不思議な響きを余韻に残す町だと、常々思っていた。
父親は真鯛の養殖の仕事をしており、カイは母親についていき都内で育った。育ちは都内でも生まれた場所はここ、海辺の町らしい。と言っても、もちろんカイの記憶には残っていないが。町に来た理由は年老いた祖父との同居もかねた引っ越しだった。
町を象徴する花は桜。至る所に桜が植栽されている。
はらはらと季節外れの雪が散るように花びらが舞い、太陽光が穏やかに肌を温める奇跡の季節。春にカイはほのかに恋をした。

「じいちゃん、おはよう。」
「カイか。おはよう。…どこか行くんか。」
同居をする家の玄関、まだ太陽の日が出るには少々早い時間帯。カイはスニーカーの白いヒモをきゅっと結び直していた。
「ちょっと早く起きちゃったからさ。周囲、走ってくるよ。じいちゃんは?」
「老人が起きる時間なんて、大体こんな時間だ。」
祖父は笑いながら腰を曲げて、玄関ポストから落ちた新聞紙を拾い顔を上げる。
「今日はお前の高校の入学式だから、気が昂ぶってるんだろう。朝ごはんに間に合うように、帰ってこいよ。」
「うん。じゃ、行ってくんね。」
片手をひらひら振って、カイはまだ薄暗い町に出たのだった。
軽く弾む呼気を携えて、カイは駆けていく。小さな川沿いを行くと、奥の方に木々の集まりが見えた。今日はそこをゴールにしようと決めて、地面を蹴った。
「おー…。マイナスイオンって感じ。」
それは新緑の溢れる神社。青々とした芽がふつふつと目覚め始めていた。樹齢は長く、一等大きく、枝振りのいい桜の木の下。一人の少女が桜と対立した遺伝子のようにぽつんと存在していた。
黒真珠のような輝きを放つ、さらりと涼しげに流れる黒髪。女子の流行りには疎いカイでもわかる、古風な形のワンピースを身に纏い、その裾をひらひらとそよ風に泳がせている。
カイがその桜との対比の美しさに呆然と見つめながら突っ立っていると、少女はふとその視線に気が付いたかのように目線を持ち上げる。一本の線のように交わる視線にカイの心臓の鼓動が大きく脈打った。数秒の間、縫い止めるように視線を奪ったかと思うと少女はまた視線をそらしてしまう。
「…。」
少女ははらりと舞い落ちる花びらを手のひらで掬うと、しばらく眺めて舐め取るように口に含み、飲み込んだ。小さな赤い舌、咀嚼して嚥下する白い喉元がひどく扇情的だった。ずっと、じっと見つめていると少女は再び、今度は居心地が悪そうにカイを見た。
「?」
カイが首を傾げてみせると、少女は何かを言いたげに口を開く。迷い、戸惑い、躊躇しながらひゅっと息を飲み込んで、そして。
「…私が、見えるの?」
と、問うのだった。

道端には春の草花が綻び初めて、土を踏みしめる度にその花びらを揺らした。カイは冬の凍てつく寒さから解放されて、春の気候によって地球の半分を温まりだした頃に早朝のランニングをすることにした。住宅地を抜けて、坂道を走る。川辺を行き、神社に続く赤い橋の手前の自販機でスポーツドリンクと水を購入して、桜の木へと向かった。ざり、と砂利を踏みしめながらはやる気持ちを抑える。
「おーい、ほのか!」
カイは手の振りながら、大きな声でほのかに声をかける。彼女の姿が見えると嬉しくて、その爆発的な感情をエネルギーに変えて駆けていった。
「! カイ。」
その存在にはっとしたように気が付いて、ほのかはカイを見る。
「おはよう。今日も良い天気だな!」
「カイ…、そんなに大きな声で私の名前を呼んだら不審に思われるよ。」
ほのかのすがたは多くの人には、見えないらしい。
「大丈夫っしょ。今、周りに人いねーし。」
事実、早朝の時間帯。神社に人気は無い。
「まあ、いいけれど。」
ほのかは照れ隠しに唇を僅かに尖らせて、つんとそっぽを向いてしまった。
「うん。」
カイは嬉しそうに笑いながら頷いて、ほのかの隣に腰掛けた。しばらくは二人は無言のまま、そこからの景色を眺めていた。金色の朝日が町を照らして鳥の番いが共に朝を迎えられた喜びを歌い、囀っていた。遠くに見える海の水面がきらきらと太陽の光を反射して、ダイヤモンドを散らしたかのように輝いている。その輝きを見つめながら目を細めるほのかの横顔を、カイは盗み見た。
人を呪うあまり、この桜の木に縛り付けられている。ほのかは自分自身のことを『呪霊』だという。
カイにはとてもそんな禍々しいものには思えなかった。今まで呪霊、もとい幽霊や怪異などは見たことがなく、霊感など無縁だと思っていたが何故かカイにはほのかを見ることが出来た。不思議に思って首を捻っていると、ほのかが「波長は合うんじゃない」と素っ気なく言うものだから嬉しくなって、そういうことだと納得した。
「…ちょっと、見過ぎだよ。」
いつの間にか自らを見るカイの視線に気が付いて、ほのかが居心地悪そうに呟く。
「ごめんごめん。綺麗だなあって、思って。」
「またそんなことを…。聞いてるこっちが恥ずかしいんだけど。」
素直に感想を述べて頬を人指し指でかくカイに、ほのかは耳の先を朱に染めてまた俯いてしまった。髪の毛がするりと落ちて、横顔を覆ってしまう。ほのかはよく俯く。伏し目がちに睫毛を震わせる表情も良いけれど、射貫くように前を向く視線の強さがカイは好きだった。
「ほのか。」
「…何?」
カイは自分の膝に頬杖をついて、ほのかの顔を覗き込んで言う。
「好きだよ。」

