今日は、悠李くんとの最後の約束の日。でも、わたしが行かなければ、きっと満元さんがわたしの代わりに悠李くんの隣にいてくれるはずだ。
 午後八時過ぎ、いつものように三人で夕飯を食べ終えると、おじいちゃんが見ているテレビを、わたしも横からぼーっと眺める。
『三大流星群のひとつ、ペルセウス座流星群が今晩見ごろを迎えます。午後九時頃から流星が出現しはじめるでしょう。昨年はあいにくの空模様でしたが、今晩の天気予報は快晴。ぜひ、夜空を見上げてみてください』
 夜に会いたいって……ひょっとして悠李くん、一緒に流星群を見ようって誘ってくれていたの?
 それに気付いた瞬間、ぎゅぅっと胸が苦しくなる。
 ううん、それでも別にわたしである必要はどこにもない。きっと、満元さんが隣で一緒に夜空を見上げてくれるはず……。

 本当に? それで、後悔しない?

『いつまででも待ってるから』
 そう言ったときの、悠李くんの真剣な表情が忘れられない。

「ごめんなさい、おばあちゃん。ちょっと出掛けてくる!」
 台所にいるおばあちゃんに声を掛けると、返事を待たずに玄関へと走り出す。
「こんな時間に、どこへ行くの!?」
 おばあちゃんの慌てた声が追いかけてくる。
「悠李くんが、わたしを待ってるの。いつまででも待ってるって言ってたから……どうしても行かなくちゃいけないの!」
「待ちなさい」
 靴を履き、家を飛び出そうとした瞬間、後ろでおじいちゃんの静かな声がして、足を止め振り返る。
「でも、わたし……」
「送ってやる。車を用意してくるから、少し待っていなさい」
 そう言いながら、おじいちゃんがわたしの脇を通り過ぎていく。
「……ありがとう、おじいちゃん」


 ホテルの敷地に向かって伸びる坂の手前でおじいちゃんの車を降りると、坂を必死に駆け上がる。
 昼間の熱気のまだ残る重苦しい空気が、体中にまとわりつく。
 ホテルの敷地の手前にある門が見えてくると、門の陰から満元さんが姿を現した。
「悠李が庭に出たままずっと帰らないから、ひょっとしてって思ったのよね」
 満元さんの、低く怒りのこもった声がする。
「満元さん、ごめんなさい。通して」
「通せるわけないじゃない。何度も言ってるでしょ? あなたは完全に部外者なの」
「そうかもしれないけど……でも、悠李くんがわたしを待ってるから。それにわたし、悠李くんにどうしても伝えたいことがあるの」
 わたしは、満元さんの目をじっと見つめた。
「帰って」
「帰らない!」
「どうしたんだ、二人とも」
 騒ぎを聞きつけたのか、悠李くん本人がやってきた。
「俺が呼んだんだけど。日菜のこと」
「でも、だって、ほら、一ノ瀬さんは部外者だから……」
「それを決めるのは、俺だから。部外者の依茉は黙ってて」
 悠李くんの言葉に、満元さんがぎゅっと唇を噛みしめる。
「……ごめん。ひどい言い方した。依茉も、俺のこと心配してくれてんだよな。でも、ごめん。俺、日菜にどうしても言いたいことがあるんだ。だから、そこ通してやって」
 満元さんは、黙ったままそっと道を譲ってくれた。


 悠李くんの顔をどうしても見ることができず、顔をうつむかせたままホテルの庭を並んで歩いていく。
「遅いぞ」
「ごめんなさい」
「でも、ちゃんと来てくれて、ありがとう」
「うん」
「それに……俺の嘘に付き合ってくれたことも」
 そっと顔を上げると、わたしは悠李くんの方を見た。
「この前は、日菜のこと、思わず嘘つき呼ばわりしちゃったけどさ。俺、全然人のこと言えないよな。役作りのために、彼女のフリしてデートして欲しいなんて格好つけたこと言ったけどさ……本当は、ただ一人になりたくなかっただけだったんだ。一人でいると、どうしても病気のことばっか考えて、死んだらどうなるんだろうとか、どんどん不安になって……だから、ただ誰かと一緒にいたかったんだ。正直、誰でもよかった。後腐れなく別れられるやつなら」
「……なら、やっぱりわたしが適任だったね」
 ぐさりと胸に刺さった棘に気付かないフリをして、一生懸命笑みを浮かべて見せる。
 そんなわたしのことをじっと見つめていた悠李くんが、なにか言おうと口を開きかけたけれど、そのままなにも言わずに口を閉じる。
 わたしが首をかしげて見せると、悠李くんは首をゆっくりと横に振ってからもう一度口を開いた。
「今日で、俺の撮影だけ先に全部終わったんだ。だから、明日には東京に戻ることになってる」
「そう……なんだ」
 うん、知ってるよ。
 今日の撮影終了後、悠李くんは一抱えもある大きな花束を受け取って、スタッフ、共演者からの大きな拍手の中、満足げな笑みを浮かべていた。
 先週倒れて以降、さすがの悠李くんも自由時間の校内徘徊は自粛し、校舎の屋上や、図書室などで静かに過ごしていた。
 無事撮影が終わって、本当によかった。これで、悠李くんの監視役というわたしの役目も終了だ。

