それからはいつも通りのボイトレに明け暮れる日々。
 翌日に早速、顔を出したユキは僕と灰坂の真剣さを目の当たりにして物凄く驚いていて、帰り際に「本当は毎日でも来たいけど邪魔になっちゃいそうだから、あんまり来るのはやめておくね」と言ってから、まだ来ていない。ユキのこういう所がすごい。気の使い方って言うか、そういう所がすごく大人だと思う。
「そういえば」
 ボイトレ再開三日目の昼休憩。灰坂がお弁当をつつきながら、おもむろに切り出す。
「あの時。私も踏み込んでいいって言ってたよね?」
「うん」
 僕は相も変わらず、ソーメンを啜りながら答える。
「じゃあ一つ聞いていい?」
「どうぞ」
「ホタルのお父さんって面白くて良い人だよね。凄く優しくてしっかりした人だよね?」
 僕は箸を止める。こうして毎日僕の家に来て、日が暮れるまでボイトレをしている以上、当然、灰坂は父さんとも顔を合わせるようになった。父さんはユキの時みたいに変な勘違いこそしなかったけれど、何故だか手厚く灰坂をもてなした。柄にも無く良く話しかける姿は見ていて溜め息ものだったけれど、今になって灰坂がこう言うって事は、父さんと話している時のあの笑顔は本物だったと言う事だ。意外な事実。それにしても、良い人っていうのは置いといて、面白いっていうのは僕にはさっぱりわからないんだけど。
「……でね。突っ込んだ事聞くよ? だとしたらホタルのお母さんってもしかして……」
 灰坂はそれ以上言わずに箸を止めたまま伺うように僕を見た。
 僕も箸を止めたまま、ドクドクと大きく脈打つ心臓の音が体中に響いていく。
「いや、ごめん……やっぱり何でもない」
 灰坂はお弁当のご飯を口に入れて「気にしないで」と変に崩れた笑顔を見せた。
 僕は箸を置いて深呼吸する。体中に音を響かせている心臓を落ち着かせる。
 灰坂はしっかり約束を守った。だから僕も約束を守らなきゃいけない。じゃないと計画がダメになるとかではなく、友達として灰坂に嘘をつくわけにはいかない。
 しっかり話そう。話さなきゃ。
 もう一度深呼吸。
 よし……よし。大丈夫。
「……灰坂。その……あまり気にせず、軽い気持ちで聞いてくれると助かるんだけど」
 灰坂は箸を置いて姿勢を正し、僕に頷いた。
「まぁ……その……灰坂の言う通り、僕の母さんは、僕が小学校六年生の時に……事故で亡くなってるんだ」
 僕ではなく、目の前の灰坂が唇をギュッと噛み締める。
「そんな顔しないでよ。もう大丈夫だから。そりゃ直ぐ気づくよね母親がいない事ぐらい。それで父さんも悪い人には見えないし、騙される様にも見えない。だからもしかして離婚じゃ無くて? って考えたんでしょ?」
「……ごめん」
「謝る事無いよ。灰坂も全部話してくれたじゃん。 だから僕もごまかさずにちゃんと話したいんだ。もう僕らは友達なんだからさ」
 灰坂はしっかりと頷いて、僕と目を合わせた。全部聞く。全部受け止める。そんな気持ちが伝わってくる眼差しだった。
 きっと灰坂も気づかないフリして過ごすのが嫌だったんだろう。真面目だからしっかり僕を受け止めてようやく友達になれると思ってくれたんだろう。でも、僕にとってはその気持ちだけで良かった。それだけでもう十分友達だった。
 だからこれは灰坂に対する誠意だ。友情に対する僕からの精一杯の誠意だ。
 僕は覚悟を決めて、灰坂に扉を開け放つ。
「原因は単純でさ……買い物帰りに信号待ちしてたら、飲酒運転の車がハンドル操作を誤って歩道に突っ込んで来たんだ。即死だったみたい。ニュースにもなったから、父さんも隠さずに全部教えてくれた。でもね、そんな事実より僕には突然母さんがいなくなってしまった現実のほうが受け入れられなくて……何て言うのかな。あの……あの感じ。今でも上手く言葉に出来ないんだけど、とにかくしばらく学校にも行けずに部屋に籠ってずっと泣いてたんだよ」
 無理してちょっと軽めに話す僕は、まるで灰坂と初めて会話した時みたいだった。
 未だ変に脈打っている心臓がひどくうざったらしい。
 灰坂はその眼差しを変える事無く、じっと僕の目を見ている。それが少なからず支えになっていた。きっと灰坂がここで悲しい顔をしていたら、僕は泣いてしまったと思う。