カイは不思議な人だった。
呪霊である自分の存在を丸ごと受け入れて、それでいて事あるごとに「好き」と隠そうとしない好意を伝えてくれる。最初に目が合ったのは偶然、そう見えたのだと思った。だが、それでも視線をそらさずにじっと見つめられて、思わず話しかけてしまったのだ。
「え?うん、見えるけど。何なら言ってることもわかる。」
気持ち悪い、怖い、おぞましいなどの負の感情を持ち合わせていないのか、とのほのかの問いにカイは手をひらひらと振って答えた。
「あるに来まってんじゃん。」
「じゃあ、どうして…。」
戸惑うほのかに対して、カイは目覚めたばかりのリスのようにきょとんと目を丸くしている。
「今って、何か怖い場面?」
カイの答えを聞いて今度はほのかが目を丸くした。この人の心臓には毛が生えているのかと思った。
「私、呪霊なんだけど。」
「じゅれい?ああ、樹の霊のこと?」
ほのかがカイの勘違いを正すと、彼はいよいよ腹を抱えて体をくの字に曲げて笑い出す。
「いやいやいや!全っ然、怖くないんだけど!?」
「そんなに笑わなくても…。」
別に怖がらせたいわけじゃなく、脅かしたいわけでもないが笑われるのは不本意だった。思わず俯くと、ぽん、とカイの広い手のひらがほのかの頭に置かれた。
「あ、触れた。」
「な…に、を、」
戸惑っていると、そのまま髪の毛を乱すようにわしゃわしゃと撫でられる。
「ごめん。あんまり綺麗だから、呪霊って似合わなくて。」
カイの温かい日差しのような目色に微笑まれて、ほのかは照れ隠しにその手を猫のように払いのけるのだった。
「ねえ、名前は?」
「え?」
不意に
思い出したようにカイに訊かれて、あまりに久しぶりのことでとっさに対応できなかったことを覚えている。
「名前。あるだろ?」
「え、あ…うん。ほのか。」
少々どもりながらほのかが答えると、カイは噛みしめるように何度かその名前を繰り返した。
「ほのか、ね。俺はカイ。よろしく!」
そう言って、カイはほのかに手を差し伸べた。その手を握ってもいいものかと思い、それでもとそろそろ手を伸ばすと多少強引に手を取られてしまう。そして大きくぶんぶんと上下に振った。
「…ところでさ、本当に呪霊なのか?」
「今更?」
ほのかは、くくく、と鳩のように笑ったあとに握手したままの手を引いて、昨夜降った雨の名残である水たまりの縁まで誘った。
「見て。」
「?」
一緒に水たまりを覗くと、そこにはカイの顔しか映っていなかった。その事実にカイは目を丸くして、ほのかと水たまりの両方を見比べた。ようやく事実を受け止めて、何故かカイは目を輝かせた。
「すっげー。ガチじゃん!」
「だから言ったでしょ。」
幽霊と友人になるの初めてだと言って、カイははしゃぐ。
「ん?ちょっと待って、誰と誰が友人だって?」
「え?俺とほのかが。」
事も無げに言い放って、カイは不思議そうに小首を傾げた。
「違うの?」
「いや、だって。私、幽霊…でも、ないし。呪霊だよ。」
関係ねーよ、と言ってカイは笑った。
「互いに害があるわけでもなし、せっかく知り合えたんだから。何なら…、」
カイは言葉を区切り、そして次に続く言葉を探しているようだった。
「ねえ、ほのか。ほのかは一目惚れって信じる?」
「は?」
唐突に選ばれた言葉に、ほのかは気の抜けた声しか出せなかった。
「俺、多分、ほのかのこと好きだわ。」
そう言って、未だに繋がれたままの手に力を込められた。

以前、中学のクラスメイトとの会話で一目惚れについて話したことがある。そのクラスメイト曰く、見た瞬間、雷に打たれたかのような衝撃に加え、唐突な愛しさが沸いたらしい。その当時、思春期を迎えていた気恥ずかしさからその場にいた友人たちは、「大げさだな」「節操なし」などと言い合って笑っていた。カイは一目惚れを経験したというクラスメイトに、尊敬にも似た感情を抱いた。
好き、という気持ちがそんなにも素直に脳を直撃し、そして導き出された想いが愛。
まだ恋を知らなかったカイは、一歩大人に近づいているクラスメイトが羨ましいと思ったのだ。そしていつか自分にも訪れるのかなと、未来が楽しみになった。
ほのかの出会いは唐突で、衝撃的なものだった。そして抱いたのは、心を包み込む温かい感情。まるで雪の降る夜に入る露天風呂のような、ほっとする感覚だ。
しみじみと、ああ、好きだな、と思った。

