「なにこれ」

 大きなてのひらの上、目の前に差し出されたのは小さな金属だった。鋭利な部分はひとつもなくて、頭の平たい部分と細い溝が、ところどころ凹み歪んでいる。

 「ネジ」
 「そんなの見りゃわかる」

 前髪をピンクのウサギがついたヘアゴムで縛り上げて、やたらとダボついた真っ黒い服に身を包んだ、眠そうな目をした男。耳には大量のピアス。視線を下ろすと左鎖骨のところに銀色のピアスが3つもついている。どう考えてもまともではない。
 まともではないから、会って10秒ほどしか経っていない人間に、平然とネジを差し出せるのだ。

 「これ、俺が朝ぶっ壊した目覚まし時計のネジ。よかったら飲んでみてよ」

 言動も文章も前後関係も、全部がめちゃくちゃだ。なのに、言外に「死にたいんでしょ?」と言われていることだけはわかる。2週間、ここら一帯で治安が最悪と言われている真夜中の風俗街に足を運んでやっと得た収穫がこれだ。
 逃すわけにはいかなかった。

「ありがとう」

 私は小さなチャック付き袋に入った、やたらと軽いネジを取り出す。小刻みに震える手を押さえつけようと力を籠めてチャックを開ける。力の加減を間違ったせいで腕をコンクリート壁にぶつけてしまった。ゴンッ、と、鈍い音が騒がしい暗闇に響く。

 「うあ、痛そ」
 「別に」

 そんなにピアスを開けたあんたが言うか、と思ったけれど、言葉を飲み込んで口を閉じる。いま口を開けば、全ての音がみっともなく震えてしまいそうだった。

 「それ飲んだら、3日後くらいには死ねるんじゃない? 知らないけど」

 忙しなく腕や手をオーバーに動かす話し方、少し高い声、気味悪いくらいに整った顔、全てが彼をうさんくさい人間に仕立て上げる。それでも、私はこんなものに縋るしかない。
 ふと目の端に、長い黒髪で女性的な丸みのある身体をした人を見つけて息が止まった。大丈夫、見つかるはずがない。見つかったところで、あなたにとやかく言われる筋合いはないと言ってしまえば済む話だ。
 これから家に帰って明日を待つしかないことを思うと、消えてしまいたい気持ちが増幅してくる。恐怖がなくなると、頭の中がクリアになる。いつの間にか身体の震えは収まっていて、私は躊躇うことなく口の中にネジを放り込んだ。
口内で転がして、さらに奥に送り込む。舌で包んで、少し甘くすら感じるそれを、喉全体で抱きしめるようにして、それから思いっきり上を向いて、飲み込んだ。

 「あーあ、ほんとに飲んだ。俺、責任とか取らないからね」

 男はいかにも満足そうに目を弧にして、私に背を向けた。

 家に帰る。
 朝が来る。

 いつになったら死ねるかなと淡い期待を抱きながら、酒と金と性の匂いが充満した風俗街を抜ける。
 途中、『SMプレイクラブ百日紅 あなたはS? それとも──』と書かれた看板の店に、うちの学校の口うるさい数学教師に似た男が入っていくのを見て、思わず笑ってしまった。



 朝になれば昨日の夜のことなんてみんな忘れる。
 風俗街でバカ騒ぎをしていた人も、きっと今日は仕事のミスを上司に怒られて小さくなっている。昼に偉そうにしている人も、夜になると風俗嬢にひれ伏して嬲られているのかもしれない。
 誰も、夜の出来事を朝に持ち越さない。昼の失敗を夜に引きずらない。だから私は、あの町で私を傷つけてくれる人を探していた。

 『3日後くらいには死ねるんじゃない?』

 突然目の前に現れて私にネジを寄越したあの男の名前は知らない。ただ、ネオンにぼんやりと照らされた顔が酷く整っていたこと、眠そうな目を擦って、余った袖を振り回しながら話していたこと、そして、舞台に立っているのかと思うくらいによく通る声が告げたその言葉を抱いて、私はあと2日を生きることにした。

