あれは、いつのことだっただろう。確か、桜と葉っぱが混ざる季節だった。
 駅の近くで、カフェを見つけた。周りがみんな和風を感じる飲食店なのに対してそこだけは変わらず普通で、ひどく興味を惹かれた。
 
 カランコロンというベルと一緒に漂うコーヒーの匂いが、いかにも「カフェ」って感じがする。「Cafe Rouge」。ここの名前だ。

「いらっしゃいませー。空いてる席にお座りください。」

 一瞬で、目を奪われた。艶やかな黒髪は高く結えられ、彼女が動くたびに左右に揺れる。茶色い瞳は何でも見透かしてしまいそうで、キラキラと神秘的に輝いている。
 俺は、少しぼーっとしながら窓辺の席を選んだ。

「ご注文はあちらのカウンターでお願いします。」

 鈴を転がしたような声が耳に染み渡る。
 店内はシンプルながらおしゃれな雰囲気で、赤い装飾がアクセントになっている。先ほどの店員さんを頭の片隅にやっと追いやり、何を飲もうか考える。やっぱり無難なドリップコーヒーかな。

 カウンターで注文して代金を渡して、「3」と書かれたプレートを机に置くよう言われる。
 これが終わったらまた講義か…。うっすらとめんどくさいという感情が湧き出たが、まあ大学生なんだし、と自分で蓋をした。
 俺・朝倉(あさくら)ワクは、今年から大学生となった。大学受験で惜しみなく勉強して、おかげで第一志望に現役で合格することができた。今大学は5時間目。俺は講義がなかったので、こうやって休憩しにきていた。

「お待たせしましたー。ドリップコーヒーになります。」

 またあの人が運んできてくれる。

「ありがとうございます…。」
「冷めないうちにお召し上がりくださいね。」

 そう言って微笑んだ彼女に、心臓を鷲掴みにされる。
 19歳。カフェの店員さんが俺の人生初の好きな人となった。

 …なんてことが起こってから2ヶ月が経った。もう7月の中旬。気温はあの頃と随分違い、半袖でも平気なくらいだ。もうすぐ大学も夏休みに入る。
 4月に見つけたこのカフェを、俺はずっと通い詰めていた。あの人に会うために。

「お待たせしましたー。ドリップコーヒーのアイスになります。」

 いつものあの人がコーヒーと共にやってくる。もう俺はこのカフェの常連客なのだろう。店員さんが時折話しかけてくれるようになった。
 名前は綿切(わたぎり)サエさん。彼女もコーヒーが好きで、ブラックをよく飲むらしい。
 今日はもう講義はないので、そのまま帰ることができる。

 出身は千葉県で、大学のために上京した。だから今は一人暮らしで、マンションの一室に暮らしている。
 大学から家までは45分くらいかかり少し面倒だが、家賃のことを考えると同等かとも思う。

 大学に友人がいないのかと言われればそうではないが、いつも一緒とかそういうわけではない。
 自宅に帰って、簡単な夕飯を食べる。ささっと風呂に入って汗を流し、21時30分に布団に潜る。
 早いと思う人も多いだろうが、これには訳があった。
 俺は最近、不眠症になっている。2時間経っても3時間経っても寝付けないのだ。

 目を閉じて、ゆっくりと呼吸する。何も考えないように努力する。ただ、その日はやけに寝れなかった。まだ体が活動しようとしている。
 なんだかんだいつも通り23時30分を過ぎる。いつもならここら辺から3時間くらい寝て、あとは朝まで勉強したりゲームをしたりするのだが、今日はなんか違う気がする。
 ダメだとは分かっていても立ち上がってしまう。ぼーっとした頭で外に出る支度をして、靴を履く。
 なんとなく眠れない夜に、外に出た。

 夜だなあというぼんやりとした感想が口から漏れる。人通りは少なく、電灯の灯りがスポットライトのように輝いている。
 普段は絶対行かないような夜の街に繰り出すと、一瞬で人は多くなり、騒がしくなる。派手な看板とネオン管が夜を彩る。ここは昼より夜の方が騒がしい。
 駅前の広いスペースまで辿り着いてしまった。

