パレードという名の華々しい見送りをうけて、軍隊は敵地へ赴いた。民衆は通りに面する窓から、次々に花吹雪を撒く。勝利の見えている戦争であった。
パレードを見送ったその足で、第一王女であるシルヴィアは父王の執務室へ向かう。



「戦いは長引くのですか?」

 小柄で線の細いシルヴィアだが、その朱に煌めく瞳の力強さには目を見張るものがある。シルヴィアのそれは父親譲りのものだと、二人を見比べた者は気付くだろう。シルヴィアには別腹の兄が二人いるが、特に王の容姿を受け継いだのはシルヴィアで、悪戯に瞳を輝かせ、物怖じせず発言する様子はまさに王の若い頃を思い出させる。兄二人のおかげで王位継承の重荷に縛られずに育ち、母を幼い頃に亡くすも、王と生き写しの容姿故に困ることなく、持ち前の意思の強さで周囲を惹きつけるのが、シルヴィアという姫であった。しかし最近のシルヴィアの瞳からは、勝ち気な輝きが鳴りを潜めている。

「いや、二ヶ月とかからんはずだ。我が国の軍隊は規模も、実力も、あちらを上回っている」
 王の答えに、シルヴィアは唇を噛んで俯く。その言葉通りなら、あと一ヶ月耐え忍べば、自分の恋人は晴れて戦地から帰って来る。『行って参ります』。彼はその約束を違えるような男ではない。しかし、絶対などない。万が一はあるのだ。



 時はパレードの前日の朝に遡る。

「シルヴィア様、目が腫れていらっしゃいます」

 朝の支度を手伝っていた侍女のクラリッサが、心配げにシルヴィアを見上げた。クラリッサは数年前からシルヴィアに仕える、今では最も信頼される二十代の侍女だ。昨晩泣き明かした自覚のあるシルヴィアは、顔を真赤にして頬に手をあてた。

「まぁ…!今日こそはロレンツォに会うと決めていたのに!こんな顔では会いに行けないわ!」

 元専属護衛である騎士、ロレンツォは、シルヴィアの願いで王女の婚約者となった。しかしそれに見合う武勲を立てる為に出陣することとなり、シルヴィアは自責の念に苛まれていた。

「ふふ、そんなに心配なさらないで下さい。綺麗にお化粧させて頂きますから」

「ええ、お願いね」

 日光が優しく差し込む、麗らかな朝の出来事であった。
 その日の午後、シルヴィアは多忙な婚約者を何としても捕まえようと父王の執務室前の廊下に佇んでいた。ここ一週間、シルヴィアはロレンツォに会えていない。シルヴィアの婚約者として出陣するロレンツォは新たに少佐という位に任命され、戦の準備に追われている。そんな彼が必ず訪れる場所として思いついたのが、王の執務室であった。日の傾いた薄暗い廊下で、シルヴィアは手櫛で髪を梳かしたり、ドレスの皺を入念に払ってみたりと落ち着かない。しかし、そう待つことはなかった。

「姫?」

 聞き馴染んだ声に呼ばれて、シルヴィアはパッと顔を上げる。

「ロレンツォ……!顔を、よく見せて」

 ロレンツォが陰から歩み出ると、エメラルド色の瞳が煌めいて見えた。しかしその茶髪は幾分か乱れており、表情も決して明るくはない。

「姫……暫くお会いしないうちに、一層お綺麗になられましたね」

「そういうあなたは、少し、痩せたかしら?」

「ええ、少しばかり。……申し訳ありませんが、王に至急の伝達がありまして…お話を伺うのは後ほどでもよろしいですか?」

 ロレンツォは申し訳なさそうにシルヴィアから離れ、そのまま足早に執務室の扉へ向かう。

「……勿論よ」

 シルヴィアのその返答が聞こえたのか否か、ロレンツォが振り返ることはない。
 “後ほど”とはいつのことを指すのか、シルヴィアには分からなかったし、それを提示したロレンツォにもきっと、分からないのかもしれない。立場ある身の恋愛とは、どうしてこうにも、ままならないのだろうか。寂しさを抱えながらその背中を見送って、シルヴィアは自室へ引き返す。