 ……あれっ、なんだろう、このチクッとした胸の痛みは。

「なあ。下ばっか見てないで、空、見てみろよ。すげーぞ」
 悠李くんの言葉に顔を上げると、目の前に満天の星が広がった。
「ふわぁ……あ、流れ星!」
 次から次へと、どんどん流れていく。
「すごい……」
 なんだか星空の中に浮かんでいるような、不思議な感覚。
「実は、今回のロケで一番楽しみにしてたんだよね。東京で見るより、ずっとたくさん見えるだろうって。これなら、流れ星にお願いし放題だしな」
「……」
 ぎゅっと胸が締め付けられるようで、言葉にできない。
 わたしには想像もつかないような重い運命を背負っているはずなのに。
 なのに、どうしてこんなにまっすぐに前を向いていられるんだろう。
「日菜は、流れ星になにを願う?」
「わたしは……」

 悠李くんの病気が良くなりますように——。

 そんな安っぽい言葉じゃ、全然足りない。
 お願い、悠李くんを連れていかないで。
 ひどいよ、こんな運命……。
 やっとわたし、いろんなことから目を背けないで、ちゃんと向き合おうって思えたのに。
 どうしても叶えたい目標ができたのに。
 わたし、いつか悠李くんと……。

 伝えようって思って来たのに。結局言葉にすることはできなかった。
『そんなに待てないよ、俺』なんて言われたら、泣き崩れてしまいそうだったから。

「俺は、日菜にずっと笑顔でいて欲しい。俺の映画を見て、よかったって、笑って欲しい」
 そんなの、絶対に無理だよ。
 だけど、悠李くんがわたしの笑顔を望むのなら。
 なにか言ったら涙が零れてしまいそうで、黙ったまま必死に笑顔を作って、悠李くんを見つめ続ける。
「なんだよー、泣かそうと思ったのに」
 そう言って、悠李くんが頬を膨らます。
「なに言ってるの? 笑って欲しいって言ったの、悠李くんだよ? だったら、悠李くんの前では意地でも泣かない」
「そっか。……今まで世話になったな。そうだ、関係者向けの試写会のチケット、日菜宛てに送ってもらうから。絶対に見に行けよ」
 なんで『見に来いよ』って言ってくれないの?
 そんな普通だったらどうってことないような言葉の節々に、悲しみが溢れそう。
 だけど、悟られるわけにはいかない。明るく笑顔でお別れするって決めたんだから。
「東京まで映画だけ見に行くなんてできないよ」
「それでも送るから。絶対『いい映画だった』って言わせる自信あるからさ。俺に会いに来い。日菜に、最後にそれだけはどうしても伝えたかった」
 そう言うと、悠李くんは今まで見た中で一番の笑顔をわたしに向ける。
 そんな悠李くんのことを、わたしは静かに笑顔で見つめ返した。


 翌朝学校へ行くと、いつも通り撮影は始まったけれど、どこにも悠李くんの姿はなかった。
 もう二度と会えないんだ。本当に。
 最初は、お父さんに頼まれて嫌々引き受けた役目だったはずなのに。
 悠李くんがこの学校のどこにもいないことが、なんだか信じられない。

***

 長かった夏休みも、昨日最終日を迎え、今日から二学期が始まる。
「やべえ、宿題全然終わってねえ」
「背中の日焼けが痛すぎるんだけど~」
「ねえ、聞いて。夏休みに彼氏できたの!」
 ざわつく教室内にわたしが一歩足を踏み入れると、急にしんと静まり返った。
「……え、あれ、生徒会長?」
 そんなヒソヒソ声が、波のように教室内に広がっていく。
 もう、自分に嘘を吐くのは止める。ありのままの自分でいることにした。
 キレイに伸ばした黒髪は下ろして、伊達メガネも止める。
「会長、イメチェン? めっちゃキレイじゃん」
 自分の席に荷物を下ろすと、左隣の席の女の子が声を掛けてきた。
「違うよ。こっちが、本物のわたし。今までは、真面目ないい子ちゃんの演技をしてただけ」
「いい子ちゃんって! それ、自分で言っちゃう会長、マジ最高だわ!」
 二人で顔を見合わせると、同時にあははと声を立てて笑う。
 初めてクラスの子と一緒に、こんなふうに笑った気がする。


 しばらくすると、悠李くんの無期限の活動休止が発表された。
「酒か? タバコか? 撮影んときのあいつ見た? めちゃチャラそうだったよな」
「あー俺もいつかなんかやるんじゃないかと思ったわー」
 部活中に悠李くんを見かけた子も多く、そんなとんでもない噂話が学校中を飛び交った。
 みんな、なんにもわかっていない。20歳未満の飲酒喫煙は、活動休止じゃなくて活動停止。
 だけど、わかっていても、なにも言えない。
『じゃあ、なんで活動休止したの?』と聞かれても、答えられないから。
 だって、本当のことを知られることを、きっと悠李くんは望んでいないはずだから。
 だったら、せめてみんなの中の悠李くんだけでも、元気なままでいて欲しい。
 いずれ、本当のことが公になるまでは。