朝の過ごし方というのは、その家を象徴している──と思う。

 たとえばユウキの前世では、親が自家用車で遠方の音楽教育が充実している学校に通う妹を送り迎えしている間、サッカーのクラブチームの朝練に向かう弟のためにユウキが朝食や弁当を作っていた。才能溢れる弟と妹のために早起きすることは、しんどいけれども苦痛だったことはない。

 ポチに顔面をぺろぺろと舐められて起き出す。

 ダイニングにはピーターがいた。

 テーブルの上のバスケットに黒いパンが盛られている。

 たっぷりとミルクを入れたマグも用意されている。これがピーター家の朝ごはんのようだ。アキノはまだぐっすり眠っているようで、二階からかすかにイビキが聞こえてくる。聞かなかったことにしよう。

 アキノは昨日と同じく昼過ぎに起きてくるようだ。シフト制親子である。

 昨夜、家に帰るとすでにピーターは眠ってしまった後だった。

 アキノは明け方にピーターが起きてきてから眠るから、とユウキを先に寝室に送り込んでくれたのだ。

 父娘のどちらかが起きていることで、このお手伝い屋さんに困っている人が駆け込んきやすい状態にしている……ということだろう。

「やあ、おはようございます。ユウキ殿」

「おはよございます」

「昨夜のユウキ殿の活躍、アキノが寝る前に話してくれたよ。それから、例のお願い(・・・・・)のことも。見た目は小さな子どもなのに立派な人だと驚いていたよ」

「え、あ、えへへ」

「アキノは俺に似たのか、大きな取り柄はないけれど運はいい子でね。この仕事もなんとかやってきたんだけれど……あんなに楽しそうに仕事の話をしているのは、初めて見たな」

 ピーターがユウキにパンを取り分けてながら、穏やかに微笑む。

 丸くて大きな黒っぽいパンは、昨日スリ師三人組のアベルがくれた紙袋に入っていたものと似ている。これがトワノライトの日常食らしい。

 昨日は結局、背嚢に入っていた果物を食べてすぐに眠ってしまったので、トワノライトの食べ物を口にするのは初めてだ。

「いただきます」

 まふ、とパンに齧り付く。

「…………」

 パンの味がなかった。というか、埃の味がする。

 仕方なく流し込んだミルクも、味が薄くて水っぽかった。もうミルクはこりごりだと思っていたけれど、オリンピアが用立ててくれたミルクはかなり美味しいものだったのだと、今更になって思い知った。

 ……この世界の料理て、もしかして。

 全部、マズいのだろうか。

 ルーシーの手料理が特異的に不味いのかと思っていたけれど、そうではなさそうだ。今のところ、オリンピアの果実が一番美味しい状態だ。

(まあ、それはそうだよな……味噌も醤油もないんだもん……)

 調味料が塩と野草的なハーブだけなのだから、仕方がないところだが。

 いつか、美味しいものを食べたい。

 体も大きくなってきて、お腹も空くようになってきた。

 ユウキはハンバーガーチェーンの薄っぺらくてケチャップの味が濃いハンバーガーや、喉が渇くしょっぱさの家系ラーメン(ほうれん草マシ)、伸びるチーズがてんこ盛りのピザに思いを馳せる。

 パンを食べているのに、お腹が空いてきてしまった。

 そのとき、玄関に人の気配があった。

「ごめんください」

「おや、ミュゼオンの見習いさん」

「っ、ピーター卿!」

 サクラだった。

 昨日はあまり眠れなかったのか、目の下に濃いクマができている。

「ようこそ、昨日ぶりですね」

「す、すみません……『ピーター卿の家かも』という噂をたどって、急に尋ねてきてしまい……」

「おやおや。あまり言いふらさないでくださいね」

 内緒、とピーターが口の前に人差し指を立てると、サクラはコクコクと頷いた。

 本当にこのおじさんは、人タラシだ。

 ピーターの口ぶりからは、こんな仕事をしているのに本当に「英雄」だと気づかれずに過ごしているらしい。もしかしたら、周囲が気がついていないフリをしてくれているのかもしれないけれど……。

 そして、後ろから様子を見ていたユウキを見つけると、緊張した面持ちから一転、パアァアッと笑顔になって小さく手をふってきた。

 ピーターが膝を突いて、サクラに目線をあわせる。

 それなりに上背があるピーターだった。

「何かの御用ですかな」

「えっと、その……ユウキ様にお礼を申し上げに……」

「おや、ユウキ殿に? では、どうぞ中へ」

 ピーターがサクラを中に迎え入れる。

 そのとき、「ああ、そうだ」と何かを思い出したようにサクラを振り返る。

「そうそう、ついでにミュゼオン教団の見習いさんに懺悔を聞いてほしいのだけれど……お願いできますかな」

「えっ? 懺悔を聞かせていただいても、私は見習いなので何もできません……」

「聞いてくれるだけでいいんです。喜捨はのちほど」

「そんな! 喜捨だなんて……こんな役立たずに」

 恐縮するサクラにそれ以上は返答せずに、ピーターはずんずんと応接室に進んでいく。

(なるほどなぁ……上納金ノルマのこと、助けてあげるつもりだ)

