***
「澤村先生、スケッチブック持ってきてくれた?」
六時間目の授業が終わると、美術部の一年生に尋ねられた。授業の片づけをしていた私は手を止めて答えた。
「うん、ちゃんと持ってきましたよ。参考になるかは分からないけれど」
その美術部員は真面目で、やる気があり、美大に興味があるらしい。部活中に雑談交じりに指導をしていたら、私が普段どんなスケッチをしているか見てみたいというので、家からスケッチブックを持って来たのだ。
「やった!澤村先生、ありがとう!今日の部活で見ていいですか⁉」
「もちろん。そんな大層なものじゃないですけどね」
「早く見たいなー!掃除当番、すぐ終わらせてきます!」
快活な笑顔を見せ、彼女はセーラー服を靡かせて走って教室から飛び出していった。ついこの間まで中学生だっただけあって、一年生の可愛さと元気さは格別だ。
授業終わりの生徒たちが美術室から捌けて、代わりに掃除当番の生徒たちが数人、教室に入ってくる。生徒たちと話しながら一緒に清掃をした。
空気の入れ替えをしようと窓を開くと、真上の音楽室で一ノ瀬がピアノを弾きながら生徒たちと歌い、賑やかに掃除する声が聞こえてくる。一ノ瀬の演奏は初めて聞いたけれど、音大生というだけあって素人が聞いても分かるくらい上手だった。そのうち音楽の先生の「遊んでないでちゃんと掃除しろ!」と怒る声がして一ノ瀬のピアノは変な音を立てて止んだ。おかしくて笑いそうになったけれど、堪えて私は窓の汚れを拭いた。
真面目な生徒ばかりだったので清掃はあっという間に終わった。私は教室内をチェックして「帰っていいですよ」と言うと、早く部活に飛んで行きたくて仕方ない野球部の男子たちは、言い終わる前に重そうなリュックを担いで「さようなら!」と元気に挨拶をしてグラウンドへと走っていった。帰宅部らしい女子達はおしゃべりしながらゆっくりと帰り支度をしている。私はその子たちに気を付けてね、と声をかけ、教卓に広げたままの授業のプリント類を片づけていた。
「澤村先生」
名前を呼ばれて顔を上げると、掃除当番の女子生徒が目の前に立っていた。美術室に残っているのはこの女の子だけだった。
「どうしたの?えーと……」
「一ノ瀬です」
「そうだった、一ノ瀬さんだね」
言いながら、真上で騒いでいた実習生と同じ名字だったなと思い出していた。目の前にいるショートボブの女の子はじっとこちらを見つめている。どことなく顔も一ノ瀬と似ているような気がしてきた。それで何か用かな、と改めて尋ねると、彼女は悪戯っぽく笑って言った。
「私、一ノ瀬凜といいます。一ノ瀬律の妹なんです」
「え……妹さん?あ、そうなんだ⁉」
不意打ち過ぎて驚いて、私の喉から素っ頓狂な声が出た。
「一ノ瀬くん、妹さんがいたんだね。えっと、お兄さんにはお世話になってます……」
「ふふふ、お兄ちゃん、家で澤村先生の話ばかりするから先生と話してみたくて」
「一ノ瀬くんが私の話を?」
「一緒に帰ったとか、一緒にお昼食べたとか。お兄ちゃんと仲良くしてくれてありがとうございます」
「いや、どちらかと言うと陰気な私が仲良くしてもらってるんだけどね」
「お兄ちゃんって気に入った相手には犬みたいに懐いちゃう人で。うるさいと思いますけど、すみません」
「確かに犬っぽい。仲良いんだね、お兄さんと」
はい、と一ノ瀬の妹は朗らかに笑った。照れたり、否定したりもせず、嬉しそうに肯定する。一ノ瀬に似て、素直そうな子だと思った。
「ねえ、澤村先生。学校って好きですか?」
唐突に問いかけられて私は驚いてしまう。少し考えてから、私は口を開いた。
「そういう質問をするってことは、一ノ瀬さんは学校が嫌いなのかな?」
彼女は少しバツが悪そうにして黙って頷いた。
「そう……それなら、私も取り繕わないで答えるね。今まで学校を好きだったことはないです」
一ノ瀬が妹に私のことをどの程度話しているのかは分からないけれど、彼女からは自分と似たような、同類と思しき雰囲気があった。彼女もそれを感じ取って、私に尋ねているのかもしれない。
「澤村先生も学校が嫌いだった?」
「嫌い、というより苦手かな。あんまりいい思い出無くて。でも、実習生として学校に来たら、生徒の時よりは学校が楽……いや、苦しくなくて、びっくりした」
「どうして?」
「んー……生徒の時より、自由だからかな。立場が違うだけで、同じ学校なのに別の場所みたいに過ごしやすいよ。それと、あなたのお兄さんのおかげかな」
「お兄ちゃんが?」
