「本当に、こんなところでいいんですか?」
「もちろん。俺が一番来てみたかったとこだし」
 二度目のオフの7月31日。わたしたちは今、おじいちゃんちの玄関前に立っている。

「次の休みは、日菜んちが見てみたい。っていうか、日菜のじいちゃんの畑が見てみたい」
 そう言われたのは、三日前のお昼休憩のときのこと。
「ただの家庭菜園ですよ? 畑と言えるほど立派なものでもないですし」
「でも、こんな立派なトマトがたっくさん採れるんだろ? それだけですげーじゃん」
 悠李くんが、弁当箱とは別にわたしが持ってきた容器の中からいつものようにトマトをつまむと、口の中に放り込む。
「畑以外に見せられるようなものもありませんし、楽しくないと思うんですけど」
「畑が見られれば十分。東京じゃあ、そんなのだってなかなか見られないんだから」
「それはそうかもしれませんが……」
 なんとか断ろうと何度も試みたのだけど、こうだと思ったらテコでも動かぬ頑固さだ。

『来てみたけどつまらなかった』というだけなら、それを望んだ悠李くんが悪かったというだけで、なんの問題もない。
 それより問題なのは、おじいちゃんが、芸能人嫌いだということだ。
 もしも悠李くんが芸能人だとバレたりしたら、最悪家を叩き出されてしまうかもしれない。

「でしたら、ひとつだけ条件があります」
「なに? なんでも言って」
「わたしの家では、俳優だということは絶対に言わないでください。そうですね、わたしのクラスメイトということにしてください」
「俺に、嘘を吐けってこと? 本当にそれでいいの?」
「もちろんです。そうじゃないと、むしろいろいろ問題なんです」
「まあ、日菜がそうしろっていうなら、そうするけどさ。嘘ってのは、あんま気が進まないなあ」
 悠李くんが、苦い顔をする。
 わたしだって、嘘は嫌い。だけど、これはあくまでも悠李くんを守るための嘘。だから仕方ないんだ。


「えっと……どうしたんです? その黒髪」
 悠李くんの滞在するホテル近くの待ち合わせ場所に行くと、黒髪に、爽やかなライトブルーの襟付きシャツと黒のチノパン姿の悠李くんがいた。
「ひょっとして、わざわざこのために黒く染めたんですか?」
「まあ……そんなとこだ」
 そう言いながら、悠李くんがすっと目をそらす。
「そ、そんなことして、怒られませんか!?」
「大丈夫。なんの問題もない。それよりも、少しでも真面目っぽい恰好の方がいいってことだろ?」
「……すみません」
 まさかここまでしてくれるとは、思ってもみなかった。
「なあに謝ってんだよ。無理言ってんの俺の方だから。日菜はなんも悪くないよ」


「はじめまして。日菜さんと同じクラスの夏野(なつの)星夜(せいや)と申します」
 玄関をくぐると、出迎えてくれたおじいちゃんたちの前で、悠李くんがすらすらと偽りの自己紹介をする。さすがとしか言いようがない。
 ちなみに『夏野星夜』というのは、今回の映画での役名だ。
 そんな完璧な悠李くんの自己紹介を聞いた途端、おじいちゃんの表情が見る見る不機嫌そうになる。
「……きちんと自己紹介もできないようなやつは、信用できん」
 おじいちゃんは吐き捨てるようにそう言うと、くるりと踵を返し、居間へと戻っていく。
 完璧な自己紹介だったはずなのに。どうして嘘だとバレてしまったんだろう。
「待って、おじいちゃん! ごめんなさい、わたしがそうしてって頼んだの。だっておじいちゃん、芸能人が……」
 ——嫌いでしょ? とはさすがに悠李くんの前では言い辛い。
 わたしが途中で口ごもると、おじいちゃんは足を止め、顔だけこちらに向けて口を開いた。
「俺は、芸能人が嫌いなわけじゃない。嘘つきが嫌いなだけだ」
 そうだったんだ。わたし、てっきりおじいちゃんもわたしと同じだとばかり思っていた。

「『家族を犠牲にするような仕事の仕方は絶対にしない』っていう二人の言葉を信じて任せていた俺がバカだった。もっと早くわかっていれば、こうなる前にいくらでも対処方法があったはずなのに」
 両親の離婚後、酔っぱらうと、おじいちゃんはしょっちゅうそう言って嘆いていた。
 この言葉の正確な意味を、今ようやく理解できたような気がする。おじいちゃんは、家族より仕事を優先した両親に怒っていたんじゃなくて、できもしない約束をしたことに対して怒っていたのだ。

