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私は、ゴミ箱の前で硬直していた。
ゴミの中に散乱する壊れたペンケース、真っ二つに折れたシャープペンシル、破かれた指導案。それらを見下ろして、思考は停止していた。感情が高校生の自分に引き戻されそうで、じっと立っているのがやっとだった。
ああ、またあのピアノが聞けたらいいのに。現実逃避する脳内でそんなことを願っていた。
「どうしたんです?」
急に横から黒川が覗き込んできた。私は慌てて「何でもない!」とゴミ箱を隠すように振り返ったが、遅かった。
「なんですか、これ……」
ゴミ箱の惨状を見て、黒川が言葉を失う。どうしたの、と飯森までやって来て、同じくそれを見て絶句した。私は何を言っていいか分からないまま、言い訳めいた言葉が頭の中をぐるぐるしていた。その時、部屋のドアが勢いよく開いて、一ノ瀬が元気に部屋に入ってきた。
「ただいま!なんか良い匂いするね!」
いつもの調子で明るく入ってきた一ノ瀬だったが、私たちを見ると雰囲気がおかしいことに気づいて、訝しげな顔をした。
「集まって何してんの?」
誰も何も言えなかった。一ノ瀬はすたすたと歩いて私の前まで来ると、ゴミ箱を覗いて同じように一瞬固まる。そして、ぐっと拳を握りしめ、深いため息を吐いた。
深くて、長くて、重いため息だった。
「大丈夫?」
至極優しい口調で、彼は私に言った。眉をハの字に下げて、私の顔を覗き込む。そして、何も言えないでいた私の手を取った。
「澤村さん、職員室行こう。報告して、相談しないと」
そう言われて、初めて焦りが生まれた。慌てて首を横に振る。停止していた思考は急に回り始めた。
「いや、大丈夫だよ、このくらい」
「前に言ったよね、次に何かあったら俺は動くって」
「でも、誰がやったかなんて証拠はないんだから」
「誰がやったかなんて分かりきってるじゃん!」
一ノ瀬の語調が俄かに強くなった。
「ちょっと、一ノ瀬くん。大きな声はやめてください!澤村さんに怒鳴ってどうするんですか!」
黒川が一ノ瀬を止めに入ると、一ノ瀬は小さな声で「ごめん」と謝った。一瞬の静寂の後、飯森が困惑した顔で呟くように言った。
「もしかして……佐々木美希?」
私は驚いて飯森の顔を見る。
「何で知ってるの?」
「やっぱりそうなんだ」
飯森は驚き、そして困惑した顔を見せた。
「澤村さん、三年生の時はあんまり学校来てなかったから知らないかもだけど、私たち、三年の時もクラスが隣だったんだよ」
「……私が高三の時、休みがちだったことを知ってるんだね」
「隣のクラスだったから、噂が流れて来てさ。佐々木さんが澤村さんをいじめて澤村さんが学校に来なくなったって。あの時は、いじめの現場も見たわけでもなかったし、結局は他人事だったから聞き流してた。でも……本当だったんだ。今、これを見てぞっとしてる」
飯森はゴミ箱の惨状に視線を落として申し訳なさそうに言った。
「ごめんね……私、ただの噂だと思って信じてなかった」
「飯森さんが謝るようなことじゃないよ、クラスも違ったんだし」
「高校生の私は同じクラスでも、見て見ぬふりをしたかもしれない。でも、私はもう大人だからちゃんとしたい。澤村さんが大事にしたくない気持ちはわかるけど、ちゃんと報告した方が良いと思う」
飯森は真剣な顔で私を見つめた。
「私は教員になりたくてここにいるから、正直、実習に来てまでこんなことをする佐々木さんのことが理解できないし、怖い。こんな人が実習生として今、教育に携わっていることも恐怖しかない。生徒のためにも報告すべきだと思うよ」
「俺もそう思うよ、澤村さん。説明会の日のことだってあるし。証拠って言うならあの日、実は俺」
「一ノ瀬くん、余計なことは言わないで!あの日のことは……話さなくていい」
私が言葉を被せると一ノ瀬は口を噤んだ。飯森や黒川に、これ以上いじめのことを知られたくなくて隠したかった。
「飯森さんや一ノ瀬くんが言っているのは正論だと思う。私も彼女が実習にいると知った時、憤る気持ちがあったから。でも、今日のことはただ、私の私物が壊されて捨てられていただけで、彼女がやったという確証は何もない。まあ、彼女以外に心当たりはないし、十中八九、彼女の仕業だろうけれど」
