蝉時雨が響き、炎天下に酔う。そんな独特な世界を創造する夏。



 俺はこの季節が大嫌いだった。


 けれど、大好きにもなった。


 それは、あの夏の記憶が、未だに張り付いているからかもしれないーー。









 ミーンミンミンミンミンーー




 蝉がそこらじゅうで鳴いている。どうやらそれは求愛行動らしく、雌を求めるために行なっているという。


 俺はこれから学校というクソみたいな場所に行くというのに。


「ったく、呑気な奴らだ」


 恨みたくなるほどに、呑気だ。


 目的地についた俺は、上靴に履き替え、教室に直行

 

 ーーなんてことはせず、一階にある保健室の扉を開いた。


「はよーございます」


「あら、辻谷(つじや)くん。おはよう。今日も相変わらず早いわね」


「まぁ、家にいたってなんもないんで……」


「そう。いつものように使って良いからね」


「あざっす」


 許可をもらってから、俺は奥に用意されている一つの椅子に腰を下ろす。もちろん机もあって、まるでその一角だけ教室から離されたような感じだ。


 俺は何の躊躇いも迷いもなく、カバンから筆箱と教科書を取り出す。普通ならば自分の教室で行うはずの行動。だが、これが俺にとっては当たり前だった。


 一体、通い始めたのはいつ頃からだったか。もうここの先生とは顔馴染みになり、最早保健室こそが俺の教室と言っても過言ではなくなってきている。本当はよくないんだが。


 そんなことはどうでも良い、と俺はシャーペンを持つ。正直、勉強はしたくない。けれど、しなければ大学になんて行けないし、大学に行かなければ就職にも影響する。


 働き口が見つからず、あの母親の元で一生暮らすなんて、死んでも考えたくない。


 さて、この問題はどう解くのか、と教科書を覗き込んだ時だった。


 珍しく、この時間に保健室の扉が開いたのだ。


「おはようございまーす」


 何処か気の抜けたような軽い挨拶と共に入ってきたのは、セーラー服を纏った少女。


「あら、鈴香(すずか)ちゃんじゃない!久しぶりね、元気にしてた」


「はい、おかげさまでこの通りですよ」


 鈴香と呼ばれた少女はにっこりと笑う。人懐っこい笑みだった。


「今日から復帰なの?」


「はい!……って言っても、どうなるか分からないですけどね」


「……」


「取り敢えず、今日からまた頑張りますよ!」


「……そうね。長い間休んでて大変だと思うけど、頑張って」


 そこで会話は途切れる。最後の言葉を言った先生が、先ほどより暗い顔をしていたのが気になるが、少女の方は変わらず笑みを浮かべているのでなんてことないのだろう。


「奥の場所だったら好きなところを使って構わないわ。あ、ただ、今一人男子がいるから。それだけは伝えておくわね」


「はーい。ありがとうございます」


「それじゃあ、私は一度職員室に行くから」


「はーい。いってらっしゃーい」


 まるで身内か、あるいは友達か。そう思わせるほどに、鈴香と先生の会話はラフな雰囲気が流れていた。


 さて、先生が出て行ったところで、鈴香はくるりと振り向いて、それから俺を見つけると、そくさくと歩いてきた。


 一瞬、身構える。それは本能なのか、経験上の予測なのかは分からないが。


 だが、鈴香は俺の前に来ると、にかっと太陽のような微笑みを浮かべた。危害も皮肉も感じられないその笑顔に、不思議と俺の肩の力が抜けた。


「へぇー、本当に居たんだね、人」


「さっき先生がそう言ってたじゃないっスカ」


 もしかしたら彼女の独り言かもしれなかったが、つい突っ込んでしまった。だが、鈴香は嫌な顔せず話し続ける。