 わたしの両親は、大学の映画同好会で出会ったらしい。在学中に父が監督、母が主演の映画をコンテストに出品し、大賞を受賞。父は海外留学を経て映画監督の道へ。そして母は俳優の道へと進んだ。
 父の帰国後、母はたびたび父の映画で主演を務め、二人がずっと目標にしていた海外の大きな映画賞の受賞を機に結婚。『大型カップル誕生』と、当時世間では相当騒がれたらしい。もちろんわたしの生まれる何年も前の話だから、当時のことはよく知らないのだけど。
 そして、わたしが小学校に上がるまでは仕事をセーブしていたお母さんが、また仕事をバリバリ受けるようになると、両親はすれ違い生活になってしまった。

「決して嫌い同士になったわけじゃない。だけど、そうならないためにも、これしか方法がなかったんだよ」
 わたしが中学を卒業するタイミングで離婚することになったとき、そう言って両親はわたしに何度も謝った。
 嫌いじゃないのに、どうして離婚しなくちゃいけないの?
 わたしはお父さんともお母さんとも一緒にいたいのに、どうして離婚するしかないなんて言うの?
 いっぱい言いたいことはあった。
 けど、なにも言えなかった。
 わたしの家族がめちゃくちゃになったのは、お父さんとお母さんの仕事のせい。
 そう思ったわたしは、芸能界を嫌うことで、なんとか気持ちを保ってきた。

 でも、ひょっとしたら、わたしもおじいちゃんと同じなのかもしれない。
 仕事で予定より帰りが遅くなったときも、絶対に見に来てくれるって約束してくれたのに、運動会にも学芸会にも来てくれなかったときも。
「大丈夫だよ」って笑顔で言いながら、心の中で泣いていた。
 大好きって思いながら、大っ嫌いって思ってた。
 そっか。だから噓ばかり吐く悠李くんにも、こんなに敏感になっていたんだ。
 それなのに、悠李くんにわたしの大嫌いな嘘を吐かせてしまうなんて……。

「申し訳ありません。本当の名前は、双葉悠李と申します。俳優をやらせていただいてます。今日は、日菜さんにおじいさんの畑が見てみたいと無理にお願いしてしまいました。ご迷惑でしたら、すぐに失礼します」
「おじいちゃんのトマトをあげたらね、悠李くん、太陽の味がしてすっごくおいしいって言ってたの。だからね——」
「なら、採れたてトマト、食ってけ」
 それだけ言うと、おじいちゃんは玄関で靴を履いて、外へと出ていった。
 わたしの方をちらっと見た悠李くんに小さくうなずいて見せると、悠李くんもおじいちゃんの背中を追って玄関を出た。

 二人で庭のトマト畑に入っていくのを、玄関からそっと覗き見る。
 おじいちゃんが、真っ赤に熟れたトマトをひとつ手に取ると、枝からハサミで切り取って、悠李くんに差し出した。
 きゅっきゅっと服で拭ってから、ガブリとかぶりつく。
「うんまっ! ……あっ、すみません。すごくおいしいです」
「そうかしこまらんでいい。宿泊先に冷蔵庫があるなら、少し持ってけ」
「えっ、本当にいいんですか!?」
 真夏の太陽の下で、悠李くんの笑顔がキラキラと輝いている。
 本当にトマトが大好きなんだね。


 しばらくおじいちゃんと一緒に庭の畑にいた悠李くんが、大きなカゴいっぱいに野菜を収穫して、玄関に戻ってきた。
「日菜、見ろよ、このでかいキュウリ。スーパーのやつの4本分くらいあるぞ。こっちはゴーヤ。つやっつやだろ!?」
 居間から玄関に出迎えに行くと、悠李くんがわたしに向かって嬉しそうにゴーヤを掲げて見せる。
「ふふっ。昔の隆さんを見ているみたいだわ」
 そんな悠李くんを見て、おばあちゃんがつぶやいた。
 隆さん——お父さんのことだ。
 そっか。昔は仲良かったんだね、おじいちゃんとお父さん。
 それに……今、思い出した。トマトは、お母さんの大好物だ。
 東京にいるときも、夏になるとおじいちゃんがよく宅配便で送ってきてくれていたっけ。
 トマトが届くと、お母さんは嬉しそうにおじいちゃんに電話をしていた。
 そう、さっきの悠李くんみたいな、本物の笑顔を浮かべて。

