敷き詰められたブルーシートを見た沙季さんが、強張った声を出した。
「引っ越し? 荷物の搬入?」
「いや」
 僕は玄関脇の靴箱からスリッパを出した。
「床が濡れているから、気を付けて」
「濡れてる? どういうこと?」
「……来て」
 沙季さんの質問に答えないまま、僕は先に立って部屋の奥に向かった。沙季さんが僕に続いて部屋に入った。
 ブルーシートの壁に挟まれたダイニングの通路から、奥の洋室へ。
 カーテンを閉め切ったままの暗い部屋、濡れたブルーシートの上、一番奥にあるのは、ビニールプール。そして……その中にいるのは……ヒメ。
 ヒメが身体を起こして、こちらを見た。
「ただいま」
 僕が言うと、ヒメはまたすぐにプールの中に潜ってしまった。僕の後に、沙季さん、ヒメが初めて見る人間がいたからだろう。
 沙季さんは、洋室に入ったところで立ち止まっていた。
「何……今の?」
 沙季さんの声が震えていた。
「来て」
 僕は振り返って、沙季さんを手招きした。沙季さんが、恐る恐る、僕に近づいてきた。
 僕の横まで来た沙季さんが僕の腕をつかんだ。僕は、プールの中のヒメに呼び掛けた。
「出ておいで。紹介するよ」
 ヒメが、水から顔を出した。
「ヒッ」
 沙季さんが声を上げた。
「ヒメ、こちらは沙季さん。僕の……友達」
 ヒメが沙季さんを見た。
「……これ、魚? それとも……人?」
 沙季さんが言った。
「……ヒメ」
「……この子、ヒメ、ていうの?」
「そう」
 沙季さんは、「この子」ていう言い方をした。
「この子、どうしたの? いつからいるの?」
「海底火山の噴火があった日、津波でここまで運ばれてきたんだ」
「……」
 沙季さんは、顔を横に振った。
「届けなくていいの? その……保健所とか、警察とか」
「そんな必要ないだろ」
「……危険じゃないの?」
「全然」
「でも……人並みの大きさでしょ」
「ここに来た時は、ずっと小さかったんだ」
「そうかも知れないけど……」
 沙季さんは……怖がっていた。ヒメのことを、怖がっていた。
「それに……この部屋は何? この子のため?」
「そう」
 ヒメはじっと、僕たちを見上げていた。不安そうだった。
「……変だよ。ちょっと……異常だよ」
 僕の腕をつかんでいた沙季さんの力が強くなった。沙季さんの、僕を見る目が険しくなった。
 僕は、ヒメを沙季さんに合わせてことを後悔し始めていた。この様子では、ヒメに元気がなくなったことを話したり、これからどうすればいいのか相談したり、そんなことできそうもない。
 やっぱり、合わせない方がよかったのだろうか……ヒメのことは、誰も理解してくれないのだろうか……誰も、僕たちの味方になってくれないのだろうか……それなら……せめて……
「お願いがある」
 僕は沙季さんに向き直った。
「ヒメのことは、誰にも言わないでほしい」
「でも……」
「お願いだから」
「……」
 沙季さんはまだ、ヒメのことを信じていない。
「大丈夫、だから」
 僕は声に力を込めていた。
「……わかった」
 わかって……くれただろうか。
「……私、帰る」
 沙季さんが言った。
「駅まで送るよ」
「……大丈夫。一人で帰る」
 沙季さんが玄関に向かった。
「ヒメに会ってくれて、ありがとう」
 僕は沙季さんに言った。
「あの……」
 何か言おうとして、沙季さんはまた、うつむいてしまった。
「また連絡するから」
 そう言ってから、沙季さんはもう一度、部屋の奥を覗き込んだ。ヒメがプールの中から顔を出して、僕と沙季さんを見ていた。

