ストーカー事件からしばらく経ち、4月になった。春の陽気は暖かく、春眠暁を覚えずとはまさにこういう気持ちなのだろう。そんな気分にさせてくれる。
当然ながら、私は高校2年生になった。2年生になっても特に変わったことはないだろう。そう思っていた。
だが、運命は私の都合の良いように悪戯をしてくれた。
なんと、奏お姉ちゃんと同じクラスになったのだ。私たちの高校の場合、2年生からは成績がいい生徒を集めたクラスが一クラス設けられる。そのクラスに私と奏お姉ちゃんは入ることになったのだ。
さらに私と奏お姉ちゃんは同じ文系で、日本史専攻である。なので、どの授業も同じ教室で受けられる。その上、苗字も一緒だから席も至近距離だ。
これからは毎日奏お姉ちゃんを拝みながら勉強できる。なんと素晴らしい環境を与えてもらったのだろうか。私は学校のシステムとこの運命に大きな感謝をした。
あと、楓も同じクラスだ。これも嬉しいことである。仲良くなれた子と一緒になれるというのは嬉しいものだ。
そんなわけで、私の高校2年生のスタートは上場の滑り出しなのだ。そして嬉しいことが珍しく続いているのだ。
なんと、今週の日曜日に奏お姉ちゃんと二人きりで、遊びに出かけることになったのだ。普段は誰かが必ず付いてくるので、二人きりというのは随分久しぶりな話なのだ。
これほどまでに嬉しい出来事が続いていいのか心配になったが、これはしっかり堪能しなさいという神様の啓示なのだろう。そう受け止めておこう。
そんなわけで、私はオシャレをしなくちゃいけない。奏お姉ちゃんと一緒に出かけるのだから、恥ずかしい格好はできない。それに、もしかしたら奏お姉ちゃんの気を少しでも引けるかもしれない。
そんな淡い期待をしながら、私は着ていく服の準備をしていく。まだ月曜日だというのにも関わらず。
準備をしているのだが、どの服を着ていこうか全然決まらない。2、3時間も悩んでいるのに、全く決まらないのだ。
まだ時間はあるからいいのだが、こうも決まらないとなると、一生決まらないんじゃないかとも感じてしまう。
ここは、第三者の視点を入れてみよう。そしたら、すんなりと決まるかもしれない。
琴姉は…………、ないな。琴姉にファッションのことを聞いても絶対にいいことがない。唄姉も微妙だ。服のセンスは琴姉より明らかにいいが、私の好みと合わない。あと、真剣に選んでくれなさそう。
遊びに行くんだろ? そんなもんテキトーでいいだよ。こんなことを平気で言いかねない。まあ、私の事情を知らないわけだから仕方ないんだけどね。
というわけで、家族内には相談が出来ない。となれば友人にあたるしかない。
私はスマートフォンを取り出し、候補を探し出した。
加奈子は、こういうのにセンスがありそうだ。優菜もそういうのには精通してそうだ。美沙も悪くはないかも。
なるほど。意外と候補はいる。しかし、みんな真剣に見てくれるかがやはりネックになる。遊びに行く、しかもボーイフレンドとかではなく、奏お姉ちゃんだから、そこまで真剣に選んでくれなさそうだ。
真剣に選んでくれる……。いた。一人いた。とても真面目で、こういう条件でも絶対に真剣に見てくれそうな子が。
雷に打たれたかのように閃いた私は、早速スマートフォンから、その子に電話を掛けた。
夜の8時頃。私が勉強机に座って明日の予習をしているそのその時に、その電話は突然かかってきました。
「あのね、楓。お願いがあるんだけど」
電話の主は美優羽さんです。声のトーンを聞く限り、何か悩んでいるようです。電話がかかってくること自体はそう珍しいことではありませんが、悩んでいるのは相当珍しいです。一体どんな要件なのでしょうか。
「どうしたのでしょうか?」
私は美優羽さんに尋ねます。もしかすると、何か大変なことに巻き込まれてしまっているとか。多分そんなことではないでしょうが、一応心配します。
「今度の日曜日、お姉ちゃんと出かけることになって……。それで、着ていく服を悩んでいてね。だから、その……私の服をどれがいいかって教えてくれない?」
美優羽さんはとても真剣な声でそう言います。なんだ、奏さんとのお出かけのことですか。変なことに巻き込まれていなくてよかったです。変なことは、私がすることだけで十分ですから。私は一安心します。
「選ぶ、ですか。けど、私はそんなに洋服のセンスには優れていませんよ? 見てもらうのなら、優菜さんなど、そういう方面に明るい人がいいのではないでしょうか?」
私はそう聞き返します。私の言うように、服のセンスに明るい人は他にいます。それを差し置いてなぜ私なのか。それが気になります。
「ちょっと、真剣に選んで欲しくてね……。いやっ、お姉ちゃんとはそういう関係とかそういうのじゃないのよっ。そうじゃないんだけど、お姉ちゃんが喜びそうな服を真剣に選んでくれそうなのが、楓くらいしか思い浮かばなくて。だから、楓に頼んでるのっ」