「いやー、ああは言われてもさ、私今まで見たことなかったから。君は最近から来たのかな?」


「はい、まぁ……」


「だよねー。私と君、初対面だよね?初めて会うよね?あ、もしかして君は私のこと見たことあったりする?」


「ないっスよ。そもそも、俺以外が保健室に登校してくるのも初めてっつうか」


「そっかそっか。じゃあ君が登校し始めたのは5月くらいからかな?」


「えっ、なんで……」


 言い当てられてぎょっとする。しかし、鈴香はなんてことないように「だってー」と口にした。


「私、その月から今まで保健室(ここ)来てなかったからさ。ま、つまりは学校も休んでいたわけで。けど、休む前まではずーっと来てたんだよね」


「ああ、だから先生ともあんなに仲良いんスね」


「あ、会話聞こえてた?」


「丸聞こえです」


正直に答えると、鈴香は「うわー」と頭を抑える。


「なんか恥ずかしいようなどうでもいいような。けど、まぁ言ってることは合ってるよ。もう桐谷(きりたに)先生とは友達みたいな関係だもん」


「それはまずい気もしますけど……」


 俺がそう言うと、鈴香は人差し指を顔の前で横に振った。


「いやいや、先生と仲良くなるって大事だよー。話し相手増えるし、先生だけの秘密とか教えてもらえるし」


 君もなってみたら?と彼女の瞳が問いかけてくるものだから、俺は「そうっスか」と冷たく突き放しておいた。


 「ノリ悪いなー」と口を尖らせる鈴香。そこで、彼女は唐突にも声を上げた。


「そういえば、名前、聞いてなかったね。君の名前は?あと学年!」


「辻谷幸樹(こうき)です。一年生」


「おおー!一年生なの君!?じゃあ後輩君だねー」


 なぜだか分からんが、鈴香ーーいや、後輩君と言ったところから鈴香先輩と呼ぶべきだろうーーは目を輝かせてはしゃいだ。なにも珍しいものでもないのに。


「辻谷幸樹君かぁ。じゃあつじこーって呼ぶのは?」


「絶対嫌です」


 秒で断った。俺の即座な対応に、不服そうに鈴香先輩は頬を膨らませ、「じゃあ」と別の案を出してくる。


「こう君って呼ぶのは?それだったら良いでしょ?」


「はい、まぁいいっスけど」


「決まりね!で、私の名前は……」


「鈴香、先輩ですよね」


「えっ!?」


 鈴香先輩はギョッとしたように目を向いた。


「ちょ、何で知ってんの!?え超能力者!?やっぱ私のこと前から知って……」


「さっき先生が先輩の名前呼んだの聞こえてただけなんで」

「あ……」


 納得、というように鈴香先輩の感情は鎮火する。と共に、恥ずかしそうに頬を赤らめた。


「そっか。うん、そうだよね。聞こえてたんだもんね」


 まるで自分を納得させるように鈴香先輩は繰り返す。取り乱したことが相当恥ずかしかったのだろう。


「こうくんの言う通り、私は鈴香だよ。渡辺(わたなべ)鈴香。高三ね」


「三年生っスか……」


 正直、意外だった。何となく、一つ年上だと思っていたのに。受験には響かないのだろうか。進学せずに親か親戚かのツテで就職するのだろうか。あるいは浪人するのか。なんて、どうでもいいことが頭をよぎった。


「そっ。だからもう慣れっこって感じ。こうくんは?」


「まぁ、まだ慣れないというか……」


 保健室登校なら慣れてしまった。だが、学校生活の方はと聞かれると、何も言えない。そもそも、慣れるもクソもない。


「そっかそっかぁ。じゃあこれから私が色々と教えてあげるから!ちゃーんと来るんだぞ!」


 ビシッと親指を立てる鈴香先輩に、俺は「はぁ……」と呆れてものも言えなかった。そもそも何を教えるんだ。おそらく、俺の慣れないが保健室登校のことだとでも捉えられたんだろうな。


