その年の梅雨はやけに長かった。
雨の多い金沢に慣れていても、長い梅雨にはうんざりだった。毎日、毎日、降り続ける雨で街の中心を流れる犀川は濁っていた。コーヒー牛乳みたいな色をした犀川を横目に水たまりを避けながら歩いた。学ランや靴が濡れるのは嫌だけれど、梅雨の傘を打つ雨音の響きは嫌いではない。イヤホンを付けながら通勤通学をしている人を見ると勿体ないなと思う。雨の日しか聞けない雨音に耳を澄ませばいいのに。長い梅雨で一つだけ楽しみなのは、雨音の奏でるリズムだった。
有り難いことに家から学校までは歩ける距離にあった。梅雨のバス通学は濡れる上にバス内は湿気が酷く、地獄だと友人が言っていた。もたもた歩いていると「おはよう!」と野球部の友人に追い抜かされた。野球部の友人は雨合羽を着て自転車で颯爽と校門に消えていった。野球部のタフさに驚いていると予鈴が鳴って慌てて走った。
傘の水滴を払って、傘立てに傘を突っ込み、玄関ロッカーで靴を履き替える。いつも通りの朝だ。ふと妹のことを想った。妹はこのいつも通りさえできない。奪われてしまった。妹は思いやりがあって、控えめな性格だけれど、いつも笑顔で、明るい子だった。家族を照らしてくれたあの笑顔はもう見られない。笑顔にしてあげることもできない。何もできない、してやれない。
長く、そして重いため息が漏れ出た。
広い生徒玄関は、遅刻間際の時間で閑散としていた。重い足取りで玄関から廊下に出た。遅刻しないようにと前を急ぎ足で歩く生徒が一瞬、立ち止まり、壁を数秒見上げた。そしてはっとして、その人たちはまた急いで歩き出す。何を見ていたのだろう、と思い、自分も同じように顔を上げる。生徒玄関前のホール、その白くて大きな壁に一枚の絵画が飾られていた。
絵の中の女の子と目が合って、息をするのを忘れた。
釘付けになった。クレヨンと画用紙を持ってにっこり笑う、可愛らしい女の子の絵だった。写真と見紛うくらいの精密で繊細な絵。絵具の質感が分かるくらい近くで見なければ、きっと俺は写真だと思っただろう。その女の子の屈託のない笑顔が、幼い頃の妹と重なって見えた。
「お兄ちゃん、ピアノ弾いて!」
絵を見ていると、幼い妹の声が聞こえてくるようだった。
小さい頃の記憶が蘇る。年の離れた妹は可愛くて仕方なかった。赤ちゃんの時から、ピアノを弾くと喜んでくれる子だった。話せるようになると、ピアノを弾いて、弾いてとせがむようになった。それが嬉しくてたくさん練習した。
誕生日に、凜の曲が欲しいと言われた。叶えてやりたくて必死で曲を考えた。それが初めて作った曲だった。今思えば簡単で単調でありきたりな曲だった。でも凜は大喜びして、何度もその曲を弾かされた。
そんな幸せで堪らない時間が、確かにあった。
「幸せな記憶……」
絵画の横に添えられたキャプションに作品名が書かれていた。
絵を見上げていると、すっと一筋の涙が零れた。ずっと会いたかった妹の笑顔に会えた気がした。学校に行けなくていい、逃げていい、何でもいいから笑っていて欲しい。俺の作った曲で、俺の弾くピアノで、妹にもう一度笑って欲しい。
誰かを、大切な人を、笑顔にできる音楽を俺は創りたかったんだ。
「……音楽、やめたくない」
涙を拭って、自分に語りかけるように呟いた。今まで押し潰すように、隠してきた。けれどもう、本当の気持ちははっきりしていた。
たった一枚の絵が大切なことを思い出させてくれた。絵に興味なんて今までなかった。絵の知識だってない。それなのに、この絵には何か惹きつけてやまない力があった。誰が描いたんだろう。キャプションを見ると学年と名前が書かれていた。
「同じ三年なんだ。知らない人だな、浜木……何て読むんだろう、メンカかな?」
顔も知らないハマキメンカに感謝した。同じ高校生でこんなにも凄い絵を描く人がいることに驚きが隠せなかった。ずっと絵を見ていたと思った時、本鈴が鳴った。
