もし神様がいるなら、今すぐにでも現れろって思う。
なんでも願いを叶えよう、なんて言われた日には、僕は迷わず祈るよ。
また、君に会わせてほしい、と。
例えるなら、そう、闇。
私の人生には、光がない。
正確には、失われていった。
もう、光を見出すことができそうにない私の物語は、自らの絶望と周りの無意識によって、ただひたすら、暗闇に堕ちていく。
“元気になってね”
過去、何度その言葉を見たことか。
その言葉の傍には、知らない名前が並んで。
明るくて、元気な色紙を貰うと、惨めになって仕方なかった。
私だって、好きで入院してるわけじゃないんだよ。
そう思っても、もう、口にする気力はなかった。
さすがに色紙は小学生で終わって、中学生からはノートのコピーやプリントが届くようになった。
たまに、あの言葉が付箋に書かれていたくらい。
そして一ヶ月くらい前、一応高校生になったけど、今のところなにもない。
私の存在を、みんなが把握しているのかすら、怪しいと思う。
私なんて、そんなものだ。
「星那ちゃん、おはよう」
いつものように、朝食後、お母さんが買ってきてくれたファンタジー小説を読んでいると、美雨ちゃんがノックもなしに、ドアを開けた。
美雨ちゃんの身長からすれば、ドアの手すりは高いようで、一生懸命手を伸ばしてドアを開ける姿は可愛らしい。
「おはよう、美雨ちゃん」
私は本を閉じながら答える。
ベッドに近付いてくる美雨ちゃんの笑顔は、私には眩しすぎて、上手く笑い返せているか不安になる。
「あのね、今日、算数やりたいの」
美雨ちゃんが見せてくれたワークには『分数の足し算・引き算』と書かれている。
昔は教え方がわからなくて嫌いだった分数計算も、今や慣れたもの。
全く嬉しくない慣れを感じながら、私はベッドから降りる。
「じゃあ、お勉強ルームに移動しよっか」
私は美雨ちゃんと手を繋ぎ、病室を出る。
美雨ちゃんの歩幅に合わせてゆっくり歩くのは、嫌いじゃない。
「星那、おはよ」
「星那ちゃん、遊ぼ!」
「星那お姉ちゃん!」
小児科に近付くと、いろんなところから名前を呼ばれた。
長年ここに入院している私は、みんなのお姉さんらしい。
誰かに言われて、“お姉さん”をしているわけではない。
やっぱり誰かに必要とされたくて、私が勝手にみんなのお世話をしているだけ。
そんなことをしているうちに、看護師さんたちから「星那ちゃんはみんなのお姉さんだね」と言われてしまったのだ。
なんだか子供たちの世話係を押し付けられたような気もするけど、満更でもない私がいた。
「今日は美雨ちゃんとお勉強するから、また今度ね」
そう、きっと、私が周りの声を断って嬉しそうにする、今の美雨ちゃんと同じ気持ちだっただろう。
いや、美雨ちゃんよりもどす黒い、傲慢な思いだったかも。
そんなことを考えているうちに、お勉強ルームに到着した。
私がドアを開けると、美雨ちゃんは手を離して席に急ぐ。
朝イチということもあって、まだ誰もいない。
電気をつけ、美雨ちゃんの隣にある、私には小さすぎる椅子に座る。
美雨ちゃんは、それはもう楽しそうに、ワークを開いた。
美雨ちゃんはどちらかというと、算数が得意な子。
だから、少し教えるとスラスラと解き進められる。
ときどき私のほうを見てきたときは「よくできてる、大丈夫だよ」と声をかけてあげると、満面の笑みを返してくれる。
そんな、平和で穏やかな時間。
すごく、居心地がよくて私の心は癒されていた。
少しずつ人が増えてくると、美雨ちゃんの集中力は切れてしまった。
楽しそうな声に気を取られている。
「今日はこれくらいにしておこうか」
「うん! 星那ちゃん、ありがとう」
お礼をきちんと言ってくれる美雨ちゃんだけど、ワークをそのままにして、勉強ルームを出ていってしまった。
大人っぽいように見えて、まだまだ子供らしいところが残っているみたいだ。
そんな美雨ちゃんを可愛らしいと思いながら、寂しく置いていかれたワークを閉じる。
「星那ちゃん……あの、結芽も、お勉強……」
後ろの比較的若い看護師さんに背中を押されながら、結芽ちゃんは遠慮気味に言ってきた。
若干怯えているようにも見える少女から言われて、断れる人間がいるだろうか。
彼女もタチの悪いことをするものだ。
「いいよ、一緒に勉強しよっか」
そして結芽ちゃんとの勉強時間が終わると、美雨ちゃんに忘れ物を届けて、私は自分の部屋に戻ることにした。
たった二、三時間勉強ルームにいただけで疲れるなんて、どれだけ体力がないんだろう。
自分の身体を嫌に思いつつ部屋に着くと、知らない男の人がいた。
私の場所だというのに勝手に入って、窓の外を眺めている。
「……誰」
不審に思った私の声は低かった。
振り向いた彼は、優しそうな顔をしているけど、やっぱり知らない人だ。
「織部星那、さん?」
それなのに、彼が名前を知っていて、私はますます警戒した。
「僕、穂村洸太っていいます。織部さんと同じクラスで、プリントとかを持ってきました」
穂村くんは自分の鞄に手を入れる。
同じクラスで。
届けに来たのはプリント。
また、私に惨めな思いをさせるの?
