鉱山都市トワノライトが見えてきた頃、東の空が白みはじめてきた。

 ポチ──魔獣の王との異名をとったこともあるフェンリルは、大好きなご主人との二人旅に、大変はりきっていた。

 ポチがまだ魔獣の王と呼ばれていた頃、ポチのご主人は魔王と呼ばれる人だった。とても意識が高く、彼が個人的な事情で憎んでいたニンゲンという種族をえこひいきする精霊たちを敵視していた。

 当時のポチ──フェンリルに与えられた仕事は、人間たちを追いかけ回したり、あまり賢くない同族たちを従えて凶暴な人間たちに立ち向かったりすることだった。

 それなりに誇りを持って取り組んでいたが、やたらと強い人間に虐められて、ほうほうのていで逃げだし傷を癒やしている間に、元ご主人である魔王は倒されてしまった。

 それで、瘴気とかいうものがいたるところにばら撒かれた。

 フェンリルにとっては悪いことではなかったが、瘴気というのは鼻が曲がるほどに臭いので気が滅入ってしまった。

 怖い顔をして襲ってきたり、痛い思いをさせてくるやつらにフェンリルはうんざりしていた。うざかった。

 せっかく主人の居ない野良フェンリルになったのだから、と野山を駆けまわるという夢を叶えることにした。

 そして、長い時間が経ったのち。

 フェンリルは今の主人、ユウキに出会ったのだ。

 あの忌々しい凶暴な人間とそのツレの精霊が結界の奥でのうのうと暮らしていることに気づいたフェンリルは、ちょっと脅かしてやろうと眷属を連れて結界破りをしようとした。

 当然、忌々しい凶暴な人間は怒ってフェンリルを追いかけてきた。

 一撃を食らって、またフェンリルは手負いになった。

 まただ。あの人間は、強すぎる。

 あの人間のメスは、年齢を重ねても老いて衰えるどころか、より洗練された強さを手に入れていた。

 まったく、忌々しい。

 眷属のコオリオオカミたちも、散り散りになってしまった。

 苛立ちながら、隠れていたところに……ユウキがやってきたのだ。

 だが、このユウキという小さな人間は少し普通と違ったのだ。

 フェンリルを殺そうとも、追い出そうともしなかった。

「……あのさ、おなかすいてるんじゃない? これたべる?」

 凶暴な人間と別れて、ユウキはたった一人でやってきた。

 はじめは、腹いせに食ってやろうかと思った。

 だが、差し出してきた干し肉を食べて驚いた。

 今まで食ったどの肉よりも美味かった。

 どうしたことか、とフェンリルが戸惑っていると、

「なんか……おまえ、ほかのまじゅーとちがって、ちょっとはなしがつうじてるかんじがしてさ。むかしひろえなかった、いぬのこと、おもいだした」

 と、昔話をはじめた。

 小さい人間には、以前に生きた別の人生があるのだという。その頃に、とても賢そうな捨て犬を家庭の事情で拾えなかったことを今でも少し後悔しているのだという。

 気がつくとフェンリルは、ぐるぐると唸るのをやめていた。

 そして、フェンリルに向かって笑って、頭を撫でたのだ。

 長い魔獣生で、人間に……いや、他の生き物に微笑みかけられたのは初めての経験だった。なんだか尻尾を振りたい気持ちになった。

 なんだか、この小さな人間に名前を呼ばれたい気持ちになってしまった。

「ポチってなまえにしたかったんだよなぁ……犬を拾えたら」

 ポチ。

 フェンリルはその名前を、すっかり気に入ってしまった。

 その名前を、自分のものにしたい。

 ポチ──そう名乗るには、図体がデカすぎる。顔が怖すぎる。

 名前にふさわしい体にならなくては!

「……え?」

「わふっ!」

 気がつくと、フェンリルは──ポチは善良な子犬の姿になっていた。

 主人であるユウキの足元を駆け回るのにふさわしい、ふさふさの犬に。

「な、なにこれ!?」

「わふわふっ」

 こうしてフェンリルは、忠犬ポチとしてユウキの相棒となったのだ。

 忌々しい凶暴な人間には、たまに牙を剥いてぐるぐる唸ったりもしたけれど、おおむね良好な関係を築いてきた。

 だがポチは、忠犬としてもっとご主人の役に立ちたいと常々思っていたわけである。結界の中は退屈すぎた。

 そういうわけで。

 ポチはこの旅に出るにあたって、とても張り切っていたのである。

 草原にかなりの数が繁殖しているブラック・ウルフの群れを魔獣たちの王としてのオーラで牽制し、弱いニンゲンのオスごときが大切なご主人に危害を加えないように(ごく穏便に)ちょっとだけ脅してやったわけだ。