 夕方、僕はスーパーへ行った。ヒメに食欲はない。それでも食べる物は用意しておいてあげないと。
 帰り道。上空から大きな音が聞こえた。ヘリコプターの音だ。僕は自転車を漕ぎながら、顔を上げて空を見た。海岸の方に向かってヘリコプターが飛んで行くのが見えた。
 アパートへ帰ると、奥の部屋のサッシ戸の前のカーテンが、揺れていた。外からの風で、揺れていた。サッシ戸が、開いている、ていうことだ。出かける時に閉め忘れたのだろうか。いや、そんなはずは……
 胸騒ぎがした。僕はプールに駆け寄った。
 ヒメは……いた。プールの中で、丸くなっていた。ほっとした。僕は胸をなでおろした。
「ただいま、ヒメ」
 水の中のヒメが、少しだけ顔を動かして僕の方を見た。でも……そのまま動かない。相変わらず、元気がない。
 ヒメは、沙季さんを連れてきたことを怒っているだろうか……そんなことを思った。
 それにしても……サッシ戸は、どうして……
 僕が閉め忘れるはずない。それなら……ヒメが開けたのだろうか。
 ヒメは以前、自分で浴室の扉を開けたり、シャワーのレバーを上げて水を出したりしたことがある。僕の動作を見て覚えたのだ。それなら、サッシ戸の開け方も覚えたかもしれない。サッシ戸の錠は、三日月形の錠を下に降ろすだけで開けられる。錠を開けて、サッシ戸を横に引けば……ヒメが、自分でサッシ戸を開けて……一人で、外へ?
 テラスに出てみた。サッシ戸さえ開けられれば、ヒメが、自分で金網のフェンスを飛び越えて、海へ行って、すぐにまた戻ってくることは可能だ。でも、この前からヒメは、海へ行こうとしなかった。なのに、なぜ……
 遠くでまたヘリコプターの音が聞こえた。金網のフェンスのところまで行って、水路を見てみた。海色の水が、ゆっくりと流れている。その先の海の方へ目を遣る。
 海の手前、橋の上が、なんだか騒がしい。橋の上にパトカーが停まっている。橋の上を行き来する警察官の姿も見えた。
 橋の向こうの海の上空を旋回しているヘリコプターが見えた。また胸騒ぎがした。僕は部屋へ戻った。
「ヒメ、何があったの?」
 ヒメは動かない。
 その時。
「テロリン」
 スマホが鳴った。沙季さんからのラインだった。すぐに開いてみた。
『ニュース見た? 海岸、大変なことになってるよ』
 沙季さんのラインには返事をしないまま、僕はスマホのニュースを開いた。
『海岸でサーファーの男性 行方不明』
 このことだ。
『本日午後、海岸近くでサーフィンをしていた男性が突然、海上から姿を消した。海上保安庁および県警が捜索しているがいまだ行方不明』
『近くでいっしょにサーフィンをしていた友人の証言では、海中から何かに引き込まれたように見えたとのこと』
『海上保安庁および県警は、サメの可能性もあるとみて、不明男性の捜索にあたるとともに海岸付近の警戒を強めている』
 橋の上に見えたパトカーと警察官はこのせいだったのだ。
 関連するSNSの書き込みも見た。
 息が、止まった。
『サーファーが行方不明になった海岸って、例の人魚が出たとこでしょ?』
『それきっと、人魚の仕業だよね?』
『そうに決まってる。海の中に引き込まれたって話だし』
『人魚って、そんなことするの?』
『人間食べるんじゃね?』
 ヒメじゃない……ヒメは、そんなことしない。
『もっと大きな、鯨みたいなの見たっていう話もあるみたいだよ』
『巨大ザメ?』
 そうだ。きっとそいつの仕業だ。
『ブルルル、ブルルル』
 スマホが鳴った。今度はラインじゃない。電話だ。沙季さんだ。僕からの返事がないから、待ちきれずに電話してきたんだ。
「はい」
 僕は電話に出た。
「ニュース、見た」
「うん」
「サーファーが行方不明になった海岸って、ヒロ君の近くの海岸でしょ?」
「……うん」
「大丈夫?」
「何が?」
「何がって……その……」
「僕は大丈夫」
「……あの子、今どこにいるの?」
 ヒメのことだ。
「ここにいる。僕の部屋に」
「……ねえ、その子、本当に危険じゃないの?」
「……どうして?」
「ネットで話題になってるよ。人魚の仕業じゃないかって」
「……」
 知ってる。でも……僕は答えなかった。
「……その子、ずっとそこにいたの?」
「もちろん」
「……」
 今度は沙季さんが黙り込んだ。
「ねえ、今からそっちに行ってもいいかな? もう一度、その子に会わせて」
「どうして?」
「どうしてって……とにかく、行くから」
「……うん」
 僕は答えた。何も……何もやましいことはない。
「じゃ、今から行くから」
 沙季さんが電話を切った。
 ヒメは……ヒメはプールの中で丸くなったままだ。
 僕は、プールの中に両腕を入れてヒメを抱き上げた。そのまま引きずるようにプールから出して、ブルーシートの上に寝かせた。ヒメはおとなしくしていた。されるがまま、僕にその身をゆだねていた。
 僕もヒメの隣に横になった。
「大丈夫だよ。僕はずっと、ヒメといっしょにいるから」
 そう言って、僕はヒメを抱きしめた。

 しばらくして、玄関のインターフォンが鳴った。沙季さんだ。
 僕はいったんヒメをプールに戻してから、玄関に向かった。
 部屋に入るなり、沙季さんが言った。
「あの子、いる?」
「……うん」
「あの子と……二人きりにさせて」
「……いいけど、どうして?」
 ヒメから何か聞き出すつもりだろうか。ヒメは、しゃべれないのに……
「あの子、ヒロ君には何もしないかもしれない。ヒロ君は、あの子が生まれた頃からずっと一緒にいるから。でも他の人には、どうなのかしら」
「昨日ヒメに会った時も、ヒメは、沙季さんに何もしなかった……」
「それは、ヒロ君がいっしょにいたから。だから今度は、二人にさせて」
「……わかった」
 沙季さんを玄関に待たせたまま、僕は奥の洋室へ向かった。ヒメはプールの中からこちらを見ていた。
「沙季さんが、ヒメと二人で話がしたいんだって……」
 僕が話しかけると、ヒメが少し不安そうな顔をした、ように見えた。
「大丈夫だよ。僕は、隣のダイニングにいるから」
 そう言って僕は、ヒメに笑いかけた。
 ダイニングキッチンと洋室の間には引き戸があったけど、開け放しにしたままブルーシートを敷いて両方の部屋を繋いでしまっていた。僕はシートを留めていたガムテープを剥がして、シートめくりあげて引き戸が動くようにした。
「いいよ。来て」
 沙季さんを呼んだ。
「……ひとつ、約束してほしいの」
 沙季さんが言った。
「あの子がもし……私に危害を加えたら……その時は、警察に通報して」
「……大丈夫。ヒメは、そんなことしないから」
「お願い。約束して」
「……わかった」
 僕は目を伏せて、うなづいた。
 沙季さんがヒメのいる洋室に入った。
「もし何かあったら、声を上げるから、助けてね……」
 僕の方を振り向いて、沙季さんが言った。僕はもう一度小さくうなずいてから、引き戸を閉めた。