ほのかに、好きだ、と伝えると彼女は困ったように眉を下げて笑う。そして「ありがとう」とだけカイに告げて、突き放しも、受け入れもしないのだ。
それでもいい。自分の気持ちを知っていてくれたら、それでいい。
「あ、そうだ。これ、お土産の水ね。」
ほのかは桜の花びらと水のみ、口に入れることが出来るという。いつも雨水を飲んでいると聞き、以前、ミネラルウォーターを差し入れしたところすごく喜ばれた。
「ありがと。いつもごめんね。」
そう言って受け取ると、ほのかは嬉しそうにペットボトルに口を付ける。喉を鳴らして美味しそうに水を飲むほのかを嬉しく思いながら眺めて、カイ自身はスポーツドリンクを飲んだ。二人並んで水分補給するのが、最近の日課だった。
「もう直に、桜が散るね。」
ほのかは寂しそうに頭上を仰ぎ、桜の花模様を見る。つられてカイも桜の枝を見れば、満開だった花々がいつの間にか数えるほどになっていた。
「そういや、桜が散ったらほのかはどうすんの?」
「眠るよ。来年の春、また桜の花が咲くまで。」
残念そうにほのかに微笑まれて、カイの胸の内は掴まれたように締め付けられる。
「待ってるから。」
「え?」
思わず、希望がカイの口を吐いた。
「俺、来年の春もほのかが目覚めるまで、待ってるから。」
「!」
ほのかの瞳にその希望の光が揺れた。だが、すぐにもみ消すように俯いてしまう。
「…期待は、しない。」
「なんでよ!?期待しててよ!」
カイの抗議に、ほのかはゆるゆると首を横に振った。
「私がこの桜に憑いて何十年経ってると思う?今までだって、私のことが見えた何人かがそう言ってくれた。だけど…最終的には、誰も残らなかった。」
「…どのぐらいの時間、ここに?」
ほのかは過去を思い出し、懐かしむように目を細める。その目色には哀愁が滲んでいた。
「私が死んだときには、こんなにも日本が豊かな国になるとは思わなかった。それぐらいは、ここにいる。」
「ほのかは最初、その、生きてる人間だったのか?」
ほのかはそっと自らの喉元に手で触れた。
「うん。死んだというか、殺される前は。」

ぎりり、と首の柔肌に相手の指が食い込んでいく。気管が潰されて酸素の通り道を塞がれる。あっという間に酸欠に陥って、ほのかの口は金魚のように開閉した。目の奥に火花がチカチカと爆ぜて、徐々に視界は赤黒い光に染まっていった。涙が一粒、つ、と頬を伝い、ほのかは目を落とす。
ほのかの死体は桜の木の下に埋められた。

「殺された、って誰に?」
「…。」
ほのかは目を閉じて微笑んでいる。瞬間のことを思い出しているにはあまりにも静かに凪いで、穏やかな表情だった。
「当時の、恋人に。」
すっと開かれた瞼の奥、瞳は愛の色に滲んでいた。
愛しさ、恋しさ、慈しみが含まれたほのかの声色には自らが殺された悲哀はなかった。
「好きで、好きで、堪らなかったけれど、どうしても一緒になれない理由があったの。」
一緒に生きたい、ということが出来なかった。だからこそ、私は死んだ。
「…? 何故、カイが泣くの?」
カイの瞳からほろりと一粒の涙が零れていた。
「いや、ごめん。なんでだろ…。何か、泣けてきた。」
そう言って、カイは乱暴に服の袖でごしごしと目元を拭った。その涙は同情ではなく、ほのかに同調したかのようだったとカイは記憶している。
ふっとほのかが笑う気配がする。
「カイはお人好しだね。」
「だって、」
ず、と鼻を啜って、カイはほのかを見る。
「苦しかっただろうなって。」
「…私よりも、相手の方が苦しかったと思うよ。」
想い人に愛されている自覚があった。だからこそ、神様の罰が下ったのだとほのかは言葉を紡ぐ。
「あの人の顔が思い出せないの。」
木漏れ日の中、互いに手を引いて歩いた日々。ありふれた普通の日々に憧れながら、秘密に重ねた逢瀬。響く記憶の中の恋人の顔は、白い絵の具で塗りつぶされたかのように消えているとほのかは言った。
「ほのか。」
カイはほのかの手を握った。
「俺、絶対に待ってるからな。ほのかが眠りから覚めたその世界に、俺はいる。」
「…ありが、とう…。」
数日後、桜の最後の一片が風に舞った。

ほのかが眠りにつき、三ヶ月の時が流れた。春の四月から、気温は徐々に色づくように暑くなった夏。七月を迎えていた。
歴史の授業の小テストで赤点を取ったカイは数人の友人と共に、放課後に補習を受けていた。と言っても、配られたプリントの答えを教科書から見つけ出しても良いという、緩い課題だった。
「こう暑いとさ、やる気と共に本気もでねえよなあ。」
「お。これは本来の実力ではないと?」
「うっせー。そうだ、カイ。お前、今から職員室に行ってクーラーの設定温度下げてこい。」
「なんで、俺?」
歴史の教科書とにらめっこをしていたカイは友人の言葉に、顔を上げる。
「だってお前、先生たちと仲良いじゃんかー。このコミュ強め!」
「普通だろ、別に…。」
祖父との関係性の延長線で教員と接していたら、カイは随分と話しやすいと評判が良い。それを本人は理解してなかった。
「桜井くん。課題、まだ終わんないの?」
教室の扉が開かれ、顔を覗かせたスポーティな印象の女子が声をかける。
「あ、もう終わった。」
「監督と部長、待ってるからね!」
女子は陸上部員で、帰宅部のカイはその運動神経から各運動部での助っ人を担っていた。
パタパタと女子が駆けていく足音を聞き終えて、友人たちが恨めしげにカイを見る。
「うん?何?」
「リア充!バカ!裏切り者!」
「そうだ、そうだ!終わった課題は俺たちが提出しといてやるから、さっさと行っちまえ!」
「え、ありがとう!?」
ブーイングを受けながら、カイは教室を後にした。
陸上部の活動を終えて、家路につく頃には太陽が傾き町を橙に染めていた。心地よい疲労感を抱えながら、カイは遠回りをしてあの神社に立ち寄った。
桜の木はいつも堂々としていて、カイを迎えてくれる。空に大きく枝を持ち上げ、青々とした木の葉が茂っていた。
カイはほのかと共にいた場所に立ち、桜の凹凸のある幹を撫でた。
「会いたいよ。ほのか…。」
瞳を閉じて、カイはざらりとした幹に額をつけた。
愛しい、ほのか。今、どんな夢を見ているのだろう。悪夢じゃなければ、良いんだけど。