 仕事をやりきったポチは、とても清々しい気持ちで熟睡しているユウキを前足でゆさゆさと揺り起こした。



 ……このユウキに備わっている能力こそが金髪ロリ女神にも感知できない、前世の得により獲得した能力のひとつ「テイムEX」だとわかるのは、もっと後になってからである。



 ◆



 というわけで、ユウキとポチはトワノライトに到着した。

 街の外周が高い城壁に囲まれているのは、魔獣対策だそうだ。

 なお、到着した瞬間にはユウキは爆睡していたので、外観はほとんどわからない。遠目で街の全貌を見ていれば、大まかな広さなどがわかったかもしれないのだけれど。

 ぺろぺろと顔を舐めてポチが起こしてくれたときには、すでに他の客はいなくなっており客席を圧迫していた荷物も運び出されている。

 どれだけ爆睡していたのか。

 我ながら図太い神経である。夜行バスでもぐっすり眠れるタイプなのは、お子ちゃまになっても変わっていないようだった。いや、むしろさらによく眠れるというか。

「よっと」

 一日ぶりに馬車から降りて、地面を踏みしめる。

 ずっとガタガタ揺れていたからか、なんだか平衡感覚がおかしかった。

「坊ちゃん、乗り心地はどうだった?」

「ふわ……ずっとねちゃってたので、おもったよりだいじょうぶかも」

「そうかい。いつも悪さする野郎どもを完封とは、恐れ入ったなあ」

「……?」

「ブラック・ウルフどもとのチェイスもなかったし、毎日でも乗ってほしいくらいだぁ! これ、運賃ちょっとオマケしてやるよぉ」

 御者がいやに上機嫌だった。

 無事に目的地に到着した際に支払う到着報酬を受け取ってもらえず、ユウキは逆に怖くなってしまった。

(俺……別に何もしてないのに……?)

 同じ馬車に乗っていた三人組は支払いを済ませるやいなや、挨拶もそこそこにそそくさと人混みに紛れていってしまった。

 なんだか、ユウキに怯えていたみたいだけれど……?

「わんっ」

 なぜか誇らしげにしているポチの頭を撫でてやった。

 街に入る際には簡単な手荷物検査があった。

 トワノライトで採掘される鉱石エヴァニウムが密輸されたりや盗難されたりすることを恐れているみたいだ。

 ユウキはきょろきょろとあたりを見回す。

 すごい人、見たことのない道具、食べ物の屋台。

 着ている服からして、まるでファンタジー系のオンラインゲームの中に入り込んでしまったみたいだ。

「ここが……都会……っ!」

 精霊や魔獣というある意味ファンタジー要素ではあるけれど、どちらかというと自然に囲まれて育ったユウキにとって、はじめての「街」だった。

 明け方の街に、LEDや電気ではない明かりがちらほらと見える。

 まだ日が昇りきっていないというのに、かなりの人出だ。

 ユウキと同じく、トワノライトに到着したばかりの人たちが眠たげに歩いている。忙しなくどこかへ向かっていく人たちも多い。

 身長の小さいユウキのことが視界に入らないらしく、何度かぶつかりそうになってしまう。

 ユウキと同じ背格好の子どもは、まったく見当たらない。

 正直、とても場違いだ。

(とりあえず、師匠にもらったメモを……ピーターさんとの待ち合わせ場所はどこだろう)

 トワノライトではルーシーの知人の家に居候することになっている。

 ピーターという人の営む『手伝い屋』の手伝いをするのが、この街でのユウキの仕事になるらしい。

 仕事を得るのは、オトナとしての大きな一歩だ。

 といっても、まだ六才なのだけれども。

(えぇっと……銅像前? いや、銅像ってそんなふんわりと……)

 明け方の街を、手元のメモを見ながら歩く。

 ルーシーが簡単な地図を書いてくれたが……まったくもって、意味がわからない。地図を書くのが下手なのか、もしかして、ルーシー自身が方向音痴なのか。目印となるランドマークがまったく描き込まれていないので、現在地がどこなのかもわからないし、目指すべき銅像がどこなのかもわからない。

「とりあえず、あるくか」

 六歳児とはいえ、雑踏を歩くくらいのことはできるだろう。

 毎日くたくたになりながら都心とベッドタウンを往復していた身である、雑踏を歩くのは苦手じゃない。いや、むしろ得意分野といってもいい。任せてくれ──と、思ったのだけれど。

