***
ついに金曜日を迎えた。教育実習の最終日だ。
昨日の騒動が嘘みたいに平和だった。いつも通りの業務を一通りこなして、一ノ瀬の研究授業を見学した。明るい一ノ瀬らしい、笑顔の絶えない授業。生徒たちの作曲は想像よりレベルが高く、驚かされた。例にもれず、授業後の検討会はダメだしの嵐だったけれど、特に音楽の静先生が容赦なく質問して一ノ瀬はたじたじだった。静先生の愛の鞭を乗り越えて、一ノ瀬の研究授業は検討会を含めて無事に終了した。
六限目が終わって、最後のホームルームではクラス委員が色紙の寄せ書きをプレゼントしてくれた。そのあとの部活動に行くと、昨日は急遽部活が休みになったことで、事情を知らない部員たちに色々質問された。適当にはぐらかして、最後の部活を楽しんだ。活動後、美術部の有志で描いたというイラスト入りの色紙や手紙を贈られた。別れが寂しいと泣いてくれた生徒もいて、胸がじんわりと熱くなった。教員の労働環境の悪さが取りざたされている昨今だけれど、先生たちが頑張れるのはこういう喜びの積み重ねがあるからなのかなと思った。
実習生全員で先生方にお礼のあいさつをして教育実習の全日程が無事に終了した。
「教育実習お疲れー!」
飯森が元気いっぱいの声で解放感たっぷりに叫ぶ。帰り支度するために小会議室に戻ってから、飯森と一ノ瀬と三人で教育実習の終了を喜び合った。
「いや、本当にお疲れだよね、特に澤村さんと一ノ瀬くんは。あんなことがあってさ……」
あはは、と私と一ノ瀬は苦笑いして頭を掻いた。
「まあ、何はともあれ、無事に単位もゲットしたし、これで卒業時に教育委員会に書類を出せば教員免許取得だよ!卒業できる、嬉しいー!」
教育学部の飯森は教員免許取得が卒業要件なので、ほっと一安心していた。卒制がまだ終わっていない美大生の私は安心どころかこれからが地獄が待っている。恐ろしいのでこれ以上は考えないように思考に蓋をした。
「二人はすぐに東京戻っちゃうんでしょ?」
「うん、大学があるからね」
「私も卒制がやばいからすぐ帰らなきゃ……」
「寂しいなあ。でも二人と一緒に実習できて本当に良かったよ。地元に帰って来る時があれば飲みに行こうよ。いつでも連絡してね!」
飯森は私の手をぎゅっと握って「絶対だよ」と念押した。
「うん、もちろん。飯森さん、色々助けてくれてありがとう」
私は感謝を込めて深々と頭を下げた。飯森も同じように頭を下げて笑う。
「こちらこそありがとうだよ!じゃあ、あたしは先に帰るね。今日も姪っ子のお迎え頼まれてて、あ!時間やばい!じゃあね!」
飯森は腕時計を見て、大騒ぎしながらバス停に走っていった。彼女は最後まで元気で賑やかだった。
「俺達も帰ろうか」
「うん」
一ノ瀬と一緒に戸締りをして、鞄を持って小会議室を出た。長いことお世話になった部屋だけれど、誰もいなくなると広々として見えた。誰もいない部屋に一礼して、そっと扉を閉めた。
玄関に向かって一ノ瀬と校舎を歩きながら、私は彼に思い出したように尋ねた。
「聞きそびれていたんだけど、説明会の日のこと動画に撮っていたんだね?」
私に問われると、一ノ瀬は途端に顔色が暗くなった。
「……ごめん。もっと早くあの動画のことを言えば良かった。あの動画だけでも、佐々木を実習中止に追い込むには十分だっただろうし」
「私が大事にしたくないって言ったからでしょう?多分、動画の存在を聞いても、私はやっぱり隠したと思うから」
多分、と言うよりは絶対そうした。もしくは、動画を消していたかもしれない。自分がいじめられているなんて証を、残したくはないから。
