「暇乞いに参りました」

 両手を畳について、深々と頭を下げる。
 雨粒のように鳥が舞う襖絵だった。ぴしゃりと閉じられたこの襖の向こうには、私の旦那様がいる。でも、それも今日まで。私の花嫁としての役目は今日終わる。今日、私の代わりの新しい花嫁が来る。

(ウタ)。顔を見せてくれ」

 襖が薄く開く音がして、旦那様の声が私の名前を呼ぶ。酷くかすれた、やするような声だった。
 面を上げて、襖の向こうの旦那様を見る。襖の向こうは暗闇で、旦那様の姿ははっきりしなかった。
 旦那様は、姿を見られるのを酷く嫌う御方だった。

「長い間、苦労だった。花嫁が去るのを惜しく思うのは、これが初めてだ」

「もったいない、お言葉です……」

 旦那様の言葉に、自然と頭が下がる。
 私にとって旦那様の元で過ごした日々は夢のような日々だった。花嫁の座を退いた私にこらからどんな日々が待っているのかを思うと、胸の奥が凍るようだった。でも、旦那様と過ごした日々を胸に抱けばいくらでも私を温めてくれることだろう。
 ここに来るまで、なんの愛しい思い出もなく辛い日々を過ごしてきた。それを思えば、私はなんて果報者だろう。

「達者でな」

 旦那様の手が伸びてきて、私の頭に触れた。旦那様が嫌がるから、私は姿を見ないよう深々と頭を下げる。
 私の頭に触れたモノは、人の手の感触ではなかった。

 旦那様は杜魄(コハク)神という、死をまつろう神だった。

     ◆

『次の祀りのときには、十六だ。ちょうど良いだろう』

 旅の夫婦が置き去りにした幼女が私だった。私を囲って怖い顔をした村人たちは話し合いの末にそう結論付けた。
 十六の年に、私は神の花嫁として祀られる。花嫁とは名ばかりの、生贄だった。嫌と言えば今すぐ殺される。よそ者を食わす余裕などない餓えた村だった。幼いながらにそうと理解した私は、ただその運命を受け入れるしかない。十六の年までは生きられる。それを幸いと思うしかなかった。
 けれど、生贄としての価値しかない私の境遇は悲惨なものだった。私を村で一番惨めなものとして、皆は日々の苦しさの留飲を下げる。
 死なない程度の食事、死ななければ良い暴力。紛いなりにも神の花嫁となる身だったから、辱めを受けずに済んだのが唯一の幸いだった。

「コハク神様……早く貴方のお嫁になりたいです」

 かといって自分で命を絶つことも怖ろしく、私は祠のある泉の辺で涙を流すばかりだった。その泉は風のある日でも不思議と水面が乱れることなく、私が零した涙だけが水面を揺らした。この奇妙な泉は、コハク神様の住まう神の庭に通じているのだという。皆が私の体を縄で縛り付け、石とともに泉に投げ込む。そうすれば、私はこの苦しいだけの生を手放せる。
 コハク神は死の神だという。泉より現れて、人々の命を奪い去る。
 百五十年ほど前、村で疫病が流行り村人の過半数が死に絶えた折。狂乱した娘が泉に身を投げた。遺体は上がらず、けれど不思議と娘が消えた頃から疫病は収まりを見せていた。そこから更に十余年。死んだはずの娘が還ってきた――それも、姿を消した時から老いもせずに。ただ娘は正気を失っており会話は成り立たず、鳥を見ると狂ったように泣き叫ぶようになっていた。鳥は、コハク神の眷属だった。
 娘はコハク神にその身を捧げ、村を救ったのだと祀られた。
 それから、疫病や不作など村に死が蔓延する兆しがあると泉に若い娘を捧げるようになった。次第にそれは習慣となり、漫然と十二年に一度の祀りになっていった。
 私は十二番目の花嫁だった。
 十六になった私は、花嫁衣装と呼ぶには質素な白い着物で黒い森の中を歩いていた。
 松明を灯した男たちは、私が逃げ出さないように炎の明かりで照らされた眼を光らせる。
 もとより私にその意思はなく、大人しくされるがまま泉に落とされた。
 泉の中央部。大きな石に引きずられて、私は水面を突き破った。墨汁のような黒い闇の中、大きな水飛沫が上がったのだろう、泡が水面越しの松明に照らされて輝いていた。
 私の口からも泡が出る。底なしのように、足に括りつけられた石が私をどこまでも引きずり込む。着物が水を吸って重くまとわりついて、もがくことさえ上手く出来ない。

