私は小さい頃から本を読むのも書くのも好きだった。だから自然と小説家になるのが夢だった。

でもその気持ちはいつしか忘れてしまった。

いや、忘れてしまったというより、心にしまい込んだと言う方が正しいだろう。

私は元々、普通の人間ではなかった。

同い年の人と関わるのが極端に苦手で。同い年の人と少し会話するだけで緊張してしまい、声は小さくなるわ、何を話せばいいのかわからなくなるわで会話は成り立たなかった。

だからか私と話した人はみな、気持ち悪がって二度と話しかけて来る事はなかった。

それはまだいい。だって普通に話せない私が悪いから。

一番辛かったのはその事でいじめられた事だ。

まともに話せない人間はもう一度子供からやり直せ。

学校に来るな。

罵詈雑言は毎日。

それでも私はめげずに学校に通った。

人生は学校だけじゃないから。今は辛くても、卒業してしまえばこの人達とはおさらばだから。

それに私には小説がある。小説は人と関わる事が苦手な私でも書けるから。

言葉ではないから、なんでも伝えられる。

私は中学を入学して卒業までの期間、ずっと小説を書く事に力を入れてきた。

沢山小説を読んでいる私だからなれる。

どこからきたのかわからないが、自信があった。

そしてもうすぐ小説は完成するという時に私は中学三年生になった。

進路は適当に高校進学にした。まだ三年生になって間もないから変更出来る。

私は小説家になるから別に進学はどこでもいい。

この時は本気でそう思っていたのだ。

だが夏休み直前の昼休み。いつも通り私は教室で小説を書いていた。

そして完成まであと少しの所で事件は起こった。

この日は暑かった。教室に冷房がついているとはいえ、クラスメイト達がじゃれあっているのを見るだけで暑く感じる。

私の席の周りで、数人の男子達が騒いでいた。それはいつもの事だから今更気にしない。

男子の騒ぎ合いはピークに達した。一人の男子がふざけてもう一人の男子を押し飛ばした。

押した力が強かったのか、よろけた男子は私の机にぶつかった。

その衝撃で机が動いてしまい、小説が書いてある原稿用紙が床に落ちてしまった。

「あ、ごめん、って、これ、小説?」

すぐに拾ったが椅子からおりる時間分遅かった。私の机にぶつかった男子が原稿用紙の一枚を拾ってしまったのだ。

「なに、清川って小説書いてんの?」

「か、返して」

「おいみんなー!清川って小説書いてるみたいだぜ!見てみろよ!」

男子はクラス中に聞こえる大声で言うとすぐに人が集まって来た。

やめて。私の中学校生活全てをかけてきた大事な小説なのに。

「どれどれ?はは!清川ってこんなの書くんだ。キモー!」

「や、やめて...」

「私と彼は、そっと唇を合わせた...。って、なんだこれ!清川って見た目に反して、エッチなの好きなんだな。」

終わった。私の人生をかけた小説だったのに。こんな形でバラされてしまうとは。

小説だからいつかは人の目につく。だが誰が書いたかまではわからない。だから安心して書いていたのに。

「清川ー、こういうの望んでるなら言えよー。相手してやるよ!」

怒りと悲しみで動けないでいると、男子が私の所まで来て唇を合わせてきた。

一瞬、何が起こったのかわからなかった。

唇が離されてやっと、私はこのくそキモ男子にキスされたのだと理解した。

「どう?小説通りだった?」

男子はニタニタ笑いながら聞いてきた。

小説を勝手に音読された事も、唇を合わせてきた事も。

全てが気持ち悪くて私は原稿用紙を奪うと教室を出た。

その足ですぐさまトイレに向かい、唇を洗った。唇が無くなるのではないかって程洗った。

洗っていると涙が出てきた。私、なにか悪い事したっけ。

夢に向かって努力してただけなのに。あんな形でバラされて。

それに私の小説はエッチなものでは決してない。話の流れでああいう場面にしたのだ。最初から読んでもないのに、あの場面だけでエッチと決めつけて。

腹立つ。腹立つ。

「うっ...うわあああー!」

私しかいないトイレに、泣き声が響いた。幸い、誰も通らない所にあるトイレだから誰かが見に来るということは無いだろう。

抱き抱えた原稿用紙は涙でびちょびちょだ。こうならないように、持ち歩く時はいつも細心の注意をはらって扱っていたのに。

だがもういい。こんな事があって、何も無かったかのようにこの小説の続きを書く事は、私には出来ない。

この事件をキッカケに、私は気付いた事があった。

それは人間は弱い者をいじめたい性質にあるって事だ。

もしこれが私ではなくクラスの人気者が小説を落としても、音読はしなかっただろう。キスをする事も。私だからしたのだ。私だと、反応が面白いから。

ふざけてる。だがそれが人間なのだ。弱い者をいじめて、自分が強い者だと錯覚する。そうでは無いと生きていけないから。



そして私は小説を書くのをやめた。新しい作品を書く気にもなれなかった。

それに伴い、学校にも行けなくなった。学校に行ったら、小説の事でからかわれる事は目に見えていたから。

幸い、夏休みに入ってくれたおかげで休むのは数日で済んだ。

学校に行かない私を、両親は咎めたりしなかった。

毎年、夏休みに入るのはとても嬉しかった。小説を書く手を止めなくていいから。

だが今年の夏休みは違う。小説家になるという夢を失った私はただ生きているだけの人間になった。

私は弱いから。たったこれだけの事で長年の夢だった小説家になるという想いを、心に閉じ込めた。

起きて、ご飯を食べて、寝る。その繰り返しで生きていると夏休みが終わった。

夢がない夏休みは、こんなにも時の流れが遅いんだ。

夏休みが空けても、私は学校に行かなかった。いや、行けなかった。

元々勉強が得意ではなかった私は、すぐに勉強が追いつかなくなった。

それに早めに見切りをつけ、両親に相談して進学をしない道を選んだ。

どうせ高校に行っても、中学みたいな弱い者いじめをする人が多くて弱い私にはやっていけないだろう。

両親は私の好きな様に生きろと言ってくれた。多分、両親も私に見切りをつけたのだろう。それでも今の私には救いの言葉に聞こえた。

私には二つ下の弟がいる。両親は弟をとても可愛がっていて、期待していた。

弟は容姿端麗で頭脳明晰。学校では副会長を務め、部活はテニス部。新入生なのにもうレギュラー入りだ。非の打ち所がない人だ。

別に私も愛されていない訳ではないと思う。両親は私の話す事もしっかり聞いてくれて、アドバイスもくれる。

だが言葉の端々で感じるチクチクとした言葉は私の弱った心を刺激した。もっとも、両親はそんなつもりはないのだろうが。

だから私は両親にも小説家になりたいと打ち明けた事はない。言ったら、否定されると思うから。

夢を失い、人間としてもゴミな私。私って、なんの為に生きているのだろう。

生きているのが辛い。もう死んでしまおうか。

本気でそう考えて死に場所を探して歩いていた時。その人と出会った。

「死ぬなら、俺の話を聞いてからにしてくれませんか?」

そう声をかけてきたのは私が通っていた中学の制服を着た一人の男子。

制服に付いているバッチの色が同学年の物では無いから年下なのは間違いない。

私は驚いた。どうして、死のうとしているのがわかったのだろう。

そして、初対面の人に聞いてもらいたい話とはなんなのか。

元小説家希望の私は、この話はネタになるかもしれないと思ってしまった。そう思ってしまう自分にも驚いた。

「どうして、私が死ぬって思うの?」

気づいたら私はそう聞いていた。

この人の言う事なんて無視して、そのまま歩いてしまえば良かった。だけど私はそれをしなかった。

なぜだかわからない。ただの好奇心か、はたまた別のものか。

もしかしたらこの人の放つ雰囲気が、どこか私と似ていたからかもしれない。

「俺と同じ顔をしてるからです。」

その人はキッパリと言った。そんなに似ているだろうか。自分の姿を見るのが嫌で最近鏡を見ていないからわからない。

「あなたも、生きているのが辛いって思ってるの...?」

私と同じ顔というのはつまりそういう事だ。見る限り、この人は生きているのが辛そうには見えない。

「思いますよ。生きるのって、ほんと面倒臭いし。人間関係なんて吐き気がする程。」

その人はここではなんだからと住宅街にぽつんとある公園に私を連れて行った。

ベンチに一つ空けて座るとその人は話し始めた。

「俺、父親がいないんです。」

急な重い話。そう来るとは思っていなかったからなんて返答しようか。

「へぇ。そうなの。」

随分と冷たい態度になってしまった。これでも頑張った方だ。

「だから母親は俺と妹を育てないといけなくて。あ、妹がいるんですけど、その妹とも父親が違うんです。」

なんか複雑な家庭だ。

「だから家の事は俺がやらなくちゃいけなくて。少しでもやっていない事があると怒鳴られて、もう帰って来るなって言われるんです。」

とんでもない母親だ。些(いささ)かうちの母親でもそれは言わない。

「母親も俺と妹を育てないといけないから大変なのはわかります。だけど自分の子供にそんな事言っていいのかとは思いますよね。」

この人は私より何倍も、へたしたら何百倍も辛い思いをして生きている。

私なんて、小説を音読されたぐらいで学校に行けなくなったのに。

それがわかると自分が情けなくなった。

「あなたは凄いね...私なんて...」

そう口にすると目からは涙が溢れてきた。この人と比べると、私はなんにも辛くないでは無いか。なのに辛くて死のうとまでして。この人に失礼だ。

「あ...泣かないで下さい。俺は凄くもなんでもないですし。」

私が急に泣いたから、その人は焦ってしまった。それでも涙を止める事は出来ない。

「凄いよ。私なんて書いてた小説をクラス中に音読されたぐらいで学校に行けなくなったんだから。」

初対面の人にこんな事言っても、反応に困るだけなのに。だけどこの時の私はそれ所ではなかった。

「書いてた小説を音読されたぐらいじゃないですよ。それはすっごく重大な事です。学校にも行けなくなります。」

その人は私の事を否定せず、むしろ肯定してくれた。

そして泣き止むまでずっと背中をさすってくれてた。その手が暖かくて泣き止むのに時間がかかった。

「ごめん...」

「大丈夫です。泣く事は悪い事じゃないので。」

この人、ほんとに私より年下なのかしら。受け答えが私よりしっかりしている。まあ私の精神年齢が低いだけかもだけれど。

「ありがとう。」

「俺こそありがとうございます。話聞いてもらって少し楽になりました。」

私は何もしていない。話を聞いて、勝手に辛くなって泣いただけだ。感謝されて逆に申し訳なくなる。

「私なにもしてない。」

「話聞いてくれたじゃないですか。俺、クラスの友達に
はこういう話できる人いないから。」

「そういうものなんだね。」

友達なんて今までいた事ない。だからよくわからない。

「あの...良かったらまた話を聞いてくれませんか。」

「え?」

その人は私の両手を握ると、真っ直ぐな瞳で私を見た。なんて綺麗な瞳なんだろう。

「私でよければ...」

その瞳に吸い込まれるように。気づいたら私はそう返事していた。

「ありがとう!じゃあ連絡先聞いてもいい?」

その人は綺麗な笑顔でスマホを取り出した。その笑顔が眩しくて、つい目を細めた。

「いいよ。やり方わからないから、やってくれる?」

スマホを渡すと、快く受け取ってくれた。

連絡先を交換する場面にいた事が無いからやり方を知らない。私は学生らしい青春を全て小説に賭けてきたから。

「はい、出来たよ。」

返されたスマホにはその人の連絡先が入っていた。家族以外で初めての連絡先だ。

「ありがとう。名前、なんて読むの?」

連絡先には、神林柊と記載されている。

「神林(かみばやし)柊(しゅう)だよ。気軽に柊って呼んで。苗字なんてコロコロ変わるから。」

その人...柊は自虐気味に笑った。その顔が引きつっている様に見えて、心がギュッとした。

「わかった、柊。」

私が柊の名前を呼ぶ事が、少しでも救いになるかもしれない。そう思い勇気をだして呼ぶと、柊は嬉しそうに笑った。

「えーっと、清川さんは下の名前なんて言うの?」

「愛(まな)。」

「愛か。可愛い名前だな。」

「可愛いだなんてそんな...」

私は自分の名前を可愛いと思った事はなかった。むしろ大嫌いだ。

こんな可愛い文字なのに、実際つけられている私は可愛くないから。改名しようとまで考えた事ある。

「可愛いよ。愛自身も。」

「ごめん、最後の方聞き取れなかった。」

「いや、大丈夫。聞こえてなくて良かった。」

「?」

柊はベンチから勢いよく立ち上がると、私の正面に来た。

「じゃあ、これからよろしくな、愛!」

柊はそう言うと、手を差し出してきた。夕陽に照らされて、柊の顔は見えない。

私はなんの迷いもなくその手をとった。

この人と生きたい。そう思ったからだ。

死に場所を探していた私が、まさか生きたいと思うなんて。人生ってなにが起こるかわからないものだ。

こうして私は、柊と出会ったのだ。これから何度も私を救ってくれる、柊に。



柊と連絡先を交換した日から毎日欠かさず、柊から連絡が来た。

内容は本当に些細なもの。その日の天気の事だったり、体調の事だったり。たまに家庭の話をしてくるぐらいだ。

最初はなんて返答しようか迷っていた私だが、次第に慣れていって適当に返事できるようになった。

そしてもうすぐ中学卒業の時。私は卒業式に出ない道を選んだ。

あれから一回も学校に行ってないのに、卒業式だけ出るのはおかしいだろうと自分で決めた。

もう小説の事でからかわれる事はないだろうが、行きたくない。あの人達と関わりたくない。向こうもそれを望んでいるだろう。

それに中学なんて義務教育だから卒業式に出なくたって卒業出来る。

両親は私が卒業式に出ないと言っても、反対などしなかった。卒業式に行く手間が省けて内心、喜んでいるだろう。

その事を柊にも打ち上げた。

─別に卒業式に出なくたって、義務教育だから卒業出来るし。全然いいと思うよ。─

そう返事が返ってきた時は私と同じ考えの人がいるとわかって嬉しかった。

柊と私は考える事が少し似ていた。だから私が欲しい言葉をかけてくれる。それが心地良かった。

私は柊がいないと生きていけない人間になっていた。

もし柊から連絡が途絶えたら、私は死んでしまうかもしれない。元々、死に場所を探していた所を柊に救ってもらったのだから。



卒業式の日。午後から担任が卒業証書を渡しに家に来ていた。家と言っても、玄関先だが。

担任は私が学校に行けなくなった本当の理由を知らない。

言ったら対処はしてくれただろう。正義感の強い人だから。だけどその効果は一瞬だけだ。一週間もすれば忘れて、再びいじめてくる。

それがわかっていたから言わなかった。それに小説を書いていた事を誰かに言いたくなかったのもある。

この担任は凄く優しい女性だ。私が行かなくなってすぐの頃、毎日連絡をくれた。

それをしないと周りから色々言われるからだろう。

次第に連絡はなくなっていったが。

「清川さん。卒業おめでとう。」

「ありがとうございます。」

先生から卒業証書をもらう。本当は午後から不登校の人の卒業式があった。私はそれにすら出ない道を選んだ。

「清川さんならどんな未来でもきっといい事があるわ。応援してるからね。」

「ありがとうございます。」

私の未来にいい事なんて、ある訳ないじゃん。ただでさえ高校に行かなかったゴミ人間なのに。

先生が帰った後、すぐに自分の部屋に籠った。

クラスのみんなは今頃打ち上げとか行ってるんだろうな。

行かなかった事に後悔はない。だが、ふと私はこれで良いのかと思ってしまう時はある。

─私、これでいいのかな?─

そういう時は柊に連絡していた。

迷惑なのはわかっていた。だけど私が本音を話せるのは柊しかいない。

私が自分一人でも立ち直れる様になるまでは、このままでいさせて欲しい。

─大丈夫。愛ならどんな未来でもいい方向にいくよ。─

担任の先生と似たような言葉。だけど柊に言われると心にストンと落ちた。

─ありがとう。いつもごめんね。─

─全然いいよ。俺も話聞いてもらうし。おあいこだ。─

スマホの画面越しに柊を感じれて、思わず笑みがこぼれた。

連絡はしているもののあの日以来、柊と会う事はしていない。

この距離感が丁度いい。柊もそう思っているから会おうと言わないのだろう。

それに会ったら会話をしなければいけない。人と関わるのが苦手な私にはハードルが高い。

私達は、奇妙な関係なのだ。お互いが必要となったら連絡をする。

これを世ではどういう関係だと言うのだろう。



春休みも、私は部屋に籠っていた。小説を書く事は出来ないが、読む事は出来た。だからずっと本を読んで過ごした。

小説を読んでいると、書きたい気持ちが出てくる事があった。しかしあの事件がトラウマで書けない。

よくよく考えれば、ファーストキスもあんなくそキモ男子に奪われたのだ。トラウマにもなる。

そんな私を弟は心底軽蔑そうに見ていた。元々、弟と仲がとっても良かった訳では無い。だからこの反応は特に気にしない。こういう所のメンタルは強いのだ。

そんな風に毎日を過ごしていると、ある日柊から一緒に出かけないかと誘われた。

柊と出かけたら、楽しいだろう。だけど私は上手く会話が出来ない。それが一番気がかりだった。

─私、対面で会話するのがすっごく苦手だから折角誘ってくれたけどごめんなさい。─

だから迷った末、断る道を選んだ。それでも柊は諦めなかった。

─会話なんてなくていいよ。俺が愛と一緒に出かけたいだけだから。─

会話がないお出かけなんて、果たして楽しいのか。

─そんなの楽しくないんじゃない?他の人と出かけなよ。─

─俺は、愛と一緒に出かけたいの。ダメ?(上目遣い)─

─...いいよ。─

あの綺麗な顔で上目遣いされていると思うと、YESと返していた。

─やった!ありがとな、愛。早速、明日はどう?─

─空いてるよ、一日。私に予定なんてないから。─

─わかった。なら明日の朝十時に前行った公園で待ってて!─

─わかった。─

急遽決まったお出かけ。外に出る事自体久々で、着ていく服に迷った。

「うーん、これも違う。」

鏡の前で服をあてながらしっくりくる服を探したが、見つからない。

私が持っている服は黒とか灰色の、暗い色ばかりだ。

小説を書くのに夢中だった私は服に興味がなく、母親が買ってくる服をなんとも思わず着ていた。

それが今、私を悩ませる原因になるなんて。もっと服に興味をもっておけば良かった。

「はぁ...買いに行くか。」

鏡の前で悩む事三十分。どれも明日着て行くには地味な服ばかりで、買いに行く事にした。

本も全て読み終わっていたし、買い足しに行くついでに服を見よう。

服をついでにしないと私は緊張してしまって服屋に行けない。

カバンに財布とスマホ、その他の必要品を入れて部屋を出た。

「どっか行くの?」

階段を下りきると弟にばったり会った。久々に見る弟は少し背が伸びていた。

「うん。本買いに。」

「ふーん。気をつけて。行ってらっしゃい。」

弟はそう言うと私の横をすり抜けて二階に上がって行った。

弟が私に声を掛けるのは珍しい。いつもだったら少しこちらを見て無視だから。今日は少し機嫌が良かったのだろう。

鍵を開けて家を出ると、太陽が眩しかった。陽の光を直接浴びるのは何ヶ月ぶりだろうか。

まず歩いて直ぐにある書店に寄った。

欲しい本を値段を見ず手に取り、レジに持って行く。全て計算して来たから出来る技だ。

「ありがとうございました〜」

少し声が高い女性の声を後ろに、服屋に向かった。

服屋に入ってまず驚いたのが値段だ。可愛いなと思う物は全て四千円以上する。

この値段で何冊本を買えるのだろうと本好き末期の私は考えてしまい、購入に踏み込めなかった。

次に驚いたのが客層だ。私が見るに、小学生ばかりだ。

今どきの小学生、自分で服買いに来るんだ。それも友達同士で。

私は店員さんにどう見られているのだろう。身長は百五十あるが、今どきの小学生もそれぐらいあるだろう。もしかしたら私は小学生に見られているかもしれない。

そう思ったら早く帰りたくなって来た。もう何も買わずに帰ってしまおう。

出口に向かって歩いていると、目についた服があった。

白いブラウスに、明るい茶色のスカートをマネキンが着ている。

一見地味に見えるが、私にはそれがどうしても可愛く思えて。気づいたら。

「あの、すみません。この服取ってもらってもいいですか?」

店員さんに声をかけていた。

「はい、どうぞ。」

店員さんは快く取ってくれて、私に渡した。やはり可愛い。

「ありがとうございました〜」

お会計をし、早足で家に向かった。早く着てみたい。

家に入り手洗いを済ませてすぐ部屋に入った。弟にうるさいと言われたが今はそれ所では無い。

着ていた服をベットの上に放って、新しく買った服を着た。

似合うかどうかはわからないが、やはり可愛い。いつもと違う色だからだろうか。肌が明るく見える気がする。

値段も上下三千円と手頃な金額だ。セール品だったのかもしれない。服に惹かれて、そういう所まで見なかった。

明日これを着て柊に会ったらなんて言われるだろうか。似合ってるって言われるかな。言って欲しいな。

鏡に映る自分が少しだけ可愛く思えた。



次の日。出かけるのが楽しみで私は朝早くに目が覚めた。いつもならもう一度寝てしまう時間だが、今日は眠れなかったから起きた。

「あら、どこ行くの?」

他の家族を起こさないように静かに動いていたが、母親はどうやら起きていたらしい。

「ちょっと出かけてくる。」

「そう。気をつけてね。行ってらっしゃい。」

母親は笑顔で手を振ってくれた。私もぎこちないながらも手を振って家を出た。

待ち合わせ時間より一時間も早く家を出てしまった。楽しみで家にいれなかった。

時間まで散歩をする事にした。三月の後半だから所々に桜が咲いている。とても綺麗で、滅多に開かないカメラアプリを起動し、写真を撮った。

そんな事をしているとあっと言う間に時間が近づいてきた。公園より少し遠くに来てしまったから急いだ。

公園に着くと柊はもう来ていた。時間にはなっていないから早く来たのだろう。

「ごめん、お待たせ。」

ベンチに座ってスマホをいじっていた柊に声をかけると、柊は顔を上げて微笑んだ。

「待ってないよ。今日が楽しみで早く来すぎちゃっただけだし。」

「そっか。」

柊も今日が楽しみだったのか。私と同じ気持ちで嬉しかった。

「愛、その服似合ってるよ。大人っぽく見える。」

柊はすぐに私の服装を褒めてくれた。それも嬉しくて、口角が上がる。

「ありがとう。昨日買いに行ったんだ。」

「そう...だったんだ。」

歯切れが悪くなにか変な事言ったか不安になり柊を見ると、顔が真っ赤だった。

「顔赤いよ。大丈夫?」

「大丈夫。あの、俺の自惚れだったら悪いんだけど」

「うん。」

「その服は俺と出かけるから買いに行ったの?」

「うん。私、持ってる服が全部黒とか灰色だったから。」

「なるほどね。」

柊は更に顔が赤くなった。そこでやっと、私は柊が赤くなっている理由がわかった。

「あ...ほら!折角誘ってくれたのに地味な服で行くのはどうかなーって思って!」

「うん...」

「これもはたから見たら地味かもしれないけど!持ってるのよりかはマシかなーって。」

誤解をとこうとしてもどんどん嘘っぽくなっていく。それに比例して顔も赤くなっていく。恥ずかしくてその場にしゃがんだ。

「ごめん!変な事聞いたよな。忘れて!」

「忘れられない...」

「あぁー、ほら!行くぞ!」

柊に半ば無理矢理手を引かれて、歩き始めた。そういえば行き先を聞いていない。

「どこ行くの?」

「愛って電車酔いとか大丈夫な人?」

「多分大丈夫だと思う。」

「なら遠くのショッピングモール行こ。お金持ってる?」

「家に籠りがちな人間はお金が減らないのよ。」

「まぁ確かに。俺も減らないし。」

二人で笑って駅まで向かった。その間、手は離さなかった。

ホームに行くと春休みだからか人が多くて、思わず柊の後ろに隠れた。

「人混み苦手?」

「うん。だから隠れさせて。」

「いいよ。ただしはぐれるなよ。」

「わかってるよ。」

柊は本当に面倒見がいい。家で妹の世話をしているからだろうか。私も弟がいるのに大違いだ。

電車に乗ると車内も混んでいた。座れる場所なんてない。

柊は私をドア側に立たせると、ドアに手をついて私を人混みから守ってくれた。

「柊、辛くない?私大丈夫だよ。」

「平気平気。多分あと少ししたらこの人混みも無くなるから。」

柊が言った通り、次の停車駅で人が沢山降りて車内はガラガラになった。

「な?無くなっただろ?」

「凄いね。どうしてわかったの?」

「俺、中学学区外だから電車で通ってるんだよ。」

「そうなの!?」

話を聞いていくと、元々は学区内だったのだが、親の都合で引っ越してしまい、学校は変わりたくなかったから電車で通っているらしい。

しかもこれから向かっているショッピングモールがあるのが柊の住んでいる街みたいだ。

「だったら待ち合わせ場所、ショッピングモールの方が良くなかった?」

「俺定期だし。そっちに行ってもお金かかんない。」

「でも来る労力があったじゃん。」

「そんなの大丈夫だよ。俺から誘った訳だし。」

「今度もし出かけるってなったら私が行くからね。」

「ほんとに大丈夫なのに〜」

柊と話しながら、柊とだったら普通に話せる事に気がついた。

連絡を毎日取っているから、その延長線みたいな感じなのだろうか。自分の事なのにわからなくて笑えた。

「あ、ここだよ。」

柊に言われて降りると、やはりショッピングモールがある街だからか人が多かった。

柊は毎日、こんな人混みの中学校に来て、帰っているんだ。私ならすぐ挫折して行かなくなるだろう。

そもそも、どうして学区外登校を選んだのだろう。定期代だってかかるし、労力も半端では無い。

「柊はどうして学区外登校を選んだの?」

どうしても気になって柊に聞いた。

「それはまだ内緒〜」

けれど柊は教えてくれなかった。まあ言いたくない事ぐらいあるだろうとそれ以上は聞かなかった。

歩いているとショッピングモールが見えて来た。ショッピングモールなんて、最後に行ったのいつだろう。

「愛行きたい所ある?」

モールに入ると柊が聞いてきた。昨日書店も行ってしまったし、特段と行きたい所はない。

「私自身行きたい所ないから柊の行きたい所行こ。」

「わかった。俺、服とか文房具欲しいんだよね。」

「いいよ。行こ。」

まず最初に服を見に行った。昨日私が行った服屋とは違い、男性が多い。男性向けの服屋だからだろうが、女性が一人もいなくて私は浮いていた。

柊はそんなの気にせず、いつも見ているであろう場所で服を選んでいた。

「俺さー、いつも服買う時一人で来てたから誰かのアドバイス欲しかったんだよね。」

「友達と来たりしなかったの?」

「友達、みんなセンスないんだよ。」

そう言う柊の顔は友達を思い出してるのか苦笑いをしていた。相当酷いのだろう。

「私もセンスがいいって訳じゃないよ。この服だってセンスがいいとは言えないし。」

「その服は愛に似合ってるよ。自分に似合ってる服を着てる人はセンスいいと俺は思ってる。」

「あ...ありがとう。」