美優羽さんは少し声が上擦っています。なるほど。私が真面目そうだから、真剣に選んでくれると思っているらしいですね。普段から真面目にしておいた甲斐があったようです。ありがとう、普段の私。私は普段の自分に感謝します。
ただ、美優羽さんが奏さんのことが好きなんて周知の事実ですから、優菜さんに言っても真剣に選んでくれそうですけどね。まあ、今は黙っておきましょう。本人も、周りには秘密にしていそうですし。
それに、私を信頼してくれてるのは嬉しいですし。私はこの事を黙っておくことにしました。
「それで、どのようにして選べばいいのでしょうか?」
「私が何通りか写真を送るから、その中から選んで欲しいな」
美優羽さんはそう言います。ただ、私はそれよりももっといい方法を思いつきました。
「写真で選ぶですか……。それよりも、実際に見た方がいいような気がします。写真の印象と実際に見た印象は変わりますし。それに、他の服も見た方がいいって場合もありますし」
ありのまま、思ったことを美優羽さんに伝えます。
「言われてみればその通りだわ。じゃあ、明日の放課後、家に来てくれない?」
美優羽さんもそれに賛同してくれます。
「あっ、わかりました。明日は当番もないのでそのまま帰るついでに行きますね」
「分かったわ。それじゃあ、明日よろしくね。じゃあまた明日」
美優羽さんがそう言うと電話が切れました。と言うわけで、明日は美優羽さんの家に行くことになり、家に行く?
なんと言うことでしょうか! 美優羽さんの家に行くことが決まってしまいました! 今になって急に興奮してきました。やばいです。あの美優羽さんの家に行けるのです。興奮するなという方が無理があります。
卓上ミラーに映る私の顔は真っ赤になっています。とてもじゃないですが、落ち着くことができません。
決して下心を持って提案したわけではないのです。ただ思ったことを素直に言っただけです。それが功を奏したのかもしれません。
あの日に言ってから、これまで叶わなかった美優羽さんの家を訪れるという夢が、叶ってしまいました。まるで夢のようです。
しかも、美優羽さんの姿を間近で見られるわけです。これはご褒美です。ご褒美に違いありません。神様からの嬉しいプレゼントでしょう。
こうなっては、私も全力で美優羽さんに応えなければなりません。
これがもしかすると、奏さんとの仲を進展させるかもしれません。しかし、そんなのは知りません。折角頂いたプレゼントですので、いいお返しをしなくては美優羽さんに申し訳ないです。
私は、スマートフォンで『オシャレ』『女子高校生』というワードで検索をかけます。少しでもオシャレについて勉強して、美優羽さんの役に立たなくてはなりません。
付け焼き刃でも、出来る限りの知識を身につけましょう。
こうして、私は人生で初めてオシャレについて学んでいくのでした。
翌日の放課後。天気は絶好の晴れといったところでしょうか。約束通りに、私は美優羽さんの家を訪れることになりました。今はその途中の帰り道です。
「楓っ。どうしたの? そんなに緊張して」
美優羽さんが優しく声を掛けてくれます。どうやら、目に見えるくらい緊張していたようです。まあ、無理もありませんか。勉強していたのもありますが、結局上手く寝付くことができなかったのですから。
そのくらい、私は今日という日が楽しみだったのです。美優羽さんの家に上がるということが。
「そっ、そうですか? 美優羽さんの服を選ぶとなるとちょっと緊張してしまって……」
私は半分本当、半分嘘な内容で回答しました。
「そうなのね。楓って本当に真面目ねえ。これなら真剣に選んでもらえそうだわ」
美優羽さんは嬉しそうにしています。それだけ、真剣に選んでくれる人を渇望していのでしょう。私はなんとしてでも役立ちたいです。
その為に、昨日いっぱい勉強したんだからきっと大丈夫なはずです。付け焼き刃ですが、少しは役に立つはずです。私はそう意気込みます。
そうこうしているうちに、いよいよ美優羽さんの家に到着しました。
「どうぞ、上がって」
美優羽さんに促されるように、私は家に入って行きます。
まず、美優羽さんの家について思ったのは広いということです。私の家も、一軒家なのでそれなりに広いと思っています。ですが、美優羽さんの家はそれ以上に広いです。
流石に迷子になる程ではありませんが、ここまで広い家は芸能人の家じゃないと無理そうです。ご両親の稼ぎがきっといいのでしょう。
それから、隅々まで掃除が行き届いているのか、かなり綺麗です。白い壁は綺麗な白をしていますし、フローリングもピカピカです。
ご両親は出張で滅多に家に帰ってこないということなので、掃除がおろそかになりそうですが、そういう気配がまるでありません。とても不思議です。
あと、何故かいい匂いがします。柑橘系というかなんというか。ちょっと説明しづらいですが、とにかくいい匂いがします。これは、普段から美優羽さんがいい匂いをしているので当然のことでしょう。
「どう? 別に普通の家でしょ?」
美優羽さんが無邪気に言います。