「やばっ!遅刻だ!」
慌てて教室へ走った。通学路の重い足取りは嘘みたいに軽くなっていて、久しぶりに階段を駆け上がった。
その日、家に帰ってから両親に頭を下げた。やっぱり音大に行きたい、と言うと父は「やっと言ったか」と笑った。母は黙っていたけれど、夕飯は俺の好物ばかりだった。夕食の後、久しぶりに古い楽譜を引っ張り出してピアノを弾いた。拙い、下手くそな音符と記号が並ぶ楽譜は懐かしかった。足音がして、母かと思って振り返ると、そこにいたのは凛だった。
「え、凛……⁉」
動揺して、手を止めた。凜が部屋から出て、顔を見せるのは本当に珍しいことだった。たまに姿を見せても顔を伏せて、目を合わせない。そして逃げるように去ってしまうのが常だった。その凜が隠れもせず、姿を見せて、こちらをまっすぐ見つめていた。
「その曲……」
凛は楽譜を指差した。
「凛のテーマソングだね」
顔を見て話すのはいつぶりだろう。妹は照れくさそうに、はにかんだように歯を見せて笑った。俺は泣きそうになりながら「そうだよ」と言った。
「覚えてたのか?」
「忘れないよ、お兄ちゃんが作ってくれた凛の曲だもん」
古く色あせた楽譜には「りんのテーマ」と書かれている。凜の誕生日に作った、初めての曲。凜はピアノの近くまで来て、懐かしそうに楽譜を取った。
「私、この曲大好きだよ。楽譜見なくても弾けるよ」
「じゃあ、連弾する?」
「うん!」
隣に座って凛と久しぶりにピアノを弾いた。つっかえながらも、凜は最後まで演奏した。懐かしくて、嬉しくて堪らなかった。時間が戻ったようだった。弾き終わると、凜は鍵盤に視線を落としたまま、話し始めた。
「お兄ちゃん、ごめんね」
「何で謝るの?」
「心配かけてるから。私のせいで音大行くのやめようとしてたんでしょ?」
「違うよ、俺が勝手に色々考えすぎてただけ。凛のせいじゃない。それにやっぱり音大受験するって決めたし」
「本当?音大行く?」
「受かればね」
「受かるよ!お兄ちゃんのピアノ、すごいもん!お兄ちゃんは曲も作れるし、天才だもん!」
ありがと、と言って笑うと凜は小さく微笑んだ。
「凛のこと、もう心配しなくて大丈夫だよ」
「心配くらいさせてよ」
「だめ、お兄ちゃんは心配し過ぎるから」
「無理してない?」
凜は力強く、大丈夫と言った。
「お兄ちゃん……私ね、今でも私をいじめた子たちが怖いよ。あの子たち、謝りに来た時に言ってた。私をいじめた理由なんて特にないんだって。誰でもいいからいじめたくて、気の弱そうな子なら誰でも良かったんだって。先生も、お父さんもお母さんも言ってた。哀しいけど、世の中にはそういう意地悪な人は必ずいるって。大人になるほど出会うって」
「そうだね……確かにそうかもしれない」
「これからそういう人に出会ったら、逃げればいいんだって。逃げていいんだって。逃げながらでも、生きて前に進めればそれで花丸なんだって」
凜は自分に言い聞かせるように話し続けた。こんなに長く、たくさん話す妹を見るのは、不登校以来だった。
「学校はまだ保健室までしか行けてないけど……フリースクールとか、学校以外にも色んな場所があるって分かったの。だから、私ね、もう自分のお部屋から出るよ」
凜は膝に載せた小さな手をぎゅっと握りしめて、決意したように顔を上げた。そして、俺を安心させるように凜は力強く笑って見せた。
「学校に行けても、行けなくても、私なりに頑張って私の居場所を見つけるよ!」
久しぶりに近くで見た妹の顔は少し大人びていた。小さいと思っていた妹は思ったより大きくて、頼もしかった。妹に弱い俺は、不覚にも泣いてしまって「お兄ちゃん、泣き虫だね」と笑われてしまった。
その夜、何となく眠れなくて曲を書いた。
妹や、妹みたいに哀しい思いをした人たちが癒されるような、そんな優しい曲を。