似合ってると二回も言われて、もしかしたら私、服を選ぶセンスがあるのかもと自惚れてしまった。柊は優しいからそう言ってくれてるだけなのに。

「これどう思う?」

柊の後ろを歩きながら他の服を見ていると、柊が聞いてきた。

手に持っているのは無地のTシャツにベージュのジーパンとはっきり言うと地味なやつだ。

「地味。」

「だよなぁ。」

思った事そのまま言うと、柊は笑いながら服を戻した。

はっきり言い過ぎたかなと思ったが、センスがいいと言ってもらえたのだ。期待に応えたい。

それから柊はかかっている服を片っ端から私に見せた。

「じゃあ、これは?」

「似合わない。」

「これ。」

「私好きじゃない。」

「ならこれは?」

「逆に聞くけど自分で似合うと思ってる?」

柊はほんとにセンスが無いみたいだ。私も人の事言える立場では無いが、私より酷い。

「思ってないです。」

「もっと自分に似合うと思う物持ってきて。」

「はい!」

柊は元気よく返事をすると、その場から離れて違う所に探しに行った。

一人残された私は私なりに柊に似合う服を探す事にした。探してもいないのに意見を言うのは違うと思ったからだ。

店内を歩いていると、肌色表があった。その下には似合う服の色が書かれている。

柊は色白だからブルーや黒が似合うのか。

我ながらいい物を見つけた。柊に教えようと再び店内を歩くと、目についた服があった。昨日の自分の服を選んだみたいに。

薄いブルーのワイシャツに、黒のズボンだ。絶対柊に似合う。

棚の高い所から何とか取り、柊を探すと必死に服を探していた。その手には何も持っていない。

「柊、これどう?」

私から提案するのはすごく緊張した。趣味ではないと言われたらそれまでだ。そこで先程の私にダメ出しをくらった柊の気持ちがわかった気がした。

「めっちゃいい色だけど、俺に似合うかな。」

柊は否定はしなかったが、似合うか怪しんでいるようだ。

「私は似合うと思う。試しに試着してみたら?」

「そうだな。」

柊は私から服を受け取ると試着室に入って行った。私も試着室の前に行き、柊が出てくるのを待った。

柊を待っている間、嫌な事ばかり考えてしまった。

もし似合ってなかったらどうしよう。着てみて、やっぱりこの色好きでは無いと言われたらどうしよう。

悪い想像や嫌な事を考えるのは得意な方だ。だからどんどん悪い方に考えてしまい、心臓がうるさい。

「愛、この服めっちゃいい!」

だから試着室のドアを開けて開口一番にそう言われた時は安心で身体に入っていた力が抜けた。選んだ服を着た柊は、やはり似合っている。

「良かった。私から言っといて似合わなかったらどうしようって考えちゃってた。」

「愛は人の事観察する力があるから。もっと自信持っていいんじゃない?」

「そう...かな。」

人の事を観察する力がついたのは紛れもない小説のおかげだ。小説を書くのには色んな人や物を観察して、書く時の参考にするから。

「そうだよ!てなわけでこれ買うわ。脱いでくる。」

柊はすぐに試着室に戻った。気に入ってもらえたみたいで何よりだ。

それからもう二着似た感じの服を選び、店内を後にした。柊は満足気だ。

「やっぱり愛と来て良かった。いい服が選べた。ありがとな。」

「私はお店に貼ってあった表を参考にしただけだよ。」

「そんなのあったの?俺知らなかった。」

「教えようと思った時に服を見つけて、教えるの忘れちゃった。」

「そうだったんだ。まあでもいい服見つかったから結果良しだよ。」

「そうだね。」

この服を着た柊は誰と出かけるのだろう。私以外の女性を想像したら少し胸が痛かった。この気持ちは、なんなのだろう。

服屋の後はモール内の文具屋に入った。文具屋は学生で賑わっていた。

「結構人多いな。あと一週間すれば新学期だもんな。」

そうか、あと一週間もしたら世間は新学期か。自分が進学しないから忘れていた。

「そっか、世間はもうすぐ新学期だね。私自分が進学しないから忘れてた。」

笑いながら言うと、柊は申し訳なさそうな顔をした。

「ごめん」

「なんで謝るのよ。私は自分で進学をしない道を選んだんだから大丈夫だよ。」

「そうだけどさ、その理由が...」

私は柊に進学しない本当の理由を話していた。だから柊はあまり学校の事も話さないようにしてくれてた。本当に私は気にしてないのに。

「本当に気にしないでよ。ほら、文房具買ってきな!私は適当に店内見てるから。」

「...わかった。」

柊は納得いかなそうな表情で文房具を買いに私と離れた。

私は店内をくまなく歩いた。文具屋に来たのは初めてだ。原稿用紙などは百円均一で揃えていたから。こんな物まで売ってるの?と驚いてしまうぐらいに文具屋は凄かった。

「お待たせ。」

店内を丁度全て見終わった頃に柊が戻ってきた。

「はやっ」

「よく来るから。どこに何があるかわかるからさ。」

「そうなんだ。私、文具屋に入ったの初めてで楽しい。」

「楽しかったなら良かった。どうする?このまま帰る?」

用件がある店は全て観終わった。だがこのまま帰るのはなんだか寂しい。

「あ、そうだ!コンビニかなんかでお弁当買って、あの公園で食べようよ。」

柊は私の表情で察したのかそう提案した。

「でも柊の家この街なんでしょ?帰るの大変じゃない。」

「大丈夫だよー。俺定期持ってるし。」

「そうだけど...」

柊は頑なにこの街に居たがらない。地元は私が住んでいる街だからだろうか。

「そうと決まればお弁当買いに行こー」

柊に他の提案も出来なかった私は大人しく柊の後ろをついて行った。

駅の近くのコンビニでお弁当を買い、再び電車で地元まで戻った。車内は空いていた。

地元に着くとそのまま公園には向かわず、桜を見に行く事にした。今年一回も見ていないから見たいと柊の要望でそうなった。私は朝見たが、桜は何度見ても構わない。

「でも柊、学校とかで見れるじゃない。」

桜を見に行く道がら。私は柊にそう言った。柊は首を横に振った。

「そしたらもう散ってるじゃん。俺は綺麗に咲いてる桜が見たいんだよ。」

「なるほどね。」

柊の言い分はとてもよくわかる。桜は少しの風ですぐ散ってしまう。だから新学期の時にはあまり咲いていない事も多々ある。

ちなみに私は小学校の入学式も、中学校の入学式も桜がほぼ散っている状態だった。弟は全部綺麗に咲いてたのに。

「俺の妹さ、名前が菜乃花(なのか)って言うんだ。」

春らしい名前だ。春生まれなのか。

「そうなの?可愛い名前だね。春生まれなのかな?」

「そうそう。だから菜乃花って付けたんだって。菜の花から取って。」

「いい名前じゃない。」

「名前はいいんだけど、春に菜乃花が生まれたから桜を見に行けなくなっちゃって。それまでは毎年見に行ってたんだけど。」

「あー...」

だから見に行きたかったのかもしれない。柊は色々我慢して生きている。母親はそれに気づいているのだろうか。いくら妹に手がかかったとしても、お兄ちゃんの気持ちも大事にして欲しい。

「柊、私で良ければいつでも行きたい所に付き合うからね。」

それが私に言える精一杯の言葉だった。誰も行ってくれないなら私が行こう。私、年中暇だし。

「ありがとな。やっぱり愛は優しい。」

優しく笑いかけられて、優しいのは柊の方だよと思った。

しばらく歩くと桜並木道に出た。朝私が見た所とは別で、桜がアーチみたいになっている。自然に咲いているのに凄いと思う。

「やっぱり綺麗だな。」

「そうだね。一年の中で一番春が好きかも。」

「俺は冬かなぁ。」

「なんで冬が好きなの?寒いじゃん。」

「冬は寒いけど楽しみな事沢山あるから。しかも誕生日もあるし。」

「誕生日冬なんだ。あ、だから名前が柊なの?」

「そうそう。十二月に生まれたから柊。」

ひいらぎと書いて柊。親は中々名付けのセンスがある。植物が好きな親なのだろうか。

「名前は誰がつけたの?」

「母親だよ。菜乃花のも。」

「だから植物関係なんだね。繋がりがあっていいじゃない。」

「そう言う愛は弟さんと名前の繋がりないの?」

「ないよ。弟聖也(せいや)だし。」

私と弟は全くと言っていい程名前に繋がりがない。母親が私の名前を、父親が弟の名前をそれぞれ付けた。お互い子供が出来たら付けたかった名前らしい。

「聖也って言うんだ。もしかしてその子も冬生まれ?」

「うん。柊と一緒で十二月。だから親がクリスマスと重なって大変だって愚痴ってた。」

「はは、そうなるよな。俺も言われるもん。だから俺はもうプレゼントまとめてだよ。」

「そうなの!?なんか損した気分だね。」

「俺の誕生日はクリスマスより前だからクリスマスのプレゼントを先に貰うって感じかな。」

「それなのに冬が好きなんだ...」

うちの親はどんなに愚痴っても誕生日とクリスマスのプレゼントは別々に渡している。子供が十二月に生まれたのは親の都合だからって。

とても優しい親なのだ。少し言葉にとげがあるだけで。

「好きだよ。なんかあの、街が浮かれてるのが。」

「表現悪いけどわかるよ。私もそれは好き。でも寒さには勝てない。」

「女性はスカート履く人多いもんな。そりゃあ寒いよ。」

「うんうん。」

私は外に出るのが好きでは無い。だからどうしてもの用事以外は外に出ない。家で温まっていたい。

桜並木道を抜け、公園に向かう。春らしい風と花々の匂いが鼻腔をくすぐる。だから春って好きだ。なにかやろうと言う気になれるから。

まあもう私はなにかする気が起きないけれど。

公園に着くとやはり誰もいなかった。いつかとり壊されるのでは無いかと思ってしまう程寂しい公園だ。

私達はベンチに隣同士で座った。

「あー、お腹空いた。俺、朝寝坊して食べれてないんだよね。」

「私も食べてない。でもあんまりお腹空いてない。」

「え、大丈夫?」

「大丈夫。食にあんまり興味ないんだよね。小説書いてた時は朝起きて夕方まで何も飲まず食わずで生きてたから。」

「やばすぎる。よく倒れなかったね。」

「慣れると意外といけるものよ。だからはい。お弁当のお米半分あげる。あとハンバーグも半分あげる。」

柊が開けたお弁当にすぐお米とハンバーグをのせ、断る隙も与えず私はお弁当を食べ始めた。柊は苦笑いしていた。

「ちゃんと食べなよ?」

「食べてるよ。だって市販のお弁当って少なめがないんだもん。」

「このお弁当も充分少ないよ。」

「えー、そう?」

食べかけのお弁当を見る。どれも半分減っているが、普通の量を想像するだけでお腹いっぱいになってしまう。

「俺、愛がその内倒れるんじゃないかって心配だよ。」

「大丈夫。人間そんなやわじゃない。何も食べてない訳じゃないし。」

「それもそうか。だけど気をつけろよ。」

「多分気をつける!」

「うん、よろしい。」

最後の方は柊が折れた。これ以上言っても私は言う事を聞かないから。まあ柊も本気で呆れた訳ではないから大丈夫だ。

「美味しかった。ご馳走様でした。」

「ご馳走様でした。愛、お弁当半分ありがとな。」

「私こそ食べてくれてありがとう。助かった。」

ゴミはコンビニで貰った袋にまとめて私が持って帰る事にした。柊にはこっちまで来てもらったからゴミぐらい、私が持って帰るという事で話がまとまった。

「そうだ。俺、愛に渡したい物があるんだ。」

物を食べて外も気温が心地よくて。眠くなっていると柊が今思い出したとベンチから立ち上がった。

「んー?なーに?」

「手出して」

言われた通り手を出すと、小さくて可愛い紙袋を渡された。

「え!袋からして可愛い。」

「中見てみてよ。」

柊に促されて開けると、中には違う柄の小花が付いたヘアピンが三つ入っていた。

「可愛い...でもなんで?」

「愛、今月の頭誕生日だっただろ。だから。」

「あ、そうだった。」

自分の誕生日なんてすっかり忘れていた。思い返してみれば家族におめでとうと言われていない。

「忘れてたの?」

「うん。家族にもおめでとうって言われてない。」

「そっか。じゃあこれからは俺が毎年祝うよ。」

「へへ。ありがとう。」

柊の気持ちが嬉しくて。気づいたら私の瞳からは涙が出ていた。

「泣かないで。愛が泣くと俺、凄く悲しい。」

「柊が優しいのがいけないんだよ。」

「俺のせいだったかー」

二人で顔を見合わせながら笑った。私はこの公園に来ると泣いている気がする。

それからは他愛もない話を小一時間程して柊と別れた。今日は本当に楽しかった。

これからなにか辛い事があったら、このヘアピンを見て柊と出かけた日の事を思い出そう。



そして新学期。私はいつもと変わらず家に籠って本を読んでいた。

だがそれが出来たのも四月まで。五月からはバイトを始めたからだ。

バイトを始めたきっかけは弟の一言だ。

「姉さん、そんな人生で恥ずかしくないの?俺、自分の姉さんがそんなんで恥ずかしい。バイトとかしたら?」

弟にそう言われるのも無理はない。私だってこんな引きこもりの陰キャが家に居たらそう思ってしまうかもしれないから。

だけど少し反抗もしたい。弟は人と関わるのが好きだからいいかもしれないが、私みたいな人と関わる事も会話する事も苦手な人間は外に出るのが怖いのだ。簡単に言って欲しくない。

でもまあ自分でもこれからの人生どうやって生きようか迷っていたからいいきっかけになったと思えばいい。

バイトを探し、面接に行くと一発合格だった。未だになんで合格だったかわからない。だって受け答えは遅かったし、笑顔でもなかったと思う。

私が面接しに行ったのはファミレスだ。人と関わるのも会話するのも苦手な私がファミレスによく行ったと思う。時給が高かったからそれにつられた。

働いてみると働くって大変だと身をもって知った。

お客さんは少し料理の提供が遅れただけで怒るし、席が満席でも怒る。

まだ料理の提供が遅れて怒るのはわかる。お昼の休憩時間に来ていて、時間が無いかもしれないから。だけど満席で怒るのは違うと思う。そんなに早く食べたいなら違う店に行け。

お客さんのいざこざなら百歩譲って仕方ない。所詮お客様だから。

私が一番大変だと思ったのはお店の人間関係だ。学生の時もそうだったが、一緒にいる時はその人と仲良くしてて、その人が居なくなったら悪口を言う。

悪口を言うなら、最初から仲良くしなければいいのに。なんで仲良くするのだろう。やはり進学をしなくて良かった。

進学の事でもお店の人に色々聞かれた。

どうして行かなかったの。

これからどうやって生きていくの。

正直にうるせえと思った。あなた達に言われなくても私が一番よくわかってる。人の世話を焼く前にまずその腐った性格から直してこいと思う。所詮、高校を卒業してもファミレスのバイトではないか。

シフトは昼間のシフトだ。夜は学生と被りそうで出たくない。

バイトが終わり家に帰ると疲れていてそのまま寝てしまう事が多々ある。気づくと深夜に起きる事もあるし、そのまま朝まで寝る事もある。人間ってこんなに寝るんだと驚いた。

だから柊とも連絡を取り合えないでいた。柊は相変わらず毎日連絡をくれるのだが、私が返せない。連絡が来ているのがわかって返事をしようとするのだがスマホの明るさで目がしょぼしょぼしてしまい、そのまま寝てしまう。

─愛、疲れてるんだね。返事はしなくていいから。何か辛い事あったらいつでも連絡して来てね。─

朝起きると柊からそう来てる事があった。

これを見るとほんとに申し訳なく思う。柊だって学区外登校で学校に行って、帰ってからは妹のお世話で。疲れてるのは柊の方だろうに。

なにか返さないといけない。わかっているのになんて返したらいいのかわからない。だから放置してしまった。

そんな生活をしていると柊から連絡が途絶えた。当然と言ったら当然だ。柊だって忙しいのだから。いつまでも返信が来ない人間に構ってられない。

柊から連絡が来なくなった事で私はやっと柊が大切な存在になっていた事に気がついた。今更気づいても、遅いのだけれど。

今まではバイトや家で辛い事があっても、心のどこかで柊から連絡が来る。それまでの辛抱だと心の支えにしていた。

だけどそれが無くなった今。なにを心の支えにして過ごせば良いのだろう。



心の支えをなくした私は辛い事を吐き出す事が出来なくなり、それは仕事にも影響した。

オーダーミスは増えるわ、お皿は割るわ。お店の人達は大丈夫とフォローしてくれたが、心ではお荷物と思っているだろう。

あぁ、死にたい。

そんな思いが復活した。全部自分が悪いのに。私が柊にきちんと返信をしていればこんな事にはならなくて済んだかもしれないのに。

私ってつぐつぐ打たれ弱い人間だ。長年夢見てきた小説家になる夢も諦めてしまって。柊から連絡が来なくなっただけで私生活に影響して。

私って、こんなに弱かったんだ。元々強い人間とも思っていなかったけれど、ここまでなんて。

自己嫌悪に陥りながらふと、柊から送られてきた言葉を思い出した。

─何か辛い事があったらいつでも連絡してね。─

今私は柊から連絡が途絶えて凄く辛いし、返信をしなかったことを謝りたい。それを柊に言ってもいい...?

悩む時間もなく私は柊に電話を掛けていた。この時間はいつも連絡を取り合っていた時間だ。

「もしもし?愛?どうしたの?」

久々に聞いた柊の声。その声だけで私は泣いてしまった。

「愛?もしかして泣いてる?」

「柊から...連絡が途絶えたから...謝らないとって思って。中々返信出来なくて...ごめんなさい。」

嗚咽が出て話しにくいし、柊も聞づらいだろう。

「そんな事で電話してきたの?俺全然気にしてないよ。」

だけどそんな私の言葉を聞き逃さず聞いてくれた。

「私からしたらそんな事じゃない。連絡が途絶えて、嫌われたんじゃないかって本気で思ったんだから。」

「俺が愛の事嫌う訳ないじゃん。でもそっか、そうだったんだ。ごめんな。愛、バイト始めて忙しそうだったから俺からの連絡が迷惑かと思ってしなくなったんだ。」

そうだったのか。嫌われた訳じゃなくて良かった。

理由がわかると全身から力が抜けてベットに倒れ込んだ。本当に良かった。

「良かったぁ。私柊に嫌われたら生きていけない人間になっちゃった。だから嫌われても生きていける様な人間に責任もって育てて。」

「難しい要求だなぁ。」

電話越しでも柊の苦笑いがわかる。私でも無茶な事言っている自覚はある。だけどあの日私を救ったのは紛れもない柊だ。責任もって育てる義務がある。

「...わかった。なら今度の土、日どっちか空いてる?」

少しの沈黙の後。柊が聞いてきた。

「土曜日なら空いてるよ。」

「なら出かけよう。愛が俺に嫌われても生きていける様に育ててやるよ。」

「よろしくお願いします。」

待ち合わせ場所と時間を決め、電話を切った。

切った電話を見ながら、柊に嫌われてないで良かった。と安心したのも束の間。

柊は土曜日何をするつもりだろう。柊に嫌われても生きていける様にするって言っていた。もしかしてこのお出かけを最後に私と関わるのをやめるとか?それだったら嫌でも生きていける様になるはず。

自分で嫌われても生きていける様に育ててと言ったが、いざそうなると辛くて仕方ない。まだ想像なのだが悲しくて涙が出てきた。



そんな風に嫌な想像をしながら過ごしているとすぐに土曜日は来た。

土曜日が来るのが楽しみでもあって、怖くもあった。柊に何を言われるのかわからない。このままばっくれてしまおうかとまで考えた。

だがもし今日が柊と会う最後の日なら。きちんと会ってお別れをしよう。

季節は前に出かけた時から変わって夏だ。私は唯一持っていた白のワンピースに着替えた。

これは母親から譲り受けた物だ。母親が二十歳ぐらいの時に着ていたものだから二十年ぐらい前のものになる。
だけど色褪せてもなければ生地も新品そのものだ。保管が良かったのだろう。

「あら愛、その服。ちょっとお父さん、来て!」

家を出ようと階段を下ると母親に会った。母親は父親を呼ぶと私の格好を見せた。

「なんだ?」

「お父さん!この服、見覚えない?」

父親は少し悩んでから、

「あぁ!母さんが若い時に着てたワンピースか!」

わかったようだ。父親と母親にまじまじと見られて緊張する。

「そうなのよ。懐かしいわねぇ」

「そうだな。母さん、初デートの時これ着て来て、俺この人と結婚したいって思ったんだから。」

「あらそうだったの?その思い出の服を娘が着てくれるとはね。嬉しいわぁ。」

母親と父親は目を細めて私の格好を懐かしんでいる。

この二人はよく喧嘩はするが、基本的に仲は良い。仲が良いのは大変良い事だが、喧嘩すると手がつけられなくなるからやめて欲しい。

「愛、まだ出るまで時間ある?」

「あるけど。」

「なら緩く髪巻いてあげる。この格好してるって事は彼氏とでも会うんでしょ。」

「か、彼氏だと!?」

母親はにやにやしながら、父親はショックを受けながら私を見ていた。確かに男の子と会うのは事実だが、彼氏ではない。それに今日で会うのが最後かもしれないのだから。

「彼氏じゃないよ。この服しか外に出ても恥ずかしくない服だったの。」

「はいはい。」

本当の事を言っても母親は信じてなさそうだ。もう面倒臭いから誤解されたままでいいや。もっと否定すると怪しまれる。

母親にリビングに連れて行かれ、ヘアアイロンで髪を巻いてもらった。丁度母親も髪をいじろうとしていたらしい。

「はい、出来た。」

「わぁ...可愛い...」

鏡に映る自分はいつもの自分と違って、少し大人っぽく見えた。

「やっぱりこの服には髪を巻かなきゃね。ね?お父さん。」

父親も母親にリビングに連れて来られてた。父親は私をちらりと見ると笑った。

「あぁ、そうだな。昔の母さんを見てるみたいだ。」

「やだ、お父さんったら。」

「また母さんにこういう服着てもらいたいから買いに行くか。」

「もう、仕方ないわね。」

完全に二人の世界に入ってしまった。だからそっとリビングを出て家を出た。

外に出ただけで暑くて汗がたれてくる。この暑い中部活をやっている弟はほんとに凄いと思う。私には絶対に出来ない。

待ち合わせ場所はいつもの公園だ。出かけ先は教えてくれなかったが、こっち方面に行くみたいだ。

約束の時間十分前に公園に着いたが、柊はまだ来ていなかった。時間前だからそんなに気にしない。

「ごめん!遅れた。」

だが柊が来たのはそれから二十分後だった。もう来てくれないのではないかと思い始めていたから来てくれて本当に良かった。

「もう来てくれないかと思った。」

「それはないよ。ちょっと妹が離してくれなくて。」

「そうだったの?ちなみになんで離してくれなかったの?」

「俺と一日一緒にいたかったみたい。後は母親にパスしてきた。」

柊の妹は三歳だ。まだお兄ちゃんやお母さんと一緒にいたい歳だ。それなのにお兄ちゃんを私が取ってしまい、申し訳なくなった。

「そっか、ごめんね。なら早く帰った方がいいよね。」

「いや全然大丈夫だよ。母親なんていつも家にいないんだから、こういう時ぐらいいたらいいんだよ。」

柊は吐き捨てるように言った。その表情が辛そうでもあり、悲しくも見えた。

「え、愛?」

なにかしてあげたい。そう思い気づいたら柊の事を抱きしめていた。柊の方が私より背が高いから、抱きついている感じだが。

「柊は偉いね。妹ちゃんの面倒をちゃんと見て。妹ちゃんもそれがわかってるんじゃないかな。だから柊と離れたくないんだよ。」

「そう...なのかな。」

「そうだよ。柊だって優しくしてくれる人と一緒にいたいでしょ?それと一緒だよ。」

「そうだったのか、菜乃花...。」

「今日妹ちゃんにお土産買って行こうね。私払うからさ。」

「うん。ありがとう。」

柊から離れるともう辛そうでも悲しそうでもなかった。むしろいつもの綺麗な笑顔で、私も笑顔になれた。

「それで、今日どこ行くの?私が柊に嫌われても生きていける様にしてくれるんでしょ?」

「それは最後な。今日行く所は水族館。」

「水族館?ここからかなり遠いよ。」

水族館は県外にある。電車賃もかなりかかるし、この季節混んでいるだろう。

「うん。だけど行きたくて。愛、行けそう?」

正直言うと人混みだし水族館も混んでいるだろうから行きたくない。だけどこれが柊と一緒にいれる最後の日かもしれない。少しぐらい我慢しよう。

「行く。水族館、小さい頃に行ってから行ってないし。」

「俺も。だから愛と行きたかったんだ。ん、行こ。」

手を差し出されて、首を傾げた。柊は顔を赤くしながら言った。

「手、繋ご。人混みではぐれたら大変だから。」

柊につられて私の顔も赤くなっていのがわかる。男の人と手を繋ぐなんて初めてだ。

「うん。わかった。」

手を握ると柊は私の指と柊の指を絡め、世間で言う恋人繋ぎをした。こんな事をされてしまうと、気持ちが溢れてしまうでは無いか。今日で、最後なのかもしれないのに。

お互い顔を見れずに歩き、電車に乗り目的地の最寄り駅に着いた。

「今日暑いな。」

柊がやっと口を開いた。確かに暑いが、気温だけではない気がする。

「そうだね。なにか飲む?」

「そうだな。そこに自販機あるから買お。」

そこでやっと手を離した。ずっと手にあった温かさがなくなり、少し寂しかった。

「どれにしよっかな〜」

「私水でいいや。」

さっさとお金を入れ、水を買う。お釣りが出て来たのを柊に渡した。

「これで買いな。」

「え、悪いよ。」

「私バイトしてるからお金めっちゃ持ってるし。それに誘ってくれたから。これぐらい出させて。」

「ならお言葉に甘えようかな。ありがとう。」

柊はお金を受け取ると、緑茶を買った。そして再び手を繋ぎ歩き始めた。

暑い。この季節に外に出る事をしなかった私には苦痛で仕方ない。それになんだか身体がふらつく。帽子を被って来ればよかった。

「愛?どうした?」

それに気がついた柊がすぐ近くにあったコンビニに寄ってくれた。たまたまイートインコーナーがあったからそこのイスに座った。

「大丈夫か?」

先程買った水を飲み、お店が涼しいからだいぶ良くなった。

「うん。夏に長時間外に出る事なかったから少し体調悪くなっちゃって。でももう大丈夫だから。」

「そっか、ごめんな。そこまでの配慮足りなくて。」

「ううん、大丈夫だよ。私が弱いのがいけないから。」

「そんな事ないよ。人それぞれ事情があるから。それを組み取らないといけなかった。ごめんな。」

最悪だ。柊は私があんな事言ったから妹を置いてまで来てくれたのに。嫌な思いをさせてしまった。

「ううん、本当にもう大丈夫だし!ほら、行こ!」

まだ少しふらつくが、歩けない程では無い。もう水族館の看板も見えていて、そう遠くない。

「愛が大丈夫って言うなら行くけど、またやばくなったら言えよ。」

「うん。」

折角ここまで来たのだ。どうせなら行きたい。

それから歩く事五分。水族館が見えて来た。遠目からでも人が多い事がわかる。

「やっぱり人多いな。」

「そうだね。夏休みだしみんな来たいよね。」

入場口は人で溢れかえっている。その列の一番後ろに並ぶと、私達の後ろにも続々と列ができていった。

十分ぐらい並び、やっと順番が来た。チケットを買い中に入ると、あんなに外には人が並んでいたのに中はそうでも無かった。

「あれ?人あんまりいないね。」

「多分、別館の方でイベントやってるからじゃないかな。」

「そうなの?」

どうやらここの水族館は本館と別館があり、本館では魚を見る為、別館ではショーイベントをやる為と分かれているみたいだ。これなら魚だけを見たい人がスムーズに見れていい取り組みだ。