「そう言うわけで、これからよろしくね、こうくん」


 太陽な微笑みで、先輩は右腕を差し出してくる。


「あ、はい。よろしくお願いします」


 きっと、先輩が卒業するまで世話になるんだろうな。そんなことを思いながら、俺は手を握った。






 鈴香先輩との出会いは、こんな、何の変哲もないものだった。


「行ってきます」


 誰もいない家にそう一言告げて、俺は普通の高校生よりも少し早い時間に登校する。


 相変わらずの炎天下の中、気を紛らわすために考え事をしようとして頭に浮かんだのは鈴香先輩のことだった。


「あんなこと言ってっけど、本当に来るのか?」


 なにせ、今まで保健室登校の人(知り合い)がいなかったのだ。昨日だけ奇跡的に来ていた、なんて考えてもおかしくはない。


「……まぁ、俺にとったらどうでもいいことか」


 ものの二十分程度で学校に到着し、特に気にも留めずに、期待もせずに、保健室の扉を開けた。


 そして、


「やぁやぁ、おはよう、こうくん」


 飛んできた第一声がこれだった。見れば、先生が座っているはずの椅子に鈴香先輩が足を組み、くるくると回っていた。


 俺は呆れて一瞬、言葉を忘れたほどだった。


「何してんスか……」


「何って、君を待ってたんだよ?」


「そこ、先生の席っスよね?」


「うん、そうだけど?」


「ダメじゃないっスか、勝手に座ってたりしたら」


「別にいいんだよー」

 
 ぐるぐると椅子の回転をさらに増す先輩。まるで幼児だ。


「やめた方がいいっス。怒られますって」


「大丈夫だって。先生だって分かってるだろうし」


「はぁ」


 もはや何を言ってもダメそうだ。俺は諦めて、いつものように奥の机に荷物を置く。ちらりと振り返ると、鈴香先輩はまだ遊んでいた。


 2ヶ月もここに通う俺でさえ、まだ躊躇いがあるというのに。先輩は相当に慣れている。一体、どれほどここに通っているのだろう。
 

 そんな疑問が生じたからだろうか。勝手に口が動いていた。


「先輩って、いつから保健室(ここ)に来てるんですか?」


 ついそんなことを口走ってしまい、しまったと後悔する。3ヶ月も学校を休んでいて、その上長い間保健室登校。絶対に言いたくない理由があるはずなのに。


 けれど、俺の心配とは裏腹に、回る椅子をギュッと止めて、鈴香先輩は笑顔で答えた。


「どんぐらいだろうねぇ。大体、二年生の終わり頃くらいからかな?」


「あ、そうなんスか……」


 呆気なく答えてくれた彼女にまたも驚かされる。


「最初はふつーに教室行って、授業受けてたんだよ?だけど、そのぐらいから保健室登校がほとんどになっちゃったし、最悪学校に来れないことだって増えちゃって」


「……」


「だから、もう慣れっこって感じだよね」


「……そうなん、スか」


 あまりにも軽い言い方に、俺は逆に喋る気力を奪われてしまった。もうきっと、言うことはない。


 正直、このまま保健室登校(この状況)の理由を聞くことも容易だと思った。だが、もし仮に、鈴香先輩がわざと明るく振る舞っているならば、俺が壊すのは申し訳ない。


 だから、あえて話題を大きく逸らす。


「ところで、保健室登校に慣れてない俺に教えてくれることってなんスか?」


「ああ、そうだったね!」


 忘れてた忘れてた、と鈴香先輩は頭を掻く。言い出した本人だ、しっかり覚えていて欲しい。



「んーんー、……えーっとねぇ……」


「……」


 苦笑いを溢しながら鈴香先輩は視線を泳がせる。嫌な予感がする。これはもしや、考えていないとか覚えていないとか言われるパターンではないのか。


「ごめん、ないや」


「はぁー、やっぱそうっスよね」


 やはり勘は間違っていなかった。鈴香先輩は申し訳なさそうに両手を合わせる。結構反省しているようだった。


「なんであんなこと言ったんスか?」


「それはー、そのー」


 鈴香先輩は顔を上げたかと思うと、指をいじりながらもごもごと何かを口にする。


「……たかった、から」


「はい?」


「だから、その……」


 はっきりしない先輩に、俺はとうとう痺れを切らした。


「ちゃんとはっきり言ってくださいよ!」


 その瞬間、鈴香先輩はびくりと体を震わせた。自分でも驚くほどの大声に、慌てて口を閉じる。しまった、保健室(ここ)で大声を立ててはいけないのに。先輩もめちゃくちゃ驚いたかもしれない。


