***
学校とバス停までの間に小さな公園がある。申し訳程度の砂場と小さな滑り台、後はベンチしかない寂れた公園だ。年季の入ったベンチは、腰かけるとミシミシと不穏な音がした。
「本当に大丈夫?」
彼は自販機で買ってきたばかりのお茶を私に差し出した。顔には心配だと大きく書いてあるようだった。
「ありがとう」
私は礼を言いながらお茶を受け取った。夕陽はすっかり沈んで、辺りは薄暗くなって、公園の古びた電灯は時折点滅しながら暗い公園を照らしている。
私を助けてくれた親切な彼は、一ノ瀬律というらしい。
背の高い彼が隣に座るとベンチは余計に小さく見えた。背の高さのわりに威圧感がないのは、くりっとした二重の大きな目が特徴の優しい顔立ちのせいだろうか。
在学中は理系クラスだったらしく、文系クラスの私とは一切面識がなかった。佐々木が去った後、成り行きで彼と帰ることになり、今に至る。
「一ノ瀬くん、説明会の前にも校門でも助けてくれたよね。お礼が言えてよかった、色々とありがとう」
「助けたなんて言うほどのことはしてないよ。それに、さっきだって……」
一ノ瀬は言い淀んでから、いきなり「ごめん!」と頭を下げて謝った。
「俺、本当は助けに入るよりもっと前から見てたんだ。助けに入るべきか、とかいつ行こうとかタイミング考えてたら出て行くの遅くなって……本当にごめん」
「一ノ瀬くんが謝ることなんかないけど、そうだったの?いつから見てたの?」
「澤村さんがいい加減にしてよって言ってたところ辺りから……」
「想像より結構序盤だった」
「ごめん……」
一ノ瀬君は大きな背を小さく丸めた。
「いやいや、謝ることないってば。てことは、全部聞かれちゃったのか」
「俺、三階の階段のところで夕陽きれいだなーって呑気に写真撮ってて、そしたら下から声が聞こえて。ただの喧嘩かなって最初は様子見てたんだけど、殴る蹴るみたいなの始まったから慌てて止めに入ったんだよ。もっと早く止めに入ればよかった。ごめんね」
「だから、一ノ瀬くんは悪くないって。もう謝らないで。それより、今日見たことはどうか他言無用でお願いします」
「先生たちに相談したほうが良いんじゃない?」
「いいの。私たちこれから教育実習で仮にも先生をするのに、教える側の私達がいじめだなんだって騒いでたらおかしいでしょ」
「おかしくないよ。年齢関係なくいじめは許されないことだと俺は思う。高校の時からああだったの?」
「あのくらいなら高校の時より全然マシだよ。いいの、佐々木さんにも昔のことは掘り返さないって言ったし。それにもし、私が今日のことを先生たちに言ったとしても佐々木さんは上手く言い逃れして誤魔化すと思う。確たる証拠でもない限り彼女は認めないはず」
「俺が証言するよ!それに証拠だって……」
「いいの。佐々木さんなら証言は嘘だって言うだろうし、一ノ瀬くんもあることないこと言われるよ」
「別にいい、暴力振るうような人間に何言われても。俺はいじめとかくだらないことする人間大嫌いなんだ」
彼は冷たい表情で吐き捨てるように言った。彼の言葉には嫌悪感が満ちていた。正義感だけではないような、憎しみすら感じる言い方だった。私はしばらく黙って考えながら、お茶を一口飲んだ。
「こうやって私の味方してくれる人が一人いるだけで十分だよ。教育実習さえ終われば、佐々木さんともう関わることもないだろうし」
「でも」
「高校生の頃のままの私だったら、たぶん佐々木さんに会った時点で逃げて帰って、教育実習もやめてたと思う。でも、私は今日逃げなかった。だから、このまま何事も無く無事に教育実習を終えて、逃げなかったっていう自信を取り返したいんだ」
私はぎゅっと、手に持っていたお茶のペットボトルを握りしめた。
高校生の時、いじめに耐えかねて不登校になった。しばらくして学校に戻ったが、教室には余り行けずに授業は課題をすることで何とか単位をもらって卒業した。逃げたことがずっと心に残って、枷のようにずっと心に引っかかっていた。逃げたことが悪いことだとは思ってない。逃げないと壊れてしまいそうだったから。
教育実習だって、逃げようと思えば逃げられた。卒業後も母校には近寄るだけで吐き気がして、ずっと避けてきた。それでも、今なら立ち向かえるんじゃないかと、逃げなかった記憶に塗り替えられるのではないかと、多分私はそう思ってここに来たのかもしれない。
「だから、今日のこと秘密にしてください。お願いします、一ノ瀬くん」
私が真っすぐに彼を見ると、かれは眉間に皺を寄せて困ったような顔をした。それでも私が見つめ続けると彼は折れて「ああ、もう……わかったよ」と小さく答えた。
「ありがとう」
「礼を言われるようなことじゃない。澤村さんの意志を尊重はするけど、実習中にさっきみたいなことがあったら俺は迷わず止めるし、学校に報告するからね」
「佐々木さんも無事に教育実習終わらせたいみたいだからその心配はいらないよ」
「分からないよ、ああいう人は何しでかすか……とにかく気をつけて。困ったことがあったら俺のこと頼ってよ」
ね、と念推すように彼は私に迫った。
「今日初めて会ったのにどうしてそこまで良くしてくれるの?」
「俺、本当にいじめとか大嫌いなんだよ。だから、目の前にそういう人がいたら絶対助けるって決めてるだけ。それに一緒に帰ってこうして話してるんだし、もう友達でよくない?友達なら普通に助けるでしょ」
私は思わず、ふっと笑いを漏らした。
「その発想はなかった。友達って……私たちもう二十歳も過ぎてるのに」
「何で笑うの?大人になっても友達は友達でしょ!」
きょとんとした顔をしてから、一ノ瀬は不服そうに言った。
「そうだね、たしかにそうだ。一ノ瀬くんって友達多そう。私と真逆の人間って感じ。友達になったら面白そうだ」
私はなんとか笑いを収めて、すっと手を差し出した。
「じゃあ、オトモダチってことで来週からよろしく」
よろしく、と一ノ瀬は力強く握り返した。
お茶を飲み切るまで少しの間、雑談をした。バスが来る時間になって、私たちはバス停へ移動した。普段なら部活終わりの生徒でごった返しているバス停の待合室も、部活動が休みの水曜日なので閑散としていた。辺りはもう夜になって真っ暗だった。
「はい、荷物」
一ノ瀬は私が高岡先生から渡された重い紙袋を持ってくれていた。私は礼を言って受け取る。一ノ瀬はいちいち振る舞いが紳士だった。気障というよりは、自然にやっている感じだ。
「澤村さんって、金沢駅まで行くの?」
「うん、駅からバス乗り換えるの」
「そっか。じゃあ、次のバスだね。すぐ来るみたい、良かった」
「一ノ瀬くんは?」
「俺は家が近くて歩きなんだ」