 僕は立ったまま、閉め切った引き戸を見つめていた。
 ドク、ドク、ドク、ドク……
 音が聞こえた。僕の心臓の鼓動。
 一、二、三、四……
 いつの間にか僕は、その音を数えていた。
 鼓動は一秒に一回って、決まっているのだろうか。そんなことを考えた。
 五十七、五十八、五十九、六十。
 洋室の中は、静かだ。何の音もしない。僕は、また一から、鼓動を数え直した。
 一、二、三、四……
 時間が、進む。
 六十までのカウントが何回目の繰り返しなのかもわからなくなって、僕は数えるのを止めた。
 大丈夫。何も起こらない。ヒメは、何もしない……
 でも……長すぎる。僕の方から……中に、入ろうか。入った方がいいだろうか。
 我慢しきれなくなって、引き戸の手を掛けようとした、その時。
 引き戸が、開いた。ゆっくりと、沙季さんが出て来た。
 僕は洋室の中を見た。ヒメは、プールから顔を出して、こちらを見ていた。
「何もなかった……だろ?」
 僕はうつむいたままの沙季さんに話しかけた。沙季さんは黙ってうなずいた。
「でも……あの子、キバがある」
 沙季さんが言った。
「……知ってた?」
「うん」
 知ってる。もちろん、知ってる。
「……キバを剥いて、私のこと、威嚇した」
 威嚇? ヒメが、そんなこと……
「でも、危害を加えるたり……そんなことは、しなかったんだろ?」
 沙季さんがまたうなずいた。
「きっとそれ、威嚇じゃないよ。沙季さんの勘違いだよ」
「でも……」
 沙季さんは、まだ納得していない。ヒメのことを信じていない。
「わかったら……帰ってよ」
 僕は玄関の方を向いて、沙季さんの背中を押した。
 沙季さんが、ゆっくりと歩き出した。うつむいたまま。
 玄関まで来ると、沙季さんが顔を上げて、僕を見た。
「私、ヒロ君のことが、心配だから……」
「わかってる」
 そう言って僕は、玄関のドアを開けた。
 そのまま追い出すように、沙季さんの背中を押した。
 僕がドアを閉める直前に、沙希さんが僕を振り向いて、言った。
「嫉妬じゃないから」

 その夜も、僕はずっと、ヒメのそばにいた。ヒメはプールの中で丸くなっていた。眠っているのか、起きているのかよくわからない。それでも……ずっと。
 朝になった。大学は休ませてもらおうと思った。また仮病だと思われても構わない。こんなヒメを、放っておけない。
 その時。ヒメが起き上がった。ヒメがサッシ戸の方を見た。サッシ戸じゃない。その向こうの、水路と、水路の先の橋。昨日、騒がしかった、あの橋。そして橋の、もっと向こう。そう、海。
 ヒメが自分で、プールから這い出した。そして引き戸の前のカーテンの下に潜り込んだ。
「ヒメ……」
 ヒメを呼んだ。カーテンを開けると、ヒメが両手のひらをサッシ戸にあてていた。サッシ戸の錠が下ろされていた。ヒメが自分で下ろしたのだ。
 ヒメの手のひらの吸盤がサッシ戸に張り付いている。ヒメがそのまま、サッシ戸を開けた。
「ヒメ!」
 僕が声を上げると同時に、サッシ戸のわずかな隙間から滑り出すように、ヒメがテラスに降りた。
 僕もヒメを追った。ヒメは金網のフェンスの前で、橋の方、いや、その向こう、海の方を見ていた。
 ヒメは……じっと、動かない。僕は、もしヒメが水路へ飛び込もうとしたら、飛びついてヒメを止めようと思った。
 水路に飛び込む時、ヒメはフェンスから少し離れたところからジャンプする。でも……今のヒメは、フェンスに張り付くようにしている。そこから動こうとしない。ヒメに……水路に飛び込むつもりはない。
 僕は少し安心した。そして思った。前の日も、ヒメはきっと、こうやってテラスから海を見ていたのだろう。やっぱり、ヒメは海に行ってない。でも……それならヒメは、何を見ていたのだろう……何を、見ているのだろう……
 テラスは濡れていた。いつの間にか雨が降ったみたいだ。
「ヒメ、部屋にもどろう。濡れるよ」
 もともと濡れてるヒメに言う言葉じゃない。そう思った。いや、そんなことより、ヒメの姿を人に見られたらたいへんだ。
 僕は後ろからヒメを抱き上げた。ヒメは抵抗しなかった。されるがまま、僕に身をゆだねていた。
 そのまま浴室へ行って、僕はシャワーでヒメを洗った。ヒメは……僕を見ていた。僕の顔を、見つめていた。ヒメは……何かを怖がっている。そんな風に見えた。
「何を怖がっているの? 海に、何かいるの?」
 ヒメは、答えない。答えられない。
 僕はヒメを抱き上げて、洋室にもどった。プールの中に、静かにヒメを降ろした。
 僕もプールの横に座って、プールの縁に両手をかけた。
「大丈夫だよ。ヒメのことは僕が守るから。絶対、守るから」
 ヒメが、水面に顔を出した。ヒメの目が、揺れていた。
「うれしいの? それとも……」