「すごくいい取り組みだね。」

「だからここ選んだんだ。来るのに少し遠いけど。」

「その分、ゆっくり見られて私は嬉しいよ。連れて来てくれてありがとう。」

「うん。」

柊はそっぽを向いてしまった。なにか変な事を言ってしまったかと一瞬不安になったが、柊の耳が赤くなっている事に気づいて、照れているのだとわかりそれ以上追求しなかった。

館内は本当に人が少なくて、綺麗な魚達をゆっくり見れた。水族館にいると、時間感覚がなくなる。この館内だけ、時が止まっているみたいだ。

「あ...ペンギンだ!」

歩いているとペンギンがいる水槽に来た。ペンギンは丁度ご飯をもらっている時で、足を止めている人が多い。

「可愛い...癒される...」

「ペンギン好きなの?」

「特別好きって訳じゃないけど、見てると癒されない?」

「確かに。」

水槽に張り付いて見ていると、一匹のペンギンがこちらに来た。そしてこちらに向かって手を振ってくれた様に見えた。それが可愛くて、言葉が出なかった。

「今の何?可愛くないか?あー、くそ。写真撮っておけば良かった。」

柊は写真を撮れなかった事を悔やんでいた。完全にペンギンの虜だ。

「ずっとカメラ構えてないといけないね。」

「そうするかぁ。」

柊はほんとにスマホのカメラを起動して構えた。そんなにペンギンが好きになったのだと微笑ましく思っていると、そのカメラは私の方に向きシャッターを切った。

「え?何撮ったの?」

「愛だけど?」

それ以外何がある?みたいな表情で言わないで欲しい。

「なんで私なんて撮るの?ペンギン撮りなよ。」

「ペンギンもういないし。」

先程こちらにいたペンギンはもう群れの中に入っていた。

「だったら違う所の魚を撮りなよ。私なんて撮っても良い事ないよ。」

「そんな事ないよ。だって今日の愛、いつも以上に可愛いし。」

「えぇ!?」

思わず大きな声が出てしまった。慌てて口をおさえて、ペンギンのコーナーから離れクラゲの所に来た。そこには小さく座る所がある。

小さいから座るのにもくっつかないと座れない。だけどどうしても聞きたい事があるから気にせず座った。

「可愛いって冗談だよね?」

私が聞くと柊はムスッとした。

「そんな訳ないだろ。俺の事なんだと思ってんの?」

「女たらし?」

「ひどっ!」

「はは、冗談だよ。でも私なんて可愛くないよ。」

「可愛いよ。そのワンピース似合ってるし、髪も巻いてるよね?全部が愛の良さを引き出してる。それに、」

柊は一旦区切ると、私の髪に触れた。

「俺があげたヘアピンつけてる。やっぱり似合うね。」

恥ずかしげもなくつらつらと言われ、私がもたなかった。顔が熱い。

「それ以上言わないで...私の心がもたない...」

「そんな愛も可愛いよ。」

この人、私の事好きなの?と錯覚してしまう程に柊は私の事を褒めてくれた。

「柊、モテるでしょ。」

こんなに女性の事を褒められて、モテない訳がない。しかし。

「モテないよ。今まで彼女いた事ないし。」

自覚がないタイプだった。こういうのが一番厄介だ。

「自覚がないタイプだね。いっちばんタチが悪いやつ。」

「自覚がないも何も、ほんとにモテないんだって。それに他の人にはこんな事言わないし。」

「ほんとかなー?」

「あー、俺お腹空いたなー。水族館内のレストランでも行くか!」

怪しむ様に柊を見ると、話をはぐらかしながら立ち上がった。

「はぐらかしたー」

「じゃあ愛はお腹空いてないの?」

そう言われると何も言えない。お腹空いてない訳ない。

「空いてます...」

「だよな。よし、行くぞ。」

どちらからでもなく手を繋ぎ、レストランに向かった。

傍から見たら恋人だと思われているのだろう。すれ違う大人に微笑まれた。なんだか騙している様で心苦しかったが、こうでないと柊となんて恋人に見られないから良しとしよう。

水族館内のレストランに着き、メニューを見るとお値段が高めの設定だ。カレーとかも色がついていて恐ろしい。食べる人いるのだろうか。

「俺このイルカカレーにしようかなー」

「目の前にいた...」

口に出ていた。こんな合成着色料をふんだんに使っている物を食べるなんて。想像しただけで気持ち悪い。

「えー?なにが?」

「それ、めっちゃ色ついてるよ。ほんとに食べれる?」

「食べれるよ。だって味はカレーだよ?」

「そうだけど私は無理。無難にこのアイスにしとく。」

「じゃあ後でもう一回ちゃんとしたレストラン入ろう。」

「えー、いいよ。アイス食べればお腹いっぱいになる。」

「愛の食生活どうなってんの...」

柊は呆れながらご飯を注文に行ってくれた。私はその間、隣にあるお土産屋に入った。柊の妹ちゃんにお土産を買わなければいけない。レストランは人が多くて番号札をもらい、その番号で呼ばれているから私が座っていなくても大丈夫だ。

だが普段遠出をしない私にお土産のセンスがある訳が無い。何を買ったら喜ぶのか、そもそも、食べ物はアレルギーとか聞いていないからわからない。

私って、世間の事何も知らなすぎない?同学年の子、もっと色々知ってるよね。これが進学をしなかった人とした人の大きな違いなんだろうなぁ。

こんな楽しい所で自分の情けなさがわかるなんて。心がぎゅっとして涙が出そうだ。

「あ、愛いた。レストランに居ないから探したよ。」

必死に涙を堪えていると柊が来た。泣きそうになっていたのを悟られない様に。私は笑顔を作った。

「ごめんね、柊の妹ちゃんに渡すお土産探してたの。」

「そうだったんだ。なんかいいのあった?」

「どういう物が好きかとかわからないから探せなくて。役に立てなくてごめんね。」

自分で言った言葉に涙が出そうだ。本当に私は使えない。

「全然大丈夫だよ。だって俺、菜乃花の好きな物とか言ってなかったんだし。わかんなくて当然だよ。あと愛は謝りすぎ。」

柊はいつも欲しい言葉をくれる。これが世にいう甘やかしだろう。

「そんなに謝ってるかな?」

「謝ってるよ。そんなに謝らなくても人は不快にならないから大丈夫だよ。もっと気楽に生きな。あと、謝るよりありがとうの方がいいかな。」

気楽に生きれたら、どんなにいいのだろう。一つの事でこんなに悩まないだろうし、人に依存しないで生きていけそうだ。私がそうなるにはまだ色々な経験が足りない。

「謝るんじゃなくて、お礼を言う様に頑張ってみるよ。」

「うん、俺も協力するよ。さて、お土産選ぼ。菜乃花の好きな物はね...」

柊はどうしてこんなに優しいのだろう。私といて、嫌な顔一つしない。今まで私と関わった人は皆、嫌な顔していなくなったのに。どうして柊はいなくならないのだろう。

妹ちゃんの好きな物を話す柊を見ながら、そんな事を考えた。

「愛、どっちがいいと思う?」

妹ちゃんは今、イルカにハマっているらしい。だからイルカのキーホルダーに決めた。今はそれの色を選んでいる。

「んー...」

悩んでいる色は水色と紫だ。私だったらどっちも欲しい。

「私だったらどっちも欲しいけど...妹ちゃんは何色が好きなの?」

「知らない。興味ない。だから愛が気になった方の色でいいよ。」

「んー、紫かな?」

「わかった、そうする。ありがとな。」

「ううん、大丈夫。私払うよ。貸して。」

「いや悪いよ。俺の妹の事だし。」

「だって私と出かけるから妹ちゃん置いてきたんでしょ?だったら私が払うよ。」

その時、レストランから柊の番号が呼ばれた。ここを離れざるを得ない。

「ほら、呼ばれてるよ。ここは私が払うからさ。」

「くっ、お願いします。」

「おっけー。アイスはこれで払っといて。」

イルカのキーホルダーを受け取り、千円札を渡してさっさとレジに向かった。

可愛い紙袋に入れてもらい、見るだけで可愛い。貰ったら嬉しいだろうなぁ。

レストランに戻ると柊が机に座って待っていた。カレーはやはりやばい色をしている。実物を見れば見る程食べれない。

「ありがとー。アイス美味しそう。」

アイスは普通のバニラでペンギンのサブレがついている。美味しそうだ。

「お釣り返すよ。」

「えー、いいよー。大した金額じゃないし。」

「愛が頑張って働いて得たお金でしょ?返すよ。」

「それをどう使うかは私の自由でしょ。だから私は柊に使いたいかな。ダメ?」

「くっ...その顔で言うのは反則だよ。」

上目遣いで言うと、柊は顔を隠していた。前に柊にやられたからやり返せた。柊の場合はメッセージだったけれど。

「ふふ。まあ持っときなよ。私お金なら持ってるから。」

「そっか。なら貰う。今度なにか買う時買うから言って。」

「それはどうかな〜」

アイスを一口食べると、ミルク感が強くて美味しい。ジェラートみたいでこの暑い夏にぴったりだ。

「これ美味しい。」

「俺のカレーも美味しいよ。食べてみる?」

「結構です。」

「だよなー」

その後は何も口を聞かず、食べ進めた。柊といると無言ですら楽しい。

この人と離れたくない。この人の一番でいたい。

私、柊の事好きなんだ。だから嫌われたくないし、嫌われたら生きていけない。この気持ちに気づいたら隠すなんて事、私には出来なかった。

帰り道、私の最寄り駅に着いてから話があるからとあの公園に行く事を提案した。柊は私の体調を気にしたが、大丈夫と押し切って行く事にした。ただお昼のとても暑い時間だから時間は十分と決められてしまったが、十分もあれば充分だ。想いを伝えるだけだから。返事なんていらない。

「話って何?まあ俺もここに誘おうと思ってたんだけど。」

ベンチに隣同士で腰をかけると、夏特有のもわっとした空気が身体中にまとわりついた。

「そうだったんだ。柊もなにか話す事あったの?」

元々、今日出かける事になったのは私が柊に嫌われても生きていける様にしてとわがままを言ったからだ。最後にすると言っていたから、この公園に誘おうと思っていたのだろう。

「あー、まあうん。でも先に愛の話からでいいよ。」

「あ...えっと...あのね...」

いざそう言われてしまうと緊張して言葉が出てこない。口をパクパクさせるだけで声が出ないでいると、柊が手を握ってくれた。

「ゆっくりでいいよ。でも体調が悪くならない程度にね。」

目を細めて笑顔で言う柊。

あぁ、なんて優しいのだろう。こんなに優しい人に私が告白しても良いのだろうか。もっとふさわしい人が周りにいるかもしれないのに。

私の悪い癖で嫌な想像をして言うのをやめようかという思いが頭をよぎったが、振り払った。

いつまでもこんな弱い私、嫌だ。変わりたい。今ここで変わらなかったら、いつ変われると言うのだ。

「あのね!柊、私...柊の事が...んぐ!」

勇気を振り絞って想いを伝えようとすると、柊に口をおさえられた。

「待って、言わないで。」

なんで?やっと弱い自分を捨てようとしたのに?

そう言いかけて、やめた。柊の顔が赤かったから。

もしかして柊も同じ気持ちなの?そんな顔されたら、勘違いしちゃうよ。

柊は私の口から手を離すと一呼吸おいてから、

「俺、愛の事好きだ。多分、愛も同じ事言おうとしてたんだと思う。だけどこういうのは男から言いたい。」

柊の真っ直ぐな瞳で伝えられて、嬉しくて涙が出た。

柊も私と同じ気持ちだったんだ。こんな偶然ってあるのだろうか。自分の好きな人が、自分を好いてるなんて。

「私も...柊の事好き。」

泣きじゃくりながらそれだけ言うと、柊は優しく笑って私を抱きしめた。暑いとか汗ばんでるとかそういうのは気にならない。今はただ柊と同じ気持ちで嬉しいという感情しかない。

「はは、愛、顔ぐちゃぐちゃ。」

しばらくして落ち着くと、柊に言われた。自分でもぐちゃぐちゃだろうなとわかる。

「柊が泣かせるから。」

「俺のせいだったかー。ごめんな。」

「あ、それで柊に嫌われても生きていける様にしてくれるんでしょ?何するの?」

想いを伝え合った後にこれを言うのは酷だ。でも嫌われない保証なんてないから聞いておきたい。

だが柊は怒った。

「はぁ?愛、俺の事好きじゃないの?」

「いや好きだよ?でも嫌われない保証なんてないし。」

私がそう言うと、柊は大きく溜息をついた。それから私の両肩を掴むと目を合わせてきた。その瞳が綺麗で、吸い込まれそうで目を逸らした。

「なんで目逸らすの。」

グイッと、目を合わす為に頬を触られてそれだけでドキドキしてしまう。

「柊の瞳に吸い込まれちゃいそうだったから。」

「じゃあ一瞬だけ我慢して。俺の伝えたい事伝えるまで。」

「わかった。」

「俺、ずっと愛の事好きだったんだよ?それなのに嫌う訳ないじゃん。どんな愛でも受け止めるし、辛そうだったら助ける。」

「そんなの今だけかもしれないじゃん。もっと他に可愛い人いたらそっちに行くかもしれないし。」

あぁ、なんて私は可愛い気がないのだろう。素直にありがとうでいいのに。自分に自信がないから、こう言ってしまう。人に愛されるという感情が私にはわからないからかもしれない。

「仮にもっと可愛い人とか、それこそモデルが俺の近くにいても、愛が一番だ。」

「モデルがいたらそっちに行くでしょ。」

「よく考えてみな?モデルって確かに可愛いよ。でもモデルが可愛くないって人もいるんだよ。要は感じ方は人それぞれって話。俺は愛がこの世の誰よりも可愛いと思ってる。」

柊の言い分も一理ある。モデルをやっている人全員可愛いと私は思うが、可愛くないって人もいる。でもそれはやっかみ僻みもあると思う。皆が皆、可愛い人を認められる訳ではない。

「私のどこにそんな魅力があるの?」

私なんて夢を忘れ、学校にも行っていない。傍から見たら人生詰んでる人間だ。それのどこに魅力があると言うのだろう。

「残念。もう十分経った。」

柊はそう言って答えてくれなかった。そういえば、ここに来る前に暑いから話すのは十分までと決めたんだっけ。

「暑いからここで話すのはやめて、どっか入らない?愛、時間ある?」

私があまりに不服そうな顔をしていたのだろう。柊が提案してきた。

「私は大丈夫だけど、柊平気?」

「平気。どこ入ろっか。」

「うーん...」

この辺は本当に何もない。カフェもなければコンビニすらない。もう少し街に出ないと何もない。不便な街だ。

「あ、私の家おいでよ。今、誰もいないし。」

名案とばかりに柊に言うと、柊は困った様な表情だった。その表情の意味がわからなくて私は首傾げた。

「俺って今日から愛の彼氏だよね?」

「そういう事になるね。」

「そんな人をほいほい家にあげていいの?襲われるとか考えないの?」

なるほど、柊は先の事まで考えているのか。

「柊は私の事襲うの?」

「いや襲わないけど...」

「なら平気じゃん。それに私、柊以外に人招かないし、関わらないから!」

「だからってもっと危機感持った方がいいよ...俺心配。」

「大丈夫!そうと決まれば早く行こ。親が帰って来るかもしれないし。」

柊の手を引いて走り出した。久々に走るのは気持ちが良くて、嫌な事も忘れられそうだった。学生の頃は走るのが大嫌いだったが、走るのも悪くないなと思えた。

家に着くと車がなかった。両親はまだ帰ってきてないみたいだ。

鍵を開けると家の中がもわっとした。

「ただいま。」

「お邪魔します。」

「誰もいないからそんな固くならなくていいよ。洗面所は真っ直ぐ行ったらある。」

「ありがとう。」

柊が手を洗い終わるのを待ち、自分も洗ってから部屋に誘った。リビングだど万が一誰か帰って来た時に面倒な事になる。そのぶん部屋だともし帰って来たら部屋から出てしまえばいい。

「そんなに綺麗な部屋って訳じゃないけど。」

一言添えてから部屋のドアを開ける。私の部屋は机とベットと本棚がある簡素な部屋だ。女子って感じはしない。

「柊、入りなよ。なにしてんの。」

柊は入口に立ったまま入って来ようとしない。これでは話が出来ない。

「ほんとに俺入って平気?」

「えぇ?何言ってんの?いいに決まってんじゃん。あ、もしかして無断で家に入った事気にしてる?それなら平気だよ。弟だってよく友達連れて来るし。」

「でも俺彼氏だよ?友達ならまだしも、彼氏はバレたら面倒臭い事になるんじゃ...」

「大丈夫。弟は部活で夕方まで帰って来ないし、両親も買物に出てるからしばらく帰って来ない。よって柊がここにいても大丈夫!」

ぐっと親指を立てると柊は恐る恐る部屋に入って来た。念の為、靴は部屋に持ってきてもらってる。

「そこのクッション座りな。急だったから大した物用意できてないけど。」

「お邪魔します...」

柊はクッションに座ると正座をした。すごく緊張しているのが伝わってきて、申し訳ないけど面白かった。

「...なんで笑うんだよ。」

「だって柊が緊張してるのってあんまり見ないから。面白くて。」

「だって、好きな人の家に来てて、しかも無断でだよ?緊張しない訳が無い。」

「大丈夫だよ。もしバレても私が怒られるだけだし。怒られるのは慣れてるし。安心してよ。」

「それが嫌なんだけど。怒られるなら俺も怒られるから言って。」

「まあまあ、まだバレた訳じゃないんだから。嫌な想像はやめよ!それで、私のどこに魅力があったの?」

このままだと本題に入れないと思い、話を逸らした。柊はそのまま本題に入ってくれた。

「愛は覚えてないだろうけど、小学生の頃俺、愛に助けてもらったんだ。」

「え?そうなの?いつ?」

「俺が小五の時。その頃、家庭事情が一番最悪で。妹の父親と一緒に住んでたんだけど、その父親に家に居るなって言われてたんだ。」

「そんな...酷い...」

どうして子供にそんな事言えるのだろう。母親も、なぜ止めなかったのだろう。

「それで、家に帰れなくて学校の図書室で時間を潰してたんだ。でもある日、その生活が辛くて泣いちゃって。そしたら愛が声をかけてきたんだ。」

思い出した。あの日、私は図書委員の当番で、鍵閉めを任された。いつも図書室には誰もいないからその日も居ないだろうと図書室に入ると、泣いている男の子がいてびっくりした。

あの子が柊だったなんて。全然気づかなかった。

「あれ、柊だったんだ。全然わからなかった。」

「多分、今より子供っぽい見た目だったからじゃないかな。それでさ、愛、俺にどうしたのって声をかけてくれたんだ。でも俺、答えたくなくて。」

そうだ。あの日、私は泣いている男の子...柊にどうしたのと声をかけた。柊は答えてくれなかったから聞かれたくない事なのだと思い、それ以上は聞かなかった。でも放っておくことも出来なかったから傍にいた。少しでも心が軽くなる事を願って。でもその選択が正解だったのかわからなくて、しばらく悩んだものだ。

「そんな辛い理由なら初対面の人に言いたくないよ。」

「でも愛はそれ以上聞いてこなかったよな。その代わり、ずっと傍に居てくれた。それが凄く安心した。俺にも、興味を持ってくれる人がいるんだって。」

あの日私がした選択は間違ってなかったのだ。それが今わかって、あの選択に自信が持てなかった私は消えてなくなった。

「あの日の私の選択は間違ってなかったんだね。良かった。少しでも柊の役に立てて。」

「それからずっと愛の事が好きだったんだ。でも学年も違ったから会う事もなくて。そのまま愛は卒業しちゃったからお礼も言えなかった。」

「そんなに前から私の事好きだったんだね。ほんとに気がつかなかった。」

言われてみると、柊は私にすごく甘かった。どんな私の発言も受け止めてくれるし、怒らない。それは好いていたからだったのか。それはそれで私がダメ人間になりそうで良くないのだけれど。

「その内に妹が生まれて。あの父親の家から出ないといけなくて、俺達は引っ越す事になったんだ。だから学校も変わるはずだったんだけど、俺がわがまま言って学区外登校させてもらったんだ。愛と同じ学校に行く為に。」

私を追う為に学区外登校を選んだのか。たった一人の為に学区外登校を選ぶなんて、私には出来ない。そうなったら諦めてしまう。

「凄いね。一人の為にそこまで出来るなんて。でも母親は反対しなかったの?」

「したよ。それはそれはものすごく。まあ、手続きとか面倒臭いしな。」

柊は笑っていたが、今までの話を聞いてるとそんな笑って済まされる話ではなさそうだ。

「でも俺は愛と同じ学校に行きたかったから。そんな母親の反対なんて押し切った。恋って凄いな。人を強くする。」

恋って言うより、柊の行動力が強いのだと思う。私が逆の立場だったら諦めるから。だってこれ以上、親から嫌われたくないし。

「私を追っても、両想いじゃない可能性もあったんだよ?それなのに親の反対を押し切って。嫌われるのが怖くないの?」

「怖くないよ。だって元々母親は俺の事好きじゃないし。それに愛と両想いじゃなくたってこの道を選んだの後悔してない。それに、」

柊は一呼吸おくと私の頭を撫でた。

「結果は愛と付き合えたんだから。この道を選んで本当に良かったと思う。」

愛おしそうに私を見る柊。柊はお世辞にも人に愛されて育ってるとは言えない。なのになんで人を愛せるのだろう。私は愛されているはずなのに人を愛せない。愛が本当か疑ってしまう。名前に愛が入ってるくせに。

「柊はどうして人を愛せるの?」

つい、聞いてしまった。柊はその顔のままで答えた。

「俺も、愛以外には心を開かないよ。愛以外は愛せない。」

「そっか...」

「愛はさ、俺に嫌われたら生きていけないって言ったけど、俺もそうだよ。愛に嫌われたら生きていけない。」

「え?」

驚いた。柊は私より友達が沢山いるから、私一人に嫌われても生きていけると勝手に思っていた。

「だから愛、俺に嫌われた後の事なんて考えないで欲しいんだ。だってもう俺達、恋人同士だし。」

恋人同士。そうか、私達は両想いだから彼氏彼女の関係なのだ。早々別れたりしない。柊の片想いの歴もあるし。

「そっかぁ。なら安心してこれからも生きていける。」

「あ、でももしかしたら俺、これから連絡取れない期間があるかもしれない。」

「そうなの?」

「うん。こう見えて受験生だからさ。でもそういう場合は必ず一言伝えるから。」

つい忘れがちだが、柊は私より一つ歳下だ。私よりしっかりしているから頭から抜ける。

「そっか、柊、私より一個歳下だもんね。わかった。応援してるね。」

「でもまだ大丈夫だから。多分だけど十二月ぐらいから二月まで連絡出来ないと思う。」

「丁度受験だしね。」

私は受験シーズンに学校に行っていないからどういう雰囲気なのか全然わからない。

「柊は将来何したいの?」

「何したいのか俺もわかんないんだよね。」

「そうなんだ。でも大丈夫だよ。生きてればその内やりたい事見つかるよ。」

この言葉は柊に言ったが、自分自身に対して言っているようにも聞こえた。小説家以外のやりたい事が、見つかるかもしれないと。

「そうだよな。でもさ、友達とか将来の事話したりしてて、俺、ついていけないんだよね。それが地味に辛くて...」

「そっか...」

友達がいると、こういう時困るのか。その点私は友達が居なくて良かったのかもしれない。一度悩むと、その考えが離れなくなるから。

「もしやりたい事見つかったら、愛に一番に教えるな。」

「うん、待ってるね。」

柊といる時間はあっという間に過ぎる。気づいたら夕方の十七時だった。

「柊、そろそろ帰らなくて大丈夫?」

「うお、もうこんな時間。やっぱ愛といるとあっという間に時間が過ぎるな。」

「私も同じ事思ってた。この時間が、ずっと続けばいいのにって。」

口に出すととても恥ずかしい。小説の主人公はよく恥ずかし気もなく言えるものだ。

「大人になったらずっと一緒にいられるよ。それまで頑張ろうな、お互い。」

「へ?それって...」

「さー!帰るか。愛、家に招いてくれてありがとう。今日も楽しかった。じゃあまたな!」

柊は言い逃げしてしまった。あの言葉って、プロポーズみたいなものだよね?

