本日の撮影も、無事すべて終了。
 山の向こう側が茜色に染まるのを見ながら校門に向かって歩いていると、物陰から突然人影が現れ、びくんっと小さく肩が跳ねる。
「そ、そうやって校内を一人でふらふら歩き回らないでくださいって、わたし言いましたよね、双葉さん! スタッフさんたち、きっと心配して探し回ってますよ」
「悪い。すぐ戻るから。その前に、あんたにちょっと話があってさ」
「なんですか?」
「今日の昼休みんときの依茉のことなんだけど。ごめんな。あいつ、撮影が始まると、役に完全にのめり込むタイプだからさ。ずーっとああなんだ」
「役にのめり込む……ですか」
「そ。今回あいつが演じてる本宮(もとみや)(しおり)ってのが、聴覚障害がある役なわけよ。だから——」

 ああ。それであのとき、ただ黙って微笑むだけで、なにも言わなかったのか。
 納得するのと同時に、ずっと心の奥深くにしまい込んだままにしていた昔の気持ちがふっと蘇り、ちょっとだけ羨ましい気持ちになる。

「それと——あんたにひとつお願いがあるんだけど、さ。役作りのために、撮影がオフの日だけでいいから、彼女のフリして俺とデートしてくれない? 実は今回の俺の役どころってのが……余命半年ってやつなんだけど、いまいちどう演じたらいいか掴めないっつーか……。だから、彼氏が余命半年ってつもりで、いろいろ付き合ってほしいんだよね。そしたら、少しはなにか掴めそうな気がするからさ」
 ……ほらね、芸能界の人間なんて嘘ばっかり。こうやって平気で嘘を吐く。
 だけど、どうしてこんなわかりやすい嘘を吐くんだろう。
 そんな役じゃないっていうことくらい、毎日撮影に付き合っていればわかることなのに。
「なんでわたしなんです? 役作りのためなら、彼女さん役の満元さんに付き合ってもらえばいいじゃないですか」
「さっきも言ったろ。あいつは役にのめり込みすぎるって。本気で好きになられても、後々困るだろ。それに引き換え、あんたは俺に一切興味がない。その方が……終わりのある関係には好都合なんだよ」
「……」
 思わず顔をうつむかせ、口元をぎゅっと引き結ぶ。
「あー俺余命半年なんだけどなー。こんな簡単な頼みも聞いてもらえないなんて、なんて悲しい運命なんだろう」
 芝居がかった口調で両手を組み合わせ、双葉さんが空を見上げる。

 双葉さんは、いったいなにがしたいんだろう。
 まさか本当にひと夏の遊び相手を探しているわけではないとは思うのだけど……。
 でも、お父さんにだって、オフの日まで見張りを頼まれているわけではないし、こんな頼みを聞く必要はないはずだ。
 いやでも、双葉さんの見張りを頼まれている身としては、無下に断ってもいいものだろうかと、真面目なわたしが疑問を投げかけてくる。
 ふらふら一人でさまよい歩かれて、どこかでなにかあったら……いやいや、たとえそうなったとしても、わたしには一切責任なんかないはずだ。
 でも、頼まれたのに断ったとなると、なにかあったときにやっぱり気にせずにはいられないだろうし……。

 あれこれ考えた結果、小さくため息を吐くと、わたしは口を開いた。
「わかりました。その代わり、彼女役をするのはオフの日だけですからね」
 グラウンドや体育館での撮影のため、部活が休みの日曜日にも撮影の予定が入っていて、その代わり、毎週水曜日がオフの予定になっている。つまり——明日だ。
「OK。それから、カレカノなんだから、『双葉さん』呼びはナシね。『悠李』って呼んで」
「ゆ……!?」
「ほれ、呼んでみ」
「いえ、でも……き、今日はデートの日ではありませんのでっ」
 必死に断ろうとしているのに、双葉さんがまっすぐわたしの目を見つめてくる。
「——日菜」
 さっきまでの砕けた雰囲気とは一変し、艶のある声で名前を呼ばれると、ビリビリっと全身に電気が走ったような感覚に陥った。
 でも、そんなことを悟られるわけにはいかない。
 ぐいっと歯を食いしばると、「ゆ……ゆうり……くん」と絞り出すように言い返す。
「うん。まあ、とりあえずそれでいいや」
 満足げにうなずく双葉さ……悠李くん。
「さっそくだけど、明日、行ってみたい店があるんだよね」
 悠李くんが行きたくなるような、オシャレなお店?
 そんなもの、こんな田舎町にはないと思うのだけど。