 「ねぇ唯ちゃん。お母さんこの大学もいいと思うの。唯ちゃん、こういう勉強したいって前にぽろっと言ってたでしょ? 模試の成績を考えても、十分いけると思う。お金は……ちょっと厳しいけど、本当にやりたいことがあるなら遠慮しないでお母さんに聞かせてね」

 朝食を摂っている娘に学校パンフレットを見せながら熱心に話す。長い黒髪を垂らして、時折左手で右耳に髪をかける。たおやかに、美しく。長年のクセが未だに抜けないのだろう。男に気に入ってもらえるように。この人は、そうしないと生きていけなかったから。

 「ありがとうお母さん。私もう学校行くね」
 「そうね。いってらっしゃい。お母さん唯ちゃんに合う学校探しておくから」
 「うん。行ってきます」

 食器を片付けて、通学カバンを持ち上げる。雑に持ち上げたから、教科書2冊と何かの紙が1枚落ちた。薄い紙に印字されていた『総合:偏差値43』の文字が目に入って、そのまま模試の結果をカバンに突っ込んだ。
 リビングの机では、母親が鼻歌を歌いながら、娘にぴったりの素敵な大学を探している。

 ちり、とお腹が痛むような気がした。




 母親は高校生のときから風俗嬢をしていて、18歳で私を妊娠したらしい。父親の顔は知らない。その話をすると母親は露骨に不機嫌そうになるから、いつの間にかその話はしないようになっていた。風俗嬢を妊娠させるような男だ。どうせろくな人間じゃない。男に依存しないと生きていけなかった母親と、そんな女を妊娠させた男から生まれた私。勉強ができる賢い頭なわけがない。

 「唯、進路どうする?」
 「悩み中」

 2日後に死ぬ予定だとは口が裂けても言えない。
 こんなの、疲れるだけだ。
 毎日わけのわからない数字と文字の羅列を追いかけて、自由な時間も奪われて、それでも思ったような点数は出なくて。親は私に『私らしく生きてほしい』と言うけれど、凡庸な私には『らしさ』なんて胸を張れるものはない。

 ちりっ、とお腹が痛む。

 「唯はいいよね、あたしより頭いいもん」

 自信満々に、ぺらりと見せられた模試の結果は『総合:偏差値37』。

 「いいじゃん」
 「いいでしょ。37。足したら10だし」

 わけがわからなくて笑うしかなかった。学校の先生は、勉強が大事だという。でも、勉強ができなくても、こうやって友だちと笑っているときは楽しい。私が大切にしたいものと、大人に大切にしろと言われるものが違いすぎて、頭がこんがらがる。

 「今日もマック行こ。4日連続記録。勉強もするけど!」

 細い指に腕を掴まれて、反射で頷いた。

 また、ちり、とお腹が痛んだような気がした。




 夜、ふと思い立って家を出る。母親は家を空けているから、私がいなくなったところで誰にも咎められることはない。誰にもバレないから堂々と外出しても大丈夫なはずなのに、私はいつもそっと扉を開けて、優しく扉を閉じる。音を立てないように、誰にも見つからないように。
 夜の街を歩いていると、それだけで自分に少しだけ傷がついたような気がする。暗闇にぼんやりと光るネオンと冷たい風が、私の柔いところを掠めて抉り取っていく。

 そうやって余計な部分を削ぎ落してもらわないと、体が重くて私は生きていけない。

 ちり、とまた痛むお腹を擦りながら、昨日ネジを飲んだ路地を目指す。ソープのキャッチは、私に見向きもしないで横を通り去って行った。
 静かなはずなのに、騒がしい。いまここにある建物が突然全て透明になったら、中にいる人はどんな醜態を見せてくれるのだろう。そんなくだらないことを考えながら歩いていると、いつの間にか目的の場所に着いていた。
 ビルの裏口を通り過ぎて、大きなコンクリート壁を背に座り込む。寝間着に一枚羽織っただけで出てきたせいで、背中がやたらと冷えて仕方ない。