「え、あ、柊、待って!」

固まっている間に柊は帰ってしまった。私だって今日、凄く楽しかったのに。それを伝えさせてくれたっていいじゃない。

こうして私達は晴れて恋人同士になった。



恋人同士になっても日常は変わらない。私はバイトがある日は行って、柊は学校に通う。そして夜に連絡を取り合う。

ただ一つ変わった事と言えば...

─愛、好きだよ。─

おやすみの前に、必ず柊がこう送ってくるようになった事だ。その文が恥ずかしくもあり、嬉しくもあった。すっごくメンヘラっぽい事を言えば、毎日言ってくれる事で安心できた。柊はちゃんと私の事好きなんだって。言われなくても柊の気持ちが嘘だとは思っていないが、やはり言われた方が安心はできる。

そんな風に毎日を過ごし、世間は受験シーズンに入った。そして受験に関係ない人はクリスマスを楽しみにする時期にもなった。

柊とは前に言っていた通り、十二月から二月まで連絡しない事になった。私のせいで受験が失敗したなんて事になったら最悪だ。だから私の事を一旦頭からなくしてしっかり集中して欲しい。

そして私はと言うと...

「愛?どう体調は。」

「んー、あんまり良くない。」

十二月に入った頃から体調が優れない日が多くなった。でも熱とか鼻水が出ている訳では無い。

ただただ怠いのだ。それはそれは起きていられないぐらいに。

「病院行った方がいいんじゃない?」

母親は私に飲み物を渡しながらそう言ってきた。その病院に行く事すら辛いんだってば。

「でもバイトには行けてるから。」

「そう?ならいいけど。私、仕事行くから。何かあったら連絡して。」

「はーい」

母親が部屋から出て行くのをベットの上から見送りながら、溜息をついた。

今までこんな事なかった。人と関わる事に慣れていない私がバイトで接客をしたから今、身体に疲れが来たのか。

でも柊と連絡を取り合わない期間に体調が悪くなって良かった。もし取り合っている時で、出かけるってなったら今の私の体調では絶対無理だ。そうなったら柊は心配して私の家にお見舞いに来るかもしれない。それはそれで嬉しいが、シュール過ぎるからやめて欲しい。

とりあえずバイトには何とか行けている。バイト先に行ってしまえば今よりかは体調が良くなるのだ。不思議でならない。

とりあえず寝てれば治るだろう。そう軽く考えていた私に身体は言う事を聞いてくれなかった。日に日に身体の怠さが重くなっていく。食べ物も食べれない日がある。

そんな私を見かねて母親が私を病院に連れて行った。だが...

「異常はありませんね。健康な身体です。」

そう言われてしまったのだ。それを鵜呑みにして母親は、

「本当に身体が怠いの?バイトに行きたくないからそう言ってるんじゃないの?」

そう詰め寄ってきた。本当に怠いのに。しかもバイトには行ってるじゃない。

「本当に怠いんだってば。」

「でも検査結果はなにも異常なかったじゃない。それが結果なの。もうそんな仮病、使わないで。全く、恥かいたじゃない。」

なんで信じてくれないの?それとも、私が身体が怠いと思い込んでるだけ?

わからない。病院で異常がないと言われてしまって、自分の事なのに自信がなくなってしまった。

辛い、辛い。誰か、助けて。

毎日のように心で唱えた。でも誰も助けてくれない。家族も私が嘘を言ってると思って話しかけてこないし、友達もいないから話す事も出来ない。最も、友達がいても家族同様信じてもらえない可能性があるが。

何度柊に連絡したいと思った事か。でも柊には柊の人生がある。いくら私と恋人同士だからと言って、受験のシーズンに連絡は出来ない。柊は私と違ってちゃんとした未来があるのだから。

弟の誕生日が来て、クリスマスが来て、大晦日になった。私はどのイベントにも参加出来なかった。それに家族も誘って来なかった。

なんで私を生んだんだろう。そんなに弟の方がいいなら、私がもっと小さい頃に施設に預けちゃえば良かったのに。そうしたらこんな思いしないで済んだのに。

そんな思いを抱えたまま、年が明けた。年が明けても私の体調は変わらない。

でも何故こんなに身体が怠いのだろう。怠いのだから絶対に理由があるはずだ。その原因を突き止めて、家族に本当に身体が怠いのだと証明してやる。

意味がわからない所でやる気になった私は、重い身体を引きずって病院をまわった。近辺の小さいクリニックから、そこそこ大きい病院まで。

だが全ての病院で異常なしと言われてしまった。それでも諦めなかった。

スマホで自分の体調を入れて調べる事も出来たが、しなかった。それで色んな病気が出てきたら怖いと言う子供っぽい理由だ。まあ、こんなに病院をまわって病気が言われないからそれは無いのだろうけれど。

もうこれで最後にしよう。そう思って行った病院で衝撃的な事を言われた。

「身体に異常はありませんでした。ですが、もしかしたら肉体ではなく精神的にきているものかもしれません。こちらで勧めているメンタルクリニックに受診する事をおすすめします。」

肉体ではなく、精神的。何件も病院にかかったが初めて言われた言葉だった。それに私自身も精神的だとは思っていなかった。そうか、そういう可能性もあるのか。

「...ありがとうございます!」

暗闇の中に、光が差した気分だ。この体調の悪さは私の気のせいでも仮病でもない。精神的にくるものかもしれない。いや、かもしれないではなく絶対そうだ。そうでなければこの体調の悪さの説明がつかない。

私は受付でメンタルクリニックの紹介状をもらい、家に帰るとすぐ電話した。そして症状を話すと、なるべく早く診てくれる事になった。

カレンダーにメンタルクリニックの予定を書き込み、毎日指折りしながら過ごした。

そしてクリニックに行く前日。バイトから帰ると母親にリビングに来るように言われた。ちなみに病院をはしごした事は言っていない。言った所で無駄と言われておしまいだろうから。

リビングに行くと父親もリビングのソファーに座っていた。それでなんとなく言われる事の予想がついた。

「愛、あなた明日メンタルクリニック行こうとしてるわね?」

やはりその事だったか。でもなぜ知っているのか。誰にも言っていないし、知るとすれば部屋のカレンダーを見たとしか考えられない。勝手に人の部屋に入らないで欲しい。

「うん。体調が悪いのが良くならないから。行ってみようかなって。」

母親ははぁと大きく溜息をついた。

「なんで?前に病院に行った時に異常はないって言われたでしょ?」

「最初は私もその言葉を信じたよ。でも一向に良くならないからそんな訳ないって思ってこの辺の病院全部まわった。それでも異常はないって言われた。」

「なら...」

「それでも私は納得出来なかった。だってこんなに怠いのに。だから納得出来る結果が聞けるまで病院をはしごした。そしたら身体の異常じゃなくて、精神的ではないかって。それが本当なのか、真実を知る為に病院に行くの。悪い?」

何故だかわからない。今日の私はスラスラと言葉が出てくる。初めて親にこんな詰め寄ったかもしれない。

「悪いに決まってるだろ。」

それまで黙って聞いていた父親が口を開いた。

「親にこういう大事な事話さないで勝手に決めて。悪い以外に何がある。」

父親の言葉に腹が立った。

「じゃあ何?相談したら親身になって聞いてくれた?」

「聞くよ。子供の事なんだから。」

「嘘。私が怠いって言っても仮病とか言ってスルーしたじゃない。」

「それは母さんじゃないか。」

「なんでもお母さんのせいにするよね。じゃあお母さんがそう言っても、お父さんは私に寄り添ってくれても良かったじゃない。でもそれをしなかった。だから私も言わなかった。」

「それは...」

一気にまくし立てると父親は何も言えなくなった。私は言い過ぎたとは思わない。むしろ長年言えなかった事を言えてすっきりしている。

「愛、親に対してなんて事言うの。謝りなさい。」

父親が黙ると今度は母親が口を出してきた。なんて話がわからない人なのだろう。

「こういう時だけ親って言葉使うよね。いつもは私の事なんて放ったらかしで聖也の事ばっかりのくせに。」

「...もういい加減にして!」

母親はその言葉と共に私の頬を思いっきり叩いた。少し目眩がする身体にこのビンタは辛い。

「そりゃあ聖也の方がいいに決まってるでしょ。あの子はなんでも出来て。それに比べてあんたは。学校にも行かず、バイトも聖也に言われるまでしないで。どれだけ親に迷惑かけたら済むの?こんな事になるならやっぱり施設に入れるべきだった...」

その一言は私の心を壊すのに充分だった。

「...なにそれ。私の事施設に入れようとしてたの?」

母親はしまったという顔をして、父親と目を合わせた。そして次は父親が口を開いた。

「一時期、愛を施設に預けようと言う話になったんだ。でもそれは愛がこの家だと本音を言えないと思ったから。」

「どういう事?」

「愛は小さい頃から自分の意見を言わない子だっただろ?それは俺達の育て方が悪いからってその時は本気で思って施設を探したんだ。それに聖也とも仲が良くなかった。だから二人を離した方がお互い幸せかなって。でも、愛が本を好きになって。いつも控えめな愛の好きな事。施設に入れたら本も好きに読めなくなると思って入れない事にしたんだ。」

父親に説明されても理解が出来なかった。いや、したくなかった。

いかにも私の事を思ってる風に言っているが、要は自分の意見もまともに言えない私は邪魔だったのだろう。弟の教育にも良くないと。

ふざけんな。お前らの好きで私を作ったくせに。生んだくせに。無責任なんだよ。

「要は私の事が邪魔だったんだよね?」

「愛、違う!信じてくれ。本当に俺達は...」

「いつも私が何か言ってもトゲがある言い方で返されて。この怠さも仮病だって言われて。しまいには施設に入れようとしてたんでしょ?そんな事があるのにどうやって信じろって言うの?信じれる訳ないよね?」

「今は信じてくれなくていい。愛も大人になって子供が出来たらわかる。」

「確かにそうかもね。でも今、信じられない。私が生きてるのは紛れもない今だから。未来の事なんてどうでもいいの。」

未来の事を考えられるならば、高校に行かない選択はしていない。

「...もう無理。私、お金が貯まったらこの家出るから。それに明日、メンタルクリニックにも行くから。」

「なら俺もついて行く...」

「絶対ついて来ないで。それと、もうあなた達のこと親と思わないから。」

勢いよく椅子を引き、椅子が倒れる音を後ろ手にリビングを出た。

「うっ...うぅ...」

部屋に入り、ドアの前にしゃがむと涙が出てきた。私は結局、親に愛されていなかった。むしろ邪魔だったのだ。やはりあの時、死ぬべきだったのだ。柊と出会った、あの日に。

「柊...なんでこういう時に連絡出来ないのよ...」

柊と連絡が出来るようになるまであと半月ある。短いようで長い。それに今、話したいのだ。こういう時友達がいれば話したり出来たのだろう。時すでに遅しだ。

先程親に言われた言葉を思い返せば思い返す程腹が立って、同時に悲しくなる。

絶対お金を貯めて、家を出るんだ。病院をはしごしてお金をかなり使ってしまったから稼がないと。

涙で視界がぼやぼやのまま机に向かい、これからの目標を書いた。書く事によって、この紙を見た時にその時の思いが鮮明に蘇ってくると思ったから。だから私はネットの時代でも紙に書く事が好きだ。

それを周りには見えずらい所に貼り、心の中で読んだ。絶対この家を出てやる。そう思いを込めながら。


次の日。私は宣言通りメンタルクリニックに来ていた。

家を出る時、母親と会ったがお互い挨拶もかわさなかった。かわす義理もない。

病院で勧められたメンタルクリニック...長いから以降メンクリと言おう。は小ぢんまりとした落ち着く雰囲気の病院だ。中に入ると病院特有のアルコールの匂いではなく、お香の匂いがする。それがとても心地良かった。

受付に病院でもらった紹介状を出すと、五分ほどで呼ばれた。病院の紹介だと早く呼んでもらえてラッキーだ。

「失礼します。」

「どうぞ〜」

中に入ると見た目より大きい部屋だ。その中心に先生が座っており、優しい笑みを浮かべている。

「初めまして。清川さんの担当をします。宮田と言います。どうぞ座って。」

「は、初めまして...」

初めて関わる人だと凄く緊張する。こんなんで今の状況を話せるのだろうか。

「清川さん、今日は一人で来たの?」

「あ、はい。もしかして一人だとダメでしたか?」

まだ未成年だから、親がいないと診てもらえないなんて言われたら最悪過ぎる。昨日あれだけ言い合ったのだから、今更頭なんて下げたくない。

「ううん、それは大丈夫よ。ただ気になったから聞いてみただけ。ごめんね。」

「いえ、全然。」

良かった、診てもらえるみたいだ。

「清川さんは今日、どうしてここに来ようと思ったか聞いてもいい?」

「えっと...」

ずっと身体が怠くて、病院に行っても異常なしと言われて。納得出来なかったから病院をはしごしたらここを勧められました。

頭では言葉が出ているのに、声に出して言えない。無駄に空気ばかり吸ってしまい、喉からは変な音が出ている。早く言わなければ。先生を困らせてしまう。

「話しづらいかな?じゃあ、清川さんは今、何が一番辛い?」

そんな私の気持ちを汲み取ったのか、宮田先生は聞き方を変えた。

私の一番辛い事。身体が怠いのに、それを嘘だと言われる事。

「身体が...ずっと怠いんです。それを嘘だと言われる事が今一番辛いです...」

声も小さく途切れ途切れだったが言えた。私にしては上出来だ。

「そうだったのね...じゃあ、今何に一番悩んでる?」

「家族関係に悩んでます。両親は私の事いらなかったみたいなんで。」

「いらなかったって、どういう事?」

「そのまんまです。私、弟がいるんですけど、両親は弟が好きなんです。だから私は邪魔なんです。」

初対面の人にこんなに自分の事情を話したのはこれで二人目だ。一人目はもちろん、柊だ。

「そうだったのね。今日まで辛かったね。清川さんは充分頑張ってるよ。」

柊以外の人から認めてもらえたのは宮田先生が初だ。柊以外にも、私を認めてくれる人がいるんだ。こんな私でも、頑張ってるって言ってくれるんだ。

「ありがとうございます...」

つい涙が出てしまい、服の袖で隠した。宮田先生は椅子から立ち上がると私の腕を掴んだ。

「隠さなくていいのよ。ここには私と清川さんしかいないから。沢山泣いて、私に話してくれないかな?」

「先生...」

先生の言葉に甘えて、私は遠慮なく泣いた。昨日の言葉を思い出しながら。今までの家族の扱われ方とか。もう色んな思いが溢れてきて辛い。

「どう?少しは落ち着いた?」

「はい...」

先生は私の前に温かいココアを置いてくれた。小さく頭を下げて飲むと、懐かしい味がした。

「美味しい...」

「疲れた時は甘い物を摂取した方がいいからね。」

このココアも診察の代金に入るのだろうか。入らないのだとしたら申し訳ない。

「このココアも診察の内の一つですか?」

「んーん、違うわ。私が出したいと思った人に出してる。」

「そうなんですか...」

それから宮田先生とは他愛もない話から今までどうやって育ってきたのかまで沢山話した。宮田先生はどの話もうんうんと否定せず聞いてくれた。母親も、こうだったら良かったのに。

「今の話を聞く限り、清川さんは人間関係や家族の事で自律神経が乱れて、少し鬱っぽくなってるのね。これは内臓系の異常じゃないからどの病院行っても診断はつかないわ。」

「そうなんですか...」

自分自信では大丈夫と思っていても、心はそう思っていなかったのだ。可哀想な事をしてしまった。

「どうしたら良くなりますか?やっぱり薬とか飲んだ方がいいですか?」

「なるべくストレスを溜めない事だね。それにまだ鬱とまではいかないから、薬を出すのは早いと思うんだ。薬を飲んじゃうと癖になっちゃう事もあるからね。でも清川さんが望むなら出すこともできるよ。」

ストレスを溜めない事。私の性格上厳しい言葉だ。だって今まで辛いとは感じていたけれど、それがストレスだとは思っていなかったから。鈍感にも程がある。

「じゃあしばらくこの身体の怠さと付き合わないといけないって事ですよね。」

「そういう事になるね。大丈夫そう?」

「頑張ってみます。」

宮田先生と話したからか、昨日よりかは怠さがマシになっている。本当にストレスが原因だったのだと実感する。

「無理はしちゃいけないよ。もう無理と思ったらすぐここに来てね。私、いつでもここにいるし、話聞くからね。」

「ありがとうございます。」

何度も何度も頭を下げて、診察室を後にした。今日ここに来て本当に良かった。身体が怠かった理由も判明して安心した。

受付でお会計をして外に出る。冷たい風が頬をすり抜けていって冬なんだなぁと今更ながら気づいた。この体調になってから、季節の事を全然気にしていなかった。いや、気にする事が出来なかった。

心が少し軽くなると、こんなに世界は綺麗に見えるんだ。本当に病院に行って良かった。

そのままバイト先に向かおうと歩きながらふと、宮田先生はどこか柊に似ている事に気づいた。笑い方とか、話し方とか。もしかしたら柊と何か関係があるのかも。

まあ、私の親しい人が柊しかいないからそう思っているだけかもしれないけれど。


「お疲れ様です。」

バイトが終わり外に出ると、空は暗くなっていた。いつもは空が明るい内に帰るから暗いのは珍しい。今日は夕方に出る人がいなかったから、代わりに出たのだ。ここのバイト先は高校生が少ないから、夕方に入っても同級生に会う事がない。これから、夕方のシフトも入れようかな。

徒歩で十分程で家に着く。今日は朝からメンクリに行って、バイトもしたから早くやる事を済ませて寝よう。

「あ...姉さん...」

家に入ろうと玄関のドアの前に立つと後ろから弟の声が聞こえた。

その声を無視して先に家に入った。今までの私なら絶対先に入らせてた。もし弟が襲われたら私が責められるから。

でも今はそんなのどうでもいい。こんな家族に思いやりなんていらない。最初に私に思いやりをしてくれなかったのは向こうなのに。私はしないといけないなんてそんな馬鹿な話はない。

そのままお風呂に入り、出ると母親が目の前にいた。

「おかえり。今日どうだった?」

心臓が飛び出るかと思った。急に声をかけるな。

「ただいま。私の言う事信じてくれない人に言う筋合いない。」

「あ、愛...」

母親の横をすり抜けて自分の部屋に向かった。今母親に声をかけられて思い出したが、昨日ビンタされた事謝られてない。それで今日の事を聞いてくるなんてどういう神経しているのだろう。

部屋に入り昨日書いたこれからの目標を読む。今家族の私に対する扱いが変わっても私の決意は変わらない。私は一回決めたらよっぽどの事がない限り決意を曲げたりしないのだ。まあ、小説家は諦めてしまったが。


そんな風に毎日を過ごしていると二月に入った。二月はバレンタインがある。十二月や一月は体調不良で全然イベントに参加出来なかったから、バレンタインは参加したい。

イベントに参加したいと思える程には体調は良くなっていた。まだ怠さはなくならないが、一時期に比べるとだいぶ楽だ。病院に通い続けているのが良いのだろう。

彼氏が出来て初めてのバレンタイン。なにをあげよう。手作りが良いのだろうが、手作りが苦手な人もいる。そうなったら市販のチョコを渡した方がいい。

柊と連絡が取れるようになるのはちょうどバレンタイン当日だ。その日に受験で、終わったらすぐ連絡すると十二月のメッセージで言われた。だから相談もできないって訳だ。

十二月には柊の誕生日もあった。それもお祝い出来なかったから、一緒にはなってしまうがお祝いしたい。柊は私の誕生日にヘアピンをプレゼントしてくれた。私もセンスがないながらも選んでプレゼントを用意した。気に入ってもらえると嬉しい。

バレンタインをまだかまだかと指折りしながら一日を過ごした。

恋をすると、待っている時間すら楽しい。

小説とかでこういう文をよく見かけたが、嘘だと思っていた。待つ事なんて時間の無駄だと。

だが今はその文の意味がよくわかる。本当に待っている時間すら楽しい。会ったら何しようかとか、何を話そうかとか。元々妄想が好きな私にはたまらない時間だ。

そして待ちに待ったバレンタインの日。私はバイト終わりにあの公園に来ていた。柊と会う為だ。最後にしたメッセージで、バレンタインの日の夕方にここに来るように言われていたからだ。

─愛、久しぶり!受験終わって、今家だから少し遅くなるかも。暖かくして待ってて!─

ベンチに座っていると柊から連絡が来た。受験の時はスマホを持って行っちゃダメだからだろう。なら別の日に会えば良かったのだが、柊がどうしてもこの日がいいと聞かなかったのだ。

─わかった!待ってるね。気を付けて来るんだよ。─

返信をするとすぐ既読がつき、スタンプが返ってきた。やり取りが出来ているというだけで嬉しかった。

柊と連絡を取り合わなくなってからの二ヶ月、本当に色々あった。体調が悪くなって、それがきっかけで家族との仲は悪くなって。全て良い事ではないが、目標も何もなくただ生きていた私にとって、家を出るというのはいい目標だ。

柊にメンクリを通っている事は言わない事にした。これから高校生になって楽しい毎日が待っているかもしれないのに、私の精神状態なんて聞きたくないだろう。だから絶対隠し通す。

吐く息が白い。外が暗いから尚更白く見える。手も足も寒くて震えてる。カイロを持ってくれば良かった。

「愛!」

コンビニに行こうかと迷っていると、柊が来た。久々に見た柊はまた背が伸びた気がした。

「柊...」

駆け寄ろうとしたが足が言うことを聞いてくれない。もつれた足で転びそうになった。

転ぶ。次にくる衝撃を予想して目をつぶったが一向に衝撃は来ない。

「愛、怪我してない?」

柊の声が近い。そこで私は柊に抱きしめられる形で助けられたのだと知った。

「うん。柊が助けてくれたおかげで。」

「それは良かった...ってあれ?愛、あんまり体調良くない?」

「え?なんで?」

「いや、顔色そんなに良くないから。」

どうして柊にはすぐバレるのだろう。バイト先の人達は私が嘘笑いしても気づかないのに。

「気のせいだよ。私としばらく会ってなかったから私の姿が美化されてたんじゃない?」

なるべく自然の笑顔になるように。ここで作り笑いとバレたらメンクリに通っている事を話さなければいけなくなる。これ以上、柊のお荷物になりたくない。

「愛は美化しなくても充分可愛いからそれは無いな。でも愛が気のせいって言うならそうだな。ごめんな、変な事聞いて。」

「ううん、大丈夫だよ。」

柊に嘘をつくのは心苦しかったが、仕方ない。これぐらいは誤魔化せるようにならないと。

「愛、時間平気?俺来るのかなり遅くなっちゃったからさ。」

二人で並んでベンチに座るとそう言われた。時刻は十八時を過ぎた。

「大丈夫だよ。最近、夕方のシフトも入っててこれより遅い時間になる事もあるし。」

「そうなんだ。その...同級生に会ったりとかはしない?」

「うん、大丈夫だよ。私のバイト先、高校生少ないからさ。」

「良かった...」

柊は本当に優しい。この人にもし今の私の状況を話したら、逆にこの人が精神病になってしまう。それだけは避けたい。

「もー、柊は心配しすぎ。」

「だってさ、俺達が出会った理由が理由だし。」

「あー、なるほどね。」

約一年前。死に場所を探していた私に柊が声をかけてきた。第一印象は確か、私より大人っぽいだった気がする。

「あの日さ、久々に愛を見て。今にも死んじゃいそうに見えたんだ。だから気づいたらあんな風に声をかけてた。」

「あの時はびっくりしたよ。」

─死ぬなら、俺の話を聞いてからにしてくれませんか?─

普通、死にそうに見える人に声をかけられないだろう。いくらその人を追って学区外登校を選んだとは言え、正気の沙汰ではない。それだけ柊も追い詰められていたのだろう。

「たまにその時の事思い返すけど、いくら助けようと思っても言い方ってものがあるよな。」

「でもあの時、柊がああやって声をかけてくれたから今私生きてるんだよ。もしあれが違う聞き方だったら無視してたかもしれないし。」

あの時、小説のネタになるかもと話を聞く事にしたのだ。今思い返せば、私はあの頃、小説家の夢を捨てきれていなかったのかもしれない。だってあれから一度も小説のネタになるかもと思った事がないから。今はふんぎりがついて、新しい目標もできた。

