放課後になって掃除、部活動の補助、授業のプリント作成など慌ただしく全て作業を終えると、外はどっぷり暗くなっていた。薄暗い廊下を急ぎ足で歩いて小会議室に戻ると、一ノ瀬が荷物を片づけているところだった。
「澤村さん、部活終わったの?今日は長かったんだね」
「県の美術展前だからね。部員よりも高岡先生の方が気合入ってるけど。そう言えば、飯森さんと黒川さんってもう帰ったの?」
「澤村さんと入れ違いで、ついさっき二人とも帰ったとこだよ。黒川さんも部活が長引いて、飯森さんは授業のプリントがやっと完成して、二人で帰って行ったよ」
「そうなんだ。一ノ瀬くんは何してたの、こんな時間まで。授業準備?部活やってないでしょ?」
「俺はまた教頭先生に雑用頼まれて肉体労働だよ。講堂の倉庫、片づけていたんだ」
「教頭先生、実習生がいる間に学校中の倉庫を綺麗にするつもりかな」
「そうだとしたら、俺は高校時代に部活をやってなかったことを悔やむよ」
笑っていると、閉校時間を知らせる放送が鳴った。生徒は下校時間までに、教員は閉校時間までに学校を出なければならない。私は慌てて自分の荷物を鞄に詰め込んだ。一ノ瀬と急ぎ足で玄関まで行くと、私たちが実習生の中では最後だったらしく、教頭先生に「まだいたの⁉早く帰りなさい!」と急かされ、追い出されるように学校を出た。
「教頭先生、戸締りの仕事まであるんだ。大変だなあ、管理職」
「なー。倉庫の片づけ真面目に頑張ろうかな、次があればだけど」
「他の倉庫は片付いてるといいね」
話ながら校門を出ると一ノ瀬が当然のように「もう暗いからバス停まで送るよ」と言うので私は首を横に振った。バス停は学校から大通りの方へ五分ほど歩いたところにある。
「えっ、いいよ!大丈夫!すぐそこだし!」
「やだよ、何かあったら後悔するの俺だもん。さ、行こ!」
私は迷いながら何も言えなかった。何か気の利いたことが言えればいいのに。
「次のバスまで二十分くらいだって。この時間になるとやっぱり本数少ないね」
彼は時刻表を確認するとバス停のベンチに座って、一緒に待ってくれる。私はその横に遠慮がちに座った。バス停は私たちだけで他には誰もいなかった。二人だけのバス停は静かでそわそわした。
「一ノ瀬くんって本当に優しくていい人だね」
「何、急に。そこのコンビニでアイスでも買って来て欲しいってこと?」
「普通に思ったこと言ってるだけだよ」
「何だよそれー、照れるじゃん。別に俺、優しくないし、いい人でもないよ。佐々木とか大嫌いだし、顔見るだけで腹立つもん。優しいのは俺じゃなくて、澤村さんのほうなんじゃない?」
「え、何で?」
「だって、佐々木のこと黙っていたいって頑なに言うじゃん。それって報復が怖いって理由だけじゃなくて、あいつが教育学部だから教免取れずに卒業できなくなるのを心配してるんじゃないの?」
私は内心驚嘆しながら、少し考えて、口を開いた。
「心配っていうのとは少し違うけど……私の言動で彼女の人生が台無しになるっていうか……何て言うんだろう、取り返しのつかないことになったら怖いなって。自分の為に人の人生を壊すだけの勇気がないの」
「澤村さんの高校時代は壊されたのに?」
「……まあ、そうだけど。でも、今、私は普通に幸せだから」
私がへへへ、と笑うと、一ノ瀬は「そっか」と複雑そうな顔をして頷いた。
「俺は、正直、佐々木なんかどうにでもなれって思うけど」
「一ノ瀬くんは意外と厳しいね」
「殴られるところ、目の前で見たら余計そう思う」
「初日から飛んでもないものをお見せして申し訳ない……」
「知らないままのほうが嫌だよ。今日みたいに何かあったら、ちゃんと言って」
「もうないよ、多分。心配しすぎだよ」
それからバスが来るまで、他愛ない話をした。高校の時のことや、大学のことなど。彼と話していたらあっという間に時間は過ぎていく。バスが来なかったらいいのに、と思ってしまうくらい、心地の良い時間だった。
「あ、そうだ!ペンケース、これ良かったら使って」
一ノ瀬が鞄から黒いペンケースを取り出した。袋に入っていて、新品だった。
「勝手に購買で買っといた!黒しか無くてごめんね」
「そんな、悪いよ!」
「でも、今日帰ってから裸の消しゴムやシャーペン見たら悲しくならない?新しいペンケースを貢いだ男がいたなって少しは心が晴れるかとって思って。だから貰ってくれると嬉しい」
「ふふ、何それ。一ノ瀬くん、私に貢いでくれるの?」
「澤村さんになら貢ぎますよ。購買で五百円のペンケースだけど。ほら、貰っといて損はないから!」
半ば無理矢理、押し付けられるように手渡された。お礼を言って受け取ると、一ノ瀬は静かに微笑み返した。
「一ノ瀬くんってどうしてそこまで親身になってくれるの?」
彼に初めて出会った日から疑問だった。普通なら、面倒事は避けたい。しかも教員免許のために必須である教育実習中なら尚更、面倒事は避けたいはずなのに。一ノ瀬は我が事のように私のことを気にして世話を焼いてくれる。
出会ってたった数日の私に、どうして。
「高校時代から友人だったわけでもないし、一ノ瀬くんはどうしてここまで色々してくれるのかなって思ってね」
「つい放っておけなくて。やり過ぎかなって思う時もあるんだけど、うざかったらごめんね」
「うざいなんて思うわけないよ。ただ、いじめを知られた時、こんなに良くしてもらったことなかったから。先生にも、クラスメイトにも……みんな、見て見ぬふりだった。だから不思議で」
「その人たちはもしかしたら、何もしなかったこと、できなかったことを今になって後悔してるかもね」
「一ノ瀬くんも後悔してることがあるの?」
一ノ瀬は少し考えてから曖昧に、ちょっとだけ悲しそうに笑った。
「長くなるから、その話はまた今度ね」
一ノ瀬が指差す方を見ると、バスのライトがこちらを照らしていて、私は眩しさに目を細めた。そこで会話は終わった。
短く別れの挨拶をして、バスに乗り込む。窓際の座席に座ると、バス停から一ノ瀬が座席の窓を見上げて、元気よく手を振っていた。いつも通りの笑顔なのに、あの曖昧で少し悲しそうな笑顔が頭を過った。