「先生ー。もうすぐ時間です。」
「はーい。」
スタッフに呼ばれ、私は控え室から出た。歩いていると待っている人の声が大きくなっていく。その声にどきどきすると同時に、楽しみでもあった。やっと今日、楽しみにしていたファンに生で会えるのだから。
表に出ると、予想以上にファンがいて、私を見つけると歓声が凄かった。その声に耳が痛くなりながらも、こんなに歓声が上がる程人気なのだと思うと幸せだなぁと思った。
私が中心に立つと、スタッフにマイクを渡された。一呼吸置いてから私は話した。
「今日は沢山の方が来てくださりとても嬉しく思います。今日はサインはもちろん、話をしたい方は制限時間はありますが、話す事も出来ます。是非皆さん楽しんで行ってください。」
頭を下げると、一際歓声が大きくなった。私はすぐ横にあったイスに座り、ペンを持った。そうすると次々に人が並んできて、あっという間に一時間待ちの長蛇の列になった。
私、清川愛は夢だった小説家になった。今日は本屋の一角を借りて、サイン会だ。
私はあの時書いた小説が準大賞に選ばれた。本当は準大賞は本になる予定はなかった。だが、審査の小説家皆、どうしても本にしたいと話に話しあった末、書籍化が決定した。その連絡が来たのが小説が準大賞だったと知ってから半年後だった。私はバイトをしながら次の小説を書くのに取り掛かっていたから、驚いたのをよく覚えている。
この出版社では初の準大賞での書籍化だったから、多くのメディアが私を取り上げた。おかげで私はバイト先でもよく声をかけられる人間となった。人と関わるのが苦手だった私は徐々に慣れて、今では人と関わるのが得意になった。絶対私は人と関わるのが得意になれると思っていなかった。人生、何が起こるかわからないものだ。
「愛先生、私、先生の作品全部大好きです!これからも応援してます!」
私のペンネームは本名からとって愛(あい)だ。私の本を手に取った人が、本を愛してくれるようにという願いを込めている。
「ありがとう。これからも好きって思ってもらえるような小説を書くからよろしくね。」
ニコッと笑顔を向けると、ファンはきゃーきゃー言いながらどこか別の場所に消えていった。
私は自分で言うのもなんだが、有名な小説家になっていた。私の名前を出して知らない人はほぼいない。映画化の話も来ているから、数年したら公開するだろう。そうしたら今よりもっと忙しくなる。それすらも楽しいと思っている私がいた。昔の私だったら考えられない。
「次の方〜」
スタッフが誘導して次のファンが入って来た。
「先生の作品の本全部にサインしてもらう事って出来ますか?」
聞き覚えのある男性の声。顔を上げると目の前には柊が立っていた。なんで?今日は仕事で来れないって言ってたのに。
「先生?」
「あ、あぁ。全部にサインね。出来ますよ。少しお時間頂きます。」
「ぜんっぜん大丈夫です。たとえ何時間でも待ちます。」
柊の目の前でサインを書くのは緊張した。どうしてわざわざサインを書きに来たのだろう。サイン本は書籍化する前に全て柊に渡しているのに。
「全部書き終わりましたよ。」
「うわぁ、ありがとうございます!嬉しいです。」
柊は本を大事に袋に入れた。そして。
「愛がサイン会終わるの、待ってるね。ここの本屋のどこかにいるから終わったら声かけて。」
私の耳元でそう言うと、さっさと去って行った。
「先生、次の方呼んでも大丈夫ですか?」
「ちょっとだけ待ってほしいです。」
この顔の赤さで人前には出れない。全く、柊はいつもこうなんだから。耳元で話すのはくすぐったいから人前ではやめてって何度も言ってるのに。
「ありがとうございます。もう大丈夫です。」
「はーい。次の方〜」
次から次へと来るファンの相手が忙しくて、柊の事で赤くなっていた顔は完全に元に戻った。
「は〜、終わった〜」
