「ここに並んで座ると、初めて会った日みたいだね」
「そう言えば、澤村さんとここで座って話したっけ」
一ノ瀬は缶ジュースを上下に振りながら言った。
「あの日も飲み物を奢ってもらったよね。まだ二週間くらい前のことなのにすごく昔に感じるよ」
「実習で慌ただしいからかな。教育実習って思ってた以上にハードだよな。すごく勉強になって有り難いけど」
一ノ瀬はプシュッと音を立てて缶ジュースを開けると、私に「はい、どうぞ」と手渡す。
「え、一ノ瀬くんのでしょ?」
「さっき飲みたいって言ってたじゃん。一口あげる」
「私が先に飲むの⁉」
「だって俺の飲みかけとか嫌でしょ?」
「私の飲みかけだって嫌でしょうよ……」
「へ?俺は、嫌じゃないけど」
「……」
一ノ瀬があまりにさらりと言うので、私は次に言おうとしていた言葉が頭から抜けてしまった。彼に他意がないことは分かっている。でも、彼のこういうところにたくさんの女性が翻弄されてきたのではないか。
「私だって、嫌じゃないですけど⁉」
私だけが動揺して恥ずかしいのと、何か無性にむかつくのとで、喧嘩腰みたいな言い方になった。大学生にもなって、こんなことくらいでちょっと照れてしまった自分が死ぬほど恥ずかしい。私は半ば自棄になってぐびっと一口ジュースを飲んだ。口の中ににゅるっと砕いたゼリーと甘ったるいジュースが流れ込んでくる。子供の頃よく飲んでいた昔馴染みのある味だった。
「美味しいです!どうもありがとう!」
語気強めに言って、彼に押し付けるように一口飲んだジュースの缶を返した。
「何でちょっと怒ってるの?」
「怒ってない!」
一ノ瀬がきょとんとした顔で缶ジュースを受け取るので、余計に慌てた自分が恥ずかしくなった。その上、怒った口調で「怒ってない」と言う子供じみた言動までするなんて。近くに穴があったら今頃飛び込んでいたかもしれない。
「よく分かんないけど美味しかったなら良かった」
そう言うと一ノ瀬は平然とジュースを飲んでいた。何だか言いようのない、居たたまれない気持ちになった。気にしたら負けだと思い、ペットボトルのキャップを開けてジュースの甘さを口から追い出すようにお茶を流し込んだ。
「あのさ、昼のことなんだけど……」
しばらく、ちびちびとお茶を飲んでいたら一ノ瀬が窺うような口調で私を見る。
「昼のこと……?ああ!忘れてた!」
「忘れてたのかよ」
一ノ瀬は苦笑しながら、このままはぐらかせばよかったかなと冗談ぽく呟いた。
「話してくれるの?言いたくなさそうだったけど」
「あの時は周りに生徒がたくさんいたから、話せなかっただけだよ。まあ、積極的に言いふらしてるわけでもないけどさ。昼に放送されてたあの曲、俺が作曲したんだよね」
一ノ瀬は携帯で音楽アプリを立ち上げると、昼に放送されていた曲のクレジットが表示された画面を私に見せてくれた。
「本当だ……作曲、一ノ瀬律になってる!すごいね」
「澤村さんがこの曲を好きって言ってくれたの嬉しかった」
「ちょっと再生してもう一度聴いてみてもいい?」
「ん?いいよ、はい、イヤホンどうぞ」
一ノ瀬は明らかに高級そうで高機能そうなイヤホンを私の耳に着けてくれた。一瞬、彼の指が私の耳に触れて、心臓が跳ね上がったけれど気づかないふりをした。神経が耳に全部集まったみたいで、顔を上げられなかった。自分の鼓動がやけにうるさい。
けれど、音楽が流れ始めると、そんなざわめきはどこかに消えた。
透き通るような美しい歌声と、澄みわたるピアノの音色が私の意識を支配する。  