「でも動画の存在は言っておくべきだった、それは本当にごめん。もし、あまりに酷い嫌がらせが起こったら、澤村さんには秘密であの動画を出して管理職の先生に裏で報告するか、佐々木に警告しようかと思ってたんだよ。そうしたら想像以上の事態が起きて、俺も頭に血が上ってみんなの前で動画を……嫌だったよね。自分が殴られているところを他人に見られるなんて」
「まあ……愉快なことではないけど。でも、私も立場が逆ならあの場でああしたかもしれない。だから、謝らないで。私のことを想ってしてくれたってちゃんとわかってる。本当に感謝してるんだ」
「……澤村さん」
「あの時、すごくかっこよかったよ」
背の高い彼を見上げて、私は心からの笑顔を向ける。この感謝がちゃんと伝わるように。一ノ瀬は私をじっと見つめて、徐にこちらに手を伸ばす。その指先は吸い寄せられるようにそっと私の髪に触れた。ピアノを弾くために手入れされた綺麗な指先は私の髪を弄ぶように掬い上げる。ただ、その仕草を見ているだけなのに、心臓が痛いくらい高鳴った。彼は何か言おうと口を開きかけた。けれど、その時、私のポケットの中で携帯電話がぶるぶると震えた。
「あ……で、電話だ!」
上擦った声が出て、私は一歩下がる。ポケットから振動している携帯電話を取り出す。画面を見ると、高岡先生の名前が表示されていた。私は慌てて電話に出る。
「はい、澤村です!高岡先生、どうしたんですか⁉」
「香さん、まだ学校にいるかい?準備室を掃除していたら君の作品を見つけてねえ……」
「え⁉私の?分かりました。まだ校内なので、すぐに伺います」
電話を切ると、私は急いで美術準備室に向かった。一ノ瀬も絵が見たいと言って一緒にくっついてきた。美術準備室の前まで来て、ドアをノックすると高岡先生の「どうぞ、どうぞ」という声がした。
「失礼します」
ついに金曜日を迎えた。教育実習の最終日だ。
昨日の騒動が嘘みたいに平和だった。いつも通りの業務を一通りこなして、一ノ瀬の研究授業を見学した。明るい一ノ瀬らしい、笑顔の絶えない授業。生徒たちの作曲は想像よりレベルが高く、驚かされた。例にもれず、授業後の検討会はダメだしの嵐だったけれど、特に音楽の静先生が容赦なく質問して一ノ瀬はたじたじだった。静先生の愛の鞭を乗り越えて、一ノ瀬の研究授業は検討会を含めて無事に終了した。
六限目が終わって、最後のホームルームではクラス委員が色紙の寄せ書きをプレゼントしてくれた。そのあとの部活動に行くと、昨日は急遽部活が休みになったことで、事情を知らない部員たちに色々質問された。適当にはぐらかして、最後の部活を楽しんだ。活動後、美術部の有志で描いたというイラスト入りの色紙や手紙を贈られた。別れが寂しいと泣いてくれた生徒もいて、胸がじんわりと熱くなった。教員の労働環境の悪さが取りざたされている昨今だけれど、先生たちが頑張れるのはこういう喜びの積み重ねがあるからなのかなと思った。
実習生全員で先生方にお礼のあいさつをして教育実習の全日程が無事に終了した。
「教育実習お疲れー!」
飯森が元気いっぱいの声で解放感たっぷりに叫ぶ。帰り支度するために小会議室に戻ってから、飯森と一ノ瀬と三人で教育実習の終了を喜び合った。
「いや、本当にお疲れだよね、特に澤村さんと一ノ瀬くんは。あんなことがあってさ……」
あはは、と私と一ノ瀬は苦笑いして頭を掻いた。
「まあ、何はともあれ、無事に単位もゲットしたし、これで卒業時に教育委員会に書類を出せば教員免許取得だよ!卒業できる、嬉しいー!」