 ふとまわりを見ると、背の高い男の人が若い女の人に話しかけている。その場を見て、驚愕してしまった。あれは綿切さんだ。いや、服装や髪型は全く違うが綿切さんだ。 

「ねえ、いいでしょ〜?」
「え…いや〜…流石に…。」

 なんでここにいるのかは知らない。だけど確実に何かまずそうな雰囲気だ。綿切さんの茶色い瞳があっちこっちに泳ぎ散らかす。その時、それを見ていた俺と目が合った。「あ。」という口をする。
 多分勘付かれたな。このまま立ち去った方がいいのだろうか。悩んでいると、綿切さんがこっちに笑顔で近づいてきた。

「も〜。遅いよ〜。」

 綿切さんのほっそりとした腕が俺の腕に絡みつく。自然と鼓動が速く大きくなる。

「なんだ彼氏いたんだ。じゃ、いいや。じゃーね。」
「さよなら〜。」

 綿切さんに詰め寄っていた男性はどこかに行ってしまった。綿切さんはヒラヒラと手を振って別れる。そして、自分の腕を解いて俺の方を見た。

「朝倉さん…でしたよね。ありがとうございました。」
「あ、いや、俺はたまたま見かけただけで…。」
「…朝倉さん、何歳?」
「19です…。」
「あ、年下だ〜。じゃあ、名前で呼ぶね。」
「はい…。…綿切さんはなんでこんなところに?」
「ん〜…。…私、1日で1番楽しい時間は夜だと思ってるから。夜は、めいいっぱい遊ぶんだ〜。」

 そう言って綿切さんはシャツを揺らす。いつものカフェの制服とは違い、黒いキャミソールに紫色のシースルー素材のシャツだ。白いショートパンツからは、これまた白い足が伸びている。
 赤い唇が余計に綿切さんを大人にする。

「…どこ見てんの〜?」
「あ、すみません…。」
「まあ、別にいいけど。」

 その唇をぼーっと眺めていたら、気づかれてしまった。

「敬語、今はいいから。今だけは、店員と客じゃないから。私のことは…そうだな…。サエちゃんって呼んでよ。」
「えっ!?…サエちゃん…。」
「なんだよ大学生、うぶだな〜。あ、そうだ。この後時間ある?」
「あるけど…。」
「じゃあ、行きたいところあるから着いてきてよ!ね?」

 その瞳を向けられると断れなくなる。せっかくサエちゃん…と会えたんだし、もう少し遊びたいという欲が強くなる。

「うん。」

 俺と彼女の夜遊びが幕を開けた。


「っぷはー!あ〜いいね〜。」

 サエちゃんの手に握られたのはビールジョッキ。それを豪快に飲み干そうとしている。

「ワクくん、なにその目〜。意外すぎてびっくりした?」
「え…うん。だって、いつもはそんなイメージないから…。」
「あ〜やっぱそうだよね〜。…実を言えば私、コーヒーよりビールの方が好きなんだよね〜。」
「え、それはもうカフェじゃなくて居酒屋とかに勤めた方がいいんじゃ…!?」
「あははっ!だよね〜。」

 ビールとウーロン茶が結露で汗をかいている。真ん中に位置するピリ辛キャベツも半分くらい減った。
 半個室のような席で、4人用のテーブル席を2人で使っている。

「ワクくんも食べる?美味しいよ〜。」

 ピリ辛キャベツが差し出される。確かに美味しそうだし、料金はサエちゃんが払ってくれる。

「じゃあ…。」

 と、テーブルの横の箸箱に手をかけた時、サエちゃんが箸でひとつそれを取って、差し出した。

「ん。どうぞ。」
「え…!?いや流石に申し訳ない…。」
「いいっていいって。今は店員じゃなくて友達だよ?」

 口のすぐそこまで迫っているので、仕方なく食べた。美味しいはずなのに、好きな人と間接キスしたという事実だけで味は消え失せる。

「どう?美味しい?」
「美味しい…。」
「そっか。よかったぁ。」

 またビールが減る。俺も緊張してウーロン茶を減らす。時折見せる笑顔は、昼のカフェ店員だった。
 盛り上がったと思ったらいきなり優しくなって、何を思ってそれをしているのか分からない。綿切サエは、案外こういう人なのかもしれない。
 

