一ヶ月が過ぎた。梅雨は開け、本格的に熱い夏になっていた。
 深夜。僕は、フェンス越しに暗い水路を見下ろしていた。僕の部屋のテラスだ。怪物がのしかかって潰れたフェンスは補修されていた。
 暗い水面に微かな光が見える。静かに流れる水の音が聞こえる。

 あの次の日、海底から怪物の死骸が引き上げられた。全身に数十発の銃弾を撃ち込まれていたそうだ。解剖された怪物の体内から行方不明になったサーファーのウエットスーツが発見された。ヒメに掛けられていた疑いは晴らされた。
 行方不明になっていた漁船の乗組員の物と思われる遺留品も見つかった。漁船の件もやっぱりあの怪物の仕業だった。
 でも、ヒメは……ヒメは、見つからなかった。
 沙季さんは、あの後すぐに救急車で病院に運ばれた。外傷はなく、意識もはっきりしていたそうだ。数日間入院した後、退院した。しばらくの間は会社を休んで、定期的にカウンセリングを受けているそうだ。沙季さんは……大丈夫だ。沙季さんは、強い人だ。
 僕は、警察で事情聴取を受けた。どこでヒメと出会ったのか。どんな風にヒメと暮らしていたか。警察官は、「どこで拾った」「どうやって飼っていた」ていう言い方をしてたけど。
 僕は、当たり障りのないことしか答えなかった。僕とヒメとのことは……僕たちだけの、秘密だ。
 結局僕は、注意を受けただけで帰された。ヒメは法律で指定されている危険な生き物には該当しないそうだ。当たり前だ。でも、「不審な生き物を見つけたらすぐに警察に届けなさい」て言われた。ヒメは、不審でも何でもないのに。
 大学でも同じことを聞かれた。やっぱり僕は、当たり障りのないことしか答えなかった。
 アパートや大学にはマスコミの人たちが大勢訪れて来た。そういう人たちとは会いたくなかった。取材は一切断った。

 SNSには、こんなことが書き込まれていた。
『人魚が女の人助けたらしいよ』
『人間の味方だったんだね』
『しかも、自分が犠牲になったんでしょ?』
『神だね。人魚神?』
『でもその人魚、まだ見つかってないんだよね?』
『知らないの? 人魚は死ぬと、海の泡になっちゃうんだよ』

 更に一ヶ月が過ぎた。怪物が退治? されたから、いや、むしろあの騒ぎが話題になって、この夏、海岸は大賑わいだったようだ。アパートに引き籠っていた僕には関係ないことだけど。
 その夏も、終わろうとしている。
 怪物が押し倒した僕の部屋のサッシ戸は、大家さんが応急処置をしてくれて、今はブルーシートに覆われている。僕の部屋の中に敷いてあったのと同じ色のシートだ。
 でもアパートは、全体が歪んでしまっていて、そのまま使い続けることはできないという。あんなことがあったせいで、僕以外の入居人たちは退去を希望しているそうだ。大家さんは、アパートを取り壊して、あの土地を売ってしまうことしたという。
 僕とヒメの思い出の部屋が、無くなってしまう。そして、ヒメの帰って来る場所も……
 ヒメは……帰って来ない。ヒメは、本当に海の泡になってしまったのだろうか……それとも、ヒメが生まれたあの南の島に、帰ったのだろうか……
 僕は大学を辞めることにした。そして実家に帰ってしばらくの間両親の元で暮らすことにした。大学を辞めると僕の収入も無くなる。だから他のアパートを借りることもできない。両親を頼るしか……

 あれから毎夜、僕はこうやって水路を見ている。でも……僕がこの部屋にいられるのは、今日まで。
 僕はこれから、どうしよう。どうすればいい?
 ……そうだ。思い付いた。お金を貯めて、クルーザーを買おう。免許を取って、クルーザーでヒメを探しに行こう。ヒメがいる、あの南の島へ。そしてそこで、ヒメと暮らそう。誰にも邪魔されず、ヒメと二人で……
 僕は、水路から、橋の方へ、そしてその向こうの海に、目を遣った。
「ヒメ」
 僕は、声に出してヒメを呼んだ。

 その夜、夢を見た。
 青い海……青い空……遥か遠くに水平線が見える。
 僕は、風を受けながらクルーザーを運転している。
 僕のクルーザーのすぐ横に並ぶようにして、ヒメが泳いでいる。
 笑っていた。ヒメは、満面の笑顔で、笑っていた。
 ヒメが僕を見る。僕も、ヒメに笑いかける。
 僕はヒメに手を振る。ヒメも、海の中から手を上げて、僕に手を振る。
 青い空……どこまでも続く、青い海……そして……ヒメ……