「じゃあ俺があの時ああやって声をかけたのは、間違いじゃなかったんだな。」

「そうだね。その時は正解かわかんないんだよ。だから結果良ければ全て良しって言葉があるんだし。」

「まあな。」

柊と他愛のない話をしながらも、心の中ではいつチョコとプレゼントを渡そうかと考えていた。どうにもそういう流れにならない。この人、今日がバレンタインって知ってるのかしら。

「そういえば今日ってバレンタインだったんだな。受験でそれ所じゃなかったよ。」

何個目かの話の後、急に柊がそう言った。よし、バレンタインの話になった。

「実は私ね、チョコ準備してるの... あと遅いけど誕生日プレゼントも。」

おずおずと紙袋を渡すと柊の目が輝いた。

「え!くれるの!?」

「うん。私、人にプレゼント渡した事ないからセンスないかもだけど。」

「愛、めっちゃセンスいいよ。少なくとも俺よりは。」

「確かに。」

去年の春に服を買いに行ったのを思い出した。持ってくる服、全部センスなかった。それよりは多分、マシだろう。

「え!これ腕時計?」

私がプレゼントしたのは黒い腕時計だ。これから高校に行くのに使うかなと思って奮発して買ったのだ。

「うん。これから高校で使うかなって。」

「俺、腕時計買おうと思ってて、それがこれだったんだよ!俺、話したっけ?」

「そうだったの?知らなかった...凄い偶然だね。」

こんな偶然あるのか。凄いと思う。

「めっちゃ嬉しい。大事にする。ありがとう。」

柊は早速腕時計をつけた。暗いからわかりづらいが、色白の柊に黒い時計は似合わない訳がない。

「ぜひそうしてくれると嬉しい。」

「じゃあ次はチョコ。え、これも高そう。」

「そうでもないよ。見た目だけだと思う。」

チョコは悩みに悩んで無難な市販のチョコレートにした。手作りが好きかわからなかったし、なによりあまりリビングにいたくない。

「もう愛センスの塊だよ。嬉しい。ありがとう。」

柊は紙袋を膝に置くと私の事を強く抱きしめた。頭も手で抑えられているから息がしずらい。

「ちょっ、柊、息できない。」

「もう少し我慢して。もう受験のせいで愛に二ヶ月関われなかったんだから。その分補充しないと。」

更に力を強められ、苦しかったが同時に柊からの愛が感じれて満更でもなかった。

「はぁ、満足した。ありがとう。」

柊から離れると寒さを感じた。出来たらずっとくっついていたい。

「私も柊に会いたかったよ。」

心からの笑顔で言うと、柊は目を細めると私の頬に触れた。そのまま顔が近づいてきて、私は目をとじた。

暗くて寒い公園で、私達は静かにキスをした。柊は私が初めてだが、私はあのくそキモ男子で経験しているから二人目だ。

唇を離すと私の瞳からは涙が出ていた。こんなに柊の事が好きなのに。それなのになんで柊が初めてキスをした相手じゃないの。

柊は私が初めてキスした相手の経緯を知っている。だから何も言わずにまた抱きしめてくれた。そして再び唇を重ね、何度もキスをした。あのくそキモ男との出来事を上書きするように。でもくそキモ男と決定的に違うのは、からかいでもなく笑いものにするつもりのない、本当に私の事が好きだって事が伝わってくるキスだ。

「愛、泣かないで。俺との出来事が初めてだと思って。だって好きな人とするのは初めてでしょ?」

そう言うと柊は私の涙を手の甲で拭ってくれた。その手が私より遥かに大きくて。思わず手を握った。でも柊は動じない。だから私も柊の問いかけに答えた。

「そうだね。好きな人とするのは柊が初めて。柊はそんな私でもいいの?」

「俺はあの事で愛自身が自分の事を汚いとか思っていても、俺は思わないから。それ目当てで好きになった訳じゃないし。」

「ありがとう。」

私達は何かを話すことも無く、ただ隣に座って空を眺めた。お互いの手を握って。

「そろそろ帰るか。」

柊の声かけで、もう二十時を過ぎているのに気がついた。私はまだしも、柊はこれから電車に乗って遠い所まで帰るのだ。早く帰してあげないと、二十二時を過ぎてしまう。

「そうだね。柊、家遠いもんね。」

「ほんとうざいよな。母親の都合がなければ俺も今頃この辺に住んでたのに。そしたら愛ともっと長く一緒にいられたのに。」

「大人になったら私と一緒にいられるよ。それまでは頑張ろう。」

前に柊に言われた言葉を真似してみた。柊もそれに気がついたのか笑った。

「そうだな。愛と一緒にいる未来の為に、今頑張らないとな。」

「うん。私もバイト頑張って、お金貯めて早く一人暮らし出来るように頑張るね。そしたら一番に柊を招待するよ。」

「楽しみに待ってるよ。でも無理だけはしないで。ちゃんと自分の心の声聞いてあげてね。愛はそれが苦手そうだから。」

宮田先生と似た事を言うんだな。私はそんなに自分の事をわかっていない人間に見られているのだろうか。まあ、だから体調を崩してメンクリに通っているのだけれど。

「わかった。無理せず頑張る。」

「よし。じゃあ俺帰るな。愛も帰り道気をつけろよ。」

「うん。柊も気をつけて帰ってね。」

「ありがとう。」

一緒に公園を出て、私は右に、柊は左に別れた。

先程まであった人のぬくもりがなくて、凄く寒さを感じた。二月の二十時をまわるとこんなに寒いんだ。ぶるぶる震えながら家までの道のりを歩いた。





それからの日々はあっという間に過ぎ去って行った。柊は無事志望校に入学出来た。そして柊と出会った春が来て、付き合った夏が来て、秋が来て冬が来た。どの季節にも柊との思い出がある。去年の冬は、柊が受験で私も体調が悪くて。なんのイベントにも参加出来なかった。

だが今年は違う。クリスマスも誕生日もお祝いできた。去年と比べると体調は随分と良くなった。柊と連絡を取り合えるという心の安心があるからだろう。

一人暮らしをする為の貯金も、順調に貯まっていってる。このまま行けば、わたしが二十になる時には余裕で一人暮らしが出来る。今までお年玉とか貯めといて良かったと心から思った瞬間だった。

家族とはあの日以来一言も口を聞いていない。母親も最初こそ話しかけてきたが、私が話さないとわかると一言も口を聞かなくなった。出会ってもお互い挨拶もしない。家族なんてこんなものだ。

家族の事は抜いて、何もかもが上手くいっている。この調子なら、もっとシフトを増やしても大丈夫かもしれない。柊に無理せずと言われて律儀に守ってきた。でももっと頑張らないと。
今のペースでも充分お金は貯まるが、お金はあればあるだけいい。

そして私は少し無理してでもバイトを頑張った。四連勤、五連勤は当たり前。扶養内だったのを抜けたから、最低二十万は稼がないといけない。

二十万稼ぐのは簡単だった。だがその分、体力と心はすり減っていった。四連勤、五連勤になると当たり前だけどお客さんに怒られる率も高くなる。どんなに親切に対応しても、気に入らない人はいる。だったら来るなよと最初は思ったが、この人はここでストレス発散しないと生きていけないのだと悟ってからはそう思わなくなった。むしろ私でストレス発散出来るならどうぞしてくださいと思う様になった。ストレスで苦しむのは、私も経験したから知っている。

柊とも毎日連絡を取り合っているが、自分の状況は話さなかった。だって話したら柊は心配するだろう。沢山心配かけたのだからもうかけたくない。それに私はもう、柊に助けられなくても一人で立てる。だから言わなかった。

そんな生活をしていると、良くなっていた私の体調は振り出しに戻った。いや、振り出しより悪いかもしれない。身体が怠いのはいつもの事だが、目眩と吐き気が凄くて食べ物もろくに食べられない。食べても気持ち悪くて吐いてしまう。

私はどんどん痩せていった。鏡に映る自分は痩せこけて、お世辞にも可愛いとは言えない。この姿で柊に会う事は出来ない。この姿を見せたら、絶対心配をかけてしまう。無理しすぎとシフトを減らせと言われてしまう。最悪、嫌われてしまうかもしれない。

それだけは絶対に嫌だった。早く稼いで、あの家を出たいから。家族は私の事なんて邪魔だから。邪魔者は早く消えた方がいい。




そして季節はまわって四月。柊が高校二年生、私が三年生の年になった。

私の身体は見るのも辛い程痩せこけて、気持ち悪かった。バイト先の人も、変な目で見てくる。家でろくに食べ物をもらえていないんじゃないかって、変に噂され、同情された。勝手にわかった気になって同情して、可哀想って言って欲しくない。だからって家に居場所がないこの辛さは、あなた達にはわからないだろうけれど。

この身体になってからは柊と一度も会っていない。何度も会おうと言われたが、何とか嘘をついて断った。いささか柊もおかしいと思っているだろう。それでも一番重要なのは家を出る事だ。申し訳ないが、柊と会っている時間などないのだ。

そんな思いを抱えたある日。その日はいつも以上に体調が悪かった。それでもシフトは入っているから行かなければいけない。

なんとか用意し、家を出た。そしたら次は急に瞳から涙が出てきた。理由なんてない。本当に急にという表現が正しい。

それに伴って歩いていた足が止まった。なんで?早く行かないと。今日は予約が沢山入ってて、一秒でも早く行かないといけないのに。

それでも身体...いや、心は言う事を聞いてくれない。仕方ない。遅れてもいいから少し休んでから行こう。

バイト先に電話をし、すごく謝ってから私はいつもの公園に来ていた。そこのベンチに座ると、柊と会った時の事、初めてキスをした日の事を思い出し、もっと辛くなった。

私は今、幸せ?

急にそんな言葉が頭に響いた。

幸せかと問われれば、首を縦に振る事は出来ない。だって今の私は誰がどう見ても幸せそうには見えないし、私自身も幸せだとは思えない。

毎日が辛い。もう働きたくない。どうして私は程々にするって事が出来ないのだろう。やるかやらないかのどちらかしか自分の中で選択肢がないのだろう。

「うっ...」

考え始めると今度は気持ち悪くなった。食べ物を食べていないから吐く物なんてないのに。

公園にトイレなどはない。だから我慢するしかない。いくら誰もいない公園だからって、その辺に吐く事は出来ない。人間としてそんな事したくない。

泣きじゃくりながら、吐き気を我慢しながら。傍から見たら私はおかしい人だ。ここが誰もいない公園で良かった。

「あの、大丈夫ですか?」

だからそう声をかけられた時はびっくりした。でもその声には聞き覚えがあった。

「柊...?なんでここに...?」

「え...愛?どうしたの、そんなに泣いて。それにその身体も...」

柊は声をかけたのが私だと気づくと本当に心配そうに見てきた。やめて、そんな目で見ないで。私を可哀想って思わないで...。

「なんでもないよ。気にしないで。」

引きつったような笑顔を作り、ベンチから立ち上がった。早くこの場から立ち去るためだ。

柊に今の私を見られた。見られたくなかったのに。こんな痩せこけた身体、大好きな人に見られたい訳ない。

「待てよ。どこ行くんだよ。」

柊の横を通り抜けようとしたら、片手で止められてしまった。その少しの衝撃でふらついてしまった私を、柊は再びベンチに座らせた。

「ねえ、もしかしてバイト行くとか言わないよね?」

「そのもしかしてなんだよね。シフト入ってるしさ、行かない訳には...」

「今の愛、人の接客してる場合じゃないと思う。凄いしんどそうな顔してるよ。病院行こう。」

柊はそう言うとわたしの意見も聞かず、私の手を引いて歩き始めようとした。

「...いや!」

けれど私は今出る精一杯の力でその手を振り払った。このまま病院に行ってしまえば、即入院だろう。それだけは絶対に嫌だった。今まで積み上げてきたものが、台無しになってしまう。お金も、地位も。

「絶対病院なんて行かない!私は大丈夫だから!まだ働ける...」

「愛、俺、言ったよね?自分の心の声聞いてあげてって。今愛の心は働きたくない、休みたいって言ってるよ。」

そんな事は私が一番よくわかってる。なのになんでそんな事言うの。私は早くあの家から出たいの。それを家族も望んでるから。今ここで立ち止まってる時間はないの。

「そんなの私が一番よくわかってるよ。でも、働いて稼がないと。早くあの家を出たいの。なんでわかってくれないのよ...」

「家を出たい気持ち、俺もわかるよ。でも無理して働いて、倒れたらもっと出るのが遅くなるよ。その方が辛いよ。生き地獄。」

柊の言っている事は正しい。だけどこの時の私の脳みそは正常な判断が出来なかった。

「とにかく、私はまだ大丈夫だから。早くバイト行かないと。」

バイト先では私が一人遅くなった事で、店のまわりが遅くなっているだろう。迷惑かけてしまった分、働いて恩返ししないと。

「あれ...?」

「愛!」

ベンチから立とうとしたが、身体全体に力が入らなくなってその場に崩れ落ちた。そして段々と、息がしずらくなった。

「はぁ...はぁ...」

「愛、吸うことばっかりはダメだ。吸うなら吐かないと。」

柊の声が聞こえるが、なんて言っているかわからない。

息が吸えなくて座っている事もままならなくて地面に倒れた。

あぁ私、死ぬのかな。でも一人で死ぬより、柊がいる場所で死ねるなら嫌な気がしない。

「あ、救急車お願いします。女子高生が倒れて意識朦朧としてます。早く来てください!」

柊が何か必死に言ってる。その姿を最後に、私は意識を失った。





俺は物心ついた時から母親に嫌われていた。しかも俺は父親が誰かわからなかった。だから人に愛される喜びも愛する気持ちもわからなかった。愛と出会うまでは。

俺の母親は言い方は悪いが男好きだ。仕事場でいい男の人を見つけたら絶対に逃さない。その男の人と仲良くなるとすぐ身体の関係をもった。それで出来たのが俺だった。

母親は子供は要らなかった。子供がいたら、好きに男遊び出来なくなってしまうから。でも俺が出来てしまった。

お腹に俺がいるってわかったのが、もう中絶する期間が過ぎた頃だった。

母親は絶望した。それもそうだ。誰の子かもわからない子供を一人で育てていかなければいけないのだから。

「もしかして、お腹に子供いますか?」

母親はその時身体の関係をもっていた人がいた。お腹に子供がいる事なんて言えるはずもなく、ホテルにいた。その時にその人にそう言われ、母親はかなり驚いたみたいだ。お腹もそんな大きくなっていないから傍から見て妊娠しているとはわからない。

「なんでそう思うの?」

「僕の職業知ってますよね?産婦人科医ですよ?すぐわかりますよ。」

そう。その人...後に妹の父親となるその人は、産婦人科医だったのだ。だからそんなにお腹が大きくなくてもわかったのだ。

「バレちゃったのなら仕方ないね。そうよ、私のお腹には子供がいるの。だからもうこの関係は...」

「嫌です。あなたと会えなくなるなんて生きていけません。その子は俺と一緒に育てましょう。」

母親がこの人と関係を切ろうとすると、その人は必死に止めてきた。あろう事か、誰の子かもわからない子を育てるとまで言い始めた。

「私は色んな人と関係をもってるのよ。あなたとの子供とは限らないのよ?それに私は子供なんて要らない。」

「じゃあその子、どうするんですか?もう中絶出来る期間は過ぎてますよね?」

「仕方ないから生むわ。でもこの子は施設にいれる。私は子供を育てていけない。」

「でもそのお腹にいる子供はあなたを選んで来てくれたんですよ?子供が本当に欲しくても出来ない人もいるんです。だから要らないなんて言わないでください。」

産婦人科医の言葉は母親に重く響いた。確かに、子供が欲しくても出来にくい体質だったり、そもそも男の人の方に作る気がなかったりする。それなのに適当に男と関係をもった母親に子供が出来た。世の中って不公平だと思う。

「...本当に、一緒に育ててくれる?」

「はい。育てます。」

「ならこの子は施設に入れない。でももしあなたが私と離れる事になったら施設に入れるわ。それでもいい?」

「離れるつもりないので大丈夫です。」

こうして、母親は俺を生んで、育てる道を選んだのだった。

俺を生んで、育てると決めてからは母親は男遊びをしなくなった。

しなくなったと言うより、出来なくなったのだ。つわりが酷くなったから。それに、産婦人科医の人と籍を入れ、俺が生まれるまでの数ヶ月育休も取ってくれ、ずっと家にいるから自由に外に出れなくなってしまったのだ。

そして母親は俺を生んだ。俺と初めて対面した時の母親の表情は、愛おしそうだった。

両親は俺の事を柊と名付けた。十二月のクリスマスに近い日に生まれたから。

俺が生まれてからしばらくして、母親は俺を保育園に預けた。そして母親は時間は短いが、仕事に復帰した。そしてまた、男遊びを始めた。

なぜ男遊びを再開したのを知っているのか。簡単だ。その場所に俺も連れて行かれたからだ。まだ俺が小さいから連れて行ってもチクられる心配がないからだろう。それに赤子を置いて男遊びをしているのが夫にバレたら、何言われるかわからない。産婦人科医だから、子供の事を放ったらかしにする事を許すはずない。そうでなくても許すはずないのだけれど。

多分、母親は知らない誰かと関係をもって自分が必要とされてると思わないと生きていけないのだ。そうでなければ、出産して早々知らない人と関係をもつなんて考えられない。

母親の男遊びは産婦人科医の夫にバレなかった。夫も、忙しくて家にいる時の方が少ないからだろう。

どうしてこんなに俺が母親の過去に詳しいのか。
それは俺には母親のお腹の中の時からの記憶があるからだ。だから俺が母親のお腹にいた時にしてた会話も全部覚えている。

俺は滅多に病気にかかる事もなく、すくすくと育ち小学生になった。それでもまだ母親は男遊びをやめていなかった。夜、いつも家にいないのにどうして夫にバレないのだろう。夜も仕事があるとでも言っているのだろうか。

俺の事、二人で育てるって言ったのに。結局育てられてないでは無いか。俺の事放ったらかしにするのだったら、生んですぐ施設に入れちゃえば良かったのに。

生まれる前の記憶がある俺は、幼いながらにずっとそう思っていた。そうしたら、こんな辛い思いしないで済んだかもしれないのにと。

そして俺が小学四年生から五年生に上がる頃。夫に母親の男遊びがバレた。こんなにわかりやすく遊んでいて、やっと気づいたのかと呆れた。

「いつから男遊びをしてたんだ。」

大人の話をするから今日はもう寝なさいと産婦人科医に言われ、その場は頷いたがやっぱり気になって両親の部屋の引き戸を少し開けてこっそり聞く事にした。ここまで知ってて、今更大人の話などない。

「職場を復帰したあたりから...」

母親はバツが悪そうな声色で答えた。まさかここまで来てバレるとは思っていなかったのだろう。

「はぁ...。確かに、職場復帰を許可した。でも男遊びをしていいとは許可していない。」

「その通りです。」

「職場復帰したあたりって事は、柊が小さい頃もしてたって事だよな?その間柊はどうしてたんだ。」

「一緒に連れて行ってた。柊はまだ小さかったから置いて行けないし、あなたにチクることもできないと思って。」

「はぁ...」

産婦人科医はまた大きく溜息をつくと、母親を押し倒した。

「何するのよ。」

「僕の何が不満なんだ。給料も良くて、誰の子かもわからない柊を育てて。こんなにいい人他にいるのか?いないだろ。」

「それは...」

「なのにお前はまた男遊びをした。俺と言う旦那がいながら。そんなに欲求不満なのか。だったら俺が嫌って程してやるよ。毎日だ。後もう家から出さない。仕事も辞めてもらう。」

そう言うと産婦人科医は母親に強引にキスをした。そしてそのまま服を脱がすと、乱暴に行為を始めた。母親は泣いて嫌がっているがそんなのお構い無しだ。

俺はそっと引き戸を閉め、静かに自分の部屋に戻った。俺も年頃の男子だから、両親のそういう所は見たくない。

それから母親は外に出なくなった。いや、出さしてもらえないと言った方が正しい。

でも俺はそれが可哀想とは思わなかった。それも全部母親が男遊びなんてしたからだ。それさえしなければ、今も普通に働けてたのに。まあ、母親は働きに行っているのではなく、男を探しに行っているのだが。

「...もう嫌!」

そんな生活が半年以上続いたある日。リビングでくつろいでいると、母親が産婦人科医と俺のいる前で食器を割った。

「何が嫌なんだ。」

少し驚く俺をよそに、産婦人科医は冷静に聞いた。何が嫌かわかっているようだ。俺も何となくわかった。

「ずっと外に出れなくて家の中で。もう無理。おかしくなりそう。」

「はぁ...。柊、部屋に行っててくれるか?ちょっと大事な話をするから。ごめんな。」

産婦人科医は俺をリビングから追い出した。俺は部屋に行くふりをして、リビングの外から話を聞いた。

「あのさ、外に出れなくなったのは誰のせいなの?また外に出たら男遊びするよね?」

「もうしない。絶対約束するから外に出させて。」

「ダメだ。お前の言葉はもう信用ならない。だってお前、外出てるだろ。」

「出てないわ。」

「嘘だ。僕、知ってるから。お前が外に出て今度は俺の同僚と関係を持っている事。」

「なんでそれを...」

その言葉に驚いたのは俺もだった。産婦人科医に外に出るなと言われてから、出てないと思っていたから。まさか外に出て、産婦人科医の同僚と関係をもっていたとは。

「この前同僚が土下座してきたんだよ。僕の妻と関係をもってしまったって。で、話を聞いたらお前から誘ったみたいじゃないか。ここまででなにか反論はあるか?」

「あ...えっと...ないです...」

「認めるんだな。はあ、どうしてお前はそうなんだよ。僕が毎日してるのに。どんだけ欲求不満なんだ。どうしたら僕だけを見てくれるんだ。」

これ以上聞いていたくなくて、部屋に入った。母親も大概だが、産婦人科医も少しイッちゃってると思う。こんな母親と一緒に居ないで、早く別れた方がお互い幸せだろう。どうしてそれをしないのだろう。

もしかして、俺がいるから別れられないとか...?あの産婦人科医は誰の子かもわからない俺を育てると言ってくれた。その言葉のせいで、別れたくても別れられないとか?だとしたら産婦人科医に申し訳ない。俺の事なんて放って、自分が幸せになる道を選んだ方がいいのに。てかそもそも、産婦人科医も家にいるのが少なくて俺の事育ててるとは言えないが。

それから母親と産婦人科医は喧嘩ばかりだった。最初は俺に喧嘩している所を見せないように配慮していたが、最近はそんなのお構い無しだ。まあ俺も隠れて喧嘩している所を見るよりかは、こうやって目の前でやってくれた方がいい。

「柊、家にいるな。」

喧嘩ばかりの毎日を過ごしていたある日。急に産婦人科医からそう言われた。

「柊にこれ以上喧嘩を見せたくない。だから本当にすまないが学校に入れるギリギリまでいてくれないか?」

「うん。わかった。」

自分勝手だと思ったが、頷いた。産婦人科医の言う事も一理あると思ったからだ。幼い頃に親の喧嘩を見てきた人は、大人になった時にそれがトラウマになる人もいるみたいだ。だから産婦人科医もそう言ったのだろう。誰の子かもわからない俺を、良く大事にしてくれるものだ。大人っていうのは、こういうものなのかもしれない。

産婦人科医の言いつけ通り、俺は学校にいれるギリギリまで学校にいた。幸い、友達はいたからサッカーをやったり、話をしたりして過ごした。

でも友達も毎日暇な訳ではない。塾や習い事をやっている人がほとんどで、俺は一人になる日も勿論あった。そういう日は教室にいて宿題をやったり、校舎から出てぼーっと空を見ることもあった。

家庭の状況は悪くなる一方だ。未だに母親は外に出してもらえないが、もうバレたからいいやと思ったのか無理矢理出て、男遊びをしている。ここまで来ると病気だと思う。どうして産婦人科医も母親を病院に連れて行かないのだろう。

俺、なんであの母親の元で生まれたんだろう。どうして母親を選んでしまったのだろう。そう後悔するようになった。違う母親の元で生まれていたら、こんなに辛い思いしなかったかもしれない。まあもう生まれてしまったのだから、そんな事考えても仕方ないのだが。

そんな思いを抱えたある日の放課後。友達がみんな用事があり、俺だけ学校に残っていた。空を見るのも飽きたし、宿題をやる気にもなれない。

どこに行こうかとうろうろ歩いていたら、図書室が目に付いた。図書室は入学して授業の時にしか入った事ない。本を読むのは得意ではないからだ。

でも行く所もなかった俺は図書室に入った。中には誰もおらず、貸切状態だ。

一番陽の当たる所に座ると、丁度いい暖かさで眠くなった。両親の喧嘩の声がうるさくて寝れてないのだ。

誰もいないから机につっぷすと、涙が出てきた。どうして今頃涙なんて出るのだ。両親がおかしい事なんて、生まれる前からわかってたじゃないか。なのになんで...。

そこで俺はやっと自分が今まで辛かったのだとわかった。いくら生まれる前からわかっていたとはいえ、小さい頃から母親のそういう所を見てきたのだ。素直に気持ち悪いと思うし、見たくない。産婦人科医もそれに気がつくのが遅い。母親が男遊びするのは籍をいれる前からわかっていたでは無いか。どうしてもっと注意深く見ていなかったんだ。子供の俺ですらわかるのに。

辛い。こんなに生きているのが辛いなら、死んでしまいたい。いっその事、この図書室から飛び降りてしまおうか。三階だから、打ち所が悪かったら死ねる。

本気でそう考えてしまうぐらいに俺は弱っていた。人は弱さに気づくと、こんなにも弱るんだ。

だが死ねる勇気など俺にはもちあわせていなかった。だから図書室で一人、泣く事しか出来ない。

「あれ...誰かいるの?」

一人の静かな空間に、女子の声が響いた。声のした方を見ると、スタイルの良い女子が立っていた。女子にしては背が高い。

「え...泣いてるの?どうしたの?」

女子は俺が泣いているとわかると、傍に来てそう尋ねてきた。だが俺は泣いている所を見られてしまった事ばかり気になって、女子の問いかけに答えられない。

「話したくないならいいよ。でももうここ、閉めないといけないんだよね。」

女子は申し訳なさそうに鍵を見せてきた。そこで初めて時計を見た。時刻は十六時半。学校は十七時までだが、こういう特別教室は三十分前に閉める決まりとなっている。

「あ...もうこんな時間なんだ。」

早く帰らなければ、この女子を困らせてしまう事になる。多分この女子は図書委員なのだろう。図書室の鍵を持っていいのは、教師か図書委員の六年生だけだから。おのずとこの女子も六年生なんだろうなと予想がついた。

帰らないといけないのに、身体が言うことを聞いてくれない。早くしないと、早くしないと...!