サイン会が始まってから二時間。やっと人の波がなくなり、サイン会を終わらせる事が出来た。予定していた時間より一時間オーバーだ。仕方ないし、それ程人気だって事はわかるのだが、疲れるものは疲れる。
「先生、お疲れ様です!やっぱり先生のサイン会は人が多いですね。県外から来る人もいるみたいですよ!」
控え室に戻る道すがら。私の担当編集者が興奮気味に教えてくれた。
「そう。でも私はあの人にさえ見ててもらえればいいから。」
「もー、それはわかってますよ〜。今日も来てましたよね、旦那さん。」
いいな〜、私もそんな旦那さんが欲しい〜と担当編集者が言う横で、私は再び顔が赤くなっていた。
この担当編集者は私が本を出版してからの付き合いだから、かれこれ十年の付き合いになる。だから私の扱いはもちろん、私の家庭なども詳しく知っている。
「先生〜、どうしたら私もあんないい旦那さん捕まえられますか?」
「まずは気になってる人にアプローチから始めたら?ほら、この間言ってた新人の編集者さん...むごっ」
「わー、それ以上言わないでー!」
担当編集者に口を抑えられ、その先は言えなかった。
「先生、もっと周りを見て発言してください。もしその人がいたらどう責任取ってくれるんですか!」
「もし居たら好都合じゃない?だって気になってるってわかったら相手も意識するだろうし。」
「もー、先生は他人事だからそうやって呑気に言えるんです!」
「そう?私の旦那さんもすっごくアプローチしてきたよ。愛が重くて大変だったんだから。」
思い出すだけでげっそりする。そんな人とどうして結婚したのか自分でも不思議でならない。
「そうは言っても先生、旦那さんの事好きじゃないですかー!惚気ないでくださいー」
「惚気けてるつもりはないんだけどなー」
「それを惚気って言うんです!」
控え室に戻っても私達は会話をしていた。私が学生時代の頃、こんなに仲良く話せる人がいなかった。だから今、学生時代をやり直しているようだ。
「あ、私会社に戻らないといけないので、先生と話すのはおしまいです。先生も早く旦那さんの所行ってあげてくださいね。」
担当編集者は時計を見ながら言うと、私がなにか言う前に控え室を出て行った。このやり取りももう慣れた。
最初は何この人と変人に見ていたが、話してみると自由に生きている人なのだとわかり、一緒にいるのが楽しくなった。
私は小説家になってからかなり変わったと思う。人と話せるようになった事もだし、人間に対する考え方も変わった。
今まで人間は怖いもの。人の悪口を言う生き物だと思っていた。でも今は違う。確かに人の悪口を言う人間は一定数いる。だけどそれ以上に、人は人を救う為に生きている。私もそう。私の小説を読んだ人が救われたらいいなと思って書いている。それで何人かが救われたとファンレターをくれた。そして、私の旦那さんも人を救う為に生きている。
「お待たせ。かなり待ったよね。ごめん。」
小学生のドリルのコーナーでドリルを物色していた旦那さん...柊に声をかけた。
「あ、愛。おかえり。全然待ってないよ。むしろ本屋をゆっくり見れて楽しかった。」
「そう?なら良かった。このドリル、買うの?」
「いや、ただ見てただけだよ。今の小学生はどんなドリルを使って勉強するのかなって。授業で役に立つかもしれないし。」
柊は小学校の先生をしている。中学生の教員免許も持っているが、小学生の先生をやっている。理由は小さい時にダメな事はダメと教えたいから。例えば、人が嫌がる事をしない。自分が遊びだと思っていても相手がいじめだと思ったらいじめ。意外と大人になってからだと誰も教えてくれない事を柊は小さい子に教えたかったみたいだ。小さい頃に言われた言葉は覚えているから。そして中学で私みたいに必死に頑張ってる人を馬鹿にする人間になって欲しくないみたいだ。
「なるほど。ならもっと見る?」