 すいません。謝罪の言葉を述べようとした瞬間、唐突にも先輩が間を遮った。


「そのっ、君ともっと話したかったから!」


「……はっ?」


 俺には及ばないものの、大きな声で顔を赤らめながら先輩はそう言った。呆気に取られる俺に、先輩は視線を外しながら続ける。


「だ、だって保健室に誰かいることなんて中々無いし、私、友達も少ないから話し相手もいなくて……」


「……」


「だから、その、話し相手が欲しかったから」


「……」



 なるほど。つまり鈴香先輩は、口実を作りたかったわけだ。保健室を拠点としているこの俺と話すための。



「不謹慎っていうか、なんていうか、その、君にとって良いことかどうかは分からないけど。私はこうくんともっと仲良くなりたいからさ」


「つまり、友達になろう、みたいな感じっスか?」


「そうそう!」


 ようやく調子を取り戻してきた先輩が手を叩いた。



「だから、その……なってくれない、友達に?」


「俺がっスか?」


「うん。夏の間だけでもいい。だからお願いっ!」


 両手を合わせて真っ直ぐと俺に向けられる瞳を見て仕舞えば、それを断ることは無理だ。


「まぁ、別にいいっすけど……」


「ほんとっ!?やったぁ!」


 子供のようにはしゃぎ喜ぶ鈴香先輩は、その勢いのまま俺の手を取った。突然のことに俺は振り解く間もなく、先輩はずいっと顔を近づけてくる。呼吸音が聞こえるほどの距離感に、俺は顔が熱くなった。


「じゃあじゃあ、今から友達ねっ!あ、敬語とかもういらないから。ふつーにタメ口で話していいよ。てか、そっちの方が友達っぽいし。先輩付けもなしね!」


「あ、はい……じゃなくて、分かった」


「うんうん。友達感出てるよー!」


 そう言われて、俺はなんだかむず痒くなる。こんなにもしっかりと「友達になろう」なんて言われたことがないためだろうか。体を帯びる火照りも消え去りそうにない。


「それじゃあ、これからよろしくね、こうくーん」


「は、はあ……、よろしくおね……よろしく、鈴香」


 鈴香。名前を口にすると、彼女は太陽のように、少しだけ頰を赤らめて微笑んだ。


 


