「あれぇ?香ちゃん、まだ学校いたんだねー」
佐々木の馬鹿にしたような甘ったるい声を無視して、私は目を伏せた。そして、そのまま彼女の横を急いで通り過ぎようとした。
「お絵描きは楽しい?」
佐々木は立ち止まって意味ありげに美術室を振り返った。私はどきっとして足を止める。
「あたしたちが受験勉強してる時に、香ちゃんはお絵描きして遊んでるんだよね。気楽でいいなあ」
いいな、なんて微塵も思っていない顔で彼女は言う。
「でもさぁ、必死に勉強してるのに横でお絵描きして遊んでる奴いるとさ、目障りだよね、普通に」
「……何が言いたいの」
「受験勉強で疲れている人が、香ちゃんの絵を見たら何すると思う?」
佐々木は可愛らしい顔で悪魔のように嗤って言った。
「きっとイライラして壊しちゃうよね」
私は走った。きっと慌てて走り出した私の姿を佐々木美希は嗤って見ているに違いない。それでも、走って、走って、美術室に飛び込んだ。肩で息をしながら、目の前の光景を見てその場にへたり込んだ。
「私の絵が……」
どうして、こんなに酷いことができるの。
廊下にいるだろう佐々木美希に聞かれたくなくて、滲む涙を必死で堪えた。嗚咽が漏れないように口を押えて声を殺した。イーゼルに立ててあった絵は床に落ちていた。少しずつ描き進めていた絵。それは見るも無残に切り裂かれ、ボロボロになっていた。ノートや教科書を壊されるのとはわけが違った。時間をかけて色を重ねてきた作品を壊される、それは私にとって身を捥がれるような痛みと哀しみがあった。
理由もなくいじめられる。親は離婚する。心の拠り所だった絵は壊される。
家にも学校にも、どこにも逃げ場はないと思った。世界は広いと言われても、現状、高校生の私には家と学校が世界の全てだった。ただでさえ、狭い世界は袋小路のように行き止まりばかり。
絵を描きたい。その一心で耐えてきた。けれど、その絵すらも壊されたなら、もう終わりだ。
「もういい、疲れた」
セーラー服の袖で滲んだ涙を拭って、窓に向かって歩き始める。窓を開けると、はらはらと小雨が降っていた。窓の下には雨に濡れた中庭の銅像が見えた。中庭には木々や花壇があって、真下は舗装された地面だった。二階からだと確実に死ぬのは難しいか。舗装されたコンクリートの地面なら頭から落ちれば死ねるだろうか。
何の解決にもならない。ただの逃げ。親に迷惑をかけるだけで、加害者たちを喜ばせるだけの愚行。頭の中に次々と警告めいた言葉が浮かんでくる。けれど、その警告を受け入れて明日からも頑張るだけの力がない。正しいことを考えるだけの、ほんの少しの力も、私にはもう無かった。
死ぬのは怖い。それ以上に、明日も学校に行くのはもっと怖かった。
死ぬより、これからも生きなければいけないことのほうが余程辛いと思った。
「ちゃんと死ねますように」
独り言のように呟いて願った。窓から身を乗り出すと、しとしとと降る小雨が顔を濡らす。柵を掴んでいるこの手を離せば落ちる。落ちて楽になればいい、と自分に言い聞かせるように目を閉じた。力を抜いて、そっと手を離そうとしたその時だった。
頭上から、優しい音色が降ってきた。
それは真上にある音楽室から漏れ聞こえるピアノの音色だった。初めて聞くその旋律は、泣きたくなるくらい優しかった。ゆっくりと目を開けて、ため息を吐く。教室の床に足を下ろした。
床に足が着くと、力が抜けてその場に座り込んだ。開けたままの窓から吹き込む雨に濡れながら、その美しいピアノに耳を傾けていた。気が付けば、最後までその曲を聴いていた。
演奏が終わると、ぽろぽろと涙が止めどなく溢れ出た。ずっと泣くのを我慢していた。一度泣いたら止まらなくなると思った。それなのに、あまりに優しいピアノの音色に、うっかり泣いてしまった。そして、やっと自覚する。
多分、私はずっと、泣きたかったのだ。
「……死にたくない」
泣きながら、本心が口からこぼれ出た。死にたいわけがない。
ひとりぼっちの美術室。雨に打たれながら、たくさん、たくさん泣いた。怖い、辛い、苦しい、痛い、哀しい。この数カ月ため込んだ負の感情が涙となって止めどなく流れた。震える自分の身体をぎゅっと両腕で抱きしめて、ひたすら生きたいと願った。
長い時間大泣きして、気持ちが落ち着くと自然と冷静になれた。本当は死にたくなんかない。普通に毎日を過ごして、絵を描きたい。
私はただ、絵を描き続けたいだけ。
自分の本当に望むことは、はっきりしていた。いじめが始まった春から、初めてやっと前向きな気持ちになれた。
「……また、あのピアノが聞きたいな」
座ったまま、窓の外を見上げる。
不思議だった。絵を描くことばかりしてきた。音楽に触れない暮らしだった。それでも今日の私を救ってくれたのは、音楽だった。音楽も美術も、芸術は暮らしに役立つことはそうないけれど、きっとこうして思いがけず誰かを救うことがある。
あのピアノがなかったら、きっと私は飛び降りていた。間違いなく、あのピアノが奏でる音楽が私を救った。私の絵も、いつか誰かを救うことはあるだろうか。
そんな作品を私も創りたい、と強く思った。
見上げた空は暗い雲で覆われたままだったけれど、いつの間にか雨は止んでいた。