「ううん、もう大丈夫。ねぇ、お腹空かない?俺、気になるカフェあるんだ。行かない?」
「カフェ?行く行く!」
「言うと思った。さ、行こ。」
当然のように手を出され、握る。今では当然になったこの動作だが、十年前はたどたどしくしていた。思い返すだけで懐かしい。
私と柊は二年前、籍を入れた。お互い仕事が安定したら籍を入れようと決めていた。
籍を入れたからと言って特段と変わった事はない。私の苗字が戸籍上清川から神林になったが、仕事では紛らわしくなるから旧姓のままを使っている。
「着いたよ。」
「めっちゃオシャレ...」
本屋から歩いて五分の所にあるカフェは、オシャレとしか言いようがない。だからメニューのお値段もそこそこだ。
「めっちゃ高いけど美味しそう...」
「なんでも好きなの頼みな。愛がサイン会頑張ったご褒美に。」
「ありがとう!」
お言葉に甘えて私はオムライスの上にハンバーグが乗った美味しくないはずがない料理と、ココアフロートを頼んだ。
「お腹が空きすぎてつい頼んじゃったけど、食べ切れるかな...」
「食べ切れなかったら俺がもらうよ。愛は心配せず好きなだけ食べな。」
「私って神と結婚したのかな?」
柊はずっと変わらず優しい。籍を入れたらもっと優しくなった気がするが、気のせいだと言うことにしよう。今みたいに私が料理を頼みすぎて残しても食べてくれるし、お風呂入った後は髪をドライヤーで乾かしてくれる。その他にももっと色々やってくれるが、全部気のせいだ。そう思わないと申し訳なさで押しつぶされる。それを柊は望んでいないから。
「まあ一概に間違いではないね。俺の苗字、神林だし。」
「あ、そうだね。じゃあやっぱり私は神と結婚したんだ。これから神って呼ぶよ。」
「厨二病みたいな事言わないでくれる?」
そんな冗談を交えて話していると、料理が来た。私が頼んだオムバーグは写真より大きく見える。
「これが世に言う逆写真詐欺って奴...?」
「すごいだろ。この店はそれを売りにしてるんだ。前に同僚に引き連れられて来た時に、絶対愛とも来ようって決めたんだ。」
「ほんっと、私の事好きだよね。いただきます。」
「愛だって、俺の事大好きなくせに。いただきます。」
料理は文句無しに美味しかった。食べ切れるか心配だったが、ぺろりと食べれた。
「全部食べ切れた!美味しかった。」
「良かったよ。喜んでもらえて。」
「でもカロリー凄そう。太っちゃう。」
「なら俺とダイエットする?」
柊はいやらしい目で私の身体を見ている。そりゃあ結婚したのだからそういう行為をする時もある。
「変態がいるー!おまわりさーん!」
「嘘だよ。愛、そういう行為好きじゃないもんね。」
「うん...ごめんね。」
私は親に愛されたという感覚がない。だから子供が出来たとしても愛せないだろう。だから自ずとそういう行為も好きではない。柊には本当に申し訳ない事をしている。好きな人と、そういう行為を出来ないのだから。
「謝る事じゃないよ。事情知ってるし、こう言ったらあれだけど俺も好きじゃないから。」
「そうなの?男の人はみんなそういう行為好きだと思ってた。」
「はーい、それは偏見ですー。まぁ、俺達が特殊なだけかもだけどね。」
「そうだね。」
「うん。さ、そろそろ出るか。トイレ大丈夫?」
「大丈夫!」
「おっけー。俺、会計するから外で待ってて。」
「はーい」
外に出ると、春の心地よい風が頬を通り過ぎていった。私と柊が出会って、十三回目の春だ。柊と出会って、もう十三年も経ったのか。時が経つのは本当に早い。歳をとるにつれ、そう思うようになっていた。若い頃は、そう思わなかったのに。人生が充実している証拠だろう。
「お待たせー」
昔の事を思い出していると柊が戻ってきた。あの日、私を助けてくれた柊と比べると背が伸びているし、顔つきも大人の男性だ。
「なーに、そんなじろじろ見て。惚れ直しちゃった?」