 照明を絞った自室のソファに腰掛けながら、シルヴィアはそのブロンドの髪をクルクルと弄んでいた。考え事をしている時の癖である。自覚のないその癖を知っているのは、侍女のクラリッサと──とその時、扉越しに廊下の会話が聞こえた。

「ロレンツォ少将!明日立たれると伺っています。…どうぞご無事で」

「ああ。君も、シルヴィアの事をどうか頼む」

 ロレンツォと会話をしているのは、戦地に向かうロレンツォに代わってシルヴィアの専属護衛を務める騎士、アルフィオだ。その後の会話は聞こえなかったが、程なくして部屋の扉がノックされる。

「遅くなりました。ロレンツォです」

「……入って。アルフィオ、警備は必要ないから、もう休んで頂戴」

 シルヴィアはロレンツォを招き入れると、アルフィオに視線を向ける。元専属護衛であるロレンツォが傍にいるならば、アルフィオが廊下で警護する必要はない。アルフィオは素直に一礼し、「失礼いたします」と告げて踵を返した。



 向かいのソファに腰掛けたロレンツォに、シルヴィアは小さな声で切り出した。

「ずっと言えなかったの……本当に、ごめんなさい。私の我儘で婚約者になってもらったばかりか、武勲の為に、専属護衛ならば免れるはずだった戦争へ行かせてしまって。あなたが好きで、あなたと生きたくて、反対を押し切って婚約したのに、私は…あなたを不幸にしている」

「いいえ、姫。それは違います」

 ローテーブルに手をついて身を乗り出したロレンツォは、顔を覆って泣くシルヴィアの、その小さい手をそっと握って下ろした。

「確かに、一騎士があなたと婚約するためには、誰もが認める功績を立てる必要がありました。──しかし私もあなたのことを、あなたが私を思う以上に、お慕い申し上げているのです。戦場へは、その証を立てに行くと思ってください」

「……」

 シルヴィアは自身の手を優しく握るロレンツォの手を、強く握り返してローテーブルに押し付けた。そして、もう片方の手で彼の軍服の胸元を掴む。

「姫…?」

 ぐっと近づいたシルヴィアの顔に、ロレンツォは思わず動揺する。

「……では今夜、抱いて頂戴」

 シルヴィアの表情は真剣だった。しかしロレンツォは、まだ状況の整理が出来ていない。二人の間に長い沈黙が落ちる。沈黙を破ったのはロレンツォだった。

「姫……いくら何でも突然過ぎます。それにあなたは、結婚するまで貞操を守る義務があります。あなたの将来を、未来の不確かな男に託してはいけません」

「…馬鹿。私の決心がどれだけ固いのか分からないのね」

「今回ばかりは、あなたに折れていただかなければなりません」

 ロレンツォはきっぱりと首を振った。

「……この私に、あなたが帰らない未来を想像しろと言うの?」

「…はい。私を含め、戦地に向かうものは皆、その覚悟を――」

「王女として、それ以上は言わせないわ。死ぬ覚悟なんていらない。誓いなさい、必ず無事で帰ってくると」

 ロレンツォは薄々気付き始めた。今のシルヴィアは、“絶対に貫き通す“と決めた時の彼女であると。

「……いつもそうです。あなたの我儘を、結局私は拒めない。最後には受け入れてしまう。そして不思議なことに、毅然と自分を貫き通すあなたが、私には堪らなく眩しくて――そんなあなたが、何よりも愛しい」

 呻くようなロレンツォの呟きに、シルヴィアは微笑んでみせた。傲慢なほどに気高く、そして美しく。

「では、叶えてくれるのね」

「あなたの望むままに」

 ロレンツォはソファから立ち上がり、シルヴィアに片手を差し出す。その手を取ったシルヴィアは、自分の手が微かに震えていることに気付いた。しかしここで怯んでしまえば、この先の人生、後悔を抱えて生きていくことになると容易く想像できる。――彼女には、その方がずっと怖かった。