「ひっく……ねえ、見て。鞄が歩いてる」

「やだ、飲み過ぎじゃないの?」

「ほんとだってば〜……ほら、あれ」

「本当に鞄が歩いてるじゃないの、かわいいっ!」

 くすくす、という笑い声に振り返る。

 歩く鞄、というのはどうやらユウキのことらしかった。

 思わず振り返ると、胸元や太ももをハデに露出したお姉さんが二人、ユウキに向かって手を振っていた。

 とろんとした表情。

 あれは、明らかにオールで飲み過ぎた翌日というテンションである。

 ……というか、とんでもなく化粧が濃い。

 夜の飲み屋の照明ではちょうどいい具合でも、朝日に照らされると部族同士の戦いに赴く戦士の戦化粧といった感じだ。

 強そうにもほどがある。

 顔面が屈強なお姉さんが、ひらひらと手招きをした。

「ねえ、鞄さん。よかったらお姉さんたちと一緒に寝ない?」

「ひ、ひぇっ」

 ユウキは後ずさりをして、慌てて駆け出した。

 子どもをからかっちゃいけません!

 きょろきょろとあたりを見回しながら歩くが、「銅像」っぽいものは見当たらない。

 かなり広い街だ。誰かに尋ねればいいのだろうが、さきほどのお姉さんたちの様子を見るに、あまり治安の良くない区域に迷い込んでしまったようなので誰かに声をかけるのも憚られる。

 早足、といっても六才児なりの早足でトコトコ歩いていると。

 どこからか、うめき声が聞こえた。

「……?」

 耳を澄ます。

 ユウキでは音がどこからするのかはわからなかった。

 困った、というか、迷った。

 聞かなかったフリをするべきか、それとも──。

「わうっ」

 ユウキの迷いを察したらしいポチが、「俺についてこい!」とばかりに鳴いた。親切で可愛くて頼りになる魔獣の王フェンリル(ミニサイズ)である。

(ここ……?)

 ポチが連れてきてくれたのは、明らかに怪しい路地裏だった。

 そっと覗き込むと、見るからに怪しげな人影が。

 やたらとガタイのいいスキンヘッドの男と、とんがり帽子のキョドキョドしている細身の男……見覚えが、ある。

「なあ、マイティ。やっぱりマズいって……この人、ミュゼオン教団の聖女さんだよ?」

「ちげぇよ、まだ聖女にもなってない見習いだろうが」

「でもよぉ……こんな女の子から身ぐるみ剥ぐなんて」

「だから、だろ。教団の見習いが奉仕活動中に襲われたなんて話、それこそ掃いて捨てるほどあるんだ……バレやしねぇよ」

「でもよぉ……アベルは女は狙うなって」

「あいつの言いなりなんて反吐が出るぜ!」

 明らかに苛立っているマイティと、それを諫めようとしているスティンキーの足元に倒れている人影を見て、ユウキは息を呑んだ。

 女の子だ。十二才くらいだろうか。

 ぐったりとしていて、意識不明の重体。

 もしかして、彼らに乱暴をされたのだろうか。

 師匠であるルーシーの言いつけ──本気で戦ったりしてはいけない、というルールが頭によぎる。

(いや、ムリだわ)

 師匠、ごめんなさい。

 かあさん、怒らないでね。

 ユウキは心の中で育てのママと母に謝罪しつつ、一歩を踏み出した。

 明らかに困っている人を見捨てるなんて、できない。

「ねえ、おじさんたち何してるの?」

 正義のヒーローみたいな決め台詞だと思って放った言葉は、六才の声帯のせいで体は子ども頭脳は大人なメガネの小学生探偵みたいな「あれれ〜?」感が出てしまった。

「げっ、馬車のガキ」

 ユウキとポチは、倒れている少女に駆け寄った。

 かろうじて息はあるようだ。

 ユウキはほっと胸をなで下ろす。

 だが、病院なんてあるのかもわからないし、スリ二人組に囲まれていることは変わらない。状況は悪いのだ。

「ち、違うんだ……俺は止めようと」

「ガキ相手にビビるやつがいるか、どけ!」

 スティンキーをマイティが大きな手をユウキに伸ばしてくる。

「うわっ」

 首根っこを掴まれて、ユウキの身体が宙に浮く。

 ポチがぐるる、と唸った。

 その目が妖しい青に光ったのを見て、ユウキは慌てて制止する。

 もし今、ポチが本気(・・)を出してしまえば大騒ぎだ。

 やたらとユウキに懐いていることでウヤムヤになっているが、ポチの正体はフェンリルである。絶対にこの場で、化けの皮が剥がれてはいけないのだ。

(ポチ、まて! まてっ!)