「まあそれに近いかも。柊が私を救ってくれた時の事思い出してたの。」
「そっか、もう出会って十三年目だもんな。」
歩こっかと柊が提案し、私達はどこに向かうでもなく手を繋いで歩き始めた。
「あの日、愛と出会ってなかったら俺どうなってたんだろう。」
「柊はなんだかんだ言って今と同じ道を進んでそう。」
「そう?愛と出会ったから教師になろうと思ったんだよ。」
「それでも、柊は教師になってたと思うよ。逆に私は柊と出会ってなかったら小説家になってなかったかも。」
「ならお互い出会って良かったんだよ。愛、俺と出会ってくれてありがとう。」
立ち止まり、私の顔をしっかり見て言う柊は優しい笑みを浮かべている。
「私こそ、出会ってくれてありがとう。好きになってくれてありがとう。」
だから私もしっかり答えた。柊は照れくさそうに笑った。つられて私も笑った。
「ほんと俺達って、出会うべき運命だったんだな。」
「そうみたいだね。」
今書いてる小説が書き終わったら、私と柊の人生を振り返りながら小説を書こう。きっと励まされる人がいるはず。
その日の晩。柊が寝た後、私はパソコンと向かいあっていた。自分の生い立ちや柊と出会った事を思い出しながら。
私は小さい頃、人に自分の思っている事を言えなかった。それに人と関わる事や会話する事も苦手だった。小説家になりたい事も、家族に対しておかしいと思う事も全部自分の胸にしまってきた。
だけど柊と出会って、私は変わった。本当に少しずつだが人に自分の思っている事を言えるようになったし、人と関わる事も好きになった。
私がずっと言えなくて胸にしまってきた想い。それらを柊が引き出してくれた。
柊がいたから、私はここまで来れた。そうでなければずっと音読された事を根に持って生きていただろう。柊には感謝してもしきれない。だから私は、感謝を本にして感謝を形にする。
この物語は夢を忘れた私と、愛を知らない柊が出会って、恋に落ち、幸せになるまでの物語だ。
「はーい。」
スタッフに呼ばれ、私は控え室から出た。歩いていると待っている人の声が大きくなっていく。その声にどきどきすると同時に、楽しみでもあった。やっと今日、楽しみにしていたファンに生で会えるのだから。
表に出ると、予想以上にファンがいて、私を見つけると歓声が凄かった。その声に耳が痛くなりながらも、こんなに歓声が上がる程人気なのだと思うと幸せだなぁと思った。
私が中心に立つと、スタッフにマイクを渡された。一呼吸置いてから私は話した。
「今日は沢山の方が来てくださりとても嬉しく思います。今日はサインはもちろん、話をしたい方は制限時間はありますが、話す事も出来ます。是非皆さん楽しんで行ってください。」
頭を下げると、一際歓声が大きくなった。私はすぐ横にあったイスに座り、ペンを持った。そうすると次々に人が並んできて、あっという間に一時間待ちの長蛇の列になった。
私、清川愛は夢だった小説家になった。今日は本屋の一角を借りて、サイン会だ。
私はあの時書いた小説が準大賞に選ばれた。本当は準大賞は本になる予定はなかった。だが、審査の小説家皆、どうしても本にしたいと話に話しあった末、書籍化が決定した。その連絡が来たのが小説が準大賞だったと知ってから半年後だった。私はバイトをしながら次の小説を書くのに取り掛かっていたから、驚いたのをよく覚えている。
この出版社では初の準大賞での書籍化だったから、多くのメディアが私を取り上げた。おかげで私はバイト先でもよく声をかけられる人間となった。人と関わるのが苦手だった私は徐々に慣れて、今では人と関わるのが得意になった。絶対私は人と関わるのが得意になれると思っていなかった。人生、何が起こるかわからないものだ。
「愛先生、私、先生の作品全部大好きです!これからも応援してます!」
私のペンネームは本名からとって愛(あい)だ。私の本を手に取った人が、本を愛してくれるようにという願いを込めている。
