異世界転生物の小説。
最近どのウェブ小説サイトでも、ありとあらゆるジャンルを変えて、異世界へいく物が流行っている。転生して、チートな能力を得て大活躍……夢が溢れている。異世界までは行かなくても、二次元にトリップしたり、タイムリープしたり……今いるクソみたいな現実から違った世界に行きたいという人は多分少なく無いんだろう。かく言う私もその中の一人だ。
「別の世界にいきたーーーーい……」
自室のフローリングに寝っ転がって、天井を見つめながらぼやく。
こうやってぼーっとしている間に、いつのまにか異世界に転生しないかな。ぐっと目を閉じて、少し待って、また目を開けてみる。広がっているのは変わらない天井だけだった。
「ハァ……」
ため息をこぼして寝返りをぐるぐると打つ。
今日はいつもより多めに回っております。三回転、四回転目で、ゴン!と二段ベッドの柱に頭をぶつけた。
脳みそがぐわんぐわん揺れて、落ち着いたころに額に鈍い痛みがくる。
「いたーーい!!」
「……何してんの花美。」
ベッドの上の段から、ひょこっと姉の歩美が顔を出した。大体下のアングルから見たらあまり盛れないはずなのに、歩美は違う。下から見ても、美人だ。なんなら、ベッドの淵からサラリと靡く長い髪が、美人度を高めている。私と、同じ血が流れているとは思えない。
何も答えずに呆けている私が心配になったのか、歩美がベッドから降りてきた。私の額に歩美の手が乗せられる。冷たい。冷え性だっていうのもなんだか女の子らしさを感じて、手汗をかきやすい自分の熱い手が恥ずかしくなる。
「もー、床に寝っ転がるのやめなよ。頭ぶつけても異世界には行けないからね。」
「聞いてたの?」
「同じ部屋にいるんだから聞こえるでしょ。てか、好きだよねーそういう漫画。私よくわかんない。」
そりゃそうだ。歩美は漫画はほとんど読まない。読むのはファッション雑誌か参考書ばかり。だから美人で頭もいいのだ。オタク気質の私とは違う世界の人って感じがする。
「あーあ、異世界行きたーい。ネット見てると行ったことある人いるらしーし、私にもチャンスないかなー……」
馬鹿じゃないの?という目で見られたけど、私は本気だ。
異世界へ行きたい。二次元でもいいし、過去でも未来でもいい。
ここではない別の世界に行きたいのだ。
「なんか、そんなの小学生の時に試してる子いたなぁ。高校生になってまで言う子は花美くらいだけど。ほら、エレベーターのボタンの押し方とか…あと、アレにまつわるやつもあった。」
歩美が真っ直ぐに差した指を、目で追ってみる。その先にあったのは、歩美のドレッサーだった。
高校生になった歩美はこれまでの学習机を捨てて、ドレッサーを買ってもらっていた。座卓で勉強するからドレッサーがほしい!お手伝いもこれまで以上に頑張るし、勉強も頑張るから!と交渉を重ねて、ピンクと白を基調にしたドレッサーを手にしたのだ。
ドレッサーの何が嬉しいんだか……と、呆れたのも記憶に新しい。
「丑三つ時に三面鏡を三分間見つめると、別の世界に行けるんだって。」
やってみてもいいよ?と、歩美が笑う。ちょっと馬鹿にしている笑みだった。
ーーーー
丑三つ時にあたる午前二時。
スマホをだらだらと眺めていたおかげで目はぱっちりと開いている。念の為、立ち上がって、上の段で寝ている歩美を覗く。規則正しい寝息が聞こえた。よし、計画を実行しよう。
スマホのライトをつけて、ドレッサーににじり寄った。
ライトの光でぼんやりとしているが、ピンクと白のドレッサーには華やかな瓶や可愛らしい化粧品が並んでいて、お姫様が使う物みたいだ。躊躇いながらも、椅子を引いて、閉じられた鏡を開く。
「三面鏡を、三分間……」
キィ、と軽い音がして、三つの鏡と対面する。
そこに映り込む、こちらを見つめる顔。
「ぶ、ブスすぎる……!!」
思わず口に出てしまった。今まで鏡なんてこうやってマジマジと見たことなかった。
三面鏡、恐ろしすぎる。横顔には、点々ぶつぶつと並ぶニキビの凹凸が、正面にはボサボサの眉毛とガサガサの唇、夜ふかしのしすぎでくっきりと刻まれたクマ。
最近、こっそりとお小遣いで買ったスナック菓子を食べ過ぎているせいか、以前鏡を見た時に比べて輪郭が失われている。
てか、髪ってこんな……なんだ、ゴワゴワっていうか、もう見たく無い!!3分間も持たない、直視できない!!
そっと鏡を閉じる。また、キィと軽い音がした。
スマホを傾けて、時刻表示を見る。2:02。
三分間持たなかった。現実の、自分の部屋のままだ。
なんだか馬鹿らしくなって、ベッドに戻った。
ーーーー
「矢野が三浦のこと好きっぽいけど、脈アリ?」
移動教室の時だった。確か、五時間目が理科だから、理科室に行かなくちゃいけなかった。
私は理科のノートを教室に忘れて、一度理科室に着いたにも関わらず、もう一度教室に戻ったのだった。ツイてない、そう思いながら教室のドアを開けようとした時だった。
「矢野?矢野って、矢野花美?」
「そー。三浦のこと好きなんじゃね?ほら、三浦が部活終わった後に自主練してんじゃん。俺放課後図書室行ったらさー、矢野が図書室の窓熱心に見てんの!で、何見てんのかなーって思ったら、三浦だったんだよ。」
ドクドクと心臓が波打った。見てたの、見られてたんだ。どうしよう、図星を突かれてしまって、足が動かない。どんな行動を取ったらいいのかすらわからない。
「三浦、ぶっちゃけ矢野どうよ?」
馬鹿にしたような言い方に、顔がカアっと熱くなる。喉が一気に乾いた。三浦も、教室にいるのか。
「無理」
三浦は、端的に答えた。無理、とはっきり。
「うわ、冷めてー!!でも無理だよな、わかる。」
「俺もあれは無理。」
重ねて他の男子達が、無理と言う。
私は、無理な女らしい。
モテるとか可愛いとか、そんな部類ではないことは気が付いていたけれど、無理とまで言われるくらいだとは思っていなかった。
三面鏡に映る、自分の顔。
どんどん鏡が近づいてくる。
近づいて、まつ毛があたるほどの距離になって、キィと軽い音を立てて閉じる。
私は鏡の中に閉じ込められてしまう。もう出られなくてもいい。
もう、嫌だ。
このまま別の世界へーー「おはよ!!花美ー、早く!!」
身体を揺さぶられて、目が覚めた。
眩しい、目がチカチカする。擦ろうとすると、歩美からガッと腕を掴まれた。
「擦るのはだめ、しわになる色素沈着する最悪」
いつも言ってるでしょーと不満そうに言われる。確かに言われる。そして私は無視して擦るのがいつもの流れだった。けれど。
「……わかった。」
擦るのを諦めて立ち上がる。
「え、素直……どうしたの?」
「別に。」
昨日の夜、三面鏡に映ったひどい顔が頭に浮かんだだけ。これ以上ひどくなったら嫌だなって、ただそれだけだった。
起き上がって手櫛で頭を整えていると、歩美が櫛を差し出してきた。
「使う?」
ピンクのハート型をした櫛。使うのには抵抗があるけれど、そっと受け取った。普通の櫛とは形が違うから、使い方がいまいちわからない。なんだこれ、どこ持てばいいの?