 必死のアイコンタクトでポチを制止する。

 とりあえず、ここから離れなくては。

 路地裏の人目のない場所で、倒れている少女とチンピラ二人。

 六才児には荷が重すぎる。場所を変えたい。

「その子のそばにいて、ポチ」

「わんっ」

 ポチに少女を任せて、ユウキはぽてぽてと走り出す。

 頭に血が上っているマイティは、血相を変えて追いかけてきた。

 何度か追いつかせては、空振りさせる。

 意外と動きが遅いのは、長旅で疲れているのだろうか。

 よかった、六才で。若いって素晴らしい。

「やめろって、マイティ!」

 スティンキーが慌てて追いかけてくる。

 ユウキはひょいひょいと掴みかかってくるマイティの腕を避けながら、人目のある場所を目指す。

 早朝の街だからだろうか、明らかなトラブルなのに道行く人々が立ち止まることはない。通勤ラッシュの駅のホームと同じだ。人が落ちても知らんぷり。

「お、おねーさんたち! たすけてっ」

 とっさに助けを求めたのは、さっきユウキにメロメロになっていたケバいお姉さんたちだった。

「あら、さっきの子!」

「どうしたのー?」

「きゃっ、あの人……たまに来る、クソ客のハゲじゃない?」

「あ、マジじゃん」

 マイティを指差してクスクスと笑う酒場で働いているらしきお姉さんたち。

 いやいや、クソ客って口にでちゃってますけれど。

 ユウキは苦笑いした。

 なんというか、勤務時間外の女性というのは容赦がない。マイティにもそれが聞こえたのかショックを受けた表情をしていた。

「く、くそおぉお! 馬鹿にしやがって!」

「うわ、わっ! ぼくはかんけいないのではっ!」

 結果として、八つ当たり先がユウキになったのは想定外だった。

「くっ、このガキ!」

 ゆで蛸みたいになったマイティが吠えた、その時だった。

「何してる?」

 ひょい、とユウキを抱き上げる手があった。急に足が地面から離れてびっくりしていると、目の前には口ひげが出現した。

「げっ、アベル!」

 口ひげの小男──三人組のリーダー、アベルがマイティを睨み付けていた。

 ぴたり、とマイティの動きが止まる。

「マイティ、スティンキー。勝手に何をしてる?」

 迫力。

 とても不機嫌そうなアベルの様子を一言で表すと、ド迫力だった。自分よりもずっと大柄なマイティを圧倒している。

 けれど不思議なことに、アベルの迫力はユウキにとっては嫌な感じはしないのだ。

「坊主、悪かったな。乗合馬車に引き続き、うちの馬鹿どもが」

 ぼそぼそと喋るアベルが、ユウキを地面に下ろしてくれる。

 とんがり帽子をとって、スティンキーもユウキに向かってぺこりと頭を下げてくれた。乱暴者のマイティ以外は、実は良い人なのかもしれない。

「……あっ!」

 とりあえず、うやむやのうちに場が収まったところで、ユウキは倒れていた少女のことを思い出す。

 あの子のところに戻らなくては、と回れ右をした。

「待て、この状況はなんなんだ……その坊主と、どうしてまたつるんでる?」

「そ、それはマイティが……その、ミュゼオン教団の聖女見習いを……」

 スティンキーがアベルにしどろもどろで説明をしている。

 それを聞いていたアベルの表情が、一気に曇った。

「ミュゼオンの少女に手を出したのか?」

「ご、ごめん。俺は止めたんだ」

「……いや、もういい」

 マイティは不機嫌を隠そうともしなかった。

(なんか、事情がよくわからないけど……もう行っていいのかな)