 わたしは、お母さんたちが離婚を決めたときに、おじいちゃんとすごく揉めていたってことぐらいしかもうほとんど覚えていないけれど。でも、そうじゃない、いい思い出だって、きっとそれぞれにたくさんあったはずなんだ。
 それなのに、現実を見たくないばっかりに、芸能界を憎むことに囚われすぎて、『芸能界の人間』というだけで誰も彼も一括りにして、遠ざけてきた。
 でも、それはきっと現実からただ逃げるためだけの行為であって、なにも解決してくれてはいない。
 それどころか、わたしの目の前にいる悠李くんのことすら、そのフィルターを通してしか見ることができなくなっていた。
 芸能人。嘘つき。嫌い——。
 そう気付いたら、悠李くんのことを、もっとちゃんと知りたくなってきた。
 最初に会ったときは、金髪に着崩した制服姿で、挨拶もいい加減で、そういう人なんだなと思っていたけれど。満元さんだけじゃなく、悠李くんも役にのめり込んでいたせいで、そう振る舞っていただけだったのかもしれない。
 ねえ、本当の悠李くんって、どんな人なの? 悠李くんのこと、もっと知りたいよ。


「なあ、あれってギターだよな?」
 居間の片隅に置かれたギターケースを見つけて、悠李くんが指さした。
「日菜が弾くのか?」
「いえ、わたしは全然。祖父のなんですけど、弾いてみますか? 多分、貸してくれると思いますよ」
「うん、弾きたい。実は、映画でギターを弾くシーンがあってさ。ま、どんだけ練習したって、映画の中ではプロの演奏に差し替えられるんだけど。でも、まったく弾けないってのも、なんか噓ついてるみたいで嫌でさ。時間見つけて、ずっと練習してたんだ。だから、よかったら日菜にも聴いて欲しい」
「わたしも。聴いてみたいです」
 わたしが素直にそう言うと、ちょっと意外そうな顔をしながらも、悠李くんが嬉しそうに微笑んだ。
「義男さん、このギター、お借りしてもいいですか?」
「ああ、構わんよ」
 台所で、取ってきたばかりの野菜を洗うおじいちゃんに、悠李くんが声を掛ける。
 名前でおじいちゃんのことを呼ぶなんて。なんだかすっかり仲良しになったみたい。

 ジャラ~ン。
 和音を一度大きくかき鳴らしてから、丁寧にチューニングして音程を合わせていく。
 さっき悠李くんが言っていたように、いくら練習したって差し替えられてしまうのに。本当に一生懸命練習してきたんだろうなという悠李くんの本気が、真剣にギターと向き合う表情から伝わってくる。
 それに、満元さんや他の出演者、スタッフだってそうだ。みんな、本気でいい映画にしようと思って、本気でやっている。それなのに、そういう思いをなにも知らず、芸能界の人間というだけで軽蔑していた自分が恥ずかしくなってくる。
 それに……そんな悠李くんたちのことが、ちょっとだけ羨ましく思えた。

「まだ本当は秘密なんだけど、星夜が弾く予定の、映画の主題歌。聴いて」
 切ないメロディーが、悠李くんのギターから流れ出す。
 二人で過ごす、なんでもない日常。そこへ、突然二人を引き裂くような試練が訪れる。
 彼女の聴覚が、病によって徐々に失われていくのだ。
 ミュージシャンを目指す彼を精いっぱい応援する日々に、真っ暗な影を落とす。
 一緒にいることを選んだとしても、別れを選んだとしても、どちらを選んだとしても、きっと辛い思いをすることは避けられない。
 そんなとき、わたしならどちらを選ぶだろうか。
 胸が張り裂けそうで、わたしは思わず胸元をぎゅっと握りしめた。
「……日菜?」
 悠李くんの遠慮がちな声に、ハッと我に返る。
「あ、ご、ごめんなさい。あれっ……わたし、なんで泣いてるんだろ? もうっ、悠李くんのギターがすごすぎるからいけないんですよ」
 慌てて目元を拭ってごまかそうとしたけれど、全然止まってくれない。
「こんなに上手なのに、プロの演奏に差し替えられちゃうんですか? そんなの、すごくもったいないですよ。おと……監督に直談判してみたらどうですか?」
 ひゅっと胃が縮む思いがした。
 思わず「お父さん」って言いそうになってしまった。
 もし、お父さんに悠李くんの見張りを頼まれていたのだと知られてしまったら……この関係も終わってしまうかもしれない。そんな危うさに、今改めて気がついた。
 嫌だ。まだ終わらせたくない……。
「いやいや、いくら練習したって、そう簡単にプロに負けないような演奏なんかできるようになんないって」
 わたしの失言に対して、悠李くんは特に気にした様子もなく、わたしはこっそり胸をなでおろした。
「でも、ありがとな。日菜がそう言ってくれただけで、すげー嬉しいわ」
 そう言って、悠李くんがはにかんだ笑みを浮かべた。


