宴会場は一瞬静寂に包まれた。
――――そして静寂を切るように弥那花が叫び出した。
「きゃぁぁぁっ!わ、わ、私のお着物が……全身醤油まみれ……醤油くさい……っ」
「醤油のかぐわしい匂いをくさいとは……失敬な……っ!」
でも全身醤油水玉漬けなわけだし……。
「そうだ。宴には醤油のために刺身も出るのだぞ。醤油も大豆からできている。たーんと味わうがよい」
「え……?あ、うん……?」
醤油と言えばお刺身につけて食べる……。実家では私の分なんてなくて、全部弥那花が食べていたっけ。鬼の屋敷に来てからは私は雑用で、一汁一菜出ればいい方だったからお刺身なんて食べたことがないけど。
「何……っ、だと……っ!?」
八雲が驚いたようにこちらを見ている。
「それならそれで、壱花の初醤油初刺身!俺が堪能できるのだな」
醤油は……初ではないのだけど。
でも、八雲と近付いた席には、未だに弥那花と白玻がいる。
近寄るのが……恐い。
そして弥那花と白玻の視線が突き刺さり、動けなくなる……っ。
「……っ」
しかしそんな時でさえ、八雲の声で我に還る。
「うん?いつまでそこにいる。とっとと失せよ」
八雲が冷たく告げれば、白玻の顔が青ざめる。
しかし反対に弥那花はかあぁぁっと顔を赤くする。
「ちょっと、この間も、今回も、私のための宴をめちゃくちゃにして……アンタ、何なのよ!落花生なんて背負っちゃって、何その殻。鬼のくせに落花生の呪いにでもかかってるの?だっさぁっ」
弥那花は標的を私から八雲に変更したのだ。どうやら八雲をどうにかすれば、この状況を打開できると踏んだらしい。でも、八雲をバカにされるのは……。今までは私に対してだったから我慢できたけど、私を選んでくれた八雲をバカにするのは……許せない……っ!
「あの……っ」
声を絞りだそうとしたその時だった。
「貴様は……今決して許されないことを言ったと……分かっているのか……?」
八雲の周りにふわりと舞い上がる、凍てつく冷気。お……怒ってる……。今までの弥那花の言動に対する怒りよりも、もっともっと……何か根本的なものが違う……怒り。
「お……お許しください!ち、違うのです!これはその、その卑しい女……壱花のせい……っ」
白玻が躍り出る。いつも都合の悪い時は、私のせいだった。私の知らないことまで、私のせいにしてきた白玻。今回も……また私のせいにするのか……っ。
しかし白玻の言葉は途中で途切れる。
「壱花の名を呼ぶな。貴様に壱花の名を呼ぶことを許してはいない」
許さなかったのはむしろ……白玻だったであろうに。道具に名はいらないと私の名前を私自身が名乗ることすら禁じ、そしていらなくなればその身ごといらないと捨てたのに。
「それからこの宴は、豆の、豆のための、豆を崇める宴だ!つまりはこの落花生鬼神俺のための宴!それを自分のものだと?御神体である落花生を侮辱する貴様が?自惚れるなよ、娘。それに……鬼蓮の家では……人間の花嫁は【道具】なのだろう?ならばとっとと持ち帰れ。それともこの場で、切り刻んで土産に持たそうか?」
何か……八雲、すごいこと言ってない?
この場でスプラッタとかは勘弁して欲しいのだけど。
「壱花がそう望むのであれば裏庭でしよう!」
次の瞬間、冷ややかな無表情をぐでっと崩してこちらを向き、朗らかにそう告げてくる。それはそれでホラーなのだが。
「え……?」
そこ疑問系なの?
「取り敢えず、壱花」
「う……うん」
「キス、していい?」
何でこの場で急に――――っ!?
「何か俺、むしゃくしゃしてる。今すぐ切り刻んでやりたいけど……とにかく今、壱花とエッチなことしたい。まずは……キスしよう?」
いやいやいや、そのノリが意味分からないのだけど!?え……エッチって……。
「優しく抱く。他の鬼のことなんて、忘れさせてやるから」
そ……それって……っ、白玻との拭い去れない、恐い夜のこと……?でもそれは、八雲が隣で寝てくれるだけで……夜も、恐くない。玻璃も一緒に3人で寝られることがこの上なく……今は幸せなのだ。
「俺の嫁がかわいすぎる」
「ま、また、それ……」
そんなこと言われなれてないから……、照れてしまう。
「やっぱり俺は今すぐ嫁とエッチがしたい!!」
何を大声で叫んでるの!このエロ落花生!!
「では、この場は我々に任せ、八雲には花嫁殿とのイチャイチャを楽しんでいただくと言うことでどうかな?」
え、いきなりの……どなた?
金色の4本角に、プラチナブロンド、金色の瞳をした鬼は、とても優しげな男性であった。
「勝手に私も巻き込むのですか、 伊月さま。まぁこの場では仕方がないか」
4本角の鬼……伊月さんにそう話し掛けたのは、どこか見覚えのある深緑の髪に緑の2本角、そして特徴的な赤い瞳の鬼である。
「花嫁殿、八雲さまを頼みます」
は……はい……!?