 また、今度は重くお腹が痛んだ。

 ネジを飲んだ日からどうも身体がおかしい。ふとした瞬間、お腹がつきりと痛むし、身体も何となくだるい。

 『3日後くらいには死ねるんじゃない?』

 痛みがあの言葉を連れてくる。思い立って、スマホを取り出した。

 『ネジ 飲み込んだ 痛い』

 検索のボタンを押してしまえば、簡単に答えが出てくる。
 たとえ、それが見たくもない言葉であっても、この無機質な板は私の気持ちになんて1ミリも関心がないから。

 『腸管穿孔とは? 気づかないうちに大量出血の可能性も』
 『赤ちゃんの誤飲 消化管出血のリスクについて小児科医が教える』
 『間違ってネジを飲み込んでしまった! 正しい対処法は?』

 指先がすぅっと温度を捨てる。その文字を見た瞬間、これまでよりも鮮明に腹部が痛み始めた。

 「っぐ……ぁ……、」

 自分が痛みに強い方だとは思わない。耐えられるか耐えられないか、そのギリギリを行ったり来たりする痛みの波に耐えながら、ス マホの明かりをそっと落とす。

 誰も助けに来てくれない。
 私にこんな痛みを与えた元凶の男も、夜の街で働いているはずの母親も、風俗店のキャッチも、誰一人。

 でも、これでいい。

 この痛みが、私を傷つけてくれるから、私は死を望める。

 そう言い聞かせながら、私は家に帰った。
 あと1日できれいさっぱり終わるといいな。

 別に悲しくなんてないのに、枕に一滴、涙が零れ落ちた。



 
 やっぱり夜は、何も朝に持ち越さない。
 昨日あれだけ痛んだお腹も、今は全てを忘れて暢気に空腹を訴えている。ぐぅ、と鳴ったお腹の音に母親が苦笑して、読んでいた新聞を置いてパンを焼いてくれた。

 「お母さん、今日も仕事だから。唯ちゃん、夜しっかり眠れてる? 目の下にクマできてるけど」
 「寝れてるよ。クマは……なんだろうね。わかんないや」

 さく、とパンを齧る。いちごジャムが均一に塗られたパンは程よい焼き加減で、以前自分でパンを焼いたときに失敗したことを思い出した。どれくらい焼いていいかわからず、トースターに入れたはずなのにどこもカリっとしていないパンが出てきて以来、自分でパンを焼くことを諦めた。
 気づいた時にはパンは全部私の胃袋の中に入っていて、手を合わせて「ごちそうさまでした」を言うと、母親がにっこりと笑った。

 「なに」
 「んー? この前、お客さんに『みずほさんの娘さん、きっとかわいいんでしょうね』って言われて。いま見てかわいいなーって改めて思ったとこ」
 「そんなのお世辞でしょ」

 客、それも酒に酔った客の言うことを真に受けるなんてどうかしてる。
 『みずほ』は母親が店で使っている名前。本名はもっと地味で、どこにでもあるような名前。ドレスを着て、男に酒を出して、適当に話を聞いて、時折こうしてあからさまなお世辞に頬を染めている。

 悩みとか、なさそう。

 私の母親に対する印象は、幼い頃から変わっていない。




 異変は4限終わりに起こった。

 それまでちりちりと痛んでいたお腹が、急激に痛み出した。
 冷や汗をかくくらい痛んで、隣の席の女の子に声をかけてもらわなかったらどうなっていたかわからない。
 保健室に運ばれて、養護教諭からの簡単な質問に答える。はい、ううん、はい、最後の質問は、いま家に親御さんはいる? だった。私がいいえ、と答えたのを確認すると、先生は今から病院に行くからと準備のためにどこかへ行ってしまった。

 きり、とまたお腹が痛む。

 たくさんの人に迷惑をかけて死んでいくのは、何となく申し訳ない。
普段あまり話すことのないクラスメイトが、痛みに耐える私の背中をさすってくれたあの温度が、まだ肩甲骨辺りに残っている気がした。




