例えるなら、そう、闇。
 私の人生には、光がない。
 正確には、失われていった。
 もう、光を見出すことができそうにない私の物語は、自らの絶望と周りの無意識によって、ただひたすら、暗闇に堕ちていく。

“元気になってね”

 過去、何度その言葉を見たことか。
 その言葉の傍には、知らない名前が並んで。
 明るくて、元気な色紙を貰うと、惨めになって仕方なかった。

 私だって、好きで入院してるわけじゃないんだよ。

 そう思っても、もう、口にする気力はなかった。

 さすがに色紙は小学生で終わって、中学生からはノートのコピーやプリントが届くようになった。
 たまに、あの言葉が付箋に書かれていたくらい。

 そして一ヶ月くらい前、一応高校生になったけど、今のところなにもない。
 私の存在を、みんなが把握しているのかすら、怪しいと思う。

 私なんて、そんなものだ。

星那(せな)ちゃん、おはよう」

 いつものように、朝食後、お母さんが買ってきてくれたファンタジー小説を読んでいると、美雨(みう)ちゃんがノックもなしに、ドアを開けた。
 美雨ちゃんの身長からすれば、ドアの手すりは高いようで、一生懸命手を伸ばしてドアを開ける姿は可愛らしい。

「おはよう、美雨ちゃん」

 私は本を閉じながら答える。
 ベッドに近付いてくる美雨ちゃんの笑顔は、私には眩しすぎて、上手く笑い返せているか不安になる。

「あのね、今日、算数やりたいの」

 美雨ちゃんが見せてくれたワークには『分数の足し算・引き算』と書かれている。
 昔は教え方がわからなくて嫌いだった分数計算も、今や慣れたもの。
 全く嬉しくない慣れを感じながら、私はベッドから降りる。

「じゃあ、お勉強ルームに移動しよっか」

 私は美雨ちゃんと手を繋ぎ、病室を出る。
 美雨ちゃんの歩幅に合わせてゆっくり歩くのは、嫌いじゃない。

「星那、おはよ」
「星那ちゃん、遊ぼ!」
「星那お姉ちゃん!」

 小児科に近付くと、いろんなところから名前を呼ばれた。
 長年ここに入院している私は、みんなのお姉さんらしい。
 誰かに言われて、“お姉さん”をしているわけではない。
 やっぱり誰かに必要とされたくて、私が勝手にみんなのお世話をしているだけ。

 そんなことをしているうちに、看護師さんたちから「星那ちゃんはみんなのお姉さんだね」と言われてしまったのだ。
 なんだか子供たちの世話係を押し付けられたような気もするけど、満更でもない私がいた。

「今日は美雨ちゃんとお勉強するから、また今度ね」

 そう、きっと、私が周りの声を断って嬉しそうにする、今の美雨ちゃんと同じ気持ちだっただろう。
 いや、美雨ちゃんよりもどす黒い、傲慢な思いだったかも。

 そんなことを考えているうちに、お勉強ルームに到着した。
 私がドアを開けると、美雨ちゃんは手を離して席に急ぐ。
 朝イチということもあって、まだ誰もいない。
 電気をつけ、美雨ちゃんの隣にある、私には小さすぎる椅子に座る。
 美雨ちゃんは、それはもう楽しそうに、ワークを開いた。

 美雨ちゃんはどちらかというと、算数が得意な子。
 だから、少し教えるとスラスラと解き進められる。
 ときどき私のほうを見てきたときは「よくできてる、大丈夫だよ」と声をかけてあげると、満面の笑みを返してくれる。
 そんな、平和で穏やかな時間。
 すごく、居心地がよくて私の心は癒されていた。

 少しずつ人が増えてくると、美雨ちゃんの集中力は切れてしまった。
 楽しそうな声に気を取られている。

「今日はこれくらいにしておこうか」
「うん! 星那ちゃん、ありがとう」

 お礼をきちんと言ってくれる美雨ちゃんだけど、ワークをそのままにして、勉強ルームを出ていってしまった。
 大人っぽいように見えて、まだまだ子供らしいところが残っているみたいだ。

 そんな美雨ちゃんを可愛らしいと思いながら、寂しく置いていかれたワークを閉じる。

「星那ちゃん……あの、結芽(ゆめ)も、お勉強……」

 後ろの比較的若い看護師さんに背中を押されながら、結芽ちゃんは遠慮気味に言ってきた。
 若干怯えているようにも見える少女から言われて、断れる人間がいるだろうか。
 彼女もタチの悪いことをするものだ。

「いいよ、一緒に勉強しよっか」

 そして結芽ちゃんとの勉強時間が終わると、美雨ちゃんに忘れ物を届けて、私は自分の部屋に戻ることにした。
 たった二、三時間勉強ルームにいただけで疲れるなんて、どれだけ体力がないんだろう。
 自分の身体を嫌に思いつつ部屋に着くと、知らない男の人がいた。
 私の場所だというのに勝手に入って、窓の外を眺めている。

「……誰」

 不審に思った私の声は低かった。
 振り向いた彼は、優しそうな顔をしているけど、やっぱり知らない人だ。

織部(おりべ)星那、さん?」

 それなのに、彼が名前を知っていて、私はますます警戒した。

「僕、穂村(ほむら)洸太(こうた)っていいます。織部さんと同じクラスで、プリントとかを持ってきました」

 穂村くんは自分の鞄に手を入れる。

 同じクラスで。
 届けに来たのはプリント。

 また、私に惨めな思いをさせるの?