「えっ!じゃあ、一緒に待っててくれたの?いいよ、先に帰って!」
「もう遅いし、人気もないし、バスが来るまで一緒にいるよ」
「でも、悪いよ」
「澤村さん、女の子なんだから危ないって」
「はあ、お手数おかけします……」
一連のやり取りに何だか照れてしまって、私はそれきり静かになった。今まで周りに女の子扱いしてくるような紳士な男子はいなかった。特に大学の男子は制作に夢中な変わり者ばかりだったので、こういうやりとりは新鮮で余計に照れてしまう。
暫くすると、駅に向かうバスが来て、ゆっくりとバス停の前に止まった。バスのドアが開いた。
「じゃあ、またね。今日は本当にありがとう」
「うん、また来週ね」
バスのステップを上って整理券を取った時に、私はそう言えば、と後ろを振り向いた。
「一ノ瀬くんって何の科目の実習生なの?」
「音楽だよ」
バスの扉が音を立ててぱたんと閉まる。一ノ瀬はガラスの向こうでにこやかに手を振っていた。私は反射的に手をひらひらと振り返す。バスが発車して彼の姿はすぐに小さくなって、見えなくなった。
音楽、と聞いて私は放課後に聞いたピアノの音色を思い出していた。
「……まさかね」
家に着くと、母親が張り切って夕食を用意していた。昨日、東京から帰ってきたときもそうだったが、母親はなぜ子供が帰って来ると張り切って大量のご飯を作るのだろう。
小さなちゃぶ台には大皿が幾つも並び、乗り切らない程だった。事実、乗り切らなかったサラダ類は畳の上にいるのだから。料理の量がおかしいのは目に見えて明らかだった。
到底、大学生の女と五十代の母親、八十代の祖母の三人で食べきれる量ではない。我が家には食べ盛りの野球部の男子高校生でもいただろうか。
「ほら、香!豚の角煮好きでしょう?たんと食べなさい!」
「好きだけど、こんなたくさん食べられないってば。このやりとり、昨日の唐揚げでもやったよ……」
「まだ若いんだから食べなさい!どうせ、絵ばっかり描いてろくに食べてないんでしょう?」
「食べてるよ。自炊してる」
「本当かしらね。香ったら滅多に帰って来ないし、こんなガリガリになってるし!お母さんがどれだけ心配しているか分かってるの⁉折角、長期間いるんだからふくふくに太って帰りなさいよ」
「だから食べてるって言ってんでしょ。話聞いてよ」
「香や。お前さん、角煮もっと食べんかいね」
「……ありがとう、おばあちゃん。もう嫌になるくらいたくさん食べてるよ」
母も祖母も何のバグか分からないが、送信機能のみで受信機能が欠如しているようだ。二人とも全くこちらの話を聞かない。
うっぷ、とえづきながら、まるで仏壇に供える御仏様のように盛られたご飯を何とか口に放り込んだ。こんな漫画みたい山盛りのご飯なんて食べきれるわけがないのに。
ひっきりなしに私への文句を言いながらも、母が少し嬉しそうなことには気づいていた。祖母も口数は少ないけれど、いつもより賑やかな食卓に笑みを零している。ここは母の実家、もともとは祖母が一人で住んでいた金沢の古い町家だった。犀川がよく見える川辺に立つ一軒家だ。
高校を卒業するまでは金沢駅近くのマンションで両親と三人で暮らしていた。高三の時に親が離婚して、母は実家に出戻り、私は東京で一人暮らしするため、自然と一家離散した。父は今もあのマンションで暮らしているらしい。家を出る時、マンションの鍵は渡されなかったので、私は必然的に母のいる祖母宅に帰省している。
離婚の原因はよく知らない。
「それで、香、あんたどうするの?卒業した後は。金沢に帰って来るの?東京にいるの?」
「いやあ……まだなんとも」
「まだって、あんたねえ!もう四年生よ⁉小学校の同級生のリカちゃんなんて地元の銀行に内定貰ったらしいし、中学のユキちゃんだって大阪の会社に内定したって言ってたわよ⁉」
「へー」
「もう!教育実習しに来たってことは美術の先生になるってことよね?」
「いや、教免あったら安心かなあってぐらいでそこまで考えてなかったていうか……教採の勉強もしてないし、受ける気ないし、アハハ」
「先生になるんじゃないの⁉何のために来たのよ!よく知らないけど、美大って就職難しいんでしょ?ニートかフリーターにでもなるつもり?言っときますけど、うちにはお金ないからね!」
「わかってる……もうちょっと考えさせて」
「もうちょっとって言ってる間に卒業しちゃうわよ!」
母親にがみがみと説教をされながら、憂鬱な夕食は終わった。
この家に自室はもちろんないので、仏間に布団を敷いて寝転がる。食べ過ぎて横にならないと苦しいぐらいだった。この調子でここにいたら実習が終わる頃には倍の体重になっていそうで怖い。重い体を動かしてごろりと寝返りを打つ。
古い畳の匂いがした。怖い木目のある天井も、カーテンじゃなくて障子しかない窓も、色あせた襖も、祖父の遺影も、何もかもが私の家ではないと言われているようだった。
水色の壁紙、好きな画家の画集が詰まった本棚、シールが張られた学習机、お気に入りのぬいぐるみ。子供のころから過ごしたあの部屋はもうないのだと改めて実感する。
東京へ引っ越すとき、荷物になるものはすべて捨てた。あの時、私は私という存在を刻んできた思い出も捨ててしまったのかもしれない。仕方ないことだったと分かってはいるけれど、少しだけ切なくて、寂しい。
隣の部屋から祖母のいびきが聞こえてくる。元気ないびきに笑みがこぼれた。何故だか祖母のいびきを聞いていると安心した。
私はいつの間にか眠っていた。
***
週が明けて月曜日。教育実習の初日を迎えた。緊張した足取りで朝早く出発すると、バスの中には既に生徒の姿がちらほら。バスを降りて学校までの一本道になるとその数はもっと増えた。始業時間まではまだまだ時間がある。きっと部活動の朝練に来た生徒や、自習室で勉強する受験生だろう。
制服を着ていない、というだけでこうも通学路の居心地は悪くなるものだろうか。私は何となく足早に学校へ向かった。事前に教えてもらった教職員用玄関から入ると、多くの名札が出勤側に移動していた。朝からこれだけの人数が時間外労働を当たり前にしている。教員になりたくないなあ、と初日から思わせられるには十分な光景だった。
実習生は職員室にほど近い大会議室に集合することになっている。私は階段を上ると、すぐ目の前の会議室に扉を開けた。すでに多くの実習生が集まっていた。
「……おはようございます」
誰に言うでもなく小さい声で挨拶しながら中に入って、空いている机に荷物を下ろした。会議室の前のほうでは見るからにスクールカーストのトップに君臨していただろう、明るく元気で、派手な集団が賑やかに談笑している。その中心には佐々木美希の姿もあった。