 病院で名前を呼ばれる。近所の大きな病院は、今日も混雑していた。たくさんの高齢者が先生に支えられながら死にそうな顔をして受付で名前を言う私を見て、談笑するのをやめる。緊急性があると判断されたのか、私は早く診察室に通された。

 「少しだけ触りますね」

 そう言って医師が私の腹に聴診器を当て、続けてとんとん、と複数カ所を叩く。
 しばらくして、私は別の検査室に連れていかれた。

 「お腹の写真を撮ります」

 その他にも何か言われたような気がしたが、何も頭に入ってこなかった。何かあれば合図をすればいい、というような旨だったが、痛みが和らぐ瞬間を探すことに必死な私は、看護師からの全ての声に中途半端な返事をすることで精いっぱいだった。
 検査が終わる頃には痛みの感覚が麻痺していた。痛んでいるのか痛んでいないのかがわからない。自分の身体なのに、自分の身体じゃないような感覚が気持ち悪くて仕方ない。
 嫌な予感に包まれながら診察室に戻ると、医師はあっけなくその結果を告げた。

 「何もないですね。ストレス性の腹痛だと思います。胃薬の処方くらいしかできませんが、おうちに薬はありますか?」

 信じられない。あれだけ痛んだのに、「何もない」の一言で片づけられてしまうのか。確かに私の胃の中で何かが起こっていたはずだ。先日のことを思い出して、意を決して声を出す。

 「あの、」

 診察室で医者に対して口を開くのは勇気がいる。私が言葉を発すると、医者も看護師もその視線をゆっくりとこちらに向けてくれた。いきなりふたつの視線がぶつけられて、身体が縮こまる。

 「……なんか、小さい金属みたいなの、写ってなかったですか? これくらいの、」

 あの日飲んだネジのサイズを、指で大まかに示す。

 「金属片を飲み込んだのですか?」
 「いや……その、わからなくて、」
 「飲み込んじゃったかもしれないってこと?」

 言い淀む私に、医者の後ろに立っていた看護師が助け船を出してくれる。
 飲み込んだ。確かに私はあの日、小さな金属を飲み込んだ。
 3日後には死ねるかもしれないという言葉と共に、確かにあのネジを飲み込んだのに。

 「やっぱり、何でもないです。じゃあ、大丈夫だったんですね」

 そうですね、画像には何も写っていないです、と医者がしめくくり、私は病室を出た。何もないのに病院に来たことが少し恥ずかしくて、診察室を出て行くときに目に入った看護師が、私を笑っているような気がしてならなかった。



 「唯ちゃん! 大丈夫? 先生から連絡来て、急いで出てきたんだけど!」

 待合室ではいつの間にか来ていた母親が、私の姿を見るなり大きな声を上げて立ち上がった。だからイヤだったんだ。こうして外で恥じらいもなく大きな声を上げるから。

 「大丈夫だって。すごいお腹痛かったんだけど、ストレスだって」
 「あ……そう……」

 ほっとしたような表情で、腰かけていたソファにぼすん、と身体を預ける。
 「私、びっくりして……唯ちゃんに何かあったら……」

 いちいち大げさだ。私に何かあっても、この人には次の日から普通に仕事をしてほしい。人に囲まれて、毎日を楽しく生きてほしい。
 この人の世界の中心に私がいることは、どうにも居心地が悪い。世界の中心に据えられても、私はどうすることもできない。私を中心に人生を送るなんて、そんなつまらないこと、しないでほしい。