「……帰って」
穂村くんは困惑している。
「私にはいらないから」
「でも、この課題をやらないと、卒業できないって先生が言って」
「だったら」
印象が悪くなることはわかっている。
でも、穂村くんと話していると、私はますます私のことを嫌いになりそうだった。
だから、強めに声を出して、穂村くんの言葉を遮った。
穂村くんは少しだけ、驚いている。
「だったら、先生が持ってくるべきでしょ。もう五月になる。それを今さら、貴方が持ってくるってことは、先生自身が忘れてたんじゃない? いいの、もう。どうせ学校には行けないし」
卒業式を迎える前に、死んじゃうかもしれないし。
「……なにそれ」
すると、不機嫌そうな声が聞こえてきた。
第一印象で優しそうだと思ったから、私は聞き間違いかと思った。
でも、目の前にいる穂村くんは、私に呆れた目を向けている。
さっきまでの彼は、仮面を被っていたらしい。
「悲劇のヒロイン気取り?」
鼻で笑いながら言った。
これは、嘲笑。
「は?」
私はその喧嘩を買うかのような応え方をした。
「学校がどうでもいいなら、なんで高校受験したんだよ」
「それは……」
穂村くんの鋭い指摘に、私は彼の目が見れなくなった。
私が高校受験をした理由。
通えなくなるってわかっていて、進学することを選んだ理由。
そんなもの、一つしかない。
眩しい世界に、憧れたから。
いつまでも闇の世界にいるのは、嫌だった。
でもやっぱり、神様は意地悪で。
二十歳まで生きられるかわからないと言われた私の身体は、高校に通うことに耐えられなかった。
「……ごめん、言い過ぎた。これ、置いとくから」
穂村くんはプリントの束をベッドに置いて私の横を去っていく。
私は、謝れなかった。
一人残された部屋でさっきの態度を悔いながら、穂村くんが置いていったプリントを手にする。
課題のプリントが数枚、そして、ノートのコピーが何枚もあった。
私はベッドのそばにただ存在しているだけの丸椅子に座り、プリントを広げていく。
古文、数学、物理、英語。
他の科目はなかった。
“重要!”
“ここはちょっと難しい……”
“覚えよう!”
“汚いノートでごめん。少しでも織部さんの助けになるといいな”
わかりやすいノートとは言えないのかもしれない。
だけど、付箋で付け加えられたたくさんの言葉。
穂村くんはこんなにも優しい言葉をくれたのに。
私は、なんて酷いことを言ってしまったんだろう。
すると、ノックの音と同時に、ドアが開いた。
担当医の希美先生が入ってくる。
「星那ちゃん、検診の時間……って、どうしたの?」
希美先生が驚いた顔をしているところを見るに、私は相当酷い顔をしていたのだと思う。
「先生、どうしよう……私、酷いこと言っちゃった……」
穂村くんはすぐに謝ってくれたのに。
私は、謝るどころか、穂村くんを追い返してしまった。
私、最低だ。
私がそれ以上言えないでいると、希美先生は私のそばに来た。
ベッドにはまだ、穂村くんが届けてくれたプリントが広げられている。
「……そっか。じゃあ、謝りに行かないとね」
「でも」
私が顔を上げると、希美先生は柔らかく微笑んでいた。
「最近は星那ちゃんの体調も安定しているみたいだし。学校。行ってもいいよ」
もう少し前に聞いていたら、素直に喜んでいたと思う。
でも今は、それだけじゃない。
私の視線はゆっくりと泳ぎ、そのまま足元に落ちた。
「星那ちゃんはこのままでいいの?」
ロボットのほうが滑らかに動くのではないかと思うほどぎこちなく首を横に振った。
自分の黒い感情を理由に、他者を傷付けた。
それはどうしたっていい気分にはならなくて。
どんどん暗い感情の沼に落ちていく感覚。
少しでもそこから抜け出せるのなら。
恐怖心なんて、抱いている場合じゃない。
「頑張って、星那ちゃん」
私が学校に行くことを決めたのは、言っていない。
それなのに、希美先生は私の表情だけでそれを読み取ったらしい。
さっきもそうだったけど、希美先生はエスパーなんじゃないかと勘違いしてしまうくらい、鋭い。
きっと、それだけ先生が私のことを見てくれているということなんだろうけど。
私にもそんな人がいるのだと思うと、心強い。
「ありがとう、希美先生」
希美先生は、優しい笑みを浮かべていた。
病院から許可が出て一週間。
私は久しぶりに自宅で朝を迎えた。
部屋の壁には、一度しか袖を通していないブレザータイプの制服が寂しくかけられている。
埃が被っていなかったり、皺がないところを見るに、お母さんがちゃんと手入れしてくれていたんだと思う。
高いお金を払って買ってくれた制服。
着る回数が少なくて申し訳ない気持ちでいっぱいになりそうだけど、それはきっとお母さんを困らせてしまう。
だから私は、整った制服を見て感謝をするべきなんだ。
絶対に、お母さんたちの前では申し訳なさそうな顔はしない。
そう心に決めて、私は部屋を出た。
「おはよう、星那」
食卓でコーヒーを飲んでいるお父さんが一番に声をかけてくれた。
「おはよう」