気持ちばかりが先走ってしまい、そんな自分が情けなくてまた涙が出てきた。今日は泣いてばかりだ。一人で泣く分にはいいのだが、誰かに見られているのは恥ずかしい。女子も、早くここを閉めて帰りたいだろうに。

「無理して帰らなくていいよ。それに学校十七時までなんだからここに居たっていいよ。居よ居よ。」

だが女子は急かす事をせず、あろう事かここに居ていいと言った。驚いて女子の方を見ると、俺に近づいて来た。そして俺の隣に座ると、優しい笑みを浮かべた。

「私、誰にも言わないから好きなだけ泣いちゃいな。ここでしか泣けない理由があるんだよね。」

その言葉に、涙がぼろぼろ零れた。俺は生まれてから今まで、人に優しくされた事がなかった。人に優しくされるのって、こんなに心が温かくなるものなんだ。

女子の言葉に甘えて、俺は時間が許すまで泣いた。女子は何も言わず、ただ俺の傍にいてくれた。それが嬉しくて、安心して泣けた。

キーンコーンカーンコーン。

十七時十分前を知らせるチャイムが鳴った。これ以上はここに居れない。それにいずれは帰らないといけない。

「あの...ありがとうございました。」

隣にいて本を読んでいた女子に声をかけると、女子は笑顔を向けた。

「全然いいよ。もう帰れそう?」

「はい。本当にありがとうございました。あの、お名前聞いても...」

「清川愛。あなたは...」

「あれ?なんでまだ帰ってないの?ここは十六時半まででしょ?」

女子...愛が俺に何か聞こうと口を開いたが、教師が来てしまった。しかも規律にめちゃくちゃ厳しい教師が。

どうしよう。素直に話して、怒られた方がいいのか。でもそうしたらもう学校で時間を潰す事が難しくなりそうだ。だが俺のせいで愛が怒られるのはおかしい。

「すみません...俺が」

「すみません、私がこの子を引き止めたんです。本に興味があるって言うので。」

「清川さんがそんな事するなんて。少しお話しましょう。時間を守らないのはだめですから。」

正直に話そうと口を開くと、愛が先にそう言った。驚いて愛の顔を見ると、一瞬目が合った。そして少し口角を上げると、そのまま愛は教師について行ってしまい、俺は一人残された。

愛は俺の代わりに怒られる事を選んだのだ。多分、俺からなにか感じ取ったのだろう。ありがたいと同時に、申し訳なくなった。初めて会った人のために、ここまでしてくれるなんて。俺が逆の立場だったら多分出来ない。

心苦しいが、愛が怒られてる間に帰ってしまおう。愛もそれを望んでいるだろうし。

帰ろうと席を立つと、机に置きっぱなしの本が目に付いた。先程まで愛が読んでいた本だ。

それがどうしても気になって。気づいたら俺はその本を手に取っていた。学校の本だったから貸し借りカードに本の題名を書き、図書室を出た。

本を読むのが得意ではない俺が、なぜこの本が気になったのかわからない。この本は他の本達となんら変わりはない。

まだ怒られているであろう愛に心の中で謝って、学校を出た。早く本を読みたくて走って帰り、いつもは開けるのも嫌な家のドアを開け、すぐに部屋にこもった。そして時間を忘れるぐらい本に夢中になった。

この本の内容は、一人の少女が家族を事故で亡くしてしまい、心を閉ざした少女を同い年の少年が救う話だ。

小説にありがちな内容なのに、俺はこの本が大好きになった。本を読むのが得意ではない俺が、本屋で同じのを買ったぐらいだ。

この本の話を愛にしたい。愛はどういう反応をしてくれるかな。またあの笑顔を向けてくれるかな。

気づけば愛の事ばかり考えていた。両親の喧嘩が気にならないぐらい、愛の事で頭がいっぱいだった。

だが愛とはあの日以来会えていない。学年が一つ上だからといって同じ学校に通っているのに、こんなにも会えないとは。全然知らない六年生とはよくすれ違うのに。会いたい人に会えないというのはまさにこういう事だ。

「私達、離婚する事にしたから。だからこの家から引っ越さないといけないの。学校も転校しなきゃいけないからお友達に言っときなさい。」

だから母親にこう言われた時は腹が立った。俺は散々お前達の喧嘩を聞かされてたのに、結局そっちの二人で勝手に決めるのかよ。大人って自分勝手だ。

「引っ越すのはいいけど、学校が変わるのは嫌だ。」

俺は生まれて初めて、母親に反抗した。そんな自分勝手に付き合ってられるか。俺にだって感情がある。それに友達や愛と会いずらくなるのは絶対嫌だ。

「この際だから言うけど、あなたの父親は今一緒に住んでる人じゃないの。あなたの父親は誰かわからない。そんな子を育ててあげるんだからわがまま言わないで黙ってついてきて。」

なんだこいつ。本当に大人なのか?だいいち、俺が出来たのはお前の男遊びが原因だろ。ちゃんと避妊しておけば俺は出来なかった。それを棚に上げてそんな事を言うな。

「俺の父親が今住んでる人じゃないって事は知ってるよ。でもそんなの俺が知ったこっちゃない。だって生む選択をしたのは母さんじゃん。それなのに育ててあげるとか言わないで。」

「...なんて事言うの、この子は...!」

俺が反抗したのが相当頭にきたのだろう。勢いよく頬を叩かれた。本当にこの人は子供を育てるべき人間ではない。

「俺が反抗したら殴るんだ。子供は親の操り人形じゃねーんだよ。そんなに言う事を全部聞く子供が欲しかったら父親がわかる人で作れ。」

「なんなの...!この子は!」

母親は俺を力の限り殴ってきた。でも俺は悪い事を言ったとは思っていない。むしろ今まで言いたかった事を言えてスッキリしている。

「あの人があんたを一緒に育てるって言うから私はあんたを施設に入れないで生んだのに!そうじゃなかったらあんたなんて育ててないのよ!」

そんなの知ってるよ。俺はお前のお腹の中にいる時からの記憶があるんだから。そんなの母親は知らないが、だとしたらわざわざ口に出してまで言う事じゃないだろ。そういうのは心に秘めておけ。

だけどこの人にそういう事は出来ないんだろう。多分この人は精神的におかしい人だ。だから男遊びをやめないし、子供にも平気で手を出せるのだ。

俺はこういう状況におかれても冷静だった。だってこの人に何を言っても響かないから。俺の事は大嫌いだから。それがわかると人は冷静になれるものだ。

「おい、何してるんだ!」

殴られすぎて意識が朦朧としてきたちょうどその時。産婦人科医が帰ってきた。いつもより帰って来るのが早い気がする。

「この子が言う事聞いてくれないから。痛めつけたらわかるかなって。」

母親は悪びれる様子もなく言った。やっぱり狂ってる。

「はぁ。柊、大丈夫か?少し僕と二人で話そう。」

「うん。」

この人と話す事なんてないが、一旦母親から離れられるならいいだろう。

「ちょっと、まだこっちの話が終わってないのよ。」

「話もなにも、お前が一方的に殴ってただけじゃないのか?そんな奴と柊を同じ空間にいさせるわけにはいかない。ほら、行くよ。」

母親のかなぎり声を無視し、産婦人科医は俺の手を強引に引っ張ってリビングを出た。そしてそのまま外に出ると車に乗り、走り出した。家の中は危険だと思ったのだろう。

「あいつから、僕と柊は血が繋がってないのは聞いたか?」

「うん。」

車を走らせてから五分。産婦人科医が口を開いた。思えばこうして話すのは初めてかもしれない。

「そうか。でも僕は柊の事を自分の子供だと思って接してるつもりだ。」

「そうなの?」

あんまり家にいないから、てっきり俺の事なんて仕方がないから育てていると思っていた。だからその言葉にはすごく驚いたと共に、嬉しかった。

「そんなに驚く事か?」

「俺、てっきり仕方がないから俺の事育ててるんだって思ってた。家にいる時間も少なかったし。」

正直に言うと、産婦人科医...父さんは笑った。父さんの笑った顔を俺は初めて見た。父さんって、こういう風に笑うんだ。

「そうだったのか、ごめんな。柊に苦労させず育てるには、やっぱりお金が必要だったから。残業も率先してやってたんだ。でもそれがあいつは不満だったんだろうな。だから職場復帰してすぐ男遊びを始めたんだ。僕が、不甲斐ないから...」

父さんのハンドルを掴む力が強くなった。相当悔しいのだろう。それもそうだ。俺を連れてまで男遊びをしていたのだから。よくよく考えれば、男も子持ちの人とよく遊んだものだ。もし夫にバレたらとか考えなかったのか。まあ考えられる人だったら元々男側も女で遊ぼうなんて思わないのだけれど。

「父さんが自分を責める必要はないよ。俺、父さんには凄く感謝してるよ。誰の子かもわからない俺をここまで育ててくれて。本当にありがとう。」

「柊...」

父さんは車を路肩で止めると、静かに泣いた。そして小さい声で何度もごめんとありがとうを言っていた。父さんが自分を責める必要はない。あんな人と十二年間結婚生活を送っていただけで凄い。もう幸せになって欲しい。

「ごめんな、もう大丈夫だ。もう少しドライブしてもいいか?」

父さんは涙を拭うと俺に笑顔を向けてきた。誰かに笑顔を向けられるのはこれで二人目だ。

「うん。」

頷くと父さんはハンドルを握り直して、車を再び走らせた。

「僕とあいつが離婚する事も聞いたか?」

「うん。俺、母さんと出て行くんでしょ?」

「本当は僕が柊を育てたかった。でもあいつが許さなかった。柊は私の物だからって。」

物って言い方に俺は少し苛立った。俺はあいつの所有物ではない。人間で、意思があるのに。結局あいつは俺の事なんてどうでもいいのだ。男遊びしたいなら、俺を父さんの元で育てさせた方がお互いいいのに。

「そっか。」

「でも離婚する前に、あいつを病院に連れて行こうと思うんだ。今日、少し反論しただけで柊は殴られただろ?そんな精神状態の人に子供を育てられる訳ない。」

もう離婚するのに、そこまでしてくれるなんて。次この人と結婚する人は幸せだろうな。

「いいと思う。でも素直に病院に行ってくれるかな。」

「無理矢理にでも連れて行く。それで、あいつが良くなるまでは僕と暮らしてほしい。その間は離婚もしないから。」

この人は本当に優しいと言うか、お人好しと言うか。もう別れる人の今後なんて、ぶっちゃけどうでもいいのに。

「どうしてそこまでしてくれるの?俺と父さんは他人なんだよ?」

「血の繋がりなんてなくたって僕は柊の事大事に思ってる。それと...」

「それと?」

「罪滅ぼしさせて欲しいんだ。柊には辛い思いを沢山させた。それに大人の都合にも、あいつの都合にも振り回してしまった。僕があいつの男遊びにもっと早く気づいていれば、違う未来があったかもしれない。結局は俺の自己満なんだ。ごめんな、こんな大人で。」

「父さんが謝る必要はないよ。悪いのは全部母さんだ。父さんは出来る最大の事をしてくれたと思う。本当にありがとう。」

「柊...本当に立派になって。僕涙が止まらないよ。」

父さんは涙を流しながら車を走せていた。視界がぼやけて事故しないか心配だったが、杞憂に終わった。

「明日、あいつを病院に連れて行こうと思う。今日はあいつを僕から離れさせないようにするから、柊は安心して過ごして。」

車を車庫に入れ、降りようとしたら父さんが言った。

「わかった。色々と本当にありがとう。」

「親は息子の為ならなんでも出来るんだよ。本来ならね。」

そう言う父さんは苦笑していた。もう苦笑するしかないだろう。

「いい方向に向かう事を信じてるよ。それじゃあ、おやすみ。」

「あぁ。おやすみ。」

車から降りると、夜風が気持ち良かった。段々と、冬が近づいてる。冬が過ぎて、春が来たら愛は卒業してしまう。俺はその時、どこにいるのだろう。せめて愛の卒業は見たい。


「嫌よ、絶対行かない。」

次の日。宣言通り、父さんは母親を病院に連れて行こうとしていた。だが母親は頑なに行こうとしない。私は正常だからって。正常な人はまず、そんな言葉を言わないのになと学校に行く支度をしながら思った。

「あ、柊、私はどこも変じゃないわよね?」

玄関で靴を履いていると、母親がリビングから出て来た。その顔は狂気に満ちていた。正気の沙汰じゃない。

「いや、昨日俺の事あんなに殴った人が変じゃない訳なくない?早く病院行きな。」

「...お前までそんな事言うのか!」

「おい、落ち着けって。柊、行っちゃって平気だから。」

俺が素直に言うと、母親はまた掴みかかってこようとした。すんでのところで父さんが止め、俺を学校に行くよう促した。そうでなくとも言いったけ言って学校に逃げるつもりだった。

「父さん、ありがとう。行ってきます。」

外に出ると、いつも見ている景色なのに凄く綺麗に見えた。心が少しスッキリしているからだろうか。人は溜め込んだらいけない事を知った。


「おかえり。あいつはしばらくの間入院する事になったよ。」

放課後。いつも通り学校にいれるギリギリまでいて、家に帰ると父さんが開口一番そう言った。

「良かった、あの後病院行けたんだ。」

「なんとかね。だからしばらくの間は僕と二人暮らしだから。頑張ろう。」

「父さんと二人の方が絶対良いよ。これから離婚してあの人と暮らすと思うとゾッとする。」

冗談半分で言ったつもりだが、父さんの顔は明らかに曇った。

「そうだよな。ごめんな、また柊に辛い思いをさせてしまう道を選んで。」

「父さんは何も悪くないよ。じゃあ逆に聞くけど、父さんはあの人といて幸せだった?」

「最初は男遊びの男で一番になれた事が嬉しかった。幸せだと思ってた。でも今は正直思えない。」

そうか。忘れていたがこの人も男遊びの内の一人だ。父さんはあの人の事をずっと好きだったのだろう。だから別れるに別れられなかった。どうしてあんな人を好きになったのかわからないが。

「今は幸せだと思えないんだったら、別れた方がいい。父さんが幸せになれる道を選びな。せっかく生きてるんだから。」

「柊は本当に立派に育ったな。僕の自慢の息子だ。」

そう言って父さんは俺を抱きしめた。肩が濡れていくのがわかる。父さんが泣いている証拠だ。俺は何も言わず、ただ父さんの背中をさすった。この人も被害者なのだ。全部、母親が悪い。


父さんと二人暮らしの日々は楽しかった。小さい頃は父さんが家に居なくて俺の事なんてどうでもいいのだと思っていたが、違った。父さんは表現が不器用なだけなのだ。ちゃんと、俺の事を大事に想ってくれてる。その証拠に二人暮らしになってから家にいる時間が多くなったし、休みの日は二人で出かけた。遊園地や、水族館、ショッピングモールなど。まるで小さい頃に出来なかった事を取り戻すみたいに。俺達は沢山遊んで、沢山話した。この時が今まで生きてきて一番楽しいと思えた。これからこれ以上に楽しい事に出会えるのだが、この時の俺はまだ知らない。

そして愛が卒業する三月になった。俺はまだ父さんと二人暮らしをしていた。だが春休みに母親が退院する事になったから、父さんと暮らすのもあと少しだ。それがとても寂しかった。ちなみに母親が入院してから俺は一回も会っていない。だからどんな風になったのかもわからない。父さんは教えてくれないから。

「寂しいなぁ...」

「何が寂しいんだ?」

つい想いが口に出てしまった。父さんは不思議そうに俺を見ている。今俺達は、向かい合って夕飯を食べていた。

「ほら、もうすぐ父さんとの二人暮らし終わるじゃん?それが寂しいなって。父さんとの二人暮らしは凄く楽しかったから。」

「そうか、楽しいと思ってくれてたのか。」

父さんはそう言うと箸を置いて泣いた。父さんはよく泣いている。感情が豊かなんだろうな。

「今まで生きてきた中で一番楽しい日々だったよ。本当にありがとう。それでお願いがあるんだけど...」

「なんだ?叶えられる願いならなんでも叶える。」

「ありがとう。二つあって、一つ目が離婚してもここの家に遊びに来てもいいかな。」

「いいに決まってるじゃないか。しばらく結婚しないだろうし、しても柊が息子だと言う事実は変わらないから。いつでもおいで。」

なんて優しい人なんだろう。俺も将来、こんな人になりたい。いつしか父さんは俺の目標の人になっていた。

「ありがとう。二つ目なんだけど、俺、ここから引っ越しても今の学校のままがいいんだ。友達と離れたくない。」

前に母親にこう言った時は殴られたっけ。だから母親にもう一度言うより、父さんに言ったのだ。他の事は我慢してもいい。だけどこれだけは譲れなかった。

「柊が通うのに辛くなければいいよ。大人の都合でせっかくの友達と離れるのは腹立つもんな。わかるよ。」

話を聞くとどうやら父さんも昔、親の都合で引っ越しをし、友達と離れてしまったらしい。その友達とは凄く仲良くしていたけれど、引っ越してしばらくすれば連絡が取れなくなったらしい。

「その時僕、凄く悲しかった。あぁ、僕はもう友達にとっていらない人間なんだなって。だから柊にはこんな思いして欲しくない。」

「そんな事があったんだ...」

もし俺がその友達の立場でも、いらないと思わない。でも世間は違うのだろう。滅多に会えない人間の事は忘れて、すぐそばにいて趣味が合う人間と仲良くするのだろう。人間って怖い。

「柊には楽しいと思ってこれからの人生を過ごしてほしい。だから学区外登校も僕が何とかする。」

「沢山わがまま言ってごめん。無理なら全然大丈夫だから。」

父さんはくしゃりと笑うと俺の頭を撫でた。少し雑な撫で方だったが、父さんもどう撫でていいのかわからないのだろう。でもこれが俺達家族の形だ。

「子供はわがままを言うものなんだ。だから沢山言ってくれ。」

「ありがとう。」



父さんと二人で過ごす日々を指折りしながら数えていると、愛の卒業式がやってきた。あれから愛とは一回も話せていない。だからせめて、今日は話したい。そしてお礼を言いたい。あの時、俺を助けてくれてありがとうって。まず愛が覚えているかわからないが。

「次は卒業証書授与。」

卒業式が始まり、校長や会長の言葉の長い話を寒い体育館で聞き、やっと卒業証書を貰うまでに辿り着いた。そういえば俺、愛が何組の人か知らない。でもまあ名字が清川だから、どっちのクラスでも早くに呼ばれる。この学校は二組までしかないから。

「一組。秋川...」

あいうえお順で呼ばれていき、耳を済ませていたが一組には愛の名字は出てこなかった。だとしたら消去法で二組だろう。愛が体調不良とかで休んでいなければの話だけれど。

「清川愛。」

耳を済ませていると愛の名前が呼ばれた。良かった、出ていたみたいだ。

「はい。」

愛は凛とした声で返事をすると誰よりも綺麗に卒業証書を受け取った。俺も来年はあの場所に立つのだろうと思うと今から緊張し、手には汗をかき気持ち悪い。

その後の事は正直よく覚えていない。俺は愛さえ見れれば他はどうでもいいのだ。早く終わって、愛と話をしたい。

卒業式が終わり、卒業生が先に体育館を出た。俺はずっと愛を目で追っていた。だが当然愛は俺に気がつかなかった。それもそうか。愛からしたら俺はあの日泣いていたただの男の子としか認識していないだろうから。名前も学年も教えられなかった。だから愛が俺に気づく訳無いのだ。それはそれで悲しいが、仕方ない。とりあえず話すチャンスさえあればいいのだ。

次に在校生も体育館を出て、それぞれのクラスに戻った。その後は好きに帰っていい。だから俺はランドセルを乱暴に掴むと友達に家の用事があると嘘をついて、教室を出た。

げた箱につくと卒業生や在校生で溢れていた。俺はその中で必死に愛を探した。学区外登校が認められれば、俺と愛はまた中学で会える。だが卒業する前に愛に会ってあの日のお礼をしたいのだ。

思えば一人の人にこんなに必死になるのは初めてだ。友達はそこそこいるが、いつも適当に話を合わせて、笑っているだけだ。中身なんて何もない。

だけど愛の事だけは。愛の事だけは適当になんてしたくない。自分の事を犠牲にしても、愛の事は大事にしたい。

俺はあの日からずっと愛の事が好きなのだ。今まではこの感情に答えをつけられなかった。人を大事にする気持ちがわからなかったから。でも父さんと二人暮らしをして、人を大事にする気持ちがわかった。

人を大事にする事はすなわち、自分を大事にする事なのだ。自分を大事に出来ない人が、他人を大事にする事なんて出来ないから。

「はぁ...いない。帰っちゃったのかな。」

他の卒業生とはすれ違うのに、一番会いたい人には会えない。人も段々少なくなってきてるから、探しやすいはずなのに。こうなると帰ってしまったとしか考えられない。

結局俺は愛と会う事ができずに家に帰る事となった。お礼も言えなかった。中学で会ったら、今度こそお礼を言うんだ。



それから三年が経った。俺は中学二年生になっていた。俺は母親と、父さんとの子供の妹、菜乃花と一緒に住んでいた。

愛の卒業式が終わった数日後。母親が退院して来た。そこには入院する前の母親はいなかった。ニコニコと優しそうな笑みを浮かべた母親が立っていたのだ。一体、病院で何をして来たのだろう。

そして父さんと母親は離婚をし、俺は母親に連れられて家を出た。学区外登校も認められたから、友達はもちろん、愛とも中学校生活を送れる。

最初は母親と二人で暮らすのが怖かった。また何か反論したら、殴られるんじゃないかって。でも母親はそんな事しなかった。俺の意見はちゃんと聞いてくれて、尊重出来る所はしてくれた。そんな母親に俺は徐々に慣れていった。

「柊、私お腹に赤ちゃんがいるの。柊、お兄ちゃんになるんだよ。」

だがそんな平和な日々も母親のこの一言によってなくなる。そう、母親は父さんとの子供を身ごもっていたのだ。だから俺に優しかったのだ。俺が生まれる前も、母親は優しかったから。お腹にいる子供が生まれたら、また前の性格に戻る。

「そう、おめでとう。」

適当にお祝いの言葉を言い、それからの日々は覚えていない。これから来る恐怖が頭から離れなかったからだ。また前みたいな母親に戻る。俺の意見は聞かず、気に入らない意見だと殴る、そんな母親に。

「おめでとうございます。元気な女の子ですよ〜」

予定日から数日過ぎて、母親から子供が生まれた。俺と父さんは出産の瞬間に立ち会っていた。父さんは菜乃花が生まれた事を凄く喜んでいた。いくら元妻とはいえ、父さんからしたら実の子供だ。嬉しくないはずがない。母親は俺を生んだ時同様、愛おしそうに菜乃花を見ていた。その中で俺はただ一人、孤独を感じていた。どうせ俺は父親もわからない、人からの愛情もわからないダメ人間だ。菜乃花を見ながらそうひねくれた考えをしていた。

そして俺の予想は的中した。菜乃花が家に来てから、母親は昔の狂った母親に戻った。でも前よりかはましだ。暴力はしないし、とりあえず意見は聞いてくれる。では何が狂ってるのか。

菜乃花の世話を全部俺に押し付けて、自分は仕事に行ってしまう事だ。それ自体は悪くないと思う。親一人で俺達を育てなければいけないから、お金が必要だ。でも俺が朝やらなければいけない事を残してあると、すごく怒鳴り、家の事をやらないなら出て行けと言われる。確かに、残してある俺が悪いと思うが、そこまで怒鳴る事なのか。俺だって学区外登校で、朝は早く家を出ないといけないのだ。一回それを言った事があった。そしたらその道を選んだのはお前だろってまた怒鳴られた。確かにそうだけど、やる事を残しても帰ってきたらやるから何も言ってほしくない。てか言うならやってくれたっていいではないか。でもまあ仕事だと嘘ついて男遊びしなくなっただけいいとしよう。

俺は学校での生活、家での生活でとても疲れていた。心や身体が休まる場所がない。正直、死にたいと思った。本当は部活とかもやってみたかった。でも菜乃花がいるし、何より母親が許してくれないだろう。俺はまだ子供だから。なんにでも親の許可がないと出来ない。それが歯がゆい。高校生になったらすぐバイトしてお金を貯めて、家を出てやる。