「シルヴィア」

 肩を揺すられて、シルヴィアの意識が深い眠りの奥から浮上する。

「……ロレンツォ?」

 彼はもうすっかり身支度を整えていた。そっと自身の頬を撫でるその人の名を、シルヴィアは掠れた声で呼ぶ。彼は少しの沈黙の後、軽い口吻を落として囁いた。

「……行って参ります」

「ねぇロレンツォ、好きよ。愛してる」

 その言葉に、ロレンツォは踵を返した所で動きを止めた。そして振り返ることなく答える。

「私も、この剣にかけて、あなたを愛しております」

 その言葉になんと返事をしたのか、シルヴィアはよく覚えていない。「ええ」と呟いた気もするし、「ありがとう」とはにかんだ気もする。ただロレンツォの言葉だけが、鮮明に思い出されるのだ。




 ロレンツォが戦地へ赴いてから、一週間が経った。シルヴィアは部屋に籠りがちになり、クラリッサのどんな慰めも効果はなかった。
 月が昇ってまだ間もない頃、廊下に一人佇んでいたアルフィオは、微かな物音に顔を上げた。そして無言で腰の剣に手を添えたが、それは不要なことだった。そっと開いた扉から滑り出てきたのは、警護するべきシルヴィアその人だったのだ。

「お願いアルフィオ。何も聞かずについてきて……」

「どこへ向かわれるのですか?」

 布にくるまれた荷物を大事に抱えなおして、シルヴィアは微笑んだ。

サバッラ(酒場)へ」


 クラリッサに手配してもらったのだろう。庶民の着る服を身にまとったシルヴィアは、忍んで城の外へ出た。そして真っすぐにサバッラ(酒場)の立ち並ぶ地区へ向かう。半信半疑でシルヴィアに続くアルフィオは、ただ周囲を警戒し万一の事態に備えるしか出来な
い。

「姫、この辺りは治安が良くありません。何をなさりたいのかは分かりませんが、絶対に俺から離れないでください」

 シルヴィアを止めることなど、出来はしない。ならば彼女が城へ戻るまで、ひたすらにその身を守り切る。


 シルヴィアは一軒の店の前で足を止めた。

「ここに入るわ。あなたは離れた席に居て。私は旅の詩人。あなたはサバッラに偶然居合わせた客。良いわね?帰りはあの露店の横で落ち合いましょう」

 シルヴィアは早口にそう告げると、アルフィオの返事を待たずに颯爽と店へ入っていき、首尾よく店主に話をつけ、サバッラの一角の小さな壇上に竪琴を抱えて座った。布にくるまれた荷物は、楽器だったのだ。彼女がここで歌うための。サバッラで歌う存在は珍しくない。今日という日の疲れをアルコールで払拭する客の耳に、心地良い音楽をもって寄り添うのだ。
 シルヴィアが何を目的としてここで歌うのか、アルフィオには分からない。歌ならば城でも歌える。アルフィオは無難な酒を注文し、シルヴィアの元へ駆け付けられる位置に座った。


 シルヴィアはそっと竪琴の弦を弾いた。手によく馴染む、幼いころから使い込んだ竪琴だ。シルヴィアには吟する才があった。浮かぶメロディーに乗せて、歌詞を紡ぐ才が。
 いざ歌おうとした所で、シルヴィアは気付いた。――自分を押し留める物があることに。心赴くままに歌おうとした言葉は、禁じられているものだという事実が、城を抜けここまで来たというのに、シルヴィアを雁字搦めにしている。だがしかし、金を貰ってこの壇上に座った以上、歌わないというわけにはいかない。投げやりな気持ちで、シルヴィアは口を開いた。