「……帰って」

 穂村くんは困惑している。

「私にはいらないから」
「でも、この課題をやらないと、卒業できないって先生が言って」
「だったら」

 印象が悪くなることはわかっている。
 でも、穂村くんと話していると、私はますます私のことを嫌いになりそうだった。
 だから、強めに声を出して、穂村くんの言葉を遮った。
 穂村くんは少しだけ、驚いている。

「だったら、先生が持ってくるべきでしょ。もう五月になる。それを今さら、貴方が持ってくるってことは、先生自身が忘れてたんじゃない? いいの、もう。どうせ学校には行けないし」

 卒業式を迎える前に、死んじゃうかもしれないし。

「……なにそれ」

 すると、不機嫌そうな声が聞こえてきた。
 第一印象で優しそうだと思ったから、私は聞き間違いかと思った。
 でも、目の前にいる穂村くんは、私に呆れた目を向けている。

 さっきまでの彼は、仮面を被っていたらしい。

「悲劇のヒロイン気取り?」

 鼻で笑いながら言った。
 これは、嘲笑。

「は?」

 私はその喧嘩を買うかのような応え方をした。

「学校がどうでもいいなら、なんで高校受験したんだよ」
「それは……」

 穂村くんの鋭い指摘に、私は彼の目が見れなくなった。

 私が高校受験をした理由。
 通えなくなるってわかっていて、進学することを選んだ理由。
 そんなもの、一つしかない。

 眩しい世界に、憧れたから。

 いつまでも闇の世界にいるのは、嫌だった。
 でもやっぱり、神様は意地悪で。
 二十歳まで生きられるかわからないと言われた私の身体は、高校に通うことに耐えられなかった。

「……ごめん、言い過ぎた。これ、置いとくから」

 穂村くんはプリントの束をベッドに置いて私の横を去っていく。
 私は、謝れなかった。

 一人残された部屋でさっきの態度を悔いながら、穂村くんが置いていったプリントを手にする。
 課題のプリントが数枚、そして、ノートのコピーが何枚もあった。
 私はベッドのそばにただ存在しているだけの丸椅子に座り、プリントを広げていく。
 古文、数学、物理、英語。
 他の科目はなかった。

“重要!”
“ここはちょっと難しい……”
“覚えよう!”

“汚いノートでごめん。少しでも織部さんの助けになるといいな”

 わかりやすいノートとは言えないのかもしれない。
 だけど、付箋で付け加えられたたくさんの言葉。
 穂村くんはこんなにも優しい言葉をくれたのに。
 私は、なんて酷いことを言ってしまったんだろう。

 すると、ノックの音と同時に、ドアが開いた。
 担当医の希美(のぞみ)先生が入ってくる。

「星那ちゃん、検診の時間……って、どうしたの?」

 希美先生が驚いた顔をしているところを見るに、私は相当酷い顔をしていたのだと思う。

「先生、どうしよう……私、酷いこと言っちゃった……」

 穂村くんはすぐに謝ってくれたのに。
 私は、謝るどころか、穂村くんを追い返してしまった。

 私、最低だ。

 私がそれ以上言えないでいると、希美先生は私のそばに来た。
 ベッドにはまだ、穂村くんが届けてくれたプリントが広げられている。

「……そっか。じゃあ、謝りに行かないとね」
「でも」

 私が顔を上げると、希美先生は柔らかく微笑んでいた。

「最近は星那ちゃんの体調も安定しているみたいだし。学校。行ってもいいよ」

 もう少し前に聞いていたら、素直に喜んでいたと思う。
 でも今は、それだけじゃない。

 私の視線はゆっくりと泳ぎ、そのまま足元に落ちた。

「星那ちゃんはこのままでいいの?」

 ロボットのほうが滑らかに動くのではないかと思うほどぎこちなく首を横に振った。

 自分の黒い感情を理由に、他者を傷付けた。
 それはどうしたっていい気分にはならなくて。
 どんどん暗い感情の沼に落ちていく感覚。
 少しでもそこから抜け出せるのなら。
 恐怖心なんて、抱いている場合じゃない。

「頑張って、星那ちゃん」

 私が学校に行くことを決めたのは、言っていない。
 それなのに、希美先生は私の表情だけでそれを読み取ったらしい。
 さっきもそうだったけど、希美先生はエスパーなんじゃないかと勘違いしてしまうくらい、鋭い。
 きっと、それだけ先生が私のことを見てくれているということなんだろうけど。
 私にもそんな人がいるのだと思うと、心強い。

「ありがとう、希美先生」

 希美先生は、優しい笑みを浮かべていた。