「いえ。私の家より広いですし、綺麗ですし、いい匂いがします」
「そ、そんなことないわよ。これが普通のはずよ。それより、私の部屋は2階だからこっちね」
美優羽さんは少し照れくさそうにしながら、2階へと案内してくれました。
2階も相変わらず綺麗です。2階の奥にある一室。それが、美優羽さんの部屋とのことです。
一体どんな部屋なのでしょうか。美優羽さんのことだから、きっと華やかな部屋なのでしょう。あと、本がいっぱい置いてありそうです。ワクワクしながら、美優羽さんに導かれます。
ガチャ。
美優羽さんが部屋の扉を開けます。眼前に飛び込んできたのは、とてもシンプルな白一色で統一された部屋でした。
てっきり、もっとピンクとか青とかで満たされているのかと思ってました。なので、不意打ちをもらったようになってしまいました。
ですけど、これはこれでとても綺麗な部屋です。統一感がありますし、無駄のない洗練された印象を受けます。あと、本は予想通りいっぱい置いてあります。
「私の部屋。なんか地味でしょ?」
美優羽さんは笑みを浮かべています。
「私はこれはこれでいい部屋だと思いますよ。統一されてて、とても綺麗ですし。確かに印象とは違いますけど」
「そういってくれると嬉しいわ。私、こうなんかカラフルにするのがあんまりすきじゃないから、これで落ち着いちゃうんだよねえ」
美優羽さんは穏やかな表情をして言いました。これもまた、美優羽さんの一面なのでしょう。一つ知れたことで、美優羽さんに近づけた気がします。これだけで今日は満足できそうです。
しかし、やることはまだ全然進んでいません。美優羽さんの服を選ぶことが、今日のミッションなのです。
美優羽さんは、服の準備を始めました。私はそれを黙ってみていました。
準備が整い、服を見ていきます。私が学んだことは主に3つ。
まず、体型に合った服を選ぶこと。小さすぎても大きすぎてもダメだということです。それから、ウエストの位置もわかるようにしないといけません。これは、美優羽さんの服は大体の服がクリア出来ていそうです。
それから、全体の色のバランスを考えることです。ベースとなる色が7割くらい。それをサポートする色が2割程度。残りの1割でアクセントをつけにいく。これがいいバランスだそうです。
そうすると、ベースの色はあまり派手な色でない方が良さそうですね。美優羽さん自身が穏やかな雰囲気の人なので、激しい主張をする色と対立して服が浮いてしまいそうですから。あと、奏さんの好みもそういう感じでしょうし。
従って、ベースの色は白とか、淡い系の色、黒もギリギリありかもしれませんね。私は、それを美優羽さんに伝えます。
「確かにそうかもね。お姉ちゃんもそういう色を好みそうだし、そっちの方がいいかもね」
美優羽さんは納得されているようでした。これでベースの色は決まりですね。
あと、色は多すぎてもダメなようです。多くても3、4色に収めるのがベストらしいです。確かに、色がいっぱいあったら、ごちゃごちゃした見た目になりそうですしね。そう考えると、とても納得のいく話です。
これらのことを踏まえて、私は美優羽さんの服を選んでいきます。
「さーて、じゃあ着替えようかな」
そう言って、美優羽さんは徐に服を脱ぎ出しました。
眼前には美優羽さんのスベスベのおみ足、美しくバランスの取れたボディ、そして白色の綺麗な下着が広がります。
これは、流石に私には刺激が強すぎます。幸せな光景には違いありません。ですが、興奮しすぎて鼻血が出てきてしまいそうです。いけません。これでは服を選ぶ前に私が気絶してしまいます。
「あ、あのぉ美優羽さん。申し訳ないんですが、着替えてる間だけ外に出ていてもいいですか?」
興奮をなんとか押さえつけて私は美優羽さんに尋ねます。
「別にいいけど。そんな同級生の着替え見るだけで何か困ることあるの?」
美優羽さんは不思議に思っているようです。まあ、そうでしょう。普通の女の子は同級生の着替えでこんなこと言わなさそうですしね。
「わ、私、こういう感じで人と一緒に着替えるっていうのに慣れてないので」
語尾を曇らせて、誤魔化すように私は言います。本当の理由は言えませんので、当然嘘の理由です。
「そうなの。それじゃあ無理強いさせてもダメよね。わかったわ。着替え終わったら呼ぶから、それまで外にいて頂戴。なんだか、客人を外に出してしまうのは申し訳ないけどね」
美優羽さんはどうやらその理由で納得しているようでした。これで私は安心して洋服選びに専念できます。
というわけで、服選びの開始です。
まずは、黒の長めのコートに茶色めのワンピース。うーん、全然似合ってないわけではありません。美優羽さんは綺麗です。けどこれは地味すぎますね。没でしょう。
「これは多分ダメですね」
「うん。私もそう思うわ」
美優羽さんも、迷いなく没だと宣言しました。
次は黒の長い柄つきTシャツに黒のショートパンツ。
