病院を歩いていると、窓から桜の花びらが降ってきた。もう春かと立ち止まり、外を見た。心地よい風が吹いている。

「桜...」

桜を見て思い出すのは大好きで死んで欲しくなかったあの人。田辺桜の事だ。桜が亡くなって、十年が経った。俺はあの日亡くなった桜を見て医者になる決意をした。もう誰にも俺みたいな思い、して欲しくない。その一心で大嫌いな勉強を頑張り、無事医者になれた。

医者になって数年は雑務だった。だが最近、やっと担当の患者をもてるようになった。俺が見た患者はみな、元気になって帰って行く。とても嬉しい事なのに、一番救いたかった人を救えなかった俺は心から喜べないでいた。

「お、純。ちょうどいい所にいた。ちょっと来て。」

先輩の先生...桜を診ていた先生に声を掛けられた。あの時は桜がとられるのではないかと敵視していたが、いざ同じ医者になると勉強になる事が多く、今や尊敬する人になった。

「先輩。どうしたんですか?」

先輩は空いている会議室に入ると鍵を閉めた。先輩と俺が二人きりになる事はほとんどない。先輩は桜の病気を治す薬を作った人の一人だから偉い人だ。そんな人が俺に、しかも二人きりなんて怖くて仕方ない。

「そんな構えなくてもいいよ。ほら、座りな。」

先輩の正面に座ると、缶のカフェオレが置かれた。小さく頭を下げて、一口飲んだ。結構甘いカフェオレで、少しリラックス出来た。

「田辺さんが亡くなって、十年が経ったんだね。」

ぽつりと先輩が零した。俺は持っていたカフェオレを置いて頭を下げた。

「あの時、桜を寝かせてしまい、本当にすみませんでした。」

「純、何度も言うけど君は悪くないよ。薬を手元に置いていなかった先生が悪いから。」

「でも桜が眠ってすぐ、薬が来たじゃないですか。俺がもう少し桜に声を掛けていれば...」

あの日、桜は最後にキスをしてと言ってきた。する気はなかった。だが酸素マスクを外されて、お願いと言ってくる桜の思いを無視できなかった。俺自身も、これが最後かもと思ってしまったのもある。

もしあの時、俺が桜にキスをしなかったら、桜はまだ生きていたのだろうか。考えても過去は取り戻せないのだが、考えずにはいられなかった。

「純、いつまでも引きずってたら田辺さん怒るよ。」

「生きてるなら怒られてもいいです。」

「本当に田辺さんの事となるとこうなるんだから...」

先生はやれやれと言いながら、持っていたクリアファイルから紙を出して俺に差し出した。

「なんですか、これ。」

「純に任せたい患者さんのカルテ。目通して。」

桜の事を話してて、次は患者さんか。桜の事を思い出していた俺は、今までの患者さん以上にカルテを読んだ。そして、驚いた。

「この子、桜と同じ病気だ。」

「うん。だから純に任せたいんだ。田辺さんを一番近くで見ていた君なら、出来るはずだ。」

「でも今、この病気は治りますよね?だったら俺じゃなくても...」

「この子、田辺さんと同い年で、家庭環境もよく似てる。」

「え...」

「それと、他の先生達には心を開いてくれなかった。まぁ、家族に暴言や暴力をされてたらそうなるよな。」

もう一度カルテに目を通す。先輩の言った通り、亡くなった時の桜と同い年だ。

桜も家庭環境が最悪だった。桜の葬式をする時、家族はおばあさんしか来なかった。そのおばあさんも去年、病気で亡くなった。

「どうして俺に任せるんですか?もっといい先生なら他にも...」

「君はあの田辺さんの心を開いた。だからこの子の心も開けると思う。どう?やってくれる?」

先輩は俺が断ったとしても、受け入れてくれるだろう。だがどうして断るのか。多分それは桜の事があるからだろう。薬があったのに助けられなかった。この子も、そうなってしまうのではないかって。

怖いのだ。怖いからやりたくない。俺は結局、自分の心を守る事しか考えていない。そんなの、医者として良くない。頭ではわかっているのに、行動に移せない。そんな俺を見かねたのか先輩が口を開いた。

「田辺さんがこの場に居たら、なんて言うだろうね。」

桜がここに居たら。桜だったら、自分の事より人の事を優先する。だから自分がやるって言うだろう。悩んでいる俺の気持ちを汲み取るだろうから。けれど今桜はここにいない。仮に居たとしても桜に負担をかけたくない。

あぁ、そうか。俺の答えは出ているではないか。怖いからやりたくない。でもこの子を助けたい。その両方があったっていいのだ。

「俺、やります。」

はっきり言うと、先輩は目を細めた。そして簡単な説明の後、実際に会って来いと言われた。

「急に行って相手の子、驚きません?」

「大丈夫だよ、純なら。」

なんの根拠かわからないが、とりあえず行くしかない。先輩に頭を下げ、会議室を出た。