 その時。玄関のインターフォンが鳴った。誰だろう? まだ早朝だ。沙季さん?
「ちょっと待ってて」
 僕は立ち上がって、ダイニングの壁の受話器を取った。
「……はい」
「……沙季です」
 やっぱり沙季さんだ。やっぱり……納得できないのだろうか。ヒメのことを信用できないのだろうか。
 玄関へ行って、ドアを開けた。
 沙季さんが立っていた。うつむいて。そして沙季さんの後ろに……背の高い男性が、二人。青い制服。警察官だ。
 その一人が前に進み出てきた。
「ちょっと、部屋の中を見せてもらってもいいですか」
 僕は、沙季さんを見た。
「ごめんなさい。やっぱり、放っておけなくて……」
 うつむいたまま、沙季さんが言った。
「危険生物所持の疑いで捜査させていただきます」
 そう言って警察官が玄関に入ってきた。
「何ですか? これは」
 敷き詰めたブルーシートのことを言っているのだろう。僕は答えなかった。
 警察官はそのまま部屋の中に上がり込んできた。
「……待ってください」
 ようやく声が出た。僕は部屋の奥へ行こうとする警察官の肩をつかんだ。
「公務執行妨害になりますよ」
 僕の方に向き直った警察官が言った。
 その間にもう一人の警察官が部屋の奥へ進む。
「待って!」
 追いかけようとする僕の前にさっきの警察官が立ちはだかる。
「いました!」
 部屋の奥から警察官の大きな声が聞こえた。僕の前にいた警察官も振り返って奥へ向かう。僕もすぐその後を追った。
 警察官は……ビニールプールの前に立っていた。ヒメのいる、プール。ヒメのことを、見下ろしていた。
ヒメは、水面から顔を出して、その警察官を見上げていた。
「これはいったい……何だ?」
 後からプールの前に並んだ警察官が言った。
「……人魚?」
 そのまま、二人は黙り込んでしまった。
 パシャ。
 ヒメが、音を立ててプールの中に顔を隠した。それを合図にするように、警察官の一人が言った。
「どうします? 捕獲しますか?」
「とにかく連絡だ」
 もう一人の警察官が胸のポケットから無線機を取り出した。
「未確認生物を発見……」
 そう言いかけた時、無線機からけたたましい声が聞こえた。
『未確認生物? 海岸のことか!』
『いえ、こちらは通報のあったアパートですが……』
『アパート? それどころじゃない! そっちは後回しだ!』
『どういうことですか?』
『海岸だ! 海岸で緊急事態だ!』
 二人の警察官は顔を見合わせた。
 僕は、サッシ戸を開けた。海の方からパトカーのサイレンの音が聞こえた。
「……ヒロ君、テレビ、ある?」
 いつの間にか後ろに立っていた沙季さんが言った。
「……うん、タブレットで、見られる」
 僕はダイニングへ戻って、本棚に被せてあったブルーシートをまくり上げて中からタブレットを取り出した。
 タブレットの画面にテレビを立ち上げると、沙季さん、それに二人の警察官も、後ろから覗き込んできた。
『緊急報道です』
 テレビ局のスタジオで女性アナウンサーがしゃべっている。
『昨日行方不明となったサーファーの男性の捜索が早朝から再開されていましたが、先ほど同じ海岸に正体不明の生物が現れました。こちらがその映像です』
 画面が切り替わった。上空からの映像だ。
 縦長に並ぶ白い触手の束が、海の上を進んでいる。触手の束はヒメの背中に生えているのと同じに見える。その後方に尾ひれが見えた。これも、ヒメと同じに見える。ただし映像ではその大きさはわからない。
 映像がまた切り替わった。マイクを持ったリポーターらしい男性だ。背景に砂浜と海が見える。
『こちら、正体不明の生物が出現した海岸沿いの道路上です』
『そこからその生物は見えますか?』
 スタジオの女性アナウンサーから質問が飛ぶ。
『はい。少し離れた場所ですが、確認できます』
 テレビカメラの画像が海を進む触手のかたまりをとらえた。
『生物の大きさはどれくらいでしょうか』
『目測ですが、20メートルくらいはあるように見えます。海中にあって見えない部分もありますので、もっと大きいかもしれません』
『そんなに大きのですか!』
 アナウンサーの驚いた声。
『いったい何でしょう? クジラでしょうか』
『わかりません。しかし、クジラやサメとは明らかに違います。全体の形はクジラに似ているようにも見えますが、先ほど、上半身に腕のようなものが見えました』
『腕ですか!』
 アナウンサーの声が一段と大きくなった。
『まるで、人魚ですね!』
 人魚……僕は心の中で繰り返した。
 沙季さんがヒメを振り向いた。そして二人の警察官も。
『付近の状況はどうですか?』
『交通規制が敷かれています。警備体制はとられていますが、今のところ静観しているようです。危険な生物なのかどうか判断できないのだと思います』
『でも、昨日サーフィンをしていた男性が行方不明になった現場ですよね? 関連はどうなのでしょう?』
『今のところわかりません』
『その生物は、どこに向かっているのですか?』
『海岸に向かっています。この少し先に橋がありまして、その下に水路があるのですが、生物はそっちの方角に向かっているように見えます』
 画像がまた上空からの映像に切り替わった。
 海を泳ぐ生き物。画面が引かれると、生き物の進む方向に海岸が見えた。砂浜と、その間から海に流れ込む水路。そしてその水路にかかる橋。
 すぐにわかった。橋は、僕の部屋から見える、あの橋。ヒメといっしょに海に出た時に下から見上げた、あの橋だ。そして水路は、ヒメを僕のアパートまで運んできた水路、僕の部屋のテラスのすぐ向こうを流れる水路だ。
『間もなく生物が水路付近の海岸に到着します!』
 画面には、広い海から狭い水路に進入しようとしている生き物の姿が映し出されている。
『生物が水路に侵入します!』
『生物の進むスピードはどうでしょう?』
 再びアナウンサーの声。
『先ほどに比べて遅くなりました。水深が浅くなったために泳ぐことができなくなって、水底を這って進んでいるようです』
 今度は警察官が持っていた無線機から叫ぶような声が聞こえた。
『水路周辺の住宅街を厳重警戒!』
 再びテレビの音声が叫ぶ。
『今、橋の下を通過します!』
 僕はタブレットを持ったまま、開けたままになっていたサッシ戸からテラスに出た。二人の警察官が僕に続いた。
 フェンスの金網越しに顔を出して、橋の方を見た。
 いた。橋の真下から、巨大な生き物が今まさにその姿を現したところだ。テラスからは向かってくるその生き物の姿を正面から見ることができた。
 生き物の、顔が見えた。その顔は……人間とはかけ離れていた。そして……ヒメとも。
 タブレットで生き物を見た時から、僕は恐れていた。その生き物がヒメと同じような顔をしていたら……でも、違った。その顔は、ヒメともかけ離れていた。
 巨大な、顔。ていうより、頭部。その顔は、進行方向、つまりこっちに向かって、身体からいきなり突き出ていた。後頭部にあたる部分は、ない。だから、顔がそのままその生き物の頭部のすべてだった。首にあたる部分もほとんどないように見える。カエルみたいだ。
 そして、大きい。身体全体のバランスから見ても、大きすぎる。
 顔の色は、青。でもヒメのようなきれいな青じゃない。黒に近い。僕は夜の海を思い出した。顔の上部には、白い触手。これはヒメと同じだ。
 触手のすぐ下に、これも大きな、目。顔とのバランスから見ても大きすぎる。形は、まん丸。魚の目の形だ。目の色は、黒。真っ黒。きらきらしたヒメの目とは全然違う。白目の部分がないから、視線がどっちを向いているのかわからない。正面をひたすら直視しているように見える。
 目の下には、二つの鼻孔。人間の鼻のような盛り上がりはない。そしてその下に、やっぱり大きな、口。顔のほぼ半分を占めるほどの大きさだ。口で呼吸をしているのだろう、その口が開いたり閉じたりしている。
 顔全体の印象は、カエル、いや、カメレオンに近い。ていうより、やっぱり、怪物だ。その怪物が、水路をさかのぼってこっちへ向かってくる。そのスピードは、けして速くはない。アナウンサーが言っていたとおり、泳ぐことができずに這って進んでいるのだろう。
「危険だ! 部屋の中へ!」
 僕と並んで怪物を見ていた警察官が叫んだ。警察官は僕を金網から無理やり引きはがすようにして、部屋の中に押し込んだ。
 警察官の一人が僕といっしょに部屋にもどってサッシ戸の前に立った。
「ここから動かないでください!」
 もう一人の警察官はそのままテラスに残って金網から怪物の様子を見ている。
 沙季さんは、ブルーシートの上に立ちすくんでいた。ヒメは、プールの中だ。
 間もなくテラスにいた警察官が部屋の中に駆け込んできた。
「間もなくこの下を通過します!」
 僕たちは息を飲んだ。このまま怪物が通り過ぎてくれれば……
 僕たちは、動かなかった。動けなかった。
 僕と沙季さん、それに二人警察官は、息を止めて、ただじっと、サッシ戸の外を見つめていた。そして、いつの間にかプールから顔を出していた、ヒメも……