はっきり言います。お似合いです。カッコよさが出てきてます。美優羽さんは美人顔でもありますが、どちらかと言うとかわいい系の顔ですから、これはギャップがあっていいかも知れません。
ただ、美優羽さんこの系統の色があまり好きそうには見えません。なんだかしっくりきていない顔をしています。これから察するに、誰かに貰ったものをとりあえず試しているという感じでしょうか。
そう考えると、服と美優羽さんが喧嘩をしているようにも見えてきます。似合ってはいますが、没ですね。私がそれを伝えると、美優羽さんも同意してくれました。それでは次にいきましょう。
次は白のチノパンに白のデニムジャケット。これはけっこう大人っぽい印象を受けます。大人っぽい美優羽さんも素敵です。堪りません。
落ち着いている配色ですので、かなりいいと思います。大多数の人がこれでいいと言いそうです。ですが、私はどうもそうすることが出来なさそうです。
さっきの服同様に、美優羽さんの表情が冴えないからです。何故でしょうか。私は気になってしまいます。
「似合ってると思いますが、何か気に入らないのでしょうか?」
私がそう言うと、美優羽さんはちょっと苦笑いを浮かべます。
「実は、ズボン系があまりしっくりきていないのよね。こう、履き慣れてないからかしら」
なるほど。それなら、いくら似合う洋服でもダメですね。
「そしたら、スカートから選んだ方が良さそうですね。ズボン類は一旦仕舞いましょうか」
「そうね。そうするわ」
そう言うなり、美優羽さんはズボン類をウォークインクローゼットの中へと片付けていきました。
次は、デニムのロングスカートにボーダーのシャツの組み合わせです。これもいいですね。美優羽さんはとても素敵に思えます。
正直、美優羽さんレベルの方ならどんな服を着ても似合うので、どれでもいいような気はします。ただ、美優羽さんはしっくり来ていないようです。
その後も、1時間近く色々と服を見ていくのですが、中々決まりません。どれも素晴らしく美優羽さんには似合っているのです。似合っているのですが、どこか納得されていない様子なのです。
困りました。折角服の知識を身につけたのに、全く役に立っている気がしません。どうしましょうか。
一旦休憩し、着終えた服を片付けていきます。
「美優羽さん。中々納得のいく服装が見つかりませんね」
「そうねえ。どれもしっくりこないわ」
私と美優羽さんは弱音を吐きます。このままだと、本当に決まりそうにありません。何か手掛かりがあればいいのですが、それすらないのですからどうしようもありません。
そう言えば、今回の服装のコンセプトってなんでしたっけ? 確か奏さんとのお出かけに来ていく服。それで、奏さんにいい印象を与えられる服というのが、それだったはずです。
確か、奏さんは美優羽さんと好みが似ていて、しかも美優羽さん以上に好むというのを聞いたことがあります。バレンタインデーの付近でそんなことを言っていた気がします。
だったら、話は簡単です。
「そう言えば、美優羽さんはどんな服装が好きなんですか?」
「私? 白系のシャツにロングスカートかなあ。色は赤とかそういった系統かなあ」
「わかりました。それでは、私が選んでいいですか?」
そう言って、私は美優羽さんの洋服に手を付けました。
「い、いいけど。何か思いついたの」
「ええ。これでいいはずだと思います」
少し不安そうな美優羽さんを尻目に、私は自信満々に服を選びます。
選び終えた私は、美優羽さんに服を託し一旦外に出ます。多分、これで大丈夫なはずです。私には確信めいたものがありました。
少しすると、美優羽さんから入っていいよー、と声が掛かりました。私はスムーズに部屋に入ります。
美優羽さんはローズグレイのAラインスカートに白色のシャツを着ていました。間違いなく似合っています。そして、これは美優羽さんの好みに近いものです。
「どう、ですか?」
「これは、私の好みだわ……」
美優羽さんはしっくり来ているようです。
「けど、それでいいのかしら。お姉ちゃんはこれで喜ぶかなあ?」
「大丈夫ですよ。バレンタインデーの前日とかに言っていたじゃないですか。美優羽さんと奏さんの好みは似ていると」
私の言葉に美優羽さんはハッとします。美優羽さんも察したようです。
「あくまで味覚だけの話かもしれません。ですが、服装もそうである可能性に賭けませんか? それに、しっくりくる服を着て元気にしている美優羽さんを見るのが、奏さんは一番嬉しいんじゃないでしょうか?」
私はメガネをクイっとあげて、少しキメ顔をします。これはいいこと言えたはずです。
「その通り……。その通りだわ! 楓ありがとう! 楓に頼んでよかったわ!」
美優羽さんは私の手をギュッと握り、ブンブンと上下に振りました。
よかったです。私も力になれたようです。少し嬉しくなりました。
本当なら、ここでわざとダメな服を提案した方が、私の恋路は叶いやすかったのかもしれません。しかし、それで本当にダメな失敗をしてしまえば、私の信頼が落ちてしまうでしょう。
