街が変わることはわかっていた。
私が住んでいる札幌だって、住み始めた頃からはだいぶ変わったし、たまに来る東京も来るたび少しずつ違っている。
衝撃的だったのは道路が完成していることだ。ホテルにつながっている、大通りを横切る線路を越える道が完成していた。入学した頃からずっと工事中の狭い通りだったのに、今では大通りより大きくて立派な、レンガの歩道がオシャレな街並みに様変わりしている。
いつかキョーコさんと信号待ちをしていた角にあるかまぼこ屋さんだけが、当時の面影を残している。
いつも買い出しに行った駅前のショッピングセンターは駅ビルに生まれ変わったようで、もう影も形も残っていない。跡地にできたケータイショップを見ると、胸の奥がキューっと苦しくなる。
大きなものはそうやって変わっているが、小さな店は意外と変わっていないようだ。教科書を買いに行った本屋も、20歳のお祝いケーキを買ったケーキ屋さんも、まだその場所に建っていた。ワクワクした感じも、心細かった思いも、手に取るように思い出せる。
街を行く人は、当たり前だがまったく変わってしまっていた。歩いているのはサラリーマンより主婦のほうが多くなった気がするし、道行く車は小型の曲線が多い軽自動車が増えている気がする。きっと私の後輩にあたるだろう、若者たちは誰一人群れず、それぞれがスマホやスマートウォッチ、指輪型端末から映される画面を見ながら歩いている。「歩きスマホ!」なんて説教はもう効かなくなっている。
みんなが自分のことしか気にしないこの街で、過去の自分に思いを馳せている私は異質な存在かもしれない。
そんなことが頭をよぎると、見覚えのある影が信号の先でこちらを見ていた。
「舞音ちゃーん!」
間違いない、キョーコさんだった。小さな男の子の手を引き、こちらに手を振ってくる。
「キョーコさん!」
私も負けじと手を振り、走って信号を渡りきる。
「変わらないね。元気そうでよかった。」
「キョーコさんも元気そうで、何よりです。雰囲気でわかりましたよ。」
キョーコさんの見た目はかなり変わっていた。まず男の子のママになっているし、髪型もショートになっている。そしてスリムだったお腹も少し出ている気がする。
「あ、お腹にもいるの。次は女の子だって。」
「すみません、なんか見ちゃってました?」
「うん、ガッツリ見てたよ。ふふ。そういうところ、顔が嘘つけないところも変わってないね。」
キョーコさんは終始笑っている。男の子もニコニコしていて、すごく幸せなのが伝わってくる。
「舞音ちゃんもパーティー行くよね? まだ時間あるから、少しお茶でも飲んで行かない? うちの子そろそろ歩き疲れたみたいで、休もうと思ってたところなんだよね。」
キョーコさんの誘いにのって、たまに行っていたファミレスでお茶をすることになった。
「お子さんのお名前は?」
「ダイスケっていうの。」
お子さま椅子に座ったダイスケくんは、足をバタバタさせながらお子さまオレンジジュースの到着を待っている。
「キョースケが『どうしてもスケにしたい』ってきかなかったんだよね。」
「え、キョースケさんと結婚したんですか?」
ドリンクバーの紅茶を口に入れる手前で、口元から離してしまった。満杯の熱い紅茶がこぼれなかったのが奇跡だ。
「うん。コロナになって次の年だったかな? 結婚式もしたかったんだけど、あの状況じゃ断念せざるを得なくてね。先生には伝えたけど、みんなには伝えられてなかったよね、ごめんね。」
「もう遅いですけど、おめでとうございます! 今も関西に住んでるんですか?」
「ううん。今は埼玉。キョースケが埼玉の教員採用試験に合格したのをきっかけに、私、リモートワークの会社に転職したんだよね。ダイスケとも一緒にいられるし、いい感じだよ。」
「そうなんですね。」
キョーコさんはやはりずっと笑顔で、私を見つつ、母としてダイスケくんを見つめるのも忘れていなかった。
「ダイスケくん、可愛いですね。」
思わず口から出た言葉にキョーコさんが「でしょー!」と合いの手を入れる。そしてダイスケくんの頬に触れる手はママの柔らかくて温かい手だった。
「私も、子ども考えるならそろそろ旦那さんと出会いたいなぁ。」
「あれ? 龍仁はどうしたの??」
「え、いや…。」
学生の頃も今も、キョーコさんになら、なんでも話せてしまう。気づけば、学生の頃たぶん恋をしていたこと、コロナでなにもできなかったこと、いまは連絡も取ってないことをペラペラと喋っていた。
「じゃあ、今日は10年越しの告白になるわけかぁ。」
「いや、今は仕事ばっかりで、そういう気分じゃないし、そもそも今の龍仁が好きなのかもわからないですし。ていうか、龍仁今日来るんですかね?」
相談しておいて、いざ「告白」となると、全力で否定したくなるのも昔と変わっていなかった。
「うーん、来るんじゃない?」
「…知ってるんですか?」
「いや、知らないけど、北海道から舞音ちゃん来てるのに、龍仁来れないっておかしいじゃん。先輩として、そんな教育したおぼえはないよ!」
「そうですよね。」
いま龍仁がどこに居るのかわからないが、就職した頃と同じく九州に居るとしても、来れない距離では決してなかった。キョーコさんに言われたら本当に会える気がして、鼓動を強く感じ始める。
「ほら、顔赤くなってきた!」
「そんなぁ。」
「今度こそ、後悔しないでね。きっと舞音ちゃんの青春はまだまだ終わってないよ!」
「はい。そうなれば、ですが。」
「そうなるって、顔赤いもん。私ダイスケの面倒みるのに半分までしか居られないけど、終わったらちゃんと報告してよね。キョースケにも見張らせるから。ふふ。」
強くなった鼓動はより強くより速く感じられる。この感覚が「いま」のものなのか、過去を思い出してのものなのか、渦中の私には判別つかなかった。
「そろそろ歩いたらいい感じの時間だよね。ダイスケ歩ける?」
「うん!」
「じゃあ、行こうか。」
カップに一口残っていた紅茶を飲み干し、店をあとにする。ダイスケくんが居るのに、お腹が大きいのに、キョーコさんは私の2歩も3歩も先を行ってしまう。
「今日はおごりね。こんど、龍仁にお礼してもらわなきゃ。」
「ありがとうございます。」
キョーコさんは会計を済ませると、私の背中をポンと叩いた。
街並みはすっかり変わってしまったけど、ここに居る私は10年前の青春真っ只中を生きていた私そのものに生まれ変わっていた。
退官パーティーのあるグランドホテルは、学生時代、多くの知り合いがバイトをしていたホテルだった。私はバイトに入ったことはないが、ゼミ室になかなか来なかった同期にはグランドホテルでバイトをしていた人も居たような気がする。大学から見える位置にあり、受験シーズンには受験生とその親で満室になっていた。今回の宿泊先にグラホも考えたが、春休みの3連休だからか、引っ越し準備をしていると思われる高校卒業生でロビーがいっぱいだった。どうりで予約が取れなかったわけだ。
会場は3階の宴会場。毎年、学科の卒業祝賀パーティーをやっていたところなので、100人くらいは入る会場だった。キョースケさんからの招待ラインでは「みなさんなりの『正装』でお越しください」とあったので、あまりかしこまらない、会社にも着ていけそうな紺のフレアスカートにピンクのブラウス、ベージュのカーディガンを着て来ていた。キョーコさんはママの正装、チノパンにカーキーのパーカーを着ていた。
キョーコさんと会場に到着したのはスタートの30分くらい前だった。ダイスケくんのパパであるキョースケさんがとりまとめているだけあって、子連れでも参加しやすいように、子どもたちはキッズスペースで遊べるようになっていた。
「おお、舞音ちゃん。キョーコさん。」
「ペーさん! どうして結婚できたの!」
受付にペーさんが居た。相変わらず背が長く別にイケメンでもないペーさんが居た。
「どうしてって失礼な! やっとオレの魅力に気づいてくれる人が居たんだよ。」