 突然、金網のフェンスの向こう側に大きな黒いかたまりが見えた。そのかたまりがフェンスに覆いかぶさった。ひしゃげるようにフェンスがつぶれて、テラス側に倒れ込んだ。フェンスといっしょに大きなかたまりがテラスに落ちてきた。
 サッシ戸のすぐ向こうに、顔があった。あの怪物の顔だ。
 次の瞬間。サッシ戸が砕け、外枠ごと部屋の中に倒れ込んできた。怪物が僕の部屋に突き進んできたのだ。
 倒れたサッシ戸がヒメのいたプールを押しつぶした。ヒメは一瞬早くプールから飛び出していた。
 サッシ戸があった四角い枠いっぱいに怪物の顔が突き出ていた。
 僕は、そして沙季さんも、二人の警察官も、その場に座り込んでいた。腰が抜けてしまったのだ。
 突然、怪物の口から紫色のホースのような物が飛び出した。舌だ。その舌が狙う先は……ヒメだ。
 プールから飛び出して部屋の真ん中いたヒメは、伸びてきた舌をかわすと、そのままブルーシートの上を滑った。玄関の方に向かって。怪物の舌が、ヒメを追った。
 玄関の手前でヒメの姿が消えた。浴室に逃げ込んだのだ。目標を見失った怪物の舌は、そのまま吸い込まれるようにして怪物の口の中に戻った。
 怪物が大きく口を開けた。
「ぐおおおおおおおおおお」
 怪物の声だ。
「パン、パン」「パン、パン」
 大きな音がした。二人の警察官が、座ったまま両手で拳銃を握っていた。怪物に向かって発砲したのだ。怪物の鼻のあたりから血が噴き出した。紫色の血だ。
 怪物が大きく首を振った。部屋全体が揺れた。怪物の顔がサッシ戸の枠から抜けた。警察官の銃撃が効いたみたいだ。怪物は銃弾から逃げようとしているのだ。
 しかし、次の瞬間。サッシ戸の枠から、今度は怪物の手が飛び込んできた。ヒメの手と同じように、白い触手のような指があった。しかしその大きさはヒメの手よりはるかに大きい。
 その手が部屋の中を左から右へ横断した。僕は倒れ込むようにしてその手をかわした。二人の警察官は床に身を伏せて怪物の手の攻撃をかわしていた。
「きゃあああああああああ」
 悲鳴があがった。沙季さんだ。怪物の手が沙季さんを捕まえていた。
 あっという間に、怪物の手につかまれた沙季さんが、サッシ戸の枠から外に飛び出して行った。
 サッシ戸の枠の向こうで、大きな怪物の身体が伸び上がるのが見えた。そして次の瞬間、その姿がテラスの向こうに消えた。
「沙季さん!」
 ようやく声が出た。
 僕は起き上がってテラスに駆け降りた。二人の警察官も同時に駆け降りていた。
 つぶされた金網のフェンスの向こうの水路の中に、怪物がいた。そして沙季さんも。
 沙季さんは、怪物の背中に生えた無数の触手の中に仰向けに倒れていた。怪物の触手はヒメの触手よりはるかに太くて長い。その触手が沙季さんの身体に絡みついていた。沙季さんを怪物の背中に縛りつけるように。
 怪物が、海の方に向かってゆっくりと進み始めた。海にもどるのつもりだ。
 僕は怪物を追って水路に飛び込もうとした。警察官が僕の腕をつかんだ。
「危険です!」
 警察官が叫んだ。もう一人の警察官が手に持った無線機に向かって叫んでいる。
「緊急事態! 緊急事態! 女性が巨大生物にさらわれました! 巨大生物は海に向かっています!」
「先回りしよう!」
 警察官は玄関に向かって走り出した。僕もその後を追った。
 警察官が玄関から外へ飛び出して行った。後を追った僕は、玄関で足を止めた。
 後ろを振り返った。
 ヒメ。浴室から出て来たヒメが、僕の方を見ていた。
「ごめん。沙季さんを、助けないと」
 そう言って僕も、玄関から飛び出した。

