三時間目の授業は体育らしく、私は保健室に向かうことにした。

 正直、少しだけ疲れていたから、休みに行くようなものだったりする。
 だけど、一時間目の数学も、二時間目の物理も、和泉さんの存在と穂村くんのノートのおかげで、思っていた以上に楽しく授業を受けられた。
 久々にこんな身体を呪ってしまいたくなるくらいには、楽しかった。

 今日の体育はバスケらしい。

 スポーツ、やってみたかったな。

「失礼します」

 少し落ち込みながら、保健室のドアを開ける。

「織部さん、いらっしゃい」

 白衣を着た藍田先生が優しく言った。
 藍田先生とは、入学初日に挨拶をした以来だ。

「もう少し早くここに来ると思っていたけど……どう? 学校生活、楽しい?」

 私は小さく頷きながら、ドアを閉める。
 すると、藍田先生の小さな笑い声が聞こえた。

「ごめんなさい、照れているところが可愛くて、つい。なにか飲む?」
「水をお願いします」

 藍田先生は冷蔵庫から水を取り出し、コップに注ぐ。
 その間に、私は部屋の真ん中にある、一人で使うには広すぎる机のそばにある椅子に座った。

「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」

 藍田先生にお礼を言うと、ゆっくりと深呼吸をして、目を閉じる。

 みんなが体育の授業を受けている声。
 どこかのクラスで先生が説明をしている声。
 風が葉を揺らす音。
 鳥の鳴き声。

 外の音がどれも、心地よく感じた。

 私、ここに来てよかった。
 和泉さんと出会えて、本当によかった。

「失礼します」

 一人で余韻に浸っていると、ドアが開く音とともに、声が聞こえた。
 目を開けると、声の主、穂村くんと目が合う。
 一気に現実に引き戻されたような感覚がした。

「どうしたの?」

 私たちが言葉を交わすより先に、藍田先生が穂村くんに声をかけた。

「外でサッカーしてたらこけてしまって」

 穂村くんが下を見たから、つられて視線を向けると、左膝から血が出ている。
 とても痛そうで、つい顔が強張ってしまった。

「随分と派手に怪我したのね。座って待ってて」

 藍田先生に言われ、穂村くんはすぐそばにあるソファに腰を下ろした。
 一方的に気まずさを感じて、私は水面を見つめる。
 藍田先生が怪我の手当てをする道具を集める音だけが響いている。

「……サボり?」

 ふと、穂村くんが言った。

 教室で注意をしていた人物と、本当に同一人物なのか、疑ってしまうような言葉だった。
 穂村くんこそ、デリカシーを備えるべきだと思う。

「……違うよ」

 なぜか、病院のときみたいに強く言い返すことができなかった。
 穂村くんが興味なさそうな相槌を打つと、藍田先生が戻ってきた。
 先生は私たちの会話には一切触れず、慣れた手つきで穂村くんの怪我の手当てをしていく。

「どうしたら、授業始まってすぐにこんな怪我になるの?」

 嫌味ではなく、純粋な疑問。
 先生の表情は見えないけれど、声色でそう感じた。

「あー……軸足、ずらされてそのままこけたというか」

 穂村くんは笑っているけど、私にはなにかを隠しているかのように見えた。
 でも、気になって聞いたところで、私に教えてくれるとは思えない。
 私は見なかったことにして、手を付けていなかった水を飲んだ。

「さて、どうする? 授業に戻る?」

 藍田先生が立ち上がりながら聞くと、穂村くんは一瞬、私のほうを見た。
 様子を伺うというより、少し睨んでいるような感じ。

「はい、戻ります」

 笑顔の仮面を張り付けて、穂村くんは言った。

 私がいるから休みたくないって言いたいのかな。
 あのときの態度は確かに悪かったと思うけど、ここまで根に持つ穂村くんは、器が小さいのかもしれない。

 もはや呆れていると、穂村くんが足を引き摺るように歩いているのに気付いてしまった。

「……無理、しないほうがいいと思う」

 躊躇いつつも言うと、穂村くんは少し驚いた表情をして、私を見た。

「無理をすると、余計に酷くなるから」

 それは穂村くんに言っているようで、自分のことを言っているだけだった。
 この考え方が染み付いているから、私はすぐに諦めてしまう癖がついたのかな、なんて勝手に苦しくなる。

「……じゃあ、少しだけ休んでていいですか」
「もちろん」

 藍田先生が言うと、穂村くんはソファに戻った。
 微妙な距離感は相変わらず、か。
 だけど、あのときのことを謝るなら、今がチャンスだろう。

 そう思ったのに、上手く声が出せなかった。
 室内には藍田先生がペンを走らせる音しかない。
 このまま静かな時間が流れて、変な緊張感から解放されるのを待つしかないのか。

 私は、なんのために学校に来た?
 明日学校に来れる保証なんて、私にはないのに。

「……病院では、嫌な態度をとって、ごめんなさい」

 穂村くんに、聞こえただろうか。
 自分でも不安になるくらい、声が小さかった。

「……僕も、勢いで酷いこと言ってごめん。織部さんが過去の、僕が一番嫌いだったころの自分に似てたから……つい……」

 穂村くんの過去。
 気になったけれど、踏み込んでもいいのか、わからなかった。

 でもやっぱり、私が嫌われていることに変わりはないらしい。
 さすがに、誰かに嫌われたまま人生を終えるのは、嫌だ。

「どこが、似てたの?」
「……全部、諦めてるところ」

 ふと穂村くんのほうを向くと、穂村くんは私の全てを見透かしたような目をしていた。
 私は思わず目を逸らしてしまう。

 全部を諦めているから。

 それなら、嫌われても仕方ないか。

「でも、織部さんも諦めたくない人なのかなって、少し思った」

 穂村くんの中で私の印象が少し良くなっていて、驚いた。
 今、嫌われている事実を受け入れたところなのに。

「だってほら、学校なんてどうでもいいって言ってたのに、来たでしょ。和泉とも打ち解けてたし」

 穂村くんの表情が柔らかくなった気がした。

「諦めなかったら、案外いいことがあると思わない?」
「それは、ちょっとだけ……」

 諦めていた学校での生活。
 授業は難しかったけど、先生の雑談は面白かった。
 和泉さんが私と仲良くしてくれた。
 移動教室だって、子供みたいにわくわくしていた。

 ずっと病院にこもっていたら気付かなかったことばかり。
 私、ここに来てよかった。

「……でもやっぱり、私は諦めちゃうかな」

 いい会話の流れを、私は容赦なく切った。
 穂村くんは驚き、顔を顰める。
 そうなるのも当然だろう。

 だけど、ごめんなさい。
 私の人生は、諦めるためにあるようなものなの。

 だって。

「だって私、二十歳まで生きられないから」

 穂村くんは、言葉を失っていた。