「ありがとう。これからも好きって思ってもらえるような小説を書くからよろしくね。」
ニコッと笑顔を向けると、ファンはきゃーきゃー言いながらどこか別の場所に消えていった。
私は自分で言うのもなんだが、有名な小説家になっていた。私の名前を出して知らない人はほぼいない。映画化の話も来ているから、数年したら公開するだろう。そうしたら今よりもっと忙しくなる。それすらも楽しいと思っている私がいた。昔の私だったら考えられない。
「次の方〜」
スタッフが誘導して次のファンが入って来た。
「先生の作品の本全部にサインしてもらう事って出来ますか?」
聞き覚えのある男性の声。顔を上げると目の前には柊が立っていた。なんで?今日は仕事で来れないって言ってたのに。
「先生?」
「あ、あぁ。全部にサインね。出来ますよ。少しお時間頂きます。」
「ぜんっぜん大丈夫です。たとえ何時間でも待ちます。」
柊の目の前でサインを書くのは緊張した。どうしてわざわざサインを書きに来たのだろう。サイン本は書籍化する前に全て柊に渡しているのに。
「全部書き終わりましたよ。」
「うわぁ、ありがとうございます!嬉しいです。」
柊は本を大事に袋に入れた。そして。
「愛がサイン会終わるの、待ってるね。ここの本屋のどこかにいるから終わったら声かけて。」
私の耳元でそう言うと、さっさと去って行った。
「先生、次の方呼んでも大丈夫ですか?」
「ちょっとだけ待ってほしいです。」
この顔の赤さで人前には出れない。全く、柊はいつもこうなんだから。耳元で話すのはくすぐったいから人前ではやめてって何度も言ってるのに。
「ありがとうございます。もう大丈夫です。」
「はーい。次の方〜」
次から次へと来るファンの相手が忙しくて、柊の事で赤くなっていた顔は完全に元に戻った。
「は〜、終わった〜」
サイン会が始まってから二時間。やっと人の波がなくなり、サイン会を終わらせる事が出来た。予定していた時間より一時間オーバーだ。仕方ないし、それ程人気だって事はわかるのだが、疲れるものは疲れる。
「先生、お疲れ様です!やっぱり先生のサイン会は人が多いですね。県外から来る人もいるみたいですよ!」
控え室に戻る道すがら。私の担当編集者が興奮気味に教えてくれた。
「そう。でも私はあの人にさえ見ててもらえればいいから。」
「もー、それはわかってますよ〜。今日も来てましたよね、旦那さん。」
いいな〜、私もそんな旦那さんが欲しい〜と担当編集者が言う横で、私は再び顔が赤くなっていた。
この担当編集者は私が本を出版してからの付き合いだから、かれこれ十年の付き合いになる。だから私の扱いはもちろん、私の家庭なども詳しく知っている。
「先生〜、どうしたら私もあんないい旦那さん捕まえられますか?」
「まずは気になってる人にアプローチから始めたら?ほら、この間言ってた新人の編集者さん...むごっ」
「わー、それ以上言わないでー!」
担当編集者に口を抑えられ、その先は言えなかった。
「先生、もっと周りを見て発言してください。もしその人がいたらどう責任取ってくれるんですか!」
「もし居たら好都合じゃない?だって気になってるってわかったら相手も意識するだろうし。」
「もー、先生は他人事だからそうやって呑気に言えるんです!」
「そう?私の旦那さんもすっごくアプローチしてきたよ。愛が重くて大変だったんだから。」
思い出すだけでげっそりする。そんな人とどうして結婚したのか自分でも不思議でならない。
「そうは言っても先生、旦那さんの事好きじゃないですかー!惚気ないでくださいー」
「惚気けてるつもりはないんだけどなー」
「それを惚気って言うんです!」
控え室に戻っても私達は会話をしていた。私が学生時代の頃、こんなに仲良く話せる人がいなかった。だから今、学生時代をやり直しているようだ。