戦場を駆けるあなたの左腕には 
私の編んだ白のレース
勝利の栄光をもたらす、純白の輝き
土埃舞わせて駆ける馬
その背に跨るあなたはきっと
勝利の女神と共にある 

私がその女神であれたらいいのに
そしたら迷わずあなたの味方だわ
あなたの凱旋を心待ちにしている
その日はきっと真っ青な快晴だわ

栄光あれ この国に栄光あれ
近い未来 この国に花吹雪が舞いますよう


 そう歌い上げて、シルヴィアは逃げるように壇上から降りた。今の歌は客のお眼鏡には叶っただろう。しかしそうではない。シルヴィアが紡ぎたい歌は、この歌とは正反対の物だ。城では歌えないものを歌おうと城下まで降りて、結局歌ったものは城に居る時と大して変わらない。批判を受けるのが、異端と囁かれるのが恐ろしくて、己の正義を歌えないという自分を、シルヴィアは突き付けられた。
 その日からほぼ毎日のように、シルヴィアはサバッラへ通った。来る日も来る日も自身の言葉を紡ごうと足掻いた。


「寝不足ですか?」

 シルヴィアの髪を結っていたクラリッサが、鏡台の鏡を覗き込んで言った。目の下に薄い隈を作ったシルヴィアは、緩く首を横に振る。

「確かに寝たりないけど、城で連日夜会が続くよりはずっとマシよ」

「お食事の量も減っていらっしゃいますが……あちらで何か口にされているのですか?」

「サバッラで?いいえ、向こうでは何も食べていないわ。ただ少し食欲がないだけなの」

 まるでこれ以上の心配は不要だと言うように、シルヴィアは立ち上がった。背筋は伸びている。目には光がある。クラリッサはその光をただ信じるしか出来ない。

「姫!」

 その時、勢いよく開いた扉から、息を切らしたアルフィオが走りこんできた。

「姫…王がお呼びです」

 シルヴィアとクラリッサは顔を見合わせる。あちらから呼ばれることなど、滅多にないのだ。シルヴィアは無言のまま部屋を出ていく。その後を追おうとしたアルフィオの腕を、クラリッサが掴んだ。振り返ったアルフィオに、クラリッサは言い含めるような口調で言った。

「私たちだけは、何があっても姫様の味方でいると誓いましょう。ロレンソォ様の代わりになんてなれない。でも、私たちが姫様のために出来ることは全部しましょう。お願い、アルフィオ。あの方の心を、守って差し上げて」
 クラリッサの言葉の節々から、彼女の決意の硬さが滲んでいる。アルフィオはただ頷いてシルヴィアの後を追った。



「お父様、何の御用でしょうか」

 執務机の前に立ったシルヴィアは逸る鼓動を表に出さず、努めて落ち着いた表情を取り繕う。悪い想像など意味がない。告げられる現実に目を背けても仕方がない。

「シルヴィア……これを」

 この戦争が始まってから、王は幾分か老けたように思える。ただ支配者たるその威厳は欠片ほども損なわれていない。もしかすると、成長したのは自分かもしれない、とソルヴィアは思った。シルヴィアの名を呼ぶ声にも、以前と変わらず愛娘を慮る響きが籠っている。その瞳と暫し見つめ合い、シルヴィアは差し出された手から、筒状に丸まった羊皮紙を受け取った。掴んだ羊皮紙は羽のように軽い。手にした途端に気持ちが急いて、震える手でそれを開く。軽い目眩を感じながら無言で目を通したその内容は、シルヴィアが今までの人生で手にした中で、最も重かった。
 視界に闇を表す暗幕が下りる。心には凍てつく冬の木枯らしが穴をあける。そして脳裏では、抑圧されていた旋律が、自らの存在を強く主張した。



 サバッラの喧騒は昨日までと変わらない。アルフィオが注文して口を付けない酒も、シルヴィアの纏う服装も、初めてこの店へ来た日と何一つ変わらない。ただロレンツォだけがもういない。竪琴の柄を握り締めて、シルヴィアは俯いた。まるでその表情を誰にも見せまいとするかのように、長い髪が肩から滑り落ちる。