「もー、普通に握ってこうやって……って、絡まりすぎ!貸して!!」
ギッギッギッ……と櫛が髪に通されていく。地肌が引っ張られて痛い。歩美は何度も櫛を通す。私の方が背が高いから、手が疲れたんだろう。
ドレッサーの椅子を引いて座るように言われた。
昨日の夜に対面した三面鏡に、また出会う。寝起きの顔は一層ひどい。でも、髪だけは少しずつマシになっていく。
「よし、綺麗になった。」
仕上げに、と歩美がいつもしているヘアオイルを毛先に擦っていく。
ふわっと甘やかな花の匂いがして、髪が艶を帯びた。髪がほんの少し綺麗になっただけなのに、私じゃないみたいだ。
ーーーー
いつもよりも綺麗にした髪に触れてしまう。
歩いている時に風にのせられる髪に、授業中に頬にかかる髪に。
体育の時には、いつもよりも少し高い位置で髪を結んだ。誰も気が付かないだろうけれど、少しだけ自分を丁寧に扱っているような気がして、くすぐったい。
「なんか今日違う?」
「え、そうかなー……?」
友人からの指摘に白々しく答えてから、ちょっと後悔する。
髪だよ、違うの。そう言いたかった。
ただ、無駄に高い自意識が邪魔をして上手く言えない気がしたからそのまま流した。
……歩美ならなんて答えるんだろう。歩美はきっと、「気付いてくれたの!?嬉しい〜!!」とはしゃいで見せて、相手の洞察力を誉める。
そして、100点満点みたいな、はにかみ顔を見せるんだ。
歩美は、相手を気持ちよくさせるのが上手い。今日の朝だって、私の心を上手に解してみせた。
そんな歩美のあざとさは、私にとって真似できないもので。思い出すと苦しくなってしまうし、その反面で歩美のあざとさに救われてしまうこともある。
「っ、わ」
俯いて歩いていたせいか、前にいる人に気が付かなかった。肩がぶつかったのは、三浦だった。
「ごめん。」
「前見て歩けよ、危ねーだろ。」
もう一度、ごめんと言うと、三浦が固まった。
「かみ」
「え?」
「髪。変えた?」
三浦が自分の髪を一束つまんで、無表情で言う。三浦の髪は猫毛で、無造作なセットしている。やや明るい毛色は、鋭い目つきを和らげてくれていると思う。
誰にも気が付かれなかった、髪の変化。
それに気がつく三浦の鋭さは、私の心臓を震えさせた。共鳴するように私の喉も震えながら、言葉を紡ぐ。
「な、なんで」
「匂い。歩美と同じ匂いする。」
歩美の髪の匂いを、どうして三浦が知っているんだろう。さっきまで微かにあった高揚感が、スッと消えていく。
「……なにそれ、変態くさ。」
「はぁ?」
口をついて出たのは、酷い言葉だった。
「……だる。お前らしくねーよ、それ。」
三浦の声には苛立ちが混ざっていた。それを無視して、私は少し前にいる友人に声をかける。高く結んでいた髪を解いて、いつもの位置に結び直した。
三浦と私と、歩美は、同じマンションで育った。
小学校、中学校も一緒だった。同じマンションだから帰りも一緒になることが多かったし、三浦と私もそこそこ仲が良かったと思う。
中学生2年くらいまでは、仲良く話したり、たまに遊んだりもしてた。変わってしまったのは、歩美が高校生になってからだ。
ーーーー
帰りは、ドラッグストアに寄ってみた。いざという時のために……と溜めていたお金をおろして、歩美と違う香りのヘアオイルを選ぼうと。
ヘアオイルって、こんなに沢山種類があるんだ。
シャンプーコーナーの隣にずらっと並ぶヘアケア用品。オイルだけじゃなくてスプレーやワックス、クリームのようなものもある。種類が多すぎると人は混乱するものだ。
どうしよう。やっぱり使い方のわかるオイルかな。
一番人気って書いてあるやつなら間違いないか、でもその隣の青いパッケージのやつが好きだ。
お試しのものを手にとって、鼻を寄せる。歩美のは甘い香りだったけれど、これは爽やかな香りだ。グレープフルーツのような柑橘系の匂いがする。
1200円、思ったよりも高い。思い切ってカゴに入れて、別のコーナーへ足を向ける。
「化粧品、とか。」
私らしくない。私らしくないんだけど、足が向いたのは、三浦の顔がチラついたからだ。
歩美のことは名前で呼んで、髪の匂いをおぼえていて。
私のことはお前と呼んで、無理な女と切り捨てる。
ーー「お前らしくねーよ、それ。」
横顔には、点々ぶつぶつと並ぶニキビの凹凸、正面にはボサボサの眉毛とガサガサの唇、夜ふかしのしすぎでくっきりと刻まれたクマ。三面鏡に映った私が、三浦が思い描く私なんだろう。
三浦が言う「私らしさ」なんて捨ててしまいたい。
「異世界みたい、」
よく知った近所のドラッグストア。化粧品コーナーは一際光って見える。白い床と照明を、ところどころにある鏡やガラスの瓶が反射しているからかもしれない。
ーーーー
化粧水は、500円玉硬貨くらいの大きさを、乳液はさくらんぼくらいを手に取る。頬が冷たく、ペタペタする。
肌を整えてから、少し怖いけどカミソリを手にした。
「よし、」
「花美お風呂上がったのー……って、何しようとしてんの!?」
「眉毛、どうにかしようと思って。」
「違うから!カミソリでいきなりやるか馬鹿!!」
歩美がカミソリを取り上げて、ドレッサーの引き出しを漁った。手にしたのは小さな鋏。
「眉毛は形見ながらやんないと。おねーちゃんに任せなさい。」
歩美は、化粧の眉毛を描くやつで私の眉毛に手を加えると、小さなハサミで整え始めた。
歩美の長い髪が、目の前で揺れる。甘い香りは、この距離でやっと記憶できるほどに香る。三浦は、歩美とこの距離になることがあるんだろうか。
「ん、できた。花美はちょっとアーチの方が似合うね。」
そう言って微笑む歩美は、綺麗だ。お風呂に向かった歩美の後ろ姿を見送って、三面鏡に顔を映す。
確かに、整えてもらった眉毛は綺麗だ。
三浦の言う私らしさを一つ消せた気がするのに、心は上手く浮いてくれなかった。
ーーーー
スキンケアもヘアケアも、少しずつ習慣になってきた。
食生活も歩美の真似をしていたら、自然と肌荒れは改善されて、体型も変わってきた気がする。
なんか変わったねとか、可愛くなったねとか、お世辞だろうけれど言われることもある。
以前までよく見ていた異世界転生ものの小説だとか、少年漫画はチェックしなくなっていった。
よく見るのは、美容とか垢抜けとかファッションとか。そんなことを謳っているSNSだ。
元々オタク気質があったからか、新しい情報も興味があればとことん追求してしまう。
最近はスクールメイクにも興味が出てきた。スカートを二つ折って、デパコスを買うお金まではないから、ドラッグストアへ。