 ピーターは家を訪ねてきたサクラにスムーズに喜捨を渡すために「懺悔を聞いてほしい」と願い出たのだろう。

 ユウキは、痺れた。

(かっこいいなぁ!)

 のんびりとして平凡なおじさんという印象だったピーターだが、ひとつひとつの言動に芯が通っている。

 こういうイケオジになりたい人生であった。

 まあ、今は六才児なので遠い夢なのだけれど。

 応接間に通されたサクラは、所在なさそうにそわそわとしている。

 ユウキは応接室の外から様子をうかがうことにした。

「実はお茶を上手く淹れられなくてね……すまないが、朝食の残りのミルクをどうぞ」

「ありがとうございます、こんな高価なものを」

 ミルクは高級品らしい。

 ほこりっぽいパンを流し込むためにがぶがぶ飲んでしまって悪かったな、とユウキは頬をかいた。

「それで、ピーター卿の懺悔というのは?」

 サクラがぴっと背筋を伸ばす。

 わざわざこの場所を探してやってきたのだから、サクラにも話があるはずなのに……責任感の強い少女なのだな。

「はい、実は……昨日、娘とお客人に仕事を任せたのちに、すっかり眠り込んでしまいまして……」

「ふむふむ」

「それで昨日、彼らがお助けしたというミュゼオン教団の聖女見習いさんをおもてなしすることもできなかったのです。信者からの申し出でしたら、外泊も許されたでしょうに……私が起きていたら、夜遅くに見習いさんを寮に追い返さずにすんだのですが」

 申し訳ないことをしたなぁ、とピーターは大きく溜息をついた。

「そそそ、そのっ! むしろ、私はその御礼を申し上げに……」

 困惑しているサクラに、ピーターがニッコリと微笑みかける。

 ポケットから金色に光るコインを取り出して、応接テーブルにことりと置く。高額なコインだ。

「実はですね、こちらからお願いが……というか、そこにいるユウキ殿からのお願いがあるのです」

「え?」

 名前を呼ばれて、ユウキは廊下から顔を出した。

 サクラが目を丸くしてユウキを見る。

「あ、あの、ユウキ様……私、あなたとアキノさんにお礼を申し上げに来たのですが……役立たずのクズ以下の私なんかにお願いって一体……?」

 実は、昨日の様子を見てアキノに相談をしていたのだ。

 すでにアキノを通して、ピーターにも話を通してある。

 サクラが今朝ここにやってこなかったとしても、ミュゼオン教団に申し入れをするつもりだったのだ。

「サクラさん。あのおうちのおそうじ、てつだってくださいっ」

「えっ?」

 上納金とか、ノルマとか。かなり苦労しているのは明らかだった。

 しかも、路地裏でげっそりと痩せて倒れていて……スリ師のスキンヘッドに身ぐるみ剥がされそうになっていた。おそらくあれは、珍しい光景ではないのだろう。屋敷に置き去りにされていたところからも、教団とやらでも立場が弱いのだろう。

 ユウキも営業職でノルマに追われてた時期もある。

 しかも、社内の人間関係も最悪だった。

 つらいのだ、あれは。

 わかるからこそ、助けてあげたい。

 だからといって、お金だけを渡すのはサクラのプライドを砕いてしまう。

 とてとて、とユウキはサクラの近くに歩み寄った。

「おてつだいやさんのおてつだい、してくれる?」

 アキノが瘴気酔いをしやすいのは、彼女が持っている魔力量が非常に少ないかららしい。いわく、魔力量が多い人が手伝ってくれれば、色々とスムーズなのだという。余裕があれば、ミュゼオン教団の聖女をサポートに入れたいくらいなのだと。

 ならば、うってつけの人材がいる。

「あ、あ」

 ぽろりと、サクラが涙をこぼした。

 昨日、路地裏で倒れていた様子といい、かなり切羽詰まっているみたいだ。

「わ、私っ……ほ、ほんとに魔力量以外に、とりえが、なくてっ」

 サクラがぽつぽつと話し始めたのは、彼女の生い立ちだった。

 貧乏貴族の七女に生まれたサクラは、口減らしのためにミュゼオン教団の聖女見習いに志願した。

 幸運なことに生まれつき魔力量に恵まれていたから、人体に宿る魔力……つまり生命力を他人に分け与えることで病気や怪我を治癒する聖女を養成しているミュゼオン教団は、サクラを歓迎してくれた。