「ロレンツォ……」

 余りにも小さな呟きだったが、まるで応えるかのように、シルヴィアの瞼にはその姿が蘇る。一人訓練場で剣を振る横顔。専属護衛となった日に交わした言葉。何気ない会話に高鳴る鼓動を、自覚した瞬間。つい溢れてしまった、好きという呟き。彼と過ごした、些細な、でも確かな時間が、荒れ狂う波のように押し寄せる。
 気付けばシルヴィアは竪琴の弦を弾いていた。そしてその音色に乗るようにして、物悲しい歌声を響かせる。サバッラの賑はいつの間にか鳴りを潜め、誰もがシルヴィアの歌に聞き入った。


朝露がきらめき滑り落ちる
前触れはなかった
きっと自然の気まぐれ
咄嗟に伸ばした手で受ける
掌で 露は形を失った

言葉にならない悲しみに飛び起きる
舞い込んだ知らせが夢を正夢にする

私は日ごとに憎むでしょう
この争い絶えない時代を
あなたの手を血に染めて
私からあなたを奪った戦争を

私は日ごとに恨むでしょう
自分という無力な存在を
祈ることしか出来ないで
この争いを止められない私を

あなたを思うこの音色に
蘇るのは瞳の色
露に映った葉の色は
あなたと同じ エメラルド 


 訃報が届いた今ではもう遅い。今更だと思われるかもしれないが、シルヴィアはようやくこの歌を感情の海から拾い出すことが出来た。
 束の間の静寂の後、パラパラと拍手の音が響き始めた。固まったように身動きをしないシルヴィアに、アルフィオが静かに歩み寄って握りしめたままの竪琴をそっと取り上げる。これ以上の注目を集める前に、この場を去らなくてはいけない。


 馴染みの場所となっていたサバッラを出て、アルフィオは城への帰路を急いだ。心なしかシルヴィアの顔色が悪かった。

「姫…?お加減が悪いのですか?」

 クラリッサから、シルヴィアの体調が優れないのは聞いていた。もっと早くに宮廷医に見せるべきだった。そんなアルフィオの焦りを知ってか知らずか、シルヴィアが立ち止まる。

「アルフィオ…、城の医者には係れない。町医者に連れて行って……」

「何を言うのです!?御身を町医者などに見せたことが知れたら、俺の首は間違いなく飛びます!」

 珍しく声を荒らげたアルフィオに、シルヴィアは押し黙った。シルヴィアとて、アルフィオを、そしてクラリッサを自分の我儘で危険に晒している事は分かっている。夜な夜な城を抜け出していると王に知れたら、シルヴィアは恐らく謹慎。二人は最悪の場合首がぶ。よくて解雇だ。

「本当に、ごめんなさい」

 俯いたシルヴィアの姿は、ただの十八歳の少女だった。母親は幼い頃に亡くなり、同腹の兄弟もいない。愛する婚約者を、失ったばかり。



『後悔はないのですか?姫の婚約者になったことに』

 あの夜シルヴィアの部屋を訪ねたロレンツォに、アルフィオは思わず訪ねていた。

『アルフィオ…それは』

『あなたは俺の尊敬する騎士です。姫の専属護衛を任されたのも、あなたの実力です。この度の昇進も、あなたに実力があったから叶ったことです。でも、世間的に見ればそうは見えない。あなたはこんな形でなくでも少佐に上り詰められたはずです。なのにあなたは姫に付け込んで出世したと思われています。俺はそれが悔しくて、許せないんです』

 ずっと燻っていた不満を告げる。二人の問題に自分が口を出すのは非常識だと分かっている。でもどうしても、聞いておきたかった。

『ありがとう。しかし私は後悔などしていない。私はきっと、君が思うよりあの方を愛している』

 そう言ってロレンツォは会話を打ち切り、シルヴィアの部屋の扉を叩いた。聞かなければよかったと後悔したが、もう遅い。その後シルヴィアにもう休むよう言われ、アルフィオは早足で廊下を後にした。
 