一年がこれほどまでに長く感じた記憶は無い。カイはあの日の約束をずっと忘れなかった。また春に、ほのかに会うまでの日を指折り数えて待っていた。やがて月日が経ち、年をまたいだ。
三月になるとそろそろと言わんばかりに桜前線のニュースがテレビから流れ始める。
体が春の空気を感じ取りそわそわとし始めた頃、冬の間に中断していたジョギングを再開した。肺一杯に温まった酸素を取り入れて、駆けていく。神社まで行くと、風が吹き抜けてカイの短い前髪を撫でていった。
「ほのか!」
桜の木の下に去年と同じようにほのかが佇んでいるのが見えた。カイの声に気が付いてほのかは、はっとして顔を上げた。
「一年ぶりだな!」
カイが再会の喜びを伝えるとほのかはまだ眠そうに、それでいて嬉しそうに口元を緩めた。
「本当に、待っていてくれたんだ。」
また二人で朝日を眺める日々が続いた。一年前と変わらずほのかは美味しそうに水を飲み、その様子を隣にいるカイが優しく穏やかに見守った。

朝の七時を過ぎると、神社の対岸にも人影がちらほらと見えるようになる。それは早朝練習に向かう運動部の学生だったり、出社するサラリーマン。犬の散歩をする老夫婦もいた。時にはカイの友人が通りかかることもあった。
「カイー!はよー。何してんの?」
「んー?花見ー!」
手を振って友人に応えるカイをほのかは羨ましそうに見つめている。そのことに気が付いたのは、最近のことだ。
「どした?ほのか。」
「え?いや、別に…。」
ほのかは何故か困ったように目を泳がせてしまう。カイは首を傾げた。
「何か言いたいことがあったら、何でも聞くけど。」
「…。」
ほのかは真意を言うべきかどうか迷っているようだった。口を開いては、また噤むを繰り返す。カイは辛抱強く待った。
「あの…、」
「うん。」
ようやく決心したほのかは手の指を何度も組み替えながら、耳の先を朱に染めながら言う。
「カイは、学校に通っているのよね?その…、文字の読み書きはもちろんできるんでしょう?」
「? うん、下手だけど…、」
一瞬、何故そんな当たり前のことを聞くのだろうカイは思い、そして気が付く。ほのかにとって、当たり前でないことに。カイが察したことを察して、ほのかはぐっと唇を噛みしめて俯いてしまった。
「何だ、それなら早く言えよ!」
カイはほのかの劣等感を飛ばすように、背中を豪快に叩く。
「痛い…。」
苦虫を噛みしめたような顔をして、ほのかはじとりと軽くカイを睨んだ。
「俺が字を教えるよ。」
「!」
ほのかの顔色が欲しいものを与えられた子どものように明るくなる。
「本当?」
「もちろん!英語とか数学だったら無理だけど。」
そう言うと早速、カイは落ちていた木の枝を拾い上げて地面に向かって字を刻んだ。

ほのか

「これが、ほのかの名前ね。はい、真似して書いてみ?」
「…。」
カイから枝を受け取って、真剣な表情でほのかは隣に自らの名前を書いた。初めて書いたという自分の名前をほのかは嬉しそうに見つめている。そして、ぽつりと呟いた。
「私、学校に通う前に奉公に出されて、そのまま字が書けなかったんだ。」
昔を懐かしむほのかはいつだって穏やかに凪いだ表情をしていた。殺されて生涯を終えた過去に、後悔はなかったのだと思う。
「へー。今じゃ考えらんねーな。」
「そうでしょうね。」
ふふ、とほのかは笑う。そして意欲的にカイに教えを乞うのだった。しばらく地面をノート代わりに文字が羅列した。
「ねえ。」
「ん?何ー?」
ほのかは問う。
「カイの名前はどうやって書くの?」
「俺の名前?ちょい待ち。」
がりがりと固い地面に書かれた、カイ、の文字を今までで一番真剣な瞳で見つめるほのかがいた。そして何度も何度も、教えてもらった名前を書き写して足元の地面いっぱいにカイの名前が刻まれた。
「…。」
一字一字を大切なもののように扱われて、カイの胸はくすぐったく疼く。
「何か照れるね。」
カイが頭をかきながら告げると、ようやく満足に書き終えたのかほのかが顔を上げた。
「覚えたよ。」
とん、とこめかみを人差し指でついて、ほのかは宣言した。
「ほのか。」
「何?もう見なくても書けるよ。」
何よりも、誰の名前よりも、先にカイの名前の字を記憶したほのかはどこか誇らしげだ。
「好きだよ。」
唐突のカイの告白に、ほのかは意表を突かれる。
「今、言うこと?」
「今、言わなくて、いつ言うのさ。」
隣に座ったままカイはにじり寄った。肩と肩が触れて、視線が絡み合う。
「…カイ、背が伸びたね。」
「それこそ、今言う?」
ふは、とカイは吹き出すが、ほのかは寂しそうだ。
「そりゃね?成長期ですし。一年も経てば背も伸びるよ。ほのかは…変わらないね。」
ほのかは殺された年齢のまま、何も変わらないという。老いることを手放した代わりに、悠久の時をたった一人で過ごしてきたのだ。
「いいじゃん。俺がじいちゃんになってもほのかはそのままって、眼福だし。」
いつまでも若い想い人だなんてとても素敵なことだと思う、と言うと、ようやくほのかが笑ってくれた。
その笑顔が、存在が、気配も全部。
「ー…好きだよ、ほのか。」
今までも、幾度も口にしてきた言葉。好きって言葉はきっとほのかに言うためにあるとさえ思う。
「…ダメだよ。」
いつもなら受け流される言葉が、強は明確な意思を以て拒絶された。
「何で?」
「何でって…、私は人間じゃない。呪霊、なんだよ。」
振られたカイよりもほのかの方がつらそうな顔をしていた。
「好き。」
思わず口を吐くのは、やはり好意の言葉。
「私が言ったこと、聞いていた?」
「うん。聞いてた。でも、好きなんだ。」
堂々巡りのやりとりに、ほのかは根負けしてようやく苦笑ながら笑ってくれた。
「好きにしてよ…、もう。」
「する。」
へへ、と笑うカイに、ほのかは言う。
「ところで。学校の時間、大丈夫なの?」
「! やば、遅刻じゃん!」
カイは腕時計を見て、大慌てで身支度をする。そして立ち上がり、駆けていこうとする刹那。振り返って、ほのかに手を振った。
「また来るから!」
「…はいはい。早く行きなさい。」
ほのかはため息を吐きつつ、小さく手を振ってカイに応えるのだった。
二年目の春は主に読み書きを教え教わり、過ごした。わずか二週間ほどの桜の開花期間は愛おしく、かけがえのない日々だった。夢なら醒めないでほしいと、ありふれた記憶だけが募っていった。