そうなれば、私への信頼度が下がってしまうのは明らかです。なので、これは損をして得を取ったわけです。まあ、あと好きな人が悲しむ姿を見たくなかったというのもありますけどね。
そんなわけで、服装が決まりました。これで一安心です。
服装が決まってからは、服が決まった勢いでということで、どこを回るかも決めていきました。それも美優羽さんの好みを活かした形で決めることになりました。
そんなわけで、私の今日1日は大成功というわけです。あとは、美優羽さんのデートが上手くいくことを祈りましょう。まあ、告白とか付き合うとかまではいかない程度に。
お出かけ当日の朝7時。天候にも恵まれ、晴天といった感じ。私はなんてついているのだろう。神様ありがとうございます。起きるなり、私は神様に感謝をした。
それから1時間経った8時。
「美優羽ちゃん。私は準備できたよー」
奏お姉ちゃんはもう準備ができたようだ。私はというと、着替え終わってはいるから、あとはメイクのみだ。それもあと少しというところ
「ちょっと待ってて。もう少しでできるから」
奏お姉ちゃんを待たせないよう、けど、慌てないようそこそこのスピードでメイクをしていく。あまり派手すぎず、ナチュラルな感じで。それが私の好みだから。きっと奏お姉ちゃんもそんな感じだろう。
少ししてメイクが終わる。私はカバンを持って、部屋の外に出る。
「お待たせ! どう?」
今日の私を見た奏お姉ちゃんは少し目を見開く。それからとびっきりの笑顔を私に魅せてくれた。
「うん! 似合ってるよぉ」
奏お姉ちゃんは喜んでいるようだ。うん。やはり、楓の言った通りだった。楓に頼んで正解だったな。私はそう確信した。
「あっ、ありがとうっ。べ、別に今日のために特に服を選んだとかないんだからねっ!」
私の口は相変わらず素直になれない。それを知っていてか、奏お姉ちゃんは微笑んでいる。
「わかってるよぉ。私もどう?」
そう言って、奏お姉ちゃんはひらりとその場で軽く回った。服装は白のカッターシャツに、深緋色のスカート。メイクはナチュラル系。私を写し鏡にしたような形だ。
答えは、一つしかない。
「に、似合ってるわよ」
ちょっと尖りながら、恥ずかしがりながらも、答えは素直に出せた。それを聞いて、奏お姉ちゃんは、うふふと軽く笑った。
「よかったぁ。それじゃあ、行こうか」
こうして、私と奏お姉ちゃんのお出かけは始まっていったのであった。
ガタンゴトンと電車が揺れる。左隣をみると、その振動に合わせて奏お姉ちゃんも軽く上下に揺れる。少しすると、眠たそうにあくびをしていた。
滅多に見られないからとてもレアだ。貴重だ。そして最高にカワイイ! スマホのカメラを機動していればそんな瞬間をいつでも見返せたのに。私はとても惜しい気分だった。しかし、起きる時間は普段と変わらないはずなのに不思議だ。
もしかして、奏お姉ちゃんもこのデート? が楽しみで眠れなかったのだろうか? だとしたら私はとても嬉しい。奏お姉ちゃんにはちょっとしたことでしかないと思っていたのに、そんなに楽しみにしていてくれたと思うと言葉では言い表せないくらい嬉しくてたまらない。
「美優羽ちゃん? 私の顔を見つめてどうしたの?」
奏お姉ちゃんが不思議そうに私を見つめていた。流石にお姉ちゃんを凝視しすぎていたようだ。
「な、なんでもないわよっ」
私は少し焦ってしまいながら否定した。
「そうなのぉ。何か顔に付いてたのかなあって思ったけど、それなら大丈夫だね」
奏お姉ちゃんはニコニコしながら答えていた。よかった。この気持ちには気付かれていないみたいだ。私はほっと一安心した。
「そう言えば、今日はどこに行くの? 美優羽ちゃんにお任せしてたから、どこに行くか楽しみだったんだぁ」
お姉ちゃんはキラキラした目で私を見つめている。そうだった。その日の楽しみにする為に、奏お姉ちゃんには行き先を教えていなかった。一応雨の日でも大丈夫なところとは伝えていたが。
ここまで楽しみにしてくれているのは嬉しい反面、少し怖い。好きそうな場所を選んだし、奏お姉ちゃんが文句を言うとは思わない。だが、期待に添えられない場所だとがっかりさせてしまうかもしれない。
言わないという選択肢もある。ただ、奏お姉ちゃんはとても知りたそうにこっちを見ている。その選択肢は取れないだろう。私は少し息を吸ってから言った。
「えっと、まず午前中はオーワールド水族館に行くわ。そこでペンギンとかイルカとか観る予定」
「うんうん!」
奏お姉ちゃんは首を縦に振る。表情も興味津々と言う感じだ。
「それから、榛名ヶ丘――大手会社が運営するショッピングモール――に行ってお昼ご飯を食べるわ。それから、お姉ちゃん、眼鏡と服が欲しいって言ってたでしょ。その二つを見に行きましょ。あとは、今日晴れたから、少し歩くけど春村の桜並木を見に行くつもり。予定はそんな感じよっ」
緊張して少し早口になってしまったがとりあえず伝え切った。奏お姉ちゃんの反応は……?