気が付いたら、目を閉じてじっとその音色と歌声に耳をそばだてていた。ざわついた食堂で聞いた時とは比べ物にならない感動があった。哀しいのに、それでいて優しい旋律。泣いているような、叫んでいるような歌声。苦しいのに、哀しいのに聞いてしまう。歌声とピアノが絡み合って、一つの作品になっている。
聞いているだけで胸が震えるような、そんな音楽だった。
音が止み、私はふっと目を開ける。
「……ありがとう」
顔を上げてイヤホンを取って、彼に渡す。
「やっぱり良い曲だね。哀しいのに、なんだか優しくて、私は好きだな」
一ノ瀬はびっくりした顔をした。そして、次第に顔を赤らめて、照れ臭そうにはにかむ。
「面と向かって感想言われると照れるね。この曲、俺は哀しい曲じゃなくて、優しい曲のつもりで創ったんだ。伝わったなら嬉しい」
「私、音楽はあんまり聴かないからよく分からないけれど、私の好きな曲も優しい曲だったから、そう思ったのかもしれない」
「ああ、あの……フフッ、鼻歌を歌ってくれた曲ね」
「笑いが殺しきれてないよ、一ノ瀬くん。言っておくけど、頭の中ではちゃんと聞いた通りの音が流れてるの!でも、口から自分で音を出すとなんか違う音になるんだよ、音痴だから!」
「え、音痴ってそう言う仕組みなの⁉俺、音痴だったことないから、新鮮……」
「すごく馬鹿にされてることだけはよく分かった」
「あはは、ごめんって。その謎の曲、なんていう曲か分かると良いんだけどな。俺も似てる曲とか思いついたら教えるね」
「うん、期待してないでおく。それより、一ノ瀬くんって作曲家としてもう働いてるってことだよね?すごいね、在学中に」
「そんなに珍しい話じゃないよ。院生の先輩でもそういう人いたし。俺なんか、大学の先生やOBの伝手とか色々使ってコンペに出したり、幸運が重なって曲を採用してもらったって感じだから。去年くらいからやっと仕事っぽくなってきたけど、まだまだだよ。自分の実力だけじゃなくて運の方が強いもん」
「素直にすごいと思うけど。人気のアニメで使われてるんでしょ?たくさんの人が聞いてて、食堂でも生徒たちみんな知ってる感じだった。プロとして仕事してて、尊敬するよ。あの失礼な実習生の男の子達に教えてあげたいくらい」
「はは、言ったところであいつらならきっとフーンって感じだよ。良くも悪くも偏差値至上主義だから。今は大企業に入社できるかがあいつらの物差しなんだよ」
「む……何か悔しい。自分の創り出したものでお金をもらうことだって、すごく大変なのに。私、初めて絵が売れた時とかすごく感動したもん」
「ああ、分かるよ。嬉しいよね、創ったものが認められるって」
「うん、本当にそう。それにお金がもらえるのも有難い。絵が売れるとバイトを減らして、その分たくさん描けるから」
「絵ってどんな風に売れるの?」
「んー……色々だよ。展示会を見に来た人に欲しいって言われたり、ギャラリーとか画廊で買ってもらえたりとか。SNSでメールが来たり。たまにだけどね」
「へえ、すごいな!俺も澤村さんの絵が見たい!」
「私の絵?写真でいいならすぐに見せられるけど……今ちょっとスランプ的な感じ?だから、最近の絵はあんまりいいのないんだ」
私はお茶を脇に置いて、携帯を取り出した。ちょっと待ってね、と作品の画像を見せようと携帯電話を操作する。横で一ノ瀬がそれを覗き込みながら尋ねる。
「スランプなの?」
「スランプっていうと大袈裟かな。ちょっと考えすぎちゃって迷走してる感じで……あ、これです」