 ユウキはそっとその場を離れようとする。

「待て、坊主」

「は、はいっ!?」

 アベルに声をかけられて、飛び上がる。

「ミュゼオン教団の聖女見習いが倒れていたのなら、腹が減っているか魔力切れかのどちらかだ……これ持ってけ」

 手渡されたのは、パンの入った紙袋だった。

 まだほんのりと温かい。

「俺たちの朝飯用に買ったパンだが、まだ手はつけてない……ほら、とっとと行けよ」

「えっと、ありがとう……?」

 ミュゼオン教団だとか、聖女見習いだとか、聞き慣れない単語ばかりだ。

 ルーシーは身体を鍛える以外のことは最低限しか教えてくれなかったし、オリンピアに至っては精霊だ。人間のことは極めて疎い。

 とりあえず、倒れていた子を助けにいかないと。

 ポチがいるとはいえ、殺気の路地裏にまた悪い奴が寄ってきたら大変だ。



 路地裏に戻ると、ポチがお行儀よく待っていた。

 石畳に倒れ込んでいる少女にぴったりと寄り添って、モフモフの毛皮で温めてくれていたようだ。

「よくやった」

「わんっ!」

 頭を撫でてやると、嬉しそうに尻尾を振る。

 ユウキは床に倒れている少女を助け起こした。

 白い修道服のようなものを着ている。

 近くに落ちている木の枝みたいなものは、

「うぅ……」

「だ、だいじょぶ?」

 うっすらと目を開けた少女の瞳は、綺麗な若草色だ。

 結構な美形なんじゃないだろうか。

「ここは……?」

「えぇっと、トワノライトのろじうらで……」

 ここはどこって、こっちが聞きたい。

「ろじうら……」

「また……魔力切れを……おぇっ」

「わっ!」

 美少女が口からキラキラエフェクトを噴射しはじめた。

 といっても、ほとんど何も食べていなかったようなので、吐くに吐けないみたいだ。けっこう辛い状態だろう。

(さっき、髭の人も『魔力切れか空腹』って言ってたな……?)

 もらったパンは今のところは出番がなさそうだ。

 といっても、魔力切れには何をしてあげたらいいんだろう?

「た、たてますか?」

 とりあえず、他の人に助けを求めた方がよさそうだ。

 もし立てなかったら……ポチの力を借りれば運べるかもしれない。

 ユウキは女の子に手を差し伸べる。

 真っ青な顔で、とても申し訳なさそうに手を取ってくれた。

「す、すみませんです……こんなゴミみたいな駄目人間を……たすけてくださって……」

「ご、ごみって」

「あなた様のような子どもにまで迷惑をかけるなんて、これでは聖女の人助けではなくて人の足引っ張り業、いえ、迷惑屋……屋号を名乗るなんて、あまりにも傲慢ですね。やはり、私はゴミです、ゴミ……うぅっ」

「きゅうに、よくしゃべる!」

 自虐になった途端に、スイッチが入ったように喋りまくる人だった。

 目も据わっているし。変な人だ、この子。

 ユウキは少女を助け起こしながら、ちょっと引いた。

 でも、こんなところで行き倒れになっているのは放ってはおけない。

「おねえさん、こっち」

「はい……って、あれ?」

 少しでも元気になれ、と思いながら握った手が……なんだか、光っているような。

「な、魔力が……流れ込んで……?」

 青白かった少女の顔色がよくなっている。

 と、同時に独り言も加速した。

「う、嘘でしょう。他者に魔力を分け与える『治癒者(ヒーラー)』の技能をお持ちで……? ミュゼオン教団の秘儀ですよ、これ。私なんか入団してから習得まで半年もかかったんです……あ、いや、私などと比べるなんて失礼極まりないですが。体内に溜められる魔力の量がちょっと多いというだけで拾われたゴミクズですし。見たところあなたは男児……ですよね?」

「いちおう、そうです」

 トイレとお風呂で毎日ちゃんと確認はしております。はい。

 いつしか少女は、ユウキのことを尊敬の眼差しで見つめている。

「本当にありがとうございます。もう魔力は十分に分けて頂きました! これでも魔力量だけは市井の方の二倍か三倍はあると言われているのですが……その、こんなに魔力を分けて頂いて、あなた様は大丈夫なのですか?」

「もんだいないです」

 実際、何も異変は感じない。

 もしかして、普通の人よりも魔力が多いのかもしれない──とユウキは自分の手を見つめた。

 転生してくるときに会った、金髪幼女な女神様を思い出す。

 色々と特典を付けてくれるって言っていたけれど、やたらとポチに懐かれていることや魔力の量が多いらしいことも、その「特典」なのだろうか。

「なんと……そのようにお小さいのに、すでに大器を備えていらっしゃる! さぞや高名な一族のご出身なのでは……?」

「いや、ぜんぜん……やまおくからきたので」

「山奥?」

 頭上にはてなマークを浮かべている少女を、なんとか表通りに連れ出した。

 さっきの騒ぎは沈静化したようだ。

 ユウキとポチは、少女に連れられて歩き出す。

 なんと御礼をしたらいいか、とすっかり恐縮しきっている少女に道案内をお願いしてみたのだ。

「銅像といえば、おそらくはこの街の礎を築かれたピーター氏の銅像でしょうね。ご案内いたしますよ」

 すっかり元気になった少女が、上機嫌に道案内をしてくれる。

「といっても、ここは街の東のはずれで……銅像は中央広場にあるのでかなり歩くのですが」

「ええ……」

 それならば、結構時間がかかってしまいそうだ。

 待ち合わせ相手が業を煮やして帰ってしまっていなければいいけれど。

「なるべく、ちかみちをおねがします。えっと……」

 ここにきて、お互いの名前を知らないことを思い出した。

「申し遅れました……サクラでございます。恥ずかしながら家名を賜っている生まれでございまして、サクラ・ハルシオンと申します」

「ユウキです。ユウキ・カンザキ」

「なんと!」

 サクラが目を見開いて、ユウキを見つめた。

 そんなに驚くような名前なのだろうか。

 一応、前世の名前を名乗っただけなのだが。

「カンザキ……様? 申し訳ございません、家名を存じ上げず……な、なんという失態! 帝国貴族の端くれとして、他の貴族の家名や家格を失念など……我ながら恥ずべき愚者っぷり……」

