「口で説明するより、実際に皆さんが絵を描いたほうが私の言っていることは分かるでしょう。みなさんにも、自画像を通して知らない自分、気付かなかった自分に出会って欲しい。描き上げた後で、私が今お話した意味が少しでも伝わるように授業を進めていきますね」
私はマウスを動かして、画像を本来予定していたゴッホの自画像に切り替えた。
「さて、本題に戻ります。皆さん、この画家の名前はわかりますか?」
誰かがピカソとふざけて大きな声で答えた。
「答えてくれてありがとう。でもこれ、ゴッホだよ」
小さく笑いが起きる。苦笑しながらゴッホの自画像を年代別に並べたスライドを表示する。内心では答えが返って来るだけ有り難いと感じていた。高校生ともなると、小中学校と比べ発言する生徒は少ない。大人しい生徒の多いクラスだと最初から最後まで無言だったりする。授業する側からすれば、無言はかなりきつい。
「ゴッホは多くの自画像を残しています。初期の自画像は暗い色で描かれ、時代とともに色彩が変わっていきます。服装や持ち物に変化もあって……」
ゴッホの自画像から彼の心情や変化、そして自画像を描く意味などを話していった。その後はプリントを使って各自で自画像のテーマなどを考えさせ、初回の授業は進んでいった。
チャイムが鳴るまであっという間だった。
時間はぎりぎりになったが予定していた内容まで何とか進み、チャイムが鳴って授業は終わった。休み時間になって数名の生徒たちが教卓に集まって、私の絵について嬉しい感想を言っては去っていった。
そうして生徒が全員いなくなると、高岡先生と二人で反省会が始まった。
「導入で予定外の話をしたのもあって、序盤に時間が取られて、最後駆け足になったのは少し勿体なかったですね。ちょっと詰め込み過ぎだったかな」
「はい……すいません、最初から脱線しちゃって」
「時間管理は上手くなかったですが、生徒の意見を拾い上げていて内容自体は良かったと思いますよ。まあ、君でなければ、あの導入は成立しなかったでしょうけれどね」
「それって、どういう意味ですか?」
「あの自画像、大学に入ってから描いたものだね?良く描けていた。高校の頃から君の才能は抜きんでていましたが、大学に入ってさらに磨きがかかっているようだ。普通、素人には言葉で説明しない限り、そうそう作品の意図や込められた想いなんてものは伝わりません。絵を見慣れている人間にすら伝わらないことだってよくある。君だってよく分からない作品と出会うことはあるでしょう?伝わるから良い悪いって話でもないですが、伝えようとしてうまく伝わるものでもない。でも、君の絵は伝わった。それも普段絵を見ることもない、高校生の子どもたちに」
「まあ、あの絵は分かりやすく描いてありましたから……」
「いいえ、それは普通のことではないですよ。君の絵は特別です。絵を解らない人間にすら伝える力が君の絵にはある。今日の授業を見てよく分かりました。君はやはり尋常ではない画家だ。そんな君の授業で、生徒たちがどんな絵を描くのかますます楽しみになりましたよ」
「私の絵なんて……買いかぶり過ぎですよ、先生」
「君の絵の価値を一番知らないのは君自身かもしれないね」
先生は愉快そうに言って、目を細めた。
その後は板書の書き方、スクリーンの使い方など細かい部分で指摘を受けて反省会は終わった。
たった一回授業をしただけで疲弊した。私はぐったりしながら、美術室を後にして、のろのろと廊下を歩いた。何だか身体がひどく重かった。
先生は私の絵を恐縮するくらい評価してくれていた。それなのに評価を素直に受け取れなかった。ずっと思うように絵を描けていないせいだろうか。
生徒には偉そうに話しておきながら、私は今、絵を描けないでいる。絵を描くのは好きだけれど、好きだからこそ、不意に訪れる自信喪失の期間。どうにも自分の描く絵が無価値に感じられてしまう。高価な絵の具をキャンバスに塗りたくって、ただただ無駄にしている。画材からゴミを生み出しているような気持ちにすらなる。絵具のままのほうが価値があったんじゃないか、なんて虚しさすら感じるのだ。
そんな時期が定期的に訪れる。今はその真っ最中。挙句、今日の授業妨害と来た。心が沈み込むには十分だった。