作品や作業工程を記録しているだけのSNSのアプリを開いて、一ノ瀬に画面を見せた。一ノ瀬は画面を見るとぽかんとした顔をする。
「え、これ、絵……?写真じゃなくて?」
指を動かして何枚か画像を見せると一ノ瀬は「おお……」と素で驚いた様子で画像を見入っていた。
「うわ、本当だ、描きかけの画像見たら絵だね……すご……何これ、すご……」
一ノ瀬はすごい、と何度も言って画像を食い入るように見ていた。
「……似てる」
一ノ瀬は画面を見つめながら小さく呟く。私は「え?」と聞き返したけれど、一ノ瀬は気付いていなかった。
「すごいね、澤村さん!」
一ノ瀬はぱっと画面から顔を上げると、きらきらした目で私を見た。その顔が子供みたいで、大学の文化祭で展示を見に来た小さな子供を思い出した。成人男性相手に失礼だけれど、一ノ瀬は無邪気過ぎて大人だということをたまに忘れそうになる。
「写真のようだっていうと失礼な表現だろうけど、リアルすぎてなんて言えば良いのか……本当にすごいね!えっと、本当に、もう、すごい!」
「ふふ、小学生みたいな感想だ」
「俺は絵とかそんなに詳しくないけど、前に一目見て感動した絵があって、その絵もこういうリアルな感じで、なんかそれ思い出して……だから俺、澤村さんの絵も好きだな。画面じゃなくて、本物見たらきっともっと感動するんだろうな」
「ありがとう。一ノ瀬くんも大学は東京だし、良かったら卒展見に来てね」
「行く行く!良いの⁉本当に行くよ⁉」
「私がちゃんと卒制完成させて、卒業できたらの話だけど」
「じゃあ見に行くからちゃんと卒業してよ、澤村さん」
「頑張る……」
一ノ瀬も卒業に向けて曲を制作しているらしく、卒制は大変だよねとお互いに苦笑した。もっと絵が見たいと言って、彼は自分の携帯でSNSの画面を開いて、私のアカウントをフォローしていた。そろそろバスが来る時間だったので、ベンチから立ち上がり、公園を後にした。バス停に着いても、一ノ瀬は私のアカウントの画像を見てばかりいた。
「面白い?」
「うん!制作過程見られるのも面白い!ていうか、フォロワーの数多いね⁉」
「あー、それは絵の依頼主のおかげで急に増えただけで……」
「どういうこと?あ、バス来ちゃった」
一ノ瀬の視線を追うと、いくつか前の信号でバスが止まっているのが見えた。一ノ瀬とバスを待っていると、いつもより早くバスが来るような気がする。時間通りに来なくても、少しくらい遅れたっていいのに。
「一緒に待っててくれて、ありがとう。また明日ね」
「うん、また……え⁉」
一ノ瀬は携帯の画面を見て急に変な声を上げる。画面を覗くと私が去年依頼されて描いた絵が映っていた。
「ああ、これがさっき言っていた依頼主に描いた絵だよ」
「これってあの有名な……澤村さんが描いたの?」
「うん?もちろん」
「うそ……」
話しているうちにバスはバス停の前まで来ていた。停車してドアが開く。私は鞄を肩にかけ直した。
「一ノ瀬くん、飲み物ご馳走様。またね」
一ノ瀬は面食らったような顔をしていたけれど、はっとして「またね」と私に手を振った。バスに乗り込んで一ノ瀬が見えなくなると、私は思い出したように携帯を開いて、一ノ瀬のアカウントをフォローした。彼のSNSには音大での楽しそうな日々を映した写真がたくさん並んでいて、バスの中で彼の大学生活を垣間見ていた。
実習生ではなく、大学生の彼はどこか違って見えて、そんな彼を見られて嬉しいような、寂しいような。でも、もっと、もっと見たくて、指を上下に動かし、どんどん写真を遡っていく。
あっという間にバスは終点の金沢駅に着いていた。