「また、か」

 やすりで削るような声に、耳が痛んだ。
 その痛みに気づいたとき、私は呼吸が出来るようになっていることに気がつく。
 胸の奥から水が込み上げてきて、激しくせき込む。せき込む体を支える四肢が、地面に触れている。私はもう水中にいなかった。
 でも――水の音がする。私の濡れた体の上に、水滴が降ってくる。
 薄曇りのようにぼんやりと明るい空から、雨が降ってきていた。私は泉に落とされた姿のままずぶ濡れで庭園に伏していた。
 四季折々の花が同時に咲き乱れる庭の、池の前に私はいた。水面は雨で乱れていた。
 伏した私を見下ろす人影がある。被衣姿の――たぶん、男性だ。銀鼠色の着物を深々と被り、上背があることもあって影となって顔はうかがい知れない。
 濡れた体が震える。
 彼がコハク神だと、直感していた。

     ◆

「ウタ様がいなくなると寂しいですよーぉ」

 旦那様への挨拶を終えて、私は池の前に立っていた。

「私も法吉くんとお別れになるの、寂しい」

 肩の上に乗った山伏の格好をした鳥に私は応える。法吉くんは烏天狗を思い出す姿をしているけど、羽根の色は漆黒じゃなくてくすんだ黄緑。まん丸い目の上には切れ長の眉毛みたいな白い模様が入ってる。法吉くんはカラスじゃなくてウグイスだった。コハク様の眷属で、私の身の回りの世話もしてくれていた。
 村ではこんな風に親しげに話してくれる人なんていなかったから、人間じゃないけど法吉くんが私の初めての友達だった。

「次の花嫁さんも、今までみたいに私も旦那様も化け物と逃げ回るでしょうからねー。ウタ様みたいなお嫁様、もう二度と現れないですよ」

 そんなことないよ、と言ってあげたかったけど言えなかった。
 私の前までの十一人の花嫁はみんなそうだったらしいから。花嫁の多くは部屋に閉じこもって震え、村の伝説にもある一番最初の花嫁さんは人間のいないこの世界に正気を失い、首をくくった花嫁さんもいたという。

「でも、仕方がないですよね。人間は人の世で過ごすのが一番ですからねぇ~」

 間延びした口調でさえずる法吉くんに、私はどんな顔をすればいいのかわからなかった。
 私がこの庭に来た日に降っていた雨は止んでいた。庭の池は、祠のある泉と同じように静まり鏡のようだった。その辺の岩に、法吉くんが降り立つ。

「やっぱり、雨が止むと気持ちがいいですねーぇ」

 天を仰いで、気持ちよさそうに法吉くんが目を細める。
 私も空を仰ぐと、そこには青空が広がっていた。でも、現世の青空とは違う。雲母のようにきらめいて、青い夜空のようだった。
 雨が止んだ。だから、私の役目はここで終わる。この鏡のような池は、現世の泉と繋がっている。その鏡面を通して、コハク神は現世と行き来して死を運ぶ。
 乙女の命でその鏡を乱し、コハク神がこの世に来られないようにする。
 私が泉に飛び込んで舞い上がった飛沫が雨となり、延々とあわいのこの庭に降り続ける。ようやく止むのが十二年。現世とは、理も違うらしい。

「この隙に、人の世に行こうとは思わないの?」

 雨が止めば、私はこの鏡池を通じて人の世に帰れる。法吉くんやコハク様も次の花嫁が雨を降らすまでのこの間なら、現世に行けるんじゃないだろうか。

「まあ、そうですね。行けるは行けるんですけど……望まれてないのはわかっていますから」

 寂し気に、法吉くんが目を伏せる。
 死の神なんて、望まれるような存在じゃない。それは仕方のないことなのかもしれないけど、十一人の生贄を捧げられ拒絶され続ければ神様だって傷つくんだろう。
 その傷に、私は触れてきた。コハク様。私の、一時だけの旦那様。
 この庭に来て、初めて人間らしく扱われた。働けば感謝され、温かい食事を口にして、布団で安らかに眠れた。ただそれだけのこと。ただそれだけのことが、私には得難く、何事にも代えがたい喜びだった。初めてだからという、雛鳥の刷り込みのような思いなのかもしれない。それでも、私は――