 「でも、何もなかったんだもんね。さっき看護師さんが来て説明してくれたんだけど、受験とかで色々考えることもあるだろうからって。負担になってたらごめんね」

 もういやだ。もう。

 「お母さん」

 力なく笑う姿を見ていられなくて、母親の傍に置いてあった新聞を指さす。

 「それ、読んでたんでしょ? 今日のお仕事に間に合わなくなるから、読んでていいよ」

 そうだね、と母親が再度新聞を手に取る。水商売は、客に気持ちよく話してもらうことが一番の仕事だ。だから無知でいてはいけない。相手の話をしっかり理解して、適切に反応を返さないといけない。相手の話を理解するためには、相手が置かれた状況、今の世の中の状況を知らないといけない。
 夜の世界で生き抜くコツを語ってくれた母親のことを、たぶん私は一生忘れないだろう。

 「この子すごいよね。これ、お菓子なんだって。発想が芸術家って感じで、お母さん好きだなぁ」

 私が小さい時の思い出に浸っていることなど一切知らない母親が、新聞の記事を見せてくる。

 『現役高校生、思いをケーキに』

 その見出しの少し下、大量のネジと色の違うクリームで作られた、ツギハギだらけのケーキ。

 そしてその写真に写っていたのは。
 あの日、私にネジを渡した男だった。

 「ちょっと貸して」

 新聞を半ば奪い取って記事に見入る。

 『西ヶ浦第二高等学校製菓コースの火ノ江勇利さん(17)が製菓コンテストで優勝した。インタビューで、この作品についての思いを語った。』
 記者の書いた味気ない文章に続き、火ノ江勇利のインタビューが掲載されていた。

 『このケーキを見て、「何かおかしい」と思っていただきたいです。そして、皆さんが立ち止まって下さることを願っています』
『火ノ江さんは来年2月の全国創作製菓大会に出場する』という文章で占められた記事は、隅々まで新聞を読む人でないと気付かないような小さなものだった。

 あの日の夜、狭い路地で出会った、ピアスまみれの男。インタビューは短いものだったが、読んだ人の記憶には残るだろう。

 なんだこいつは、と。

 ありがとう、と母親に新聞を返して、私は病院を出た。




 私はあの火ノ江勇利という男の連絡先を知らない。

 もう一度あの男に出会いたければ、細い路地で、来るかどうかもわからないあいつを待ち続けないといけない。会いたいならば、通っている学校に連絡でもして、火江くんの作品に心を打たれた、ぜひ会いたいのだがという旨を伝えるのが手っ取り早い。
 ただ、それはこちらに何もやましいことがなければ、の話だ。
 高校生が夜の風俗街をふらふらとしていたら補導もの、下手をすれば進路に関わってくる。
 道を間違えないようにスマホでマップを見ながら慎重に歩く。少しでも怪しい動きをすれば、この町では餌にされてしまう。
 看板を確認し、とある店の裏口にそっと腰を下ろす。

 30分ほど座って、そろそろ指先が冷えてきたというころ、その扉は開いた。

 「おねーさん、何ですか? もしかして出待ちの幽霊ですか?」

 突然右耳から、「イヒヒ」と男が笑う声が流れ込んでくる。今日に限って静かな路地裏は、私たちの息遣いもすべて拾い上げてしまう。

 もう、見知らぬ男ではなかった。

 大量に開いたピアス、軽薄そうな態度。違うのは、今日はダボついた袖の服ではなくエプロンを丁寧に着ているということ。それだけで、あの日は不気味で仕方なかったこの男が、不思議と温かくすら思えてしまう。

 私は立ち上がって言う。

 「砂糖菓子で死ねるわけないじゃん?」

 固まっていた私の膝が、ぽき、と音を立てるのと同時に、男の眉がピクリと動いた。

 「火ノ江勇利で合ってる?」
 「呼び捨てかよ」
 「くん付けてほしいなら付けるよ。料金はネジ5本分」
 「高すぎんだろ」

 そう言いつつも、火ノ江は少し楽しそうにポケットを探って何かを取り出した。
 大小形様々なネジ。頭が丸いもの、平たくなっているもの、長いもの、短いもの、曲がったもの。