雨の多い金沢に慣れていても、長い梅雨にはうんざりだった。毎日、毎日、降り続ける雨で街の中心を流れる犀川は濁っていた。コーヒー牛乳みたいな色をした犀川を横目に水たまりを避けながら歩いた。学ランや靴が濡れるのは嫌だけれど、梅雨の傘を打つ雨音の響きは嫌いではない。イヤホンを付けながら通勤通学をしている人を見ると勿体ないなと思う。雨の日しか聞けない雨音に耳を澄ませばいいのに。長い梅雨で一つだけ楽しみなのは、雨音の奏でるリズムだった。
有り難いことに家から学校までは歩ける距離にあった。梅雨のバス通学は濡れる上にバス内は湿気が酷く、地獄だと友人が言っていた。もたもた歩いていると「おはよう!」と野球部の友人に追い抜かされた。野球部の友人は雨合羽を着て自転車で颯爽と校門に消えていった。野球部のタフさに驚いていると予鈴が鳴って慌てて走った。
傘の水滴を払って、傘立てに傘を突っ込み、玄関ロッカーで靴を履き替える。いつも通りの朝だ。ふと妹のことを想った。妹はこのいつも通りさえできない。奪われてしまった。妹は思いやりがあって、控えめな性格だけれど、いつも笑顔で、明るい子だった。家族を照らしてくれたあの笑顔はもう見られない。笑顔にしてあげることもできない。何もできない、してやれない。
長く、そして重いため息が漏れ出た。
広い生徒玄関は、遅刻間際の時間で閑散としていた。重い足取りで玄関から廊下に出た。遅刻しないようにと前を急ぎ足で歩く生徒が一瞬、立ち止まり、壁を数秒見上げた。そしてはっとして、その人たちはまた急いで歩き出す。何を見ていたのだろう、と思い、自分も同じように顔を上げる。生徒玄関前のホール、その白くて大きな壁に一枚の絵画が飾られていた。
絵の中の女の子と目が合って、息をするのを忘れた。
釘付けになった。クレヨンと画用紙を持ってにっこり笑う、可愛らしい女の子の絵だった。写真と見紛うくらいの精密で繊細な絵。絵具の質感が分かるくらい近くで見なければ、きっと俺は写真だと思っただろう。その女の子の屈託のない笑顔が、幼い頃の妹と重なって見えた。
「お兄ちゃん、ピアノ弾いて!」
絵を見ていると、幼い妹の声が聞こえてくるようだった。
小さい頃の記憶が蘇る。年の離れた妹は可愛くて仕方なかった。赤ちゃんの時から、ピアノを弾くと喜んでくれる子だった。話せるようになると、ピアノを弾いて、弾いてとせがむようになった。それが嬉しくてたくさん練習した。
誕生日に、凜の曲が欲しいと言われた。叶えてやりたくて必死で曲を考えた。それが初めて作った曲だった。今思えば簡単で単調でありきたりな曲だった。でも凜は大喜びして、何度もその曲を弾かされた。
そんな幸せで堪らない時間が、確かにあった。
「幸せな記憶……」
絵画の横に添えられたキャプションに作品名が書かれていた。
絵を見上げていると、すっと一筋の涙が零れた。ずっと会いたかった妹の笑顔に会えた気がした。学校に行けなくていい、逃げていい、何でもいいから笑っていて欲しい。俺の作った曲で、俺の弾くピアノで、妹にもう一度笑って欲しい。
誰かを、大切な人を、笑顔にできる音楽を俺は創りたかったんだ。
「……音楽、やめたくない」
涙を拭って、自分に語りかけるように呟いた。今まで押し潰すように、隠してきた。けれどもう、本当の気持ちははっきりしていた。
たった一枚の絵が大切なことを思い出させてくれた。絵に興味なんて今までなかった。絵の知識だってない。それなのに、この絵には何か惹きつけてやまない力があった。誰が描いたんだろう。キャプションを見ると学年と名前が書かれていた。
「同じ三年なんだ。知らない人だな、浜木……何て読むんだろう、メンカかな?」
顔も知らないハマキメンカに感謝した。同じ高校生でこんなにも凄い絵を描く人がいることに驚きが隠せなかった。ずっと絵を見ていたと思った時、本鈴が鳴った。