続いて、朝食の準備をしているお母さん。
私、家に帰って来たんだ。
そう感じるには十分すぎる日常だった。
「……おはよう」
そして、私の指定席に座ると、お母さんが朝食を運んできてくれた。
焼き鮭、卵焼き、みそ汁、白米。
美味しそうな匂いが鼻をくすぐる。
「いただきます」
手を合わせて、黒ベースで桜が描かれた箸を手にする。
不特定多数の患者用じゃなくて、私用。
なんてことない日常の連続に、泣きそうだ。
「……美味しい」
私が呟くように言うと、お母さんは目を潤わせて微笑んでいた。
それから自室に戻って、制服と睨み合う。
これは恐怖なのか。それとも、緊張なのか。
自分の感情のはずなのに、はっきりとはわからなかった。
新品同様の制服はまだ生地が硬くて、着心地が悪かった。
部屋にある姿見でおかしなところがないかを確認する。
ちゃんと、正しく着れている。
だけど、あまりに馴染んでいなくて、自分で笑ってしまった。
すると、ノックの音がした。
返事をすると、お母さんがドアを開け、顔を覗かせた。
「準備できた?」
「うん」
机の上に準備していたスクールバッグを持ち、部屋を出る。
玄関先には、ローファーが並べられていた。
足が痛くなるから履きたくないな、なんて思いながら、足を伸ばした。
お母さんが運転する車に揺られること十五分、学校の駐車場に到着した。
「星那、いいね? 無理は絶対しないこと」
「わかってる」
小学生のころは鬱陶しくて仕方なかったこの確認も、もはや日常会話。
私は忘れ物がないか確認をしながら返す。
「なにかあったら、すぐに保健室に行ってね」
「うん。じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
車を降りると、校門の方から楽しそうな声が聞こえてきた。
他の生徒が通学してきたのだろう。
私は急に、自分が受け入れられるのか、不安になってきた。
だけど、このまま立ち止まっていたら、お母さんに心配をかけてしまう。
自分を奮い立たせて、一歩、踏み出した。
一度しか訪れたことはないのに、意外と迷わなかった。
入学式のときに見て回ったとき、結構覚えていたらしい。
一年三組、三番。
記憶を頼りに教室に辿り着いたのはいいけど、入る勇気がなかった。
「織部さん?」
ドアに手を伸ばして固まっていると、横から名前を呼ばれた。
「……穂村くん」
知っている顔に出会ったことで、私は一気に安心した。
でも、穂村くんは少しだけ顔を顰めたように見えた。
それもそうか。
あんなことを言っておいて、いい印象を抱く人なんていない。
私は勝手に、唯一の味方のように思っていたみたいだ。
なんて都合のいい妄想だろう。
「学校、来たんだ」
冷たく感じる声で、穂村くんは会話を続けた。
「あ、うん……」
私の返答はぎこちなかった。
そして穂村くんは、私が開けられないでいたドアを、簡単に開けた。
「入らないの?」
たった一歩。
それが踏み出せなかった。
「洸太、おはよ!」
私が躊躇っていると、教室から明るい声が聞こえてきた。
「おはよ」
私を待っていてくれた穂村くんは、私に背を向けた。
初対面のときに聞いた明るい声だ。
みんな穂村くんに気付くと、どんどん挨拶を交わしていく。
病院にいるときの、私みたい。
だけど、穂村くんと私は違うように感じた。
年上だからという理由だけで頼られている私とは、絶対に違う。
「あれ? 転校生?」
ふと、声がした。
皆の視線が私に集中する。
同い年の人たちと関わることが少ないせいで、どう対応するのが正しいのか、私にはわからなかった。
できたのは、せいぜい目を逸らすことぐらいだ。
「違うよ。クラスメイトの織部さん」
穂村くんは訂正しながら、窓際から二列目の一番後ろの机に鞄を置いた。
私を転校生と言った彼は、私を見ながら穂村くんの席に近付いていく。
「ああ、ずっと休んでた子だ」
その通りだけど、そんなはっきりと言ってほしくなかった。
「舜、デリカシーなさすぎ」
穂村くんははっきりと言った。
彼は少し、申し訳なさそうにする。
気にしないで。事実だし。
そう、明るく返すことは私にはできなかった。
そしてその場から逃げるように、自分の席に着く。
廊下側の、前から三番目。
左側から視線を感じる。
こんなにも注目されてしまうなら、最初から保健室に行けばよかった。
居心地の悪さを感じながら、ただ始業時間を待つ。
そうだ、いつもの本を読もう。
そうすればきっと、少しは落ち着くだろうから。
「ねえねえ、織部さんの名前って、セナ? それとも、ホシナ?」
鞄に手を伸ばすと、前に座っていた女の子が声をかけてきた。
その表情からして、雑談のつもりだろう。
「……セナ、です」
「星那ちゃんか。私は和泉真保。よろしくね」
私は、和泉さんに笑顔を返せなかった。
「……よろしく」
みんなより先に死んでしまう私が、友達を作っていいのかという葛藤のせいで、印象の悪い返しになってしまった。
友達。
憧れていたのに。
「星那ちゃんもその本、読んでるの?」
