***
ひとしきり泣いたあと、私は一ノ瀬に高校生時代の話をした。
水曜日の放課後、いつも彼のピアノをこっそり聞いていたこと。死にたいくらい辛かった時、そのピアノに救われたこと。彼のピアノがどれほど私の心の支えになっていたか。そんな私のとりとめのない話を、彼は優しい笑みを浮かべながら聞いた。時折泣いてしまう私の背中を擦って、彼は最後まで静かに聞いてくれた。
話し終える頃には落ち着いて、私の涙はようやく止まっていた。
「目が赤くなっちゃったね。帰ったら冷やした方がいいよ」
一ノ瀬は私を椅子に座らせて、顔を近づけて赤く腫れた瞼にそっと触れる。涙で濡れたまま頬をハンカチで拭った。私は恥ずかしくなって「自分で拭くから」と彼を押しのけた。
「急に泣いてごめん……こんな話されて、びっくりしたよね」
目元を拭いながら言うと、彼は首を横に振る。
「びっくりしたけど、嬉しかったよ」
一ノ瀬は私の前に椅子を置いて座ると、私と向かい合って視線を合わせて穏やかに微笑んだ。
「俺の音楽が、誰かを助けていたってことがたまらなく嬉しい」
あのピアノの音色が、優しい理由が分かった気がした。私はずっと聞きたかったことを彼に尋ねた。
「さっき弾いていたあの曲、なんて言う名前なの?ずっと知りたくて……前にも言ったけど、調べても全然分からなかったの」
一ノ瀬は目をぱちくりさせて、少し考えると思い出したように口を開いた。
「……ああ!前に学食で言っていた曲って、あれのことだったのか!え、待って、あの鼻歌は違い過ぎない⁉リズムしかあってない!」
「音痴だから仕方ないでしょ」
一ノ瀬は私の下手くそな鼻歌を思い出して、肩を震わせている。失礼過ぎて、私の涙は完全に引っ込んだ。どうにか笑いを収めて、一ノ瀬はやっと質問に答える。
「あの曲は、ちゃんとした名前がないんだ。俺が作った曲だから」
「えっ、そうなの⁉一ノ瀬くんが作った曲なの」
「うん。高校生の時に作ったオリジナル」
「だから、探しても見つからなかったんだ……」
「どこにも発表してないしね。あの曲は、高校生の時、進路をずっと悩んでて、きっかけがあって音大を受験するって決めた時に作った曲なんだ」
「きっかけ?」
「澤村さんが俺のピアノに救われたって言ってくれたみたいに、俺もたった一枚の絵なんだけど、その絵に救われることがあったんだ。それで、音大に行こうって決心できた。俺もあの絵みたいに、誰かを救ってくれるようなものを創りたいって思って、この曲を作ったんだ。だから、澤村さんの助けになれて、本当に嬉しい」
窓から見える夕陽は、今にも沈みそう。落ちていく夕陽が彼の優しい笑顔を朱く、温かな色に染めている。
「音楽やってて良かった」
彼は立ち上がると、譜面台に置いた楽譜を愛おしそうに撫でる。彼が音楽を愛していることが、その指先から示していた。楽譜が羨ましくなるくらい、愛が伝わってくる。
「澤村さんの話を聞いてて思ったんだけど」
一ノ瀬は楽譜の束が閉じてあるファイルを手に持つと、私を振り返った。そして、そのファイルから一枚の紙を取り出して見せる。つらつら、と文字が書き連ねてある白い便箋だった。
それは、とても見覚えのあるものだった。
「そ、それ……!」
息が止まりそうだった。恥ずかしさで死ねるなら、私はきっと今、即死していただろう。
彼が手に持っていたのは私の黒歴史の象徴、名無しのラブレターだった。
「やっぱり!この手紙、澤村さんが書いてくれたんだね」
にっこり笑う一ノ瀬とは対照的に私は慌てふためいて立ち上がる。
「やだ!仕舞って、そんなもの!何で持ってるの⁉」
「何でって、澤村さんが俺にくれたんでしょ?」
「四年も前のものを何で持ってるの!返して!」
「やだよ、俺のだもん」
私が奪い取ろうと手を伸ばすと、一ノ瀬は長身を活かしてひょいと天高く手紙を掲げる。私は猫じゃらしで遊んでいる猫みたいにぴょんぴょん飛んで取り返そうとするが、届くはずもなく、無駄に疲れて息を荒げるだけだった。
「はあっ……はあっ……あと身長が二十センチあればっ……!」
「なんでさっき、高校時代の話をしてる時に手紙のことだけ言わなかったの?」