 だが、姓を持つ貴族の生まれであることで、庶民出身の先輩たちからはやっかまれた。

 さらには、見習いを続けるための上納金のノルマが想像以上に厳しく、多くの見習いがあまり人に言えないような奉仕活動で稼ぎをあげているのが教団の実情だったのだ。

 ルールを破ることも、裏ルートのご奉仕もしない清廉なサクラはどんどん孤立し、困窮していった。

「上納金も、両親が持たせてくれた、なけなしの餞別を少しずつ切り崩して払っていたのですが……もう、これも底をついて、しまって」

「ふむ……もし上納金を払えなければ聖女になった後、一生を教団の下働きとして過ごすことになってしまうとか?」

 ピーターの問いかけに、サクラは躊躇いがちに頷いた。

 どうやら、その噂は本当のようだ。

「ふぅむ……ミュゼオン教団の見習いは街の下僕……という意識の者もいますからね。乱暴を働く輩も多い」

 酷い話である。

 肩を震わせるサクラは、ユウキに頭を下げた。

「はい……だから、昨日みたいに助けていただいたことは、はじめてで」

 サクラは涙で濡れた瞳でユウキを見つめる。

「わ、たし……本当に、嬉しくて……こんな階段の溝に溜まりに溜まったチリよりも存在している価値のない、しぶといだけが取り柄のゴミに……優しくしてくださって、ありがとうございます。同じゴミならば腐った野菜クズのほうがまだ利用価値があるでしょうに……畑の肥やしとか……あっ、肥やしなら私もなれるかも」

「ねがてぃぶのいきおいがすごい!」

 正直、ちょっと鼻につくほどの卑屈さだ。

 おそらく孤立無援で、いつも自尊心を踏みにじられるような境遇がそうさせているのだろうけれど、あまり気持ちのいいものではない。

 何より、卑屈になればなるほどサクラを目の敵にしているような奴らが増長するのは目に見えている。

「じぶんを『ごみ』とか『かす』とかいうの、やめて!」

 じっとサクラの目を見て、訴えた。

 サクラはハッとしたような表情をして、ユウキの言葉を噛みしめる。

 そして、またジワジワと泣き出してしまった。

「ユウキ様……あのとき、私みたいなク……いえ、私をっ、助けてくださって、あ、ありがとうございます……!」

「うん、うん」

「ほ、ほんとに……嬉しかったんです……」

 サクラとて、まだ十二才かそこらの子どもだ。年相応に泣きじゃくるサクラの頭を、ユウキは思わず撫でてしまった。自分が六才児なのを忘れて。

「……おなじじゃないけど、わかるから」

「〜〜っ、うえぇえっ」

「ふぎゃ!」

 感極まったサクラが、ぎゅうっとユウキを抱きしめる。

「ユウキ様……あ、あなたは本当にすばらしいお人ですっ! 一体、人生何周目でいらっしゃるのでしょうか!」

(に、二周目ですっ……!)

 ユウキのほっぺたをむにむにとして、サクラはちょっとだけ笑顔を浮かべる。六才になっても、ユウキのぷにぷにほっぺたは健在である。本人としてはちょっと気にしているのだけれど……周囲の大人には好評なのだ。

「ふふっ、柔らかい」

(なんか悪いことをしている気に……まあ、機嫌が直るならいいけど……)

 しばらくされるがままにしていると、応接室に遅れて起きてきたアキノがやってきた。

「おはよう、アキノ。今日からの仕事は、サクラさんにお手伝いいただけることになったよ」

「ふーん……」

 まだ寝癖がとれていないアキノがサクラに抱きしめられているユウキをじとっと見つめて、呟いた。

「……ユウキさん、楽しそうね」

 なんか、冷たい声なんですけど。

 ユウキはじたばたと手足を動かした。誤解です、アキノさん。

 ハーブティーを淹れながら、「ユウキさんのほっぺた、触るの我慢してたのに」と膨れているアキノに、ユウキは驚く。

(ほっぺたくらい、いくらでも触っていいですが!?)

「わふっ」

 我関せず、といった顔で、部屋の隅でポチが一声鳴いた。

(こ、この裏切り者っ!)