先生にバレなさそうなチーク、あるかな。あ、新しいヘアオイルとかもないかなー。
「うわ。」
整髪料のコーナー、私を見て声をあげたのは三浦だった。ワックスを手に取っている。無視して踵を返そうとしたけれど、掴まれた肩にそれは叶わなかった。
「この後、用事あんの?」
「ないけど。」
「じゃあ、帰るぞ。」
肩にかかった鞄をひょいと取られて、一緒に歩くしかなくなる。こういう強引さが嫌なんだ。
「かばん、返して!」
「うるさい逃げんだろ。しかも、今日体育で転けて足挫いてたんだし、貸せよ。」
「な、なんで見てたの?」
「目に入ったんだようるせーな。」
強引さの中に、優しさをチラつかせてくるところも嫌だ。散々色々言われているのに、嫌いになれないから。
人二人分ほど間を空けて歩く。幼い時には腕がぶつかって、それに煩わしさを感じることだってあったのに、今は手を伸ばさないと届かない。
「お前さ、歩美みてーなことし始めたな。」
また、歩美。
「外見のことばっか。化粧とか、そんなのしなくてもいーだろ。」
舌打ちまじりに三浦が続ける。
「似合わねー自己満足、してんじゃねーよ。」
ぶち、と自分の中の何かが切れた気がした。熱くなった頬と、目尻に滲む何かは、悔しさから来るものだ。
「うるさい!!」
「あぁ?」
「髪をとかして、オイルつけて!肌の調子整えて!ちょっとお化粧しちゃったりもして、鏡に映る自分がなんか良くなって、嬉しいって思う。その一瞬のために全部やってんの!全部、全部てめぇの為じゃねーんだよ!!口出しすんな!!自己満足上等だよ!なめんな!!」
怒鳴るみたいに声を上げたのは初めてかもしれない。喉の奥が絡む。口は緊張のせいかパリパリだ。
「……歩美にも同じこと言ったでしょ。歩美が高校入って少しした頃に、言ってたよね。似合わねーからやめろって。なんでそんなことが言えんの?三浦は、三浦は……そういうヤツじゃないじゃん。」
三浦は口が悪い。
でも、こんなことを言うヤツじゃない。
なんだかんだ人のことをよく見て気がつくし、不器用だけれど優しい。
まだよく話していた頃は、転んだり泣いたりと鈍臭い私に、周りがため息をつく中で、ずっと助けてくれたヤツだ。
「どんどん大人っぽくなって、今まで仲良くしてたのに、別の女みたいになってく。」
三浦が、ぽそりとつぶやいた。
じわじわと。猫毛の髪から覗く耳が赤らんでいく。
「歩美も……花美も。知らねー女みたいでどう接したらいいかわかんねぇんだよ。」
歩美だけじゃなくて、私も。
久しぶりに呼ばれた名前の響きが、バターが溶ける時みたいに胸の中に広がっていく。余韻が甘くて嫌だ。
「ば、馬鹿じゃないの!」
「な!?ば、馬鹿って言うな!」
馬鹿だよ、ほんとに馬鹿。
「一也のばーか!!」
久しぶりに口にした名前。恥ずかしくて、三浦の顔は見れなかった。
あぁ、どうしよう。私はやっぱり三浦のことが好きだ。
名前一つ呼ばれたくらいで、呼んだくらいでそんなのを実感してしまう自分は、どうしようもない。
自分の家に着くまで、私の鼓動は中々おさまってくれなかった。
ーーーー
歩美が寝たのを確認して、三面鏡の前に座る。
歩美のテキトーな嘘を信じて初めて三面鏡を覗いた日から、それが私の習慣になっている。
今日もいつものように、三面鏡の扉を開いた。キィと小気味いい音がするはずなのに、今日はギギ、といつもと違った音がした。
やばい、壊した?と思って、横から見てみると、正面の鏡の裏に、何か紙のようなものが挟まっていることに気づいた。
「隠し収納があったんだ。」
紙が挟まっていたせいで、上手く閉まり切っていなかったらしい。戻しておこう、と隠し収納を開けてみる。
はらりと台の上に落ちたのは、封筒だった。
淡い青の封筒の中が気になって、罪悪感もあるけど……私は中を開いた。
そこには。
『一也へ』
跳ねやはらいのしっかりとした歩美の字だ。
『この間の告白、嬉しかった。不器用な一也らしいけど、返事も聞かないで逃げていっちゃうから困ったよ。直接言う勇気がなくて手紙で伝える形になってごめんね。わたしは、』
続きは、何度も消された跡があった。
結局消されたままで何も書かれていない。
そっと、隠し収納の中に、手紙を戻した。
ーーーー
なんだか眠れなくて、ずっと起きていたから翌日の顔は酷いもんだった。
「花美、夜ふかししたのー?もう、最近せっかく生活習慣良くなってきたのに。」
「……歩美のせいだし。」
「えー?イビキかいてた!?」
ふい、と顔を背けてみれば、歩美から顎を掬われる。
歩美はイタズラっぽく微笑んで言った。
「お疲れみたいだし、今日はおねーちゃんに甘えていいよ。ほら、身支度したげるから着替えだけしておいで。」
着替えをすれば、ドレッサーの椅子に座らされた。
歩美はヘアアイロンをあたためながら、私の肌を整えていく。化粧水、乳液、日焼け止め。ナチュラルな下地は、ほんのりピンクがかっている。
「最近の花美、好きだよ。」
「前までは好きじゃなかったってこと?」
「もー、ひねくれやさんだな。最近の花美、頑張ってるじゃん。ふふ、」
「何?」
突然思い出したように笑う歩美は、嬉しそうで。
私はついつい、言葉を詰めてしまう。
「ううん。花美がさ、私がドレッサー買ってもらったばかりの時にちょっと馬鹿にしてたの思い出したの。そんなに鏡ばっかり見ても、何も変わんないよって。」
そんなこと、あったっけ。
いや、私なら言いそうだな。
「でもさ、変わるでしょ?」
歩美が私の唇に、珊瑚礁みたいなピンクを載せていく。
艶めいて、さっきよりも顔が明るくなったような気がした。
「鏡を見て、あぁ今日可愛くないなとか調子悪いなって悲しくなる時もあるけれど、髪をブラッシングして、リップを塗って。少し微笑んでみると、自分を大切にしてあげれたなって自信になるじゃん。」
次は髪。ヘアアイロンで柔らかく顔の周りの毛を巻いていく。前髪も自然にくるっと。それだけで華やかな額縁を貰ったような気分になる。
「少しでもいい笑顔で映れるように、努力してみようかなって気持ちになるでしょ?」
あぁ、わかる気がする。
鏡を見て、そこに自分がいて。
人から見られた自分が、鏡に映る自分が、少しでも良くなるように。そうやって努力してみて初めて、歩美の気持ちがわかった気がする。
まだ微かに跡は残っているけれど、綺麗になってきた肌。整った髪と眉。少しはっきりしてきた輪郭。
あの時のボロボロの私より、今の私はちょっとだけ好きだ。