「なに勘違いさせてるの? 幸せにしないと許さないからね!」
「もう世界一幸せだよ。ご心配なく。」
こうやってたわいもなく話せるのは、学生時代の同期くらいだ。もう10年、こうやって友達と話すということをしていなかった。結婚できるわけがないと思っていたヒガミもあるはずなのに、そんなのがどこかに飛んでいってしまうくらい、自分でも笑顔になっているのがわかる。
「龍仁、もう来てるよ。基本同期ごとの席順だから、よろしくな。キョーコさんも、席近いはずなんで、よろしくお願いします。」
「龍仁」と聞いただけで、心臓がドクンと強く鼓動を打つのがわかった。「うん」と軽く返事をして、ダイスケくんを遊ばせるキョーコさんと別れ、案内された私たちの席を目指した。
2019年度卒の席はキョーコさんたち先輩と同じテーブルだった。用意されている椅子は合わせて7つ。たぶんキョーコさんたちが3人で、私たちが4人だろう。先に座っていたのは1人だけだった。
龍仁と思われるその人は、紺のジャケットに白地のワイシャツを合わせた大人な佇まいだった。髪型はあまり変わっていないようだけど、軽くワックスで整えているのか、少しふわふわとしていた。
「舞音、お疲れ。」
「お疲れ。」
かつてのいつも通りのあいさつをして、龍仁の左斜め前に用意されていた私の席に座った。奇しくもゼミ室と同じ席順だった。
「龍仁、変わらないね。」
「そうみたいだな。舞音もすぐわかるくらい変わんないよ。」
「髪染めたのに?」
「うん。なんていうか、中身はなんも変わってない感じがする。」
「それって、中身つまってないってこと?」
「そんなわけあるかよ。つまってないのはおれのほうさ。」
こうやって何気ない会話を交わして学生時代へと時を戻していく。お互いそんなに老け込んでいるわけではないけれど、話すうちに学生時代のまだ子どもっぽさが残る笑顔が増えていく。
そして、無意識に龍仁の左手に注目している自分に気づく。
(結婚していたら、左手薬指に指輪をしているだろう。)
両親や職場を思い返しても、必ずしも当てはまるわけではないのに、指輪をしていない龍仁を期待していた。
「龍仁は今どこに住んでるの?」
「いま盛岡だよ。うちは全国転勤だからね。九州のあと名古屋に行って、ペーさんが結婚したあたりで盛岡勤務になった。舞音は?」
「私はずっと札幌だよ。」
「え、ずっと札幌って、寒いところ苦手じゃん! うける。」
両手をたたいて無邪気に笑う龍仁の左手に、輝くものはなかった。
(あ、独身なんだ。)
「もう! 痛いところ突かないでよ!」
必死にすねてみせて、赤くなっているかも知れない顔を隠す。隠すといっても、まだマスクは外せないご時世だから、半分は隠れているんだけれど。
「ごめんごめん。舞音、寒いの苦手だったよなーって思って。」
「そうなのさ。でも、意外と家が温かくて気に入ってるよ。」
「そうなの? じゃ、次は札幌に転勤しちゃおうかな? オレも寒いの苦手だから、ちょうどいい!」
ドキッと心臓が強く打っているのがわかる。10年ぶりに会った同期として普通の会話をしているだけなのに。
「やっほー。お疲れ。」
美波が私の隣にやってきた。やはり、2019年卒の4席はいつもの4人のようだ。
「お疲れ!」
美波と正面になった龍仁が手を振ると、美波も手を振ってこたえる。よく見ると、キラキラ光る指輪をしている。
「あれ、美波って結婚したっけ?」
「あれ? 報告、そういえばしてなかったかも。ごめーん。4〜5年前に結婚したんだよね。遊ぶ場所あるならうちの子たちも連れてくればよかった。」
「子どももいるの?」
「うん。男の子と女の子。ちょうど4月から仕事復帰なの。」
私も龍仁も、なんとなく目線が落ちていく。私たちだってもう32歳。結婚していたって、子どもがいたって全然不思議ではない。私もいつかとは思っていても、思っているだけだった私と、行動して実現しただろう美波と、それだけの違いだった。
「相手、旦那は、どんな人なんだ?」
「同じアパレル系で働いてるよ。まあ、出会ったのは婚活アプリだったけど。」
「結婚までどのくらい付き合った?」
「アプリでつながって付き合うまで2か月、付き合って1年記念日に結婚って感じ!」
龍仁が私が聞きたかったことを詳しく聞き出してくれる。やっぱり出会ってから結婚までは1年くらいかかるものなのか。それから子どもとなると、さらに歳をとっていく。
「オレ、誕生日きたら34だからなぁ。35までに結婚できるかな?」
「ペーさんができたくらいだからね。その時がきたらトントン進むよ。」
「なんだよ、子持ちの余裕!」
現実的な悩みだけれど、こうやって遠慮なく話せるのが、やっぱり同期だ。普段の生活では子どもがいても仕事バリバリでも、同じ土俵でたわいもなく話せる。心なしか3人とも話すうちに若々しくなってきた気がする。
「おーい、やっと受付終わったよ。ってか美波、いつのまに山下になったんだよ! 詳しく聞かせてもらおうじゃないか!」
「え、その話ならもう終わったよー。」
「まじかよ。そんなぁ。」
開始直前にやってきたペーさんはその場に崩れ落ちる演技をしている。いつものことだ。これでやっと、全員はいないけど、学生時代のゼミ室が完成した。
「えー。」
それぞれに談笑をしていたのが、キョースケさんの司会が始まろうとすると、ピタッとやむ。さすが中学校の先生なだけある。
「本日はお忙しい中、また突然のお誘いにも関わらず、お集まりいただきありがとうございます。これより、飯森先生、退職記念パーティーを開催いたします。」
司会席の前のテーブルにいる先生が立ち上がって会場全体に礼をする。先生のテーブルに居るのは、40歳くらいのゼミ1期生と思われる人たちだった。
「みなさん、今日は本当にありがとう。この度、地元の秋田に帰ることになり、大学を辞めることになりました。こうして集まってもらえることが、私が大学教員をしてきた結果なのかなぁと思っています。嬉しいです。コロナから久しく会えていない人もいますね。今日は久しぶりにいろいろと語り合えればと思います。それでは飲み物を準備していただいて…。」
どこのテーブルでも瓶ビールやウーロン茶を開けて、グラスに注ぎあっている。アルコールの選択肢がビールしかないのも飯森ゼミらしい。
「それでは、乾杯!」
「乾杯!」
会場全体で響き渡る。今は昔のようにグラスを持って色々な人とグラスを突き合わせるのではなく、その場でグラスを掲げるのが一般的な飲み会マナーとなっている。
乾杯が終わると、会場の中央に料理が運ばれてきた。それぞれのテーブルにもサンドイッチやおつまみの乾物はあるけれど、サラダや肉料理はそれぞれがとってくるビュッフェスタイルのようだ。飲み物カウンターも出てきて、すでに男性の先輩方を中心に行列ができている。
「居酒屋に慣れてると、こういうところって緊張するよな。」
そう言うペーさんの皿にはたくさんの料理がとられている。
「ペーさん、全然説得力ないよ。」
「いや、緊張してたくさんとっちゃったってこと!」
すかさず突っ込む美波とペーさんのやりとりも面白い。学生時代と変わらない、いつものやりとりだけれど、2人の左手には指輪が輝いている。喜ばしく、楽しいはずなのに、どこか悲しく、取り残されたような気になってしまう。
「美波さん、2コ下のイズミです。ダンスサークルであっちのテーブル盛り上がってるんですけど、来てもらえませんか?」
「うん! いいよ! じゃあちょっと行ってくるね。」
学生時代に何回か見た後輩に似てるような女の人が美波を連れて隣のテーブルへと行ってしまった。乾杯は自席だけれど、このくらいの規模になると、その後の席移動はどうしても起きてくる。
「龍仁だっけ? 飲み会で気がきく子! 九州に勤めていたことあるんだっけ? いま熊本でさ、ちょっとあっちで話さない?」
「もう10年前の話で、熊本は出張でしか行ったことないですけど、いいですよ。ちょっと行ってくる。」