 ユウキははじめて、親愛なるもふもふの相棒に対して「この犬めっ!」と毒づいたのであった。



 ◆



 昼過ぎから、ヒルクの屋敷の大掃除がはじまった。

 瘴気を可視化する変なメガネをかけたアキノの指示の元、サクラとユウキ、それからポチで清掃をすすめる。

 瘴気を祓うというと大げさだけれど、風通しを良くして、埃を払って床をよく拭く、瘴気が溜まらないように整理整頓をする……という普通のお掃除である。とても、地味。

「よいしょ、よいしょっ」

 ユウキは背の低いのを利用して、低い位置の拭き掃除や整理をしている。

 まずは瘴気の濃い奥の部屋から浄化(そうじ)をはじめている。

 順調にいけば、三日か四日あれば作業が終わりそうな見通しだ。

「不思議ね、やっぱりユウキさんの近くにいると瘴気酔いがマシな気がするわ」

「はい。ユウキ様の周りだけわずかですが瘴気が浄化されている……信じがたいですが、本当のようですね」

 床の拭き掃除をしているサクラが大きく頷く。

「アキノさん、ご気分は大丈夫ですか?」

「ええ、元気よ。さっきサクラさんに魔力を分けてもらったからね」

「よかったです! いつでも言いつけてくださいね」

 魔力を譲渡する術は、ミュゼオン教団の秘術らしい。

 この魔力譲渡によって、ミュゼオン教団の聖女や見習いたちは、瘴気酔いや病気や怪我を治癒する。他にも、瘴気祓いを請け負ったり、様々な「奉仕活動」を行っているのだという。

 魔王討伐後、瘴気が渦巻く世界になってからというもの、魔力を多く持つ女子を集めて養育し「聖女」として働かせるミュゼオン教団は日々勢力圏を伸ばしている。

 ちなみに、サクラが路地裏で倒れていたのは、魔力が回復する前に譲渡を繰り返していた結果、魔力切れを起こして昏睡していたようだ。加減を知らないのも困りものだが、見習いにはよくある事故らしい。

「ふぅ、見習いさんがいてくれると助かるわ。さすがにユウキに魔力まで分けてもらうわけにもいかないしね」

「うっ。すみません……ゴミクズなので……この間……たっぷり魔力をわけてもらってしまいました……お小さいのに、あんなに魔力をお持ちなんて……」

 しゅん、とサクラが肩を落とす。

「ほら、落ち込まないの。持ちつ持たれつよ!」

「はいっ」

「さあ、わかったらピカピカに掃除するわよ」

 アキノはもともと魔力が少なく瘴気に弱い体質らしい。

 だからこそわずかな祓い残しも見逃さずに清掃することができるのだ。

「屋敷まるまる一棟の瘴気祓いを一人でやった、なんて教団的にも大きい功績になるんじゃない?」

「一人だなんて、私は皆さんのお手伝いをしているだけで……」

「んー、『ピーターのお手伝い屋さん』はあくまで非公式の何でも屋さんだからね。瘴気祓いの手柄をアピールしたりはしないの」

「そんな! こんなに大変な仕事をしてらっしゃるのに」

「私たちの手柄にならないからこそ引き受けるんだって、父さんがいつも言ってる」

「手柄に、ならないからこそ」

「そう。私たちの手柄が残ると、困りに困って頼ってくれた人がいつまでも『困ってたこと』を終わらせられないでしょ?」

 アキノが誇らしそうに胸をはる。

「だから、私たちは『お手伝い』しかしないし、どんな仕事をしてもそれは後に残さないよ」

「か、かっこいいです!」

「ふふ、だから今回の瘴気祓いはサクラさんのお仕事として報告しますね」

 ピーターがミュゼオン教団に対して、見習いのサクラ・ハルシオンが奉仕活動の一環としてヒルク邸の瘴気祓いを行う旨の報告書を提出してくれたのだ。

 地味な仕事とはいえ、瘴気溜まりの浄化というのは大きな仕事ではあるらしい。

(たしかに、地味で危険な仕事ってたくさんあるもんなぁ)

 ルーシーが行っていた狩りだってそうだ。

 魔獣と戦っている瞬間はたしかに多少は派手かもしれないが、基本的には魔獣の痕跡を探して歩いたり、じっと待ち伏せをしていたりしている。

 地味である。

 むしろ世の中にはそうそう派手な仕事なんてないし、実際そうだ。地味な仕事で、世の中は回っている。

「あっ、あぶない!」

「ふぇ?」

 物陰から出てきた鋭い歯を持つ蜘蛛の魔獣、カミキリグモがユウキに忍び寄っていた。足がやたらと長いシルエットが不気味だ。ショウフグモに比べてアグレッシブに動き回るのが最悪である。

「うっっわ、きもちわるっ!」

 驚いたユウキは、飛び退きながらカミキリグモを払いのけた──瞬間。

 ぱぁんっ!