「うん、たくさん助けてもらったの。私、一ノ瀬さんのお兄さんとは高校時代に面識はなくて、この教育実習で初めて知り合ったの。でも、もし高校生の時に一ノ瀬くんとクラスメイトだったら、友達だったら、きっと私は高校生活がもっと楽しかったんだろうなって思った。味方なんていないっていじめられてた高校生の時は思ってたけど。一ノ瀬くんみたいな優しい人が同級生にいたんだって分かって、今になって高校生の私が少しだけ救われたような気持ちになれたの」
私が微笑むと、一ノ瀬凜は少し間を置いてから微笑み返して言った。
「確かに……お兄ちゃんが同級生だったら、きっと学校楽しいだろうな。世話焼きすぎてちょっと鬱陶しいかもしれないけど」
想像してふっと笑みが零れた。そうだね、と私が言うと彼女もにこにこと頷く。
「一ノ瀬さん、学校は辛い?」
彼女は伏し目がちに首を横に振った。
「今はまだ……辛くはないです。でも、少し怖い。また、嫌なことが起きたらどうしようって。不安になっても仕方ないのに」
歯切れの悪い言い方だった。いじめを嫌悪していた一ノ瀬を思い出して、私は丁寧に言葉を選ぶ。
「一度、学校で嫌な思いをすると忘れられないよね。でもね、大丈夫だよ。私も高校生の時、嫌なことがいっぱいあったけれど、大学は嘘みたいに楽しかった。あなたはこれから大人になっていく。子供の時と違って、自分で自分の生きやすい場所を選んで、進んでいくことができる。だから、大丈夫だよ」
「自分で、自分の生きやすい場所を……私にも見つかるかな」
私は「見つかるよ」と力強く言って、彼女の手を包み込むように握った。
「好きなことや、興味があることを探していけばいい。私は絵を描くのが好きだから美大に進んで、友人もそんな人たちばかりになった。すごく生きやすくなったよ。一ノ瀬さんも、これからあなたが生きやすいと思える場所を自分で選んで、大人になっていけばいいと思う」
私はどうか伝わってくれと願いを込めながら、真っすぐに彼女を見つめた。
「私……自分で選んでいいんだ」
強張っていた彼女の手からふっと力が抜ける。私は「それにね」と言葉を付け足した。徐に天井を指差して、一ノ瀬凜に優しく微笑む。
「あんなに素敵なお兄さんがいるんだから、何にも心配いらないよ」
私がそう言うと、一ノ瀬凜はほっとしたような顔で笑って「そうですね」と頷く。
「でも、お兄ちゃんってすごく泣き虫だからちょっと頼りないんですよ」
一ノ瀬凜は照れ隠しするようにおどけて言った。ちょうど、美術部の生徒が教室に入って来たので、彼女は一礼して帰った。私はその後姿をしばらく見守っていた。
「澤村先生、スケッチブック持ってきてくれた?」
六時間目の授業が終わると、美術部の一年生に尋ねられた。授業の片づけをしていた私は手を止めて答えた。
「うん、ちゃんと持ってきましたよ。参考になるかは分からないけれど」
その美術部員は真面目で、やる気があり、美大に興味があるらしい。部活中に雑談交じりに指導をしていたら、私が普段どんなスケッチをしているか見てみたいというので、家からスケッチブックを持って来たのだ。
「やった!澤村先生、ありがとう!今日の部活で見ていいですか⁉」
「もちろん。そんな大層なものじゃないですけどね」
「早く見たいなー!掃除当番、すぐ終わらせてきます!」
快活な笑顔を見せ、彼女はセーラー服を靡かせて走って教室から飛び出していった。ついこの間まで中学生だっただけあって、一年生の可愛さと元気さは格別だ。
授業終わりの生徒たちが美術室から捌けて、代わりに掃除当番の生徒たちが数人、教室に入ってくる。生徒たちと話しながら一緒に清掃をした。
空気の入れ替えをしようと窓を開くと、真上の音楽室で一ノ瀬がピアノを弾きながら生徒たちと歌い、賑やかに掃除する声が聞こえてくる。一ノ瀬の演奏は初めて聞いたけれど、音大生というだけあって素人が聞いても分かるくらい上手だった。そのうち音楽の先生の「遊んでないでちゃんと掃除しろ!」と怒る声がして一ノ瀬のピアノは変な音を立てて止んだ。おかしくて笑いそうになったけれど、堪えて私は窓の汚れを拭いた。
真面目な生徒ばかりだったので清掃はあっという間に終わった。私は教室内をチェックして「帰っていいですよ」と言うと、早く部活に飛んで行きたくて仕方ない野球部の男子たちは、言い終わる前に重そうなリュックを担いで「さようなら!」と元気に挨拶をしてグラウンドへと走っていった。帰宅部らしい女子達はおしゃべりしながらゆっくりと帰り支度をしている。私はその子たちに気を付けてね、と声をかけ、教卓に広げたままの授業のプリント類を片づけていた。
「澤村先生」
名前を呼ばれて顔を上げると、掃除当番の女子生徒が目の前に立っていた。美術室に残っているのはこの女の子だけだった。
「どうしたの?えーと……」
「一ノ瀬です」
「そうだった、一ノ瀬さんだね」