龍仁も2つ上の先輩のところへ行ってしまった。
「君がペーさん?」
「はい。」
次にやってきたのは白髪の混じり始めたおそらく初期の頃の大先輩だった。
「受付でなんか変わってるなと思ったら、先生が面白いやつだよって言ってて、ちょっとこっち来てくれない?」
「え、あー、はい…。」
「あ料理なら途中でとっていいから、こっちこっち!」
「じゃあ、行ってくる。」
ペーさんも司会席に近い、初期の頃の先輩席に連れて行かれてしまった。
もうテーブルには、私とキョーコさんしか残っていない。
「みんな行っちゃいました。」
「そうだね、こっちも。ダイスケ連れてこようかな、ちょっと待っててね。」
キョーコさんも席を離れ、7人掛けのテーブルに1人になってしまった。
私の席からは顔をあげれば全体が見渡せる。同期で盛り上がるかなり若い世代。飲み物コーナーで知識を披露しあっているのか品定めをしているのか、という男性たち。お子さまコーナーで井戸端会議が始まっているママさん卒業生。ゼミの飲み会のときのように色々な人がいる。私の楽しみ方もゼミの飲み会と変わらない。
もう10年こういう経験をしていなかった。学生時代はなにも考えずに毎月飲み会に行っていたのに、今は外食するのにも勇気がいる。会いたい人に会うのも、話したい人と話すのも、なんとなくにはできなくなっている自分がいる。どうしたら相手が傷つかないか、自分が傷つかないか。そんなことばかり考えて何もできなくなる。
みんなは大人の生き方をそれぞれの道で身につけて、こうして実践しているのに、私はゼミ室に別れを告げた10年前から何も変わっていない。
「おまたせ!」
「舞音ちゃん、急に声かけたのに、わざわざありがとうね!」
キョーコさんがダイスケくんとキョースケさんを連れて帰ってきた。家族3人そろうと、お似合いな幸せいっぱいなまぶしい相乗効果が生まれている。
「龍仁は? いつもしゃべってるからいいのか。」
「もう、さっきファミレスで話してきたんだけどね。」
キョースケさんも私と龍仁はいい仲だと思っていたらしい。
「今日、10年ぶりに再会して、仲はいいんですが、まだ、こう特別な関係にはなれてなくて。」
「龍仁も男ならさっと誘って告ればいいのに。」
「ちょっと! コンプラ的に、よくないぞ! っていうか、あなたに告白したのは私ですけど。」
キョースケさんから見ても龍仁は私のことが好きなように見えるらしい。いまは「男が告白」という時代でもないけれど、言われるのを待っている、受け身な私も確かにいる。
「でもなー。龍仁や舞音ちゃんの気持ちもわかるなー。中学生ずっと見てたらすぐに告白して、付き合って、別れて、新しい相手ができて。何も考えず内輪ばかりでよくやるよなーって思うよ。もうこの歳になったら、そうも行かないもんな。」
「そうなんですよね。傷つくのも怖いし、そんなことでショゲている余裕もないし。」
「龍仁の話聞いたことないけど、ハタから見たら今も昔も両想いだよ。」
「そんなぁ!」
キョースケさんに受け止められて、キョーコさんに背中を押されても、それでも踏み出せないくらい、30代の恋は難しい。
「話変わるけど、若い先生見てると、オレらとその下でカッチリ線が引いてあるっていうか、なんか違う気がするんだよな。」
「うんうん! って舞音ちゃんの前で言っていいのかわかんないけど、出社して働いてたとき、思ってた!」
「そうなんですかね?」
キョースケさんは手元のビールを飲み干して、さらに続ける。
「たぶんコロナだと思うんだよな。だから正確には舞音ちゃんの下世代からかな? でも舞音ちゃんたちも卒業の楽しみがいろいろなくなった世代だろ?」
「はい。」
「だから舞音ちゃんも大して変わらないと思うんだよな。ちゃんと青春できなかった、っていうか、やるべきことをやってきていないっていうか。」
「たしかに。あそこで時が止まっています。」
「普段の舞音ちゃん見てないからわからないけど、きっとその止まった時代をとりかえしたら、何か変わるよ。恋愛だけじゃなく、仕事も考え方も。せっかく会えたんだから、後悔、しないでね。」
キョーコさんにもキョースケさんにも、何度も言われる「後悔、しないでね。」が、また頭の中をこだまする。何もできていないのに、後悔になっていないのは、まだ手遅れになっていないからだ。もう年齢的にはいつ手遅れになってもおかしくない。なのに踏み出せていない私がいた。
「ほら、噂をしたら帰ってきた。」
キョースケさんの言う通り、ガラに合わないワインを片手に龍仁が元の席へと帰ってきた。
「龍仁お疲れ!」
「お疲れさまです。お子さんかわいいですね、いくつなんですか?」
キョーコさんが膝の上のダイスケくんの手を持って、龍仁に手を振る。
「あと3か月で4歳。4月から幼稚園行くんだ。握手してあげて。」
龍仁はしゃがみ込んで、恐る恐るダイスケくんに指を近づける。
「おお! 握ってくれた! りゅうじんだよ、よろしくね。お名前は?」
「ダイちゃん。」
「ダイちゃんって言うんだね! よろしく。」
ダイスケくんと触れ合う龍仁は、父親なんじゃないかと思うくらい、優しく楽しそうだった。
「ダイちゃん、龍仁やさしいね! パパ交換しようか?」
「うん。」
「おい! キョーコ!!」
冗談を言うキョーコさんもそれに乗ってしまってるダイスケくんも、全力で止めにかかるキョースケさんも、家族みんなで可愛らしい。
「ダイちゃん。オレ、パパやったことないけど、いいの?」
「うん。」
「おい! 龍仁まで!! ダイスケはやらないぞ!!!」
みんなして冗談を本気で演じ始めてきた。「やらないぞ!!!」とか言いながら、キョースケさんがダイスケくんを抱いて、龍仁に抱かせようとしている。
「わぁ、重いっすね。」
「そりゃな。オレに似たのか食いしん坊だからな。」
重いと言いながらダイスケくんを抱える龍仁はパパそのものだった。
「龍仁さ、本当にパパじゃないの? めっちゃ抱くの上手いけど。」
「子ども居ないっすよ。それどころか結婚もしてないですって。」
「そうなの? じゃあいい感じな人がいるとか?」
「若いときは色々ありましたけど、職場も男ばかりで、今は全然。」
キョーコさんが、さらっと私が気になっていたことを聞いてしまう。指輪をしてないけど、本当に結婚していないんだ。そして今は彼女もいないのか。たぶんが確信に変わると、また心臓がドクドクと打つのがわかる。
「色々ってなに? めっちゃ気になるんだけど!」
「え、あー、いやー…。あ!」
キョーコさんが私の気になっているだろう部分を聞き出そうとしたとき、ちょうど先生がやってきた。
「やあ、龍仁久しぶりだな。舞音も卒業以来か?」
「お久しぶりです。」
先生への返事が示し合わせたわけでもなく、まったく同時になる。
「仕事はどうだ?」
「そうですね。いままで3つ職場を経験したんですけど、同じ会社なのに全然違って。」
「そうだよな。」
「何が起きても動じない対応力? はついた気がします。」
龍仁は淡々と10年の働きぶりを話す。学生時代からよく働く龍仁だったから、きっと職場でもなんでもやって、できるようになっていっているのだろう。そんな姿が目に浮かぶ。
「舞音はどうだ?」
「私は転勤なくて、ずっと札幌なんですが、だいたいの部署は経験して、4月から経理課長になりました。」
「課長か。さすがゼミ長出世したな。」
「いやー、誰もやりたがらないんで。」
「まだ30歳過ぎたばかりだろ? そりゃもう、エリートコースに載せられてるな。」
「えええー。出世とか興味ないのに…。」
褒められているのか遊ばれているのか、よくわかっていない私の目に、うんうんと頷いているキョーコさんとキョースケさんが映る。
「いや、マジだよ、舞音ちゃん。」
「うん。婚期逃すやつ。キョーコの姉さんそんな感じだったよな?」
「そうそう。35歳過ぎて店長までやってるけど、そこまでいくと嫁にもらってくれる人も居ないって嘆いてる。」