「頼むって……何を?」
「イチャイチャしてていいよ~」
伊月さんがめちゃくちゃ笑顔で告げてくる。い……イチャイチャって何を……すれば。
恐る恐る八雲を見上げる。
「そんな急には……そうだな……。キスしていい?」
「え……あ、その……見られるのは恥ずかしくて」
「殻の中ならば見られぬぞ」
殻……?あ、落花生の……。
八雲が私を抱きしめ、そのまますっと飛び上がったと思えば、私たちを囲むように巨大化した落花生の殻が……。
パタンッ
――――と、閉じてしまった。
そして触れてくるのは……柔らかい唇。
「んむっ」
「んっ」
まるで堪能するようにくちゅくちゅとむしゃぶられる……っ!
「ん……っ、ふぁ……っ」
そして唇が解放されれば、暗闇の中のはずなのに、どうしてか八雲の顔が、よく見える。
「もういっそのこと、ここでやらないか?」
「さ、さすがにそれは……っ。声も……漏れない?」
「どうだろうか」
『けっこう漏れてますね』
ひぃっ!?殻の外から夜霧さんの声が……っ!
「八雲……その、殻から出して……?」
「やだー、もっと壱花と殻に籠るぅっ」
そんな甘えられても……っ。
「外が、気になるの」
「む?興味あるのか?」
『お刺身』
「はっ」
『あと、小豆のスイーツもあるそうですよ』
す、スイーツ……私も食べて……いいの?
「嫁がかわいすぎるぅっ!殻から出したくないでもかわいい~~っ!!!」
『隣に座っといたらどうですか?席はあのお二方のせいできれいになりましたから』
そう言えば……外はギャーギャーと騒がしいようだけど。
「ふむ、それならば」
落花生の殻が開き、外から光が降ってくる。
落花生の殻は何事もなかったかのように、座っても邪魔にならない大きさに縮小する。
「ほら、壱花、こちらだ」
「……うん」
八雲に連れられ、用意された席につけば、用意されていたご飯に追加で、給仕たちが私たちの前にお刺身と醤油を出してくれる。
「さて、食べるがよい」
「……う、うん」
醤油につけて食べる初めてのお刺身は。
「……おいしい」
弥那花や両親たちが、私の前で見せびらかしながら食べていたけれど。多分こちらの方が、ずっとずっとおいしい。八雲の隣で食べる、味だもの。
「俺は今すぐ壱花を堪能したい」
「で、でも……っ」
八雲が横からぎゅっと抱き締めてくるのに驚きながらも……振りほどきたいとは思えなくて。その温もりにすら安堵の息をもらしていた。しかしその場にまたもや不釣り合いな声が響く。
「いや゛――――っ!放しなさいよ!私の宴!私のご馳走!なんで壱花が食べてるの!?あれは私のよ!!」
大勢の鬼たちに引きずられるようにして退場する弥那花だった。その横で白玻が手荒な真似は寄せと怒鳴るが……。
「そう言えば……先ほどそちらの花嫁殿が面白いことを言っていたね、白玻」
伊月さんが嘲笑するように口角を上げる。
伊月さんの笑みに、白玻は先ほどの鬼たちへの威勢のよさを弱める。
「白玻が鬼の中で一番なのだって?初耳だ」
「そ……それは……っ」
白玻は口ごもるが、弥那花が叫ぶ。
「そうよ!白玻は最高の……っ」
「黙るんだ、弥那花!」
「だって白玻は鬼の中で一番偉いんでしょう!?」
「弥那花!!」
「ふぅん、そう?だからぼくの部下にもそんなに偉そうなんだねぇ。彼らはぼくの指示で動いてるにすぎない。そしてそれは八雲の意思でもある。お前はいつから鬼神よりも偉くなったのかな……?」
「……っ」
白玻は顔面蒼白である。あんな白玻は……結婚していた頃ならば想像もつかなかっただろうな……。
「それに、八雲さまも気になることを言っていた。お前は花嫁を道具として扱うそうだな」
緑角の鬼が吐き捨てれば、白玻がしとろもどろになる。
「その……そんなことは……っ、弥那花は私のっ」
「道具はあのブス女だけよ!!」
弥那花が白玻の言葉を遮って叫ぶ。
「この娘に発言を許した覚えはないのだが」
「八雲の前ですら、許しを得ずに好き勝手しゃべる女だぞ?今さらだ」
「それもそうか……そして、八雲さまの花嫁殿に対してもずいぶんな言いぐさだ」
「その……あの女は……」
「娘からも聞いているが……お前がやったことは最低だと私は思うがね、白玻」
娘……?緑鬼さんの……?
「これは頭領追放も視野に入れないとねぇ」
クツクツと伊月さんが嗤う。白玻が頭領を追放される……?
「そんなこと、許さないわ!」
「やめろ、弥那花!」
対抗心を剥き出しにする弥那花に対し、白玻は何か強大なものを前にするように怯えながらも弥那花を制そうとしている。
「へぇ……?ただの人間の娘の分際で、ぼくに意見するんだ……?」
伊月さんが、先ほどまでの穏和な笑みも、試すような笑みも消し、ゾクリとする笑みを浮かべていた。
それにはさすがの弥那花も固まっている。そしてだらだらと垂れる汗と溶け出した醤油が混ざり合い、化粧が溶けてひどい有り様だが……それを気にする余裕などないらしい。
「この無礼者とともに、連れ出せ」
そう命じる伊月さんの纏う冷たい気は……誰かに似ている気がした。