「……ううん、勇気がいることだと思う。教えてくれてありがとう」

「っ……うん……」


 星野は俯いたまま、口元に笑みを浮かべた。それがどんな笑顔かは、垂れた前髪に隠れてしまって分からないけど。

 僕は星野に聞こえないように溜息を吐いて、気持ちを落ち着かせた。
 それから、エステルの言葉が頭に浮かぶ。


『新しい彼女を作って』


 今がチャンスだ、と思った。
 でも、本当にエステルの願いを叶えるべきなのか?

 星野の気持ちだって踏みにじる行為だ。
 やっぱりそんなこと、できるわけがない。

 僕の脳裏に光の蝶が現れる。
 泣いたエステルの顔が浮かぶ。今朝の笑顔が、僕の胸を締め付ける。

 一体、どうしたら……。


「世那……?」


 エステルの声が聞こえた。
 まさかそんな、と思いながら傍らのフェンスを見ると、生い茂った木の向こうにエステルが立っていた。

 制服のスカートとYシャツを着て、ブレザーの代わりに着込んだ僕のパーカーのフードを深く被った姿で。
 頭の横で飛ぶ蝶が、3匹いる。


「エステル、さん……!?」

「エステル……」


 エステルは傷付きながらも、ホッと安心したような表情をしていた。

 違うんだ。
 咄嗟に否定しようとした声は、フェンスを掴んだエステルよりも、発するのが遅かった。


「世那を、よろしくお願いします。わたしは、もうすぐ死ぬから」

「え……死ぬ……?」


 真剣な眼差しなのに、儚く微笑んでみせる。
 そんなエステルに、星野は戸惑った声を出した。

 当たり前だ。


「違うんだ、エステル!」

「ばいばい、世那」


 エステルはニコッと、可愛く笑ってフェンスを離し、数歩下がってから走り出した。
 光の蝶が後を追う。


「ごめん、星野! 僕はエステル以外愛せないんだ!」

「あ……!」


 咄嗟に出た言葉は勇ましかった。
 高いフェンスを登るのは早々に諦めて、僕は校門の方へと走って行く。

 覚悟が決まった。
 僕はエステルの願いなんか叶えない。
 それよりもエステルの傍にいて、彼女を死から守ってみせる。
 すぐに追いつくぞ。
 そうしたら細い腕を掴んで、前を走る体を抱き寄せて、「僕はエステルを愛してる」と叫ぶんだ。

 光の蝶なんかに負けない。
 死の運命なんか叩き返してやる。


 体の内から力が湧いてくるようだった。
 僕はがむしゃらに走って、走って、エステルの背中を見つけた。


「エステル!」


 叫んだ声は、きっとエステルの背中に届いただろう。
 エステルは青信号の横断歩道を走って渡り、――トラックに轢かれた。

 キキィーッ! と甲高いブレーキ音が響く。
 時間が止まったように、僕の体はガクンと重くなって、けれど目の前ではトラックが通り過ぎていく。

 足が上手く動かなくて、ベシャッと歩道の上に転んだ。
 ドッドッと重い鼓動が体に響く。

 なんだ、今のは……?


「キャァァァァァア!」


 知らない女の人の悲鳴が聞こえる。
 僕は何故か震える体を起こして、歩道の先へ急いだ。