キョーコさんとキョースケさん的にも、先生と同意見らしい。
「どう働くかって、どう生きるか、だからな。そろそろ考えないと、人生で手に入れたいものを逃すことがないように。」
「どう生きるか、ですかぁ…。」
龍仁のほうが先生の言葉を深刻に受け止めて考え込んでしまっている。
「オレは故郷で暮らすことを諦めた。だからこうやって多くのゼミ生に囲まれて、生きることができている。妻とだって、秋田にいたら出会えなかったし、子どもたちもそう。」
先生は日本酒の入ったお猪口を片手にさらに続ける。
「でも、いま。大学を去るという決断をしている。今まで好きに生きてきたぶん、親が生きているうちに孝行しないといけない、そんなタイミングが来てしまったのでね。」
先生の退職理由は詳しく説明されていないから、そのテーブルにいた全員が先生の告白を真剣に聞いていた。
「妻と子どもたちも一緒に秋田まで行ってくれることになった。本当に感謝している。それが一緒に生きる家族ってことなのかな、少なくとも飯森家はね。どう生きるか、誰と生きるか。それは自分で決められる世の中であってほしいし、卒業生にもそうあってほしいな! それを見届けられないのが唯一の心残りだな。」
「オレ、転勤多いから、どこで生きていきたいか、自分で考えないとなぁ。」
「それもそうだが、龍仁はそろそろ『誰と』をよく考えろ! じゃあな。」
先生はそう言って龍仁の肩をポンとたたくと、私たちにニコッと笑って、次のテーブルへ移動してしまった。
「『誰と』って先生言うけど、マジで出会いないんっすよ。」
「会社じゃそうなんだろ? じゃあここで見つけていかないとだな!」
「そんなぁ。」
グラスにビールを注ぎあいながら、龍仁を励ますキョースケさんは学生時代と変わらないイケてるボーイだった。照れる龍仁もあの頃みたいに可愛くみえる。
「じゃあ、そろそろ閉めないとだから、あとキョーコ頼んだぞ。」
「うん。」
「じゃあな、ダイちゃん。龍仁には渡さないぞ!」
ダイスケくんのほっぺをプルプル触り、龍仁と私に会釈をして、キョースケさんは司会席に帰ってしまった。
キョーコさんはダイスケくんを持ち上げて、膝の上に座り直させる。
「舞音ちゃんって、札幌だよね? 飛行機で来たの?」
「はい。今朝飛んできました。」
「そうなんだ。帰りは?」
「まだ考えてないです。」
ええ? っと、龍仁もキョーコさんも驚いている。
「せっかくだから羽伸ばそうかなぁって、休みだけとって、あとは決めないで来たんです。」
「そ、そんなことってあるのね。」
「経理課長の引き継ぎは終わってるし、今の部署で働いてても、居なくなる人が頑張ってもなぁと思うところもありますしね。」
キョーコさんの驚きは止まらない。さっきから皿の料理にまったく手がついていない。ダイスケくんがジュースを欲しがっているのに、それにも気づけていないみたいだ。
「龍仁は、いまどこだっけ?」
「盛岡です。ちょっと遠いけど、車で来ちゃいました。」
「そ、そうなの!」
1、2、3。キョーコさんは、たしかに3回、私の方を見て顔を見合わせた。龍仁が盛岡から車で来ている。運転が好きだった龍仁のことを考えれば、車がないと生活に困る東北地方住みというのも考慮すれば、何も不思議はない行動だった。だからなぜキョーコさんが私と顔を見合わせているのか、よく分からなかった。
「ねえ、龍仁。舞音ちゃん、盛岡まで送ってあげなよ。」
「えー! キョーコさん、そんなぁ!」
「遠慮するところじゃないよ、舞音ちゃん。盛岡まで行けば、飛行機でも新幹線でも、少し交通費浮くじゃん。ね、龍仁。」
キョーコさんの提案を全力で拒否する私の顔は、きっと耳まで真っ赤になっているはずだ。そんな私たちを龍仁はいたって冷静に見ているようだった。
「全然いいっすよ。1人だと道中つまらないし。ホテルどこ?」
「私? 駅前のセントラルホテル。」
「出発明日でいい?」
「え? あ、うん。」
「オレもしばらく休みとってるから、寄りたいところあれば考えといて。」
「うん。」
あっという間に、龍仁と2人で盛岡に行く計画が立った。緊張と嬉しさと、信じられなさとで、顔が真っ赤になっている私をキョーコさんがニコニコ見つめている。
(2人きりということは、これは、デート?)
そんなことが頭に浮かぶと、もう「デート」で頭がいっぱいになる。照れ隠しに皿に残っている料理もテーブルで残っているサンドイッチも、食べられるものはなんでも食べて、話す余裕をなくしてしまう。
キョースケさんのアナウンスで、ごちゃ混ぜになっていた会場が、元いたところに戻る形で、落ち着きを取り戻していく。そしてみんなイソイソと最後の乾杯のための飲み物を補充する。
私も飲み物カウンターまで行って、ハイボールを注文する。もう甘いもので締めるお姉さんではなくなっていた。そうなのだが、ハイボールが手元に届いてから、酔いがだいぶ回っていることに気づいてしまった。
カウンターから席まで戻るのに少しよろけているところを美波が支えてくれる。椅子をペーさんが引いてくれる。そして「大丈夫か?」と龍仁に心配される。10年前まで当たり前にあった同期の気遣いが、無性に嬉しく感じる。
「では、次のOB会は秋田で会いましょう! 乾杯!」
乾杯。その後の記憶は正直残っていない。なんとかハイボールを飲み干した気はするが、その後どうやってホテルまで帰ってきたかだ。ラインを見返すと、キョーコさんから心配のラインが入っていたから、きっとキョーコさんが送ってくれたか、タクシーに乗せてくれたかなのだろう。
深夜に目が覚めて、キョーコさんからのラインに返信して、また寝た。
「じゃあ、報告待ってるから! がんば!」
朝、目覚めるとキョーコさんから応援メッセージが来ていた。半分キョーコさんが約束してくれたような龍仁とのドライブデート。キョーコさんにもキョースケさんにも「後悔、しないでね。」と背中を押されている。
(今日こそ、必ず、伝えよう。)
そう、心に決めた朝だった。
何度か目を覚まして、やっと起き上がったときに時間を確認すると8時を回っていた。
(ここは、どこ?)
ホテルだ。そう、飯森先生の退官パーティーで10年ぶりに大学近くまでやって来ているんだった。
(チェックアウトは何時?)
こればっかりは、記憶だけに頼るわけにいかず、少し痛い頭を起こして、テーブル上のチェックイン情報を確認する。11時だ。ゆっくりしたいなぁと、なるべく遅い時間に設定したんだった。
(朝ごはんは?)
同じくチェックイン情報を確認すると、ちゃんと申し込んであった。時間は9時ラストオーダー。
酔いで吹っ飛んだ諸々の情報を整理して、すぐに朝食に出かけないと行けないことを理解する。シャワーは後にして、とりあえずの身支度を整える。その途中でスマホを確認して、キョーコさんとのラインを見つけた、というわけだ。
こんなに酔ってしまったのは、3年生の忘年会以来だ。気が張っていれば、どれだけ飲んでも酔わないのに、龍仁のことが気になると酔ってしまうようだ。
朝食はバイキングだったが、いつも通りパンを食べ、コーヒーを飲む。
龍仁とドライブ。
そんな非日常な時こそ、いつも通りを心がけようとする。いつも通りといっても、せっかく手にとったクロワッサンは焦がしてしまうし、コーヒーに入れる砂糖を取り損ねてしまうし。踏んだり蹴ったりな朝食だった。
デザートにヨーグルトを食べようと、器によそっているときに、左手首のスマートウォッチが震えた。
「ごめん。今起きた。」
龍仁からのラインだった。さらに通知が2件来ているが、ヨーグルトをよそっているこの姿勢では見ることができない。席に戻って確認すると、迎えは12時近くなること、今日中には盛岡に着けそうにないことが連絡されていた。
「わかった! 私もゆっくりしてるね!」
サクッと返信して、目の前の苦いコーヒーとヨーグルトに向き合う。
(龍仁と、泊まり?)