「恥ずかしいからだよ!とりあえず、その危険物を仕舞ってください!お願いだから!」
耐えきれなくなって半ば怒りながら懇願すると、一ノ瀬は「はいはい」と呆れたように笑って私が書いた古の手紙をファイルのもとあった場所に戻した。便箋が視界から消えて、私はようやく落ち着きを取り戻した。
「お願い、捨ててください、アレ……」
「そんなに恥ずかしがらなくても。俺はあの手紙、すごく嬉しかったよ。何回も、何回も読んで、力をもらったんだ。今もこうして大事に楽譜に挟んでるくらい大事にしてるよ」
「あ、有り難いような、有り難くないような……いや、有り難くない」
大事そうに私の手紙を扱う彼の姿を見て、私はずっとスケッチブックに挟んでいた手紙を思い出した。生徒に見られるのは恥ずかしいと思い、あの手紙は今、手帳に挟んである。そのおかげで、スケッチブックは破損したが、手紙だけは無事だった。私にとってあの手紙が宝物のように大事なように、一ノ瀬にとっても私の手紙は大切なものらしい。
嬉しいけれど、少しこそばゆい。
「ねえ、この手紙ってさ、ファンレター?俺はラブレターだったらいいなと思っていつも読んでたんだけど。何で名前書いてくれなかったの?」
無邪気な問いに私はまた息が止まりそうだった。黙っていると、ねえねえと一ノ瀬はしつこく私をつつく。ぷい、と顔を逸らして一言だけ答えた。
「……秘密」
それ以上は恥ずかしくて死にそうで、何も答えられなかった。一ノ瀬はまだ何か言おうとしていたけれど、ちょうど下校時刻を知らせるチャイムが鳴った。
「もうこんな時間!美術室、片づけに行かなきゃ」
「え、今日は水曜だから部活ないでしょ?」
「それが、実はね……」
私は困ったように眉を下げた。一ノ瀬と美術室に向かいながらついさっき起きたことの顛末を話して、美術室の有様を見せると彼は言葉を失っていた。床に散乱したままの汚されたスケッチの数々。改めて見ると、明確な悪意がそこには満ちていた。
「……酷すぎる」
一ノ瀬は屈んで、散らばったスケッチを拾い上げる。
「どうして、こんな酷いことができるんだろう」
彼は自分のことみたいに怒って、そして悲しんでいた。彼は散らばっている紙を一緒に集めてくれた。汚れは払って、曲がっているところがあれば丁寧に皺を伸ばして、一枚一枚を大切に扱ってくれた。すべて集め終えて、私は汚れた紙の束をぎゅっと抱きしめる。こんな有様になっても、私にとって大切なスケッチブックであることに変わりはない。
「ありがとう、手伝ってくれて」
私は一ノ瀬を見上げて、笑顔を作る。
「大丈夫だよ。全然、大丈夫。絵なんて、またいくらでも描けばいいから」
笑顔で言ったけれど、私はうまく笑えていただろうか。頬は引き攣っていたかもしれない。本当は言い様がないほど腹立たしい。怒りで頭がおかしくなりそうだ。絵は私の何にも代えがたいもの。暴力も、暴言も耐えた。でも、絵だけは耐えられない。
絵を汚されることだけは、許せなかった。
「このくらい、大丈夫」
そう言うと、何故だか彼が泣きそうな顔した。彼の顔を見ていると、目頭が熱くなって、声が震えそうになる。それを必死で隠しながら大丈夫、と繰り返した。
「本当に大丈夫だよ。心配しないで」
一ノ瀬はじっと私を見つめて、すっと一筋の涙を零す。そして私をぎゅっと抱きしめた。
「澤村さんの大丈夫は、いつだって大丈夫に聞こえないよ」
彼の涙声を聞きながら、彼の妹の言葉を思い出す。瞬きをするとさっき引っ込んだはずの涙が数滴零れて、彼のスーツの胸元を濡らした。彼の泣き虫がきっと私にうつってしまったに違いない。
ほんの数秒だけ彼と抱き合って、すぐに離れた。
「ごめん、つい」
彼は短く謝罪すると、目元を軽く拭った。帰ろうか、とどちらともなく言った。すっかり夕陽が沈んで暗くなった廊下を二人並んで歩いた。何か話したいのに、何を話していいか分からなくて、結局何も言えなかった。
明日は研究授業がある。そして明後日で長かった教育実習も終わる。あと二日ですべてが終わる。
浮ついた気持ちは、それまで胸の奥にしまっておくことにした。