「夕飯も食べていきなさい」というおじいちゃんの一言で、四人で食卓を囲むことになった。
 いつもは三人だけの食卓の、ぽっかり空いていた席が埋まる。それだけで、ものすごく賑やかな食卓になった気分だ。
 食卓の上には、採れたて野菜たちが、所狭しと並ぶ。
「うげっ、ピーマン……」
 隣から、つぶやき声が聞こえる。
「ピーマン、苦手なんですか?」
 こっそり尋ねると、「ああ……でも、食べてみるわ」と返ってきた。
 焼きピーマンに、鰹節と醤油をかけただけの、シンプルな一品。
 悠李くんが、顔を若干引きつらせながらも、目をつぶって一口で放り込む。
「苦っ……あれっ? でも、うまい。採れたてだからかなあ。素材の味が濃くて、スーパーのやつと全然違う」
 なんだかんだ言いながらも、もう一切れ、もう一切れとどんどん食べていく。
「あれっ、俺、ピーマン大丈夫んなったかも」
「あら、すごいじゃない。偉いわよ、悠李くん」
 おばあちゃんに、小さな子どもみたいに褒められ、悠李くんがまんざらでもなさそうな顔をする。
 そのとき——パーン!
 大きな破裂音が、遠くの方から聞こえてきた。
「あら。そういえば、今日だったわね。花火大会」


「キレイだなあ」
「ここって、実は隠れた花火鑑賞スポットなんですよ」
 夕飯をぱぱっと済ますと、わたしたちは縁側に座布団を敷いて並んで座った。
「うん、たしかに。ここに来るまで、結構急な坂上ってきたもんな。遮るものがなにもないから、めちゃキレイに見える」
「……来年も、一緒に見たいです」
 花火を見上げる悠李くんのキレイな横顔を見ていたら、自然とそんな言葉が漏れ出ていた。
 なに言ってるんだろ、わたし。そんなこと、絶対に無理なのに。
 一瞬辛そうに顔をゆがめた悠李くんが、ふっと表情を戻すと、わたしに向かって抗議の声を上げる。
「おい、勝手に設定を無視すんな。来年の夏には……いねえんだよ、俺は」
「そうでしたね。すみません。お付き合いしている二人なら、きっとこういう会話になるのかな、なんて考えていたら、勝手に口から出てしまって」
 縁側の上についていたわたしの右手に、悠李くんの左手が重なる。
「付き合ってる二人なら、きっとこうやって見るんだろ、最後の花火」
 最後だなんて言わないでよ。
 溢れそうになった涙を、わたしは必死に堪えた。

***

 翌日の昼休みの終わりがけに、満元さんが一人で生徒会室を訪ねてきた。
「双葉さんは、もういませんよ」
「わかってるわよ、そんなこと。もうすぐ悠李のシーンのリハが始まるから来たの」
 満元さんが、むすっとした顔で言う。
「ねえ、あなた本気で悠李と付き合ってるつもりじゃないわよね?」
「え……そ、そんなわけないじゃないですか」
 咄嗟に否定したけれど、たしかに本気で付き合っているわけではない。
 あくまでも役作りのための、嘘の彼女役——という設定なのだから。
「悠李、『知り合いにもらった』とか言って、スタッフにトマト配って回ってたんだけど。それって、この前言ってた、あなたのおじいさんの畑で採れたものなんじゃないの?」
「そう……ですけど」
 ひょっとして、あのときの生徒会室での会話、全部聞かれていたの?
「とにかく。悠李とこれ以上関わらないで。わかった?」
 机にばんっと手を突いて、満元さんが低い声で言う。

 撮影が始まると、役にのめり込むタイプだなんて悠李くんは言っていたけれど。
 違う。これは、役になりきっているわけじゃない。
 ああ、そっか。満元さんは、きっと本気で悠李くんのことが好きなんだ。