「ただいま」



 鈴香と友達関係になったその日の放課後。茜色に染まる空と街の中で帰宅した俺は、玄関を開けて女性の靴を見つけ、眉間に皺を寄せる。それは、母が帰ってきている証拠だ。


「はぁ」


 無意識にため息が溢れる。母とは普段、顔を合わせることがほとんどない。仕事が忙しく、夜勤もあるから。俺としてはありがたかった。


 憂鬱な面持ちでリビングに入ると、仄かな灯りと幾つもの声が聞こえてくる。見れば母はソファにだらしなく座って、ポテチを片手にテレビを閲覧していた。



 俺の気配を察知したのか、顔をゆっくりとこちらに向けて、俺の姿を捉えるなり顔を顰める。


「なんだ、帰ってきたの?」


「ああ、帰ってきたけど」


 なんの捻りもなくそう返すと、母は大きなため息をついて再びテレビに視線を送った。


「部活は?」


「辞めたって言っただろ」


「勉強は?自習は?」


「ずっと保健室にいることなんてできるわけないから、やってない」


 思わずそんなことを口走ってしまい、ハッと口を噤むも、もう遅い。


 獰猛で鋭い視線が俺を射抜き、更に母は苛立ちをあらわにする。


「あんた、まだ保健室登校なんかしてんの?」


 怒りに侵食されたその表情を見れば、もう手遅れだとわかる。無言でいると、母は捲し立てた。


「あーもうなんでこんな子になっちゃったかな。私はこんなに頑張ってるのに。保健室登校なんて不登校と一緒じゃん。どうしてそんな子に育っちゃったの!?」


「……」


 なんでって、お前のせいだろ。なんて、もちろん口にすることはできない。刃向かえば、母がどう行動するのかは目に見えていた。


 バリバリとポテチが噛み砕かれる音が異様に大きく聞こえる。母の癖だ。ストレスが溜まると暴食してしまう。これで優秀な看護師なのだから、人は見た目で判断できない。


「本当は優秀な医者にでもなってもらうはずだったのに」


「……」


「毎日毎日、私は患者の世話をしてるっていうのに、あんたは何してんだか。私の子じゃないとさえ思うよ」


「……じゃあ父さんの血が強いんだろ」


「ああっ!?」


 父さん、と言った瞬間、母は俺を睨みつけた。


「なんであんな奴の話なんか出すの!?聞くだけで頭が痛くなる」


 またヒステリックが加速された。母はいつもそうだ。俺たちを置いてどこかへ行ってしまった父を恨んでいるらしく、少しでも父の話題に触れれば機嫌を悪くする。


 久しぶりに対面したせいだろうか、今日の俺は地雷を踏んでばかりだ。


 ふと、ピロンと着信音が険悪な空気を遮る。ソファに置いてあった母のスマホが光っていた。母はポテチの袋を置いて、そちらに視線を向ける。


「ああ、また例の子ね……。今度は悪くならないといいけど……。じゃないと……」


 さっきまでの苛立ちはどこへ消えて行ったのかと疑うほど、母の表情は真剣なものになっていた。それは看護師という名がぴったりの女性そのものだった。


 一瞬だけ、やはり母は凄い看護師なんだと思わされる。が、次の瞬間には否定されることが、なんとなく分かっていた。


 スマホを置いた母はまた大きなため息をついてポテチを食べ始めた。


「全く、世の中にはね、あんたと同い年で辛い病気と闘ってる子がいるの。余命宣告だってされてるのに、生きようとする子がね」


「……」


「なのにあんたときたら、健康なのにぶらぶらと時間を持て余して。人生の無駄遣いだわ」


 堪らなくなって、奥歯を噛んだ。人生を無駄遣いさせたのは、母が原因のくせに。


「ほら、もう行ってよ。あんたの顔見てるとイライラするわ」


「……っ!分かったよ」


 言われた通り、俺は自室に向かった。カーテンを閉め切った部屋で、荷物を乱暴に投げ捨てる。


 胸には行き場のない怒りと、邪魔者扱いされた悲しみが渦巻いていた。




 母と鉢合わせしてしまった次の日、俺の気持ちはまだ沈んだままだった。


 どんな表情をすればいいのか分からないまま、保健室の扉を開ける。


「お、こうくんじゃん、おはよーっ!」


 視界が開けた瞬間に飛び込むのは、またも、相変わらずくるくると椅子を回す鈴香の姿だった。


「おはよう……」


「あれ、元気ない?」


 声が低かったから、小さかったからだろうか。鈴香は明日の動きを止めて首をかしげた。俺は慌てる。


「い、いや、別にそんなことないけど……」


 なんとか取り繕うとするも、結局普段通りではなかったらしく、すぐに鈴香先輩にバレてしまった。


「いーや、絶対に何かあったね?どうした、ほら、先輩に話してみなさい!」


「先輩って……」


「今だけは先輩!まぁ友達でもいいけど。ほら、話してみ?」


「……」


 話したい気持ちと、話したくない気持ちが同時に現れた。こんな話、聞いたところで迷惑しかないだろう。けれども、俺の中にあった、誰かに話を聞いてもらいたいと言う欲に負けて、俺は口を開いていた。


「母と、会っちゃって。それで、色々と罵倒されて」


「お母さん?罵倒って、お母さんがそんなことするの?」


「はい。いや、俺も悪いんですけど、こうなったのは母のせいだし、でも、母の言い分も間違いじゃなくて……」


 上手い言葉が見つからない。自分が悪いのも然りだが、母もまた、俺にとっては悪影響だったのだ。その二つを形容する言葉が、中々に抽出できない。


 鈴香も難しそうに顔を顰めた。


「ううーん……。そもそもさ、こうくんのお母さんはなんで厳しいの?」


「それは……母が、優秀な看護師だから、です」


「えっ、看護師さんなの!?凄いね」


 鈴香が目を輝かせると、なぜだか突然に母の存在が誇らしく思えた。昨日はあんなにも憎んでいたのに。


「はい。俺から見る姿からはあり得ないんですけど、腕も良いって評判らしくて」


 そう、母は多くの人から求められる素晴らしい人だ。たとえ、家でどんな態度を取ろうとも。おそらく、俺もそんな優秀な人材になって欲しいと願ったのだろう。


「だからか、母は俺を医者に育てようとしていた」


「でも、君は医者にはなりたくなかった。そういうこと?」


「……はい」


 小学校の頃の記憶が蘇る。無理やり塾に入れられ、勉強ばかり強いられて、遊ぶ時間なんてほとんどなかった。毎日毎日が地獄のように思え、僅か10歳で自殺も考えたことをよく覚えている。


 それでも頑張れたのは、母の喜ぶ顔が見たかったから。ただ純粋に、母に喜んでもらいたかったのだ。


 だが、現実はそう上手くいかない。


「それに、多分俺は医者なんかに向いていなかったんです」


 小学生の頃から、なんとなくそんな気がしていた。それでも気のせいだ、と自分に言い聞かせて勉強に時間を費やした。


 しかし、中学生になると、気のせいは確信に変わった。周りの学力の高さは俺以上だった。正直なところ、もう学力は諦めて、娯楽に身を置こうとも考えた。だが、小学校でろくにコミュニケーションを取らなかった俺は、友達の作り方なんて知らなかった。故に、3年間をほぼ1人で過ごした。