 海の方に向かって住宅街の道路を走る警察官の姿が見えた。僕もそっちへ向かって走った。
 海岸沿いの道路に突きあたった。突き当りにはロープが張られていて、「進入禁止」の札がかけられていた。僕はその下をくぐり抜けた。左に曲がれば少し先があの橋だ。
 橋の上にはすでに数台のパトカーが停まっていて、警察官が慌ただしく動き回っている。水路の上流、怪物がいる方向を指さしながら無線機に何か叫んでいる警察官もいる。皆、怪物の方に注意が集中しているのだろう、僕に気付く人はいない。
 僕は橋へ向かった。橋の手前まで行くと水路の上流の方が見えた。
 いた。あの怪物だ。ゆっくりと橋の方に進んでいる。怪物の背中に沙季さんの姿も見えた。触手の中から突き出た沙季さんの手が見えた。その手が助けを求めている。僕は、海藻のかたまりの中から助けを求めていたヒメの手を思い出した。
「銃撃しますか!」
「だめだ! 女性にあたる!」
「仕留められずに暴れ出したらかえって危険だ!」
「ロープだ! ロープで降りるぞ!」
 橋の上で叫ぶ声が聞こえた。
 間もなくレスキュー隊員らしい人が橋の欄干に立った。橋の上からロープで怪物の背中に降りて沙季さんを助けるつもりだ。
 怪物の動きはゆっくりだ。これなら沙季さんを助けることができるかもしれない。そう思った。
 怪物が橋に近づいてきた。もうじきだ。
「真下を通るタイミングで飛び降りるぞ!」
 声が響く。怪物には橋の上の警察官やレスキュー隊員が見えないのか、あるいは意に介していないのか、理解していないのか、とにかく、怪物のスピードは変わらない。これなら助けられる。
 怪物が橋の手前まで来た。頭の部分が橋の下に入った。
「今だ!」
 僕も叫んでいた。
 橋の欄干に立っていたレスキュー隊員が怪物の背中に飛び降りた。怪物の触手に絡まれた沙季さんの真横だ。
レスキュー隊員が突き出ていた沙季さんの手を掴んで引き上げようとした。でも……沙季さんは動かない。動けない。触手の中から抜け出せない。触手が沙季さんを離さないのだ。
 怪物の身体が大きくうねった。レスキュー隊員がバランスを崩した。その手が沙季さんの手から離れた。ロープに吊られたままのレスキュー隊員が再度手を伸ばそうとする。
 怪物が、もう一度身体をくねらせた。レスキュー隊員が怪物の背中を滑り落ちた。そしてそのまま、水路に落ちた。
 怪物が橋の下へと進む。そして沙季さんも。ロープで吊るされたレスキュー隊員はそこから動けない。
 失敗だ。沙季さんの救出は……失敗した……
 橋の上にいた警察官たちが一斉に橋の向こう側に走った。
「橋の下を通過!」
「水路から海に出ます!」
「海に潜られたら終わりだぞ!」
 そんな声が聞こえた。僕は……僕は動けなかった。その場に座り込んでいた。
「沙季さん……沙季さん……」
 声にならない声が、僕の喉から漏れていた。

 その時。水路の上流、僕のアパートの方から、一筋の水しぶきがこっちに向かってくるのが見えた。すごいスピードだ。
 水しぶきはあっという間に橋まで到達し、そのまま橋の下に消えた。
 ヒメだ。ヒメが、水しぶきを上げながら泳いでいるのだ。
 僕は立ち上がった。ガードレールを飛び越えて、道路の反対側に走った。
 海岸を見た。怪物が水路から海に出ようとしていた。
 橋の下をくぐり抜けたヒメが、怪物に追いつこうとしていた。
 すぐにヒメが怪物の横に並んだ。と、思う間もなく、水面から、ヒメが飛び上がった。そして怪物の背中に飛び乗った。
 ヒメは……ヒメは沙季さんを助けようとしているのだ。
 怪物が海に出た。怪物の身体が海中に沈み始めた。
 僕は砂浜に降りるコンクリートの階段を目指して走った。
「待ちなさい!」
 ようやく僕に気が付いた警察官が僕を呼びとめた。僕はかまわずに走った。
 走りながら怪物を見た。ヒメと沙季さんを乗せたまま、怪物は海中に潜ろうとしていた。怪物の背中の触手が千切れて飛び散るのが見えた。ヒメが食いちぎっているのだ。
 僕はコンクリートの階段を走り下りて、そのまま砂浜に飛び降りた。
海に向かって砂浜を走り始めたところで、追ってきた警察官に後ろからタックルされた。僕はそのまま前のめりに砂浜に倒れ込んだ。立ち上がろうとしたけど動けなかった。二人の警官に背中から抑え込まれていた。
 もがきながら何とか顔を上げた。怪物の姿が、海中に消えた。ヒメと、沙季さんも。
「ヒメ! 沙季さん!」
 僕は声を上げた。
「ヒメ!」
 もう一度。
 僕の声に答えるように、怪物の姿が消えたあたりの海面に何かが浮かび上がった。人の顔だ。上を向いた、人の顔……沙季さんだ。
 沙希さんの顔がそのまま海岸に向かって進み始めた。僕にはわかった。ヒメだ。ヒメが海中で沙季さんを抱きかかえながら泳いでいるんだ。いつか、僕を抱きかかえて泳いだ時のように。
 沙季さんの顔が近づいてくる。もう少しで海岸だ。レスキュー隊員たちがそっちに向かって走る。
 浅瀬まで来たのだろう。沙季さんの身体全体が海面に見え始めた。そして、ヒメの姿も。
 沙希さんの上半身が海面から起き上がった。ヒメが上体を起こして、後ろから沙季さんを支えているんだ。沙季さんは、ぐったりと頭を垂れていた。でも、沙季さんの肩が大きく上下に揺れているのがわかった。
 レスキュー隊員たちが駆け寄る。ヒメは、レスキュー隊員たちが到着する直前で沙季さんから離れて、海に向かって身体をひるがえした。レスキュー隊員たちが沙季さんを取り囲んだ。四方から沙季さんを抱きかかえて砂浜へ運ぶ。
 沙季さんが砂浜に降ろされた。
「人工呼吸だ!」
「息はあります!」
「意識は!」
「あります!」
 声が飛び交う。
「生存! 生存してます!」
 レスキュー隊員の一人が立ち上がって両手で大きな丸を作っている。
 生きてる。沙季さんは、生きてる。
 全身の力が抜けた。警察官に取り押さえられたままの僕は、そのまま砂浜に突っ伏した。
 しかし、次の瞬間。
 沙希さんたちがいる海岸の先の海が、大きく盛り上がった。そこに巨大な顔が現れた。怪物だ。あの怪物がまた現れたのだ。
 怪物が沙季さんたちのいる海岸に向かって進み始めた。レスキュー隊員が沙季さんを抱きかかえた。
 浅瀬まで来た怪物が上体を起こした。怪物の顔は沙季さんたちの方を向いている。怪物は沙季さんを取り戻そうとしているのだ。
「ぐおおおおおおお」
 怪物が大きな声を上げた。紫色をした怪物の口の中が見えた。怪物の舌を思い出した。僕の部屋でヒメを捕まえようとした舌だ。あの時ヒメはすばやく身をかわした。でも、沙季さんは……
「危ない! 逃げろ!」
 僕は声を上げた。
 その時。怪物の斜め後方の海面から、ヒメが、ヒメが飛び上がっていた。ヒメはそのまま後ろから怪物の頭の上に飛び乗ると、怪物の顔に上から覆いかぶさった。怪物の口をふさごうとしているのだ。
「パン、パン、パン」「パン、パン、パン」
 ヒメが怪物の顔に覆いかぶさるのとほぼ同時に、銃声が響いた。遅れて駆けつけた警察官たちが怪物に向かって発砲したのだ。でも、そこには……
「止めろ! ヒメに、ヒメにあたる!」
 僕は叫んでいた。
 怪物の喉元から血しぶきが上がるのが見えた。そして、ヒメの、肩と、腰のあたりからも。
 怪物が身体を反転させた。海に逃げるつもりだ。
「パン、パン、パン」
 警察官たちが発砲を続ける。ヒメは、怪物の顔に覆いかぶさったまま離れない。
 怪物が海中に沈む。警察官の発砲も続く。
「ヒメ! ヒメ! ヒメエエエエエエエエエエ!」
 僕は声を上げた。
 間もなく、怪物が海中に消えた。そしてヒメも、いっしょに。
「ヒメエエエエエエエ! ヒメエエエエエエエ!」
 僕は砂浜に押さえつけられたまま、大声でヒメを呼んでいた。呼び続けていた。