 乾いた音をたてて、カミキリグモが砕け散った。

 ぽかん……とアキノとサクラがその様子を見て、言葉を失う。

「どれだけの魔力をぶつけたのよ、今の」

「…………す、すごすぎます」

 ユウキは自分の手のひらを見つめる。

 いや、今のはけっこう加減をしていたのだけれど。

「や、やまおくのクモはもっとおおきいんだよ」

 ユウキの言葉に、アキノとサクラが顔を見合わせた。

「絶対にユウキの故郷には行きたくないわね……」

 ポチと一緒に魔獣や魔物を駆除したり、拭き掃除をしたり……せっせと身体を動かしているうちに、ユウキのはじめての仕事は完了した。



 三日目。

 拍子抜けするくらいに予定通りに、ヒルク邸の瘴気祓いが完了した。

 最終日に作業を終えて帰宅したユウキたちを、ピーターとヒルクが迎えてくれた。

「三人とも、お疲れ様!」

「ぐるる……わふっ」

「っと、四人ともか。失礼」

「わんっ」

「ポチのおかげで、魔獣や魔物の駆除がかなりスムーズだったわ。どういうわけか、この子は魔獣に怖がられてるのよ」

 ふふん、と誇らしげなポチであるが、アキノが頭を撫でようとするとぷいっと避けてユウキの側で伏せをした。

 褒められるのは好きだけれど、懐くことはないらしい。

 腐っても、いや、小さな毛玉になっても誇り高き魔獣の王である。

「今回の報酬です。面倒な仕事だったかと思いますが……あんなに綺麗にしてもらって、亡き父母も喜んでいると思います」

「もう放置しちゃだめですよ?」

「はい……」

「ところで、別れた奥さんというのはどうして夜逃げを?」

(た、たしかに気になるけど! 聞くんだ、今!)

 アキノはずけずけと物を聞く人だが、不思議と嫌な感じはしない。

 本当に躊躇いなく質問をしてくるからだろうか。

「おそらく……掃除をサボりがちな人だったから、夜逃げする前から瘴気溜まりになりかけていたのかもしれません。我が家の使用人はあの家を出てしまいましたからね」

「あー……」

 それなりの広さがある屋敷だ。

 一人で掃除をしようとすると、それだけで一日が終わってしまうだろう。

「それで自分の手に負えなくなって、あちこちに作った借金もあって夜逃げしたのかと……すぐに自分が手入れをはじめたら、こんなことにはなっていなかったのですが」

「ピーターさんは悪くないでしょう、それ」

「ははは……昔から気が弱くて。でも、こうして皆さんが瘴気祓いを受けてくださっって、本当に助かりました」

「い、いえっ……微力ですが、お力になれてよかったです」

 サクラが真っ赤になって俯いた。

 とても嬉しそうに、はにかみながら。

「これはヒルクさんからの報酬だ」

 ユウキとサクラに、革袋が一つずつ渡された。

 嘘だろう。修行なのに、お給料が貰えるのか。

「ユウキ殿の報酬からは、家賃と食事代など含めて一割引かせてもらっているよ」

「もんだいありませんっ」

「お金の使い方についても学ばせてほしい、とルーシー殿から言われているからね。まずは自分で管理してみるといい」

「はいっ」

 サクラの報酬よりも一回り小さい革袋だ。

 だが、六才児にはずっしりと重い。

(おお、おおお……っ!)