私の他にも知り合いがいないのか大人しく座っている実習生は多かった。高校までは教室で一人だと何となく恥ずかしかったり、気まずい気持ちになったが、不思議と大学に入ってからは何も気にならなくなった。逆にどうしてあそこまで独りを怖がっていたのだろうと思うくらいだ。
教室という見えない檻がそう感じさせていたのかもしれない。
「おはよー、澤村さん」
急に頭上から影が降ってきた。顔を上げると一ノ瀬律が私の隣に鞄を下ろしていた。彼は大きな欠伸をして、見るからに眠そうに見える。
「おはよう、一ノ瀬くん」
「自堕落な大学生活に慣れると、高校の朝早い時間帯ってきつくない?俺なんか朝弱いから一限目の授業できる限り排除してるし、こんな朝早い生活久々すぎて辛いわ」
「大学って一限目もそんなに早くないもんね」
「よくこんな朝早い生活を義務教育と高校の十二年もの間やってたなって自分で感心するよ。そう言えば澤村さん、体調は大丈夫?」
「え?体調?」
「この間、校門で倒れそうになってたでしょ?」
「ああ……!いや、あれは、極度の緊張で、アハハ……私、未だに学校に苦手意識あってね。教育実習に来ておいてこんなこと言うのも恥ずかしいんだけど。今日は何とか普通に来れたよ」
「そっか……すごいね、澤村さん」
「今の話にすごい要素なくない?ただのビビりだよ」
「倒れそうになるくらい学校苦手なのに、教育実習来たんでしょ?すごいと思うよ」
真っすぐな瞳で力強く言われて、私は何だか気恥ずかしくなってしまった。誤魔化すように「一ノ瀬くんって変わってるね」と言うと、彼はそうかなと不思議そうにしていた。
この人と在学中に友達になれていたら、私の高校生活はもう少し楽しかったのかな。そんな詮無いことを考えてしまうくらいには、彼の言葉は優しかった。
予定の時間になり、教頭が会議室に入ってきた。ざわついていた実習生は一斉に静かになった。ぴりっとした緊張感が漂う。
「みなさん、おはようございます」
教頭は全員揃っていますね、と人数を数えてから手元の書類に視線を落とした。
「今日からいよいよ教育実習が始まります。説明会で伝えた通り、これから職員朝礼で挨拶してもあります。それから、それぞれ割り振られたクラスで朝のホームルームに出席してもらいます。実習では朝と帰りのホームルーム、清掃の監督、部活動の補助などの業務があります。ホームルームでは出席確認と連絡事項を生徒に伝え、出欠は職員室の黒板に記入するように。その他は教科担当の指示に従ってください。部活動OBは部活にも顔を出してください。それから、この大会議室と実技棟の小会議室は作業場として自由に使ってください。では、そろそろ朝礼です。職員室に向かいましょう」
教頭に続いて、実習生は列をなして職員室に入った。中は教員でごった返していた。私たち実習生は前の方にぎゅうぎゅうに詰めて並んだ。この学校には職員室の他に生徒指導室や各教科の準備室など、いくつか小規模な職員室のような部屋がある。
全教員は普段は別の部屋に分散しており、全教員が職員室に集まるとかなりの人数になる。広い職員室ですら手狭になっていた。さらに実習生の集団がいるため、職員室はすし詰め状態だった。
予鈴が鳴り、教頭が「では、職員朝礼を始めます」と一声かけるとざわついていた職員室は静かになった。教頭や事務員が機械的に連絡事項を話し、その後、校長と副校長から教育実習について手短に話があり、教育実習生一人一人を科目と共に教頭が紹介し、朝礼は十分ほどで終わった。
そこからは凄まじかった。本鈴まで数分しかないので、各クラスの担任は実習生をとっ掴まえると、挨拶もそこそこに自分の教室へとほぼ小走りで連行した。校舎は広く小走りしても最上階の一年生のクラスは遠いので本鈴と同時の到着だった。
私が割り振られたのは一年六組だった。
担任は大きな声でハキハキ話す英語の先生。新婚で来年子供が生まれるらしい。小走りしながら教えてくれたおしゃべり好きな先生だ。
担任の後ろについて教室に入ると、ひな鳥のような一年生たちが待ち構えている。私の姿を見ると、わっと嬉しそうな声を上げて迎えてくれた。
「やったー!若い!」
「かわいー!」
「先生、何歳⁉大学どこなん?」
「彼氏いますかー⁉」
若さゆえの元気で不躾な質問が飛び交う中、生徒たちに負けない声量で担任の先生が強引にホームルームを始めた。出欠を取る間も生徒たちは実習生に興味津々と言った様子で話しかけてきたり、手を振ったりしていた。かなり陽気な生徒が多いクラスのようだ。
「はい、じゃあ、みんなのお待ちかね。教育実習の先生に挨拶してもらいます」
連絡事項が終わると、担任の先生は教卓から退いて隅に立っていた私を手招きした。生徒たちはきゃっきゃっと楽しそうな声を上げてはしゃいでいる。私はおずおずと教卓の前に立つ。生徒の時と真逆の視点は、新鮮で不思議な感覚だった。一段高いところから教室全体を見回す。意外と後ろの席まで生徒たちの顔も手元もはっきり見える。中高時代に隠れて落書きしていて怒られたのも、この眺めなら仕方ないと思えた。興味津々で私を見つめる何十もの視線を受け止めながら、私は緊張気味に口を開いた。
「澤村香です。今日から教育実習生として短い間ですがこのクラスでお世話になります。担当は美術です。よろしくお願いします。美術選択の人は授業でもよろしくお願いします」
丁寧に頭を下げると、大きな拍手が帰ってきた。ほっとして顔を上げた。
「今日の帰りから澤村先生がホームルームやるから、お前たちは騒がず大人しく真面目にするように!」
「はーい」
「いつも真面目でーす!」
生徒たちから冗談交じりの返事が返ってくると、担任の先生は「うそこけ!」とわざとらしく怖い顔をして応戦した。生徒たちが笑うと、さらに教室は賑やかになった。担任と生徒、双方が明るい気質なのだろう。相乗効果で一年生のどのクラスより賑やかだった。
ホームルームが終わると、担任の先生は二年生の授業があると言い、小走りで去って行った。私は一旦、職員室に戻って出欠を記入してから、会議室に置いていた荷物を持って美術準備室に向かった。実技棟の二階に来ると、高岡先生が忙しそうに授業の準備をしていた。
「高岡先生!遅くなってすみません」
「香さんじゃなくて、はま……でもなくて、澤村先生!やだね、歳をとるとぱっと名前が出て来なくて」
高岡先生はロマンスグレーの髪を掻き上げて唸った。
「生徒の前でうっかり香さんと呼んだらセクハラと言われそうで怖いね」
「元美術部員と言えばすぐに解決しますよ。何か手伝えることはありますか?」
「じゃあ、プロジェクターをセットしてから準備室の教材を運んでくれるかな。二限目は二年生の授業でシルクスクリーンをやっていてね、オリジナルTシャツを作るんだ」