十月。カイの通う高校で体育祭が行われた。目覚ましい成果を残すカイが唯一、ビリを取った種目があった。それは借り物競走だった。
真っ先に借り物が書かれた紙片にたどり着けたものの、そこに書かれていた内容にカイは途方に暮れた。
【好きな人】
一番に思い浮かべるのは、もちろんほのかのことだった。
愛しく、これ以上に好きな人はいない。そして偽りたくない感情でもあった。
どんなに思っても、叶わない恋だとは気付いていた。
苦い思いが胸に留まり続け、その内にどんどんと他の選手たちがカイを追い抜いていく。
「…っ、」
カイはぐっと唇を噛みしめて、実行委員会のテントへと向かった。応援や歓声に、カイの行動を不審に思う声が混じる。
「すみません。」
「どうした、桜井。」
そこにいた三年の先輩に、カイは告げる。
「これ、この借り物なんですけど。俺には無理です。」
「ん?そんな難題あったか?」
先輩がカイの手元を覗き込む。
「あー…。代理立ててもいいぞ?」
「それも、したくないんです…。すみません。」
カイのいつにない、傷に耐えるような表情に先輩も何かを察してくれたようだった。
「わかった。じゃ、白紙だったことにしよう。それでいいだろ。」
「ありがとうございます。」
頭を下げて、カイは自分のクラスの応援団の元へと戻った。
「カイ、どうしたんだ?」
友人たちの心配が滲んだ声が次々にかかる。
「白紙、だったんだ。」
カイは無理矢理、笑顔を見せて頭をかいた。
「え?そんなんアリ?」
「それは、無理だよなー。」
文句言いに行くか、と言ってくれる友人を窘めてカイは言う。
「次からの種目、全部勝ちに行くから平気だよ。ありがとなー。」
「まあ…、カイがそう言うなら。」
「カイの場合、それをやりかねんからなあ。」
再び活気づく体育祭を、カイもまた気を取り直して楽しむのだった。
ほんの少しのしこりを、胸に残したまま。

