【絶品の条件】




  全部、おいしくない。これまでの人生の中でおいしいと感じたこともない。大手チェーン店の食事も、コンビニで買ってくる弁当も、スーパーの安いカップラーメンも。これっぽっちもおいしくない。あれを美味しい、美味しい、と口にできる人たちはよっぽど幸せ者なんだろう。とはいえ生きるためには食べるしかない。逆に言えば食べなければ生きることはできない。そう。食べ物を口にしないというのは、一番手間のかからない人生の諦め方。
 食べ物を口にしなくなって、もう4日が経つ。食べ物はおろか、一滴の水分さえも摂っていない。もう動く気力も、生きながらえる気力もない。全てにおいて無気力だ。ついに意識を保とうとする気力もなくなり、視界は闇の中に吸われていく。もう、この世に留まる理由はない。
 弾んだ声、聞いたこともない楽器のような音、鼻孔をくすぐるふんわりとした香り。気温を全く感じないほどの適温。私の記憶はそこからだ。恐る恐る瞼を開けてみるとそこは草原に集落のようなものが広がっていた。みな会話や踊り、食事を楽しんでいるように見えた。当たり前に一番に思ったことは、「ここは、どこ?」だ。私は記憶がないまま元いた場所ではないどこかに来てしまったのだろうか。
「なーにしてんの?」
座り込んだ頭上から、幼く拙い声が聞こえる。
「わ!?なに!?」
突然の私の大声に、声の主もびっくりしているようだった。それよりも私がびっくりしたのは、さっきまでの無気力さは体から跡形もなく消え去っていたことだ。
「そんなにびっくりしないでよぉ…。君、もしかして迷い人?」
5歳ほどの幼い男の子は飴を咥えたまま、首をかしげる。
「迷い人?」
「知らない?どこの世界にも居場所がなくていろんな世界に迷い込んじゃう人。ここにもたまに来るんだよ。」
居場所がない。たしかに言われてみれば私も当てはまるのかもしれない。本来いるべき場所にいれなかったのだろうか。
「居場所が見つかるとその世界に行くこともあるらしいけど、僕はわかんなーい。」
流暢に話す彼にも、幼い部分が垣間見える。
「そもそも、ここはどこなの?」
「グルメの町、サイケラだよ!」
グルメ?私が来るのに適した場所なのだろうか。いや、迷い込むのに適している必要はないのか。
「とりあえずさ、食べてみなよ!」
男の子は腕をさっとひと振りし、食べ物を出す。
「君の世界の食べ物って言ったら、これしか知らないや。なんだっけ、ぱすた?だっけ?」
彼が出したものはミートソースパスタだ。食欲はないが、ありがたくいただくことにした。
「おたべおたべ〜」
一口ほおばる。味はしない。口の中には麺のもちもちとした食感と、お肉が舌を撫でる感覚だけ。一口もらって、食べるのをやめた。
「あれ、美味しくなかった?出した食べ物って美味しくないって言われるんだよね。なら、作ろう!」
「つ、作る?」
強引に手を引かれ、レンガのようなものでできた家に連れて行かれる。
「僕の家のキッチン!材料は色々あるから、一緒に作ろう!」
ボウルやトング、ザルなど私の世界にあるような道具もあれば、使い方の見当さえもつかない道具もある。
「作るって言ったって、私作り方わかんないよ?」
「いーの!"一緒に"作ることが大事なの!」
男の子に言われるがまま、彼流のパスタ作りが始まった。
 強引に先導するからおいしいパスタの作り方を知っているのかと思ったら、作ったこともなければ作り方さえも知らないようだ。だが、レシピ本を見ながら2人で試行錯誤しながら作っていく。小麦粉をこぼしたり、お肉を焦がしたり。料理なんて関わることもしなかった私が、調理器具を握っている。それも、見ず知らずの男の子と、心からの笑顔を浮かべながら。これが生きる糧もなかった私だと、誰が信じるだろうか。
 「できたー!!!」
どれくらいの時間が経ったのだろうか。つい時間を忘れて料理に夢中になってしまった。やっと完成させたパスタは、なによりも輝いて見えた。ほとんど男の子が作ってくれたのだけど。それでも、料理という時間を、私は心から楽しんでいた。それは紛れもない事実だ。
「さ、食べよ!」
「いただきます」と、2人の声が響く。フォークに一口分パスタを巻き、口へと運ぶ。その瞬間、私は初めての感情を覚えた。
「お、美味しい…。」
心の底から出た言葉だった。
「ほんとに!?やったね!!」
あまりの美味しさからか、久々の食事だからかはわからない。でもあっという間に皿の上のパスタはなくなっていた。
 2人で洗い物や片付けをする。
「せっかくだから、このお皿もらっていきなよ。料理したの、初めてでしょ?記念にさ。」
有無を言わせず、ピカピカになったお皿を渡される。
「多分君にはもとの世界が合ってるから。戻ってもおいしいごはん、ちゃんと食べるんだよ。」
男の子がにっこりと笑いかけた瞬間、催眠術をかけられたかのように私の視界はぐらりと傾き、闇に包まれていった。
 恐ろしい空腹感に襲われ、目を開けると散らかった汚い家だった。間違いなく、元いた場所。だけど、ただ一つ違うことがあった。この部屋に似合わないほど輝く、ミートソースパスタがあることだ。