「じゃあ、お願いします」
「……あぁ」
翌日。緊張した面持ちで私の前に座った晶。
どんなポーズをとればいいのか、なんて言っていたけれど、私がただ座っていてくれればいいと言ったから逆に困っているようだ。
「なぁ、本当にこのままでいいのか?」
「なに? 集中したいんですけどー」
「いやそれはわかってるけど! でもなんかこう……わかるか? なんか落ち着かねぇんだよ」
「ふふっ、うん、わかるよ。でも晶のそういう顔新鮮かも。おもしろ」
「笑うなよ、こっちは真面目に聞いてんだから」
「はーい」
結局、あまりにも落ち着かないし暇だと言うから、適当に会話をしながら進めていくことにした。
「あれ、最初から絵の具使うんじゃねぇの?」
「いや? 下書きするよ」
「へぇ。俺絵の知識は皆無だからよくわかんね」
「だろうね。ほら、前向いて」
「はいはい」
「あ、ちょっと顎引ける?」
「ん」
「ありがと」
「なぁ、足組んでもいい?」
「うん、そっちのが楽ならいいよ」
「さんきゅ」
窓の外を見つめる晶は、
「にしても、まだ卒業した実感ってあんまりねぇな」
しみじみとそう呟いた。
「ついこの間まで部活に明け暮れてたし、こんなにのんびりしてるのもかなり久しぶり」
「忙しい時って、暇になったら"あれやろう"とか"これやろう"とか考えるけど、いざ暇になったら何していいかわかんなくならない?」
「そう。まさにそれ。サッカーしなくなったら何して一日過ごせばいいのかわかんなくて困ってる」
「とりあえず漫画読んでたら一日終わってるやつだ」
「ほんとそれ。一応朝のランニングだけは続けてるけど、自己嫌悪がやばい。誰か遊びに誘おうにも周りは受験勉強で忙しかったし」
「そっか、推薦で大学受かったんだっけ?」
「そう。インターハイ終わった時に声かけてもらって」
「すごいよね。さすが全国出場メンバー」
「……なんかお前に言われると馬鹿にされてる気がする」
「なんでよ、褒めてんのに」
晶が所属していたサッカー部は、県内でも有数の全国常連の強豪チームだ。
晶も夏のインターハイとついこの間まで行われていた選手権大会で全国大会に出場したメンバーだ。
毎日のように遅くまで練習をしていて、その声は校内で絵を描いていた私にもよく聞こえていた。
全国大会の舞台に立った時は私は課題があったため現地には行けなかったけれど、ベスト8と大健闘していたことは知っている。
「……晶はなんでプロチームからのオファー断ったの?」
「ん?」
「ずっとプロになりたがってたじゃん」
「あぁ、まぁな」
「晶にオファーがきた時、学校中大盛り上がりだったのにさ。晶断っちゃうんだもん。顧問の先生の落胆具合見てたらちょっと可哀想だったくらい」
「はは……いやぁ……まぁ、俺にも色々と思うところがあったんだよ」
晶は、中学で頭角を表し県内でも有数のプレイヤーになっていた。その頃からプロを目指すと事あるごとに言っていたから、オファーが来たと知った時は私も嬉しかった。
すぐに承諾するだろうと思っていたのに、断ったと聞いた時は衝撃を受けた。
しかし高校に入ってからは疎遠になっている身としては、わざわざ聞きに行くのもどうなんだと思って聞けなかった。
加えて、全国大会に出場したことにより晶は女子生徒から絶大な人気を誇るようになっていた。迂闊に話しかけて妬まれたくなかったというのが一番大きいかもしれない。
「晶が誰よりも練習頑張ってるのは知ってたし、その努力が認められて評価されたり実力も伸びてきたのは知ってた。それに昔からプロになりたいって言ってたから、てっきりOKしたとばっかり思ってたんだよね」
「俺も最初はそう思ってた。プロからスカウトが来たら、すぐにOKするつもりだったし自信もあった。だけど、実際にスカウトされてから改めて考えてみたら、俺レベルの選手なんて世の中ゴロゴロしてるからプロになってもどうせやっていけないと思ってさ。それでやめたんだ」
「そうなの? 全国まで行ったのに?」
「全国に行ったからこそ痛感したんだよ。俺レベルの実力じゃプロでは通用しないって。簡単に言えば自信無くした。声かけてもらって、頷くのが急に怖くなったんだよ。情けねぇよな。でもサッカーをやめたくはなかったから悩んでてさ。その時に推薦の声をかけてもらったから、大学もいいかなと思って」
「そうだったんだ……」