「ごめんね、三面鏡覗いたらあの別の世界に行けるかも…みたいなの嘘なの。歩美、暗い顔ばっかりしてたから、鏡でその顔みせてやりたくて!」
「さ、さすがに信じてないから。」
「その割に鏡覗いてたくせに?」
「それくらい切実だったの!!」
あの真夜中の嘘にしてやられた訳だ。
拗ねる私に、歩美はごめんねとハートがつきそうな語尾で頬を寄せた。
ーーーー
いつもみたいに、私の目は三浦を追ってしまう。
歩美の手紙を見て、三浦が歩美のことを好きだったことを知ってしまったのに。
片想いの癖は中々抜けてくれないみたいだ。
廊下の窓から見える中庭、部室に向かう三浦が見えた。サッカー部の男子とじゃれながら歩く姿は、幼くて可愛い。
三浦が歩く少し先に見慣れた長い髪が見える。二人がすれ違って、三浦だけが振り返った。
歩美は、三浦の視線が自分に向けられていることに気がついていない。ーーーそして、三浦も私から視線を向けられていることに気がつかない。
一方通行なのかな、とそのまま視線を向け続ける。
三浦が前を向いた。友達の背中を小突いて、笑う。
その後ろ姿を、歩美が振り返る。
「なんだ、私だけか。」
呟いた言葉は、誰かに拾われる訳ではない。
私の心に落っこちて、沈んでいった。
ーーーー
「部活、おつかれ。」
「おう。花美も帰り?」
「うん。」
名前を呼ばれただけで、跳ねる鼓動が嫌だ。
三浦が歩調を緩めて、隣に並ぶ。
私は、それを横目で確認して、三浦のシャツの裾を引いた。
三浦の目に、私が映る。
三面鏡が光を受けて輝いた時みたいな眩しさがあった。
「あのさ、三浦。三浦って、歩美のこと好きでしょ?」
三浦は、何も言わずに微かに目を見開いた。
「……なんで?」
「ううん、そんな気がしただけ。……あのさ!私、三浦のこと好きだって、そんな噂あったよね。前教室で話してたじゃん。」
「聞いてたのかよ。」
「聞いてた。私のこと『無理』だって。しつれーなやつだね。」
「そっ、それは、俺歩美のこと好きだし。好きな人いんのに他の人に目向けるのは無理ってだけ。」
「……そっか。てか、言っとくけど、私三浦のこと好きじゃないからね!頑張ってんなーって見てただけだし。」
私の恋心、なかったことにしちゃうんだ。なんだか勿体無い気がする。でも、それでいいの。
「三浦はさ、歩美に気持ち伝えないの?」
「伝えた。」
三浦の前髪を、風が揺らす。
その奥にのぞいた瞳には、切なさが滲んでいた。それを綺麗だとか思ってしまうから私じゃダメなのかもしれない。
「返事は貰ってない。歩美は俺を避けるようになったし、多分望みは無いんだと思う。」
「そんなことない。」
続きのない手紙を、大切なドレッサーの奥に隠すほど。
歩美の想いは、柔らかく大事なものなんだ。
「そんなことないよ。応援してる。明日の朝、歩美と三浦が話せるようにするから。ねぇ、ちゃんともう一回歩美の気持ち聞いたげて。」
口角を上げて。目元もきっと同時に下がっている。これは、作り笑いだ。綺麗に笑えているだろうか。
私買い忘れたものあるから戻るね、なんて嘘をついて、三浦に背を向けた。
「……花美!」
低い三浦の声は、街の雑踏の中では響かない。そのはずなのに、私の中にすっと届いた。あぁ、小さい頃みたいだ。反射的に振り返ってしまう。
「ありがとな!」
三浦の八重歯が見えた。
くしゃっと笑うあの顔が好きだった。
普段は無愛想なくせに、笑ったら可愛いのは反則だ。今度こそ、私も不器用に笑って見せた。私が三浦の笑顔をめちゃくちゃ可愛いと思ってしまった分の少しでも、三浦に可愛いと思われたらいいのに。
ーーーー
「歩美おはよう。」
「おはよう今日は早いね……って身支度もバッチリじゃん。そのヘアピンかわいー」
いつもよりもずっと早く起きて、少し腫れた目を冷やして、ピンク色の肌馴染みのいいアイシャドウを乗せた。
今日の私は、我ながらいい感じだと思う。
「歩美も早く準備してね。今日は、み……一也と一緒に行くから。」
「え、一也と?」
カラン、と歩美の手からブラシが落ちて、ドレッサーの机の上で軽やかな音を立てる。
歩美の肩に手をかけて、そのまま三面鏡に触れた。隠し収納の開く、キィという音。
そして、淡い青の封筒を手に取る。
「ちゃんと、返事してあげなよ。」
「なっ!なんで!!見た?」
「見た。」
「もーーーー!!」
サッと歩美の頬に朱がさしていく。元の肌が白いから、その変化が面白いくらいにわかった。
少しでも早く準備をして貰わなくては。
歩美の髪に櫛を通していく。ヘアオイルを馴染ませて、いつかの時と立場が逆になったなと笑ってしまった。
「……花美は」
「うん?」
「一也のこと、好きじゃないの?」
あぁ、やっぱりか。歩美は、私のお姉ちゃんだ。
私の想いを察して、踏み出せずにいたんだろう。普段は要領がいい癖に、優しすぎるきらいがあるんだ。
「私、最近実は気になってる人がいる……って言ったらどうする?」
一日の始まりに、とびっきりの大嘘をついた。背中を押してくれた真夜中の嘘に、対抗するように。
「え!だれだれ!?」
「ないしょ。でも、一也よりずっとイケメンだし、ずっと優しいし、頭もいいの。……だから歩美、ちゃんと返事しないとだめだよ。」
架空の気になる人、のハードルを随分と上げてしまった。でも、いつかきっと私は別の人に恋をする。
それがいい。そうなってほしい。
その時には、気持ちに嘘をつかずに、まっすぐに伝えられるような美しさのある人になりたい。
ーーーー
三浦との待ち合わせ中、歩美はずっとそわそわしていた。そんなに緊張しなくても大丈夫なのに。
後ろに三浦の姿が見えた。
歩き方がぎこちない。こっちも緊張してるのか。だから大丈夫だって。
さて、お邪魔虫は先に行こうかな。
「ほら、いってらっしゃい。」
歩美の背中を押した。三浦に駆け寄る歩美の後ろ姿が、家の前のカーブミラーに映る。
チカチカと朝日を受けて輝く鏡越しに見える世界は綺麗だ。
ーーーきっと二人からは先を歩く私の頬を伝う涙は見えない。
三面鏡を思い出した。三つの鏡はそれぞれ違う表情を見せてくれるから、私が二人に見せる表情は、笑顔でなきゃいけない。
涙を拭った私は、絶対に綺麗だ。
最近どのウェブ小説サイトでも、ありとあらゆるジャンルを変えて、異世界へいく物が流行っている。転生して、チートな能力を得て大活躍……夢が溢れている。異世界までは行かなくても、二次元にトリップしたり、タイムリープしたり……今いるクソみたいな現実から違った世界に行きたいという人は多分少なく無いんだろう。かく言う私もその中の一人だ。
「別の世界にいきたーーーーい……」