「ウタ」

 旦那様の声がして、目を見張る。振り返ると、コハク様が立っていた。いつもの同じく着物を頭深くかぶり、闇の中から私を見ている。
 湿った土の上を歩く、旦那様の足跡。前に三本、後ろに一本。そんな鶏の足の指を捻じ曲げ、前後に二本ずつにしたような、歪な鳥の足。

「私のことを、恐れても構わない。それでも、ウタ――私のそばに、いてくれないか」

 私の目の前で旦那様が立ち止まり、私を見下ろす。
 この被衣の下にどれだけ怖ろしい姿が隠れているのか。それでも私は、その闇の中に手を伸ばす。旦那様が身を屈め、私を受け入れる。
 闇の中の顔は、奇妙な手触りがした。記憶の中にある、手触りだった。緑濃い藪の中。私はそれは見つけ、拾い上げた。手のひらのなかでうごめく、まだ羽根も生えそろわない雛鳥。

「コハク様……」

 初めて、旦那様と目が合った。闇の中に浮かぶ、金の一つ目――
 闇が、私の上に降ってきた。
 体が震える。それでも、私は目を閉じて旦那様を受け入れる。

「ウタ――」

 温かいものが唇に触れたと感じた瞬間、つんざく様な法吉の声がした。

「ウタ様!」

 強い力で胴を掴まれ、旦那様から引きはがされる。足が地面を離れて、体が宙を舞う。
 見開いた目に映ったのは、私の体を掴む巨大な手。それは汚泥のような色をして、現世と繋がる池から生えてきていた。

「旦那様!」

「法吉! 俺は良い、ウタを!」

 池からは大小さまざまな黒い腕が生えてきており、法吉と旦那様も襲っていた。

「旦那さっ……!」

 蛇のように蠢く腕は私を池へと引きずり込み、私の言葉は泡となって消えていった。
 真っ暗な闇。旦那様の衣の中とも違う黒。私の喉から逃げ出していった呼吸が泡となってきらめいている。
 苦しくてもがいても、水と同化した汚泥が私の体を掴んで離さない。着物が水を吸って重い。コハク様に嫁入りした日を思い出していた。
 石の代わりに謎の手が私を水の中に引きずり込もうとする。でも不意にその力が弱まり、私は浮上する。
 水面に顔を出し、息を大きく吸う。そして、声がした。

「ウタ姉さん……?」

 あの日のコハク様の声とは違う、可憐な少女の声。私が顔を出した水面を覗く顔があった。
 松明を灯した船の上にある顔に私は見覚えがあった。私が知っている顔よりもずっと大人びていたけれど、面影を見間違えるはずがない。

茉莉(マツリ)……?」

 白装束の少女はそれを肯定するように唇をきゅっと結び、私に手を差し出した。
 マツリを乗せた船の船頭にも見覚えがある。マツリが着る白い着物にも、マツリの足に結ばれた荒縄の先の石の意味にも。
 まだ幼くて私を虐げることも知らずウタ姉さんと慕ってくれていた少女。彼女が、私の次の花嫁だった。
 マツリは船頭と二人がかりで私を船の上に引き上げてくれた。

「ウタ姉さん、なんで……十二年も前なのに、なんにも変わらないで」

 マツリが丸い目で私を見つめる。
 現世とあの庭とでは時の流れが違う。現世では十二年に一度の嫁入りのはずだったのに、私が法吉に次の花嫁が来ると告げられたのは嫁入りして一ヶ月のことだった。
 こちらでなら二十八歳になっているはずの私は、まだ十六歳のままだった。

「マツリ、大きくなったね」

 自分と同じ目線のマツリに本当に現世では十二年が経ったのだという実感とともに、見れないと思っていたマツリの大きくなった姿に喜びが溢れる。
 笑みが零れる私とは裏腹に、今まさに花嫁に捧げられようとしていたマツリの顔は歪む。

「オマエ、しくじったな……!」

 鬼のような形相で、マツリが私の顔を掴む。爪が食い込み、皮膚が裂ける。松明に照らされながら、私は自分の血が流れていくのを感じていた。

「村をめちゃくちゃにしておいて、よくもおめおめと……!」

 私を射殺さんとするほどの、眼差しだった。
 私の眼には、マツリが汚泥の涙を流しているように見えた。