印象が悪かったはずなのに、和泉さんは会話を続けてくれた。
少し気を使っているように見えるのは、気のせいではないと思う。
これは、チャンスだ。
卑屈になっている場合じゃない。
「私の、一番のお気に入りなの」
私が返すと、和泉さんに自然な笑顔が戻った。
それから始業のチャイムが鳴るまで、私は和泉さんと話していた。
あれだけ恐怖心を抱いていたのに、いつの間にか和らいでいた。
三時間目の授業は体育らしく、私は保健室に向かうことにした。
正直、少しだけ疲れていたから、休みに行くようなものだったりする。
だけど、一時間目の数学も、二時間目の物理も、和泉さんの存在と穂村くんのノートのおかげで、思っていた以上に楽しく授業を受けられた。
久々にこんな身体を呪ってしまいたくなるくらいには、楽しかった。
今日の体育はバスケらしい。
スポーツ、やってみたかったな。
「失礼します」
少し落ち込みながら、保健室のドアを開ける。
「織部さん、いらっしゃい」
白衣を着た藍田先生が優しく言った。
藍田先生とは、入学初日に挨拶をした以来だ。
「もう少し早くここに来ると思っていたけど……どう? 学校生活、楽しい?」
私は小さく頷きながら、ドアを閉める。
すると、藍田先生の小さな笑い声が聞こえた。
「ごめんなさい、照れているところが可愛くて、つい。なにか飲む?」
「水をお願いします」
藍田先生は冷蔵庫から水を取り出し、コップに注ぐ。
その間に、私は部屋の真ん中にある、一人で使うには広すぎる机のそばにある椅子に座った。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
藍田先生にお礼を言うと、ゆっくりと深呼吸をして、目を閉じる。
みんなが体育の授業を受けている声。
どこかのクラスで先生が説明をしている声。
風が葉を揺らす音。
鳥の鳴き声。
外の音がどれも、心地よく感じた。
私、ここに来てよかった。
和泉さんと出会えて、本当によかった。
「失礼します」
一人で余韻に浸っていると、ドアが開く音とともに、声が聞こえた。
目を開けると、声の主、穂村くんと目が合う。
一気に現実に引き戻されたような感覚がした。
「どうしたの?」
私たちが言葉を交わすより先に、藍田先生が穂村くんに声をかけた。
「外でサッカーしてたらこけてしまって」
穂村くんが下を見たから、つられて視線を向けると、左膝から血が出ている。
とても痛そうで、つい顔が強張ってしまった。
「随分と派手に怪我したのね。座って待ってて」
藍田先生に言われ、穂村くんはすぐそばにあるソファに腰を下ろした。
一方的に気まずさを感じて、私は水面を見つめる。
藍田先生が怪我の手当てをする道具を集める音だけが響いている。
「……サボり?」
ふと、穂村くんが言った。
教室で注意をしていた人物と、本当に同一人物なのか、疑ってしまうような言葉だった。
穂村くんこそ、デリカシーを備えるべきだと思う。
「……違うよ」
なぜか、病院のときみたいに強く言い返すことができなかった。
穂村くんが興味なさそうな相槌を打つと、藍田先生が戻ってきた。
先生は私たちの会話には一切触れず、慣れた手つきで穂村くんの怪我の手当てをしていく。
「どうしたら、授業始まってすぐにこんな怪我になるの?」
嫌味ではなく、純粋な疑問。
先生の表情は見えないけれど、声色でそう感じた。
「あー……軸足、ずらされてそのままこけたというか」
穂村くんは笑っているけど、私にはなにかを隠しているかのように見えた。
でも、気になって聞いたところで、私に教えてくれるとは思えない。
私は見なかったことにして、手を付けていなかった水を飲んだ。
「さて、どうする? 授業に戻る?」
藍田先生が立ち上がりながら聞くと、穂村くんは一瞬、私のほうを見た。
様子を伺うというより、少し睨んでいるような感じ。
「はい、戻ります」
笑顔の仮面を張り付けて、穂村くんは言った。
私がいるから休みたくないって言いたいのかな。
あのときの態度は確かに悪かったと思うけど、ここまで根に持つ穂村くんは、器が小さいのかもしれない。
もはや呆れていると、穂村くんが足を引き摺るように歩いているのに気付いてしまった。
「……無理、しないほうがいいと思う」
躊躇いつつも言うと、穂村くんは少し驚いた表情をして、私を見た。
「無理をすると、余計に酷くなるから」
それは穂村くんに言っているようで、自分のことを言っているだけだった。
この考え方が染み付いているから、私はすぐに諦めてしまう癖がついたのかな、なんて勝手に苦しくなる。
「……じゃあ、少しだけ休んでていいですか」
「もちろん」
藍田先生が言うと、穂村くんはソファに戻った。
微妙な距離感は相変わらず、か。
だけど、あのときのことを謝るなら、今がチャンスだろう。
そう思ったのに、上手く声が出せなかった。
室内には藍田先生がペンを走らせる音しかない。
このまま静かな時間が流れて、変な緊張感から解放されるのを待つしかないのか。
私は、なんのために学校に来た?