「わあ、懐かしい。私の時は風呂敷でした」
私は吊り下げ式のスクリーンを引っ張り出して、プロジェクターの電源を入れた。先生は黒板に見本のTシャツを磁石で張り付けていた。
「風呂敷は面積が大きくてやりがいあると思ったんだけどねえ、生徒から風呂敷なんて使わないって声が多くて変えたんだよ」
「そうなんですか?私、あの風呂敷はけっこう使ってますよ。形にこだわらずに包めて便利です」
「そうか、包み方まで教えればよかったな。いやあ、盲点だったね。来年の参考にしよう」
「先生、教材はここに並べればいいですか」
「ああ、ありがとう。助かったよ。えーと、ちょっとこっちに来てくれるかな」
高岡先生は準備室に入ると、ドア横の壁に貼ってある時間割表のようなものを指差した。
「これね、各先生方の曜日ごとの時間割。どの先生が何曜日の何限目に授業があるっていうのが全部わかる一覧表です。僕のところはマーカーしてあるので、すぐに分かるね?僕の授業はなるべく見学してください。選択科目なので時間が被っていますが、他の芸術科の先生の授業も見てくださいね。時間に余裕があれば、芸術以外の授業も見て来てください。実習の後半は他の実習生の研究授業も見学するといいですよ」
「はい、色々見学してみます」
「今週は授業を見学しつつ、空いた時間に指導案を作ってください。出来次第、僕がチェックして直します。今週中に指導案を作って、授業準備ができたら実際に授業を行いましょう。授業テーマは決めてきましたか?」
「人物デッサンにしようと思います」
「ふふふ、そうだろうと思いました」
「え?」
「君は人を描くのが好きだから。年間指導計画の流れにも沿ってますから良いと思いますよ。では、それで指導案を考えてきてください」
「わかりました。あの……先生」
「何ですか?」
「私って、人を描くのが好きなんでしょうか?」
「だって君、人を描いている時、夢中になり過ぎて息をするのも忘れる時あるでしょう?」
私は制作中を思い返してみて「はい」と頷いた。すると、先生はおかしそうに笑って「それって好きだってことだと思いますよ」と言った。
美術の授業を見学した後、私は荷物を持って実技棟の一階にある小会議室に移動した。教頭先生が実習生は実技棟の小会議室も使用して良いと話していたからだ。美術室のある実技棟から事務棟の大会議室は正反対の場所にあり、歩くと数分かかるほどの距離がある。恐らく、その不便を思って小会議室を使えるようにしてくれたのだろう。
小会議室に入ると、既に三人の実習生がいた。
「あれ、澤村さん?お疲れ様」
そのうちの一人、一ノ瀬が相変わらず人の良さそうな笑みで私を出迎えた。
「あ、そっか、一ノ瀬くんも芸術だから実技棟にいるんだね」
「そうだけど、澤村さんも芸術科なの?そう言えば、科目聞いてなかった!」
「言ってなかったけ?私、美術だよ」
「え!美術⁉じゃあ、美術部だったの?」
「そりゃあ、まあ」
なんでそんな当たり前のことを聞くのか疑問に思った。
「今でも美術部員の人と繋がりってある?」
「え?いや、誰も分かんないな。私、人付き合い悪くて」
そもそも、高校にいい思い出がないので高校の知り合いとはほとんど連絡をとらくなっていた。
「そうなんだ……そっか」
何故だか、一ノ瀬は残念そうにしていた。ますます疑問は深まるばかりだった。
「えーと、澤村さん?私、飯森雪穂だよ。家庭科ね」
残り二人のうち、ショートヘアの女子が会話に入ってきた。見たことがある顔だなと思ったら飯森は続けて言った。
「二年の時、隣のクラスだったよね?体育と美術で一緒になったことあると思う」
「え……あー、そうかも。ああ、走るのが速かった飯森さんだ?」
「あはは、照れるな。陸上部だったから」
飯森は照れながら笑った。高校の頃もショートヘアだったので、ぼんやりと見覚えがあった。
最後の一人と目が合うと、彼女はにこりと静かに微笑んだ。黒髪のボブヘアで、大人しそうな子だった。
「黒川いつきです。同じ芸術科の書道です、よろしくね」
よろしく、と私は軽く会釈した。書道室は美術室の隣だったので、彼女のことは放課後、何度か見かけたことがあった。たしか、書道部の部長でいつも大きな作品を黙々と書いている子だった。
美術、音楽、書道は同じ芸術科で、生徒たちはこの中から選択して一科目を履修する。学校の規模によっては一教科しかなく選択の余地がなかったり、二教科しかない、あるいは工芸など別の芸術科目があったりするらしい。多くの学校はこの三科目から選ぶ。
「そう言えば、みんなは教免って高校だけ?中学は?」
一ノ瀬の問いに最初に応えたのは飯森だった。
「私は小中高、全部取るよ」
「小学校も?すごいね。私は中高かな。高校だけより実習長くなるけど、中学も取れるならあった方がいいかなって」
「俺も、澤村さんと同じ理由で中高の予定だよ」
教員免許は小中高に別れ、取る免許の種類によって、実習期間は変わる。特に小、中は高校に比べると実習期間が長い。
「私は高校だけ。そもそも、書道って高校しかない教科なので」
黒川以外の三人の声が「えっ!」と被さり、黒川に視線が集まる。
「そうなの?高校だけなの?」
「でも小学校とか書写で書初めしたよ?俺、字汚くて先生にめっちゃしごかれたもん」
「中学でも書初めあったよ、あたしの学校!」
黒川は一気に詰め寄られて「えっと」と困ったように笑って話し出す。
「たぶん、みんなが言っているのは国語科書写のことだと思います。書写は国語の仲間なの。書道は芸術科だから別物なんです」
「へえ、俺は音楽選択だったから知らなかったな」
「あたし、よく分かんないんだけど書写と書道って何が違うの?」
「うーん、すごく簡単に言うなら……書写は正しく書く、書道は美しく書くって感じですかね?」
「……なるほど!」
「なるほどなー!」
私と一ノ瀬がすぐに納得して頷くと飯森だけ不可解そうな顔をしていた。
「え、今の説明ですぐ分かったの?分かってないの、あたしだけ?芸術科の理解、早すぎない?」
「私は黒川さんの言いたいことすごく分かったよ」
「うん、俺も!分かりやすかった!」
「同じ実技科目だけど、やっぱり芸術って違う人種って感じするわー……そう言えば、実技って言うと他に体育の実習生もいなかったけ?」
「体育の人達は体育館遠いから、体育準備室で作業するって言ってたよ。ここは使わないってさ」
「そうなんだ。体育館って遠いもんね。てか、一ノ瀬って本当に顔広いよね。こうして女ばっかりの空間にいても違和感ないっていうか、馴染み過ぎっていうか」
「たしかに、一ノ瀬くんってスクールカーストの頂点って感じしますね」