***

「ほら。ここだよ、ここ!」
 初めての撮影オフ日の7月24日、悠李くんに嬉しそうに連れてこられたのは、小さな駄菓子屋さんだった。
 店の前面は木枠にガラスのはめ込まれた引き戸で、映画やドラマなんかで出てきそうなかなりレトロな佇まいだが、実はこの町の子どもたちには大人気のスポットだ。
「この前、移動中に見かけてさ。どうしてもここにいる間に、来てみたかったんだよね。こんな年季の入った店、セットでしか見たことなかったから、本物見たら、めっちゃテンション上がっちゃってさ」
 ウキウキしながら店の中へ足を踏み入れると、興味津々な眼差しで、店の中をぐるりと見回す。
 三時のおやつにはやや早い時間帯のためか、お店の中には店主のおばちゃんとわたしたち以外には誰もいない。
「うわっ、マジで1個10円のやつもあるじゃん。あ、これも。これは15円かあ。なあ、いくらあったら店のもん全部買えると思う?」
「全部はダメですよ! 子どもたち、みんなここで買い物するのを楽しみにしているんですから」
「本気にすんなって。さすがにそんなことするわけないじゃん」
 本気で怒るわたしをさらっと流すと、悠李くんは出入り口の脇に積んであった小さなカゴをひとつ手に取り、改めて物色し始める。
 目を輝かせ、カゴを山盛りにしていく悠李くんの姿を見ていたら、小さい頃、おじいちゃんちに遊びに来るたびに、お父さんとお母さんと手をつないでここに来るのが楽しみだったな、と懐かしく思い出した。

 あの頃も今と変わらず——いや、今以上にお父さんもお母さんも忙しそうではあったけれど、少なくとも、わたしとの時間を大切にしようとしてくれていた。
 家事はお手伝いさん任せで、お母さんの手料理なんかほとんど食べたことはなかったし、テレビで目にする普通の家族とはちょっと違うなって思うこともあったけれど。こういう小さな思い出たちが、わたしを寂しさから救ってくれていた気がする。

「見ろ、日菜。いっぱい買ったぞ」
 小さな持ち手付きのビニール袋に二袋分。
「ふふっ。そんなに食べたら、夕飯が食べられなくなっちゃいますよ」
「こっちはちょっとずつ大事に食べる用。んで、こっちが今から食べる用。ちゃんと分けてあんの」
 ガーガー音のする、これまた年季の入ったクーラーが頑張っていたお店から一歩外に出ると、一瞬にしてむわんとした熱気に包み込まれる。
「なあ、隣の公園で、さっそく食おうぜ」
「え……暑くないですか?」
 げんなりした顔をするわたしとは対照的に、涼しげな表情を崩さない悠李くん。
「そりゃあ暑いけどさ。買ったら普通食ってみたくなるだろ」
「ホテルに戻ってから食べればいいじゃないですか」
「だって、それじゃあ一緒に食えねえじゃん。こういうのは、一緒に食うから楽しいんだよ。それに今日は初で・え・と。だろ?」
 小学生のデートじゃないんだから……とは思ったものの、こんなに楽しそうな姿を見せられては、それ以上強く拒否することもできず。
 真夏の太陽が頭上でギラギラ輝く中、わたしは悠李くんと一緒に、駄菓子屋さんのすぐ隣にある小さな公園へと入っていった。

 公園の中央にある背の高い時計塔の針が、一日の中で最も暑い時間帯の午後二時を指している。公園の中は、当然のように誰もいない。
 唯一救いだったのは、ブランコのそばに植えられた大木のおかげで、ブランコが日陰になっていたことだ。わたしたちは、迷わずブランコに隣り合って腰かけた。
「うっま。久々に食ったけど、やっぱうまいなー、これ」
 さっそく駄菓子の封を開け食べ始めた悠李くんが、感嘆の声を上げる。
 小さな丸い容器の中に入った、白くてふわふわした甘酸っぱいお菓子を、木べらですくって食べるタイプの駄菓子で、わたしも昔から大好きな駄菓子だ。
「ほら、日菜も食べてみ」
 がさがさとビニール袋を探っていた悠李くんがお目当てのものを見つけると、わたしの手に押し付けてきた。
「いえ、わたしは結構です」
 遠慮して返そうとするわたしの手を、悠李くんがひょいっとかわす。
「だーから、一緒に食べるの。これはデートだって言ってるだろ?」
 だから、小学生のデートじゃないんだってば……と再び思いつつも、手の中のプラスチックの丸い容器をじっと見つめる。
 なんだか昔よりも小さくなったような気がするのは、わたしの手が大きくなったせいだろうか。
 いったい何年ぶりだろう。
「……わかりました。では、ありがたくいただきます」
 悠李くんにお礼を言って蓋をめくると——。

「あ……やった、当たった! 当たりなんて見たの、初めて」
 初めて目の当たりにした『あたり』の文字に、思わず興奮して飛び上がる。
「おー、すげーな。そんじゃ、もう一個もらいに行こうぜ。俺はもう一個買って、次こそぜってー当たり引いてやる!」
 悠李くんが、鼻息荒く言う。
「あの……これ、元々悠李くんにもらったものなので。よかったら、どうぞ」
「そういうのはズルみたいだから、日菜がもらわなきゃダメなんだよ」
『あたり』の蓋を悠李くんにおずおずと差し出したけれど、断固として受け取り拒否されてしまった。
「ズルって……誰がもらったって、同じじゃないですか」
「全然違うの。っていうか、自分で当てなきゃ、もう一個もらったって嬉しくないに決まってるだろ。ほら、さっさともう一回店行くぞ」
 そう言うなり、立ち上がって公園の出口に向かって歩きだす。
「ま、待ってください。わたし、まだ食べ終わってないんですけど……!」
 慌てて残りのお菓子をかき出して口の中に放り込むと、公園を出ていく悠李くんの背中を小走りで追った。