「父さんもすごく悲しんだと思うんだけど、息子がそんな状態だから多分すごく無理していたんだと思う。それが当時の僕には分からなくて、父さんは気にしてないんだって勝手に思い込んでた。父として妻の死を悲しむより息子の事を気にかけてくれたっていうのにね。それに気がつけなかった僕は母さんを、父さんを、気にしない事にしたんだ。まるで関係ない事の様に思う努力をした。親友も支えてくれたし、おかげで回復したんだけど、それは解決してない問題から目を逸らしているだけで……何も乗り越えてないんだよね。だからその結果、父さんとは距離が出来てしまったし、僕は母さんに関連するものを見ると、吐いてしまう様になったんだ」
 僕はカラカラに渇いた喉を麦茶を流し込んで一気に潤した。
 落ち着け。大丈夫。と自分に言い聞かせて、また灰坂と視線を合わせる。
「母さんはピアノの先生をやっていて、僕も習ってた。だからボイトレとか音楽的な事は全部母さんの受け売りなんだよ。考え方とかね。おかげで厳しくも楽しく音楽が出来た。けど、母さんがいなくなって僕には音楽が苦痛になった。僕にとって音楽は、母さんそのものだったからね。学校の授業なんかは何とか耐えられたけど、ピアノは一切弾けなくなった。だから、不思議なんだよ。どうして僕が今ピアノを弾けているのか、灰坂のボイトレを出来るのかが」
 言わなきゃならない事を全て話して、僕はまた麦茶を飲み、深く息を吐いた。
「まぁ、こんな感じかな。何か聞きたい事があれば何でも答えるよ」
 灰坂は押し黙ったまま、少し俯いた。やっぱりちょっと重すぎる話だったか。未だに解決してない話だし、仕方がない。ほんと、何でピアノが弾けるんだろう僕は。
「……あの!」
 灰坂は突然顔を上げて、テーブルに身を乗り出した。
「ホタルの、お母さんにご挨拶出来ないかな?」
「え? 挨拶?」
 死んでいる人にどうやって挨拶するんだろう? と一瞬、頭がこんがらがったけれど、直ぐに仏間で手を合わせたいという意味だと気づいた。
「うん。かまわないよ」
 僕と灰坂は食事の途中だったけれど、そのままにして仏間へ向かった。こういうのって作法とか行儀としてはどうなんだろうと思ったけれど、僕がいくら考えたって分かる筈も無いので、気にせず灰坂を案内した。
「————あれが、母さん」
 襖を開けて、仏間に飾ってある写真を指差す。
「……綺麗だね。すごく綺麗」
 灰坂はそう言ってしばらく写真を見つめた後、手を合わせて頭を少し下げた。
 数十秒の静寂が流れる。おかげで、蝉の鳴き声が際立った。
 僕も隣で手を合わせた。
 母さん。ここに来てから色んな事があって、自分でも消化しきれていない事ばっかりだけど何とかやってます。
「————ホタル、ありがとう」
 声に顔を上げると、灰坂がニコッと笑って僕に手を差し出した。
 母さんの前で何か恥ずかしかったけれど僕はその手を取り、握手をした。


「————母さんに挨拶って何を言ったの?」
 食事を再開して、僕はまたソーメンを啜り始める。
「ん? ホタルの話を聞いててさ、何て言うか、私はホタルじゃなくてホタルとホタルのお母さんにボイトレしてもらってる気がしたの。だから、ありがとうございます。頑張りますってお礼を言いたくなったんだ」
「そっか。なるほどね」
 僕はソーメンを啜る。灰坂の言葉が凄く嬉しかった。もし、ピアノを弾ける様になったのが灰坂にボイトレをする為だとしたら。そんなスピリチュアル的な考えは好きじゃないけれど、母さんに教わった事がこうやって広がっていくのは悪くない気分だった。
「そうだ。ねぇ、私、明日お弁当作って来るよ」
 灰坂は弁当箱を片付けていると、突然思いついた様に手を叩いた。
「いや、いつも作って来てるじゃん」
「違うよ。ホタルにって事。いつもソーメンしか食べてないからさ。お礼に」
 別にソーメンは昼だけなんだけど。なんて言った所で、この調子じゃ灰坂は何としてもお弁当を作って来るだろう。だから人のお礼はありがたく受け取っておく事にした。
「そうだね。ありがとう。楽しみにしてるよ」
「ちなみに好き嫌いはある?」
「好き嫌いは無いね」
 僕は自信を持って言った。好き嫌いが無いのは特技の一つだ。本当に無い。全く無い。みんな何かしら苦手なものがあるけれど、僕はどれも大好きだった。
「うん分かった。じゃあ楽しみにしててね」
「ありがとうございます。それじゃ、ボチボチ始めようか。先に部屋戻ってて」
 灰坂は頷き、弁当箱を持って立ち上がる。僕は器を片付けて、台所へ向かった。
 灰坂も最初と比べると随分、性格が変わった気がする。何も無ければきっと、クラスのみんなとも直ぐに打ち解けていたんだろう。
 どうやら計画さえ上手く行けば、その後の不安を考える必要もなさそうだ。