 ユウキは感動した。

 仕事をして、お金を稼いだのだ。

 オトナである。六才児だけど、これはオトナといっても過言ではない。

「失礼だけど、教団への上納金はそれで足りるでしょうか」

 これくらい入っています、とヒルクが手で示した数字にサクラが目を丸くすして、こくこくと頷いた。十分すぎるくらいの額だったのだろう。

「よしよし、よかった」

 ピーターは満足そうに頷いた。

 自分の仕事を通じて人助けができたことを、心から喜ばしく思っているようだ。本当に善良な人なのだな、というのが全身の毛穴から漏れ出ている。

 アキノがユウキを小突いた。

「ねえ。少し散歩に行くけど一緒にどう? まだろくにトワノライトを歩いてないでしょ」

「いきたいですっ」

 正直、かなりありがたい申し出だ。心強いこと、このうえない。

 ユウキはまだ、ろくに買い物のひとつもしたことがないのだ。

 ルーシーからコインの価値なんかは教えてもらったが、慣れていないし相場もわからない。というか、コインの見分けがすぐにつかない。

 おどおどしているうちに、騙されてしまうかもしれない。

「じゃあ、サクラさんも途中までは一緒にいこうか」

「は、はい! 本当に……お世話になりました!」

 勢いよく頭を下げたサクラに、ピーターが微笑んだ。

「ユウキ殿をお迎えしたとはいっても、うちは人手不足でね……また手を貸してくれたら助かります」

「もちろんですっ! こんなカス虫以下の人間でよければ……」

「……んー」

 サクラの返答にピーターが少し顔を曇らせる。

 なるほど、やっぱりそうだよね。ユウキがそっと、サクラの服の袖を引っ張った。

「ねえねえ、サクラさん」

「はい?」

「おれね、サクラさんがじぶんのことバカとかゴミとかいうとね、とってもかなしいよ。だから、そんなこといわないで?」

「えっ」

 ぴき、とサクラが固まってしまう。

 おそらく、そんなことを言われたことがないのだろう。今までの生活で、自分を底辺に置くことに慣れきってしまっていたのだろう。

 ユウキが先に言葉を発したことに驚いたような表情で、ピーターが言葉を続けた。

「ユウキ殿の言う通りです。それに、価値のない人に大切な仕事を預けることはできないよ」

「あっ、その」

「謝らなくていいんだ。でもね、たった三日でヒルクさんの家を元通りにできたのは、あなたがいたからです」

「そ、そうなのですか?」

「おそらくアキノと俺で手分けしていたら……うん、まるまる一月以上はかかったかもなぁ」

「そうね、私も同感」

 アキノが街に出かける支度をしながら行った。

「まあ、ユウキさんの存在が大きいですが……サクラさんが魔力を分けてくれなかったら、私はもっと早く瘴気酔いでダウンしてたでしょうし?」

 サクラが、ぽかんと口をあけた。

 褒められている状況に、頭と心が追いついていないのだ。

「とにかく、これからもお互いによろしく。見習いさん」

「はいっ……はい! よろしくお願いいたします!」

 サクラがまた涙ぐんでいるのを、ユウキは見ないフリをした。

 この世界での初任給を握りしめて、ポチと一緒に家の外に飛び出した。



 ◆



 街の市場に連れ出してもらって、買い物の仕方を習ってから、自由行動ということになった。

 いくつかの露店を回って、満足のいくものが買えた。

 トワノライトの中でも比較的治安のいい西地区の市場ということもあって、子どもだけで買い物をしている姿もちらほらあった。

 サクラにコインの使い方や買い物のルールやマナーを教わりながら、夕食の買い出しに付き合った。

 案件が落ち着いたお祝いに、骨付きのこんがり肉を夕食にするそうだ。

 骨付き、こんがり、肉。

 聞くだけで一文節ごとによだれが垂れてしまう。

 考えてみれば、ユウキは六才の本日に至るまで塩漬け肉と干し肉以外の肉を食べたことがなかった。

 この世界で食べた食べ物は、正直どれも美味しくなかった。ユウキにとってはオリンピアの結界内で採れた果物を生のまま丸かじりするのが一番おいしい食べ物だったのだ。

 夕食の予定に心躍らせながら、ユウキはアキノとの待ち合わせ場所にやってきた。肉は注文を受けてから時間をかけて焼き上げるらしく、その時間を利用して肉屋の前で間に合わせになったのだ。

 すでに周囲にはいい匂いが漂っている。

「わふっ……」

「そうだな、ポチ。おなかすいたよな」

 ポチと一緒に鼻をヒクヒクさせてしまう。魅惑の匂いだ。

 香辛料の匂いも混じっているので、これは期待ができそうだ。

 なんだかんだ、骨付き肉というくらいだから、六才児には食べきれないかもしれない。ポチと分け合おうか……いや、魔獣の王フェンリルといえども香辛料や塩分で体を壊してしまうかも。犬にタマネギやニンニクを食べさせたら致命的らしいし。