黒川の言葉に私も横でうんうんと頷いていた。
「なんかチャラチャラしてそうです」
「え⁉そんなことないよ!理系クラスだったから女子少なかったし」
「嘘だね。あたしは文理選択前の一年生の時、一ノ瀬と同じクラスだったけどいっつも一軍の女子と男子に囲まれてたよ。その頃より今の方が女慣れしてる感じがする」
「ちょっと、飯森さん⁉やめてよ、イメージ悪くするの!大学が女子多いのと妹いるから、女子ばっかりの空間に慣れているだけで、普通だよ!」
「あはは、冗談だよ。分かってるって!てか、一ノ瀬って、音大なんだね。澤村さんは美大?黒川さんもそういう系?」
「県外の美大だよ」
「私は教育学部の書道専攻です。小中高の免許取るってことは、飯森さんも教育学部とか、教育大でしょう?」
「うん、そうそう!あたしも教育学部!一緒だね」
「そうですね。でも私は所謂、ゼロ免課程の学生なので、飯森さんと少し違うかも」
「ゼロ免課程?」
私と一ノ瀬の声が重なった。
「ゼロ免課程って言うのは、教育学部の中でも教員免許を取らなくても卒業できる課程のことです」
へー、と私と一ノ瀬の声がまた重なる。教育実習に来ているものの、私は教育学部の学生とはかなり異なる存在なのだと再認識させられた。
「あたしの通ってる大学はゼロ免ないけどさ、ゼロ免の人って教免取る人多いの?」
「少数派ですね。卒業要件じゃないし、教免って授業も多くて実習もあるし大変じゃないですか。教員志望も少ないです。私も免許は一応取るけど、教採も受けるつもりないんです。言っちゃだめだけど」
「あー……私も似たような感じ」
「右に同じく」
私と一ノ瀬が横でうんうんと黒川に同調して頷いた。その様子を見て、飯森は苦笑いしながら言った。
「うーん、芸術は採用枠少ないもんね。教育学部じゃなかったら、なおさらだよね。あたしは、家庭の先生になりたくて教育学部に入ったから、もちろん教採も受けるつもり。でも、普通の教育学部でも、実習で嫌になって先生にならない人もいるし。教員の労働環境が劣悪って言うイメージもあって、普通の企業から内定もらえたら就職選んでた先輩も結構いるよ」
「へー、そういうもんなんだ。俺、教育学部ってみんなが先生になるのかと思ってたよ」
「もうそういう時代じゃないんだよ。教員の仕事って最近はイメージ悪いしね。教師のバトンってハッシュタグ知ってる?SNSで検索すると、体感だけどポジティブ一割、教育現場の闇が九割くらい感じられるよ」
「うわ……感じたくない」
一ノ瀬が渋い顔をすると、飯森はくすっと笑って言葉を続けた。
「でも小学校で実習した時、本当に大変だったけど、やりがいもすごくあったよ。人によるだろうけど、みんなも実習で教師っていいなって思えるといいよね。折角、実習に来たんだから、ね!」
飯森の言葉でネガティブだった空気が少し明るくなった気がした。
「やる気出た!俺も頑張る!」
「飯森さんっていい先生になりそうですね」
「すごい、先生って感じした。ありがとう」
「え、何この空気⁉なんか恥ずかしいんだけど!やめてよー!」
芸術科の三人からキラキラした目で見つめられて、飯森は照れ笑いしていた。
それからは指導案を作成したり、それぞれ授業の見学などをして過ごした。緊張したが、担当クラスの終礼と清掃監督も問題なく終えて、一日目は特に何事も起こることなく終了した。
佐々木美希と再会した時は、実習が不安で憂鬱でしかなかったが、実技棟にいる分には他の実習生も優しい人ばかりで、不安は杞憂に感じられるくらい過ごしやすかった。あんなに苦しかった高校生活も先生側だとそんなに苦しくないものだな、と不思議な心地がした。同じ場所なのに、立場が違うだけで全く別の場所のように感じる。
学校にいる時、あんなに死にたくなるくらい辛かったのに。
今は、スーツを着て、普通に、大人みたいな顔をして学校の中を歩いている。
高校生の頃の私が、今の私を見たらどんな顔をするのかな。
暗い帰り道で学校を振り返った。まだ学校はちらほらと明かりが付いていた。暗がりに浮かぶ白い校舎を見上げても、何も感じなかった。
もう学校を見ても、息は苦しくはならなかった。
***
教育実習が始まって、早数日。
未だに朝と帰りのホームルームは緊張するけれど、先生モドキとしてどうにか過ごしていた。先生と呼ばれても、最初は違和感しかなかったが、何度も呼ばれ続けると不思議と馴染んでくるものだった。
実習は想像以上に忙しくて、佐々木美希と接触することもほとんどなく、指導案を作っている時以外はほとんど走り回っていた。
指導案は授業の設計図だ。どんなテーマで、どんなめあてや目標を持って授業を行うのか、評価基準や授業の時間配分などを事細かに計画して、授業を円滑に進めるためのものである。
教育実習生は素人同然なので、まずは指導案を作って教員にチェックしてもらう。指導案がなくては実習生は授業ができないのだ。
そして、肝心の指導案の作成はなかなかに難航していた。
「導入が弱いかな。最初の五分、だらだら説明するんじゃなくて、導入でいかに生徒の興味を引くかがその後の授業に関わってくる。生徒っていい意味でも悪い意味でも正直だからさ。つまらない授業って本当に聞いてくれないわけだよ。澤村さん」
「はい……」
「人物画の歴史話なんてね、君みたいな美大生は大好物かもしれないけれど、高校の授業でやったらものの数分で何人かは夢の世界行きだよ。もうちょっと素人でも興味を引く簡単な内容で話し始めないとねえ。ましてや、実技科目は舐められがちというか、生徒も休憩気分で来ちゃうから余計にね」
「はい……」
「時間配分だけど準備と片づけに五分ずつ取ってね。休み時間まで押しちゃうと次の授業の先生に迷惑かけちゃうから。やりたいことや伝えたいことがたくさんあるのは結構だけど、時間配分は余裕を持つべきだ。我々、実技は特に。まあ、授業の内容は悪くないから、もう少し修正してきなさい。以上です」
「はい、ありがとうございました……」
がっくりしながら、赤ペンが幾つも入った指導案を抱えて私は美術準備室を出た。大学の授業で指導案作りや模擬授業をしたこともあったが、やはり実際に学校で授業するとなると全く別物だ。高岡先生に指摘されることはその通りのことばかりで、もしこの指導案のとおりに授業をしていたら大惨事になっただろうな、と真っ赤になった指導案を見ながら思った。
指導案を抱えて小会議室に戻ると、一ノ瀬と黒川も同じように指導案で頭を悩ませていた。
「二人ともお疲れ様」
二人は疲れた顔で「お疲れ様」と言いながら顔を上げた。
「高校生の頃とか、授業の一時間がすごく長く感じたのに、指導案作ってると時間足りねー⁉ってなんない?」