言いながら、真上で騒いでいた実習生と同じ名字だったなと思い出していた。目の前にいるショートボブの女の子はじっとこちらを見つめている。どことなく顔も一ノ瀬と似ているような気がしてきた。それで何か用かな、と改めて尋ねると、彼女は悪戯っぽく笑って言った。
「私、一ノ瀬凜といいます。一ノ瀬律の妹なんです」
「え……妹さん?あ、そうなんだ⁉」
不意打ち過ぎて驚いて、私の喉から素っ頓狂な声が出た。
「一ノ瀬くん、妹さんがいたんだね。えっと、お兄さんにはお世話になってます……」
「ふふふ、お兄ちゃん、家で澤村先生の話ばかりするから先生と話してみたくて」
「一ノ瀬くんが私の話を?」
「一緒に帰ったとか、一緒にお昼食べたとか。お兄ちゃんと仲良くしてくれてありがとうございます」
「いや、どちらかと言うと陰気な私が仲良くしてもらってるんだけどね」
「お兄ちゃんって気に入った相手には犬みたいに懐いちゃう人で。うるさいと思いますけど、すみません」
「確かに犬っぽい。仲良いんだね、お兄さんと」
はい、と一ノ瀬の妹は朗らかに笑った。照れたり、否定したりもせず、嬉しそうに肯定する。一ノ瀬に似て、素直そうな子だと思った。
「ねえ、澤村先生。学校って好きですか?」
唐突に問いかけられて私は驚いてしまう。少し考えてから、私は口を開いた。
「そういう質問をするってことは、一ノ瀬さんは学校が嫌いなのかな?」
彼女は少しバツが悪そうにして黙って頷いた。
「そう……それなら、私も取り繕わないで答えるね。今まで学校を好きだったことはないです」
一ノ瀬が妹に私のことをどの程度話しているのかは分からないけれど、彼女からは自分と似たような、同類と思しき雰囲気があった。彼女もそれを感じ取って、私に尋ねているのかもしれない。
「澤村先生も学校が嫌いだった?」
「嫌い、というより苦手かな。あんまりいい思い出無くて。でも、実習生として学校に来たら、生徒の時よりは学校が楽……いや、苦しくなくて、びっくりした」
「どうして?」
「んー……生徒の時より、自由だからかな。立場が違うだけで、同じ学校なのに別の場所みたいに過ごしやすいよ。それと、あなたのお兄さんのおかげかな」
「お兄ちゃんが?」
「うん、たくさん助けてもらったの。私、一ノ瀬さんのお兄さんとは高校時代に面識はなくて、この教育実習で初めて知り合ったの。でも、もし高校生の時に一ノ瀬くんとクラスメイトだったら、友達だったら、きっと私は高校生活がもっと楽しかったんだろうなって思った。味方なんていないっていじめられてた高校生の時は思ってたけど。一ノ瀬くんみたいな優しい人が同級生にいたんだって分かって、今になって高校生の私が少しだけ救われたような気持ちになれたの」
私が微笑むと、一ノ瀬凜は少し間を置いてから微笑み返して言った。
「確かに……お兄ちゃんが同級生だったら、きっと学校楽しいだろうな。世話焼きすぎてちょっと鬱陶しいかもしれないけど」
想像してふっと笑みが零れた。そうだね、と私が言うと彼女もにこにこと頷く。
「一ノ瀬さん、学校は辛い?」
彼女は伏し目がちに首を横に振った。
「今はまだ……辛くはないです。でも、少し怖い。また、嫌なことが起きたらどうしようって。不安になっても仕方ないのに」
歯切れの悪い言い方だった。いじめを嫌悪していた一ノ瀬を思い出して、私は丁寧に言葉を選ぶ。
「一度、学校で嫌な思いをすると忘れられないよね。でもね、大丈夫だよ。私も高校生の時、嫌なことがいっぱいあったけれど、大学は嘘みたいに楽しかった。あなたはこれから大人になっていく。子供の時と違って、自分で自分の生きやすい場所を選んで、進んでいくことができる。だから、大丈夫だよ」
「自分で、自分の生きやすい場所を……私にも見つかるかな」
私は「見つかるよ」と力強く言って、彼女の手を包み込むように握った。
「好きなことや、興味があることを探していけばいい。私は絵を描くのが好きだから美大に進んで、友人もそんな人たちばかりになった。すごく生きやすくなったよ。一ノ瀬さんも、これからあなたが生きやすいと思える場所を自分で選んで、大人になっていけばいいと思う」
私はどうか伝わってくれと願いを込めながら、真っすぐに彼女を見つめた。
「私……自分で選んでいいんだ」
強張っていた彼女の手からふっと力が抜ける。私は「それにね」と言葉を付け足した。徐に天井を指差して、一ノ瀬凜に優しく微笑む。
「あんなに素敵なお兄さんがいるんだから、何にも心配いらないよ」
私がそう言うと、一ノ瀬凜はほっとしたような顔で笑って「そうですね」と頷く。
「でも、お兄ちゃんってすごく泣き虫だからちょっと頼りないんですよ」
一ノ瀬凜は照れ隠しするようにおどけて言った。ちょうど、美術部の生徒が教室に入って来たので、彼女は一礼して帰った。私はその後姿をしばらく見守っていた。