「小学校はまだ、勉強があった。自分が優れていると思えることができた。でも、中学校では俺より頭がいい奴なんて沢山いて、自分がどれだけちっぽけな存在か知らしめされました」


「よくあることだよね。中学校になると色んな人に会うから」


「それに、ただ頭がいいだけじゃなくて、協調性とか社交性とかも求られるようになって。だけど俺は、小学校の頃に友達を作らなかったから、そんなの分からなかったんです」


「うん。意外とさ、小学校からの関係って大切だし、小学校で身につけることも大切なんだよね」


 うんうん、と鈴香は何度も頷いた。まるで、自らが経験したことあるかのように。彼女の言葉にも態度にも、偽りは見えない。


 そのことが、少しだけ嬉しかった。自分を理解してくれていると、確認できたから。


「それで、気づいたら独りぼっちで、周りの奴らとは馴染めなくなってて」


 そこから、ずっと。


 俺は友達の作り方も話し方も分からなかった。さらに、相手の気持ちや考えを汲み取ることが苦手だった故に、接し方すら分からなかった。


 その結果、孤立だ。誰からも相手にされず、かと言って自分から行くこともできない。


 独りは淋しく、そして虚しかった。


「だから、教室に行くことさえも、いつしか苦痛になっていました」


「……そっか」


 鈴香は俺の話を一通り聞くと、不意に床を見つめる。


「もしかして、保健室登校になったのも、それが原因?」


「……はい」


 肯定しながら、俺は中学の頃と何一つ変わっていないんだ、と今になって初めて気がついた。周りが、じゃなくて、自分が変わっていない。変わろうとすらしていない。


 そんな奴が、まるで被害者のようにこんな話をするのはおかしいんじゃないか。全部、悪いのは自分なのに。


 そんな考えに陥るも、鈴香は俺を責めなかった。どころか、突然頭を撫でてきた。驚いて隣を見ると、彼女は全てを包み込むような笑顔を浮かべる。


「それは辛かったね。今まで、よく頑張ってきたと思う」


「本当、ですか……?」


「うん。多分さ、今、こうくんは自分を責めようとしたでしょ?」


 ドキリとした。鈴香は心が読めているのかと言うほど、俺のことを言い当てる。


「はい……」


「やっぱり。でもさ、君は悪くないんじゃないかな。だからと言って、私は君のお母さんを責める気にもならないけど」


「えっ……」


「苦しかったんでしょう?その苦しみは、誰かが好んで生み出したものじゃない。だから誰のせいでもなくて、勝手に現れたもの」


 勝手に現れた。俺はその言葉に違和感を持つ。


「母が強制して、俺ができなかったのに?」


「だって、お母さんは何かしらの意図か愛情を持ってこうくんを医者にしようとしたんだと思うし、こうくんはお母さんの期待に応えようと努力したんでしょ?そこに、どっちが悪いとかは無いと思うから」