 一ヶ月が過ぎた。梅雨は開け、本格的に熱い夏になっていた。
 深夜。僕は、フェンス越しに暗い水路を見下ろしていた。僕の部屋のテラスだ。怪物がのしかかって潰れたフェンスは補修されていた。
 暗い水面に微かな光が見える。静かに流れる水の音が聞こえる。

 あの次の日、海底から怪物の死骸が引き上げられた。全身に数十発の銃弾を撃ち込まれていたそうだ。解剖された怪物の体内から行方不明になったサーファーのウエットスーツが発見された。ヒメに掛けられていた疑いは晴らされた。
 行方不明になっていた漁船の乗組員の物と思われる遺留品も見つかった。漁船の件もやっぱりあの怪物の仕業だった。
 でも、ヒメは……ヒメは、見つからなかった。
 沙季さんは、あの後すぐに救急車で病院に運ばれた。外傷はなく、意識もはっきりしていたそうだ。数日間入院した後、退院した。しばらくの間は会社を休んで、定期的にカウンセリングを受けているそうだ。沙季さんは……大丈夫だ。沙季さんは、強い人だ。
 僕は、警察で事情聴取を受けた。どこでヒメと出会ったのか。どんな風にヒメと暮らしていたか。警察官は、「どこで拾った」「どうやって飼っていた」ていう言い方をしてたけど。
 僕は、当たり障りのないことしか答えなかった。僕とヒメとのことは……僕たちだけの、秘密だ。
 結局僕は、注意を受けただけで帰された。ヒメは法律で指定されている危険な生き物には該当しないそうだ。当たり前だ。でも、「不審な生き物を見つけたらすぐに警察に届けなさい」て言われた。ヒメは、不審でも何でもないのに。
 大学でも同じことを聞かれた。やっぱり僕は、当たり障りのないことしか答えなかった。
 アパートや大学にはマスコミの人たちが大勢訪れて来た。そういう人たちとは会いたくなかった。取材は一切断った。

 SNSには、こんなことが書き込まれていた。
『人魚が女の人助けたらしいよ』
『人間の味方だったんだね』
『しかも、自分が犠牲になったんでしょ?』
『神だね。人魚神?』
『でもその人魚、まだ見つかってないんだよね?』
『知らないの? 人魚は死ぬと、海の泡になっちゃうんだよ』

 更に一ヶ月が過ぎた。怪物が退治? されたから、いや、むしろあの騒ぎが話題になって、この夏、海岸は大賑わいだったようだ。アパートに引き籠っていた僕には関係ないことだけど。
 その夏も、終わろうとしている。
 怪物が押し倒した僕の部屋のサッシ戸は、大家さんが応急処置をしてくれて、今はブルーシートに覆われている。僕の部屋の中に敷いてあったのと同じ色のシートだ。
 でもアパートは、全体が歪んでしまっていて、そのまま使い続けることはできないという。あんなことがあったせいで、僕以外の入居人たちは退去を希望しているそうだ。大家さんは、アパートを取り壊して、あの土地を売ってしまうことしたという。
 僕とヒメの思い出の部屋が、無くなってしまう。そして、ヒメの帰って来る場所も……
 ヒメは……帰って来ない。ヒメは、本当に海の泡になってしまったのだろうか……それとも、ヒメが生まれたあの南の島に、帰ったのだろうか……
 僕は大学を辞めることにした。そして実家に帰ってしばらくの間両親の元で暮らすことにした。大学を辞めると僕の収入も無くなる。だから他のアパートを借りることもできない。両親を頼るしか……

 あれから毎夜、僕はこうやって水路を見ている。でも……僕がこの部屋にいられるのは、今日まで。
 僕はこれから、どうしよう。どうすればいい?
 ……そうだ。思い付いた。お金を貯めて、クルーザーを買おう。免許を取って、クルーザーでヒメを探しに行こう。ヒメがいる、あの南の島へ。そしてそこで、ヒメと暮らそう。誰にも邪魔されず、ヒメと二人で……
 僕は、水路から、橋の方へ、そしてその向こうの海に、目を遣った。
「ヒメ」
 僕は、声に出してヒメを呼んだ。

