「おはようございます」
声を掛けると、早朝の涼しい空気に鬣を靡かせる勿忘様が振り返った。
【穀雨か。今日は早いな】
「そうですね、何故か目が覚めてしまって」
そう言って本堂に腰掛け、欠伸をする。見知った顔を見るだけで、頭を支配していた嫌な興奮が落ち着いていくのを感じた。
心地良い風が吹き抜けていく。涼やかな勿忘様の鬣を眺めながら、とろとろとした眠気を感じる。
【早起きしたのに、また寝るのか】
「望んで早く起きたわけじゃないんですよ。降って湧いた三文なんて二度寝代と見れば安いものです」
勿忘様の柔らかい笑い声を柱に寄りかかったまま聞きながら、僕はとろりと眠りに落ちた。

僕は、こんな夢を見た。
ぼんやりとした視界が、霧が晴れるみたいに徐々にはっきりしてくる。目の前で鞭のように撓る、見慣れた純白の髭が揺れた。
僕がその身体を動かしているみたいに自然に、でも僕の意思とは関係なく、その視界が周りを見渡すように動く。
勿忘様が見ている世界か、と気付くのに数秒掛かった。いや、見ていた、という方が正しいのかもしれない。周囲の風景は僕が見慣れた町のそれよりも遥かにがらんとしているし、いつも視界の上の方にちらつく電線が1本もない。抜けるような青空が妙に広く見えた。
『龍神様!』
僕が──もとい、僕が一緒に世界を見ている勿忘様が振り返る。藍色の小袖を纏った若い女性が目に入ると同時に、仲良しの友達を見つけた時のようなじわりとした喜びが、僕の胸にも広がっていく。
【また来たのか。物好きな奴もいるものだな】
これ、何年前なんだろう。勿忘様の声が少し若気に尖っている気がする。
『オレな、良いこと思いついたんだ。龍神様、名前ないって言ってたよな?』
【正確には、天界で授けられた真名はあるが、地上の人間たちが理解できる音ではない。もう一度教えるか?】
『うわぁ良い良い、あれ聞くと耳の中がざらざらして気持ち悪いんだ』
彼女が耳を塞いで首を横に振る。勿忘様はその反応を分かっていて楽しんでいるようだった。
【分かった分かった。で? 良いこと、とは何だ】
顔を上げた彼女が、勿忘様の目を覗き込むように顔を近付けてにっと笑った。遠目に見ていた時には分からなかったけど、僕と同じか少し歳下に見える。
『オレが龍神様に名前を付けてやるよ。というか、もう考えてきたんだ』
【気が早いことだな】
勿忘様って素直じゃなかったんだな、と思いながら、勿忘様と藍色の小袖の彼女とのやり取りを眺める。
『ワスレナっていうんだ。忘れること勿れ、で勿忘。良い名前だろ?』
勿忘。改めて聞いても、響きの良い名前だ。勿忘様の心の中に、ふわっと優しい風が吹いたのが分かった。
【……悪くない】
『何っだよ、偉そうに』
【偉くて何が悪い。私は神だぞ】
『止めておけ、驕り高ぶるものは没落するのが世の理だ。驕れるものも久しからず、って言うだろ』
鞭のような髭が何か言いたげにゆらりと動く。でも、勿忘様が次に発した言葉は静かなものだった。
【……勿忘、か。皮肉なものだな】
勿忘様を見上げた彼女が、不思議そうに首を傾げる。
【私は随分ここに祀られているが、お前のような物好きがぽつぽつと現れては消えていくんだ。『自分は龍神様のことを忘れたりしませんよ』と言って、しばらくすると来なくなる。ただでさえ寿命が短いのにこの始末だ】
『そうだな、人間にも色々あるからなぁ』
小袖から伸びた細い腕を腰にやって、彼女が空を見上げた。
【もう怒りは湧かないのだ、割り切っているからな。ただ、……】
少しだけ寂しいんだ、という言葉ひとつが、僕の胸に反響する。
『……知っているか? 人間は名前に祈りを込めるんだ』
【知っている】
『だからオレも龍神様に勿忘って名前を付けた。龍神様が、忘れられないように』
忘れること勿れ。
忘れないで。
勿忘様と彼女の目がぱちりと合った。
藍色の小袖から伸びた右手が、勿忘様の頬にそっと触れた。その心がまるで火が灯ったように、暖かくなる。
【……お前には、忘れてもらいたくないものだな】
『はは。忘れないよ、きっと』
勿忘様が彼女の方にそっと頭を近付ける。ふたつの額がこつんと音を立てた。

その後も彼女は、勿忘様の元にやって来た。何度も『勿忘様』と、名前を呼んでいた。その度に勿忘様は【何だ】と言葉を返す。面倒そうな顔をして、でも、嬉しそうに。
忘れないよ。きっと。
その言葉に嘘はなかった。そう勿忘様は信じていた。
だから彼女が成長して段々神社に来なくなっても、勿忘様は彼女のことを待ち続けていた。神様である手前彼女だけを待つわけにもいかないから、彼女のことも、というのが適当なんだろうけど。
結局彼女は、数年後にはぱたりと姿を見せなくなった。嫁に行ったんだと風の噂が聞こえてきた。めでたいことだ、と勿忘様は思った。じくじくと膿んだように痛む心には、知らないふりをして。
忘れること勿れ。どうか、どうか。
そう思わないと、何かが崩れてしまいそうだった。

穀雨、穀雨。
遠くから聞こえる、深い響きの声。
あぁ、時間だ。

【穀雨】
琥珀色の瞳が、僕を心配そうに見下ろしている。
「……はい」
掠れた声を発した拍子に、雫がひと筋、頬を伝って落ちた。
【どうした、怖い夢でも見たか?】
黙って首を横に振る。あぁどうしよう、止まってくれないな。僕を気遣うように、勿忘様がそっと鼻先を近付けてきた。
夢で見た彼女の動きをなぞるように、そっと勿忘様の頬に触れる。琥珀色の瞳が少し驚いたように見開かれた。
【……っ】
まるで何か見えない力に引っ張られるように、勿忘様が僕の額に自分のそれをそっとぶつける。
しゃくりあげながら純白の鱗を撫で続ける僕を、透き通った瞳が見つめる。
【やっぱり、嫌な夢でも見たのか】
「いいえ」
目元を拭って、ちょっと笑って見せた。
「優しくて、残酷で、でも暖かい夢でしたよ」
勿忘様の瞳が少し寂しそうに、でもどこかほっとしたように、柔らかく笑ったのが見える。
涼しい風が、静かに吹き抜けていった。