ひとしきり泣いたあと、私は一ノ瀬に高校生時代の話をした。
水曜日の放課後、いつも彼のピアノをこっそり聞いていたこと。死にたいくらい辛かった時、そのピアノに救われたこと。彼のピアノがどれほど私の心の支えになっていたか。そんな私のとりとめのない話を、彼は優しい笑みを浮かべながら聞いた。時折泣いてしまう私の背中を擦って、彼は最後まで静かに聞いてくれた。
話し終える頃には落ち着いて、私の涙はようやく止まっていた。
「目が赤くなっちゃったね。帰ったら冷やした方がいいよ」
一ノ瀬は私を椅子に座らせて、顔を近づけて赤く腫れた瞼にそっと触れる。涙で濡れたまま頬をハンカチで拭った。私は恥ずかしくなって「自分で拭くから」と彼を押しのけた。
「急に泣いてごめん……こんな話されて、びっくりしたよね」
目元を拭いながら言うと、彼は首を横に振る。
「びっくりしたけど、嬉しかったよ」
一ノ瀬は私の前に椅子を置いて座ると、私と向かい合って視線を合わせて穏やかに微笑んだ。
「俺の音楽が、誰かを助けていたってことがたまらなく嬉しい」
あのピアノの音色が、優しい理由が分かった気がした。私はずっと聞きたかったことを彼に尋ねた。
「さっき弾いていたあの曲、なんて言う名前なの?ずっと知りたくて……前にも言ったけど、調べても全然分からなかったの」
一ノ瀬は目をぱちくりさせて、少し考えると思い出したように口を開いた。
「……ああ!前に学食で言っていた曲って、あれのことだったのか!え、待って、あの鼻歌は違い過ぎない⁉リズムしかあってない!」
「音痴だから仕方ないでしょ」
一ノ瀬は私の下手くそな鼻歌を思い出して、肩を震わせている。失礼過ぎて、私の涙は完全に引っ込んだ。どうにか笑いを収めて、一ノ瀬はやっと質問に答える。
「あの曲は、ちゃんとした名前がないんだ。俺が作った曲だから」
「えっ、そうなの⁉一ノ瀬くんが作った曲なの」
「うん。高校生の時に作ったオリジナル」
「だから、探しても見つからなかったんだ……」
「どこにも発表してないしね。あの曲は、高校生の時、進路をずっと悩んでて、きっかけがあって音大を受験するって決めた時に作った曲なんだ」
「きっかけ?」
「澤村さんが俺のピアノに救われたって言ってくれたみたいに、俺もたった一枚の絵なんだけど、その絵に救われることがあったんだ。それで、音大に行こうって決心できた。俺もあの絵みたいに、誰かを救ってくれるようなものを創りたいって思って、この曲を作ったんだ。だから、澤村さんの助けになれて、本当に嬉しい」
窓から見える夕陽は、今にも沈みそう。落ちていく夕陽が彼の優しい笑顔を朱く、温かな色に染めている。
「音楽やってて良かった」
彼は立ち上がると、譜面台に置いた楽譜を愛おしそうに撫でる。彼が音楽を愛していることが、その指先から示していた。楽譜が羨ましくなるくらい、愛が伝わってくる。
「澤村さんの話を聞いてて思ったんだけど」
一ノ瀬は楽譜の束が閉じてあるファイルを手に持つと、私を振り返った。そして、そのファイルから一枚の紙を取り出して見せる。つらつら、と文字が書き連ねてある白い便箋だった。
それは、とても見覚えのあるものだった。
「そ、それ……!」
息が止まりそうだった。恥ずかしさで死ねるなら、私はきっと今、即死していただろう。
彼が手に持っていたのは私の黒歴史の象徴、名無しのラブレターだった。
「やっぱり!この手紙、澤村さんが書いてくれたんだね」
にっこり笑う一ノ瀬とは対照的に私は慌てふためいて立ち上がる。
「やだ!仕舞って、そんなもの!何で持ってるの⁉」
「何でって、澤村さんが俺にくれたんでしょ?」
「四年も前のものを何で持ってるの!返して!」
「やだよ、俺のだもん」
私が奪い取ろうと手を伸ばすと、一ノ瀬は長身を活かしてひょいと天高く手紙を掲げる。私は猫じゃらしで遊んでいる猫みたいにぴょんぴょん飛んで取り返そうとするが、届くはずもなく、無駄に疲れて息を荒げるだけだった。
「はあっ……はあっ……あと身長が二十センチあればっ……!」
「なんでさっき、高校時代の話をしてる時に手紙のことだけ言わなかったの?」