三年目の春。キスをした。
高校三年生を迎えるカイは身長が初めてほのかと出会った頃よりも10㎝以上伸びて、少年から青年の容貌へと変化していた。骨が太くなり、筋肉もつき、均整の取れた体躯は目覚ましい成長の証だった。ほのかは相変わらずカイの成長を眩しいものを見るように目を細めて、見守っていた。
「俺さー、将来は親父の後を継いで真鯛の養殖をしたいんだ。」
美しい海を望むこの町で、真鯛の養殖は栄えた事業だった。
「生で食べても美味しい真鯛なんだけど、贅沢にしゃぶしゃぶにすると絶品なんだ!俺の好物!」
無邪気に笑い、カイは父親のことを尊敬していると告げた。
「俺も美味しい真鯛を育てたい。そんで、たくさんの人に食べてもらいたい。」
純粋に自らが美味しいと思ったものを人に食べてもらいたいと夢を語った。その夢は、健全でカイにひどく相応しいもののように思えた。
「でさ、来年から親父の後ろについて修行することになった。」
「カイなら、きっと美味しく真鯛を育てることが出来るよ。」
ほのかはまるで自分のことのように嬉しく、楽しくカイの希望を聞いていた。自分にはない未来に向かっていく若者は、何故こうも輝かしいのだろうと思う。
「…。」
カイは口を噤み、困ったように笑う。
「どうしたの?」
「んー、うん。あのさ、」
珍しくカイが瞳を伏せた。いつも元気いっぱいで前しか見ないような男が、だ。
「その修行が始まったら、今まで会っていた桜の開花期間の毎日は来れなくなると思うんだ。」
「!」
いつも明るい笑顔のカイの表情を曇らせる原因が、ほのか自身であることが不謹慎にも嬉しかった。一年の内、たった二週間の期間を思い患っているカイが愚かで、それ以上に愛しいと思ってしまった。
ざり、と桜の木の根元の小石を踏みしめて、ほのかがカイに近づいた気配がした。カイが顔を上げた刹那、ほのかは掠め取るようにキスをした。唇と唇が触れ、体温を感じる前に離れてしまう。
「…。」
カイは何が起きたのかわからず、目を大きく見開いてほのかを見つめた。一方で、ほのか自身も思いがけず気持ちより先に動いた体に驚いていた。
「ご、ごめ、」
自らが何をしたのか察して、ほのかは口元を両手で覆い隠して踵を返そうとする。
「待って。」
カイは自分から離れようとするほのかの手首を掴むことに成功した。
「離し、て…、」
「嫌だ。」
体を覆うように背後から抱きすくめるとカイはほのかの肩にあごを置き、彼女の耳元に鼻先を埋める。ほのかの体がぴくりと痙攣するように震えたが、拒絶はされなかった。
「ほのか。」
「…っ!」
ほのかの鼓膜に直接、語りかける。
「今、なんでキスしたの。」
カイの温い呼気に、息を呑むほのかの気配がした。
「教えて?」
「そ、れは…、ぁ、」
首筋の太い血管を嬲るように犬歯で食む。たっぷり唾液を含ませてじわじわと力を込めると一層、ほのかの体が震えた。はらり、と一枚の桜の花びらが散る瞬間。ほのかはずるずると力が抜けたように、膝から崩れ落ちてしまった。俯いてしまいそうになるほのかの頬に手を添えて、上を向かせる。カイとようやく視線が交わって、ほのかは涙目に潤みながら睨んだ。
「カイは、質が悪い…っ。」
「それはほのかも一緒だろ。」
カイはほのかの耳朶を親指と人指し指の腹で摘まむようにして、くすぐる。
「キスの理由を教えてくれなければ、このままちゅーするからな。」
「~っ!」
ほのかがカイの短い髪の毛を引っ張って、噛み付くようにキスをした。
「したかったからだよ、馬鹿!!」
「!」
羞恥に顔を真っ赤に染めるほのかが可愛らしくて、堪らなくて、カイは思わず笑ってしまった。
「笑うなっ!」
「ごめん、ごめんって。ほのか。」
カイは目線を合わせるために膝をつく。
「だって、嬉しいんだ。ねえ、ほのか。」
「…何。」
「キスしてもいい?」

唇同士が触れあう瞬間、互いの睫毛が触れてそのくすぐったさに笑いそうになる。柔らかく、熱く湿っていて、まるで相手がのぼせるような感情がそのまま流れ込んでくるみたいだった。ちゅ、ちゅ、と幾度となく音を立てながら離れ、その度に前以上に深く触れあう。体温が溶け合って、粘膜から一体化していくようだった。

額と額、鼻先が触れあいながら、唇を名残惜しげに離す。ゆっくりと瞼を持ち上げると、ほのかは涙を零していた。
「…ほのか?」
「…。」
ほのかの瞳から涙の粒が盛り上がって。表面張力が耐えられなくなって雫となり、つ、と頬を伝ってあごから落ちていく。
「ごめん。嫌だった?」
「違う。」
即座に否定されてほっと安堵するも、カイはほのかの涙の意味がわからなかった。その間にも、ほろほろと涙が零れていく。
「ほのか。ほのかー。」
よしよしと頭を撫でながら、カイはほのかを抱きしめる。
「カイ…、ごめんね。」
「何が?」
ごめんね、とだけ繰り返すほのかが落ち着くまで、カイはずっとその小さな背中を撫でていた。
「落ち着いた?」
「うん…。」
ようやく泣き止んだ頃には、すっかりほのかの目元が赤く腫れてしまっていた。
「私が…この桜に憑いている限り、カイに心をあげられない。」
桜の木はほのかの恋人の最後の贈り物、墓標だ。故に死んで尚、執着しているという。桜から離れるときはほのかという存在が完全に消え去るときだった。
「いいよ。ほのか。」
カイは言葉を紡ぐ。
「ほのかがいなくなるだなんて、考えられないし。それなら、ほのかの心までいらない。…めっちゃ欲しいけどね。」
ほのかの中には今も恋人がいるのだろう。それでもキスを許してくれるほどまでに、心を許してくれた。それだけで充分だと思うことにしよう。
「ほのか、好きだよ。」
幾度となく、毎年必ず口にしてきた言葉。告白を重ねるほどに、ほのかの心の一番柔らかいところに触れてきた気がした。
「…ありがとう。」
そう言うとほのかはカイの手を取って、その手のひらに口付けた。いつの日か、心の在処について話したことをカイは思い出す。たしかほのかは心は手にあると言った。
傷つきやすく、神経の集まった指先を切ればとても痛い。人を突き放すのも、抱きしめるも手だ。そして冷たさにかじかんで、吐息で温まるのも手だという。