今までそんな胸の内を明かしてくれたことなんてなかったから、少し意外だった。
晶はいつも自信に満ち溢れている印象だったから、まさかその自信を無くしてしまうほどだったとは。
それほどまでに強かった、全国大会という大舞台。
改めて、晶は本当にすごい場所で戦ってきたんだなと思う。
「……私は、サッカーしてる晶、結構好きだよ」
「あ?なんだよ急に。鳥肌立つだろやめろ」
「失礼だなあもう。なんとなく言いたくなっただけだよ。……晶は昔からサッカー馬鹿で、でもそんな晶がかっこいいなあってずっと思ってた」
「……煽てても何も出ねぇよ」
「うん、別にそんなつもりで言ったんじゃないよ。ただ、大舞台で活躍してる晶のこと、いつかまた見たいなあと思っただけ」
「……バッカじゃねぇの」
窓の外を見ていてと言ったのを律儀に守ってくれる晶は、気まずそうに照れくさそうにガシガシと頭を掻く。
そんな姿に笑いそうになるのをぐっと堪えながら、少し乱れた髪の毛も彼らしいかと鉛筆を走らせる。
「大舞台ね……できることなら俺ももう一度立ちてぇよ」
そう言った晶の切ない笑顔に、思わず筆を止める。
その笑顔の中に様々な感情がこもっていることを感じて、見惚れてしまった。
「……綺麗」
「なに? なんか言ったか?」
「……ううん」
伏せた奥二重の目元。長いまつ毛。通った鼻筋にきゅっと上がる口角。
女子から人気が高いのは、何もサッカーが上手いだけじゃない。この容姿の良さが何よりの証拠だ。
「晶がどんな選択をしても、私はずっと影から応援してるから」
「そりゃ頼もしいな。どうせなら表から応援してほしいもんだけど」
「やだよ恥ずかしい」
綺麗なEラインに惚れ惚れしていることを悟られないように、私は無駄に口を動かすのだった。
下書き自体は、数時間で終わった。
「ずっと同じ体勢ってのも結構疲れるな」
「だよね。ごめんね長い間」
「いや、いーよ。なんかパンまで奢ってもらっちゃったし?」
「さすがにタダで頼むのも気が引けたから」
長時間付き合わせてしまったため、先に買っておいたパンをいくつかお昼ごはん代わりに晶にあげていた。
「にしても、お前食べる量減った? ダイエットか?」
「あー……うん、そんなところ。なんか、絵描いてるとあんまりお腹空かないんだよね」
「ふーん。女は多少肉付いてた方がモテるぞ。お前ダイエットなんて必要ねぇだろ。むしろもっと太った方がいいんじゃね?」
「やだよ。これくらいがちょうどいいのー」
「まぁいいけどよ。何事もほどほどがいいんだからな」
「はいはいありがとう」
晶の母親のような小言を聞き流しながら画材を片付けていると、晶が私の描いた下書きをひょいと覗きにくる。
「明日からはついに絵の具か?」
「うん。乾かしたりまた塗ったりの繰り返しになるから、毎日描くことはないかもしれないけど」
「そうなのか?」
「うん。色重ねることもあるからね」
「ふーん。よくわかんねぇけど、油絵って時間もかかるし大変そうだな。下書きだけでもこんなに時間かかるとは思わなかった」
「それは……私が下手なだけだから。でもその分、出来上がった時の達成感みたいなものはすごいよ」
絵は、描く人によってガラッと姿を変える。
同じもの、同じ人、同じ風景。
どれをとっても、描く人によって一つとして同じものはない。
そんな当たり前のことが、とても魅力的で。
私にしかできない表現を探り探りで作っていき、それが完成した時の達成感は何物にも変え難いものがある。
誰かに評価されたいわけじゃない。ただ、自分の感情に正直にキャンバスにぶつけたいだけなのだ。
だから下書き一つにしても時間をかけるし、自分が納得いくようにやりたい。
だからモデルをしてもらうのも大変なのは承知の上でお願いしているのだ。
「じゃあ、俺この後バイトだから」
「あれ? バイトなんてしてたの?」
「あぁ、先月からな」
「全然知らなかった。暇とか言ってごめん。今さらだけどモデル頼んでよかったの?」
「まだ始めたばっかりだしそんなにシフトも多く入ってるわけじゃないから大丈夫だよ」
「そっか。都合悪い日あったらいつでも言ってね?」
「わかってる。ほら、駅まで行こう」
「うん」
晶がバイトしてるなんて、全然知らなかった。
聞けば、駅前の居酒屋で働いているらしい。
「だから基本シフトは夕方からだし、午前中は暇なんだよ」
「そっか」