「恥ずかしいからだよ!とりあえず、その危険物を仕舞ってください!お願いだから!」
耐えきれなくなって半ば怒りながら懇願すると、一ノ瀬は「はいはい」と呆れたように笑って私が書いた古の手紙をファイルのもとあった場所に戻した。便箋が視界から消えて、私はようやく落ち着きを取り戻した。
「お願い、捨ててください、アレ……」
「そんなに恥ずかしがらなくても。俺はあの手紙、すごく嬉しかったよ。何回も、何回も読んで、力をもらったんだ。今もこうして大事に楽譜に挟んでるくらい大事にしてるよ」
「あ、有り難いような、有り難くないような……いや、有り難くない」
大事そうに私の手紙を扱う彼の姿を見て、私はずっとスケッチブックに挟んでいた手紙を思い出した。生徒に見られるのは恥ずかしいと思い、あの手紙は今、手帳に挟んである。そのおかげで、スケッチブックは破損したが、手紙だけは無事だった。私にとってあの手紙が宝物のように大事なように、一ノ瀬にとっても私の手紙は大切なものらしい。
嬉しいけれど、少しこそばゆい。
「ねえ、この手紙ってさ、ファンレター?俺はラブレターだったらいいなと思っていつも読んでたんだけど。何で名前書いてくれなかったの?」
無邪気な問いに私はまた息が止まりそうだった。黙っていると、ねえねえと一ノ瀬はしつこく私をつつく。ぷい、と顔を逸らして一言だけ答えた。
「……秘密」
それ以上は恥ずかしくて死にそうで、何も答えられなかった。一ノ瀬はまだ何か言おうとしていたけれど、ちょうど下校時刻を知らせるチャイムが鳴った。
「もうこんな時間!美術室、片づけに行かなきゃ」
「え、今日は水曜だから部活ないでしょ?」
「それが、実はね……」
私は困ったように眉を下げた。一ノ瀬と美術室に向かいながらついさっき起きたことの顛末を話して、美術室の有様を見せると彼は言葉を失っていた。床に散乱したままの汚されたスケッチの数々。改めて見ると、明確な悪意がそこには満ちていた。
「……酷すぎる」
一ノ瀬は屈んで、散らばったスケッチを拾い上げる。
「どうして、こんな酷いことができるんだろう」
彼は自分のことみたいに怒って、そして悲しんでいた。彼は散らばっている紙を一緒に集めてくれた。汚れは払って、曲がっているところがあれば丁寧に皺を伸ばして、一枚一枚を大切に扱ってくれた。すべて集め終えて、私は汚れた紙の束をぎゅっと抱きしめる。こんな有様になっても、私にとって大切なスケッチブックであることに変わりはない。
「ありがとう、手伝ってくれて」
私は一ノ瀬を見上げて、笑顔を作る。
「大丈夫だよ。全然、大丈夫。絵なんて、またいくらでも描けばいいから」
笑顔で言ったけれど、私はうまく笑えていただろうか。頬は引き攣っていたかもしれない。本当は言い様がないほど腹立たしい。怒りで頭がおかしくなりそうだ。絵は私の何にも代えがたいもの。暴力も、暴言も耐えた。でも、絵だけは耐えられない。
絵を汚されることだけは、許せなかった。
「このくらい、大丈夫」
そう言うと、何故だか彼が泣きそうな顔した。彼の顔を見ていると、目頭が熱くなって、声が震えそうになる。それを必死で隠しながら大丈夫、と繰り返した。
「本当に大丈夫だよ。心配しないで」
一ノ瀬はじっと私を見つめて、すっと一筋の涙を零す。そして私をぎゅっと抱きしめた。
「澤村さんの大丈夫は、いつだって大丈夫に聞こえないよ」
彼の涙声を聞きながら、彼の妹の言葉を思い出す。瞬きをするとさっき引っ込んだはずの涙が数滴零れて、彼のスーツの胸元を濡らした。彼の泣き虫がきっと私にうつってしまったに違いない。
ほんの数秒だけ彼と抱き合って、すぐに離れた。
「ごめん、つい」
彼は短く謝罪すると、目元を軽く拭った。帰ろうか、とどちらともなく言った。すっかり夕陽が沈んで暗くなった廊下を二人並んで歩いた。何か話したいのに、何を話していいか分からなくて、結局何も言えなかった。
明日は研究授業がある。そして明後日で長かった教育実習も終わる。あと二日ですべてが終わる。
浮ついた気持ちは、それまで胸の奥にしまっておくことにした。