 その夜、夢を見た。
 青い海……青い空……遥か遠くに水平線が見える。
 僕は、風を受けながらクルーザーを運転している。
 僕のクルーザーのすぐ横に並ぶようにして、ヒメが泳いでいる。
 笑っていた。ヒメは、満面の笑顔で、笑っていた。
 ヒメが僕を見る。僕も、ヒメに笑いかける。
 僕はヒメに手を振る。ヒメも、海の中から手を上げて、僕に手を振る。
 青い空……どこまでも続く、青い海……そして……ヒメ……

 9月。深夜。海岸沿いの道路を一台の車が走っていた。赤い色のスポーツカー。
 車は海から流れ込む水路に架かる橋を渡ったところで停車した。
 車から降りてきたのは若い男女。二人はガードレールを回り込んで海岸沿いの歩道に入り、海岸へ降りるコンクリートの階段の入り口あたりで立ち止まった。
「ここだろ、巨大海洋生物だか何だかが、現れた場所」
 女性の横顔を見ながら男性が言う。
「うん……そうだよ」
 暗い夜の海の方を見ながら女性が答えた。
「お前も物好きだな。こんな場所見たがるなんて」
「物好きとか言わないでよ……でも、どうしても気になって」
「なにが?」
「あの時、怪物といっしょに、人魚がいたっていう話……」
「人魚? そう言えば、その前から人魚のことSNSで話題になってたな……」
「その人魚が、怪物にさらわれた女性を助けたって……」
「それって、作り話だろ? そんなことあるわけないだろ」
「そうかもしれないけど……」
「それに怪物の死骸は見つかったのに、その人魚とかは見つかってないんだろ? 人魚がいたっていう証拠ないわけだし」
「だから、その人魚がどうなったか、気になって……」
「最初から人魚なんていなかったんだろ? まあ、その現場を見て気が済むならいいけど……それにしても、なんでこんな夜中に?」
「それがね、最近この海岸に、深夜、青白い光が見える、ていう噂があって……」
「青白い光? なんだそれ。人魚の次は、人魂?」
「……うん。人魚と何か関係あるんじゃないかと思って」
「それも便乗したフェイクに決まってるだろ。そうでなきゃ、死んだ怪物か人魚の幽霊だ」
「幽霊? そんなこと、ないと思うけど……」

 しばらくの間、二人は暗い夜の海を見つめていた。
「そろそろ帰らないか? 何も見えないし。やっぱりフェイクだよ」
「うん……やっぱそうかな……」
 二人は海岸に背を向けた。
 歩道から車道に出て、車に乗り込む直前、女性はもう一度、海を見た。
 その時。
「待って!」
 女性が声を上げた。
「あれ!」
 女性は海の方を指さしている。運転席側に回り込んでいた男性も女性の指さす方を見た。
 暗い海に、青白い光が浮かんでいるのが見えた。
 二人はまた歩道へ走った。
 海岸からさほど遠くない水面に、確かにその光は、あった。浮かんでいた。
 いや、ただ浮かんでいるわけではない。その光は、動いていた。海岸へ向かって、二人がいる方に向かって、動いていた。
 二人は息を飲んでその光を見つめた。
 光の正体はわからない。でももし、あの光が海岸に上がって、自分たちを襲ってきたら……
 女性の背筋に冷たい物が走った。無意識に隣りに立つ男性の腕を掴んでいた。
 しかし……海岸の少し手前で光は進む方向を変えていた。自分たちがいる場所から少し逸れて……その進む先には、海から流れ込む水路と、そこに架かる橋があった。
 やがて光は水路に入り、二人のすぐ横にある橋の下に消えると、すぐにまた橋の反対側から現れた。橋の下をくぐり抜けたのだ。
 固まっていた二人の足が動いた。橋に向かって走っていた。車道を渡って反対側の歩道に入り、水路を見た。
 光が水路を上って行く。光の後に水紋ができていた。光が、いや、光る何かがは水路を泳いでいるように見えた。
 突然、光が静止した。泳ぐのを止めたのだ。
 光はゆっくりと、水路の片側のブロック塀に向かう。そして、光がブロック塀を上り始めた。
 周辺は暗い。その姿ははっきりとは見えない。しかし……光を背負った、人のようにも見えた。
「人魚……」
 女性がつぶやいた。
 光がブロック塀を登り切った。塀の上にあるのは、金網のフェンス。フェンスの向こうは……空地だった。かつてはそこに建物が建っていたのかもしれない、しかし今は、草の生い茂った空地だ。
 光は、フェンスの中を覗いているように見えた。何かを探しているように……
 光がフェンスをよじ登り、フェンスの上に立った。
 光が周囲を見回しているようにも見えた。
 声が、した。

「キュ───ン、キュ───ン」
 夜空を切り裂くような、高い音。
 その光が発しってるのだろう。その声は、泣いているようにも、誰かを呼んでいるようにも聞こえた。
「……切ない声だね」
 女性が言った。
「ああ……そうだな」
「探してるんだ……きっと誰かを探してるんだ」
「……誰かって?」
「わかんない。でも、探してる。光ってるのも、その誰かに合図を送ってるんだ。私はここにいるよ、て……」
 思い出したように、男性がポケットからスマホを取り出した。顔の前にスマホを構える。撮影しようとしているのだ。
「だめ!」
 女性が男性の手を押さえた。
「え⁉ なんで?」
「……そっとしておいてあげようよ」
「……でも、もし誰かを探しているんなら、そいつに教えてやらないと……SNSに揚げればきっと、そいつが見るんじゃないか? そいつが人間ならだけど……」
「大丈夫。そんなことしなくても、きっと届いてるよ。あの声は、その誰かに、届いてるよ……」
 そう言って、女性はまた光の方に向き直った。

「キュ───ン、キュ───ン」
 その声は、暗い水路に、そしてその上遥か空の暗い夜空に、響き渡っていた。

(完)

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