「はい、じゃあ、みんなのお待ちかね。教育実習の先生に挨拶してもらいます」
連絡事項が終わると、担任の先生は教卓から退いて隅に立っていた私を手招きした。生徒たちはきゃっきゃっと楽しそうな声を上げてはしゃいでいる。私はおずおずと教卓の前に立つ。生徒の時と真逆の視点は、新鮮で不思議な感覚だった。一段高いところから教室全体を見回す。意外と後ろの席まで生徒たちの顔も手元もはっきり見える。中高時代に隠れて落書きしていて怒られたのも、この眺めなら仕方ないと思えた。興味津々で私を見つめる何十もの視線を受け止めながら、私は緊張気味に口を開いた。
「澤村香です。今日から教育実習生として短い間ですがこのクラスでお世話になります。担当は美術です。よろしくお願いします。美術選択の人は授業でもよろしくお願いします」
丁寧に頭を下げると、大きな拍手が帰ってきた。ほっとして顔を上げた。
「今日の帰りから澤村先生がホームルームやるから、お前たちは騒がず大人しく真面目にするように!」
「はーい」
「いつも真面目でーす!」
生徒たちから冗談交じりの返事が返ってくると、担任の先生は「うそこけ!」とわざとらしく怖い顔をして応戦した。生徒たちが笑うと、さらに教室は賑やかになった。担任と生徒、双方が明るい気質なのだろう。相乗効果で一年生のどのクラスより賑やかだった。
ホームルームが終わると、担任の先生は二年生の授業があると言い、小走りで去って行った。私は一旦、職員室に戻って出欠を記入してから、会議室に置いていた荷物を持って美術準備室に向かった。実技棟の二階に来ると、高岡先生が忙しそうに授業の準備をしていた。
「高岡先生!遅くなってすみません」
「香さんじゃなくて、はま……でもなくて、澤村先生!やだね、歳をとるとぱっと名前が出て来なくて」
高岡先生はロマンスグレーの髪を掻き上げて唸った。
「生徒の前でうっかり香さんと呼んだらセクハラと言われそうで怖いね」
「元美術部員と言えばすぐに解決しますよ。何か手伝えることはありますか?」
「じゃあ、プロジェクターをセットしてから準備室の教材を運んでくれるかな。二限目は二年生の授業でシルクスクリーンをやっていてね、オリジナルTシャツを作るんだ」
「わあ、懐かしい。私の時は風呂敷でした」
私は吊り下げ式のスクリーンを引っ張り出して、プロジェクターの電源を入れた。先生は黒板に見本のTシャツを磁石で張り付けていた。
「風呂敷は面積が大きくてやりがいあると思ったんだけどねえ、生徒から風呂敷なんて使わないって声が多くて変えたんだよ」
「そうなんですか?私、あの風呂敷はけっこう使ってますよ。形にこだわらずに包めて便利です」
「そうか、包み方まで教えればよかったな。いやあ、盲点だったね。来年の参考にしよう」
「先生、教材はここに並べればいいですか」
「ああ、ありがとう。助かったよ。えーと、ちょっとこっちに来てくれるかな」
高岡先生は準備室に入ると、ドア横の壁に貼ってある時間割表のようなものを指差した。
「これね、各先生方の曜日ごとの時間割。どの先生が何曜日の何限目に授業があるっていうのが全部わかる一覧表です。僕のところはマーカーしてあるので、すぐに分かるね?僕の授業はなるべく見学してください。選択科目なので時間が被っていますが、他の芸術科の先生の授業も見てくださいね。時間に余裕があれば、芸術以外の授業も見て来てください。実習の後半は他の実習生の研究授業も見学するといいですよ」
「はい、色々見学してみます」
「今週は授業を見学しつつ、空いた時間に指導案を作ってください。出来次第、僕がチェックして直します。今週中に指導案を作って、授業準備ができたら実際に授業を行いましょう。授業テーマは決めてきましたか?」
「人物デッサンにしようと思います」
「ふふふ、そうだろうと思いました」
「え?」
「君は人を描くのが好きだから。年間指導計画の流れにも沿ってますから良いと思いますよ。では、それで指導案を考えてきてください」
「わかりました。あの……先生」
「何ですか?」
「私って、人を描くのが好きなんでしょうか?」
「だって君、人を描いている時、夢中になり過ぎて息をするのも忘れる時あるでしょう?」
私は制作中を思い返してみて「はい」と頷いた。すると、先生はおかしそうに笑って「それって好きだってことだと思いますよ」と言った。