自室のフローリングに寝っ転がって、天井を見つめながらぼやく。
こうやってぼーっとしている間に、いつのまにか異世界に転生しないかな。ぐっと目を閉じて、少し待って、また目を開けてみる。広がっているのは変わらない天井だけだった。
「ハァ……」
ため息をこぼして寝返りをぐるぐると打つ。
今日はいつもより多めに回っております。三回転、四回転目で、ゴン!と二段ベッドの柱に頭をぶつけた。
脳みそがぐわんぐわん揺れて、落ち着いたころに額に鈍い痛みがくる。
「いたーーい!!」
「……何してんの花美。」
ベッドの上の段から、ひょこっと姉の歩美が顔を出した。大体下のアングルから見たらあまり盛れないはずなのに、歩美は違う。下から見ても、美人だ。なんなら、ベッドの淵からサラリと靡く長い髪が、美人度を高めている。私と、同じ血が流れているとは思えない。
何も答えずに呆けている私が心配になったのか、歩美がベッドから降りてきた。私の額に歩美の手が乗せられる。冷たい。冷え性だっていうのもなんだか女の子らしさを感じて、手汗をかきやすい自分の熱い手が恥ずかしくなる。
「もー、床に寝っ転がるのやめなよ。頭ぶつけても異世界には行けないからね。」
「聞いてたの?」
「同じ部屋にいるんだから聞こえるでしょ。てか、好きだよねーそういう漫画。私よくわかんない。」
そりゃそうだ。歩美は漫画はほとんど読まない。読むのはファッション雑誌か参考書ばかり。だから美人で頭もいいのだ。オタク気質の私とは違う世界の人って感じがする。
「あーあ、異世界行きたーい。ネット見てると行ったことある人いるらしーし、私にもチャンスないかなー……」
馬鹿じゃないの?という目で見られたけど、私は本気だ。
異世界へ行きたい。二次元でもいいし、過去でも未来でもいい。
ここではない別の世界に行きたいのだ。
「なんか、そんなの小学生の時に試してる子いたなぁ。高校生になってまで言う子は花美くらいだけど。ほら、エレベーターのボタンの押し方とか…あと、アレにまつわるやつもあった。」
歩美が真っ直ぐに差した指を、目で追ってみる。その先にあったのは、歩美のドレッサーだった。
高校生になった歩美はこれまでの学習机を捨てて、ドレッサーを買ってもらっていた。座卓で勉強するからドレッサーがほしい!お手伝いもこれまで以上に頑張るし、勉強も頑張るから!と交渉を重ねて、ピンクと白を基調にしたドレッサーを手にしたのだ。
ドレッサーの何が嬉しいんだか……と、呆れたのも記憶に新しい。
「丑三つ時に三面鏡を三分間見つめると、別の世界に行けるんだって。」
やってみてもいいよ?と、歩美が笑う。ちょっと馬鹿にしている笑みだった。
ーーーー
丑三つ時にあたる午前二時。
スマホをだらだらと眺めていたおかげで目はぱっちりと開いている。念の為、立ち上がって、上の段で寝ている歩美を覗く。規則正しい寝息が聞こえた。よし、計画を実行しよう。
スマホのライトをつけて、ドレッサーににじり寄った。
ライトの光でぼんやりとしているが、ピンクと白のドレッサーには華やかな瓶や可愛らしい化粧品が並んでいて、お姫様が使う物みたいだ。躊躇いながらも、椅子を引いて、閉じられた鏡を開く。
「三面鏡を、三分間……」
キィ、と軽い音がして、三つの鏡と対面する。
そこに映り込む、こちらを見つめる顔。
「ぶ、ブスすぎる……!!」
思わず口に出てしまった。今まで鏡なんてこうやってマジマジと見たことなかった。
三面鏡、恐ろしすぎる。横顔には、点々ぶつぶつと並ぶニキビの凹凸が、正面にはボサボサの眉毛とガサガサの唇、夜ふかしのしすぎでくっきりと刻まれたクマ。
最近、こっそりとお小遣いで買ったスナック菓子を食べ過ぎているせいか、以前鏡を見た時に比べて輪郭が失われている。
てか、髪ってこんな……なんだ、ゴワゴワっていうか、もう見たく無い!!3分間も持たない、直視できない!!
そっと鏡を閉じる。また、キィと軽い音がした。
スマホを傾けて、時刻表示を見る。2:02。
三分間持たなかった。現実の、自分の部屋のままだ。
なんだか馬鹿らしくなって、ベッドに戻った。
ーーーー
「矢野が三浦のこと好きっぽいけど、脈アリ?」
移動教室の時だった。確か、五時間目が理科だから、理科室に行かなくちゃいけなかった。
私は理科のノートを教室に忘れて、一度理科室に着いたにも関わらず、もう一度教室に戻ったのだった。ツイてない、そう思いながら教室のドアを開けようとした時だった。
「矢野?矢野って、矢野花美?」
「そー。三浦のこと好きなんじゃね?ほら、三浦が部活終わった後に自主練してんじゃん。俺放課後図書室行ったらさー、矢野が図書室の窓熱心に見てんの!で、何見てんのかなーって思ったら、三浦だったんだよ。」
ドクドクと心臓が波打った。見てたの、見られてたんだ。どうしよう、図星を突かれてしまって、足が動かない。どんな行動を取ったらいいのかすらわからない。
「三浦、ぶっちゃけ矢野どうよ?」
馬鹿にしたような言い方に、顔がカアっと熱くなる。喉が一気に乾いた。三浦も、教室にいるのか。
「無理」
三浦は、端的に答えた。無理、とはっきり。
「うわ、冷めてー!!でも無理だよな、わかる。」
「俺もあれは無理。」
重ねて他の男子達が、無理と言う。
私は、無理な女らしい。
モテるとか可愛いとか、そんな部類ではないことは気が付いていたけれど、無理とまで言われるくらいだとは思っていなかった。
三面鏡に映る、自分の顔。
どんどん鏡が近づいてくる。
近づいて、まつ毛があたるほどの距離になって、キィと軽い音を立てて閉じる。
私は鏡の中に閉じ込められてしまう。もう出られなくてもいい。
もう、嫌だ。
このまま別の世界へーー「おはよ!!花美ー、早く!!」
身体を揺さぶられて、目が覚めた。
眩しい、目がチカチカする。擦ろうとすると、歩美からガッと腕を掴まれた。
「擦るのはだめ、しわになる色素沈着する最悪」
いつも言ってるでしょーと不満そうに言われる。確かに言われる。そして私は無視して擦るのがいつもの流れだった。けれど。
「……わかった。」
擦るのを諦めて立ち上がる。
「え、素直……どうしたの?」
「別に。」
昨日の夜、三面鏡に映ったひどい顔が頭に浮かんだだけ。これ以上ひどくなったら嫌だなって、ただそれだけだった。
起き上がって手櫛で頭を整えていると、歩美が櫛を差し出してきた。
「使う?」
ピンクのハート型をした櫛。使うのには抵抗があるけれど、そっと受け取った。普通の櫛とは形が違うから、使い方がいまいちわからない。なんだこれ、どこ持てばいいの?