愛とは中学でも関わり合える時間がなかった。運動会や合唱祭の時には見かけたが、話しかけられる雰囲気ではない。逆に話しかけたら他の人にからかわれそうだし、小学生の時に助けた人の事なんて覚えていないかもしれない。俺にとったら貴重な時間だったが、愛からしたらそうでもないかもしれない。そう思うと話しかけられなかった。

そして俺が中二、愛が中三の年。もう愛とは関わる事などないと思っていた。愛が高校生になったら、会える機会なんてない。俺は諦める事を選んだ。諦めたら、死にたいとも思わなくなった。人は諦めがつくと、死にたいとも思わなくなる。

だがそんなある日。俺はいつも通り学校を出て、駅までの道を歩いていた。駅に行くには川沿いを歩かなければいけない。いつも落ちたら怖いなと思いながら歩いている。

そんな時。いつもは誰もいない川沿いに、誰か歩いていた。背格好からして、女性だ。ふらふらしていて危ない。

こういうのは関わらない方がいい。関わったら刺されるかもしれない。追い抜かそうと、歩くスピードを早くし、女性の横に並んだ時。女性の顔が見えた。その顔には、見覚えがあった。

「ま.な...?」

俺が隣で小さく呟いても愛は気づかない。なんなら俺が隣にいるのも気づいていない。愛は元々白い肌がもっと白くなっていて、今にも死にそうだった。そういえば合唱祭の練習が始まったのに、愛を見かけないと思っていた。

俺は動けなくなった。愛はもしかしたら、死に場所を探しているのかもしれない。この前までの俺と、同じ顔をしているから。死にたいと思っていた、俺と。

「死ぬなら、俺の話を聞いてからにしてくれませんか?」

気づいたら俺は愛にそう声をかけていた。愛は俺の方を向いた。その顔はあの時、俺の事を助けてくれた優しい顔ではなかった。本当に生きているのがしんどそうで、見ている俺まで悲しくなってくる。だからと言って酷い声のかけ方だ。死ぬのを決めつけてるみたいで。でもこのまま放っておいて、ニュースとかで愛が死んだと見る方がもっと辛い。そして絶対、あの時声をかけていればと後悔する。

「どうして、私が死ぬって思うの?」

もしかしたら無視されるかもしれないと思っていたから、愛からそう言われた時は無視されなくて良かったと思うと同時に、ああやはり死にたいと思っていたのだとわかって悲しかった。

「俺と同じ顔してるからです。」

愛はそう答えた俺の顔を不思議そうに見ている。確かに、今の俺の顔はどう見ても死にたいと思っている人ではない。むしろ生きたいと思っている人の顔だ。

「あなたも、生きているのが辛いって思ってるの...?」

よし、食いついてくれた。このまま話せば、愛の死にたいという気持ちをなくしてあげられるかもしれない。

「思いますよ。生きるのって、ほんと面倒臭いし。人間関係なんて吐き気がする程。」

ここでゆっくり話す事は出来ないからここから少し行った先にぽつんとある公園に愛を連れて行った。ベンチを一つ空けてそれぞれ座り、俺は話を始めた。

「俺、父親がいないんです。」

急に重い話だと思ったが、俺が話を聞いてくれと言ったのだ。ある程度重いのは仕方ない。

「へぇ。そうなの。」

愛の返事は冷たく感じた。あの日俺の事を助けてくれた人とは別人みたいだ。まああれから数年経っているのだから、愛だって変わるだろう。

「だから母親は俺と妹を育てないといけなくて。あ、妹がいるんですけど、その妹とも父親が違うんです。」

改めて言葉にしてみると、複雑な家庭だな。愛もそう思っているのか何も言ってこない。それでも俺は話を続けた。

「だから家の事は俺がやらなくちゃいけなくて。少しでもやっていない事があると怒鳴られて、もう帰ってくるなって言われるんです。」

やばい。自分で言っていて辛い。泣きそうになる。よく俺はこの生活に耐えていると自分で自分を心の中で褒めた。愛もとても辛そうな顔をしている。

「母親も俺と妹を育てないといけないから大変なのはわかります。だけど自分の子供にそんな事言っていいのかとは思いますよね。」

話終えると、少しスッキリした。誰にも言ったことなかった俺の人生。話してどうにかなる訳ではないが、こんなにスッキリするものなんだ。言葉にするって凄い。

「あなたは凄いね...私なんて...」

それまで黙って聞いていた愛が涙を流しながらそう呟いた。泣かれるとは思っていなかったから驚いた。俺の話で悲しくなったのか、はたまた違う事を思い出したのか。いずれにしても泣かせてしまったのは間違いない。

「あ...泣かないでください。俺は凄くもなんでもないですし。」

泣いている人の相手をした事なんてないから、気の利いた言葉一つ言えない。泣かないでくださいと言われても、涙を止める事なんて出来ないのに。

「凄いよ。私なんて書いてた小説をクラス中に音読されただけで学校に行けなくなったんだから。」

愛は小説を書いていたのか。多分愛の事だから、とても綺麗な文章を書いていたのだろう。それを音読されるのは心にくるものがある。

「書いてた小説を音読されたぐらいじゃないですよ。それはすっごく重大な事です。学校にも行けなくなります。」

俺がそう言うと、愛はもっと涙を流した。大きな瞳から流れる涙は不覚にも綺麗だと思った。俺は愛が泣き止むまで、ずっと背中をさすっていた。あの日と逆の立場だ。なるほど、愛もあの時こんな気持ちだったのか。

「ごめん...」

しばらくして愛はやっと泣き止んだ。背中をさする手を止めた。

「大丈夫です。泣く事は悪い事じゃないので。」

「ありがとう。」

泣き腫らした目を向けてお礼を言う愛はやっと、あの時の愛に見えた。良かった、ちゃんと愛だ。

「俺こそありがとうございます。話聞いてもらって少し楽になりました。」

「私なにもしてない。」

「話聞いてくれたじゃないですか。俺、クラスの友達にはこういう話出来る人いないから。」

「そういうものなんだね。」

そう言う愛は少し冷たかった。もしかして愛、友達いないのかな。失礼だと思いながらそんな事を思った。もし友達がいたら、その友達が学校においでって言ってくれるはずだし、小説を音読される前に止めてくれるはずだ。愛は一体、どうやって生きてきたのだろう。

「あの...良かったらまた話を聞いてくれませんか?」

「え?」

愛が今までどうやって生きてきたのか。それが知りたくなった俺は愛の両手を握りながら、そんな事を口にしていた。愛は驚いている。愛の態度からして、俺と会ったのは初めてだと思っていそうだ。やはり俺の事など覚えていなかったか。それが少し寂しかったが、愛と関われるまたとないチャンス。逃す訳にはいかない。

「私でよければ...」

俺の気迫に折れたのか、愛はおずおずと頷いた。それが嬉しくて、すぐさまスマホを出した。

「ありがとう!じゃあ連絡先聞いてもいい?」

「いいよ。やり方わからないから、やってくれる?」

俺は笑顔で頷いて愛のスマホを受け取った。愛のスマホの連絡先は家族しかいない。やはり友達はいないのか。でも俺が家族以外の初めての連絡先交換で、悪い気はしなかった。

「はい、出来たよ。」

「ありがとう。名前、なんて読むの?」

「神林柊だよ。気軽に柊って呼んで。名字なんて、コロコロ変わるから。」

本当は俺の名字は父さんのままだ。だけどいつ母親の名字になるかわからない。それに愛には名前で呼んで欲しいというのもあった。

「わかった、柊。」

今まで呼ばれた人の中で、愛に名前を呼ばれたのが一番嬉しかった。まさか愛から俺の名前を呼んでくれる日が来るとは。今死んでも後悔はない。

「えーっと、清川さんは下の名前なんて言うの?」

本当は知っているが聞いた。愛はあの日の事を覚えていない。それなのに名前を知っていたら、怖がられる。やっと関われるチャンス。そんな事で台無しにしたくない。

「愛。」

「愛か。可愛い名前だな。」

「可愛いだなんてそんな...」

愛は少し頬を赤くしながら首を振っている。そういう姿が可愛い。

「可愛いよ。愛自身も。」

「ごめん、最後の方聞き取れなかった。」

「いや、大丈夫。聞こえてなくて良かった。」

つい口に出してしまった。だが愛には聞こえてなかったみたいだから良いだろう。

「じゃあ、これからよろしくな、愛!」

恥ずかしさを隠すように。俺はベンチから立ち上がって愛の正面に立った。そして手を出し、握手を求めた。愛は日差しが眩しいのか目を細めている。

愛は俺の手を取ると、柔らかく笑った。そう、この笑顔がずっと頭から離れなかったのだ。もう見れないと諦めていたから、見れて本当に嬉しい。



こうして俺と愛は再会を果たした。と言っても愛は小学生の時に俺と会っているのを覚えているかわからないけれど。

俺と愛は毎日連絡を取りあった。その日の天気や体調の話。お互いの家族の話もする事があった。最初はぎごちなかった愛の返事も、次第に慣れていって軽口を叩けるまでになった。

愛は俺に学校に行けなくなった詳しい話をしてくれた。

愛は小さい頃から小説家を目指していて、暇な時間は全部小説を書く事に使ってきた。だけどその小説をクラスの人に音読されてしまい、変なのと笑われた挙句、からかってきた男子にキスまでされたらしい。そのせいで愛は学校に行けなくなり、小説も書けなくなった。元々頭がそれほど良くなかった愛はすぐに学校の授業についていけなくなり、高校進学の道をやめた。それで弟にも馬鹿にされ、生きている意味がわからなくなり、死のうとしていた矢先に俺と出会った。

その話を聞いて俺は、どうして愛がこんな酷い目に合わないといけないのだと内心怒っていた。愛は純粋に夢を追いかけていただけだ。なのになんでこんな酷い目に合わないといけないのか。もっと酷い目に合って良い奴は他にいるはずなのに。どうして愛が。俺が同い年で助けてあげられたら良かったのに。

俺は後悔してばかりだ。あの母親から生まれてきた事も、愛を守れなかった事に対しても。俺は一生、後悔ばかりして生きていきそうだ。

でもある日。それだとダメだと思った。折角この世に生まれたのだ。生まれたという事は何か意味がある。その意味とは、愛をどん底から引き上げる事なのではないか。だから俺達はもう関わる事がないと思っていたのに関われたのだ。

それがわかると愛をどん底から引き上げる事に力を入れた。どんな些細な事でも毎日連絡をした。それで愛も返事をしてくれるから嬉しかった。言動もほんの少しだが前向きになった気がする。このまま、どん底から引き上げられるかもしれない。

そう思った矢先。愛がバイトを始め、既読はつくのだが毎日連絡する事に対しての返信が来なくなったのだ。まあバイトをして疲れているのだろう。それならそれでいい。愛が前を向けるのであれば、それで。

だから一旦連絡するのをやめた。慣れない事で疲れていると思ったから。そんな時に俺のどうでもいい事に返信している余裕なんて、ないと思ったから。

だが俺のその選択は間違いだった。それがわかったのは愛が泣いて電話してきたからだ。愛から電話がかかってくるなんて初めてだ。何事かと出てみれば、開口一番が謝罪だった。話を聞いてみると、俺が理由を言わずに連絡するのをやめてしまったから、嫌われたと思ったらしい。

「そんな事で電話してきたの?俺、全然気にしてないよ。」

俺がそう言うと愛は安心したのか電話口でもっと泣いた。傍にいないから涙を拭ってあげる事も出来ない。それがとても歯がゆかった。

「私、柊に嫌われたら生きていけない人間になっちゃった。嫌われても生きていけるように責任もって育てて。」

泣き止むと今度はそんな事を言われた。正直、ふざけんなと思った。何が嫌われたら生きていけないだ。俺が一番その言葉を言いたい。そして決意した。愛に告ろうと。こんなに俺に縋ってくるのだから、脈ナシな訳がない。

「...わかった。俺に嫌われても生きていけるように責任もって育ててあげるよ。」

そう言い、出かける予定を立てた。急に決めたから父親に菜乃花を見ててもらう事が出来ず、母親に見ててもらう事にした。母親は渋々了承した。家にいる時間の方が少ないのだから、たまにぐらい見て欲しい。

「やだ、兄ちゃん、行かないで。」

だが出かける当日。菜乃花が俺にくっついてそう言って離れなかった。母親は見ているだけで止めない。むしろそんなに菜乃花が引き留めるんだから行くのやめなさいと言われた。

ふざけんな。こっちは今日、大事な人に想いを伝えるんだよ。今日行かなければ愛はまた俺に嫌われたと勘違いするではないか。そうなったら責任取ってくれないだろ。

俺は何とか菜乃花を母親に押し付け、家を出た。その時点で待ち合わせ時間には到底間に合いそうもなかった。

母親に後でなんて言われようが関係ない。俺は菜乃花の母親ではないし、俺にだって自由に出かける権利がある。それに母親は俺が小さい頃に沢山男遊びしていたのだから、俺が出かける事に関して嫌な顔して欲しくない。

「もう来てくれないかと思った。」

待ち合わせの時間二十分過ぎて待ち合わせ場所に行くと、愛は本気か嘘かわからない事を言った。

「そんな事はないよ。ちょっと妹が離してくれなくて。」

俺が正直に言うと、愛は申し訳なさそうにし、菜乃花にお土産を買うとまで言った。本当に愛は人の事しか考えない。もっとわがままになっていいのに。

愛と行った先は水族館だ。俺が生まれる前に一回来たきりだ。まだ母親のお腹にいる時だったが、好きな人が出来たら来ようと決めていた。愛自身も水族館に来るのが久々だったらしく、楽しそうにしていた。ペンギンのコーナーに行くとカメラを構えたぐらいだ。ペンギンが好きなのか聞くと、そうでもないと言われた。ただ可愛いから撮っているのだと。俺にも撮りなと進めてきたが、その姿が可愛くて俺は愛をカメラに収めた。カメラに収めたら怒られたが、可愛いと正直な感想を言えば本気で驚かれた。失礼な、俺は愛の事ずっと可愛いと思ってるよ。それをきちんと言うと愛は恥ずかしがって俺にモテるだろと言ってきた。だから愛以外にこんな事言わないしモテないよと言い返したが愛は信じてなさそうだった。信じてくれなくてもいい。これから信じさせればいいから。

水族館を堪能した帰り道。愛が俺に伝えたい事があると言われた。なんとなく、俺と同じ事を言おうとしてるのがわかった。そしていつもの公園に着くと、愛は何度も深呼吸をしてから俺に想いを伝えようとした。だから俺は愛の言葉を遮って、俺から伝えた。愛は泣いて喜んだ。俺も嬉しかった。ずっと追うだけの存在だった人が、彼女になるなんて。小学生の時の俺に教えてあげたい。


お付き合いを始めた俺達だったが、俺の受験の時期には連絡や会う事を禁止した。俺自身、恋愛と勉強の両立ができないと思ったから。今度はきちんと愛に理由を伝え、愛も応援してくれた。これで落ちる訳にはいかない。今まで以上に勉強をした。

そして受験が終わり、愛に会いに行くとあまり体調が良くなさそうだった。愛本人は大丈夫と言ったが、全然大丈夫ではなさそう。でもそれ以上聞いて、言い争いになったら折角会えたのにお互い嫌な思いをする。だから愛の言葉を信じた。今思えばこの時にもっと問い詰めていれば、あんな事にならなくて済んだのかもしれない。

無事志望校に合格し、愛とも上手くいっている。この時が人生で一番楽しい時だ。

だがその楽しい時も長く続かなかった。愛と連絡は取り合うものの、会わなくなったからだ。俺が会おうと言っても、何かしら理由をつけて断られる。

俺、嫌われるような事したっけ。強いて言えば受験の時に連絡が取れなかったぐらいだけど、今更怒る人でもない。だとしたら、別の理由がある?そうなれば消去法で家族と何かあったとしか考えられない。

なんだが嫌な予感がした俺は、愛のバイト先に内緒で行く事にした。ちょうど学校で愛と同じバイト先で働いてる子がいて、シフトを教えてもらったから内緒で会いに行く事が出来た。その子にはお昼一回分奢る約束だ。

地元に着くと、ちょうどバイトが始まったであろう時間だった。飲食店だと聞いているからご飯を食べて待っていよう。そう思いバイト先に向かっていると、あの公園の前を通りかかった。いつもはスルーして歩くが、今日はなんとなく覗きながら歩いた。そうしたらベンチに座っている女性が見えた。なんだか辛そうだ。

「あの...大丈夫ですか?」

無視して歩く事なんて出来ず、声をかけていた。

「柊...?なんでここに...?」

「え...愛?どうしたの、そんなに泣いて。それにその身体も...」

俺が声をかけたのはこれから会いに行こうとしていた愛だった。愛は最後に会った時よりも酷く痩せていた。もしかしてこの姿を見せたくないから、会ってくれなかったのだろうか。

「なんでもないよ。気にしないで。」

「待てよ。どこ行くんだよ。」

愛は作り笑顔でそう言い、俺の横を通り過ぎようとしたから止めた。片手で止めただけなのに愛はふらついた。

「ねぇ、もしかしてバイト行くとか言わないよね?」

シフトに入っている時間より大幅に遅れているが、行くつもりだったのだろう。この見た目と少しの振動でふらつくのに行ける訳ないだろ。

「そのもしかしてなんだよね。シフト入ってるしさ、行かない訳には...」

「今の愛、人の接客してる場合じゃないと思う。凄いしんどそうな顔してるよ。病院行こう。」

俺は愛が何か言う前に手を引っ張った。ここまで来ると、もう病気だ。母親と違う感じだが、精神的な病気だと思う。これだと自力では治せない。

「...いや!」

愛は俺の手を振り払った。その表情は一昔前の母親にそっくりだった。

「絶対病院なんて行かない!私は大丈夫だから。まだ働ける...」

この期に及んで、何を言っている。誰がどう見ても働けるようには見えない。どうしてそこまでして働きたいのか。

「愛、俺、言ったよね?自分の心の声聞いてあげてって。今愛の心は働きたくない、休みたいって言ってるよ。」

最後に会った時に無理をしないと約束をして、愛はわかったと言ったのだ。それなのにこの有様だ。もう愛のわかったは信用出来ない。

「そんなの私が一番よくわかってるよ。でも、働いて稼がないと。早くあの家を出たいの。なんでわかってくれないのよ...」

やはり家族と何かあったのか。

「家を出たい気持ち、俺もわかるよ。でも無理して働いて、倒れたら出るのがもっと遅くなるよ。その方が辛いよ。生き地獄。」

愛も頭では俺が言っている事が正しいとわかっているのだろう。だけど疲れと精神的なもので正常な判断が出来ないのだ。

「とにかく、私はまだ大丈夫だから。バイト行かないと。」

それでも尚、愛はバイトに行こうとした。もう諦めた方がいいのか。その方が、愛の為なのかもしれない。

「あれ...?」

「愛!」

そう思った直後、愛がベンチから崩れ落ちた。呼吸が荒くなっていく。過呼吸だ。

「はぁ...はぁ...」

「愛、吸うことばかりはダメだ。吸うなら吐かないと。」

愛に俺の声が聞こえていない。どうしようか色々考えていると、愛は地面に倒れ込んだ。どんどん呼吸が荒くなって、意識が朦朧としていそうだ。

「あ、救急車お願いします。女子高生が倒れて、意識朦朧としてます。早く来てください!」

悩んでいる暇などない。俺は救急車を呼んだ。その愛は目を閉じてしまった。手首を触ると脈は感じられるが、遅い気がする。愛が消えてしまいそうで怖かった。

「やだ、愛、死なないでよ。」

愛を頭から抱きしめながら呟いた。そんな事言ってもどうしようもないのに。一番辛いのは、愛なのに。俺は自分の事ばかりだ。

しばらくして救急車が来て、愛と俺は救急車に乗り込んだ。救急車なんて初めて乗るから緊張する。それに今、目の前にある命が消えてしまうのではないかと思うと怖くて仕方なかった。

救急車から降りると俺は待合場所で待機になった。愛の事を色々聞かれたが、わからない事が多く、結局家族に連絡する事になった。起きた時に家族がいたら、愛はどう思うのだろうか。そもそも、家族は来るのだろうか。

愛の安否が気になっていると、治療室から医者が出てきた。続いてベットに横たわっている愛も出てきて、普通病棟の方に運ばれたからそんなに酷くない、命に別状がない事がわかって安心した。

「君が付き添ってくれた子?」

医者は俺に気がつくと優しく声をかけてきた。男性で歳は三十代後半だろう。

「あ、はい。」

「君がすぐ救急車を呼んでくれたんだってね。ありがとう。この子とは知り合い?」

「はい。か、彼女です。」

「そうかそうか。彼女がこんな状況だと心配だよね。でももう大丈夫だよ。命に別状があった訳じゃないから。ストレスが限界で倒れちゃったんだね。点滴入れてるからしばらくしたら目覚めるはずだよ。でもしばらく入院だね。」

「そうだったんですか...。ありがとうございます。」

俺は愛を助けてあげられなかった。どうして愛は誰にも相談しないで一人で抱え込むのだろう。俺はそんなに頼りないのか。

「あ、そういえば。もう知ってるかもだけど...」

後悔ばかりが脳内を押し寄せていると、医者がなにかの診察券を見せてきた。

「これ、彼女さんの持ち物に入ってた。この診察券、メンクリのなんだよね。」

「メンクリ...?」

「あぁ、メンクリって言うのはメンタルクリニックの事ね。なにか抱えていたから通っていたんじゃないかな。もしかして通ってた事知らなかった?」

「はい、今初めて知りました。」

俺、そんな事一言も聞いていない。俺、信用されてないのかな。それとも言っても無駄だと思われてる?愛が起きていない今、真実はわからない。だけど俺の思考は悪い方にしか考えられなかった。

「そっか。なら起きた時に君がいた方がいいね。病室に行ってあげな。そしてきちんと理由を聞くんだよ。」

医者はそう言うと、愛がいる病室の番号を書いた紙を渡して、医者...今野先生は去って行った。

書かれた紙の番号の病室に行くと、愛は寝ていた。倒れた時に感じた消えてしまうのではないかという不安は、もう感じなかった。それにひとまず安心した。

愛のベットの近くにイスがあったから座り、手を握って語りかけた。

「愛、どうしてこんなになるまで誰にも頼らなかったの...?俺と会わない間に、何があったの?」

だが当然ながら返事はない。それが酷く悲しくて愛の手を握る力を強めた。

それから面会時間が終了になるまでずっと病室にいたが、愛は目を覚まさなかった。それに愛の家族も来なかった。明日は学校があるから来るのは夕方になる。それまでの間に目を覚ましているといいな。

「愛、また明日来るね。」

寝ている愛にそう声をかけて、病室を出た。

病院を出ると外は真っ暗だった。まるで俺の今の心を表しているみたいだ。

「愛...」

俺は歩きながら泣いていた。見ているだけの関係から、やっと関われて恋人になれたのに。それなのになんでこんな事になるんだ。俺はただ、愛と笑って過ごしたいだけなのに。

どうやって帰ったのかわからない。気づいたら家にいて、朝になって学校に行っていた。でも授業なんて何も聞いていない。だけどいつも染み付いている習慣はすごいものだ。聞いていなくてもノートには授業内容を書き写している。

「柊ー、今日どっか行かね?」

「あー、ごめん。今日は先約入ってる。また今度誘って。」

放課後、友人に出かける誘いを受けたが断った。早く愛の病院に行かないと。スマホに病院から不在着信が入っていた。昨日、愛の家族と連絡が取れなかった場合や、取れても病院に来るのを拒んだ場合、俺にも連絡をするからと連絡先を教えてたのだ。ということは、愛の家族と連絡が取れなかったという事を意味する。なんで自分の娘がこんな状況になっているというのに、連絡がつかないのだ。もう全部に苛立つ。愛の家族が来ない事も、愛が俺を頼ってくれない事も。俺が病院に着いて愛が起きていたら絶対怒ってやる。

俺は高校は今住んでいる所にしたから、地元に行く定期はもうない。学生の定期だからかなり安かったが、普通に行くとなるとかなりお金がかかる。まだバイトをしていないからお金も尽きてくる。これが一段落したらバイトを始めよう。電車に揺られながらそんな事を考えた。

地元に着き、走って病院に向かい、病室のドアを開けた。そして一番に目に入ってきたのは。

「あ...柊。や、やっほー...って、きゃ!」

ベットの上で座っている愛だった。良かった、目覚めたんだ。俺は持っていたカバンを放って愛を力いっぱい抱きしめた。

「良かった、目覚めて、本当に良かった。本当に...良かった...」

涙がぼろぼろ零れる。零れる度に、愛を抱きしめる力を強めた。前に抱きしめた時よりかなり細くなっている。

「ごめんね。」

「許さない...でも今は無事に目覚めてくれて良かった。」





柊に抱きしめられながら、私はこんなにも柊に心配をかけていたのだと痛いほど思い知った。

昨日、私はバイトに行く途中に体調が悪くなって公園で休んだ。その時に柊に会って、色々話してたら呼吸が苦しくなって倒れた。それで目が覚めたらここにいた。医者にはストレスが溜まりすぎて倒れたと言われた。栄養失調気味でもあったからしばらく入院する事になった。私を助けてくれたのが、柊だと言う事もその時聞いた。

その話を医者にされた時、傍には誰もいなかった。目覚めたのが今日の朝だったから、柊はいなくて当然だ。医者は家族にも連絡して、柊にも連絡したと言っていた。

家族は連絡はついたが、病院には来ないと言ったらしい。必要な物があれば、お金は払うからそちらで全て用意してくれと。その話を聞いた時、久々に軽かった身体がまた重くなった。こういう時、家族がいて今までごめんとお互い謝るものではないのか。まあ小説の読みすぎかもしれないが、仮にも私は両親の本当の娘だ。その娘が倒れて病院に運ばれたと連絡が入ったら来るものではないのか。そこでやはり家族は私の事なんて要らないのだとわかった。早く退院して、お金を稼がないと。ここで入院してしまった分、取り返さないと。