明日学校に来れる保証なんて、私にはないのに。
「……病院では、嫌な態度をとって、ごめんなさい」
穂村くんに、聞こえただろうか。
自分でも不安になるくらい、声が小さかった。
「……僕も、勢いで酷いこと言ってごめん。織部さんが過去の、僕が一番嫌いだったころの自分に似てたから……つい……」
穂村くんの過去。
気になったけれど、踏み込んでもいいのか、わからなかった。
でもやっぱり、私が嫌われていることに変わりはないらしい。
さすがに、誰かに嫌われたまま人生を終えるのは、嫌だ。
「どこが、似てたの?」
「……全部、諦めてるところ」
ふと穂村くんのほうを向くと、穂村くんは私の全てを見透かしたような目をしていた。
私は思わず目を逸らしてしまう。
全部を諦めているから。
それなら、嫌われても仕方ないか。
「でも、織部さんも諦めたくない人なのかなって、少し思った」
穂村くんの中で私の印象が少し良くなっていて、驚いた。
今、嫌われている事実を受け入れたところなのに。
「だってほら、学校なんてどうでもいいって言ってたのに、来たでしょ。和泉とも打ち解けてたし」
穂村くんの表情が柔らかくなった気がした。
「諦めなかったら、案外いいことがあると思わない?」
「それは、ちょっとだけ……」
諦めていた学校での生活。
授業は難しかったけど、先生の雑談は面白かった。
和泉さんが私と仲良くしてくれた。
移動教室だって、子供みたいにわくわくしていた。
ずっと病院にこもっていたら気付かなかったことばかり。
私、ここに来てよかった。
「……でもやっぱり、私は諦めちゃうかな」
いい会話の流れを、私は容赦なく切った。
穂村くんは驚き、顔を顰める。
そうなるのも当然だろう。
だけど、ごめんなさい。
私の人生は、諦めるためにあるようなものなの。
だって。
「だって私、二十歳まで生きられないから」
穂村くんは、言葉を失っていた。
「星那ちゃん、今から予定ある? 親友にクレープ食べに行かないかって誘われてて、星那ちゃんもどうかなって」
放課後になり、先に準備を終えた和泉さんが、リュックを背負いながら言った。
放課後の、寄り道。
憧れの塊だ。
だけど、私が行けるはずもなく。
「ごめん、今日はちょっと予定があって」
「そっか。じゃあ、また明日ね」
そして和泉さんは教室を出て行った。
“また明日”
私はその言葉を返せなかった。
返してもいいのか、わからなかった。
この思考回路はどうしたって捨てられない。
少し自己嫌悪に陥りながら、帰りの支度を進める。
「織部さん」
すると、穂村くんに声をかけられた。
保健室で話してからずっと、穂村くんは悩んでいる様子だった。
そんなに抱え込まれるとは思っていなかったから、申し訳なく感じていたところだった。
「そんな暗い顔しないで。ごめんね、重たい話して。忘れていいよ」
私がみんなより先に死んじゃうことも、私のことも。
本当、なんであんなこと言ったんだろう。
言われたほうは悩むに決まっているのに。
この期に及んで、私は誰の記憶に残りたかったのだろうか。
そんな浅ましい自分を心で嘲笑いながら、私は席を立つ。
「織部さんの、やりたいことってなに?」
教室を出ようとしたときに聞こえた言葉。
どうしてそんなことを言うのだろう。
そんなことを思いながら、思い返す。
私が、やりたいこと。
そんなものたくさんあるし、たくさん諦めた。
振り向くと、穂村くんはなんだか切羽詰まったような顔をしている。
「……忘れちゃった」
そして私は今度こそ、教室をあとにした。
◆
あんなにも切なそうな、こっちの胸を締め付けてくるような笑みを見たのは、初めてだ。
「洸太、ああいう子がタイプ?」
織部さんのさっきの表情が頭にこびりついて動けないでいると、舜が背後から言った。
少し振り向くと、僕と同じく、織部さんが出ていったドアをまっすぐ見ている。
「別に、そういうのじゃないから。てか、こんなところで油売ってていいのかよ。部活、遅れるだろ」
「今日こそ、洸太を連れていこうと思って」
諦めの悪い舜に、ため息しか出ない。
「何度も断ってるだろ」
「でも、今日の授業でいいプレーしてたじゃん」
すぐ転けて抜けたあれの、どこがいいプレーだったと言うのか。
「僕はもう、サッカーはしない」
「あ、おい」
舜が引き留めようとする声を無視して、僕は教室を出る。
去年、引退試合の直前に怪我をして以来、サッカーから離れた生活を送ってきた。
久しぶりに今日サッカーやってみてわかったけど、周りより長くサッカーから離れていた僕は、きっと高校の部活にはついていけない。
それがわかっていて、入部なんてできるわけがない。
そしてなにより、また好きなことができなくなるかもしれないという恐怖に怯えながらサッカーをするのは、嫌だ。
ああ、そうか。
織部さんはきっと、こういう恐怖心と戦って、打ち勝ったのに、叶わないことが何度もあったんだろう。
「それは、全部諦めるよなあ……」