「もー、普通に握ってこうやって……って、絡まりすぎ!貸して!!」
ギッギッギッ……と櫛が髪に通されていく。地肌が引っ張られて痛い。歩美は何度も櫛を通す。私の方が背が高いから、手が疲れたんだろう。
ドレッサーの椅子を引いて座るように言われた。
昨日の夜に対面した三面鏡に、また出会う。寝起きの顔は一層ひどい。でも、髪だけは少しずつマシになっていく。
「よし、綺麗になった。」
仕上げに、と歩美がいつもしているヘアオイルを毛先に擦っていく。
ふわっと甘やかな花の匂いがして、髪が艶を帯びた。髪がほんの少し綺麗になっただけなのに、私じゃないみたいだ。
ーーーー
いつもよりも綺麗にした髪に触れてしまう。
歩いている時に風にのせられる髪に、授業中に頬にかかる髪に。
体育の時には、いつもよりも少し高い位置で髪を結んだ。誰も気が付かないだろうけれど、少しだけ自分を丁寧に扱っているような気がして、くすぐったい。
「なんか今日違う?」
「え、そうかなー……?」
友人からの指摘に白々しく答えてから、ちょっと後悔する。
髪だよ、違うの。そう言いたかった。
ただ、無駄に高い自意識が邪魔をして上手く言えない気がしたからそのまま流した。
……歩美ならなんて答えるんだろう。歩美はきっと、「気付いてくれたの!?嬉しい〜!!」とはしゃいで見せて、相手の洞察力を誉める。
そして、100点満点みたいな、はにかみ顔を見せるんだ。
歩美は、相手を気持ちよくさせるのが上手い。今日の朝だって、私の心を上手に解してみせた。
そんな歩美のあざとさは、私にとって真似できないもので。思い出すと苦しくなってしまうし、その反面で歩美のあざとさに救われてしまうこともある。
「っ、わ」
俯いて歩いていたせいか、前にいる人に気が付かなかった。肩がぶつかったのは、三浦だった。
「ごめん。」
「前見て歩けよ、危ねーだろ。」
もう一度、ごめんと言うと、三浦が固まった。
「かみ」
「え?」
「髪。変えた?」
三浦が自分の髪を一束つまんで、無表情で言う。三浦の髪は猫毛で、無造作なセットしている。やや明るい毛色は、鋭い目つきを和らげてくれていると思う。
誰にも気が付かれなかった、髪の変化。
それに気がつく三浦の鋭さは、私の心臓を震えさせた。共鳴するように私の喉も震えながら、言葉を紡ぐ。
「な、なんで」
「匂い。歩美と同じ匂いする。」
歩美の髪の匂いを、どうして三浦が知っているんだろう。さっきまで微かにあった高揚感が、スッと消えていく。
「……なにそれ、変態くさ。」
「はぁ?」
口をついて出たのは、酷い言葉だった。
「……だる。お前らしくねーよ、それ。」
三浦の声には苛立ちが混ざっていた。それを無視して、私は少し前にいる友人に声をかける。高く結んでいた髪を解いて、いつもの位置に結び直した。
三浦と私と、歩美は、同じマンションで育った。
小学校、中学校も一緒だった。同じマンションだから帰りも一緒になることが多かったし、三浦と私もそこそこ仲が良かったと思う。
中学生2年くらいまでは、仲良く話したり、たまに遊んだりもしてた。変わってしまったのは、歩美が高校生になってからだ。
ーーーー
帰りは、ドラッグストアに寄ってみた。いざという時のために……と溜めていたお金をおろして、歩美と違う香りのヘアオイルを選ぼうと。
ヘアオイルって、こんなに沢山種類があるんだ。
シャンプーコーナーの隣にずらっと並ぶヘアケア用品。オイルだけじゃなくてスプレーやワックス、クリームのようなものもある。種類が多すぎると人は混乱するものだ。
どうしよう。やっぱり使い方のわかるオイルかな。
一番人気って書いてあるやつなら間違いないか、でもその隣の青いパッケージのやつが好きだ。
お試しのものを手にとって、鼻を寄せる。歩美のは甘い香りだったけれど、これは爽やかな香りだ。グレープフルーツのような柑橘系の匂いがする。
1200円、思ったよりも高い。思い切ってカゴに入れて、別のコーナーへ足を向ける。
「化粧品、とか。」
私らしくない。私らしくないんだけど、足が向いたのは、三浦の顔がチラついたからだ。
歩美のことは名前で呼んで、髪の匂いをおぼえていて。
私のことはお前と呼んで、無理な女と切り捨てる。
ーー「お前らしくねーよ、それ。」
横顔には、点々ぶつぶつと並ぶニキビの凹凸、正面にはボサボサの眉毛とガサガサの唇、夜ふかしのしすぎでくっきりと刻まれたクマ。三面鏡に映った私が、三浦が思い描く私なんだろう。
三浦が言う「私らしさ」なんて捨ててしまいたい。
「異世界みたい、」
よく知った近所のドラッグストア。化粧品コーナーは一際光って見える。白い床と照明を、ところどころにある鏡やガラスの瓶が反射しているからかもしれない。
ーーーー
化粧水は、500円玉硬貨くらいの大きさを、乳液はさくらんぼくらいを手に取る。頬が冷たく、ペタペタする。
肌を整えてから、少し怖いけどカミソリを手にした。
「よし、」
「花美お風呂上がったのー……って、何しようとしてんの!?」
「眉毛、どうにかしようと思って。」
「違うから!カミソリでいきなりやるか馬鹿!!」
歩美がカミソリを取り上げて、ドレッサーの引き出しを漁った。手にしたのは小さな鋏。
「眉毛は形見ながらやんないと。おねーちゃんに任せなさい。」
歩美は、化粧の眉毛を描くやつで私の眉毛に手を加えると、小さなハサミで整え始めた。
歩美の長い髪が、目の前で揺れる。甘い香りは、この距離でやっと記憶できるほどに香る。三浦は、歩美とこの距離になることがあるんだろうか。
「ん、できた。花美はちょっとアーチの方が似合うね。」
そう言って微笑む歩美は、綺麗だ。お風呂に向かった歩美の後ろ姿を見送って、三面鏡に顔を映す。
確かに、整えてもらった眉毛は綺麗だ。
三浦の言う私らしさを一つ消せた気がするのに、心は上手く浮いてくれなかった。
ーーーー
スキンケアもヘアケアも、少しずつ習慣になってきた。
食生活も歩美の真似をしていたら、自然と肌荒れは改善されて、体型も変わってきた気がする。
なんか変わったねとか、可愛くなったねとか、お世辞だろうけれど言われることもある。
以前までよく見ていた異世界転生ものの小説だとか、少年漫画はチェックしなくなっていった。
よく見るのは、美容とか垢抜けとかファッションとか。そんなことを謳っているSNSだ。
元々オタク気質があったからか、新しい情報も興味があればとことん追求してしまう。