「あ、私会社に戻らないといけないので、先生と話すのはおしまいです。先生も早く旦那さんの所行ってあげてくださいね。」
担当編集者は時計を見ながら言うと、私がなにか言う前に控え室を出て行った。このやり取りももう慣れた。
最初は何この人と変人に見ていたが、話してみると自由に生きている人なのだとわかり、一緒にいるのが楽しくなった。
私は小説家になってからかなり変わったと思う。人と話せるようになった事もだし、人間に対する考え方も変わった。
今まで人間は怖いもの。人の悪口を言う生き物だと思っていた。でも今は違う。確かに人の悪口を言う人間は一定数いる。だけどそれ以上に、人は人を救う為に生きている。私もそう。私の小説を読んだ人が救われたらいいなと思って書いている。それで何人かが救われたとファンレターをくれた。そして、私の旦那さんも人を救う為に生きている。
「お待たせ。かなり待ったよね。ごめん。」
小学生のドリルのコーナーでドリルを物色していた旦那さん...柊に声をかけた。
「あ、愛。おかえり。全然待ってないよ。むしろ本屋をゆっくり見れて楽しかった。」
「そう?なら良かった。このドリル、買うの?」
「いや、ただ見てただけだよ。今の小学生はどんなドリルを使って勉強するのかなって。授業で役に立つかもしれないし。」
柊は小学校の先生をしている。中学生の教員免許も持っているが、小学生の先生をやっている。理由は小さい時にダメな事はダメと教えたいから。例えば、人が嫌がる事をしない。自分が遊びだと思っていても相手がいじめだと思ったらいじめ。意外と大人になってからだと誰も教えてくれない事を柊は小さい子に教えたかったみたいだ。小さい頃に言われた言葉は覚えているから。そして中学で私みたいに必死に頑張ってる人を馬鹿にする人間になって欲しくないみたいだ。
「なるほど。ならもっと見る?」
「ううん、もう大丈夫。ねぇ、お腹空かない?俺、気になるカフェあるんだ。行かない?」
「カフェ?行く行く!」
「言うと思った。さ、行こ。」
当然のように手を出され、握る。今では当然になったこの動作だが、十年前はたどたどしくしていた。思い返すだけで懐かしい。
私と柊は二年前、籍を入れた。お互い仕事が安定したら籍を入れようと決めていた。
籍を入れたからと言って特段と変わった事はない。私の苗字が戸籍上清川から神林になったが、仕事では紛らわしくなるから旧姓のままを使っている。
「着いたよ。」
「めっちゃオシャレ...」
本屋から歩いて五分の所にあるカフェは、オシャレとしか言いようがない。だからメニューのお値段もそこそこだ。
「めっちゃ高いけど美味しそう...」
「なんでも好きなの頼みな。愛がサイン会頑張ったご褒美に。」
「ありがとう!」
お言葉に甘えて私はオムライスの上にハンバーグが乗った美味しくないはずがない料理と、ココアフロートを頼んだ。
「お腹が空きすぎてつい頼んじゃったけど、食べ切れるかな...」
「食べ切れなかったら俺がもらうよ。愛は心配せず好きなだけ食べな。」
「私って神と結婚したのかな?」
柊はずっと変わらず優しい。籍を入れたらもっと優しくなった気がするが、気のせいだと言うことにしよう。今みたいに私が料理を頼みすぎて残しても食べてくれるし、お風呂入った後は髪をドライヤーで乾かしてくれる。その他にももっと色々やってくれるが、全部気のせいだ。そう思わないと申し訳なさで押しつぶされる。それを柊は望んでいないから。
「まあ一概に間違いではないね。俺の苗字、神林だし。」
「あ、そうだね。じゃあやっぱり私は神と結婚したんだ。これから神って呼ぶよ。」
「厨二病みたいな事言わないでくれる?」
そんな冗談を交えて話していると、料理が来た。私が頼んだオムバーグは写真より大きく見える。
「これが世に言う逆写真詐欺って奴...?」