「ユウキさん、お待たせしました」

 紙袋を抱えたアキノが肉屋の前にできた人だかりから現れた。

「アキノさん!」

「買い物はできましたか?」

「はいっ」

 仕事用にとピーターからもらった肩掛け鞄を、ぽんと叩く。中には買ってきた品がちゃんと入っている。

「では、帰りましょう。肉が冷めてしまいますからね」

「わーいっ!」

 思わず飛び跳ねてしまう。

 ポチもユウキの周囲を飛び回っているけれど、果たしてポチのぶんの骨付き肉はあるのだろうか……と一抹の不安を抱いてしまう。ぬか喜びは辛いので。

 ピーターの家に向かって歩いていると、向かいから見覚えのあるシルエットの一団が歩いてきた。サクラと同じミュゼオン教団の制服の一団だ。

 手にしている杖や服が上等なので、サクラよりも位の高い見習いか、あるいは聖女たちのようだ。

 何やら不機嫌そうな表情をしている。

 ユウキはすれ違いざまに、そっと耳を澄ましてみた。

 うんざりした様子で噂話に興じているようだ。

「ねえ、聞きました? あのお貴族様……瘴気溜まりの浄化をしたとか」

「ええ、あの支部長様が報告書片手に上機嫌だったからね」

「はぁ……そんなに簡単なご奉仕なら、あいつを置いてくるんじゃなかった」

「仕方ないでしょ。結局めぼしいものもなかったし、思ったより瘴気が濃かったんだから」

「惜しいことしましたね」

「でも……あんなに魔物や魔獣がたくさんいたのに、どうやって?」

「どうせ、お貴族様のコネか何かで、誰かにやらせたのよ」

「苗字持ちはいいよなぁ〜、まったく」

「支部長様の覚えもよくなっちゃって、まぁ……」

 うわぁ、とユウキは聞き耳を立てたことを後悔した。

 ひどい話である。

「お貴族様」というのは、おそらくサクラのことだろう。

 夜中にサクラを教団の施設から連れ出して、瘴気溜まりになった屋敷に置き去りにしたのだ。

 苗字持ち……つまり、貴族の出身だからという理由でやっかみの対象になっているのだろう。家が貧乏だからこそ、教団で見習いになったというのに。

(なんか、嫌なものを聞いちゃったな……)

 とりあえず、サクラの働きがきちんと教団には伝わっているらしいことだけは、喜ばしいことだけれど。

「ユウキさん? どうかしましたか」

「ううん、なんでもないよ」

「ちゃんとついてきてくださいね、迷子になりますよ」

「はーい」

 アキノのスカートの端を握った。

 途中、アキノの顔見知りらしいスープ屋や道具屋の店員が声をかけてきた。

「アキノちゃん、隠し子かい!?」

「可愛い息子ちゃんだねぇ」

 年齢的にアキノの子はないだろう、と思うけれど。いや、この世界だと十代で子持ちも多いのだろうか。

 どちらかというと、歳の離れた弟とか。

 アキノが気を悪くしていないだろうか、と恐る恐る様子をうかがうと。

「ばか、違うわよっ!」

 大声で反論しながらも、まんざらでもなさそうなアキノであった。



 肉が冷めないうちに、と急いで帰ってくると、ピーターが夕食の準備をすすめてくれていた。早起きなぶん、日が沈んだばかりなのにすでに眠そうだ。

「おかえり、今夜はユウキ殿の歓迎会も兼ねてパッとやろう」

「ありがとう、父さん。お肉も大きいところもらってきたわ」

「おおっ、そりゃ楽しみだなぁ」

 パンが二種類と、豆のスープとオレンジっぽい果物とリンゴっぽい果物がバスケットに盛られている。果物は小さいし干からびているけれど、貴重な生鮮食品だ。

「冷めないうちに、いただきましょ!」

 アキノが紙袋から取り出した骨付き肉は、まだほのかに湯気をたてていた。

 ほかほかの、骨付き肉だ。

「…………っ」

 とても美味しそうな匂いによだれが垂れそうになるけれど──同時に、ユウキの目に涙が浮かんできた。

(ち、ち、小さいっ!)

 紙袋から出てきたのは、小さな手羽元の丸焼きだった。

 たぶん、元の世界でいう鶏の手羽元だ。

 一人につき、二本。

 骨付き肉ではある。こんがり焼いては、ある。

 けれど、想像していたのは通称マンガ肉と呼ばれている「アレ」だったし、鶏肉ならば片足ぜんぶを焼いてほしかった。

 六才児の小さな体格のアドバンテージを活かして、自分の顔より大きいお肉にかぶりつきたかった……ああ、照り焼き味なら言うことなしだ、最高。

 だが、現実は手羽元だ。

 鶏肉すらもこの世界だと貴重品ということなのだろうか。

 流通の問題なのか、それとも畜産の問題なのか。

(それでも、ピーターさんとアキノさんが奮発してくれたんだよな)