「うん、いいと思うよぉ。ペンギンさん久しぶりに観れるし、私の欲しかったものも見れるし。桜並木も楽しみだなあ」
喜んでくれているようだ。私はほっと一息ついた。
「よかったわ。喜んでくれて」
「今から楽しみだね」
奏お姉ちゃんは私に微笑みかけた。
午前10時を少し過ぎた頃。私と奏お姉ちゃんはオーワールド水族館に着いた。
「わぁー! 久しぶりだねぇ。美優羽ちゃん」
「うん、そうね」
奏お姉ちゃんはとてもウキウキしながら言っていた。私たちがここに来たのは小学6年生以来である。その時は、家族全員で来たと思う。その時から結構大きい場所だったが、更に大きくなっている気がする。そう言えば、2年前に改装したとか言ってたと言うことを思い出した。
ちなみに、このオーワールドは通称で、正確な名前はオーシャンワールド水族館になる。ただ、長いので県民からは頭文字をとってオーワールドと呼ばれている。
そんなことは置いておいて、私が水族館を選んだのにはいくつか理由がある。雨でも大丈夫というのは大きい理由だが、それ以外にも3つある。
まず、奏お姉ちゃんがペンギンとイルカが大好きであるということ。これは昔からそうだったから間違いない。私も好きだがそれよりもペンギンとイルカを見て喜ぶ奏お姉ちゃんが何よりも見たい。きっと、「きゃー! かわいいっ!」とか言ってかわいい反応を見せてくれるはず。楽しみだ。
2つ目が暗くてムードがいいということだ。明るいところもそれはそれでいいが、水族館は暗いけど、水槽のおかげで幻想的でとてもいいムードになる。そんな雰囲気に居れば、少しは奏お姉ちゃんと距離が近づくんじゃないかと思う。あくまで妄想だけど。
3つ目は何か話に困ってもお魚を指さして話しておけば、会話に困らないことだ。まあこれに関しては心配する必要がないと思う。だが、もしも飽きさせてしまったら、好感度が下がってしまうから、それを防ぐことができるわけだ。保険ではあるが、保険はとても大切だ。
そんなこんなで大人チケット2枚を購入し、水族館に入った。
館内は白を基調とした感じの構造で、とても広々としている。入って左側に数メートル進むと中規模程度のお土産コーナーがある。そこにはオーワールドの名物のラッコにちなんだお土産や、イルカ、ペンギンのイラストが使われたタオルやシャツなどが所狭しと並んでいる。
流石に来たばかりなのでお土産はまだ買わない。出口も近いので、帰り際にいくつか買っていこう。私はそう思いながらお土産コーナーを過ぎ去ろうとした。すると、奏お姉ちゃんがいない。一体どこに行ったのか。焦って少し探すと、お土産コーナーのペンギンのタオルに釘付けになっていた。
「お姉ちゃん。今はまだ買わないわよ。今買うと手荷物になって邪魔になるでしょ?」
「うーん、わかった……。帰りにするね。バイバイ、ペンギンさん……」
奏お姉ちゃんはしょんぼりしながら私の方へ向かった。まあ奏お姉ちゃんの好きそうなデザインだから、飛びつきたくなるのはわかるが、今は我慢させておこう。
私は奏お姉ちゃんを連れて歩いた。さて、イルカショーまでは時間がある。イルカは好きだが最前列は水飛沫やらなんやらでずぶ濡れになってしまう。流石に濡れてまで観る気はない。それに気に入っている服だから、濡らしたくない。なので、ある程度時間を潰してちょうど中段くらいの席を取れそうな時間を選ぶ必要がある。
なので、同じ階の奄美の珊瑚礁を模した展示とかを観て時間を潰そう。私達は目の前の大きな噴水を横切って、通路の方へと向かった。
奄美の珊瑚礁のエリアに着いた。色とりどりの魚たちと美しい珊瑚礁が私たちをお出迎えしてくれていた。
「わー! 今日もカラフルだねえ。美優羽ちゃん」
奏お姉ちゃんは水槽を見ながら明るい声いろをして言った。確かにとてもカラフルだ。私が普段見る魚は灰色や黒、あっても赤くらいなもの。まあ、食べる用だからそりゃそうだが。
一方でここの魚たちは、青や黄色の模様の入ったもの、赤と言っても色鮮やかだったり、オレンジに近かったりと非常にカラフルだ。同じ魚だとはとても思えない。南の方に離れていくだけで、ここまで生態系が変わるもんなんだなあと、私は自然の凄さに感心していた。
「そうね。いつもの鮮魚コーナーで見る魚とは全然違うわ」
「食べろって言われても、ちょっと無理だよねえ」
奏お姉ちゃんは少し残念そうな表情をしている。
「そうねぇ……。私は遠慮したいなあ」
奏お姉ちゃんの言う通り、食べろと言われてもちょっときついものがある。奄美地方の人達はこの魚を一体どうやって食べているのだろうか。私は少しだけ気になった。
珊瑚礁の水槽のゾーンを見終わり、右の方へ少し進むと今度はクラゲの展示がされていた。大きいものから小ささなものまで、様々なのがプカプカと泳いでいる。クラゲにはこれまたカラフルなスポットライトが当てられ、赤から青、青から黄色と言うようにいろんな色に変化している。
かわいいとは思わないが、ずーっと見ているとのんびりとしていて癒されそうだ。奏お姉ちゃんは少し放心したような感じでボケーっとしながら見ている。これは気に入っているのだろうか? それともただ見つめているだけだろうか?