僕の独り言は、横を通り過ぎていく車の音にかき消される。
織部さんの恐怖心と絶望感は、僕なんかに想像できるわけがない。
ふと、僕は彼女に投げつけてしまった言葉を思い出した。
『なんで高校受験したんだよ』
高校生になりたかったからに決まってるだろ。
『全部、諦めてるところ』
きっと、諦めるしか、なかったんだ。
“……忘れちゃった”
織部さんの、あの表情が過ぎる。
「……デリカシーがないのは、僕も同じか」
過去の愚かな僕を嘲笑う。
信号で立ち止まり、見上げた空は、青く広い。
違うでしょ、織部さん。
君は、やりたいことを忘れてなんかないはずだ。
だって君は、学校に来ただろう。
和泉と笑いあっていただろう。
諦めなければいいことがあるって、頷いたじゃないか。
気付けば僕は、織部さんを笑顔にしたい、なんて思っていた。
◆
家に帰ると、私は自室でルーズリーフとお気に入りのシャーペンを机の上に並べた。
『織部さんの、やりたいことってなに?』
穂村くんの言葉を思い出しながら、シャーペンを手にする。
カチカチと音を立て、シャー芯を出す。
“死ぬまでにやりたいことリスト”
一番上のタイトル欄に書き入れる。
過去に何度か作って、ほとんど達成できなくて何度も捨ててきた、やりたいことリスト。
また書く日が来るとは思わなかった。
“学校に行く”
“みんなと授業を受ける”
“友達を”
そこまで書いて、すでに叶えたことを書いていることに気付いた。
この三つが一日で消化されたなんて、数ヶ月前の私に言っても信じないと思う。
今書いた三つを横線で消して、今の私がやりたいことを思い浮かべる。
“友達と勉強する”
ずっと、同級生のノートを見ながら勉強してきた。
誰かと勉強する機会は、もう、年下のお世話しかなくて。
叶うなら、和泉さんと勉強を教え合いたい。
“図書室に行く”
学校の図書室。
ちゃんと理由を言えと言われると難しいんだけど、なぜか、その場所に憧れを抱いている私がいた。
読んだことのない本を、読んでみたいのかもしれない。
“学校行事に参加する”
見学、もしくは休む。
学校行事は、そんな記憶しかない。
だからこそ、できるのなら、私もみんなと一緒になにかをしたい。
“海に行く”
写真でしか見たことがない、海。
入りたいとは思わない。
ただ、この目で見てみたい。
“恋をする”
「……これはないか」
そう思ったのに、私はそれを消せなかった。
しかし見返してみると一貫して“青春”というものに憧れているのがわかる。
といっても、この五つを叶えることが、私には難しい話。
どうせ叶わない。
そんな考えがよぎって、ルーズリーフを丸めようと、手を伸ばした。
『諦めなかったら、案外いいことがあると思わない?』
穂村くんの言葉で、私はいつものように諦めることを躊躇った。
私はそれをバインダーにしまい、席を離れた。
翌日の昼休み、私は図書室を訪れた。
外からいろいろな声が聞こえてくるのに、ここだけとても静かで、どこか別世界に迷い込んだような気がした。
ほかにも生徒はいたけど、互いに無関心のようなここは、私にとって居心地がよく思えた。
自分よりも背の高い本棚を見上げながら、背表紙を眺めていく。
ときどき物語の世界だけじゃなくて、専門書のようなものもあって、なんだか心が躍った。
半分くらい見終えたとき、私のお気に入りの小説を見つけた。
自分で持っているくせに、つい、手を伸ばした。
たくさんの人に読み込まれた本は、私のよりも温かいものに思えた。
その不思議な感覚が新しくて、私は興味を惹かれる本を探した。
タイトルや背表紙が気になるものを手にしては、あらすじを読んで本棚に戻す。
「なに、してるの」
無意味なようで、有意義な時間を過ごしていると、そんな私を不審がるような小さな声が聞こえた。
そこには予想通り、穂村くんがいる。
私は一瞥すると、次の本を探すために一歩踏み出す。
「新しい世界探し」
穂村くんからは、興味のなさそうな声が返ってくる。
穂村くんのほうこそ、なにをしに来たんだろう。
気にはなったけど、聞こうとは思わなかった。
「これ、読んだ?」
すると、穂村くんは本棚から一冊の本を抜き出した。
さっき流し見をしたところだ。
『朝露』
知らないタイトルだった。
私は首を横に振る。
「結構面白かったよ」
穂村くんがおすすめしてくれるなんて、予想外すぎる。
とても、本を読むような人には見えなかったから。
「……余計なお世話、か」
穂村くんは少し残念そうに、本を元の場所に戻そうとする。
「待って」
私は手を差し出す。
「読みたい」
ずっと、自分で物語を探していただけだった。
気になる本を、お母さんに買ってきてもらって、一人でその世界に浸って来た。
もちろん、それは楽しかったし、不満なんてなかった。
だけど、誰かに世界を広げてもらうのも、面白いのかもしれない。
きっと、見たことのない楽しみが待っている。