「沙苗は? バイトとかしてねーの? あれ? つーかお前進学? 美大決まったのか?」
思い出したかのようにこちらを向いた晶に、私は薄く笑う。
「落ちた。だから私、四月から浪人生」
複雑な気持ちを噛み締めながら笑顔でピースサインを作ると、
「マジか……なんかごめん」
と晶の方が気まずそうな顔をする。
「ううん。自分でも無理だって思ってたからいいの。ほら、さっき晶も言ってたでしょ? 全国行って自信無くしたって。私も似たようなもので、正直落ちると思ってたからあんまりショック受けてない」
三年生に上がる前まで、美大専門の予備校に通っていた。
そこには美大を目指す高校生や中学生がたくさんいて、日々講師の指導を受けながら切磋琢磨する。
その中には現代の天才画家だと思うほど上手い人がたくさんいて、凡人中の凡人の私では到底敵わないような圧倒される作品を作る人ばかり。
いくら努力しても、その才能には敵わないと思って気が引けてしまった私は、その予備校もやめてしまった。
それでも美大への憧れは捨てきれなくて、受験だけはした。だけど、案の定落ちてしまった。
「落ちて安心してる自分もいるの。万が一に受かってたとしても、こんな覚悟じゃ絶対途中で心折れてたと思うから。でも絵を描く以外にやりたいことも行きたい大学もなくて。美大しか受けなかったから見事に浪人。笑っちゃうでしょ」
いつもみたいに"馬鹿だな"って笑い飛ばしてくれればいいのに。
晶はなんだかんだ口は悪いけど優しいから、
「笑えるかバーカ」
そう言って、不器用に私の頭を撫でる。
「俺たち、似たもの同士だな」
「ふふ、そうかもね」
「俺はお前の絵、結構好きだぞ」
「え?」
「禍々しいのはゴメンだけど。お前の描く絵は昔っから丁寧で綺麗だからな。お前の性格が現れてる感じ。じゃ、俺あっちだから。また明日な」
「う、ん。また明日……」
気が付けば駅前に来ており、晶はもう一度私の頭を撫でてからバイト先がある方へと向かっていった。
私はその後ろ姿を見送りながら、
"俺はお前の絵、結構好きだぞ"
"お前の性格が現れてる感じ"
その言葉の意味を考える。
「ははっ……本当、晶はずるい」
昔、晶は同じように私の絵を好きだと言ってくれたことがあった。
そして、その言葉が私がここまで絵を描き続ける理由になっていることも知らないだろう。
長年描いてきて、いつしか上手いか下手かでしか考えていなかった。
丁寧で綺麗だなんて、予備校でも誰も言ってくれなかったよ。
時間ばかりかけすぎて、その割には下手くそとしか言われなかったよ。
「……ありがとう晶」
たった一言、晶は私がほしい言葉をくれる。
それがどんなに心強いか。きっと気付いていないからずるい。
翌日から、本格的にキャンバスに色を乗せ始めた。
と言っても晶はバイトがあったり私の調子が悪かったり、油絵具の乾きが遅かったりで思うようには進んでいない。
「本当にいいのか? 先帰るぞ?」
「うん、私もうちょっとやってくから。ここだけ仕上げたいの。ありがとうねこんな時間まで」
「いや、それはいいけど。なんか最近咳してて調子悪そうだし、帰り気をつけろよ?」
「うん、ありがとう」
晶をモデルに描き始めてから二週間が経過したある日。
私はバイトがあると言う晶を先に帰し、一人残って絵具を乗せていた。
目の前の椅子に、晶が座っている姿を思い浮かべる。
その姿を目指して夢中で筆を走らせている間に時間が経ち、ふと外を見るとすっかり空は夕焼けに染まってしまっていた。
「やば……」
時計を見ると夕方になっており、スマホには母親からの連絡がきていた。
驚いて咳き込んでしまいながらも、私は慌てて画材を片付けて学校を飛び出す。
迎えにきてくれた母親が運転する車に乗り込んだ。
「ごめん、遅くなった」
「集中するのはいいけど……やりすぎはダメよ?」
「うん、わかってる」
「……私は反対よ。今すぐやめてほしいくらい。それに、晶くんにも言ってないんでしょ?」
「……うん。でもこれでいいの。ごめんねお母さん。私のわがまま聞いてくれて」
「……」
お母さんからの返事はなく、私は窓の外を見つめる。
向かう先は家ではない。
そのまま数分してついた先は、この地域で一番大きな総合病院だった。
外来でお母さんが慣れたように手続きをしてくれて、私は無言でその後ろを歩く。
