絵が飾られてから数日後、その日は高校生活で最低な一日だった。
「お父さんとお母さんね、離婚することになったから」
家を出ようと靴を履いている時に、母は言った。父は興味なさげにダイニングで新聞を読んでいた。
「……え、本当に?」
毎夜聞いていた両親の言い争う声。薄々そんな予感はしていた。それでも、動揺しているまだ子供な自分がいた。
「来年は香も進学で家を出るだろうし、良いタイミングだと思ってね。離婚することにしたのよ」
「……そう」
「あなたの卒業前に離婚するわ。三学期ならほとんど自由登校だし、離婚して名前が変わってもそんなに目立たないでしょう?手続きは来年の初めにするからそう思っておいて頂戴ね」
無言で頷いて家を出た。相談でもなく、決定事項。頷く以外、私にできることはなかった。
憂鬱な朝だった。降りしきる雨の中、重い足取りで登校すると、玄関ホールに飾られた自分の絵が視界に飛び込んできた。絵に描かれた女の子と目が合う。
絵の中では、小さな女の子が嬉しそうにクレヨンを持って、画用紙に絵を描いている。母親の膝の上に座って、白い歯を覗かせて幸せでたまらないといった表情だ。鑑賞者を描こうとでも言うように、その瞳はこちらを向いていて、クレヨンを持つては小さな椛のよう。
その少女は、幼い頃の私自身だった。
母に抱っこされ、嬉しそうに目の前に座る父を描いている。お絵描きが大好きで、父母もまだ仲睦まじく、私の最も幸福だった頃の記憶。まるで、アルバムから思い出の一枚を取り出したような絵だった。屈託なく笑う絵の中の幼い自分が羨ましく見えた。こんなに幸福そうな絵なのに、どこか切なく見える。
ぼんやりと絵を見つめていると、視線を感じてふと横を向いた。少し離れた所から、佐々木美希が私を睨んでいた。それはもう、凄まじい怒りの形相だった。ぞっとした。心当たりはないが、何か怒らせたのだろうか。きっと今日も手酷くいじめられる。諦めた気持ちで、私は佐々木を見ないふりをして下を向いて教室に向かった。
予想通り、その日は普段よりも酷いいじめに遭った。
佐々木美希は機嫌が悪く、何かというと私を後ろから蹴った。いじめやすいようにか、休んでいる間に私の座席は佐々木の前になっていた。クラスメートが集めて提出した課題は、私のプリントだけ捨てられていた。体育のバスケットボールはただ私にボールを当てるゲームに変わっていた。そんな小さな嫌がらせが積み重なっていく。私はただ静かに時間が過ぎるのを待った。
放課後、押し付けられた教室の清掃当番を一人で終えて、やっと一息ついた。
水曜日は、基本的にすべての部活動が休みなので、放課後の学校も静かだった。画塾まで少し時間があったので、私は美術室に向かった。三年生は受験勉強のため、六月で退部する決まりなので私はもう美術部員ではない。けれど、高岡先生は私が何かに悩んでいることは察していて、好きな時に美術室を使ってよいと言ってくれていた。その好意に甘え、画塾が休みの日は美術室を使っていた。
美術室に入ると案の定、誰もいなかった。
画塾では受験対策でデッサンや試験用の油絵ばかりやっているので、学校では息抜きにちまちまと好きな絵を描いていた。完成したら、文化祭で行う美術部の作品展で展示してくれるという。画塾までの短い時間、少しずつ絵を進めていた。
静かな美術室で、黙々と作業をしていると高岡先生が準備室からひょっこり顔を出す。
「香さん、今日も来ていたんですね」
先生は私に飴玉を一つくれた。私はお礼を言って受け取った。
「顔色、少し悪いですよ。この後、画塾もあるのでしょう?無理しないように」
不登校を経て、高岡先生は今まで以上に私を気にかけてくれるようになった。
「何か悩みがあれば、僕でも周りの大人に頼りなさい」
「……大丈夫です」
不器用に笑って頷いた。いじめられていると親にすら言えないのに、先生にはもっと言えなかった。恥ずかしかった。いじめられていると誰にも知られたくなかった。
高岡先生は何か言いたげな顔をしていた。
「それじゃあ、僕はこれから職員会議なので。ほどほどにね」
先生が去った後、休憩がてらお茶を飲もうとして水筒を教室に忘れたことに気が付いた。絵筆を置いて一旦、美術室を出た。教室へ行くと、受験勉強をしている人たちがちらほらいた。佐々木美希がいないことにほっとしながら水筒を取ってまた美術室に戻る。人気のない廊下をとぼとぼと歩いていると向こうから歩いてくる人影をぼんやり視界の端に映していた。かなり近づいてからはっと立ち止まる。こちらに歩いてきたのは、あの佐々木美希だった。