カイは、心は胸にあると思った、と言うとほのかは笑った。
「それじゃ、打ち抜かれておしまいだよ。」

今、ほのかはカイの心に触れているのだろう。敏感な手のひらに感じるほのかの唇の形、体温、柔らかい感触。全てが、愛しい。

高校三年生の冬は新しい生活に向けて、何かと忙しい。
クラスメイトの大半が受験を控え、一応就職組の括りに入れられたカイはピリピリとした空気を刺激しないように比較的大人しく過ごしていた。
「桜井くんって家業、継ぐんでしょー?」
その日、日直を組んでいた女友達が日誌を書きながらカイに問う。
「うんー。そのつもりだけど。」
カイは黒板の板書を消しながら答えた。放課後の教室は一日中頑張っていたストーブで温まり、暑いぐらいだった。窓には結露した雫が浮かび、時々流れ星のように垂れている。
「私、県内の専門学校に通うんだけどさ、時々は遊ぼうよね。」
「お、いいね。ちなみに何の専門?」
「美容師。カリスマになっちゃうよ。」
気軽な会話は心地よく、楽しい。
「へえ。じゃあ、今度、髪切ってもらおう。」
女の子は書き終えたらしき日誌を閉じて、黒板消しをクリーナーにかけるカイのもとへと近づいた。
「…、」
小さくか細い声が大げさすぎるクリーナーの音にかき消されて、カイはスイッチを切りながら首を傾げる。
「? ごめん、何て言った…、」
「好き、って言った。」
女の子を見ると耳から首筋まで紅く染めていた。肩が僅かに震えていて、まるでかわいらしい小動物のようだと思った。
「…好きです。私と、付き合ってくれませんか。」
カイは一瞬、冗談かと思い、そして冗談でも真面目に応えるべきだと腹をくくる。罰ゲームでしたー、ならそれでいい。
「ごめん。俺…、他に好きな人がいるんだ。」
「…。うん、」
俯いて、スカートの裾をぎゅっと握り締めるその仕草から、彼女の本気の気持ちを知る。
「あの、でも、気持ちは本当に嬉しくて。だから、好きになってくれて、言葉で伝えてくれて本当にありがとう。」
「うん…。」
ぐす、と鼻を啜り、目の縁に浮かんだ涙を拭いながら、女の子は顔を上げた。随分と晴れやかな顔をしている。
「知ってた。桜井くんに、好きな人がいること。」
「…え?」
「うっふふ、女の勘をなめんなよ。」
明るく振る舞う彼女は、振られることを前提に告白をしてくれたらしい。
「うわー…、マジ?微妙に恥ずかしいんだけど。」
「わかっちゃうんだなー。ずっと見てたからね!」
そう言うと、日誌と鞄を持って教室を出ようとする。
「卒業してもさ、遊ぼうってのは叶えてよね。」
扉から少し顔を覗かせて、女の子は笑った。
「お、おう。あのさ、」
「何よ。今更、好きになったって言っても遅いんだから。遅くないけど!」
「どっちだよ!、…ありがとうな!」
カイの言葉に、女の子は歯を見せて笑うと職員室まで駆けていった。

月日が過ぎた、ほのかに出会って四年目の春。
カイは高校の卒業式を迎えた。校内では後輩たちから祝福の言葉をもらい、同級生とはこれからの健闘を誓い合った。卒業証書が収まった筒をバトンのように持ちながら、カイは駆ける。桜前線では確か、そろそろここら地域の開花を予想していた。昨夜の雨がまるで嘘みたいだ。遠雷が鳴り、大きな窓粒が窓ガラスを叩き、今日の門出は雨模様かと心配したが明け方には晴れ間が覗いた。
式が終わり、体育館を出ると空には虹が架かっているという、なんて気の利いた自然からのギフトだろうと思った。
ほのかもあの虹を見ながら、目覚めているだろうか。
「…え、」
神社まで息せき切って駆けたその先で、ほのかの桜が切り倒されていた。

その日の夕刊の小さな記事に桜に雷が落ち、裂けてしまったとのことが綴られていた。地域住民に名残を惜しまれながら切り倒されていく様子が、写真となって掲載されている。
カイは夕刊のざらりとした紙面を指でなぞった。ほのかの気配を探したけれど見つかることはなく、心にあるのは虚無だった。長い年月を生き抜いた桜の呆気ない最後に、涙一つ零れなかった。
ありふれた恋を追いかけて、一年の内のたった二週間の逢瀬が今では閃光のように駆け抜けていってしまった。
「ほのか。」
口を吐く想い人の名前。雷に打たれた時、ほのかは痛かったのだろうか。さぞ、つらかった事と思う。カイの心まで焼き裂かれたかのように激しく痛む。
痛む胸の疼きを抑えきれずにカイは夜と夕の間、空がカクテルのようにとろりと蕩ける時間帯に家を出た。再度、神社へと向かう。足が重くて、何もかも真反対の状況で迎える逢瀬にほのかはいない。
倒された桜の木の焦げた幹が年輪を覗かせている。幾重にも連なる木の肌のどの時代にほのかは生きていたのだろうか。カイは腰掛けて、指の腹で年輪を数える。
「痛、」
ピッと線を刻むように切り倒した際に生じた棘に肌を引っかけて、指先を傷つけてしまう。丸い血の玉が浮かんだので、指を口に含んで止血を試みる。口中に広がる血の味に、どうやら鉄分は足りているようだと思う。
「…ん?」
俯いた視界の淵に、違和感を覚える。目を凝らすと地面に凹凸があった。スマートホンを操作して、ライト機能で照らし出すとその凹凸が何かを知った。

カイ いきて またあうひまで

それはカイが教えた、ほのかの文字だった。
「ほのか。」
ほのかは確かにここにいたのだ。視界が揺らぐ。ほたほたと零れ落ちる涙は最初は熱いのに、頬を伝う課程で急激に冷えていく。涙が自分にもあったのか、とカイはようやく安心した。
「ごめんなー、ほのか…。ずっと一緒にいてやれなくて。」
カイは足元に落ちていた桜の花を掬い取る。花びらが散らないように慎重に付いた砂を払い、そのままほのかがしていたように口に放り込み桜を飲み込んだ。
その刹那、止めどない量の記憶がカイの中を満たしていく。日本の経済成長する真っ只中、季節が巡り、二人の人間が浮かび上がった。桜に募った想いはほのかのものだけでなく、もう一人。要するに二人分会ったのだ。
海の底。柔らかい泥に沈むように、記憶の底に着地する。それはほのかの最期の記憶だ。