「…あ。ワクくん。見てみて。」

 派手な通りを歩いていると、少し奥に入った道のところでサエちゃんが声をかけた。言われるがまま見ると、そこには抱きしめ合っているカップルが。

「うちらもやる?」
「は!?」
「嘘だよ。冗談だって〜。」

 ケラケラと笑ってはいるが、目はどこか寂しそうだった。

「あ…。」
「ん?」
「あれ?サエちゃんじゃん!久しぶり〜。元気してた?」
「はい!そちらもお元気そうです何よりです!」
「じゃあ、俺行かないとだから。またね〜。」
「はい、また〜。」

 大柄な男はサエちゃんと知り合いみたいで、馴れ馴れしくサエちゃんに肩をポンと手を置いてから去っていった。

「今のは?」
「…お客さん。」
「あんな人見たことないな。俺がいない時に来てるの?」
「…えーと…違くて…その…ちょっとお店は入ろ。」

 グイグイと引っ張られるように居酒屋2軒目に入ってしまった。
 今度はお座敷席で、完全な個室のようになっている。すぐに水とお手拭きが渡され、サエちゃんは注文を始めた。
 立て板に水を流したかのようにビール、枝豆を言って、俺の注文も聞く。特に喉は乾いてなかったし、フライドポテトを頼んだ。
 揚げたてのサクサク感のあるポテトをつまみながら、サエちゃんが話し出すのを待っていた。

「でも…まあ、カフェ店員の給料なんてすごくいいものではないから…。最近1ヶ月に数回これやってるんだよね。」

 スマホには「レンタル彼女」の文字が。え?彼女ってレンタルできるの…?と頭が疑問で埋め尽くされる。

「なにこれ…。」
「男の人と会って、ご飯食べたり遊びに行ったりするの。ちなみに、1回のデートで10000円と飲食代とか交通費ね。」
「高い…!なんでそんなこと…?」
「私さあ、小学2年生の頃かな。気づいちゃったの…。「お金って素晴らしい」ってことに…。」
「とんでもねえ…!」
「え?だって安心するじゃん。たくさんあると。」
「いや、そうだけど…。…いきなりのクズ発言…!」
「あははっ!ワクくんおもしろ〜い!」

 ということはさっきのあの人は客だった人なのか。まあこの容姿だもんな。レンタルしたい人は多そうだ。

「そうだ。ゲームしよう?」
「ゲーム…?」
「そう。…はい、ここに10円玉がひとつありま〜す。今から私がこれを弾くから、表が出たら私が。裏が出たらワクくんが、何かひとつ質問をするの。できるだけ答えてね。」
「…これも、レンタル彼女経験で?」
「ううん。これは私が高校生の時に友達がやってたから真似したの〜。じゃあ、行くよ〜それっ。」

 10円玉はクルクルと回転ながら宙を舞う。そして、それを慣れた手つきで右手の甲と左手で挟み込んでキャッチした。どっちだろう。少し緊張する。

「最初は…あ!私だ!ん〜と…ワクくんはこの辺に住んでるの?」
「うん。って言っても、ちょっと歩いたとこだけど。」
「へ〜!私と同じだ!それじゃあ次は…。…あ!ワクくん!なにかな〜?スリーサイズくらいだったら答えるよ〜。」
「いや、聞かないから!…サエちゃんって何歳なの?」
「うわっ!女性に年齢聞くってお前〜。…まあ、別にいいけどね。23歳だよ。来年の3月で24歳〜。」
「え…。もっと若いかと思ってた…。」
「あ〜よく言われる〜。若見え?嬉しいな〜。」

