小さい頃から勉強漬けの毎日だった。一流の高校に入って一流の大学に行きなさいというのが親の教えだった。少しでも点数が下がればたとえ一位だろうと何だろうと怒られる。
今回は難しかったなんて言葉は通用しない。
けれどそれでも小学生の頃まではまだ自由があったと思う。
ただ私が中学生になった頃、歳が一個上のお姉ちゃんに異変が起きた。それまでの反動か全く勉強をしなくなり夜遊びを繰り返すようになったのだ。そんなお姉ちゃんを見たお母さんとお父さんの当たりは私に向かい今まで以上に勉強を強いられるようになった。
友達はいない。休み時間も放課後も勉強していないといけないから。
「帰って勉強しなきゃだから」
そう遊びの誘いを断っていればいつからか誘われることすらなくなった。
初めは葉月ちゃんと呼んでくれていたクラスメイトもいつの間にか板橋さんと名字で呼ぶようになった。
「板橋さんは真面目だから」
馬鹿にしたように言うクラスメイトの言葉に私は何も反論できなかった。
私の名前を呼ぶのは家族だけだ。けれど優しく呼んでくれるのはお姉ちゃんだけ。
お母さんとお父さんは私の名前を呼ぶ時いつも怒っている。
いつからか自分の名前が嫌いになった。
葉月という名前を聞くとお母さんとお父さんの怒っている声が頭の中で再生されるから。
「──ぇ、ねえ!」
彼の大きな声で私はふっと現実に引き戻された。
「……帰る」
私はそれだけ言うとこの場を去ろうと彼に背を向ける。
「ねえっ」
「何」
ここで立ち止まってしまうのは今の私が葉月じゃなくて雪だからなのか、真夜中のせいなのか。自分のことのはずなのに自分の気持ちがよく分からず気持ち悪い。
「俺ね、ミュージシャン目指してて」
振り返ると彼はギターを手に抱えていた。
「これから路上ライブとかやれたらいいなって思ってるんだ」
「はあ」
彼は不思議だ。私がどれだけ拒んでも私にためらわず話しかけてくる。
「ねえ、聴いてよ」
分からない。今まで私が拒んだ時、ここまで食い下がってくる人はいなかった。だからもうどうしたらいいのか分からない。
「まだ人に聞かせたことないんだけど」
そう言うと彼は私の返事を聞く前に演奏し始めた。
流行りの曲に疎い私でも知っている有名曲をギターを弾きながら歌う。
その歌声は彼の喋りからは想像出来ないほどかっこよくて、何だか心地よくて立ち尽くす。
先ほどまでのへらへらした表情とは違い真剣ででもどこか楽しそうな表情に目を奪われた。
私は今までこんな楽しそうな表情をしたことはあるだろうか。
いつも何だか生きづらくて水中をもがいているかのように重い足に溺れているかのように苦しい呼吸。
ここにいる時は普通に呼吸が出来るけど決して楽しくはない。
何も楽しくない。
けれど目の前にいる彼は同じ場所にいるはずなのに、同じ空気を吸っているはずなのに確かに笑っていて心の底から楽しんでいるように見えた。
「どうだった?」
演奏が終わるとまたへらへらした表情に柔らかい喋り方になる。
「うん……。いいね」
お世辞に聞こえただろうか。でも本当にそう思った。
「俺、絶対世界的ミュージシャンになるんだ」
彼の目はキラキラと輝いていた。
「もし良ければ応援してよ。今ならファン一号になれるよ」
まだファンが一人もいないのに、誰かに認められているわけでもないのに、何でそんなに自信満々で笑っていられるんだろう。
何でこんなに楽しそうなんだろう。
猛烈に羨ましくなった。私が持っていないものを、私が欲しいものを、お姉ちゃんが持っているものを持っている彼が私は羨ましかった。
いつもならきっと卑屈になってしまう。私なんてと言ってしまう。けれど今は名前だけでも雪なのだ。葉月じゃない、真面目で優等生の葉月を彼はまだ知らない。
まだ、お姉ちゃんになれる。お姉ちゃんみたいな人に私だって今だけならなれる。
「ねえ」
「ん?」
「名前、教えて」
あの日、私に名乗らせておいて彼は名乗らなかった。
「名前、知らなきゃファンになれないから」
そう言うと彼はパッと顔を明るくした。