 翌日の朝、出発のパレードがもう間もなく始まるという頃。ロレンツォがおもむろに言った。

『昨日は、あの方の婚約者になったことを悔やんではいないと言ったが、訂正しよう。一つだけ、後悔していることがある』

 ロレンツォからそんな言葉が飛び出すとは思わなくて、アルフィオはただ続きを待った。

『婚約者になったがために、専属護衛という、特等席。あの方を一番近くで見守り、その身を守れる日々を手放してしまった。それだけを悔やんでいる。――しかし、その席を降りたことに不安は無い。後任が君ならば、何の心配もいらない』

 そして先日はクラリッサに釘を刺されたばかりである。アルフィオは髪を掻き上げて呻いた。二人の言葉を聞いた時、それぞれ決心したはずではないか。
 ――この仕事を全うしようと。姫の味方でいようと。

「分かりました。町医者へ行きましょう。もう少し歩けますか」

「ぇ…?」

 突然意見を変えたアルフィオに、シルヴィアが困惑する。しかしアルフィオの気が変わらぬうちに、と思ったのか、すぐに顔を上げる。

「…あ、歩けるわ」

 運よく救急診療の医院が傍にあり、アルフィオが先に中に入り、程なくして出てくる。

「すぐに診てもらえるそうです。入りましょう」

 木造で頼りなさげな外観の建物だったが、室内はこざっぱりとして居心地が良かった。医師はライモンドと名乗った。騎士であるアルフィオに引けを取らないほど体格が良く、見下ろしてくる瞳は鋭い。しかしその言葉選びからは彼が堅気の人間であることが分かる。
 シルヴィアの診察を待つ間、部屋の外で待っていたアルフィオは、呼ばれると弾かれたように部屋へ入る。恐らく察しをつけていたのだろう。そこで告げられた診察結果を、シルヴィアはただ受け入れた。しかしアルフィオはそうもいかない。

「妊娠…まさか、ロレンツォ少佐の?」

「そうよ」

「………」

「私が病気でなかったことを、喜んではくれないの?」

 シルヴィアはあっけらかんと笑ってみせた。

「御冗談を……」

 力なく返したアルフィオに、シルヴィアは落ち着き払って言う。

「──ロレンツォがいたならまた違ったのでしょうけど……私一人では、この子を守れない」

 それはつまりシルヴィアがお腹の子を諦めるということだ。シルヴィアはまだ大きくもなっていない自分のお腹に手を添える。

「そんな……」

 当事者であるシルヴィアが全く取り乱さないというのに、部外者であるアルフィオは酷く狼狽えた。シルヴィアは何としてでも育てると言ってきかないと思っていたのだ。
 そこで成り行きを見守っていたライモンドが口を開く。

「中絶は可能だが、母体にも負担がかかる。推奨はしてない」

 ライモンドは言外に産むことを薦める。命を無駄にすることは避けたい。しかしシルヴィアは首を横に振った。

「それでも育てられないのです…無責任なのは分かっていますが、生むということが、必ずしもこの子の為になるとも思えないのです」

 そもそも結婚前のシルヴィアが妊娠したことを王に告げられない。もしそれが出来たとしても、いずれ生まれる兄たちの子と王位継承争いをすることになるかもしれない。

「中絶は本当に危険なんだ。どうしても育てられないというのなら、忍びないが、一度産んでから始末する方法を取った方がいいだろう。」

 それにはシルヴィアも思わず息を止めた。ライモンドは試すようにシルヴィアを見ている。シルヴィアの唇が震える。『私も、この剣にかけて、あなたを愛しております』。最後となった彼のその言葉に、自分はなんと答えたのだったか。

「…………私は、」




 シルヴィアからことの次第を聞いて、クラリッサは泣いた。クラリッサの涙を見て、それまで微塵も動揺を見せなかったシルヴィアの頬にも涙が流れた。女性二人が泣き出すのを見て、アルフィオはロレンツォならばこの場をどう収集しただろうかと頭を抱える。しかしアルフィオが悩んだ末に取り出したハンカチは、行き場を失った。クラリッサがシルヴィアの肩に手を添えて語り掛け始めたのだ。