佐々木美希のことを思い出すと、さらに気が重くなる。絵も書けない。いじめっ子にまたいじめられる。一体、私が何をしたって言うんだろう。前向きに、と思っていても不意に足を引っ張られる。絵が上手く描けないのも、いじめられるのも、きっと私に悪いところがあるから。楽になりたくて、考えたくなくて、そうやってすぐに自分を責めてしまう。
このままだと自分も、自分の絵も大嫌いになりそう。
「澤村さん」
背後から肩を叩かれて、立ち止まって振り返る。心配そうな顔をした飯森がプリントを手に持っていた。
「あ、飯森さん。お疲れ様です」
「お疲れ。プリント一枚、落としてたよ。ていうか、大丈夫?顔色すごく悪いよ」
「あはは……ちょっと、授業で失敗しちゃって落ち込んでたの。拾ってくれてありがとう」
飯森と話しながら小会議室に入ると、部屋には誰もいなかった。私は破かれたプリントをさっさと鞄の中に突っ込んで、他の荷物を片づける。飯森も手にいっぱいもっていた教科書やプリントの束を下ろして、話しながら書類を整理していた。
「飯森さんも授業だったの?」
「そうだよ、何とか終わった。寝そうな生徒も多くてちょっと心折れそうだったわ」
「実技科目だからって最初から寝る姿勢の子とか宿題の内職してる子とかいるもんね。あれは傷つく」
「だよね。って言っても、授業中、寝たことないわけじゃないから文句言いにくいけど」
「罪のない者だけ石を投げよ、みたいな?確かに私も落書きしてる子に注意するとき罪悪感半端ないよ」
飯森と話していると気が紛れて良かった。しばらく授業の愚痴を言い合っていたら、外から足音と話し声がして一ノ瀬と黒川が部屋の中へ入ってきた。私は「美術室に忘れ物しちゃった」と言って席を立った。
「ちょっと美術室行って来る」
黒川と一ノ瀬の横を挨拶がてら通り過ぎた。外へ出ようとドアノブに手をかけた私の背中に一ノ瀬が声をかける。
「澤村さん、授業は大丈夫だった?」
「うん、大丈夫。さっきはありがとう」
振り返らずに言って、そそくさと小会議室を出た。何も急いでいないのに、逃げるみたいに廊下を早歩きした。負の感情でいっぱいの今、どうしてか一ノ瀬の顔を見られなかった。彼には感謝しているのに。今、彼に優しくされると、必死で堪えているものが駄目になってしまいそうで怖い。
美術室の前まで来ると、高岡先生がちょうど準備室から出てくるところだった。先生は私の姿を見ると、どうしたのと優しく声をかけてくれる。
「ちょっと忘れ物しちゃって……」
「そうかい。僕はしばらく職員室で教務課の仕事をするから、何か用があれば職員室へ。この学校の教務は忙しいから、来年は総務課がいんだけれどねえ」
高岡先生はぶつぶつ言いながら職員室へ向かった。
担任を持っていない教員は総務課や教務課、進路指導課など校内での教科以外の仕事が割り振られる。その学校によって違いがあるが、総務なら式典や会議の準備など、教務なら時間割や試験の管理など、教科に関係なく様々な業務がある。授業をするだけでも大変なのに、先生たちは他の業務もしながら夜遅くまで残って教材研究、つまりは授業の準備などをしている。先生たちがこんなに忙しくしていただなんて、生徒側の時は思いもしなかった。正直、実習に来るまでは授業だけしていればいい仕事だと思っていた。無知な自分が恥ずかしい。
「はあ……」
自己嫌悪のため息ばかりが漏れる。
美術室の窓際、一番前の席に座った。生徒用の椅子は固くて、座り心地が悪くて、やはり懐かしい。教室の後ろに視線をやると、授業で制作した生徒たちの作品が数枚掲示されている。高岡先生が提出課題の作品からいくつか選んで定期的に展示替えをしているのだ。あどけなくて、拙い。けれど素直な作品たちが眩しい。この教室で絵を描いていた頃の私に戻って、あんな瑞々しい作品を創れたらいいのに。
思考はずっとネガティブで、そんな自分がますます嫌になる。
「……元気出さなきゃ」
ポケットから携帯電話を取り出して、アルバムを開く。お気に入りのフォルダを開いて遡る。四年も前の古い写真。日付は高校生最後の文化祭の日だった。映っているのは一枚の紙。現物は父から貰ったあのスケッチブックに、表紙の裏に張り付けてある。
元気がない時、絵が描けない時、自分が嫌いになりそうな時。そんな時々に私はいつもこれを見る。
