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美術室の椅子に座って、携帯電話の画面に映った写真をぼうっと眺めていた。優しい言葉が並ぶ手紙。こうして写真に撮っておいたおかげで、いつでも見ることができる。知らない誰かのくれた手紙は、未だに私の心の薬になっている。
自分のことが嫌いになりそうな時、この手紙が思い出させてくれる。私の絵を好きだと言ってくれた人がいた、と。
たったそれだけで、自分を好きになれる。
「澤村さん?」
名前を呼ばれて、はっとして携帯の画面から顔を上げる。美術室の扉から一ノ瀬がこちらを覗いて「今、大丈夫?」と声をかけてきた。私が頷くと彼は不安そうな顔で美術室に入ってきた。私は携帯を仕舞って椅子から立ち上がった。
「どうしたの?何か用事だった?」
「いや……お節介かなと思ったんだけど、なかなか戻って来ないから心配で見に来た。大丈夫?あの後、授業大変だったんじゃない?」
「心配かけてごめんね。もう戻ろうと思ってたの。授業も何とか大丈夫だったよ。さっきは本当にありがとうね」
「そっか、それなら良かった」
一ノ瀬は眉を下げて、自分のことみたいに安堵したように言った。そして矢継ぎ早に言葉を続けた。
「もう俺、すっごい心配で!すぐに話聞きたかったんだけど、飯森さんや黒川さんの前で話したくないかと思ってさ。しかも、澤村さん元気なさそうだったし。佐々木にプリント以外で何かされてない?ていうかもう、完全な授業妨害だし、一緒に教頭先生のところ相談に行く⁉」
早送りしたみたいに捲し立てるように言われ、私は「だ、大丈夫」と返事をするのが精いっぱいだった。すると一ノ瀬は我が事のように怒った顔で言った。
「大丈夫そうに見えない!」
「大丈夫だって。元気なく見えたのは、授業妨害のこともあるけど、絵のことでも悩んでてそのせいだよ。今はもう大丈夫」
「澤村さんがそう言うなら……まあ、今回のことも佐々木の仕業だって証拠もないしな。あいつ、本当に何の為に教育実習に来てるんだろうね」
「私たちも教職に就く予定ないし、人のこと言えないけどね」
「佐々木よりマシだよ。本当はあんなやつに教員免許取ってほしくないよ。生徒の為に一生懸命準備した授業を妨害して、生徒のことなんか頭にない証拠だ。澤村さんの気持ちは汲みたいけど、俺はこのままでいいのかなって正直思うよ」
一ノ瀬の言葉に私は困ったように俯いた。
最初は自分の保身のことしか考えてなかった。実習が始まって数日、生徒と過ごすと考えは変わってきた。生徒の名前を憶え、彼らの顔がはっきり見えてくると、途端に申し訳なくなったのだ。私の保身で、将来もしも佐々木が教員になった時、彼らのような子たちに被害があったらどうしよう。
それでも報復や、失敗した時、彼女の人生を取り返しのつかないものにしてしまった時までを考えると怖くて何もできない。私はいじめられっ子のまま。こんな私こそ、本当は教壇に立つべきではないのかもしれない。
「私もそれは思うけど、証拠があっても正直今までのこともどれだって悪戯レベルだもん。大事にならない程度で、私が嫌がること、困ることを彼女は狙ってやってる。反応したって無駄だよ。昔からそうなの。この状況で相談しても管理職の先生を困らせるだけだもん」
「確かに、下手に騒いで澤村さんだけが嫌な思いするのは俺も避けたい。佐々木をどうにかするより、何もされないように、されてもいいように対策を練るしかないのか、悔しいけど。俺もできそうなこと考えてみるよ」
「そこまでしなくていいよ。一ノ瀬くんだって教育実習で大変なんだから!授業妨害は困るけど、今日だって実際、紙が破かれて捨てられただけ。さすがに授業直前にプリントがなかったときは焦ったけど……でも一ノ瀬くんのおかげで助かったし。本当に大丈夫だから!」