「それなら……!」
話し出そうとする一ノ瀬を私は再び制した。
「私もね、高三の時にいじめが始まってすぐ、担任や副担の先生に相談したの。でも、佐々木美希は絶対に認めなかったし、本当に口が上手かった。そのうち証拠がないからって私が彼女を陥れようとしていることにすらされた。だから、多分、今回も同じ。この状況で私が動いたとしてもあの時と同じか、もっと酷いことになりかねない。何の罪もない生徒には悪いけど、私は自分がかわいい。だから、事を荒立てたくない……ごめんなさい」
私が深々と頭を下げると、黒川が横から震える声で言った。
「何の罪もないのは澤村さんも同じじゃないですか……?澤村さんが謝ることなんかないです、ここにいる誰も悪くないです」
黒川の言葉で、三人の熱くなっていた空気がすっと静かに波が引いて落ち着いていくのが感じられた。飯森はいつもの優しい表情に戻って、優しく私の手を取った。
「ごめん、澤村さん。そうだよね、今、いたずらに騒いでも澤村さんの立場を悪くする可能性もあったのに考えなしだった!」
「俺も、突っ走ってごめん……」
私は慌てて首を横に振った。
「高校生の時はクラスの誰も助けてくれなかったけど、今こうしてみんなが怒ってくれて力になろうとしてくれたことがすごく嬉しい……なんか、ちょっと救われたよ」
助けてくれなかった傍観者たちを恨んだこともあった。高校生の頃、私は子どもで、周りも子どもだった。だから仕方なかったんだ。恨むのは、恨み続けるのは疲れるし辛い。それに状況が違えば、私だってきっと傍観者になり得た。
「あの頃は……誰も助けてくれなかったから、いじめられる私が悪いのかなって思ってたの」
「どんな理由があったって、いじめられた側が悪いわけない!」
一ノ瀬が力強く言い切った。その言葉で、心の中に澱のように残っていた高校生の私がすっと消えていく気がした。
「みんな、時間はまだ大丈夫だよね⁉とりあえず、全員座ってマフィン食べて、落ち着こう!それで余力あったら続きを話そう!」
飯森は「はい、マフィン」とポケットから最後の一個を取り出して一ノ瀬の手に乗せた。一ノ瀬は驚いて、「何で⁉」と言いながらもすぐに「やったー!」と子供みたいに喜ぶので、私はつい笑ってしまった。笑ったら、肩からふっと力が抜けた。
みんなでマフィンをむしゃむしゃと食べて、一息ついてから説明会の日にあったことを簡単に飯森と黒川に話した。一ノ瀬は何か言いたげだったが、ひとまず、私の意を汲んで静観してくれることになった。小会議室は閉校時間まで施錠しないので、なるべく小会議室を無人にしないようにしようと決めて、話は終わった。
チャイムが鳴って、次の時間に予定がある黒川と飯森は小会議室を出て、一ノ瀬と二人になった。私はゴミ箱から捨てられた私物を拾おうとしたら、一ノ瀬が待ったをかけた。
「嫌かもしれないけど、念のために写真を撮っておこう」
「別にいいけど、そんなの撮って意味ある?」
「意味がないといいけど、必要になることがあるかもしれない。ついでに、このノートに今日あったことと、説明会の日のことも記録しよう。俺も一緒に書くから」
一ノ瀬はゴミ箱の写真を携帯で何枚か撮ると、鞄から新品のノートを出した。
「証拠づくり?私、本当にどうこうするつもりはないからいいよ」
「何があるかわからないから、記録しておこう」
「慣れてるね。いじめられたことあるの?ってあるわけないか、一ノ瀬くんは」
「俺はないけど、身内がね」
「え?」
「ほら、飴あげるから書いて書いて。その間に俺がゴミ箱からペンケース救い出しとくよ」
「飴って……子供じゃないんだから」
ぶつぶつ言いながら、好きな味だったので私は飴をちゃっかり受け取った。
「よしっ、ペン一本残らず救出するぞ!」
腕まくりをする一ノ瀬に「汚れるからいいよ」と言うと、彼は「じゃあ尚更、俺がやったほうがいいじゃん」と爽やかな笑顔で言った。私は胸がぎゅっとなって「ありがとう」と小さな声で言うのがやっとだった。彼の周りに人が集まる理由がよく分かった。
なんて優しい人だろう。彼はきっと、みんなに優しい。
それが少しだけ切ないのは何故だろう。