 「これも目覚まし時計のネジなの?」
 「おう」

 あの日の嘘を思い出す。目覚まし時計のネジなんて真っ赤な嘘だ。

 「なんで、嘘ついたの?」
 「いや、まぁ……お前の母ちゃんがうちの店来て愚痴ってたから」
 「お母さんが?」

 この話が一体どこで繋がっているのか、なぜこの男の口から母親が出てくるのかが全くわからない。

 「お前の母ちゃん、ここじゃ有名なんだよ。話聞くのがうまくて、お酒がなくても隣にいるだけで安心できるママって。うちに来るお客さん、みんな言ってる。ちな、ここ俺んち」

 少しだけ口が尖っているのは、母親の店に客を取られてしまったことへの悔しさの現れだろうか。
 『cafe コーヒーマフィン』と書かれた看板はポップな色彩で彩られている。私がここに来たのも、賭けだった。この男がいるなら、お菓子を扱う店に違いないという根拠のない推理。

 火ノ江は、私の顔を見て言う。

 「顔そっくりだよ、お前とあの人。あの人が『私が働きに出ている間、娘が家抜け出してるみたいでね。受験のせいか、最近様子もおかしくて、でもどうしたらいいかわかんない。私ダメな母親だから』って泣きながら言うんだよ」

 嘘だ。母親はいつも優しく笑ってくれて、私がつらく当たっても涙一つ見せずに面倒を見てくれている。私がうまくやれなくても、「唯ちゃんはそれでいいよ」と言ってくれる。

 でも、それがつらかった。

 それでいいわけないのに。私だって、お母さんが胸張って自慢の娘だって言ってもらえるような子どもになりたかった。言い訳を重ねて、できない理由を用意して、死にたがって。

 「たまたまその日、学校の製作で失敗したネジを持ってたから、娘をちょっとからかってやろうと思ってさ。そしたら今日、みずほさんは娘が腹痛で病院に行ってるから店遅れるって、時間つぶしに来たお客さんから聞いて。まぁ、ちょっとびっくりしたよな」

 ただの砂糖菓子なのに。と火ノ江は言う。
 長く痛んでいたはずの胃を忘れていた私の体は、ネジを飲んで初めてそこに痛みがあることを認識した。自分の体の面倒すら見ることができない。これじゃ、いよいよ何もできないじゃないか。

 悔しくて荒れていた唇の皮を剥いたら、口の中に鉄の味が広がって思わず顔を顰めた。
 死にたいと思っていたのに、血を流すことは怖い。

 コンクリート壁に背中を預ける男を見上げて、私は話の続きを待った。どうも、自分では何も言葉にできそうになかった。

 「俺にできることってこれくらいだったんだよ。お前まだ生きてるし、なんか結果オーライっぽくてよかったわ」

 火ノ江はニカっと笑い、手に持っていた5本のネジを私の目の前に差し出す。

 私は、誰かに傷つけてもらいたくて仕方なかった。
 傷ついて、めちゃくちゃになれば、生きるのが嫌なことも認めてもらえると思ってた。
 傷ひとつない体では死ねない。恵まれた環境もつらいと思ってしまう自分が嫌だった。
 なのに夜の風俗街でそんな私に与えられたのは、たったひとつの小さな砂糖菓子。

 「ま、一回休めって。お前、思いつめた顔しすぎ。キャッチに声かけられないってよっぽどだぞ。なんかおかしいなって思ったらすぐ休め。これは命令だ。とりあえずまぁ、お前が生きてるだけでみずほさんは喜ぶんだから。頼むよ」

 あと、これ以上みずほさんに迷惑かけんなよ、とぶっきらぼうに言う。
 ぽんと頭に大きな手が乗せられる。その手からふわりと生クリームのような甘い香りがして、思わず息を深く吸い込んだ。

 あのネジは、私の体を作り変えてくれただろうか。
 体の奥深くに刺さって、知らない間に違う私になっていたら面白いのに。
 私は手に持っていたネジを5本すべて飲み込んだ。

 甘い、目覚まし時計のネジを味わう。
 家に帰ったら、歯磨きをして、ベッドに入って。


 明日を待つのも、悪くない。