「ロレンツォ様の、忘れ形見ではありませんか。何故そんな惨いことをおっしゃるのです。あなたはただ、一言おっしゃればいい。『産みたい』と。それが困難なことでも、一言私たちを頼って下さい。あなたは今、王女である前に母で、母である前に、恋人を亡くした一人の少女なのです。──どうか頼って下さい。――どうか、ご自分を殺さないでください」

 クラリッサの言葉を、シルヴィアはただ呆然と聞いていた。涙はまだ流れており、時折、失い気味の酸素を補う、細い呼吸の音がする。やがてシルヴィアは俯き気味に視線を落とし、小さな声で呟いた。

「………『産みたい』」

 その一言に、アルフィオはハンカチを強く握りしめる。クラリッサはホッとした表情を浮かべたあと、くしゃりと笑ってシルヴィアを抱きしめた。

「どうしたら良いか…、一緒に考えましょう。あなた様の幸せと、生まれてくる子の幸せのために、どうしたら良いか」

「……ええ」

 そう小さく頷いて、シルヴィアはまた泣き出した。先程とは違い、声を上げて、咽びながら。ちらりとアルフィオを見やったクラリッサは、少し呆れたように囁いた。

「アルフィオ……その握りしめているハンカチ、姫様に差し上げたら?」





 さらさらと揺れる木の葉たちが、白い床に影を作る。穏やかな日差しの日に、新たな命の誕生を告げる産声が響き渡った。

「姫様……元気な女の子です」

 産婆を務めたクラリッサが、シルヴィアの腕に赤子を抱かせる。まだ薄いブロンドの髪に、エメラルド色の瞳。誰がどう見ても、ロレンツォとシルヴィアの子だった。この瞳ともう一度出会えた感動に、シルヴィアは声を詰まらせる。
 シルヴィアは今、城から馬で丸一日ほどかかる森の別荘に滞在していた。『婚約者を亡くして立ち直れない。気持ちの整理がつくまで、静かな場所で過ごしたい』そう頼み込んだシルヴィアに、王は案外すんなりとこの逗留の許可を与えた。そして頼れる医者のいなかったシルヴィアは、アルフィオを通して、あの日駆け込んだ医院の医師、ライモンドに連絡を取ったのだ。
 お産の間部屋の外に出ていたライモンドとアルフィオが、クラリッサに呼ばれて戻って来る。ライモンドはベッドの脇に腰掛けシルヴィアの脈を測りながら、赤子の顔をしげしげと眺めた。

「本当に良いのか?俺が引き取っちまって」

 シルヴィアの腕の中で産声を上げる赤子を覗き込んで、ライモンドは幾度目かになる問いを繰り返した。今回は赤子の顔を見てシルヴィアの決意が揺らいだかもしれないと思ったのだろう。確かにこうして自分の手に抱く我が子は、想像以上に離れがたいとシルヴィアは思った。しかし皆で考え抜いたこの決定をシルヴィアが覆すことはない。

「ええ、良いのです。あなたに託せるのなら、それほど心強いことはありませんから」

 シルヴィアの表情にはまだ疲労の影が色濃く残っていたが、その声は満足げだった。「そうか」と口の中で呟いて、ライモンドは再び赤子を見つめた。

「……名前はあんたが付けることになってたな。もう決まったのか?」

「ええ」

 『名付けの親』となるシルヴィアは、赤子の頬をそっと撫でながら頷いた。大きくなったこの子に名前の由来を訪ねられたら、『育ての親』であるライモンドは、一体何と答えるのだろう。
 ライモンドとアルフィオ、そしてクラリッサが、決して聞き逃すまいと続く言葉を待っている。シルヴィアは明瞭な声で告げた。

「――『イレーネ(平和)』と」