「やばっ!遅刻だ!」
慌てて教室へ走った。通学路の重い足取りは嘘みたいに軽くなっていて、久しぶりに階段を駆け上がった。
その日、家に帰ってから両親に頭を下げた。やっぱり音大に行きたい、と言うと父は「やっと言ったか」と笑った。母は黙っていたけれど、夕飯は俺の好物ばかりだった。夕食の後、久しぶりに古い楽譜を引っ張り出してピアノを弾いた。拙い、下手くそな音符と記号が並ぶ楽譜は懐かしかった。足音がして、母かと思って振り返ると、そこにいたのは凛だった。
「え、凛……⁉」
動揺して、手を止めた。凜が部屋から出て、顔を見せるのは本当に珍しいことだった。たまに姿を見せても顔を伏せて、目を合わせない。そして逃げるように去ってしまうのが常だった。その凜が隠れもせず、姿を見せて、こちらをまっすぐ見つめていた。
「その曲……」
凛は楽譜を指差した。
「凛のテーマソングだね」
顔を見て話すのはいつぶりだろう。妹は照れくさそうに、はにかんだように歯を見せて笑った。俺は泣きそうになりながら「そうだよ」と言った。
「覚えてたのか?」
「忘れないよ、お兄ちゃんが作ってくれた凛の曲だもん」
古く色あせた楽譜には「りんのテーマ」と書かれている。凜の誕生日に作った、初めての曲。凜はピアノの近くまで来て、懐かしそうに楽譜を取った。
「私、この曲大好きだよ。楽譜見なくても弾けるよ」
「じゃあ、連弾する?」
「うん!」
隣に座って凛と久しぶりにピアノを弾いた。つっかえながらも、凜は最後まで演奏した。懐かしくて、嬉しくて堪らなかった。時間が戻ったようだった。弾き終わると、凜は鍵盤に視線を落としたまま、話し始めた。
「お兄ちゃん、ごめんね」
「何で謝るの?」
「心配かけてるから。私のせいで音大行くのやめようとしてたんでしょ?」
「違うよ、俺が勝手に色々考えすぎてただけ。凛のせいじゃない。それにやっぱり音大受験するって決めたし」
「本当?音大行く?」
「受かればね」
「受かるよ!お兄ちゃんのピアノ、すごいもん!お兄ちゃんは曲も作れるし、天才だもん!」
ありがと、と言って笑うと凜は小さく微笑んだ。
「凛のこと、もう心配しなくて大丈夫だよ」
「心配くらいさせてよ」
「だめ、お兄ちゃんは心配し過ぎるから」
「無理してない?」
凜は力強く、大丈夫と言った。
「お兄ちゃん……私ね、今でも私をいじめた子たちが怖いよ。あの子たち、謝りに来た時に言ってた。私をいじめた理由なんて特にないんだって。誰でもいいからいじめたくて、気の弱そうな子なら誰でも良かったんだって。先生も、お父さんもお母さんも言ってた。哀しいけど、世の中にはそういう意地悪な人は必ずいるって。大人になるほど出会うって」
「そうだね……確かにそうかもしれない」
「これからそういう人に出会ったら、逃げればいいんだって。逃げていいんだって。逃げながらでも、生きて前に進めればそれで花丸なんだって」
凜は自分に言い聞かせるように話し続けた。こんなに長く、たくさん話す妹を見るのは、不登校以来だった。
「学校はまだ保健室までしか行けてないけど……フリースクールとか、学校以外にも色んな場所があるって分かったの。だから、私ね、もう自分のお部屋から出るよ」
凜は膝に載せた小さな手をぎゅっと握りしめて、決意したように顔を上げた。そして、俺を安心させるように凜は力強く笑って見せた。
「学校に行けても、行けなくても、私なりに頑張って私の居場所を見つけるよ!」
久しぶりに近くで見た妹の顔は少し大人びていた。小さいと思っていた妹は思ったより大きくて、頼もしかった。妹に弱い俺は、不覚にも泣いてしまって「お兄ちゃん、泣き虫だね」と笑われてしまった。
その夜、何となく眠れなくて曲を書いた。
妹や、妹みたいに哀しい思いをした人たちが癒されるような、そんな優しい曲を。