最近はスクールメイクにも興味が出てきた。スカートを二つ折って、デパコスを買うお金まではないから、ドラッグストアへ。
先生にバレなさそうなチーク、あるかな。あ、新しいヘアオイルとかもないかなー。
「うわ。」
整髪料のコーナー、私を見て声をあげたのは三浦だった。ワックスを手に取っている。無視して踵を返そうとしたけれど、掴まれた肩にそれは叶わなかった。
「この後、用事あんの?」
「ないけど。」
「じゃあ、帰るぞ。」
肩にかかった鞄をひょいと取られて、一緒に歩くしかなくなる。こういう強引さが嫌なんだ。
「かばん、返して!」
「うるさい逃げんだろ。しかも、今日体育で転けて足挫いてたんだし、貸せよ。」
「な、なんで見てたの?」
「目に入ったんだようるせーな。」
強引さの中に、優しさをチラつかせてくるところも嫌だ。散々色々言われているのに、嫌いになれないから。
人二人分ほど間を空けて歩く。幼い時には腕がぶつかって、それに煩わしさを感じることだってあったのに、今は手を伸ばさないと届かない。
「お前さ、歩美みてーなことし始めたな。」
また、歩美。
「外見のことばっか。化粧とか、そんなのしなくてもいーだろ。」
舌打ちまじりに三浦が続ける。
「似合わねー自己満足、してんじゃねーよ。」
ぶち、と自分の中の何かが切れた気がした。熱くなった頬と、目尻に滲む何かは、悔しさから来るものだ。
「うるさい!!」
「あぁ?」
「髪をとかして、オイルつけて!肌の調子整えて!ちょっとお化粧しちゃったりもして、鏡に映る自分がなんか良くなって、嬉しいって思う。その一瞬のために全部やってんの!全部、全部てめぇの為じゃねーんだよ!!口出しすんな!!自己満足上等だよ!なめんな!!」
怒鳴るみたいに声を上げたのは初めてかもしれない。喉の奥が絡む。口は緊張のせいかパリパリだ。
「……歩美にも同じこと言ったでしょ。歩美が高校入って少しした頃に、言ってたよね。似合わねーからやめろって。なんでそんなことが言えんの?三浦は、三浦は……そういうヤツじゃないじゃん。」
三浦は口が悪い。
でも、こんなことを言うヤツじゃない。
なんだかんだ人のことをよく見て気がつくし、不器用だけれど優しい。
まだよく話していた頃は、転んだり泣いたりと鈍臭い私に、周りがため息をつく中で、ずっと助けてくれたヤツだ。
「どんどん大人っぽくなって、今まで仲良くしてたのに、別の女みたいになってく。」
三浦が、ぽそりとつぶやいた。
じわじわと。猫毛の髪から覗く耳が赤らんでいく。
「歩美も……花美も。知らねー女みたいでどう接したらいいかわかんねぇんだよ。」
歩美だけじゃなくて、私も。
久しぶりに呼ばれた名前の響きが、バターが溶ける時みたいに胸の中に広がっていく。余韻が甘くて嫌だ。
「ば、馬鹿じゃないの!」
「な!?ば、馬鹿って言うな!」
馬鹿だよ、ほんとに馬鹿。
「一也のばーか!!」
久しぶりに口にした名前。恥ずかしくて、三浦の顔は見れなかった。
あぁ、どうしよう。私はやっぱり三浦のことが好きだ。
名前一つ呼ばれたくらいで、呼んだくらいでそんなのを実感してしまう自分は、どうしようもない。
自分の家に着くまで、私の鼓動は中々おさまってくれなかった。
ーーーー
歩美が寝たのを確認して、三面鏡の前に座る。
歩美のテキトーな嘘を信じて初めて三面鏡を覗いた日から、それが私の習慣になっている。
今日もいつものように、三面鏡の扉を開いた。キィと小気味いい音がするはずなのに、今日はギギ、といつもと違った音がした。
やばい、壊した?と思って、横から見てみると、正面の鏡の裏に、何か紙のようなものが挟まっていることに気づいた。
「隠し収納があったんだ。」
紙が挟まっていたせいで、上手く閉まり切っていなかったらしい。戻しておこう、と隠し収納を開けてみる。
はらりと台の上に落ちたのは、封筒だった。
淡い青の封筒の中が気になって、罪悪感もあるけど……私は中を開いた。
そこには。
『一也へ』
跳ねやはらいのしっかりとした歩美の字だ。
『この間の告白、嬉しかった。不器用な一也らしいけど、返事も聞かないで逃げていっちゃうから困ったよ。直接言う勇気がなくて手紙で伝える形になってごめんね。わたしは、』
続きは、何度も消された跡があった。
結局消されたままで何も書かれていない。
そっと、隠し収納の中に、手紙を戻した。
ーーーー
なんだか眠れなくて、ずっと起きていたから翌日の顔は酷いもんだった。
「花美、夜ふかししたのー?もう、最近せっかく生活習慣良くなってきたのに。」
「……歩美のせいだし。」
「えー?イビキかいてた!?」
ふい、と顔を背けてみれば、歩美から顎を掬われる。
歩美はイタズラっぽく微笑んで言った。
「お疲れみたいだし、今日はおねーちゃんに甘えていいよ。ほら、身支度したげるから着替えだけしておいで。」
着替えをすれば、ドレッサーの椅子に座らされた。
歩美はヘアアイロンをあたためながら、私の肌を整えていく。化粧水、乳液、日焼け止め。ナチュラルな下地は、ほんのりピンクがかっている。
「最近の花美、好きだよ。」
「前までは好きじゃなかったってこと?」
「もー、ひねくれやさんだな。最近の花美、頑張ってるじゃん。ふふ、」
「何?」
突然思い出したように笑う歩美は、嬉しそうで。
私はついつい、言葉を詰めてしまう。
「ううん。花美がさ、私がドレッサー買ってもらったばかりの時にちょっと馬鹿にしてたの思い出したの。そんなに鏡ばっかり見ても、何も変わんないよって。」
そんなこと、あったっけ。
いや、私なら言いそうだな。
「でもさ、変わるでしょ?」
歩美が私の唇に、珊瑚礁みたいなピンクを載せていく。
艶めいて、さっきよりも顔が明るくなったような気がした。
「鏡を見て、あぁ今日可愛くないなとか調子悪いなって悲しくなる時もあるけれど、髪をブラッシングして、リップを塗って。少し微笑んでみると、自分を大切にしてあげれたなって自信になるじゃん。」
次は髪。ヘアアイロンで柔らかく顔の周りの毛を巻いていく。前髪も自然にくるっと。それだけで華やかな額縁を貰ったような気分になる。
「少しでもいい笑顔で映れるように、努力してみようかなって気持ちになるでしょ?」
あぁ、わかる気がする。
鏡を見て、そこに自分がいて。
人から見られた自分が、鏡に映る自分が、少しでも良くなるように。そうやって努力してみて初めて、歩美の気持ちがわかった気がする。