待合室で待つこと十五分ほど。名前を呼ばれて診察室に入ると、見慣れた医者の姿があった。
「……本当に、四月になったら治療を始めてくれるんだね?」
「……はい。あと二週間、時間をください」
「……君はまだ若いから、進行は想像以上に早い。仮にその時には手遅れになっていたとしても、それでもその気持ちは変わらないんだね?」
「はい」
「……わかった。じゃあ準備を進めていこう。お母さん、詳しい日程などの話を看護師からさせてください」
「わかりました」
「沙苗ちゃんは検査をしよう」
「はい」
私が初めてこの病院に来たのは、二ヶ月前だ。
ちょうど美大の受験に向けて、気落ちしながらも毎日筆を持っていた時期だ。
きっかけは、一年ほど前から利き手である右手の肩らへんに、痛みを感じるようになったこと。
最初は痛めただけだろうとか、筋肉痛か?腱鞘炎みたいなもの?とか。色々考えて放置していた。
しかし、しばらくして右肩が腫れてきて痛みもどんどん強くなり、筆を持つのもつらい時があった。
ネットで症状を調べて自分が病気かもしれないと気が付いてからは、それを隠すことに必死になっていた。
"切断"という文字を見たからだ。
両親に言わなきゃと何度も思った。だけど、言ったら腕を切られるのかと考えたら、言えなかった。
上手く絵も描けなくて、美大という目標も曖昧になってきてしまい、毎日ただ無意味に時間が過ぎていくだけの私にこの右腕は必要ないかもしれない。
だけど、切断という文字を見たらいてもたってもいられなかった。
……どうしても私は、まだ絵を描いていたい。
描けなくなる可能性を知ったら、たまらなく嫌だと思った。
私は下手だ。誰かに評価されるような絵は描けない。
だけど、描くことが好きだ。描けない人生なんて、考えたくない。
そう思ったら、誰にも言えなかった。
そして二ヶ月ほど前、自宅でとうとう倒れてしまい救急車で運ばれた。
そこですぐに検査入院になり、診断されたのは自分で予想していた通り骨肉腫という病気だった。
仮にこれが早期の発見と治療だったら、治る可能性も高かっただろう。
しかし私の場合、騙し騙しで腕を使っていたからなのか、その時にはすでに病状はかなり深刻だった。
両親にはどうして黙っていたのかと散々叱られ、泣かれてしまった。
絵が描きたかったから。
そう言ったら、馬鹿だと言われて抱きしめられた。
その時に、"馬鹿"という言葉が口癖のようだった晶に会いたいと思った。
主治医の先生は私の方のレントゲンや病理検査の資料を見ながらすぐに入院して治療するようにと言っていた。
だけど、私はそれを拒否した。
主治医の先生の表情を見れば、私の症状がもう手遅れに近いことなんてわかっていた。
驚くことに、死ぬことに対しての恐怖は無かった。
ただ、腕を切られたくなかった。
利き手を失うくらいなら、死んだ方がマシだと思った。
"君は若いから、進行が早いんだ"
先生がそう言っていたのを思い出す。
仮に右腕を切断すれば治るのか?そんなのわからない。
多分、死ぬ確率の方が高い。
仮に治ったとして、その時私は利き手を失った状態でどう生きていけばいいの?
私は絵を描きたい。腕を失ったら、二度と描けないのに。
そう思って、私は決意した。
"治療で苦しんで命が助かったとしても、その間の人生が帰ってくるわけじゃない"
"腕を切断するくらいなら、私は死を選ぶ"
"それなら、やりたいことをやって悔いなく死にたい"
そう宣言した私は、誰に何を言われようと決して意見を曲げなかった。
それからの私は、今までの自分が嘘のように行動的になった。
受けるかどうか曖昧だった美大の受験も、結果がどうであれ挑戦したいという意欲が湧いた。
私には時間が残されていないことはよくわかっていた。
だから受験が終わったら、最後に一番描きたかったものを描いてみたい。
"今ならまだ間に合うかもしれない。だけど、これ以上治療が遅れたら死ぬかもしれないんだ!"
たとえ、その選択が自分の命を削ることになったとしても。
間に合うかもしれないということは、間に合わないかもしれないということ。
それならば、奇跡に賭けるよりも目の前の残りの人生を精一杯楽しみたい。
私が生きていたことの証明だなんて言ったら、烏滸がましいけれど。
一度でいいから、そういうものを描いてみたい。
今の私にしか描けないものを、描いてみたい。
つまり、ただの私のわがままなのだ。