「いやいや、きぞくじゃないですっ!」

「……? 家名があるということは、貴族なのでは」

「えっ?」

「はい?」

 家名があれば貴族。

 なるほど、少なくともこの国ではそういうルールになっているらしい。

「ユウキカンザキまで、ぜんぶなまえ! です!」

「なんと! それでは愛称がユウキ様ですね」

 こくこく、と頷くと、なんとか納得してもらえたようだった。

「ご年齢のわりに強大な魔力をお持ちですし、一人旅をされているし、俗世とは一線を画しているご様子ですし……てっきり、かなり深いご事情のある方かと思ってしまいました」

「す、すみません……やまおくから、きたので……」

 どうにかなれ!

 ……という気持ちで、ユウキは隣を歩くサクラを見上げた。

「か、かわっ」

 途端に、サクラの口元が緩む。

「……こほん。そ、そうですね。まだお小さいので、世の中のことをご存じなくても仕方ありません……失礼しました」

 ぐぅううぅう、と切ない音が響く。

「おなか、すいたんですか?」

「うっ、申し訳ございません! お恥ずかしい、役立たずのくせに食欲があるなんて……っ!」

「だれでもおなかはすくよ」

 はい、とユウキは紙袋を差し出す。

 さきほど、アベルに押しつけられたパンの入った紙袋だ。

 ユウキは保存食を持っているし、上手くすれば待ち合わせ相手と合流できる。サクラが食べるほうがいいだろう。

「うぅ、ありがとうございます……っ」

「たりなければ、くだものもあるからね」

 オリンピアの持たせてくれた果物だ。あまり長持ちはしないだろうから、お裾分けしておいた。

 自分と同じくらいに大きな背嚢を背負ったちびっこが、モフモフの犬をつれて年上の美少女に連れられているという図は、かなり注目を集めている。

 とことこ歩いていると、やがて向こうに銅像が見えてきた。

「トワノライトで銅像といえば、あれです。この街を発展させ、魔王時代後にこの地方が発展する礎を築いた『鉱山王』ピーター卿の像です」

 おや、とユウキは首をかしげた。

(ピーター……って、どこかで聞いた気がするな?)

「さあ、付きました。あれがピーター卿の銅像です」

 サクラが指をさした銅像。

 凜々しい顔つきの男性だ。年齢は四十代くらい。

 立派な服に身を包み、右手にツルハシを持っていて、左手はよくわからないが斜め前方向を指差している。銅像にありがちなポーズだ。

 意外と普通の顔立ちというか、言われなければそんな重要人物には見えない銅像だ。服装と顔つきとポーズと持ち物がすべてちぐはぐで、ちょっとオモシロになってしまっている。

「えっと、まちあわせ……」

 ユウキたちがキョロキョロしていると、銅像の前に立っていた男性が片手をあげた。

「やあ、おはようございます」

「えっ」

 ユウキは驚いて思わず声をあげた。

 和やかに声をかけてくれた男は、銅像そっくりだったのだ。

 男の方が少しばかり歳をくっているし服装がラフ……というか麦わら帽子に白シャツというラフさだが、眉毛から鼻から口から、顔のパーツが何もかもがそっくりだ。人懐こそうな、右の口端を持ち上げる笑い方まで完コピである。

 もしかして、ファンの人かな?