穂村くんは私の手のひらにその本を置いた。
「それ、借りるよね。借り方わかる?」
借りて、家で読む。
それが普通なのかもしれないけど、私はこの部屋で読んでみたかった。
「……いや、放課後、ここで読む」
そして私はその本を本棚に戻した。
それからすぐに昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
私たちは図書室を後にし、並んで教室に戻る。
「そういえば、どうしてここに来たの?」
穂村くんはすぐには答えない。
穂村くんは昨日、私にやりたいことはないか、と聞いてきた。
それは、私の寿命を知ったからだろう。
ということは、こんなにも私を気にかけるのは。
「……同情?」
変な間のせいで、余計な考えが浮かんでしまった。
穂村くんを困らせるだけなのに、私は嫌な言い方をした。
「……かも、ね」
いつもとは違う返答に、私のほうが困ってしまった。
たいてい、そんなことはないと否定されるのに。
「やりたいこと、思い出した?」
「言わない」
同情して接してくるような人に、教えるものか。
あのリストは、私の力で叶えてみせる。
ここで、本当なら、穂村くんを置いてさっさと教室に戻りたいところだけど、そんなことはできなくて。
穂村くんと歩いているうちに、私は気付いてしまった。
穂村くんが、私の歩幅に合わせてくれている。
同情だとしても、これほど優しさを向けられたのは、初めてかもしれない。
どうして、私はあんなに可愛げのない態度をとってしまったんだろう。
この流れでお礼なんて、言えない。
「なにか困ったことがあったら、遠慮なく僕を使ってくれていいから」
どうしてそんなに優しくしてくれるの。
教室に着いてしまったことで、私はその質問を飲み込んだ。
どうせ、同情だと言われてしまうだろうし、聞かなくてよかったのかもしれない。
そんなことを思いながら、私は自分の席に着いた。
それから五時間目の授業を受けていると、私は身体の違和感に気付いた。
明らかに、おかしい。
さっきまでなんともなかったのに。
あれ……お昼の薬、飲んだっけ……
「先生、織部さんが体調悪そうなんで、保健室に連れて行ってきます」
すると、穂村くんが声を上げた。
それによって、みんなが私に注目する。
「星那ちゃん、大丈夫?」
和泉さんはすぐに振り向き、心配そうな顔をした。
「うん、だい……」
「大丈夫じゃないでしょ」
穂村くんに遮られ、私は言い返せなかった。
そして穂村くんに支えられながら、私は保健室に移動する。
「……ありがとう」
この優しさが、同情じゃなかったらよかったのに。
私はお礼を言いながら、そう、願ってしまった。
あれから体調を悪化させてしまった私は、夕方、病院に連れていかれ、そのまま病院生活に逆戻りしてしまった。
自業自得とはいえ、今回は入院したくなかった。
穂村くんがおすすめしてくれた本、読めなかった。
慣れたはずのベッドの上は、退屈どころか、ますます私を絶望の淵に落としていく。
もうすっかり日は暮れて、カーテンが閉められている。
今日は上手く寝付けなくて、私はベッドから降りてカーテンを開けた。
黒い空の中に、月が一つ、輝いている。
どうして綺麗なものを見ていると心が満たされるだけでなく、涙がこぼれそうになるんだろう。
もう強がらなくてもいいよ。
そんなふうに言われているような気がして、私は涙を堪えるのを辞めた。
光のない人生だった。
光に憧れた人生だった。
奪われるばかりで、たくさん諦めてきた。
せっかく見つけた楽しみも、こんなに簡単に奪われる。
「もう、私からなにも奪うな、バカ……」
私のか細い声は、闇に攫われていった。
◆
また、織部さんの席が空席になった。
「星那ちゃん、また来なくなっちゃった。洸太、なにか知ってる?」
和泉は寂しそうに織部さんの席を見つめている。
織部さんは、和泉には病気の話をしていなかったらしい。
「……さあ」
勝手に話していい内容でもなくて、僕は曖昧に誤魔化すことしかできなかった。
放課後になると、僕は家に戻って自分の本棚から『朝露』を取り出した。
少しでも、彼女のやりたいことを叶えたい。
そう願う僕にできることは、これくらいしかなかった。
数週間前に訪れた病院。
今回は迷わなかった。
「星那、元気出せー」
織部さんの病室に向かう途中、少年の声が聞こえた。
声がしたほうを見ると、子供たちが織部さんを囲み、心配そうに見上げている。
織部さんは、魂が抜けたように見えた。
「……こんにちは」
僕が声をかけると、織部さんの視線はゆっくりと動く。
焦点が合っていなかったように感じた視界に、おそらく僕が写った。
「穂村くん……」
織部さんは泣きそうな声で言った。
彼女がやりたいことを忘れたと言った理由。
それを、今ようやく理解した気がした。
「……これ、持ってきた」
僕は鞄から本を取り出す。
少しだけ、織部さんの目に光が宿ったように思えた。