今日中に着けないということは、そういうことだ。同じ部屋に泊まる? それはちょっと、いくら同期といっても、いい大人が節約のために同部屋にはしないものだろう。仮に別だとしても、明日まで龍仁と一緒に居られることが確定した、ととらえて良いだろうか。
そんなことを考えている間に、ヨーグルトの上に浮かんだいたブルーベリージャムはすっかり沈んでしまった。ふと顔を上げると、店員さんと接客ロボットが料理を片付け始めている。どうやらラストオーダーの9時を回っているみたいだ。
なるべくご迷惑にならないように、手早くヨーグルトを混ぜて色を取り戻し、デートに向けての腹ごしらえを終えた。
準備と荷物の整理を終え、チェックアウトギリギリにホテルを出る。チェックアウトも機械のみで終了。龍仁が来る予定の12時近くまでは、新しくできていた駅ビルのコーヒーショップでくつろぐことにした。
「30代 デート」
「ドライブデート 注意点」
「同窓会 告白」
これから起こることの予習として、考えられることを検索しまくる。どんな情報を見ても似たり寄ったりで、結局は自分の気持ちに素直に生きていくしかないことを思い知らされる。一杯目のラテが飲み終わりそうなところで、龍仁からラインが来た。駅前の駐車場まで来たようだ。
ここから、私の、私たちの、10年越しの卒業旅行が始まる。
「待たせたな。」
「ううん。新しい駅ビル楽しめて、ちょうどよかったよ。」
「途中、寄りたいところ、ある?」
「うーん、特に。本当にありがとうね。」
新しい駅ビルに移転したフードコートで落ちあった。日曜日の12時とあって、どの店も混んでいて、人もたくさんいたが、グレーのパーカーを着た龍仁はすぐに見つかった。
「ご飯食べた?」
「いや、お昼はまだだけど、朝食べたから、今じゃなくても大丈夫。でも、食べてから出発したいよね。」
私のこたえを聞いて、龍仁は「そっかー」と少し考え、私の目を見つめて来た。
「じゃあ、『あさがお』行こう!」
「あ、いいね! 行こう行こう!」
「あさがお」というのは、大学から龍仁の駐車場だったところの途中にある町中華だった。1,000円でお釣りが来るお手頃な値段設定なうえに、盛りがよくて、近場で外食しようとなったときには必ず候補に上がって来る店だった。
最初の目的地が決まると、駐車場に向かい、龍仁の新しい車に乗り込む。黒いSUVだ。
「よろしくお願いします。」
「舞音っていつまでも律儀だな。安全運転で行きまーす。」
学生の頃と変わらない挨拶で、私たちの卒業旅行が始まった。
10年、いやそれよりも経っているくらい久しぶりの「あじさい」は若干テーブルや椅子の入れ替えがあったようだが、学生時代と変わらないたたずまいをしている。少し値上げはされているが、1,000円くらいの学生の財布に優しい値段設定は健在だった。
「オレ、唐揚げかな。」
「私は半チャーハンにしようかな。」
「チャーハン好きだな。」
「やっぱりこういうときは、よく食べた味でしょ!」
単に今食べたいもの、量だったのもあるが、たしかに私はよくチャーハンを食べていた。半チャーハン、正確には半チャーハンセットには、少食であれば満足なくらいのチャーハンと日替わり中華スープ、小鉢が付いてくる。今日はきくらげのスープとザーサイがついてきた。龍仁の唐揚げ、唐揚げ定食はあじさいのなかでも盛りがいいことで有名で、私は食べると次のご飯がいらないくらいいっぱいになってしまう。サラダに中華スープ、小鉢のザーサイもついてきている。
「やっぱ、この味だよな、スープ。」
「うん。何回か作ってみても、同じ味にならないんだよね。」
「そりゃ店だからな。」
そんなことを話しながら、食べ進める。
あじさいの中華スープは具材は日替わりでも、基本のスープはいつも同じ味だった。ごま油が効いているのはわかるけれど、それ以外にどんな隠し味が入っているのか、独自のほっとする味を作り出していた。
「唐揚げ1コ食べる?」
「え!」
いつまでコロナのクセが抜けないのか、それとも龍仁だからそう思うのか、手のついていない唐揚げをもらうのにもドキドキしてしまっていた。ありがたく、小さく見えた唐揚げを1つもらい、チャーハンでバウンドさせてからいただく。
この味。
生姜が効いた甘じょっぱい醤油味。熱い肉汁とサクサクの衣が、学生時代、ゼミのみんなと来たことを思い出させる。
「私、唐揚げ定食頼んだことあったっけ?」
「いや、ゼミで来たときは無いと思う。」
「そうだよね、こんな多いの食べられないもんね。じゃあなんで懐かしいんだろう?」
「みんなでつついてたからじゃない? だいたいペーさんかオレが唐揚げ頼んで、みんなで分けておかわりしていた気がする。」
そうだ、そうだった。家族で外食をするときみたいに、お互いの頼んだものをシェアする文化があった。唐揚げも餃子も焼売も、みんなシェアして食べていた。
「なんか、味が懐かしいのもあるけど、この味で思い出す色々も懐かしいよな。」
「うん、私も思ってた。何話していたかなんて覚えてないけど、楽しかった感覚だけ、鮮明に覚えているんだよね。」
「そうそう。」
食べながら昔の自分たちを思い出しているのは龍仁も同じだった。食べながらお互い笑顔が増えていく。ハタから見ればただ笑っている不気味な2人。でも、ここにはたしかに、私たちにしかわからない、私たちの時間が流れていた。
「美味かったな。」
「うん。」
食べ終わった私たちは、お腹も心も既にいっぱいになっていた。
腹ごしらえが済んだところで、今日は福島県に入ることを目標に走ることになった。私は火曜日まで休みをとってあるから、明日福島から盛岡に送ってもらえれば、火曜日1日かけて新幹線で札幌まで帰れる。そういう計画だった。
「どっか寄りたいところ、ある?」
「いや、あじさい食べられたからもう大丈夫。」
「車酔いとか、大丈夫?」
「うん。全然。あ、ちょっとここ寄ってもらっていい?」
国道を走り始めたところで、ロードサイド型のコーヒーショップに寄ってもらうことにした。
「タダで乗せてもらうのも悪いからさ。何飲む?」
「そんな気遣わなくていいのに。あんまり来ないからな。任せるよ。」
「甘い系か、ブラックか。」
「せっかくだから、甘いので。」
「ホット? アイス?」
「うーん。それこそ任せる。どっちでも大丈夫だよ。」
龍仁の注文を聞いて、車を降りた。結局何にしようか。期間限定でもいいし、いつも私が飲んでいるラテでもいいし。行列に並びながら、何度も気持ちが変わる。自分のだけならすぐに決めるのに、龍仁へのプレゼントとなると、こうも真剣に悩んでしまう。
「おお、ありがとう。」
結局、私は期間限定のフラペチーノを2つ買って帰ってきた。
「学生の頃はなかなか飲めなかったけど、もう美味しいものにはケチらないって決めたんだ。」
「だよな。オレも好きなように食べて飲んでいるよ。」
飲み物置き場に冷たいカップをセットして、龍仁はギアをドライブに入れる。新しい車の動きは実に滑らかで、昔の軽自動車とは比べ物にならない。浮くように、滑るように、福島へと走り始める。
車は市街地を抜け、高速道路に乗る。遠くに東京の街並みが見えるが、無機質などこにでもある光景だった。きっとスキー旅行や、思いつきのドライブをしたときにも見ていた光景。
「舞音。何度もすまないが、本当に寄りたいところはない?」
「うーん、あじさい懐かしかったからね。スキー旅行で行ったロッジとか行っても懐かしいんだろうけど、長野だもんね。」
「そうだな。逆方向。しかももう雪ないしな。」
「そうだよね…。」
「まあ、また今度、行けばいいっか。」
え? と聞き直したくなったくらい驚いている。たしかに龍仁は「今度」と言った。ということは、次があるのつもりなのだろうか。
私はどう反応してよいのかわからず、何も言えないでいるのに、龍仁はそのまま前を見て運転している。さっきまでと何も変わらない。
「舞音はこの10年、どう過ごしていたの?」
「え、あの、『どう』って、どういうこと?」
まだ動揺している私とは対照的に、龍仁は何も気にせずに話しかけてくる。
「どうって、どんな20代だったのかな? と思って。」
「どんな20代って言われても…。ただ仕事してるだけだったな。」
「彼氏とかは?」
「え??」
龍仁はどんどん突っ込んで聞いてくる。
「居ないよ。」
「今だけ居ないの?」
「いや、ずっと居ないよ。大学3年生で別れてからずっと。」
「そうなんだ。」