こほこほと咳き込んだ瞬間に、喉に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。吐き気にも似た気持ちの悪い瞬間の後に、手のひらを見ると血液が滲んでいた。
その血は日に日に増えていき、手首を伝うようになった頃。私は医師に余命を宣告される。
「ほのか。残念だが、この縁談は…。」
床に伏すほのかに、家長の父が言うのだった。
政略結婚の多い時代だったにも関わらず、私たちはきちんと恋心を育んでいた。奉公先で出会ったあなたは私を見つけてくれて、そして愛までくれた。

健全な逢瀬を交わす中で当時は珍しい洋装にほのかが興味を示すと、彼はあっという間に洋服を仕立ててくれた。私の一張羅で、一等お気に入りの服になったのは当然だった。初めてワンピースに袖を通してみせると、臆面も無く「かわいい」を連発してくれるものだから最終的にはほのかから発言を禁止されたことは笑い話だ。
ほのかからのお返しは、可愛らしい桜の花を刺繍したハンカチだった。あなたは、毎日持つ、と言ってくれましたね。とても嬉しかったことを、覚えている。

私は肺の病を患い、その病は感染する力が強かったものだからサナトリウム療法を勧められた。とても私の家では、そんな医療費を払うことが出来ない。そんな中、あなたのお父様が一つの提案をしてくださった。
ー…治療にかかる費用を負担しよう。その代わり、
…その代わり、あなたとの婚約を破棄させてほしいとのことだった。
私なんて切り捨てることも可能なのに、とても温情的な措置だと思う。あなたはそれほどまでに、ご両親に愛されていたことを知った。そして私に対する、私の両親の愛も。

サナトリウムー…、療養所に行く前日の夜。私たちは、親に内緒で落ち合うことが出来た。これに関しては、落ち合う時間を教えてくれた彼の従者に感謝をするしかない。
「ほのか!」
大きな桜の木の下で、あなたはいつもみたいに手を大きく振って、私を迎え入れてくれた。私はお気に入りのワンピースを身に纏い、一つの決意を抱いていた。
「来てくれて、ありがとう。身体は大丈夫?」
微笑み、頷く私を見てあなたは、抱きしめてくれようと手を広げてくれた。私は躊躇する。
「近づいたら、病をうつしてしまうわ。」
あなたは何故かきょとんと目を丸くして、そして些か強引に私の手を引いた。
「大丈夫だよ。」
緊張に強張った背中を優しく撫で、あなたは耳元で囁いてくれる。
ほのかはその声に、涙がこみ上げるのを感じた。そして声を出して泣いた。
「ごめ、ん、ね。」
「何で、謝るのさ。」
心底、意外そうな声を出してあなたは首を傾げてくれる。私は壊れたおもちゃのように、謝罪を繰り返した。その間、ずっとあなたは私を抱きしめてくれていた。
そして気持ちが落ち着いた頃、ほのかは抱いていた決意を口にした。
「私を、殺してくれませんか。」
彼はほのかの肩を掴んで、言い聞かせるように目線を合わせた。
「それはできない。」
「お願い。私の治療は、延命治療だよ。…ただ、死期を遅らせるだけなの。」
涙に揺らぐ彼の瞳の中で、自分自身と目が合う。
「あなたの瞳にだけ、私の姿が映れば良い。どうせ死ぬなら、私はあなただけの私でいたい。」

ほのかの首は細くて、その気管を潰すのは簡単だった。そのあっけなさに驚いて、一瞬、その力を緩めてしまった。
するとほのかがか細い声で言うのだ。
「…大丈夫。ひと思いに、首を絞めて。」
「…っ!」
再び、指に力を込める。ギリ、と肌に指が食い込んでいく嫌な音が響いた。手のひらに彼女の生きている証、心臓の鼓動が刻まれる。ドク、ドク、とほのかの死の間際。一瞬、大きく脈打った。
「…、」
ほのかの目の縁から、一筋の涙が伝う。
「ほの、」
か、と名前を続けようとした瞬間に、ほのかの身の力ががくりと抜けた。
自分の呼吸の音だけがやけにうるさく耳をつく。
「ほのか、ほのか…。」
ゆっくりと両手にかけられていた力が抜けていく。ほのかの白い美しい首に、俺の手のひらの痕が醜く刻まれていた。
愛しい人を、この手にかけた。


「…ほのか…?」
ほのかの首を絞める恋人は、俺。ー…カイの顔をしていた。
どうして忘れていられたのだろう。ほのかを殺したのは、俺だった。
それは、前世の記憶。声も、視線も、気配も同じだった。引き継がれなかったのは名前だけで、ほのかを見た瞬間に覚えた感情は一目惚れではなかったのだ。ずっと、ずっと前から本当は知っていたのだ。

ほのかの涙の痕を、彼女がくれたハンカチで拭ってやった。桜の木の下に、大きく口を開けた穴に彼女の亡骸を横たえる。最後にもう一度だけほのかの頬を撫で、柔らかい土を彼女に上にかけていった。土をかける一回毎に、ほのかの空気にふれる面積が狭くなっていく。
「安心して、すぐに後を追うから。」
俺はその桜の木の枝に縄を張って死んだ。
神は罰としてほのかからカイの記憶を、カイからはほのかの存在そのものの記憶を消した。

「ほのか…、ありがとうな。」
ほのかはずっと、朧気な記憶を持ちながらここで待っていてくれた。心はすでに、カイにあった。
「待ってろ。…すぐに、追いつく。走って行くから。」
百年後、千年後でもいい。いつになるかわからないけれど、生きて。
今度こそ自分として、ほのかにまた会う日まで。