「ごめん、みんな。今日は遊べない」
織部さんはそう言いながら、僕のもとに来る。
そして僕たちは織部さんの病室に向かった。
織部さんはまるで家のようにリラックスしている。
彼女がベッドに腰かけると、僕は本を渡した。
「ありがとう、穂村くん」
僕は、思わず織部さんの笑顔から顔を背けてしまった。
こんなにも喜んでくれるとは思わなかった。
「それ、僕のだから、いつ返してくれてもいいよ」
「そうなの? じゃあ、大切に読む」
なんだか、毒気が抜けたみたいだ。
本当の彼女は、とても穏やかな子なのかもしれない。
「あの、さ。やっぱり、織部さんのやりたいこと、教えてよ。全部、叶えよう」
織部さんは少し悩んで、ベッドのそばにある勉強道具の山からバインダーを手にした。
そして一枚のルーズリーフを取り出すと、僕に差し出した。
“死ぬまでにやりたいことリスト”
学校に行く。
授業を受ける。
友達を……作る、だろうか。
友達との勉強。
図書室に行く。
学校行事への参加。
海に行く。
そして、恋をする。
どれも、僕たちの当たり前の日常だ。
だけど、どれも彼女にとっての当たり前じゃない。
「もう、全部叶わないけどね」
僕が目を通し終えると同時に、織部さんはまた泣きそうに笑いながら言った。
「そんなことは」
ない、と無責任には言えなかった。
「たった二日。いや、一週間かな。そんな短い間に、私の身体は一気に病に蝕まれたんだって。だから、今までの薬で抑え込むことができなかったみたいで。本当、世界は残酷だよね」
ああ。
神様は、意地悪だね。
思うことはたくさんあるのに、僕は声が出せなかった。
「……やっぱり、困るよね。ごめん」
織部さんは僕の手からルーズリーフを取り戻そうと、手を伸ばす。
僕は思わず手を引っ込めた。
「勉強、しよう。まだ叶えられるよ」
慌てて提案したから、織部さんは驚いている。
だけど、すぐに表情を和らげた。
「また、同情?」
「違う。……違うんだ」
あのときだって、違ったんだ。
君をかわいそうだと思って、いろいろしているわけじゃない。
君のために、僕がしたいと思ったんだ。
それが照れくさくて、素直に言えなかっただけ。
「穂村くんは優しいね」
そう言って、織部さんは微笑む。
ねえ、織部さん。
君の恋の相手は、僕じゃダメかな。
なんて、言えそうになかった。
例えるなら、そう、夜。
闇というよりは、星が煌めく夜。
暗いけれど、明るさを秘めている。
そんな感じ。
ただ、出会ったころは、夜に雨が降っているみたいな感じだったな。
だけど、君には朝も似合うと思うんだ。
ねえ、織部さん。
僕は君の叶えたいことを叶えられたかな。
どれだけ聞きたくても、もう君には聞けないなんて、僕はいまだに信じられない。
君がいなくなって、一年が経つ。
織部さんがやりたいことリストに書いていた海に来てみたけど、一人だとなにも楽しくないよ。
「僕も、織部さんと来たかったな……」
この世界には存在しない君の姿を探し求めて、僕は何度も神を呪った。
僕の大切な人を、あんなにも簡単に奪い去っていくなんて。
残酷にもほどがある。
“海、綺麗だね”
波音を聞きながら遠くを眺めていると、ふと、織部さんの声を思い出した。
いや、これは僕の妄想か。
だって彼女は、僕のそばで海を見たことがないのだから。
「……うん、綺麗だ」
それをわかっていながら、僕は、織部さんに応えた。
“入りたいな”
「ダメだよ、君は……」
今までの癖で言っていたけど、すぐに気付いた。
これは織部さんであって、織部さんじゃない。
「……いや、入ろう」
僕は靴と靴下を脱ぎ、海水に足をつける。
波が戻っていくときに砂まで流されて、それが指の間を通り抜けていくのは、気持ちが悪い。
だけど、今日みたいな温かい気温の中で海に入るのは、とても気持ちがよかった。
ふと足元から視線を上げると、地平線がどこまでも続いていた。
こんなにも広い世界なのに、やっぱり、君はいない。
『穂村くん、私のことは、忘れてね』
彼女の最後に近い言葉は、それだった。
どうして忘れられると思ったんだろう。
だって僕は。
「僕は、織部さんのことが好きだったんだよ……」
忘れられる、わけがない。
僕だけじゃない。
和泉だって、君がいなくなって酷く落ち込んでいたんだ。
かつて味わった絶望とは比べものにならないほどの闇から、ようやく抜け出せたところなのに。
彼女は平気で僕の記憶の中に現れる。
“私も、穂村くんのことが好きだったよ”
「え……」
いや、これはさすがに妄想がすぎる。
そんなことまで考えてしまう僕自身を、鼻で笑う。
織部さんが僕のことをどう思っていたのかは、もう知りようがない。
だけど、彼女は間違いなく僕の世界にいた。
僕の心に、まだいるんだ。
「ねえ、織部さん。織部さんのやりたいことって、なに?」
織部さんは楽しそうにやりたいことを想像している。
雨上がりの朝のように、明るく笑うようになった君と、これからも。