「お姉ちゃん。ぼーっとしてどうしたの?」
私がそう聞いてみると、
「あっ、ちょっと見入ちゃってた」
少しびっくりしながら答えた。
「見入っちゃうって、そんなに気に入ったの?」
「うーん、なんだろう。かわいいとは思わないんだけど、見てると心が落ち着くような感じがするんだ」
奏お姉ちゃんは不思議そうな表情をしていた。
「私もそうかも」
「美優羽ちゃんも? やっぱりそうなるよね⁉︎」
同じような感想が嬉しかったのか、目を少しだけ大きく開いて興奮気味に私の手を右ってきた。
奏お姉ちゃんに今手を握られてる。柔らかなおててでぎゅっと包まれるように握られている。私の手は今天国に居る。間違いない。こんな風に握ってなんて普段は言えないし、してもらえない。なんというご褒美なんだろうか。同じような感じ方をしていて良かった! 双子で良かった! 私は心からそう思った。
「うっ、う、うん。ふよふよ浮いてるから落ち着くよね」
熱った心を必死にクールダウンさせながら、なんとか平静を装い答える。
「うんっ。わかるっ。やっぱりそう言う所は双子だよねえ。わかってもらえて良かった」
そう言うと、奏お姉ちゃんは手を離した。あぁ。もっと味わっていたかったが、贅沢は言えない。さっきの瞬間を堪能していよう。いや、もしかしたらまたチャンスがあるかもしれない。今日は何故だかそんな気がする。そんな都合のいい妄想をしながら、私はそっと手をさすった。
「そうね。双子だからね」
「うん。私と美優羽ちゃんは以心伝心だねっ」
奏お姉ちゃんはふんと鼻を得意げに鳴らしていた。まあ完全にそうではないけど、双子だから近しいものはあるだろう。現に好きなものとかは一緒だしね。そんなことを考えながら、私はうんと首を縦に頷いた。
ショーの時間が近づいてきたので、私達はショーが行われるステージへと向かった。私が狙っていた通り、前の席は埋まっていて中段はちょうどいい感じに空いていた。どこにでも座りたい放題という感じだ。なので、一番全体が見れるであろう、丁度真ん中の席に座ることにした。
「ショー、楽しみだねぇ」
奏お姉ちゃんは左隣のこっちを見ながら軽く微笑み、ウキウキしたような感じで言った。本当に楽しみなんだろうなあと感じる。上機嫌に有名な曲をハミングしながらステージを見ているし、足を前後にずっとリズミカルにプラプラしている。こんな奏お姉ちゃんは滅多に見れない。一言で言うならかわいい。超かわいい。いや、かわいいを超越した何かだ。そうに違いない。私のハートはまたしても熱くなっていく。
この様子、動画に収めるべきだろうか? 動画に収めればいつでも見返せる。こんな奏お姉ちゃんはそうそう見れないんだ。レアキャラなんだ。だから、この様子を収めたい。でも、カメラを向けたら流石に気付きそうだ。気付いたらやめてしまいそうだし、恥ずかしそうにするかも。それもかわいい。そういうのも見たい。見たすぎる。けど、何か言われるかもしれない。それで嫌われたら……。あー、やめておこう。この様子は心に刻んでおこう。
私は動画にするのをやめることにした。代わりに奏お姉ちゃんに気付かれない程度に見ながら、この様子を記憶のメモリーの限界まで焼き付けるようにした。
そんなことをしていると、いよいよ開演の時が来た。オーワールドのショーはアシカのショーからイルカのショーという順番になっている。なので、まずはアシカのショーからスタートだ。
軽快な音楽とともに、ステージの左端から2頭のアシカがエサを貰いながら、トレーナーのお兄さんとお姉さんに連れられて、ステージ中央に向かってくる。ちょっと距離はあるが、アシカはそこそこ大きく見える。
ステージの中央に来て台の上に乗ると、お兄さんとお姉さんと一緒にペコリとお辞儀をした。これはかわいい。小さい子ならまだしも、人間がお辞儀をしたところであまり響かないが、動物がお辞儀をするとこうもかわいいもんなんだなあと感じた。
隣の奏お姉ちゃんは「キャー!」と歓声をあげている。思っていた通りだ。アシカでこれなら、イルカだとどうなるんだろうか? 私はふと疑問に思った。感動しすぎて何も声をあげないとか、そんな感じになるのかな。