「なる!」
「なりますね!」
私と黒川は首が取れそうなくらい大いに頷いた。
「何気なく授業受けてたけど、一時間でしっかり内容を収めて教えてくれていた先生たちに、俺は今猛烈に感謝してる。先生たち、すごいわ。あー、疲れた!」
一ノ瀬はぐっと背中を反らして、伸びをした。私は空いている椅子に座った。
「そう言えば、二人はどんなテーマで授業するの?」
「私は古典臨書を……えーと、美術で言うところのデッサンみたいなことをします」
黒川の広げていた教科書の字を見て私は思わず「難しそう」と呟いた。
「書いてみると楽しいものですよ。一ノ瀬くんは授業で何を?」
「俺は作曲の授業をする予定だよ。俺、音大って言っても作曲科なんだよね」
「一ノ瀬くん、曲とか作るの?すごい!」
「理論を学べば、誰でもできるよ。良し悪しは別としてだけど。澤村さんは授業で何するの?」
「私は人物画……っていうか、自画像を描かせる予定なの。なかなか指導案、うまく書けないけど」
「それは俺も同じ」
「私もです」
三人とも添削で赤だらけになった指導案を見せ合って笑った。
「黒川さんと澤村さんは放課後、部活も出てるんでしょ?大変だね」
「書道部はもともとゆったりした部なのでそうでもないですよ」
「私も美術部は先生が忙しい時に少しアドバイスするくらいしかやってないよ。一ノ瀬くんは部活やってなかったの?」
「俺、放課後は受験対策でピアノ教室に通ってたから部活してないんだ。でも昨日の放課後、教頭が暇でしょって言って俺とか部活やってなかった奴らを集めて、倉庫片づけたりちょっとした雑用の手伝いしたよ」
「それはそれで大変そうですね」
「今後もたまに呼ぶからさっさと指導案を終わらせろって言われたんだけど、全然終わりそうにない。音楽の静先生って高校の時も普通に怖かったけど、実習生の立場だと倍怖い。いや……百倍?」
「ハキハキした感じのかっこいい女性の先生だよね?」
「歩いている姿もきりっとしてて格好いいですよね、あの先生」
「そう!指示的確だし、超いい先生なんだよ!でも怖い」
「一ノ瀬くんみたいなちゃらついた感じの男子に容赦なさそうだもんね」
「だからそれ誤解だって!」
「じゃあ、実習前の髪色は?」
「うっ、ちょっと明るい色だった時はありました……」
「普通にチャラチャラしてますね」
「黒川さんまで!でも、静先生にも初見でお前チャラチャラしてるなって言われた。実習に向けてちゃんと黒髪にしたのに」
「普通に見抜かれてるじゃん」
一ノ瀬がぐうの音も出なくなったところで校内放送が鳴った。手隙の実習生は全校集会の準備のため、講堂に集まるようにとの指示だった。
三人揃って講堂に向かうと、実技棟が一番近いためか、他の実習生はいなかった。しばらくすると、学年主任の年配の先生が来て指示を出した。
「お、早いね。じゃあ、椅子出して、床の目印見ながら椅子並べてって。あと、舞台袖から演台出してね。って、卒業生だから言わんでも分かるか、ハハハ」
学年主任は笑いながら、できたら声かけてね、と後ろの方の椅子に座った。しばらくすると、力のあり余っていそうな体育の実習生や男性ばかりの理数系の実習生が来たおかげで、準備はあっという間に終わった。
「あれー、もう準備終わっちゃったんですかあ?」
全てが終わった頃に、耳障りな声が講堂に響いた。佐々木美希や他の女性陣が入ってきた。佐々木は教育実習でも高校の延長のように取り巻きを作って幅を利かせているようだ。
「せっかくわざわざ講堂まで来たのにねー」
「本棟から講堂遠かったのに」
遅れてやってきた彼女らは作業を手伝ってもいないのに、なぜか文句を言っていて私は口があんぐり開きそうな思いだった。黒川も驚きながらも冷めた目で見ていたので、私と思いは同じだったようだ。他の男性陣は「今、終わったところだよ!」と明るく声をかけていたので、人間ができているなと感心してしまった。
「一ノ瀬、なんか久々に見たわ!初日以外全然見かけないけど、どこにいんの?」
ノリの良さそうな数学の実習生に一ノ瀬が絡まれていた。
「いや、普通に実技棟にいるけど」
「そういやお前、担当音楽だっけ?楽器とかできんの?そこのピアノで何か弾いてくれよ!」
「講堂のピアノ勝手に触ったらだめだから無理。それに俺は作曲専攻だから」
「音大なのにピアノ弾けねーの⁉」
「いや、普通に弾けるけど、専攻が違うんだって」
「ねー、一ノ瀬くん、たまにはこっちの会議室にも来てよー。こいつらうるさ過ぎなの!一ノ瀬くんの爽やか笑顔で癒されたーい」
「あたしもー」
「スマイルくださーい」
「ちょっと、面倒な絡み方しないでよ。俺、まだ指導案が……」
一ノ瀬の周りにわらわらと男子が集まり、そして女子もその輪に入り始めた。その中には佐々木もいた。私は逃げるようにそそくさと講堂を出た。
「待って、澤村さん」
講堂前の廊下を歩いていると、後ろから黒川が追いかけてきた。彼女もさっさとあの場から退散したらしい。
「小会議室に戻るんでしょう?私も戻るから一緒に行きましょう」
黒川は講堂を振り返って苦笑しながら言った。
「出てくるとき、一ノ瀬くんの視線を感じたような気がするけど置いてきちゃいました」
「懸命な判断だね」
「一ノ瀬くんって相変わらず人気者ですね」
「高校の時から知ってるの?」
「一年の時、隣のクラスだったので。体育祭とか文化祭とかいつも目立ってましたよ」
「へー、そんな感じする。彼、話しやすいもんね。私みたいな絵しか興味ない根暗とも気さくに話してくれるし」
「それを言うなら私も書道ばかりしている根暗ですよ」
似た者同士だね、と黒川と顔を見合わせて笑い合った。
「私ね、澤村さんと二人になったら、聞きたかったことあったんですよ」
「え、何だろう?」
「澤村さんってSNSやってます?絵のアカウントとか」
「あるよ。ほぼ自分用に進捗とか作業工程を写真撮って載せてるだけの味気ないアカウントだけど」
「やっぱり!このアカウント、澤村さんですよね⁉」
いつも物静かな黒川が興奮気味に携帯電話の画面を見せてきた。そこには私のアカウントの画面があった。
「ああ、これ、そうそう、私。フォローしてくれてるんだ、ありがとう。でも何で?」
「何でって去年の澤村さんの絵を見てファンになってフォローしたに決まってるじゃないですか!あの時、フォロワー一気に増えたんじゃないですか?」
「去年……ああ、あれか。そうなんだ、ありがとう。いや、私、SNSあんまり慣れてなくてよく分かってなくて」
「最初は同姓同名かなって思ってたんですけど、もしかしてって思って。すごいですね、澤村さん!あの絵も最高でした!」