 やけに俺の扱いが上手なのも、たくさんの人の彼女になっているからなのかもしれない。俺は19。サエちゃんは23。4歳差だ。
 サエちゃんは、24歳で、実家は東京の西の方にあるらしい。幼い頃に母親が他界して、今はお父さんとお兄さんとサエちゃんで暮らしている。お父さんは観光業に携わる会社に勤めていて、マーケティングというものを行っているらしい。お兄さんは28歳で、システムエンジニアらしい。

「じゃあ、次で最後ね。…あ、ワクくんだ!質問どうぞ〜。」
「えーと…じゃあ…。」

 少し言うのを躊躇(ためら)った。気持ち悪がられないだろうか。…でも、今はサエちゃんは友達だ。渋りながらも聞くことにした。

「好きな異性のタイプってありますか…?」
「あ〜好きなタイプか〜。え〜?なんだろ〜。…一緒にいて楽しくて、かっこいい人…かなっ。」

 あ、終わった。そう錯覚する。俺なんかと一緒にいて楽しいわけないし、容姿も良くない。初恋が砕け散る音がする。

「って言うか、そんなこと聞くってことはワクくん、私のこと好きなの〜?」
「え、あ、いや…。そんなことない…。」
「あははっ!だよね〜。でも…。ちょっと期待しちゃったな。」

 そう言ってビールを飲み干す。いつのまにか枝豆も抜け殻だけになっていた。俺のフライドポテトもなくなり、移動する雰囲気が漂い始める。

 午前2時。本来なら家にいる時間。俺はサエちゃんに連れられるがまま、クラブハウスへと向かった。
 ギラギラとした派手な照明が照らされ、こちらも派手なダンスミュージックがかかっている。手前側にある休憩スペース的なところにあるドリンクも、どれもカラフルなものばかりだ。
 リズムに乗りやすい音楽がクラブハウスを埋め尽くす。客は皆、思い思いに楽しんでいる。サエちゃんもテンション高めに入っていって、音楽と一緒に身体を揺らす。俺もなんとなく音楽に身を委ねてみる。
 ガッツリ系のダンスミュージックから、しっとりとしたバラード、キラキラとした可愛い曲まで多ジャンルの曲が次々にクラブハウスを支配する。
 元々冷房なんて効いていないも同然の箱だ。サエちゃんも俺も汗をかき始める。

「あ〜暑い!」

 サエちゃんがたまらなくなってシースルーシャツを脱いだ。肩や腕が顕になり、また大人っぽい雰囲気が強くなる。こうすると24歳は若く感じる。
 音楽に身を委ねながら、「もう少しだけこのままで」と思ってしまう。
 今だけは、時間が過ぎるのが憎たらしい。


「ただいま…。」

 虚空に向かって挨拶する。そのままベッドに突っ伏すと、不思議と眠気が湧いてきた。普段なら絶対ないはずなのに、眠くなっている。スマホで7時のアラームをセット。2時間だけ寝ることにした。
 あの後、サエちゃんと連絡先を交換することができた。明日もカフェに行くことを伝えると、サエちゃんはニコッと笑って「待ってるね」と言ってくれた。
 きっとサエちゃんにとっては、俺は客の1人でしかない。でも、ただ会えたことが嬉しかった。サエちゃんの好きなタイプではないけれど、少しだけ淡い期待を抱いてしまう。そんなことないって言っちゃったのにな。


「いらっしゃいませー。空いているお席にどうぞー。」

 サエちゃん…ではなく綿切さんがいつも通り接客する。やっぱり、昨日見たサエちゃんとは全く違くて、綿切さんは店員だった。今の俺らは友達じゃない。店員と客。昼にまで期待するな。
 今日はランチタイムに来てしまったため、綿切さんは店長らしき人にペコリとお辞儀をしてバックヤードに引っ込んでしまった。
 少し残念に思いながら、ランチメニューを注文する。案外人が少なく、すぐに届けられた。
 その時、スマホが振動した。誰かが俺にメールを送ってきたんだ。なんとなく見ると…思わず驚いてしまった。

『昼食休憩中でーす。今日も来てくれてありがとう!』

コンビニで買ったらしきサラダとヨーグルト。カフェのパンの写真が送られる。