「やはり君が、ユウキ殿かな?」

 英雄完コピおじさんが、ユウキににっこりと微笑みかけてきた。

 念のため、きょろきょろとあたりを見回すが、周囲にユウキと同じ背格好の人間はいない。

「やっぱりそうだ。はじめまして、僕はピーター。ルーシー殿から話は聞かせてもらっています、トワノライトへようこそ!」

 大きな手を差し伸べられて、思わず握手をした。

 片膝をついて、目線を背の低いユウキにあわせてくれている。

「ぴーたー……」

 やっぱり、さっきサクラから聞いた名前だ。

 このトワノライトを発展させた張本人で、貴重な鉱石であるエヴァニウムの鉱脈を見つけた偉人だという。

 目の前の壮年の男は、とても人がよさそうな笑みを浮かべている。

 麦わら帽子とか被ってるし。とても、偉い人には見えない。

 サクラが、震える声で叫ぶ。

「な、な、待ち合わせをしている相手って、ピーター卿だったのですかっ!?」

「え、あ、たしかに、めもにピーターってかいてある……かも」

「な、なんと……っ!」

「おや、そっちのお嬢さんは……木製の素杖に白衣ってことはミュゼオンの見習いさんかな?」

「は、はい。サクラ・ハルシオンです」

「ユウキくんを助けてくださったのか、さすがは将来の聖女様だねぇ! こちらは少ないですが、喜捨でございます」

 ピーターがポケットから取り出したコインを恭しくサクラに差し出した。

「わっ!?」

 ぴき、とサクラは固まってしまった。

 受け取ったコインを握りしめたまま、ふるふると震えている。

「サクラさん、だいじょうぶ?」

「だ、だ、大丈夫なわけありません……ピーター卿ですよぉぉっ!? ユウキ様、あなた一体何者なのですかっ!?」

 何者と言われてもなぁ、とユウキは思わずポチと顔を見合わせた。

 恐縮して赤くなったり青くなったりしているサクラに、ピーターが照れ笑いをする。

「いや、そんな大層な者じゃないんだよ」

「何をおっしゃるのですか、この街を作ったといっても過言ではないです……なんの役にも立たない歪んだ鍋のふたみたいな私が生きていられるのも、このトワノライトが豊かな街だからです……もはや、ピーター卿は私の恩人! ですっ!」

「そのピーター卿ってのやめておくれよ、照れるって……」

 ピーターが、見た目に似合わずモジモジと身体をよじる。

 熱弁モードに入ったサクラは止まらなかった。

「そもそもトワノライトは、もとは草木の生えない不毛の地と呼ばれていた場所……その原因究明に乗り出したのが、最強と名高いかの救国の英雄グラナダスの隊に属していたピーター卿です。当時は下働きとして隊を支え、魔王撃破後にグラナダス隊が解体となった後も、の瘴気放出によって衰えた国力復興のために尽力されたとか! そして、この場所に古代精霊の力を蓄えた貴重な鉱物エヴァライトが大量に埋まっていることを突き止めたのです!」

 饒舌だ。もはやミュージカルのノリである。

 いつの間にか近くに人だかりができている。

 ピーターは麦わら帽子を目深に被って、

「こうして『鉱山卿』ピーターにより、トワノライトの街が大発展しただけではなく、人類の発展にも大きく貢献しています。精霊の力が大きく弱まってしまった瘴気放出以降の世界において、精霊石エヴァニウムの鉱脈が発見されなければ文明は衰退していたに違いありません──ピーター卿こそ、偉大なる伝説のひとりなのですっ!」

 大演説が終わると、集まってきた聴衆から拍手が漏れた。

 小さなコインがぽいぽいと投げ込まれる。

 コインがこつんとおでこに当たったサクラが、我に返って顔を赤らめる。

「はっ! こ、これは見世物ではございません……」

「えっと、俺も……一応追加で渡しておくねぇ……」

 ピーターも茹で蛸のように赤くなってしまっている。

 コインを手渡されたサクラが、ぴたっと動きを止める。

「……ありがとうございます」

 震える声で、サクラは頭を下げた。

 なんだかそれがあまりに切実で、ユウキは首をかしげた。

 ピーターが穏やかな声色で言った。

「見習いさんということは、教団への上納金なんかも大変でしょう」

「は、はい……私、恥ずかしいことなのですが、こんなにたくさんの喜捨をいただいたこと、なくて……ダメなゴミなので、ずっと実家から持ち出した色々な物を売って、司祭様にノルマを……」

 そこまで言って、サクラはハッと口をつぐんだ。

「すみません、こちらの事情を……」

「いえ、聖女見習い様に精霊のご加護のあらんことを」

「……ありがとうございます、ピーター卿。ああ……それにしても、まさか、ピーター卿から喜捨をいただけるなんて……今も市井に紛れて暮らしていらっしゃるとは聞いていましたが……気取らないお人柄、偉ぶらないご人徳。想像を遙かに超える方でした」