教育学部の飯森は教員免許取得が卒業要件なので、ほっと一安心していた。卒制がまだ終わっていない美大生の私は安心どころかこれからが地獄が待っている。恐ろしいのでこれ以上は考えないように思考に蓋をした。
「二人はすぐに東京戻っちゃうんでしょ?」
「うん、大学があるからね」
「私も卒制がやばいからすぐ帰らなきゃ……」
「寂しいなあ。でも二人と一緒に実習できて本当に良かったよ。地元に帰って来る時があれば飲みに行こうよ。いつでも連絡してね!」
飯森は私の手をぎゅっと握って「絶対だよ」と念押した。
「うん、もちろん。飯森さん、色々助けてくれてありがとう」
私は感謝を込めて深々と頭を下げた。飯森も同じように頭を下げて笑う。
「こちらこそありがとうだよ!じゃあ、あたしは先に帰るね。今日も姪っ子のお迎え頼まれてて、あ!時間やばい!じゃあね!」
飯森は腕時計を見て、大騒ぎしながらバス停に走っていった。彼女は最後まで元気で賑やかだった。
「俺達も帰ろうか」
「うん」
一ノ瀬と一緒に戸締りをして、鞄を持って小会議室を出た。長いことお世話になった部屋だけれど、誰もいなくなると広々として見えた。誰もいない部屋に一礼して、そっと扉を閉めた。
玄関に向かって一ノ瀬と校舎を歩きながら、私は彼に思い出したように尋ねた。
「聞きそびれていたんだけど、説明会の日のこと動画に撮っていたんだね?」
私に問われると、一ノ瀬は途端に顔色が暗くなった。
「……ごめん。もっと早くあの動画のことを言えば良かった。あの動画だけでも、佐々木を実習中止に追い込むには十分だっただろうし」
「私が大事にしたくないって言ったからでしょう?多分、動画の存在を聞いても、私はやっぱり隠したと思うから」
多分、と言うよりは絶対そうした。もしくは、動画を消していたかもしれない。自分がいじめられているなんて証を、残したくはないから。
「でも動画の存在は言っておくべきだった、それは本当にごめん。もし、あまりに酷い嫌がらせが起こったら、澤村さんには秘密であの動画を出して管理職の先生に裏で報告するか、佐々木に警告しようかと思ってたんだよ。そうしたら想像以上の事態が起きて、俺も頭に血が上ってみんなの前で動画を……嫌だったよね。自分が殴られているところを他人に見られるなんて」
「まあ……愉快なことではないけど。でも、私も立場が逆ならあの場でああしたかもしれない。だから、謝らないで。私のことを想ってしてくれたってちゃんとわかってる。本当に感謝してるんだ」
「……澤村さん」
「あの時、すごくかっこよかったよ」
背の高い彼を見上げて、私は心からの笑顔を向ける。この感謝がちゃんと伝わるように。一ノ瀬は私をじっと見つめて、徐にこちらに手を伸ばす。その指先は吸い寄せられるようにそっと私の髪に触れた。ピアノを弾くために手入れされた綺麗な指先は私の髪を弄ぶように掬い上げる。ただ、その仕草を見ているだけなのに、心臓が痛いくらい高鳴った。彼は何か言おうと口を開きかけた。けれど、その時、私のポケットの中で携帯電話がぶるぶると震えた。
「あ……で、電話だ!」
上擦った声が出て、私は一歩下がる。ポケットから振動している携帯電話を取り出す。画面を見ると、高岡先生の名前が表示されていた。私は慌てて電話に出る。
「はい、澤村です!高岡先生、どうしたんですか⁉」
「香さん、まだ学校にいるかい?準備室を掃除していたら君の作品を見つけてねえ……」
「え⁉私の?分かりました。まだ校内なので、すぐに伺います」
電話を切ると、私は急いで美術準備室に向かった。一ノ瀬も絵が見たいと言って一緒にくっついてきた。美術準備室の前まで来て、ドアをノックすると高岡先生の「どうぞ、どうぞ」という声がした。
「失礼します」