龍仁の反応はいたって無機質だった。喜んでも悲しんでもいない。龍仁と恋バナをするといつもこうだった。
「龍仁はどうなのさ! キョーコさんたちと『色々あった』って言ってたじゃん。」
「え、オレ?」
自分の方に話が向いてくると、龍仁は少し嬉しそうにニコニコし始めた。照れ隠しに少し溶けてきたフラペチーノを一口飲んでいる。
「うん。色々あった。」
「だから、色々ってどんな色々があったの?」
「彼女は何人かいた。」
「いつ頃?」
「九州にいた頃だから、4年くらい。」
「まあ、普通じゃない? どこが色々なの?」
そう聞くと口元をモゴモゴさせて、答えるのを渋っている。
「その間に5人いた。」
「おー、それは、多い、ね…。」
学生時代もそれなりに彼女が居たはずだが、自分の意思で女を取っ替え引っ替えするような人ではなかったはず。
「最初の3人は1年目だったんだけど、職場の人だったんだよね。でもコロナだったじゃん。割とすぐ家に来るようになったんだけど、家に来たら『冷めた』って振られてさ。」
「なんで冷めたんだろうね。家汚いわけでもないでしょ。」
「うん。来たことあるじゃん。」
「元カノグッズ、置いてあるとか?」
「全部捨てたよ、別れたときに。しかも引っ越しもあったし。学生時代の人はもう名前もあやふやだよ。」
龍仁は本当に思い当たる節がないようだった。前を向きながらずっと眉間にシワを寄せている。
「その次は2年目の後半かな? クリスマスは一緒だったけど、そこで振られちゃったんだ。」
「龍仁ってそんなに振られる人だったっけ?」
「いや、学生時代はそんなこともなかったような気する。」
「だよね。なんでクリスマスに振られたの?」
「ゼミの忘年会行きたいなーとか、卒論大変だったけど楽しかったよなーとか。そんな話してたら、『もういい』だって。付き合って2か月経ってなかった。」
若い社会人が学生時代を懐かしむのはよくある話だと思うから、きっとそれ以外に彼女たちに合わない何かがあったのだろう。
「最後の人は、どうだったの?」
「3年目の夏から1年くらい付き合った。」
「続いたじゃん。」
「もう26歳だったからね。正直、結婚に焦っていたのもある。」
「出会いは?」
「マッチングアプリ。」
「本当に焦ってたんだね。」
「うん。高校の同期がバタバタ結婚し始めて、ちょうどコロナも落ち着いてきて、結婚式も呼ばれたら、その度に早くしなきゃって気持ちになっててさ。」
「いい人だったの?」
「まあ。ひとつ年下で、あっちも結婚に焦ってるみたいだった。賢いし気がきくし、本当に出会いがないから彼氏が居なかったんだろうなって感じだった。」
5人目の話をする龍仁は幸せそうに、柔らかい笑顔で前を見つめていた。終わった話とはいえ、知らない女のことをこんな笑顔で話されると、少し気まずくなってしまう。
「どうして別れたの?」
「あの時はオレが振った。」
「なんで?」
それまで上機嫌に話していたのが、急に眉をひそめ、目線もなんとなく下向きになってきた。
「彼女には『オレはもったいない』って言った。」
「本心は? 本心はどうだったの?」
「彼女には」なんて言うものだから、きっと何か裏の気持ちがあったのだろうと、聞いてみたら、龍仁は、気まずい時の「あー」とも「うー」ともつかない声で困り始めた。なんと答えるのか、私のほうも気まずく、ドキドキとしてきてしまう。そのまましばらく時間が過ぎ、車はサービスエリアに入っていく。そのまま駐車場に入り、エンジンスイッチをきる。
「もっと青春がしたかったから。」
「え?」
「さっきの答えだよ。最後の彼女と別れた本心。」
「龍仁にとっての青春って?」
何も音がしなくなった車内に龍仁の少し荒くなった呼吸だけが聞こえる。
「もう誰とも付き合えなくなる。舞音と付き合えなくなるのが、嫌だって気づいたから。」
龍仁の答えを聞いて、自然と目に涙が浮かんでいた。私の目にも龍仁の目にも。
「どんなにいい子と付き合っても、舞音の代わりはいないって気づいたんだ。またチャンスがあるなら会いたいと思っていた。」
龍仁はきちんとこちらを向いて想いを伝えてくれた。
「ずっと言えなかった。学生の頃は、これが『好き』に入るのかもよくわからなかった。オレが九州勤務で舞音が北海道ってなって、これは別れる運命なんだなって勝手に思って、納得させていたんだよ。」
私は何も言えず、ただただ龍仁の想いを受け止めている。
「最後のゼミ室で2人きりになって、伝えようか迷ったけど、もう会えないのに言われてもなって思って言えなかった。」
「あの時たしか、『幸せになれよ』って…。」
「そんな感じだった気がする。九州からじゃオレが幸せにすることできないから、オレとじゃなくても幸せでいて欲しいなって思って。先も見えなかったし。」
ずっと龍仁を見つめていた目をカバンに落として、ティッシュを探す。さすがに涙も鼻水も、顔の中でとどめておくのは限界になってきた。
「すぐ彼女作ったら、この伝えられないモヤモヤも消えるかなって思ったけど、逆だったね。気づけば彼女たちに舞音との学生時代の話ばっかしてたんだと思う。カップルらしいことするたびに、舞音だったらなって。たぶん伝わってるのは自分でもわかってた。最後の彼女はそんなオレも受け入れてくれたけど、オレの方が無理になっちゃった。」
龍仁も膝を見つめ、運転席の枕の後ろに付いていたティッシュをたぐり寄せている。きっと、龍仁は優しすぎたんだと思う。私にも最後の彼女さんにも。「無理」っていうのは、きっと他の女を感じさせながら幸せにするのに耐えられないってことなのだろう。いい子だったならなおさら、そんな龍仁もわかる気がした。
「オレ、舞音じゃないとダメなんだ。次の異動希望、札幌に出すから。いや、仕事辞めて札幌に行ってもいいから。オレと生きていってくれないか?」
(うん!)
心の中では答えが出きっているのに、声にはならなかった。
龍仁と生きる。
もう私たちも30代半ばになる。楽しむためだけ、自分の寂しさを埋めるためだけに付き合えないくらい、歳を取りすぎていた。10年かけて伝えてくれた想いにそう簡単に答えを出していいとも思えなかった。
「なんか急にごめん。こんなつもりじゃなかったのにな。ちょっとトイレ行ってくる!」
龍仁はそのままトイレに出ていってしまった。
ひとり、車の中で考える。
龍仁が帰ってきたら、答えを伝えよう。
私の想いも、これからやりたいことも。
なんて伝えようか、頭の中で考えては消して、考えては消して。浮かれた頭を冷やすために、もう溶けているフラペチーノを飲み干す。もはやただ甘いクリームになってフラペチーノが、浮かれた頭をさらに甘く混乱させる。あとは龍仁が帰ってくる前に鏡を見て、涙と鼻水で崩れた化粧を整えて。口紅も挿し直しておこうか。
ひとり頭の中で勝手にあたふたしているうちに、龍仁が帰ってきた。
「おかえり。さっきの答えだけど…。」
龍仁が固唾を飲んで見つめているのが手に取るように伝わってくる。
「私…。」
なかなかそのあとの言葉が出てこない。言いたいことは喉まで出かかっているのに、出てこない。何度も練習していたのに、龍仁を目の前にするとこうも思うようにいかないものなのか。
「私も…。」
なんとかそこまで絞り出すと、龍仁は再び涙目になり、私の頬に優しく触れた。
どれだけの時間をかけて絞り出したのか、空はなんとなくオレンジ色に染まってきている。
「その先は少しずつ、聞かせてくれたらいい。」
龍仁は私の頬に置いた手で優しく私の涙を拭う。
「ありがとう。」
ただ2人で見つめあっている。
それだけの時間も私たちには貴重で、尊くて、青々しい。やっと辿り着いた青春だった。
「私もお手洗い、いい?」
「うん。飲み物も買おっか。」
オレンジ色の空が照らすなか、あたたかい笑顔で車を降りた。つながった2人の影が、サービスエリアの中へ入っていく。
もうただの同期ではないのだからと、2杯目の飲み物は龍仁が買ってくれることになった。「夕方近いけど、コーヒーで大丈夫?」と聞いてから、カフェラテを買ってくれた。龍仁も一緒。同じものを飲むのも、ただの同期とそうではないのとで、こうも気分が変わるものなのかと、しみじみ思う。
「この調子だと、郡山で泊まりかな。」
再び高速を走らせながら、淡々とこのあとの予定を切り出してきた。
「じゃあ、夜ごはん探しておくね。郡山なら大きい街でしょ? 任せてもらって大丈夫?」
「うん。頼んだ。」
スマホに目を落としながら、夜ごはんで行きたい店を探す。さすが県内第二の都市とあって、オススメなお店がいくつもヒットする。