「俺、朔弥。西条朔弥」
「西条、くん」
そう辿々しく呼べば西条くんは満面の笑みを浮かべた。
今回は難しかったなんて言葉は通用しない。
けれどそれでも小学生の頃まではまだ自由があったと思う。
ただ私が中学生になった頃、歳が一個上のお姉ちゃんに異変が起きた。それまでの反動か全く勉強をしなくなり夜遊びを繰り返すようになったのだ。そんなお姉ちゃんを見たお母さんとお父さんの当たりは私に向かい今まで以上に勉強を強いられるようになった。
友達はいない。休み時間も放課後も勉強していないといけないから。
「帰って勉強しなきゃだから」
そう遊びの誘いを断っていればいつからか誘われることすらなくなった。
初めは葉月ちゃんと呼んでくれていたクラスメイトもいつの間にか板橋さんと名字で呼ぶようになった。
「板橋さんは真面目だから」
馬鹿にしたように言うクラスメイトの言葉に私は何も反論できなかった。
私の名前を呼ぶのは家族だけだ。けれど優しく呼んでくれるのはお姉ちゃんだけ。
お母さんとお父さんは私の名前を呼ぶ時いつも怒っている。
いつからか自分の名前が嫌いになった。
葉月という名前を聞くとお母さんとお父さんの怒っている声が頭の中で再生されるから。
「──ぇ、ねえ!」
彼の大きな声で私はふっと現実に引き戻された。
「……帰る」
私はそれだけ言うとこの場を去ろうと彼に背を向ける。
「ねえっ」
「何」
ここで立ち止まってしまうのは今の私が葉月じゃなくて雪だからなのか、真夜中のせいなのか。自分のことのはずなのに自分の気持ちがよく分からず気持ち悪い。
「俺ね、ミュージシャン目指してて」
振り返ると彼はギターを手に抱えていた。
「これから路上ライブとかやれたらいいなって思ってるんだ」
「はあ」
彼は不思議だ。私がどれだけ拒んでも私にためらわず話しかけてくる。
「ねえ、聴いてよ」
分からない。今まで私が拒んだ時、ここまで食い下がってくる人はいなかった。だからもうどうしたらいいのか分からない。
「まだ人に聞かせたことないんだけど」
そう言うと彼は私の返事を聞く前に演奏し始めた。
流行りの曲に疎い私でも知っている有名曲をギターを弾きながら歌う。
その歌声は彼の喋りからは想像出来ないほどかっこよくて、何だか心地よくて立ち尽くす。
先ほどまでのへらへらした表情とは違い真剣ででもどこか楽しそうな表情に目を奪われた。
私は今までこんな楽しそうな表情をしたことはあるだろうか。
いつも何だか生きづらくて水中をもがいているかのように重い足に溺れているかのように苦しい呼吸。
ここにいる時は普通に呼吸が出来るけど決して楽しくはない。
何も楽しくない。
けれど目の前にいる彼は同じ場所にいるはずなのに、同じ空気を吸っているはずなのに確かに笑っていて心の底から楽しんでいるように見えた。
「どうだった?」
演奏が終わるとまたへらへらした表情に柔らかい喋り方になる。
「うん……。いいね」
お世辞に聞こえただろうか。でも本当にそう思った。
「俺、絶対世界的ミュージシャンになるんだ」
彼の目はキラキラと輝いていた。
「もし良ければ応援してよ。今ならファン一号になれるよ」
まだファンが一人もいないのに、誰かに認められているわけでもないのに、何でそんなに自信満々で笑っていられるんだろう。
何でこんなに楽しそうなんだろう。
猛烈に羨ましくなった。私が持っていないものを、私が欲しいものを、お姉ちゃんが持っているものを持っている彼が私は羨ましかった。
いつもならきっと卑屈になってしまう。私なんてと言ってしまう。けれど今は名前だけでも雪なのだ。葉月じゃない、真面目で優等生の葉月を彼はまだ知らない。
まだ、お姉ちゃんになれる。お姉ちゃんみたいな人に私だって今だけならなれる。
「ねえ」
「ん?」
「名前、教えて」
あの日、私に名乗らせておいて彼は名乗らなかった。
「名前、知らなきゃファンになれないから」
そう言うと彼はパッと顔を明るくした。
「俺、朔弥。西条朔弥」
「西条、くん」
そう辿々しく呼べば西条くんは満面の笑みを浮かべた。