「また大丈夫って言う……いいじゃん。友達なんだし、もっと頼ってよ!」
卑屈な自分が恥ずかしくなるくらい、彼は爽やかな笑顔で言った。彼の真っ直ぐさは眩しいくらい羨ましかった。
「そう言えば、俺、美術室って初めて入ったよ。選択音楽だったし、実技棟の掃除当番もなかったし。当たり前だけど音楽室と全然違うな」
一ノ瀬は美術室を見回して、石膏像などを覗き込みながら興味深そうにしていた。
「私もこの間、書道室入って黒川さんと同じこと話したよ」
「じゃあ、澤村さんも音楽室入ったことないの?」
「音楽室は……一回だけある、かな」
「へえ、なんで一回だけ?」
「え、あ……高校の時、好きな人が音楽室にいて……結局会えなかったし、その人とも何もなかったんだけど」
「高校生特有の甘酸っぱい感じだ!」
一ノ瀬は目を輝かせて、目に見えてワクワクした顔をする。
「はいはい、そろそろ戻ろう。お昼休みまでに、授業の振り返りとか色々やらなきゃ。一ノ瀬くんもでしょ?」
にやにやする一ノ瀬を引っ張って廊下に出た。一ノ瀬は何故か興味津々で廊下を歩きながらも話を続ける。
「音楽室ってことは澤村さんの好きな人って吹部か合唱部だったの?」
「し、知らないよ。てか、もうその話はいいから」
「告白したの?」
「もういいって言ってるのに」
「だって、さっきすごく含みを持った感じだったから気になって。すごく好きな人だったんじゃないの?」
私は少し考えて、ぽつりと呟くように言った。
「うまく言えないけど……忘れられないの。好きだっただけで、付き合ったわけでもないのにね」
それどころか、話したことすらない。名前も、顔も知らない。そんなことを言ったら、きっと一ノ瀬は根掘り葉掘り聞きそうだから、言葉をそこで止めた。
「忘れられない好きな人か……俺にもあったなあ、そういうの」
「そうなの⁉一ノ瀬くんの高校時代の話してよ!」
「俺に怒った割にめちゃくちゃ食いつくな」
「他人の話だと気になるものだね。告白しなかったの?」
「いや……高校時代はちょっと家がごたついてたから、彼女どころじゃなくて。だから、ただの片想いだよ」
「へえ!どんな人?同じクラスだったの?」
一ノ瀬は笑いながら、首を横に振った。
「一目惚れで、遠目に見てただけだから。その人のことも名前くらいしか知らなくて。すごく髪の綺麗な子だったんだよね。未だに何となくその子のことだけ忘れられなくて」
「へぇ……私と同じだね」
懐かしそうに遠くを見つめる彼の横顔を見て、胸が少しもやもやした。私と同じで、彼にも忘れられない好きな人がいる。水に絵の具を落としたように胸にじわりと滲んで広がる重苦しい何か。この気持ちを追及してはいけない気がして、私は冗談めかして言った。
「一ノ瀬くんって髪の綺麗な子が好きなんだ?髪フェチ?」
「え、どうだろ?言われてみれば、髪の綺麗な子がいるとつい見ちゃうな」
俺って髪フェチだったのか、と一ノ瀬が神妙な顔で呟くので私は笑ってしまった。くすくす笑うのに合わせて揺れる私の長い黒髪をじっと見つめて、一ノ瀬はそういえば、と言葉を続けた。
「澤村さんも髪が綺麗だよね。初めて会った時、校門で髪の綺麗な子が蹲ってたから、思わず声かけたんだよ」
「助ける判断基準、髪なの?ちょっと変……何でもない」
「今、変態って言おうとした?」
「いえ、別に。その節は助けてくれてありがとう」
「どういたしまして」
にっこり笑って言いながら、一ノ瀬は小会議室のドアを開けた。下らない話をしている間に目的地に着いていた。部屋に入ると、課題のチェックをしていたらしい飯森が「楽しそうに何の話をしてたの?」と尋ねる。私がすぐさま「髪フェチの変態が……」と言いかけると一ノ瀬が慌てて話を遮った。
「高校時代の思い出の話だよ!」
飯森が不思議な顔をしていて、私はこっそり笑いを堪えていた。