美術部の指導を終えて廊下を歩いていると、夕陽で照らされた廊下の窓に自分の姿が映っていた。その姿を見てあっと声が出た。
「スケッチブック持ってきちゃった」
いつもの癖で小脇に抱えたスケッチブック。美術部の生徒が参考にと見たがったので持って行ったら、もっとじっくり見たいと言うのでしばらく美術室に置いておくことになったのだ。それをうっかり持ってきてしまった。
「まあ、いいや。もう高岡先生が施錠しちゃったし……小会議室に置いておこう」
スケッチブックを持ち直して、再度歩き出す。歩きながら、手に持っていた手帳を開いた。手帳には一枚の紙が挟んである。今まで、スケッチブックの表紙裏に張り付けてあった私のお守りだ。生徒に見られるのはさすがに恥ずかしくて、昨日の夜にスケッチブックから剥がして手帳に挟んでおいた。無くさないか心配でつい何度も確認してしまう。
誰からもらったかもわからない手紙なのに、後生大事にしている。
小会議室の前まで来て手帳を閉じた。声も物音もしない。今日はもう皆帰ってしまったのか。扉を開けると、ブラインドの隙間から西日が差し込んで、白い壁はペンキを塗ったみたいにオレンジ色に染まっていた。眩しさに目を細める。少しして目が慣れると、窓際の机に突っ伏している一ノ瀬がいることに気づいた。何の反応もないので、不思議に思って近づくと彼はすうすうと寝息を立てていた。荷物はまとまっていて、後は帰るだけといった様子に見える。
もしかして、待っててくれたのかな。
そんなことを考えて、少し嬉しくなってしまう自分がいる。
突っ伏している彼の向かい側に静に腰掛けた。疲れているのか、よく眠っている。閉校までまだ時間はある。起こそうか悩みながら、幸せそうな寝顔をまじまじと見つめた。寝ているからと遠慮もなく、不躾に彼を観察した。
子犬みたいにふわふわな少し癖のある髪の毛。羨ましいくらい生えそろった長い睫毛。男の人なのに、どこか少年のように見える幼さの残る顔立ち。男性らしい骨ばっている手、すっと伸びる長い指。ささくれ一つない、丁寧に手入れされた指先。
見れば見るほど、彼は綺麗だった。
彼を形作る造形一つ一つがどれも美しく見えて、目が離せない。気づけば心を奪われてしまう。
自然と私はスケッチブックを開いて、鉛筆を紙上に走らせた。
久しぶりに感じる、何とも言えない感覚がある。心の底が湧き立つような高揚感に似た創作欲。
この人を描いてみたい。私の手で描きたい。
卒制を前に描きたいものがずっと分からなくなっていた。何を描いてもピンと来なかった。私の絵に足りなかったものが今、目の前にある。そんな思いがした。
それからどれくらい時間が経ったのか、閉校五分前を知らせる放送が鳴った。一ノ瀬の身体がびくりと跳ね上がる。
「やばっ、寝てた!」
寝ぼけ眼の彼と目が合って、私は誤魔化すようにぎこちなく笑った。
「え……澤村さん⁉何してるの?」
「これは、その……!ごめんなさい!勝手にスケッチしてました……」
「状況が全然つかめないんだけど⁉ってもう、こんな時間⁉閉校しちゃうじゃん⁉早く帰らなきゃ!澤村さん、荷物持って!電気消すよ!」
「は、はい!」
急かされるまま、荷物をまとめて大急ぎで戸締りをして部屋を出た。職員玄関に走って行くと、学校の鍵を持った教頭先生が怖い顔をして「急ぎなさい!」と大声で言う。私たちは平謝りしながら靴を履き替えて、学校から飛び出した。校門を出る時は二人とも息切れしていた。校門の前でぜえぜえ言いながら、足を止めて呼吸を整えていた。
「あー、疲れた……ちょっと、澤村さん。一体どういうこと?」
「えっと、うん、本当にすいません。なんか、こう、気付いたらスケッチしてて、閉校時間になってたと言いますか、不徳の致すところでございます」
「政治家かよ。バスの時間は大丈夫なの?」
私は時計を見て数秒考えてから「大丈夫」と言うと、一ノ瀬は携帯でさっと時刻表を調べて「大丈夫じゃない!」と怒った。
「もー、直近のバス行っちゃってるじゃん!次のバスまで三十分もあるよ⁉」
「三十分くらいぼーっとしてたらすぐだよ」
「暗がりのバス停でぼーっとしてたら危ないでしょうが。女の子なんだからもう少し気を付けてよ」
一ノ瀬はぷりぷり怒りながらもバス停まで一緒に歩いてくれる。そしていつも通りバス停のベンチに並んで座った。妹が言うだけあって本当に世話焼きである。
「で、さっきの何?何でスケッチ?」
「無性に描きたくなって……良い寝顔だったから」
私はしゅんとしながら「勝手に描いてごめんね」と謝った。
「別にそれはいいけど、閉校前に起こしてよ。焦るじゃん」
「ごめん……久しぶりにぐわーって描きたい気持ちが爆発して、時間のこと忘れて夢中になってた。一ノ瀬くん、寝顔がすごく綺麗で、髪の毛ふわふわで描いてて楽しいし、睫毛も長くて、手とか指先まで全部美しくて、どうしても描きたくて……見惚れてたの」
「わ、わかったから、もういいよ。なんか恥ずかしい!」
一ノ瀬は真っ赤になって、手で顔を隠していた。どうして恥ずかしがっているのか理解できなかったけれど、やっぱり彼を描きたいと思った。
「何で照れてるの?」
「美しいとか言われたら、誰だって普通に照れるよ……」
ぶつぶつ言っている一ノ瀬の横顔を見ながら、私はどの角度で描くといいだろうと、そんな事ばかり考えていた。
「そう言えばあのスケッチブック、朝から持ってたよね?澤村さんの私物だったんだ」
「ああ、うん。大切なスケッチブックなの。お気に入りのものだけ描くのに使ってるんだ」
「ふーん……じゃあ、俺って澤村さんのお気に入りなんだ?」
彼は悪戯っ子みたいに笑って、私の顔を覗き込む。私は急に恥ずかしくなって「たまたまだよ!」と誤魔化した。一ノ瀬はつまらなそうに口を尖らせる。
「でも大事なスケッチブックなんだね。さっき、帰る時に急いでても丁寧に扱ってたから」
「ああ、まあ……あのスケッチブック、離婚したお父さんが最後に買ってくれたんだ。だから、何となく大事にしちゃってて。だから、あれにはお気に入りばっかり描いちゃうの」
「澤村さんって親、離婚してるんだ?」
「高三の時にね。そんな歳に母の旧姓に変わったから、まだ澤村香ってちょっと他人みたいな感じがしちゃう」
私が自嘲気味に笑うと、一ノ瀬はそっかと言いながらしゅんと眉を下げる。
「そんな顔しないで。四年も前のことなんだから。それに進学で上京したから、離婚した実感もなく親と離れたし、そんなに悲しい思いしなかったよ」
少しだけ強がって言った。でも本心でもあった。離婚当時はもちろん哀しかったけれど、実際進学で上京すると親と接する機会はほとんどなくなった。入学してからは課題が山のようにあって悲しむ暇はあまりなかった。
「それに、実習に来てから一ノ瀬くんが澤村さんっていっぱい呼んでくれるから慣れたよ。あ!そう言えば今日、会ったよ!」
「誰に?」
「一ノ瀬くんの妹さん!」
「え⁉凛と話したの⁉」
一ノ瀬は驚いて、普段から大きな目をさらにまん丸にして見開いていた。