それはとても優しい言葉で綴られた、ラブレターみたいな手紙だった。
誰が書いてくれたのかは、知らないけれど。
私はマウスを動かして、画像を本来予定していたゴッホの自画像に切り替えた。
「さて、本題に戻ります。皆さん、この画家の名前はわかりますか?」
誰かがピカソとふざけて大きな声で答えた。
「答えてくれてありがとう。でもこれ、ゴッホだよ」
小さく笑いが起きる。苦笑しながらゴッホの自画像を年代別に並べたスライドを表示する。内心では答えが返って来るだけ有り難いと感じていた。高校生ともなると、小中学校と比べ発言する生徒は少ない。大人しい生徒の多いクラスだと最初から最後まで無言だったりする。授業する側からすれば、無言はかなりきつい。
「ゴッホは多くの自画像を残しています。初期の自画像は暗い色で描かれ、時代とともに色彩が変わっていきます。服装や持ち物に変化もあって……」
ゴッホの自画像から彼の心情や変化、そして自画像を描く意味などを話していった。その後はプリントを使って各自で自画像のテーマなどを考えさせ、初回の授業は進んでいった。
チャイムが鳴るまであっという間だった。
時間はぎりぎりになったが予定していた内容まで何とか進み、チャイムが鳴って授業は終わった。休み時間になって数名の生徒たちが教卓に集まって、私の絵について嬉しい感想を言っては去っていった。
そうして生徒が全員いなくなると、高岡先生と二人で反省会が始まった。
「導入で予定外の話をしたのもあって、序盤に時間が取られて、最後駆け足になったのは少し勿体なかったですね。ちょっと詰め込み過ぎだったかな」
「はい……すいません、最初から脱線しちゃって」
「時間管理は上手くなかったですが、生徒の意見を拾い上げていて内容自体は良かったと思いますよ。まあ、君でなければ、あの導入は成立しなかったでしょうけれどね」
「それって、どういう意味ですか?」
「あの自画像、大学に入ってから描いたものだね?良く描けていた。高校の頃から君の才能は抜きんでていましたが、大学に入ってさらに磨きがかかっているようだ。普通、素人には言葉で説明しない限り、そうそう作品の意図や込められた想いなんてものは伝わりません。絵を見慣れている人間にすら伝わらないことだってよくある。君だってよく分からない作品と出会うことはあるでしょう?伝わるから良い悪いって話でもないですが、伝えようとしてうまく伝わるものでもない。でも、君の絵は伝わった。それも普段絵を見ることもない、高校生の子どもたちに」
「まあ、あの絵は分かりやすく描いてありましたから……」
「いいえ、それは普通のことではないですよ。君の絵は特別です。絵を解らない人間にすら伝える力が君の絵にはある。今日の授業を見てよく分かりました。君はやはり尋常ではない画家だ。そんな君の授業で、生徒たちがどんな絵を描くのかますます楽しみになりましたよ」
「私の絵なんて……買いかぶり過ぎですよ、先生」
「君の絵の価値を一番知らないのは君自身かもしれないね」
先生は愉快そうに言って、目を細めた。
その後は板書の書き方、スクリーンの使い方など細かい部分で指摘を受けて反省会は終わった。
たった一回授業をしただけで疲弊した。私はぐったりしながら、美術室を後にして、のろのろと廊下を歩いた。何だか身体がひどく重かった。
先生は私の絵を恐縮するくらい評価してくれていた。それなのに評価を素直に受け取れなかった。ずっと思うように絵を描けていないせいだろうか。
生徒には偉そうに話しておきながら、私は今、絵を描けないでいる。絵を描くのは好きだけれど、好きだからこそ、不意に訪れる自信喪失の期間。どうにも自分の描く絵が無価値に感じられてしまう。高価な絵の具をキャンバスに塗りたくって、ただただ無駄にしている。画材からゴミを生み出しているような気持ちにすらなる。絵具のままのほうが価値があったんじゃないか、なんて虚しさすら感じるのだ。
そんな時期が定期的に訪れる。今はその真っ最中。挙句、今日の授業妨害と来た。心が沈み込むには十分だった。