佐々木の馬鹿にしたような甘ったるい声を無視して、私は目を伏せた。そして、そのまま彼女の横を急いで通り過ぎようとした。
「お絵描きは楽しい?」
佐々木は立ち止まって意味ありげに美術室を振り返った。私はどきっとして足を止める。
「あたしたちが受験勉強してる時に、香ちゃんはお絵描きして遊んでるんだよね。気楽でいいなあ」
いいな、なんて微塵も思っていない顔で彼女は言う。
「でもさぁ、必死に勉強してるのに横でお絵描きして遊んでる奴いるとさ、目障りだよね、普通に」
「……何が言いたいの」
「受験勉強で疲れている人が、香ちゃんの絵を見たら何すると思う?」
佐々木は可愛らしい顔で悪魔のように嗤って言った。
「きっとイライラして壊しちゃうよね」
私は走った。きっと慌てて走り出した私の姿を佐々木美希は嗤って見ているに違いない。それでも、走って、走って、美術室に飛び込んだ。肩で息をしながら、目の前の光景を見てその場にへたり込んだ。
「私の絵が……」
どうして、こんなに酷いことができるの。
廊下にいるだろう佐々木美希に聞かれたくなくて、滲む涙を必死で堪えた。嗚咽が漏れないように口を押えて声を殺した。イーゼルに立ててあった絵は床に落ちていた。少しずつ描き進めていた絵。それは見るも無残に切り裂かれ、ボロボロになっていた。ノートや教科書を壊されるのとはわけが違った。時間をかけて色を重ねてきた作品を壊される、それは私にとって身を捥がれるような痛みと哀しみがあった。
理由もなくいじめられる。親は離婚する。心の拠り所だった絵は壊される。
家にも学校にも、どこにも逃げ場はないと思った。世界は広いと言われても、現状、高校生の私には家と学校が世界の全てだった。ただでさえ、狭い世界は袋小路のように行き止まりばかり。
絵を描きたい。その一心で耐えてきた。けれど、その絵すらも壊されたなら、もう終わりだ。
「もういい、疲れた」
セーラー服の袖で滲んだ涙を拭って、窓に向かって歩き始める。窓を開けると、はらはらと小雨が降っていた。窓の下には雨に濡れた中庭の銅像が見えた。中庭には木々や花壇があって、真下は舗装された地面だった。二階からだと確実に死ぬのは難しいか。舗装されたコンクリートの地面なら頭から落ちれば死ねるだろうか。
何の解決にもならない。ただの逃げ。親に迷惑をかけるだけで、加害者たちを喜ばせるだけの愚行。頭の中に次々と警告めいた言葉が浮かんでくる。けれど、その警告を受け入れて明日からも頑張るだけの力がない。正しいことを考えるだけの、ほんの少しの力も、私にはもう無かった。
死ぬのは怖い。それ以上に、明日も学校に行くのはもっと怖かった。
死ぬより、これからも生きなければいけないことのほうが余程辛いと思った。
「ちゃんと死ねますように」
独り言のように呟いて願った。窓から身を乗り出すと、しとしとと降る小雨が顔を濡らす。柵を掴んでいるこの手を離せば落ちる。落ちて楽になればいい、と自分に言い聞かせるように目を閉じた。力を抜いて、そっと手を離そうとしたその時だった。
頭上から、優しい音色が降ってきた。
それは真上にある音楽室から漏れ聞こえるピアノの音色だった。初めて聞くその旋律は、泣きたくなるくらい優しかった。ゆっくりと目を開けて、ため息を吐く。教室の床に足を下ろした。
床に足が着くと、力が抜けてその場に座り込んだ。開けたままの窓から吹き込む雨に濡れながら、その美しいピアノに耳を傾けていた。気が付けば、最後までその曲を聴いていた。
演奏が終わると、ぽろぽろと涙が止めどなく溢れ出た。ずっと泣くのを我慢していた。一度泣いたら止まらなくなると思った。それなのに、あまりに優しいピアノの音色に、うっかり泣いてしまった。そして、やっと自覚する。
多分、私はずっと、泣きたかったのだ。
「……死にたくない」
泣きながら、本心が口からこぼれ出た。死にたいわけがない。
ひとりぼっちの美術室。雨に打たれながら、たくさん、たくさん泣いた。怖い、辛い、苦しい、痛い、哀しい。この数カ月ため込んだ負の感情が涙となって止めどなく流れた。震える自分の身体をぎゅっと両腕で抱きしめて、ひたすら生きたいと願った。
長い時間大泣きして、気持ちが落ち着くと自然と冷静になれた。本当は死にたくなんかない。普通に毎日を過ごして、絵を描きたい。
私はただ、絵を描き続けたいだけ。
自分の本当に望むことは、はっきりしていた。いじめが始まった春から、初めてやっと前向きな気持ちになれた。
「……また、あのピアノが聞きたいな」
座ったまま、窓の外を見上げる。
不思議だった。絵を描くことばかりしてきた。音楽に触れない暮らしだった。それでも今日の私を救ってくれたのは、音楽だった。音楽も美術も、芸術は暮らしに役立つことはそうないけれど、きっとこうして思いがけず誰かを救うことがある。
あのピアノがなかったら、きっと私は飛び降りていた。間違いなく、あのピアノが奏でる音楽が私を救った。私の絵も、いつか誰かを救うことはあるだろうか。
そんな作品を私も創りたい、と強く思った。
見上げた空は暗い雲で覆われたままだったけれど、いつの間にか雨は止んでいた。