 くるり、とサクラはユウキに向き合った。

「それから、ユウキ様も。助けてくださって、ありがとうございます。その……ユウキ様のご身分は内密にいたしますので」

「みぶん?」

「その……やはり、高貴なお方とお見受けいたしましたのでっ」

 何か勘違いがあるようだけれど……変に訂正すると、余計にそれらしく感じさせてしまうかもしれない。今は黙っておこう。

「ううん、こちらこそっ! あんないしてくれて、ありがとう」

「わうっ!」

 とりあえず、ユウキはピースサインをしてみせる。

 なんだか大変そうなので、「がんばれ」の気持ちと「いけるよ」の気持ちを込めて。サクラは不思議そうにユウキを見つめる。

「……? それは何かの呪いですか」

「のろいじゃないよ!?」

「そうでしたか、ハンドサインで呪術を行う流派もいると聞いたので」

「えっと、ぼくのこきょうの、げんきになる……おいのり? です」

「なるほど!」

 サクラは、見よう見まねでピースしてみせた。

「こう、でしょうか」

 はにかんだ微笑みが、とても可愛らしかった。

 サクラを見送ると、ピーターがひょいっとユウキを抱き上げてくれた。

 自分で歩けるとはいえ、昼近くになって行き交う人も多くなってきたので

「では、ユウキ殿。行きましょうか」

「はいっ」

 ピーターに抱っこされて歩く。

 ポチはすんすんと鼻を鳴らしながらピーターの足元をくるくると回ると尻尾を振ってピーターのあとをぴたりとついてきた。

 ユウキ以外には懐かないポチが友好的な態度を示している。

 もうひとつ、不思議なことに気がついた。

「だれも、ピーターさんのことをみない……?」

 サクラの様子を見るに、ピーターはかなりの有名人のはずだ。

 それが誰ひとりとして、ユウキを抱いて歩いているピーターに気がつかない……まるで、本当に「見えていない」ようだ。

(師匠が魔獣から姿を隠してるときみたいな……)

 ルーシーが意図的に自分の気配を消しているときに、すぐ鼻先をあるいていた魔獣がルーシーに気がつかないという光景を見たことがある。

 まさしく、あの時と同じ現象だ。

「あれ、ユウキ殿は気づいていらっしゃるのか。さすがは異世界からの旅人だな……昔から、悪目立ちしないのだけが取り柄でね。魔王を倒す英雄の旅に同行しただなんて言われているけど、粛々と買い出しやら宿の手配やらしてたのが俺なんだ」

 英雄グラナダスと共に旅していた。

 やはり、この世界のオトナというのはすさまじい。

 ユウキは身を引き締めた。



 ◆



 さて。

 時間は少し巻き戻る。

 口ひげの小男、アベルは背嚢が歩いているような後ろ姿を見送って、溜息をついた。

「あの坊主と犬……何者なんだ?」

 彼の名はアベルという。

 いや、正確には「彼女」だ。

 どっかりと腰を下ろして、アベルは目深に被っていたフードを払う。

 ぺりぺりと口ひげを剥がすと、上背の小さな口ひげの男の顔の下から疲れ果てた女の顔が現れる。

 フードと前髪に隠れていた右目は、わずかに白濁している。

 アベルの瞳は特別製だ。

 人の能力を見極めることができる。

 色々とあって、盗賊まがいのことを生業としている。

 いま、つるんでいるスティンキーとマイティも、場末で埋もれていた彼らのスキルを見込んで仲間に引き入れた。富める者から、少しばかり分け前をもらって貧者に再分配する──それがアデルのやりかただ。

 だが、マイティの乱暴には困ったものだ。

 彼の腕力はたいしたものだが、やや虚栄心とプライドが高いのが玉に瑕だ。

 スティンキーの「潜伏」や「手先」の才能と気弱ではあるが善良な性格のほうが、マイティの乱暴に潰されてしまわないだろうか……というのは、余計なお世話かもしれないが。

 いや、今はあのユウキとかいう子どもと犬だ。

「ただの子どもにしては、めちゃくちゃな量の魔力を持っていた……それも、人間の魔力じゃないぞ、あれは」

 アベルの白濁した瞳は、視力を失っているかわりに「見えないもの」を見ることができる。

 たとえば、ユウキが連れている犬がただの犬ではなく──かなり強大な魔獣の類いであることとか。

 そんな魔獣が小さい子どもに懐いているのは、見たことのない才能(スキル)「テイム(特)」によるものだ。

「……面倒事にならないといいけどなぁ」

 人の「才能」を見る、というのは特殊技能だ。

 本来であれば、ミュゼオン教団や王国が所持する秘宝によって可能になるとか、ならないとか。

 アベルはそんな「眼」を持っているがために、今までそれ相応の危険な眼にあってきた。人と違う力を持つことの面倒さを、わかっているつもりだ。

「力なんて、自分のために使うくらいでちょうどいいのにな」

 自分がまだ年端も行かぬチビのくせに、見ず知らずの行き倒れを、当たり前のように助けようとしていたユウキを思い出して、アベルは小さく舌打ちをした。