佐々木美希のことを思い出すと、さらに気が重くなる。絵も書けない。いじめっ子にまたいじめられる。一体、私が何をしたって言うんだろう。前向きに、と思っていても不意に足を引っ張られる。絵が上手く描けないのも、いじめられるのも、きっと私に悪いところがあるから。楽になりたくて、考えたくなくて、そうやってすぐに自分を責めてしまう。
このままだと自分も、自分の絵も大嫌いになりそう。
「澤村さん」
背後から肩を叩かれて、立ち止まって振り返る。心配そうな顔をした飯森がプリントを手に持っていた。
「あ、飯森さん。お疲れ様です」
「お疲れ。プリント一枚、落としてたよ。ていうか、大丈夫?顔色すごく悪いよ」
「あはは……ちょっと、授業で失敗しちゃって落ち込んでたの。拾ってくれてありがとう」
飯森と話しながら小会議室に入ると、部屋には誰もいなかった。私は破かれたプリントをさっさと鞄の中に突っ込んで、他の荷物を片づける。飯森も手にいっぱいもっていた教科書やプリントの束を下ろして、話しながら書類を整理していた。
「飯森さんも授業だったの?」
「そうだよ、何とか終わった。寝そうな生徒も多くてちょっと心折れそうだったわ」
「実技科目だからって最初から寝る姿勢の子とか宿題の内職してる子とかいるもんね。あれは傷つく」
「だよね。って言っても、授業中、寝たことないわけじゃないから文句言いにくいけど」
「罪のない者だけ石を投げよ、みたいな?確かに私も落書きしてる子に注意するとき罪悪感半端ないよ」
飯森と話していると気が紛れて良かった。しばらく授業の愚痴を言い合っていたら、外から足音と話し声がして一ノ瀬と黒川が部屋の中へ入ってきた。私は「美術室に忘れ物しちゃった」と言って席を立った。
「ちょっと美術室行って来る」
黒川と一ノ瀬の横を挨拶がてら通り過ぎた。外へ出ようとドアノブに手をかけた私の背中に一ノ瀬が声をかける。
「澤村さん、授業は大丈夫だった?」
「うん、大丈夫。さっきはありがとう」
振り返らずに言って、そそくさと小会議室を出た。何も急いでいないのに、逃げるみたいに廊下を早歩きした。負の感情でいっぱいの今、どうしてか一ノ瀬の顔を見られなかった。彼には感謝しているのに。今、彼に優しくされると、必死で堪えているものが駄目になってしまいそうで怖い。
美術室の前まで来ると、高岡先生がちょうど準備室から出てくるところだった。先生は私の姿を見ると、どうしたのと優しく声をかけてくれる。
「ちょっと忘れ物しちゃって……」
「そうかい。僕はしばらく職員室で教務課の仕事をするから、何か用があれば職員室へ。この学校の教務は忙しいから、来年は総務課がいんだけれどねえ」
高岡先生はぶつぶつ言いながら職員室へ向かった。
担任を持っていない教員は総務課や教務課、進路指導課など校内での教科以外の仕事が割り振られる。その学校によって違いがあるが、総務なら式典や会議の準備など、教務なら時間割や試験の管理など、教科に関係なく様々な業務がある。授業をするだけでも大変なのに、先生たちは他の業務もしながら夜遅くまで残って教材研究、つまりは授業の準備などをしている。先生たちがこんなに忙しくしていただなんて、生徒側の時は思いもしなかった。正直、実習に来るまでは授業だけしていればいい仕事だと思っていた。無知な自分が恥ずかしい。
「はあ……」
自己嫌悪のため息ばかりが漏れる。
美術室の窓際、一番前の席に座った。生徒用の椅子は固くて、座り心地が悪くて、やはり懐かしい。教室の後ろに視線をやると、授業で制作した生徒たちの作品が数枚掲示されている。高岡先生が提出課題の作品からいくつか選んで定期的に展示替えをしているのだ。あどけなくて、拙い。けれど素直な作品たちが眩しい。この教室で絵を描いていた頃の私に戻って、あんな瑞々しい作品を創れたらいいのに。
思考はずっとネガティブで、そんな自分がますます嫌になる。
「……元気出さなきゃ」
ポケットから携帯電話を取り出して、アルバムを開く。お気に入りのフォルダを開いて遡る。四年も前の古い写真。日付は高校生最後の文化祭の日だった。映っているのは一枚の紙。現物は父から貰ったあのスケッチブックに、表紙の裏に張り付けてある。
元気がない時、絵が描けない時、自分が嫌いになりそうな時。そんな時々に私はいつもこれを見る。
それはとても優しい言葉で綴られた、ラブレターみたいな手紙だった。
誰が書いてくれたのかは、知らないけれど。