「いや、凄いのは私じゃなくて、依頼主の……」
「澤村さーん、黒川さーん!」
名前を呼ばれて、私たちは会話を止めて声の方を見ると、飯森が廊下の反対側から歩きながら手を振っていた。
「飯森さん、授業見学だったの?なんかいい匂いするね」
飯森のスーツから甘い香りが漂っていた。
「そうそう、さっきまで調理実習でね。補助もしてたの。ほら、お土産のカップケーキ!」
「え、いいの?やったー!」
「嬉しいです」
「講堂で全校集会の準備してたんでしょ?二人ともお疲れ様。あれ、一ノ瀬は?あいつの分も持ってきたのに」
「講堂で元スクールカースト上位の方々と戯れてたよ」
「じゃ、これはあたしが食べるか」
そこからは三人で話しながら小会議室に戻った。
「もうさ、カップケーキ焼くだけなのになぜかカップケーキがオーブンの中で燃えかけてて、大変だったんだよ。そしたら家庭の先生が、毎年一人は燃やすのよねって呟いてて笑いそうだったけど、教師の立場だと笑えないわって真顔になったわ」
「確かに生徒側だと笑えるけど、先生側じゃ笑えないよね」
「調理実習って準備とか片付けも大変そうですね」
飯森の調理実習の話を聞いていたらすぐに小会議室に着いた。指導案の続きに取りかかろうとして、私は異変に気付いた。
「あれ……ない」
私が作業していたはずの机の上が真っ新になっていたのだ。放送で呼び出されて、筆記具すら仕舞わずに出て行ったのに、書きかけの指導案もペンケースすらなかった。高校の時の記憶が蘇って、嫌な予感がした。飯森と黒川に気づかれないように、部屋の隅にあるゴミ箱に近づいて中を覗いたら案の定だった。
ああ、何度も見たことがある光景だ。懐かしさすら感じる。
破かれた指導案。壊された筆記具やペンケース。既視感があるのは、高校生の時に数えきれないくらい同じ光景を目にしたからだ。怒りよりも諦めに近いようなあの懐かしい感覚がして、私はゴミ箱の前で立ち尽くした。
思い出したくない過去が、あの苦しい日々が、脳内に鮮明に蘇える。
***
高校三年生の春、それは唐突に始まった。
あの日のことは今でも鮮明に覚えている。新学期が始まってまだ二日目だった。クラス替えで半分は名前も顔も知らない面子になっていた。もともと友人が多いほうではない。グループワークがあったらどうしようか。朝から憂鬱になりつつも、通り教室に入った。
その一歩からすべてが変わった。
教室に足を踏み入れた途端、みんなが話すのをやめた。数秒、痛々しいくらいの沈黙が続いて、くすくすと笑う声が聞こえた。異様な空気に違和感を覚えながら、自分の机の前まで行って、声を失った。
机の上にゴミ箱が逆さまに立てて置かれ、机上や周囲にゴミが散乱していた。机の中のノートや教科書は汚され、引き裂かれていた。目の前の光景が信じられなくて、固まることしかできなかった。
「何これ……」
震える声で呟く。
それまでの短い人生で、幸運にもいじめられたことはなかった。小中学校で大なり小なりの諍いはあった。それでも、軽い無視や仲間外れ程度で何事もなかったように無くなる程度のものだった。
だから、ここまで明確に悪意を持って、目に見えて危害を加えられたのは初めての経験だった。
どうして。誰が。私が何かしたの。
わからない、わからない……。
疑問ばかり浮かんだけれど、恐怖で言葉にはならなかった。突然向けられた悪意は足が震えるほど恐ろしかった。
呆けていると「ねえねえ、香ちゃん」と後ろから愉快そうな声がした。恐怖に包まれながら振り返ると、そこには佐々木美希がいた。
佐々木美希はクラスで一番可愛らしく、お洒落で、目立つ生徒だった。これまで同じクラスになったことはなかったけれど、パッと見てスクールカーストの上位の人だろうと思った。私が知らないだけで学年では有名な人のようだった。ほとんど面識のない彼女がフレンドリーに下の名前で呼んで来ることも、この状況で話しかけてくる意味もすべて理解できなかった。
「机、汚れてるよ?先生来ちゃうから、早く片付けてね」
彼女はにっこり笑ってそう言った。すると、彼女を取り巻くクラスの上位グループの男女が大声で笑った。その時、私は状況を急激に理解した。
これから私、いじめられるんだ。
そう思った。
その日以降、佐々木美希によって私を標的にしたいじめが始まった。無視は当然で、グループワークは誰も私と組まない。毎日ノートや筆記具、鞄や靴など私物に悪戯をされる。教員がいない時は佐々木美希を中心に暴力、暴言が浴びせられた。教員がいる時は、これ見よがしに携帯でメッセージをやりとりしてくすくす笑う。いじめは学校だけで終わらずに、SNS上でも続き、新学期の初日に作られたクラスのグループチャットでは悪口は当たり前で、盗撮した私の写真や動画を加工してクラスメイト達は楽しんでいた。嫌になって私はグループチャットから抜けた。
高校三年生というタイミングも悪かった。もともと進学校で勉強は大変だったが、受験を意識してテストや課題は以前よりも目に見えて増えた。そのストレスの捌け口にするように、佐々木が先導するいじめを他のクラスメイトも楽しむようになっていった。日に日にいじめは酷くなっていった。二週間もすると、いじめはすっかりクラスの日常になっていた。
「どうして、私なの。どうして、こんなことするの」
佐々木美希に酷いことをされる度に問うた。彼女は決まって愉しそうに嘲って「あんたが大嫌いだからだよ」と言った。
最初から疑問しかなかった。佐々木美希とは高校三年生で初めて同じクラスになった。彼女のことはそれまで名前すら知らず、勿論話したこともなかった。新学期の初日に「はじめまして、よろしく」と軽く挨拶したような気がする。ただ、それだけ。他になんの接触もなかった。
どれだけ考えても、彼女が執拗に私をいじめ、私を嫌う理由は分からなかった。
毎日、いじめられるために学校へ行っているようだった。佐々木美希は狡猾で学校にばれないようにいじめをした。担任に相談しても、証拠もなく、信じてもらえなかった。佐々木美希も言いがかりだと反論した。担任は人気者の佐々木美希を信じた。その上、告げ口したことでいじめはさらに悪化した。
教室にいると息が詰まって、度々保健室に逃げ込んだ。放課後、美術室で絵を描いている時間だけ、学校で息が出来た。苦しみながらも学校に通ったのは、高校最後の美術展に出品する絵を仕上げたかったからだ。けれど、いじめが始まって一カ月くらい経った頃、突然ぷつりと糸が切れた。
「足が……動かない」
今日は何をされるだろう、そう思うと足が竦んで校門から先に進めずに逃げ帰った。親に本当のことは言えなかった。体調不良を理由にしばらく学校を休んだ。自室に籠って、私は隠れながら絵を描いた。