する事もなくベットの上でぼーっとしていると、世間では学校が終わった時間になった。柊は来るだろうか。病院からの不在着信があるから来るだろう。

柊に会ったら私は何から話せば良いのだろう。まずは最近会わなかった事から謝る?それとも無理をした事?もう話す事が沢山あってどれから話したらいいのかわからない。それに柊は怒っているだろう。どうして心の声を無視したんだって。

まだ会っていないが、会った時の反応を想像すると溜息が出た。こうなるならきちんと話をしておくべきだった。これからはどんなに迷惑かなと思っても話す事にしよう。それがお互いの為になる。

タッタッタッ。病院には似つかわしくない走る音が廊下から聞こえる。それが直感で柊だと思った。そしてその直感は当たった。

「あ、柊。や、やっほー...って、きゃ!」

どう反応していいかわからなくてへにゃって笑って手を振ると、柊はカバンを放り投げて私の事を抱きしめた。その力はとても強い。

「良かった、目覚めて、本当に良かった。本当に...良かった...」

柊の涙が私の肩を濡らす。涙が零れる度、私を抱きしめる力が強くなっている。苦しかったが、それ程私は柊に心配をかけたということだ。それもそうか。彼女が急に会わなくなって、会ったら痩せ細ってて目の前で倒れたのだから。私が逆の立場だったら頼りにされなかった事が悔しくて、何も気づいてあげられなかった自分にも腹が立つ。柊もそんな感じだろう。

「ごめんね。」

他に言わなければいけない事は沢山ある。でも今はただ謝る事しか出来なかった。

「許さない...でも今は無事に目覚めてくれて良かった。」

それからしばらく柊は私の事を抱きしめて離してくれなかった。私もずっと会いたかった柊に抱きしめられて嫌な気はしない。されるがままにしていた。

「愛、俺聞きたい事沢山ある。」

そろそろ離して欲しいなと思っていると、それが通じたのか離してそう言われた。

「うん。何でも答えるよ。何から聞きたい?あ、でもバストサイズは教えないよ。」

「ちぇ、最後に聞こうと思ったのに。」

私達は顔を見合わせると笑った。久しぶりだな、この時間。私にはやっぱりこの時間が必要なのかもしれない。

「まあ冗談はさておき、本当に何でも答えるよ。何から聞きたい?」

ひとしきり笑い合い、私は柊に再び聞いた。

「まず、家族と何があったの?多分聞いてると思うけど、家族と連絡が取れなかったら俺に連絡がくる事になってたんだ。で、俺に連絡がきたって事は、家族が来るのを拒んだんだよね?」

「うん。」

「でもさ、普通来るじゃん。娘が倒れて入院騒ぎになってるんだよ?だからこういう状況になっても来ないなにかがあったのかなって。」

その通り過ぎて何も言えない。柊は本当に私の事をよく見ている。しばらく会っていなかった人間の事を推測でここまで当てるのは中々ない。

「...柊の言う通り、この状況になっても来ない理由があるの。話すと長くなるんだけどね...。私がメンクリに通ってたのは聞いた?」

「うん。」

事の発端は私が両親に内緒でメンクリに行こうとしたからだ。その前にも色々あったが端折った。私自身、あまり思い出したくない。

言い合いしている内に私が幼い頃、両親は私を施設に入れようとしていた事。人に自分の意見が言えないのは自分達の教育が悪かったからだと。でも私が本にハマったから、施設に入れるのを辞めたのだと。

「そんな...酷い...」

一気に話終えると柊は言葉を失っていた。それもそうだ。私も最初両親にそう言われた時はそうだった。今はもうふんぎりをつけたから大丈夫だけれど。

「仕方ないよね。弟の方が出来が良かったし。私なんて人と関わる事もまともに出来ないから、家族からしたら要らなかったんだよ。よくここまで育ててくれたって思うよ。」

「だからって...」

「それが私の家族なの。柊ならよくわかるでしょう?」

そう言うと柊は俯いて黙った。しまった、少し言い方が意地悪だったか。

「じゃあさ、なんで俺にその事すぐ言ってくれなかったの?」

しばらくの沈黙の後、柊がぽつりと聞いた。

「これ以上柊のお荷物になりたくなかったんだ。私はただでさえ柊に迷惑かけっぱなしだから。少しは一人で立てるようになりたかったの。」

「俺、愛の事お荷物とも迷惑とも思った事ないよ。勝手に決めて行動に移すのは愛の悪い所だよ。」

「ごもっともすぎて何も言えない。これからは気をつけるから。」

「俺に会ってくれなかったのは?」

「こんな痩せ細った姿で柊に会いたくなかったの。柊には可愛い私を見せてたいから。」

「どんな愛でも俺は可愛いと思うよ。もちろん、今の姿でも。愛が思っている以上に愛に対しての愛は大きいよ。」

「うん、今の話聞いてたらわかる。」

私は柊の事を甘く見すぎていたのかもしれない。柊の事を信じていながら、心の中ではいつ嫌われてもいいように準備していたのだ。柊に対して失礼な事をしていた。

「柊、本当にごめんね。これからはちゃんと話すし、頼る。」

「うん。今度頼ったり話してこなかったら俺、本気で怒るから。」

「怖いからやめて?」

一段落ついた私達は近況報告をしあった。私はバイト先で正社員になった事、だからお金を稼がないといけなかった事を話した。その話をした時の柊は心配そうだった。

「退院しても同じ事したらすぐ入院だからね。加減するんだよ。」

「はーい」

どっちが歳上かわからなくなる。そういえば初めて会った時もそう思ったな。

「そろそろ帰るね。また明日も来るから。」

話しているとあっという間に時間が過ぎた。まだ柊といたいが仕方ない。柊も遠くから来ているからこれ以上引き止められない。

「もうそんな時間なんだね。わかった、気をつけてね。遠くから来てくれてありがとう。」

「愛もゆっくり休んでね。それじゃあ、また明日。」

「また明日ね。」

ベットの上から手を振って柊を見送った。立とうとするとまだ目眩がする。これも徐々になくなっていくのかな。

する事がなくなった私はそのまま寝てしまった。


次の日、その次の日と時が去っていく。私は本当にする事がなくて寝るか病院内を散歩するかのどちらかだった。柊が来たら話をするぐらい。激務だった日常からはかけ離れて、身体は休まる反面、お金の事や私はこのままの人生で本当にいいのかと心配になった。

そう考えると身体は休めても頭は休まらない。私はこのままで生きていけるのか。ファミレスの正社員なんて、シフトに出なければ稼げない。それで一人暮らししてやっていけるのか。

私は人生を甘く見すぎていたのかもかしれない。今の時代、高校に行かなくても有名になってお金を稼いでいる人は確かにいる。だけどその人達は元々の素質があるからだ。私には何もない。そんな人が高校に行かない道を選んではいけなかったのだ。人と関わるのが嫌でも行くしかなかった。今から通信や定時制の高校に行く事も出来るが、お金がかかる。早くあの家を出たい私からしたらそこにお金を使っている余裕はない。

「やっぱり私、あの時死んだ方が良かったのかも。」

「...何言ってんの?」

柊の驚いた声で、私は思っていた事を言葉にしていた事に気がついた。今日は休日だから柊は朝から来てくれていた。柊と話をしながら頭ではそんな事を考えていて、口に出してしまったみたいだ。

「ほら私って人と関わりたくないから高校に行かなかったじゃん?」

「うん。」

「だからこれからどう生きようかなって。退院したら加減しながら働くつもりだけど、ファミレスの正社員なんてシフトに出なきゃ稼げないし。だったらあの時死んじゃった方が良かったのかなって。」

「本気で言ってる?」

冷たい声でそう言われ、柊の方を見ると静かに怒っていた。やばい、地雷踏んだかも。

「なーんてね。冗談だよ。だからそんな怖い顔しないで。私、コンビニで買い物してくる!」

怖くなった私は柊から離れようとベットから降りて、病室を出る事にした。だがすぐ柊に捕まえられて、再びベットに座らせられた。

「冗談な訳ないよね?愛はやっぱり俺に話してくれない。」

「だってさ、こんな事言われてもお前何言ってんのしか思わないじゃん。だって全部他でもない私が決めた事なんだから。」

「確かに、この選択をしたのは愛だよ。でもその選択がもしかしたら間違いだったのかもと思う事もあっておかしくないよ。そういう時には俺に話してよ。話す事で楽になる事もある。」

その言葉に勝手ながらイラッとした。何が話したら楽になるだ。話した所で現状が変わる訳じゃない。そんな気休めで私がいつも納得すると思わないでほしい。

「...柊はいいよね。家族仲が良くなくても友達とかいて。だからそうやってすぐ人に頼る事をするんだよ。友達がいない、人と関わるのが苦手な私の気持ちなんてなーにもわかってない。」

私がそう言うと柊は明らかに傷ついた顔をした。私でも最低な事を言っている自覚はある。こんなに私の事を想ってくれる人なんて今までもこれからも多分、いない。大事にしないといけないのはわかる。だけどいつもいつも俺に頼れ、話せと言われるのは疲れる。

「じゃあ愛はどうしてほしいの?なんて言ってほしいの?俺愛じゃないからわかんない。」

私からふっかけた喧嘩だが、こう言い返されるとすごく腹が立つ。我ながら勝手だ。

「わかんないなら言ってこないでよ。」

「だって俺愛の事好きだし。好きな人が悩んでたら助けたいって思うじゃん。」

いつもだったら嬉しい言葉だが、今日はそう思えなかった。柊は私に対する愛が重すぎる。それに対して私はこんなに愛が重くない。だから疲れるのだ。

「柊は私に対する愛が重すぎる。だから正直疲れる。ごめんだけど、もう一緒にいたくない。」

「...わかったよ、帰るよ。」

柊は辛そうな顔をし、目には涙をためて病室を出て行った。あーあ、泣かせてしまった。完全に嫌われたな。もう私には誰も残らない。どうしていつもこうなのだろう。悲しくて辛くて、自分が悪いが柊に嫌われたと思うと涙が出た。

「本当に死んじゃおうかな。」

この病院は屋上に出入り出来る。屋上には看護師や医者がよくいるが、その目を盗めれば飛び降りる事なんて簡単だろう。私の事を必要とする人がいなくなった今、私が生きている理由なんてない。

本気で屋上まで上がろうとベットから降りると、柊が開きっぱなしにして行ったイスにぶつかり、派手に転んだ。

「痛った...ん?これ、小説?」

イスの近くに文庫本が落ちている。私は小説を病院に置いていないから多分柊のだろう。でも柊はあまり本を好きではないと前に話していたのを覚えている。それなのにこの本は読み込まれてぼろぼろだ。カバーもついているにはついているが、今にも擦り切れそうだ。

何となくカバーを外した。やはり小説好きとしてはどんな内容か気になる。

「あれ、この小説。」

カバーを見てすぐわかった。これは私が小さい頃に読んで、小説家になろうと思ったきっかけの小説だ。図書室で見つけて、小学生の時は小説を自分で好きに買えなかったから何度も何度も借りて読んだ小説だ。内容を全部覚えている。でもなんで柊がこの小説を持っているのだろう。

そんな事考えても意味ないと思い直し、本をベット横の棚に置いて屋上に行こうと歩き始めた。でもどうしても本が気になり、階段を登る手前で病室に戻った。もう何度も読んでページをめくらなくても内容がわかるのに、読みたくて仕方ない。この本にはそういう魅力があった。

私は一回本を読み出すと止まらない。キリがいいところでやめるという事が出来ないから、本を読んだ後はいつも寝不足だ。それを苦痛だと思った事は一回もない。むしろ結意義な時間だとすら思っていた。最近はバイトが忙しくて読めていなかった。それもストレスの一つだったのだろう。

「ふぅ...やっぱり好きだなぁ。」

内容を知っているからものの一時間で読み終わり、私はやっぱり小説が好きなのだと再確認出来た。そして...

「小説、また書いてみようかな...」

小説を書くのをやめて三年。書かなくなってからは書きたいと思う事もあったが、あの出来事がトラウマで書く事が出来なくなって、最近は書きたいとも思わなくなっていた。

でも小説家になりたいと思ったきっかけの小説を読んで。また私は小説を書きたい、小説家になりたいと思った。この気持ちに蓋をしたら、もう二度と蓋が開かない気がする。そんなの嫌だった。

それからの私の行動は早かった。病院内にあるコンビニにノートとペンを買いに行き、ノートに今頭に浮かんでいる話の内容を書きなぐった。繋がりがなくてもとりあえずいい。書いている内に繋げていけばいい。今は思いついた事を書いていこう。

プロットもどきが書き終わり、小説を書こうとしたが、今は原稿用紙の応募があるのかふと気になった。原稿用紙の応募がなければ意味がない。スマホで調べると、今はどこもネットの応募ばかりだった。紙の需要はないという事だ。

どうしよう。今まで紙に書いてきたからネットのやり方がわからないし、どこかに個人情報を登録するのは怖い。やはり私に小説家は向いてないのかな。諦めるべきなのかも。

私はいつもこうだ。少し上手くいかなかったら辞めてしまうし、人の事となるとシャットダウンする。こんなんでこれから生きていける訳ない。嫌な事から逃げていたら何も出来なくなる。もうそんな生き方、したくない。

変わりたい。私にだってなにか一つのものを追いかけられるんだって思いたい。だから今ここで諦めたらダメだ。怖くても、やってみないと。今小説家になっている人の中にはこういう怖さも辛さも経験してきて、それを糧に小説を書いている人もいるだろう。だからあんなに素晴らしい小説を書けるのだ。

気持ちを持ち直した私は調べに調べて、一番使われているネット小説サイトに登録して、小説を書いていった。ちょうど小説のコンテストが開催されており、それにエントリーしてみる事にした。期限は二ヶ月。今の私なら余裕で書ける。入院生活の暇つぶしにもいい。

やはり小説を書くのは楽しい。書いている時だけはこれからの生活やお金、柊との事を考えなくて済む。

あの日以来、柊から連絡がなければ病院に来る事もなかった。それもそうだ。私はあんなに私の事を大事にしてくれてた柊の気持ちを、重いと言ってしまったのだから。柊からしたら悲しいし、私となんて会いたくないと思うだろう。全部私が撒いた種なのだが、柊と会えなくて寂しいと思っている自分がいた。私は自分が思っているより馬鹿なのかもしれない。



「どうしよう...」

入院して一ヶ月が経った。私の体調はだいぶ良くなった。でもまだ怪しい数値があるから退院は先みたいだ。

それはいい。いや良くないのだが、今私が悩んでいるのはこの事ではない。小説の続きが書けなくなった事を悩んでいる。いい所まで来たのだが、ここからどう繋げるかが問題だ。

私が書いているのは人生に嫌気が差して命を捨てようとした少女を、同じく命を捨ててしまって幽霊になった少年が助け、人生は辛い事以上に楽しい事に満ちている事を教えるお話だ。これは少し自分と柊の実体験も含めている。そうした方が書きやすいと思ったから。でもいざ書いてみるとこれまた難しい。書いている内に実体験が離れていってしまい、自分の想像で書くしかなくなったからだ。私は体験したことない事、実際にいるわけない物を想像して書く事が苦手だ。だからこの話はかなり挑戦的だ。無理矢理繋げる事が出来ない。それこそ少年を生き返らせるとか。いくら小説で自由だと言え、実際に起こらない事を書きたくない。

「はぁ...どうしよう...」

何度目かわからない溜息をつき、サイトを閉じてベットに横になった。横になるとすぐ眠気が襲ってきてそのまま眠りについた。最近は消灯時間を過ぎても看護師の目を盗んで起きて小説を書いていたから、寝不足気味だ。たまには寝て、頭をスッキリさせよう。


夢でも私は小説を書いていた。だが一向に続きが書けなくて悩んでいる。夢でぐらい、楽しい思いをさせて欲しい。

「な...まな...愛!」

「ん...」

聞き覚えのある声で目を開けると、目の前には柊が焦った表情をしながら立っていた。

「え!柊?なんで?」

驚いて起き上がると、柊は私の肩を掴んだ。

「大丈夫か?どこも辛くない?痛くない?」

「え、あ、うん。大丈夫だけど。」

話が全く見えない。私は小説を書くのに疲れて寝てただけだ。

「はー、良かった。」

柊は本当に安心したのかその場にしゃがんだ。一体、何をそんなに心配していたのか。それに、あんな言い方してどうしてここにいるのだろう。もう私達は別れたのではないのか。

「なんで柊、ここにいるの?私達別れたんじゃないの?」

「...別れてなんてない!どうしてその思考になるの?それとも愛は俺と別れたい...?」

「いやそうじゃなくて、私柊にあんな酷い事言ったし、連絡もなかったからもう別れたのかなって。」

「それは愛としばらく関わらない期間があった方がいいかなって思って。」

「あ...そうだったんだ。」

柊と別れた訳ではなかったのか。嬉しいには嬉しいが、あの日の事があるからかなり気まずい。

「愛、俺さ、人からの愛がわからないから愛には沢山の愛をあげたいんだ。だから愛からしたら重かったのかも。ごめんな。」

私から謝らないといけないのに。柊は自分が悪いと謝ってきた。

「違うよ、柊は悪くないよ。私が全部悪いの。私がすぐ、死にたいと思うから。ごめんなさい...」

最後の方は声が小さくなってしまった。私は嫌な事があるとすぐ死にたいと思う。だからあの日も柊が怒って、言い合いになってしまったのだ。

「でも俺もしつこかった部分もある。それに死にたいと思うのは仕方ないよ。だって俺達、普通の家庭じゃないし。嫌な事あったら死んで逃げようと思うよ。だからこそ、支え合えるんじゃないかな?」

まあこれも重いって言われるかもだけど。そう苦笑いしながら言う柊の姿を見ていると、私はどれだけ幼稚で、子供で、わがままなのか思い知った。

柊はどうしてこんな私を好きなんだろう。どこも魅力的な所なんてないのに。

「ねぇ、柊。もう私達別れよっか。」

もう柊と付き合っていくのは無理だ。柊は優しいし気遣いが出来るから、もっといい彼女が出来る。私と出会ったのが早かったから、付き合っているだけだ。

「嫌だ!なんでそうなるの?」

「柊と私が付き合っているのは、私と出会ったのが早かったからだし、似てる境遇だからだよ。もしこれが違う境遇や出会うのが遅かったら多分、付き合ってない。」

「そんな事ない。俺と愛は遅かれ早かれ出会う運命だったんだよ。」

「もう私が無理なの。私はどうしても嫌な事があると死にたくなるし、それを口に出しちゃう。それを柊に聞かせるのも、慰められて申し訳なくなるのも全部やだ。ごめんね、自分勝手で。だから柊、私と別れてください。」

頭がベットにつくギリギリまで下げた。柊に言った事は本心だ。だけど本当は別れたくなんてない。でも私なんかと付き合っているより、もっと柊を大事にしてくれる人と付き合った方がいい。

「...愛は俺の事嫌いになったの?」

「いや、嫌いになった訳じゃないけど...」

「だとしたら俺は頷けない。だって人間、色んな人に迷惑かけて生きるんだよ?そんなのをいちいち気にしてたら生きていけないよ。」

柊の言葉に何も言えなくなった。そんなのわかってるよ。でも相手が柊だから尚更迷惑をかけたくないのではないか。どうしてそれがわかってくれないのだろう。

「そんなのはわかってるよ。でも相手が柊だから。これ以上迷惑かけたくないし、柊には好きになった私だけを知っててほしいの。こんな弱い私は見せたくない。」

柊が私を好きになったのは、小学生の時に泣いていた時にそばにいてくれたからだと言っていた。あの時の私は今よりもっと子供だったから、小説の世界を真に受けて、自分はなんにでもなれると自分を大きく見ていた。だから泣いている人を何も考えずに助けられたのだ。今だったら色々考えてしまって助けられないだろう。汚い大人になってしまったものだ。

「俺は色んな愛を知りたい。何で喜ぶのか、何で怒るのか。何が悲しいのか。俺は人の事を知っていくのが楽しいと思う。愛は違うの?」

人の事を知っていくのが楽しい。私はそんな風に人の事を思った事がない。むしろ人の事を知るのが怖い。上辺だけは仲が良くて、裏ではいない人の悪口を言っているのを何人も見てきた。だから私は人と必要以上に会話しないし、人の事を知ろうとしなかった。それが柊との違いなんだろう。

「私は人の事を知っていくのが怖い。上辺だけは仲が良くて、裏では悪口を言っている人を何人も見てきたから。」

「俺の事を知っていくのも怖いの?」

「それは...」

言われてみると柊の事は知りたいと思う。人間の怖い所、嫌な所を沢山見てきて知りたくないと思っているのに。柊の事だけはそう思えない。それは多分、柊は感情を全面に出しているからだろう。

「柊の事を知るのは怖いと思った事ない。むしろ知りたい。」

「だったらお互い知ろう。俺はどんな愛でも受け止められる自信がある。片想い歴舐めないでくれる?」

「本当に、私でいいの?」

「いいに決まってるだろ。俺は愛以外は受け付けません。」

おいでと言うみたいに両手を広げられ、その胸に飛び込んだ。人生は私が思っているより難しくないのかもしれない。私が苦手だと思った人とは最低限しか関わらなければいいし、関わりたいと思った人とはとことん関わればいい。

「柊、ちょっと待ってて。今いいアイデアが思い浮かんだから。」

「うん...?」

柊から離れて、スマホの小説サイトを開いた。小説の続きのアイデアが思い浮かんだから。忘れない内に書かないと。

「んー、もう少しで完成...」

区切りのいい所でサイトを閉じ、ベットの上で背伸びをすると骨が鳴った。もう少しで小説は完成する。これも柊のおかげだ。柊が来てくれなかったら、一向にこの小説は完成していない。

「あ、終わった?」

柊は棚の上に置いてあったぼろぼろの本を読んでいた。

「うん。お待たせ。その本、やっぱり柊のだったんだね。」

「うん。世界で一番好きな本。凄く大事なんだ。」

そう言うと柊は本を抱きしめた。それが面白くなかった私は本を抱きしめている柊を抱きしめた。

「なに、本に嫉妬しちゃった?」

「うん。てかその本、私も大好きなんだ。その本がきっかけで小説家になろうと思ったし、またなろうとも思えたの。」

「え...もしかして愛、また小説書き始めたの?」

「うん。もうすぐで完成する。コンテストにも応募してる。」

「そうだったんだ...ならこの本、持ってくる必要なかったな。」

「どういう事?」

私が聞くと、柊はしまったという顔をした。そして何とか渋る柊から話を聞くと、柊は私に再び小説家になる道を選んで欲しかったみたいだ。私の小説を音読してきたくそキモ男子の事を恨んで過ごすのだったら、自分の好きな事を追いかけてそいつを見返す方が幾分か素敵というなんとも柊らしい理由だ。

「この本、愛は覚えてないと思うんだけど、俺の事を助けてくれた時に読んでて、俺も読んでみたらハマって。唯一読める本なんだ。」

「そうだったんだ。この本ってすごいね。人を惹きつける力がある。私も...」

私も、そんな小説を書きたい。一度読んだら何年経っても、忘れられない小説を。

「愛は小説家になれるよ。俺、楽しみに待ってるから。」

今までで一番の笑顔で柊はそう言いきった。柊はいつも物事を言いきってくれる。それがたまに腹立つ時もあるが、柊が言うのだからそうなのだろうと納得する時の方が多い。何故だかはわからないが。

「ありがとう。私、もう一度頑張ってみるから。応援してくれる?」

「もちろん。俺が愛のファン、第一号だから。」

「本が出版されたら、一番に柊に渡すね。サイン付きで。売らないでよ?」

「売る訳ないだろ。額に入れて飾るよ。読む用と二冊買う。」

「それは収入にありがたいなぁ。」

まだコンテストの審査すらされていないのに、私達はまるで受賞したかのように話を進めていた。もしこれで審査が通らなかったとしても、この話が無駄だったとは思わないだろう。言霊と言う言葉があるのだ。言葉に出した方が叶いやすい。

「俺、そろそろ帰るな。今日はありがとう。本当に体調平気?」

「こちらこそありがとう。てかさ、私が起きた時から思ってたんだけど、体調って何?私めちゃくちゃ元気だよ。まだ少しおかしい数値があるから入院してるだけで。」

「俺が来た時さ、愛寝ながらうなされてたから。どこか痛かったり苦しかったりしてるのかなって。それが不安になっちゃって。無理矢理起こしてごめんな。」

「全然大丈夫だよ。多分それ、夢でも小説の続きが書けなくてうなされてたんだと思う。」

「そうだったのか、安心したよ。じゃあまたな。」

「うん、またね。」

柊が帰った後、私は小説の続きを書いた。




少年は少女を救えた事で、この世から未練がなくなって成仏する。そして少女はその出来事を忘れてしまう。数年後、少女は愛する人を見つけ、子供を授かった。子供は男の子だった。子供が生まれると少年と過した日々を思い出す。そして子供の三歳の誕生日。少女は子供にこう言われる。

「僕と出会ってくれて、ありがとう。生んでくれて、ありがとう。」

いつもはこんなに話せない。少女は子供を通じて少年がそう言ってくれたのだとわかった。多分これで少年と会うのは最後だろう。それが悲しくて、でもそれ以上に会いに来てくれた事が嬉しくて。少女は子供のように泣きじゃくった。子供はおろおろして、必死に少女の頭を撫でている。やおら愛する人も帰ってきて、泣いている少女を見て混乱する。それでも少女は泣き続けた。

私こそ、出会ってくれてありがとう。あなたがいたから、私は今日まで生きてこれたんだよ。本当に、本当にありがとう。本当はまだ話したい事沢山あるけど、あなたの分まで生きるから、空から見ててね。私がそっちに行く時は、話を沢山聞いてね。