「あった!」
「どこにしたの?」
「うーんとね、夜までのお楽しみにしてて!」
イタズラっぽく笑ってみせるのに、スネてにらんでくる龍仁。こんなやりとりもさっきまではなかった青春の1ページになっていく。
「ねえ。いつから好きだったの?」
スネていたかと思えば急に話を戻してきた。
「いつからって、前から。」
「学生時代から?」
「うん。たぶん。明確にはわからないけど、ずっと一緒に居たいなって、卒業旅行のときに言うつもりだった。」
「卒業旅行な。ナイショで行ってるゼミあったからな。ちゃんと守ってたのがバカらしくも思っちゃうよ。」
「いいじゃない、いま2人で旅行できてるんだから。10年もかかっちゃったけどね。」
卒業旅行より、この2人でのドライブのほうがいいのではないかと思い始めている。もし、あの時卒業旅行に行けてしまったら、本当に告白できたのだろうか。また卒業式で会える、同窓会で会えると、先延ばしにしてしまっていたかもしれない。
「なんか、付き合って1時間も経ってないのに、ずっと一緒だったみたいな安定感、あるよな。」
「うん。本当にね。びっくりするくらい2人でいるのが落ち着くよ。」
そう言って、龍仁がカフェラテを飲もうと左手を伸ばした。
「あ!」
「ふー、危なかった。」
龍仁が飲もうとしたときに車が揺れて、こぼれそうになってしまった。そこでとっさにハンカチを取り出し、大惨事とならないよう、口元に添えてあげたというわけだ。
「もう、完全に息ぴったりだよ。」
「ありがと。本当、学生の頃から気がきくよな。」
「早くもらってくれればよかったのに。」
「それはゴメンって。学生の頃は気づいてなかったから。」
そんな何気ない会話をしているうちに、日は完全に暮れ、車は郡山市内に入って行った。
「うん。ここ! 『佐倉舞音』で予約してあるよ。」
「ここ? どう見ても中華屋さんだけど…。」
「うん。中華だよ。中国の中華とはいかないけど、本格っぽいところにしてみた!」
私が付き合って初めての夕食に選んだのは、ちょっといい中華屋さんだった。この旅行は、私の中では行けなかった卒業旅行だから、龍仁が悔しがっていた、本格中華に近いものを食べたいと思って選んだ。
「昼も中華だったよね。」
「あ! そういえば。」
昼は「懐かしいもの」、夜は「あの時食べたかったもの」。図らずも中華続きとなってしまった。
「ま、オレ中華好きだから、ありがと! よし、本格麻婆豆腐食べるぞ!」
運転で疲れた身体を「ぐーん」と伸ばして、また2人一つの影で店に入った。
目が覚めると、隣に龍仁がいる。
それだけで、私は人生最良の朝を迎えられる。
私たちは昨日、郡山の本格中華で四川麻婆豆腐とフカヒレスープを堪能し、他にもたくさん、食べたいもの、食べたかったものを注文した。10年前に行く予定だった卒業旅行では、ビールと紹興酒と、飯森ゼミらしくお酒も堪能する予定だったが、今日は車だ。もちろん餃子やピータンや、おつまみにぴったりなものも注文したけど、店ではビールをおあずけにして、10年分の幸せを腹いっぱいに食べ尽くした。
そのまま近くのスーパーでビールとハイボールとポテチを買い、ホテルで二次会。先にお風呂に入ったのは私で、髪を乾かして龍仁を待っていたけれど、少し横になろうと思ったら、そのまま朝を迎えていた、というわけだ。
「おはよう。」
「おはよう。」
隣のベッドから、龍仁のあたたかい視線を感じる。いままで何度も交わした「おはよう」だが、本当の朝イチ番の「おはよう」は今日が初めて。彼氏という言葉では軽すぎるくらい、私たちは幸せに満たされていた。
「おはよう」。
ベッドから見る寝顔。
寝ぼけながら向かい合って食べる朝食。
身なりを整えていく姿。
部屋の去り際に見つめる瞳。
一緒に過ごすすべてに幸せが宿り、私たちを満たしてくれる。気分はそのまま、車に移っても私たちは幸せいっぱいだ。
もう誰に嫉妬することはない。もどかしいモヤモヤを抱えることもない。私たちにやっとやってきた「春」にふさわしい、晴れ晴れと清々しい心持ちだ。
交わす言葉。
助手席から見つめる運転席。
そして手渡すコーヒー。
すべてが今までとは違うのに、ずっとこうしてきたような安定感すら覚える。不思議な感覚。
「どうした? なんか顔に付いてるか?」
「ううん。ずっとこうしていたいような気がして。」
そんなふうにノロけてみせると、龍仁もニヤっと笑った。
「そうだよな。オレも昨日の夜、ずっと見てたもん。」
「そんなぁ! 私の寝顔、高いんだぞ!」
「彼氏特権使わせてもらいました〜!」
「もー!」
口は笑っているのに、頬の筋肉は引きつっている気がする。ずっと前からこうしていたような気持ちと、この先もずっとこうしていたいような気持ちとが、私を素直に笑わせてはくれない。
「急に静かになって、どうしたんだよ。」
龍仁に声をかけられたとき、すでに昼を過ぎていて、仙台市内をまもなく出るところだった。
「もう、着いちゃうなって思って。」
「そうだな。あと昼食べて2時間くらいか。」
龍仁の声も心なしか段々とトーンが暗くなっていく。
「ねえ、これからどうする?」
こんなこと、聞くのも場違いかも知れないが、これからの具体的な付き合い方を聞いてみることにした。
「『どうする』って、どう?」
「いや、私、遠距離初めてで、しかもさ…。」
「しかも?」
私は残っていた甘いキャラメルマキアートを飲み切って、続けた。
「もう、遊びじゃない、からなぁと思って。こんな話、付き合った翌日にすることじゃないかもだけど、大事なことだからさ。」
「そうだよな。」
龍仁も前を見て運転しながら、「ふー」っと考え込んでしまった。
「重い男とか思われたくないけど、正直に言っていい? オレ、舞音と『付き合ってる』って感覚じゃないんだよね。」
「え?」
ビックリしすぎて、さっきのキャラメルマキアートが喉まで戻って来そうだった。
「『付き合う』っていうより…、あー、昨日より緊張する!」
龍仁はニコニコしながら眉間にシワを寄せていて、いつもの上手く言えない、「あ」でも「う」でもない声でうなっている。
「家族になって、子どもがほしい。」
シンプルで、いろいろすっ飛ばしていて、すごく心のこもった、龍仁の願いだった。
「じゃあいつ? 結婚はいつする予定? 私だって今年33になるんだから、子どもって考えるなら、何年もは待てないよ。」
思いがけず、一番気にしていたところに龍仁が自ら突っ込んでいってくれた。
ただ楽しむだけならどんな付き合い方をしていてもいい。ただ子どもとなると、2030年の今もタイムリミットは存在している。当たり前になった卵子凍結をしているとはいえ、キョーコさんや美波の話を聞くと、5年後10年後から子育て、とは考えにくかった。
「私も、彼女っていうより家族になりたかったの。」
「同じじゃん!」
「うん、そう。だから、『同じ』をあえて言葉にしておかないと、小さなすれ違いで悲しい思いさせたくないからさ。」
「うん。そうだな。」
2人で同じ方向を向いているとなると、龍仁の眉間のシワわだんだんほぐれていった。車は信号を曲がって、国道からそれた住宅街に入っていく。
「結婚までの道筋、決めてから帰ろう。まずは腹ごしらえだ!」
龍仁が車を停め、スマホの画面を確認しながら「うん、ココ」とつぶやいている。
「ハンバーガー?」
「うん。アメリカっぽいものって、このくらいしか思いつかなかった。一応『卒業旅行』だもんな!」
西部感ただよう、木の造りが印象的な、ちょっといいハンバーガー屋さんに連れて来てくれた。
2人しかいないけど、いや、2人だから楽しめる「卒業旅行」はますます楽しくなっていた。
「札幌に帰ってきたよ。」
「おかえり。無事着いてよかった。」
特急の時間を伝えていたからか、すぐに既読がついて返信がきた。
「駅で夜ごはん食べてから帰るね。家についたら8時くらいかな。」
「わかったよ。」
遠距離恋愛になるということで、帰宅と出発の連絡はするようにしようということになっていた。もちろん、盛岡駅まで送ってもらったあと、龍仁が家についた連絡もきていた。
帰ってきた札幌は、まだ雪が残っているけれど、心は晴れ晴れ、空気も心なしかすっかり春の陽気だ。龍仁とのご飯は中華が多かったから、今日はイタリアンにしたい気分だった。パスタとイタリアンサラダで美味しいワインでもいただきたい気分。どこのイタリアンにしようか迷っているところで、手首のスマートウォッチが震えた。