まだ微かに跡は残っているけれど、綺麗になってきた肌。整った髪と眉。少しはっきりしてきた輪郭。
あの時のボロボロの私より、今の私はちょっとだけ好きだ。
「ごめんね、三面鏡覗いたらあの別の世界に行けるかも…みたいなの嘘なの。歩美、暗い顔ばっかりしてたから、鏡でその顔みせてやりたくて!」
「さ、さすがに信じてないから。」
「その割に鏡覗いてたくせに?」
「それくらい切実だったの!!」
あの真夜中の嘘にしてやられた訳だ。
拗ねる私に、歩美はごめんねとハートがつきそうな語尾で頬を寄せた。
ーーーー
いつもみたいに、私の目は三浦を追ってしまう。
歩美の手紙を見て、三浦が歩美のことを好きだったことを知ってしまったのに。
片想いの癖は中々抜けてくれないみたいだ。
廊下の窓から見える中庭、部室に向かう三浦が見えた。サッカー部の男子とじゃれながら歩く姿は、幼くて可愛い。
三浦が歩く少し先に見慣れた長い髪が見える。二人がすれ違って、三浦だけが振り返った。
歩美は、三浦の視線が自分に向けられていることに気がついていない。ーーーそして、三浦も私から視線を向けられていることに気がつかない。
一方通行なのかな、とそのまま視線を向け続ける。
三浦が前を向いた。友達の背中を小突いて、笑う。
その後ろ姿を、歩美が振り返る。
「なんだ、私だけか。」
呟いた言葉は、誰かに拾われる訳ではない。
私の心に落っこちて、沈んでいった。
ーーーー
「部活、おつかれ。」
「おう。花美も帰り?」
「うん。」
名前を呼ばれただけで、跳ねる鼓動が嫌だ。
三浦が歩調を緩めて、隣に並ぶ。
私は、それを横目で確認して、三浦のシャツの裾を引いた。
三浦の目に、私が映る。
三面鏡が光を受けて輝いた時みたいな眩しさがあった。
「あのさ、三浦。三浦って、歩美のこと好きでしょ?」
三浦は、何も言わずに微かに目を見開いた。
「……なんで?」
「ううん、そんな気がしただけ。……あのさ!私、三浦のこと好きだって、そんな噂あったよね。前教室で話してたじゃん。」
「聞いてたのかよ。」
「聞いてた。私のこと『無理』だって。しつれーなやつだね。」
「そっ、それは、俺歩美のこと好きだし。好きな人いんのに他の人に目向けるのは無理ってだけ。」
「……そっか。てか、言っとくけど、私三浦のこと好きじゃないからね!頑張ってんなーって見てただけだし。」
私の恋心、なかったことにしちゃうんだ。なんだか勿体無い気がする。でも、それでいいの。
「三浦はさ、歩美に気持ち伝えないの?」
「伝えた。」
三浦の前髪を、風が揺らす。
その奥にのぞいた瞳には、切なさが滲んでいた。それを綺麗だとか思ってしまうから私じゃダメなのかもしれない。
「返事は貰ってない。歩美は俺を避けるようになったし、多分望みは無いんだと思う。」
「そんなことない。」
続きのない手紙を、大切なドレッサーの奥に隠すほど。
歩美の想いは、柔らかく大事なものなんだ。
「そんなことないよ。応援してる。明日の朝、歩美と三浦が話せるようにするから。ねぇ、ちゃんともう一回歩美の気持ち聞いたげて。」
口角を上げて。目元もきっと同時に下がっている。これは、作り笑いだ。綺麗に笑えているだろうか。
私買い忘れたものあるから戻るね、なんて嘘をついて、三浦に背を向けた。
「……花美!」
低い三浦の声は、街の雑踏の中では響かない。そのはずなのに、私の中にすっと届いた。あぁ、小さい頃みたいだ。反射的に振り返ってしまう。
「ありがとな!」
三浦の八重歯が見えた。
くしゃっと笑うあの顔が好きだった。
普段は無愛想なくせに、笑ったら可愛いのは反則だ。今度こそ、私も不器用に笑って見せた。私が三浦の笑顔をめちゃくちゃ可愛いと思ってしまった分の少しでも、三浦に可愛いと思われたらいいのに。
ーーーー
「歩美おはよう。」
「おはよう今日は早いね……って身支度もバッチリじゃん。そのヘアピンかわいー」
いつもよりもずっと早く起きて、少し腫れた目を冷やして、ピンク色の肌馴染みのいいアイシャドウを乗せた。
今日の私は、我ながらいい感じだと思う。
「歩美も早く準備してね。今日は、み……一也と一緒に行くから。」
「え、一也と?」
カラン、と歩美の手からブラシが落ちて、ドレッサーの机の上で軽やかな音を立てる。
歩美の肩に手をかけて、そのまま三面鏡に触れた。隠し収納の開く、キィという音。
そして、淡い青の封筒を手に取る。
「ちゃんと、返事してあげなよ。」
「なっ!なんで!!見た?」
「見た。」
「もーーーー!!」
サッと歩美の頬に朱がさしていく。元の肌が白いから、その変化が面白いくらいにわかった。
少しでも早く準備をして貰わなくては。
歩美の髪に櫛を通していく。ヘアオイルを馴染ませて、いつかの時と立場が逆になったなと笑ってしまった。
「……花美は」
「うん?」
「一也のこと、好きじゃないの?」
あぁ、やっぱりか。歩美は、私のお姉ちゃんだ。
私の想いを察して、踏み出せずにいたんだろう。普段は要領がいい癖に、優しすぎるきらいがあるんだ。
「私、最近実は気になってる人がいる……って言ったらどうする?」
一日の始まりに、とびっきりの大嘘をついた。背中を押してくれた真夜中の嘘に、対抗するように。
「え!だれだれ!?」
「ないしょ。でも、一也よりずっとイケメンだし、ずっと優しいし、頭もいいの。……だから歩美、ちゃんと返事しないとだめだよ。」
架空の気になる人、のハードルを随分と上げてしまった。でも、いつかきっと私は別の人に恋をする。
それがいい。そうなってほしい。
その時には、気持ちに嘘をつかずに、まっすぐに伝えられるような美しさのある人になりたい。
ーーーー
三浦との待ち合わせ中、歩美はずっとそわそわしていた。そんなに緊張しなくても大丈夫なのに。
後ろに三浦の姿が見えた。
歩き方がぎこちない。こっちも緊張してるのか。だから大丈夫だって。
さて、お邪魔虫は先に行こうかな。
「ほら、いってらっしゃい。」
歩美の背中を押した。三浦に駆け寄る歩美の後ろ姿が、家の前のカーブミラーに映る。
チカチカと朝日を受けて輝く鏡越しに見える世界は綺麗だ。
ーーーきっと二人からは先を歩く私の頬を伝う涙は見えない。
三面鏡を思い出した。三つの鏡はそれぞれ違う表情を見せてくれるから、私が二人に見せる表情は、笑顔でなきゃいけない。
涙を拭った私は、絶対に綺麗だ。