「すごいだろ。この店はそれを売りにしてるんだ。前に同僚に引き連れられて来た時に、絶対愛とも来ようって決めたんだ。」
「ほんっと、私の事好きだよね。いただきます。」
「愛だって、俺の事大好きなくせに。いただきます。」
料理は文句無しに美味しかった。食べ切れるか心配だったが、ぺろりと食べれた。
「全部食べ切れた!美味しかった。」
「良かったよ。喜んでもらえて。」
「でもカロリー凄そう。太っちゃう。」
「なら俺とダイエットする?」
柊はいやらしい目で私の身体を見ている。そりゃあ結婚したのだからそういう行為をする時もある。
「変態がいるー!おまわりさーん!」
「嘘だよ。愛、そういう行為好きじゃないもんね。」
「うん...ごめんね。」
私は親に愛されたという感覚がない。だから子供が出来たとしても愛せないだろう。だから自ずとそういう行為も好きではない。柊には本当に申し訳ない事をしている。好きな人と、そういう行為を出来ないのだから。
「謝る事じゃないよ。事情知ってるし、こう言ったらあれだけど俺も好きじゃないから。」
「そうなの?男の人はみんなそういう行為好きだと思ってた。」
「はーい、それは偏見ですー。まぁ、俺達が特殊なだけかもだけどね。」
「そうだね。」
「うん。さ、そろそろ出るか。トイレ大丈夫?」
「大丈夫!」
「おっけー。俺、会計するから外で待ってて。」
「はーい」
外に出ると、春の心地よい風が頬を通り過ぎていった。私と柊が出会って、十三回目の春だ。柊と出会って、もう十三年も経ったのか。時が経つのは本当に早い。歳をとるにつれ、そう思うようになっていた。若い頃は、そう思わなかったのに。人生が充実している証拠だろう。
「お待たせー」
昔の事を思い出していると柊が戻ってきた。あの日、私を助けてくれた柊と比べると背が伸びているし、顔つきも大人の男性だ。
「なーに、そんなじろじろ見て。惚れ直しちゃった?」
「まあそれに近いかも。柊が私を救ってくれた時の事思い出してたの。」
「そっか、もう出会って十三年目だもんな。」
歩こっかと柊が提案し、私達はどこに向かうでもなく手を繋いで歩き始めた。
「あの日、愛と出会ってなかったら俺どうなってたんだろう。」
「柊はなんだかんだ言って今と同じ道を進んでそう。」
「そう?愛と出会ったから教師になろうと思ったんだよ。」
「それでも、柊は教師になってたと思うよ。逆に私は柊と出会ってなかったら小説家になってなかったかも。」
「ならお互い出会って良かったんだよ。愛、俺と出会ってくれてありがとう。」
立ち止まり、私の顔をしっかり見て言う柊は優しい笑みを浮かべている。
「私こそ、出会ってくれてありがとう。好きになってくれてありがとう。」
だから私もしっかり答えた。柊は照れくさそうに笑った。つられて私も笑った。
「ほんと俺達って、出会うべき運命だったんだな。」
「そうみたいだね。」
今書いてる小説が書き終わったら、私と柊の人生を振り返りながら小説を書こう。きっと励まされる人がいるはず。
その日の晩。柊が寝た後、私はパソコンと向かいあっていた。自分の生い立ちや柊と出会った事を思い出しながら。
私は小さい頃、人に自分の思っている事を言えなかった。それに人と関わる事や会話する事も苦手だった。小説家になりたい事も、家族に対しておかしいと思う事も全部自分の胸にしまってきた。
だけど柊と出会って、私は変わった。本当に少しずつだが人に自分の思っている事を言えるようになったし、人と関わる事も好きになった。
私がずっと言えなくて胸にしまってきた想い。それらを柊が引き出してくれた。
柊がいたから、私はここまで来れた。そうでなければずっと音読された事を根に持って生きていただろう。柊には感謝してもしきれない。だから私は、感謝を本にして感謝を形にする。
この物語は夢を忘れた私と、愛を知らない柊が出会って、恋に落ち、幸せになるまでの物語だ。