「龍仁が写真を送信しました。」
すぐに手元のスマホから画像を確認する。
赤いトマトのパスタとコップに緑がかった透明な飲み物が入っている。すかさず道の端に立ち止まって、返信を打つ。
「パスタと白ワイン?」
「うん! よくわかったね。」
「私も今日イタリアンの気分だったの。」
そこまで打ってスマホを閉じる。まだ通知はきているけれど、ずっと返信していてはごはんにありつけなくなってしまう。
結局、改札から一番近くのイタリアンで食べることにした。トマトとモッツァレラチーズのパスタと、グリーンサラダ。おつまみにソーセージの盛り合わせと白ワインをいただく。
「舞音パスタ好きだったよなって思って。今度作ろうと思って練習してみたんだ!」
「よく覚えてたね、楽しみにしてるね!」
「札幌の美味しいお店も開拓しておいてよ。オレ中華が好き。」
「わかったよ、本格中華ね!」
送ったラインにすぐに既読がつかなくなったところで、ラインを閉じる。このまま既読をまち、すぐに返信しないと気が済まない、そういう付き合いはお互いに望んでいなかった。
かと言って、料理がくるまでやることもないからスマホで札幌の中華を探す。いつもは交通手段がないから駅近くの店を選びがちだが、龍仁と行くなら車も使えるかもしれない。デートのうちは微妙だが、夫婦になれば確実に使える。
さて、昨日は昼にボリューミーなハンバーガーを食べたあと、助手席で寝てしまい、気づいたら盛岡までついてしまっていた。彼女になったのに別に泊まるというのもなぁ、ということになり、そのまま龍仁の家にお邪魔して、今朝、盛岡駅まで送ってもらったという感じだ。
車の中では「結婚までの道筋」が話せなかったから、龍仁の家で話し合った。
2人とも仕事を続けるとなると、龍仁が札幌へ転勤するのが一番現実的だった。私の会社は盛岡に支店がなく、私だけではなく龍仁も一緒に同じ場所への転勤となると、難しいだろうと判断した。龍仁はそろそろ転勤の時期がきているらしく、早くて10月、遅いと来年の4月に転勤できるらしい。
まずは10月転勤を目指して会社と交渉して、無理であれば4月になるまでに、できれば年内に入籍して確実に転勤できるようにしようという算段だ。
そのためにはお互いの両親にお盆頃には挨拶に行き、結婚指輪を買って、という準備が必要だということも確認した。
「結婚って、勢いなんだね。」
「そうみたいだな。オレもびっくり。」
ついこの前までただの同期だったのに、いや、同期としてどんな人なのかを知り尽くしているから、学生時代と30代の今と、なにも違わないことがわかっているからこそ、思い切って進めるのだとも思う。
地下鉄の駅から少し外れたところの本格中華を見つけたところで、料理がきた。1人で食べるにはちょっとボリューミーかも知れない。
カシャ。
おいしく見えるように配置して写真を撮る。そしてそのまま龍仁に送る。
「いただきます。」
今日の龍仁と同じ、トマトのパスタにしたよ。と添えたかったが、見ればわかることなので、あえて言わないようにした。10分くらいたって返信に送られてきたのは、缶ビールとおやつカルパスの写真だった。ここからどちらともなく、食べるもの、美味しいおやつや飲み物も送り合うようになった。
そのあとワインを2杯とサンガリア、それにデザートまでたっぷりいただいて、帰宅した。
「ただいま。家です。」
お約束のラインを送る。なかなか既読がつかないが、詮索はしないのもお約束。きっと飲んで寝てしまっているのか、お風呂にでも入っているのか。私は心配させたくないから、このあとの予定をラインしておく。
「ちょっとゆっくりしてからお風呂入って、洗濯して、明日の準備して寝るね。」
やはりまだ既読はつかない。気にしていても自分の生活が崩れるだけなので、そのままやりたいことをやることにした。
まずはキョーコさんに報告のライン。
「お疲れさまです。」「龍仁とお付き合いすることになりました。」
「おめでとう!!!!!」
すぐに返信がきた。ビックリマークが数えられないくらいたくさんついている。
「私から告白しようと思っていたら、龍仁に言われちゃいました。」
「ほらね、両想いじゃん!」
「付き合って何日もたってないのに、何年も付き合っていたみたいです。」
「もう、お似合いじゃん!」「いーなー!」
キョーコさんからのラインは間をおかず、すぐに返信が返ってくる。
「キョーコさんに約束つけてもらえなかったらこうはなってないと思うので、本当にありがとうございます。」
「いいんだよー! 次は結婚報告お待ちしてまーす!」
メッセージに続けてニコニコなスタンプが送られてくる。お返しに「ありがとう」のスタンプを探すが、なかなか「ございます」のついた先輩にも送れそうなスタンプが見つからない。やっとみつけた「thank you」のスタンプを送って、既読がつかないことを確認してラインを閉じる。
次にキョーコさんにラインを送るのは、結婚したときかな。今年中。ほかのゼミの同期には、結婚したタイミングで話すことがあればでいいか。龍仁ともひっそり付き合いたいね、って話していたし。
そんなことを考えているうちに時刻は21時を回っていた。明日からの仕事を考えると今日中には寝ていたい。まずキャリーケースを開けて洗濯物を出して。お風呂に入って洗濯機を回して。明日の服まで用意してから寝ようか。
そこまで今夜の予定を決めてから取りかかる。決めてしまえば動けるのが私のいいところだ。1人の時間を有効につかって、龍仁のことを考える、龍仁と過ごす時間を大事にしたかった。
「ごめん、寝てた。」
まだスマートウォッチがついている手首が震える。龍仁からのラインだった。やっとお風呂の支度ができたところでラインをしていたら、いつまでもお風呂に入らなくなる。ここは心を鬼にして返信を後回しにする。
お風呂上がりに洗濯機を回し、カラになったキャリーケースを寝室のクローゼットに片付ける。そこで目にしたのは、たくさんの着ていない服だった。これから、どんなに遅くても来年の春には、龍仁との生活が始まる。欲しいものをいつまでもとっておいた独身時代とはお別れをしなくてはならない。
キッチンからゴミ袋をとってきて、断捨離を始める。物持ちがいいからか、学生時代からずっと着ているTシャツ。一目惚れして結局何年か前に一度だけ着たレースのトップス。残念ながら今は履けないスキニージーンズ。
いままで捨てることが苦手だったのに、彼氏ができただけでこんなに変われるのだと自分が一番びっくりしている。これから着る服は、龍仁と一緒に生きていくのに必要な服だけ。そう考えると、あれもこれも、要らない物ばかりに見えていた。
(よし、今日はこんなもんかな。)
そう思ったところで、洗濯機が歌い、終了を告げた。
予定していたことをすべて終えた。時刻は23時すぎ。いつもより少し遅くなってしまったが、6時間の睡眠は確保できそうだ。
すべてを終えてベッドに入り、自分の体温で布団を温めながらスマホを見る。
「ごめん、寝てた。」「準備進んでるかな?」「オレもお風呂入ってくるね。」
あえて見ないでいた龍仁からのラインが数件入っていた。最後のメッセージは1時間ほど前だった。
「オレ、明日も休みなんだけど、今日はもう寝るね。仕事も無理しないでね。おやすみ。」
メッセージのあとに、可愛らしい寝顔のスタンプが送られていた。
見られるのは明日の朝だとわかっていながら、すぐに返信を打つ私がいる。
「スマホ見れてなかったの。明日の準備無事にできたよ。もう次に会うのが楽しみすぎる。ほどほどに仕事も頑張ってくるね。おやすみ。」
ラインを打ってから部屋の明かりを消して、寝る体制に入る。1人の布団もようやく温まってきたけれど、龍仁の背中ほど温かいものはない。いままではなんとも感じなかった1人の布団が寒く寂しく感じられる。
(また来月には会えるさ。)
(来年からは、ずっと一緒。)
そう言い聞かせても、なかなか布団は温まらなかった。いつもより遅いはずなのに全然寝られない。目が覚めてしまうからよくないと、わかってはいてもスマホに手が伸びてしまった。
龍仁とのラインを見返す。もちろん既読はついていない。
写真フォルダを見返す。この数日で龍仁の写真、私と龍仁のツーショットが画面いっぱいになるくらい保存されている。
(夢でいいから、会いたいなぁ。)
そのあとは夢の中に入ってしまったから、覚えていない。こうして、おやすみラインを送ってから龍仁で私を満たして寝るのが習慣になっていった。