 ありがたいことだ。文句を言うなんて、とんでもない。

「いただきますっ!」

 ユウキは丁寧に手を合わせて、すべてに感謝。

 アキノが興味深そうにそれを見て、真似をした。

「イタダキマス」

 小さな骨付き肉にかぶりつく。

 筋張っていて、ぽそぽそとしているけれど……紛れもなく肉だった。

 塩漬けでもなく、干し肉でもなく。

 久しぶりの生鮮食品だ。味が薄いけれど、涙が出るほど美味しく感じる。

「ん〜っ、美味しいっ」

 アキノが頬をおさえる。

 骨をもらったポチがくぅんと鼻を鳴らしている。

 ポールも満足そうにモグモグと口を動かしている。

「うまい……瘴気のせいで、おちおち鶏も羊も飼えなくなったからなぁ」

「しょうきのせい?」

「私が生まれる前だけど……牧場がまるごと瘴気溜まりになって、動物がみんな魔獣になっちゃった事件とかあるみたい」

「たいへんだっ」

「畑もそうよ。よく風の吹く土地じゃないと瘴気溜まりになっちゃうからね。使える土地が少なくてねぇ」

「小麦畑が丸ごと魔獣化したことがあったんだよ、たしか……コガネドクムギになっちゃって。結局、ぜんぶ燃やすしかなかったんだ。あわや飢饉ってことになったから、どうにか近隣の国から支援をとりつけたっけ……」

「ピーターさんが?」

「うん、昔の……ルーシー殿のおかげで顔だけは広いからね」

 なるほどなぁ、とユウキは理解した。

 まずもって、食べ物を育てられるほどの余裕が世界にないのだ。

 瘴気のせいで土地も使えないし、せっかく育てても魔獣化してしまったら食べられない。美味しくするための品種改良なんて、やりたくてもやりようがないのだ。しようがないのだ。それでも、しょうがないのだ。

(この世界で美味しい物を食べるの、結構ハードル高いぞ……)

 たとえば、近くのスーパーからお取り寄せでもできれば話は別なのだろうけれど。

「ところで、買い物はどうだった。満足のいくものは買えたかな」

「はいっ!」

 ユウキは自分の部屋に置いてきた紙袋を思い出す。

 はじめての給料で買ったのは、小さな踊り子人形だった。

 トワノライトの名産品であるエヴァニウム──の加工途中で出てくる、エヴァニウムの細かな破片があしらわれていて、太陽の光を集めてダンスを踊るカラクリ仕掛けが施されている。

(かあさんと師匠、よろこんでくれるかなぁ)

 年に一度はオリンピアのもとに帰っておいで、とルーシーから内密に伝言されている。そのときに渡そうと思っているプレゼントだ。

 母親へのプレゼントなんて、照れくさい。

 けれど、オリンピアの嬉しそうな顔を思い浮かべると、何かしてあげたくなってしまうわけで。

 踊り子人形をそっと鞄にしまい込む。

 壊れないように、慎重に布で包み込んだ。



 ◆



 ──魔の山、奥地。

 元は聖峰アトスと呼ばれていた頃の面影を残す、オリンピアの結界内。

 人間の幼児を育てるためにすっかり所帯じみてしまった小屋から、壮年の女性が姿を表す。

 魔獣狩り専門の狩人(マタギ)を生業としているルーシーだ。

 数年前に拾った異世界からやってきたという赤子を縁として、この聖域を拠点に暮らすようになったのだ。

 まったく、人生には何が起こるかわからない。

 極めて腕のいい狩人である彼女には、魔獣の出没によって反応する特別な羅針盤を携帯しているから

「なあ、オリンピア。いつまでそうしてるんだ?」

 ルーシーはかろうじて瘴気に汚染されずにいる精霊の力を宿した泉を熱心に覗き込んでいる古い友人──人格を宿した高位精霊オリンピアに声をかけた。

「うぅ……もしかしたら、ユウキさんが映るかも!」

「あー、精霊の遠見鏡か」

「そう! 精霊の多い水場にユウキさんが近づいてくれたら、ここに映るはず……」

「どこもかしこも瘴気まみれで、まともに精霊がいる水場なんてないだろ」

「うう……そうでした。聖水が湧いている水場は、ナンチャラ教団さんが独占してしまっていますし」

「残念だったな」

 しょんぼりと肩を落としているオリンピアに、ルーシーは苦笑する。

「お前が私以外の人間にそんなに執着するなんて、思ってもみなかったな」

「あっ、ヤキモチかしら? 心配しなくても、私のとびっきりのお友達はルーシーですよ」

「べ、別に嫉妬なんかしてないさ」

 それに、とルーシーが続ける。

「私としても弟子の様子は気になるからな……少し様子を見に行こうと思う」

「まあ! それなら、私も……あっ」

「お前がここを動いたら、この場所も瘴気に呑まれるぞ」

「そうよね、はぁ」

 オリンピアがいることで、どうにか清浄を保っている聖域だ。

 だから、彼女がこの場所から勝手気ままに出て行ける日は来ないのだ。

「ユウキがいつか、この山を元に戻してくれるかもしれない」

「そうねぇ。別世界からの旅人さんは、特別なことをするためにこの世界にやってくると聞くからね」

 くすくすと笑うオリンピアの頭を、ルーシーがくしゃと撫でた。