「……」


「こうくんはそんな、どうしようもない状況で闘っていたんじゃない?だったら、自分を責める必要なんてない。むしろ、褒めてあげるべきだよ」


「……そんなこと、初めて言われました」


 目頭が熱い。涙が込み上げてくるのが分かった。こんなにも優しい言葉を、誰かにかけられたことなんて一度もなかった。


「ありがとう、ございます……っ!」


 堪らず、俺は泣いた。みっともなく涙を流す俺を、鈴香は優しく見守ってくれていた。そんな彼女に、今だけは甘えたいと思ってしまった。


「あとね」


 泣き続けける俺に、鈴香はボソリと言う。


「友達は、作った方がいいと思うよ」


 友達は一生の宝になるから。


 俺はちらりと鈴香の表情を盗み見た。そんな呟きを漏らした彼女の表情は、きっと一度も忘れないだろうと思えるほどによく目に焼きついた。


 悲しみ。妬み。願い。俺が知っている感情の何とも違う、俺には計り知れない想いを隠した、そんな顔だった。


 鈴香と出会って2週間が過ぎた。


 俺は、人気が全くと言っていいほど無い校舎を進み、保健室に入る。


「おはよう」


「ん、おっはよー、こうくん!」


 今日の鈴香は、珍しく保健室の奥、俺の隣に用意されていた机に腰を下ろしていた。彼女の目の前には教科書とワーク。勉強中らしい。


「珍しいな、朝から勉強なんて」


「だって、今日から補習じゃん」


「まぁ、そうだな」


 夏休み真っ只中。にも関わらず俺らが学校を訪れているのは、単位を取るためだ。大多数の生徒が休暇を満喫している中、俺らはこうして勉強しなければならない。保健室登校をしているのだから、当たり前と言われれば当たり前なのだが。


「ほんとは朝から勉強なんてごめんなんだけどね。このままじゃ単位取れなくて留年だって先生に言われちゃったし」


「3年生だもんな」


「もー、そんなこと言わなくていいよ!」


 鈴香は少し嫌そうに言った。彼女を平気でからかう俺だが、2年だからと言って油断はできない。ここで挽回していなくては。


 俺は鈴香の隣に荷物を置いて、同じように教科書とワークを広げる。そこからは、2人して黙々と問題を解いていった。


 シャーペン、時々ボールペン。ただ二つのペンが織りなすリズムが小さな部屋に響き渡る。一言で表せば、静かだった。


「あの、鈴香」


「ん、何?」


 彼女はペンを止めずに耳を傾ける。


「鈴香は、なんで保健室登校になったんだ?」


 唐突すぎる質問だとは自分でも思う。ずっと、聞くかどうか迷っていた。だが、やはり気になってしまった。


 カリカリカリ……。シャーペンが紙を走る音だけが鼓膜に届く。鈴香のペンに止まる気配は無い。


 やっぱり答えにくいよな、と諦めて問題演習に集中しようとした、その時だった。
 

「私ね、人より体が弱いみたいんだ」


「えっ」


 唐突な告白に、思わず手を止める。いや、ちゃんと答えてくれたことにすら、俺は驚いていた。



「体が、弱い……?」


「そっ。だから、病気とかにかかりやすくてさ。お陰でみんなみたいに普通の学校生活、あんま送れてないんだ」


「そうだったんだ。……なんか、悔しいな」


 素直な感想だった。ただ、心に思い浮かんだ言葉を口にした、それだけ。


 だが、鈴香は過剰に反応する。


「え、悔しい?」


 どうして、と言いたげな瞳。真っ直ぐと俺を見つめる視線に、俺はペンを置いて重心を後ろにかける。なんの変哲もない壁を見つめ、なんとかこの感想を導くための言葉を探した。


「うん。だって、健康な体だったら普通に教室に行って、普通に授業を受けて、普通に友達と遊べてたんだろ。鈴香だったらきっと友達も多いだろうし、楽しい日々になったんじゃないかって。そう考えたら、悔しいかなって」


「悔しい、か……」


 鈴香もペンを置いて天井を仰いだ。


「うん、悔しい。こんな体のせいで、人並みの楽しみを味わえないからね」


 切なそうな笑みを浮かべる鈴香を見ていると、言って良かったことなのかどうか少し戸惑った。だが、次の彼女の言葉に、俺は安心させられる。


「なんか、そんな風に言われたの、初めてだな」


「あの、なんかごめん」


「なんで謝るの?むしろ感謝してるんだけど」


「えっ」


「だって、今までのほとんどは憐れまれたことだったからさ。可哀想とか、大変だねとか、自分がなっているわけでもないのにそんな言葉言われてもなぁって思ってたから」


「……」


「だからさ。そう言う、正直な気持ちを言ってもらえた方がずっといいし。それに、お陰で、今、自分の気持ちにも気づけたから」


「自分の、気持ち……?」


「そう」


 鈴香は目線を足下に落とす。それに反して、彼女の表情はどことなく柔らかくなった。


「私、悔しかったんだ。ずっと、同級生の姿を見て、胸がモヤモヤして、だけどそれがなんなのか分からなかった。多分それは、悔しさだったんだね」


 きっと鈴香は、俺に気を遣うとか、そんなことは一切考えていない。本当に、今の今まで分からなかったんだと思う。


 彼女はようやく俺の方を向いて、それから、今までで一番と言っても過言では無いほど嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう、こうくん」