ずっと、ずっと、ひたすらに絵を描いていた。
家にいるからと言って心が安らぐわけではなかった。両親はその頃、不仲のピークで毎夜毎夜、喧嘩する声が漏れ聞こえていた。私の不登校も不仲に拍車をかけていたのだろう。怒鳴り声がする夜は眠れず、やはり絵を描いた。
絵を描いている間は他のことを考えなくて済む。何も考えたくなくて、ひたすらに絵を描き続けた。
そうして絵を一枚描き上げた。
「今日も学校を休むの?学校で何かあったわけじゃないんでしょう?ただのずる休みでいつまで休むつもりなの!」
毎朝、母親は怒ったように言って仕事に出かけた。もともと口煩い人だったが、心配と不安が綯い交ぜになってそんな言い方をしていることは子供の私にも分かっていた。それでも、辛かった。学校に行ってほしい、うちの子がいじめられるわけがない、普通でいてほしい。そんな願いの滲んだ母の言葉を聞くのも辛かった。家はずっと居られる逃げ場所ではなかった。
梅雨が始まる頃、私は結局、どこにも逃げ切れずにまた学校に通った。
いじめは当たり前のように続いた。それでも、私には絵があった。絵だけが心の支えだった。授業が終わった後は、部活へ、その後は美大受験のために画塾へ通った。学校以外の時間は絵を描くために使った。学校でどんな辛いことがあっても、絵を描き続けた。
いつの間にか、私の描く絵は暗く哀しいものになっていった。
「澤村さん、おめでとう。美術展の最優秀賞に選ばれましたよ!」
長い梅雨も終わりそうな頃、美術部顧問だった高岡先生が嬉しそうに報告してくれた。有名な美術展で一番の賞を受賞した。その絵は、不登校になった後も、家でもがき苦しみながら仕上げた絵だった。
素直に嬉しくて、涙が滲んだ。
その絵は学校で最も目立つ場所、生徒玄関前の壁に飾られた。学校長など学校の偉い人たちも大喜びするくらいには素晴らしい賞だったらしい。わざわざ美術展で受賞したことを記載したキャプションまで添えられていた。その絵は私が卒業するまでずっとその場所に飾られた。
絵が飾られてから数日後、その日は高校生活で最低な一日だった。
「お父さんとお母さんね、離婚することになったから」
家を出ようと靴を履いている時に、母は言った。父は興味なさげにダイニングで新聞を読んでいた。
「……え、本当に?」
毎夜聞いていた両親の言い争う声。薄々そんな予感はしていた。それでも、動揺しているまだ子供な自分がいた。
「来年は香も進学で家を出るだろうし、良いタイミングだと思ってね。離婚することにしたのよ」
「……そう」
「あなたの卒業前に離婚するわ。三学期ならほとんど自由登校だし、離婚して名前が変わってもそんなに目立たないでしょう?手続きは来年の初めにするからそう思っておいて頂戴ね」
無言で頷いて家を出た。相談でもなく、決定事項。頷く以外、私にできることはなかった。
憂鬱な朝だった。降りしきる雨の中、重い足取りで登校すると、玄関ホールに飾られた自分の絵が視界に飛び込んできた。絵に描かれた女の子と目が合う。
絵の中では、小さな女の子が嬉しそうにクレヨンを持って、画用紙に絵を描いている。母親の膝の上に座って、白い歯を覗かせて幸せでたまらないといった表情だ。鑑賞者を描こうとでも言うように、その瞳はこちらを向いていて、クレヨンを持つては小さな椛のよう。
その少女は、幼い頃の私自身だった。
母に抱っこされ、嬉しそうに目の前に座る父を描いている。お絵描きが大好きで、父母もまだ仲睦まじく、私の最も幸福だった頃の記憶。まるで、アルバムから思い出の一枚を取り出したような絵だった。屈託なく笑う絵の中の幼い自分が羨ましく見えた。こんなに幸福そうな絵なのに、どこか切なく見える。
ぼんやりと絵を見つめていると、視線を感じてふと横を向いた。少し離れた所から、佐々木美希が私を睨んでいた。それはもう、凄まじい怒りの形相だった。ぞっとした。心当たりはないが、何か怒らせたのだろうか。きっと今日も手酷くいじめられる。諦めた気持ちで、私は佐々木を見ないふりをして下を向いて教室に向かった。
予想通り、その日は普段よりも酷いいじめに遭った。
佐々木美希は機嫌が悪く、何かというと私を後ろから蹴った。いじめやすいようにか、休んでいる間に私の座席は佐々木の前になっていた。クラスメートが集めて提出した課題は、私のプリントだけ捨てられていた。体育のバスケットボールはただ私にボールを当てるゲームに変わっていた。そんな小さな嫌がらせが積み重なっていく。私はただ静かに時間が過ぎるのを待った。
放課後、押し付けられた教室の清掃当番を一人で終えて、やっと一息ついた。
水曜日は、基本的にすべての部活動が休みなので、放課後の学校も静かだった。画塾まで少し時間があったので、私は美術室に向かった。三年生は受験勉強のため、六月で退部する決まりなので私はもう美術部員ではない。けれど、高岡先生は私が何かに悩んでいることは察していて、好きな時に美術室を使ってよいと言ってくれていた。その好意に甘え、画塾が休みの日は美術室を使っていた。
美術室に入ると案の定、誰もいなかった。
画塾では受験対策でデッサンや試験用の油絵ばかりやっているので、学校では息抜きにちまちまと好きな絵を描いていた。完成したら、文化祭で行う美術部の作品展で展示してくれるという。画塾までの短い時間、少しずつ絵を進めていた。
静かな美術室で、黙々と作業をしていると高岡先生が準備室からひょっこり顔を出す。
「香さん、今日も来ていたんですね」
先生は私に飴玉を一つくれた。私はお礼を言って受け取った。
「顔色、少し悪いですよ。この後、画塾もあるのでしょう?無理しないように」
不登校を経て、高岡先生は今まで以上に私を気にかけてくれるようになった。
「何か悩みがあれば、僕でも周りの大人に頼りなさい」
「……大丈夫です」
不器用に笑って頷いた。いじめられていると親にすら言えないのに、先生にはもっと言えなかった。恥ずかしかった。いじめられていると誰にも知られたくなかった。
高岡先生は何か言いたげな顔をしていた。
「それじゃあ、僕はこれから職員会議なので。ほどほどにね」
先生が去った後、休憩がてらお茶を飲もうとして水筒を教室に忘れたことに気が付いた。絵筆を置いて一旦、美術室を出た。教室へ行くと、受験勉強をしている人たちがちらほらいた。佐々木美希がいないことにほっとしながら水筒を取ってまた美術室に戻る。人気のない廊下をとぼとぼと歩いていると向こうから歩いてくる人影をぼんやり視界の端に映していた。かなり近づいてからはっと立ち止まる。こちらに歩いてきたのは、あの佐々木美希だった。