それはその時のお楽しみにしておいて、ショーを楽しもう。奏お姉ちゃんの反応を見るのは楽しいけど、そればっかり追っていてもしょうがない。だって、奏お姉ちゃんに感想聞かれて困ってしまったら会話に詰まるなんてもんじゃないしね。我慢して私は目線をステージへと戻した。
トレーナーさんの二人が挨拶をしながら、アシカの自己紹介をしてくれた。右側にいるのがリリちゃんで左側にいるのがパールちゃんと言うらしい。ちょっと遠いので見分けがつきにくいが、ガンガン動くわけでもなさそうだし、覚えないといけないわけではないから、右がリリちゃん、左がパールちゃんで覚えておこう。
「それじゃあ、今日はアシカ達の運動会をやっていきたいと思いまーす!」
お姉さんは大きな声で言う。アシカの運動会? 一体どんなことをやるんだろうか。走り回らせるわけにはいかないだろうし、その場でできる芸なんだろうけどどんなものなんだろうか。楽しみになってきた。
「じゃあ、まずは準備体操をやっていきたいと思いまーす。それじゃあ、身体を前に倒して。いちにーさんっし、ごーろくしちはち……」
お姉さんの掛け声に合わせてリリちゃんとパールちゃんはトレーナーさんの動きに合わせて、身体を前に倒す。そこから、リリちゃんとパールちゃんは身体を捻ったり、胸鰭を上にあげたり下げたりと動いていく。これは確かに準備体操だ。私は感心しながら2頭の動きを見ていた。
準備体操が終わると、いよいよ運動会へと移っていく。最初は旗揚げをするそうだ。
旗揚げ……? アシカの胸鰭じゃ旗は持てないぞと思っていると、旗を持たずに胸鰭をトレーナーさんの動きに合わせるそうだ。まあ、そうじゃないと出来ないよね。私は一安心した。
まずはパールちゃんの番だ。館内のスピーカーから指示が飛んできた。
「右上げて。右下げて。左上げないで右上げて。右下げて。右上げないで左上げて」
トレーナーのお兄さんが手を上げたり下げたりするのに合わせて、胸鰭を上げ下げする。指示通りに動けている。これはクリアだろう。観客から拍手が湧き上がる。私もそれに合わせて拍手を送った。
次にリリちゃんの番だ。再びスピーカーから指示が飛ぶ。
「右上げて、そのままキープ。その場で回って、飛び跳ねて」
回って? 飛んで? そんな動きが出来るの⁈ そんなことを一瞬期待したが、流石に無理なようで、トレーナーのお姉さんが物言いをつけていた。
「ちょっと待ってください! 明らかに難しいですし、こんな動きできませんって」
「いやいや。指示は指示ですから、この勝負はパールちゃんの勝ちです!」
「そんなー!」
お兄さんはお姉さんの言うことを押し切ってしまった。なんだこのやりとりは……。滅茶苦茶すぎる。奏お姉ちゃんはどう見てるのかなあと思い、チラッと隣を見てみると、楽しそうに微笑んでいた。まあ、奏お姉ちゃんが楽しんでいるならいっか。私はそう納得した。
次の勝負は玉入れ。お姉さんがバスケットボールを持ってきて、リリちゃんにそっと下から投げる。すると、リリちゃんは鼻先にボールをいとも簡単に乗せてみた。それを見てお姉さんは大きな虫取り網を用意する。リリちゃんはそれに合わせて、鼻先でボールを投げる。投げられたボールは見事網の中に入った。
これは凄い。観客からはおーっという歓声が湧き、大きな拍手をしていた。奏お姉ちゃんも嬉しそうに大きく拍手をしている。
さて、今度はパールちゃんの番。お兄さんはボールを受け取るとステージ脇に行く。そしてなんと、ボールを一回り小さいサイズに入れ替えたのだ。入れ替えたボールをそっと下から投げると、パールちゃんはリリちゃんと同じように受け取り、しっかりと網の中に入れてのけた。
「ちょっと! リリちゃんの時のボールじゃないですよ!」
お姉さんは流石に声を張って講義する。しかし、お兄さんは意に介する様子がまるでない。
「いえいえ。ボールは網に入ったんですから引き分けですよ」
このお兄さん、ちょっとせこい気もするがこれもショーだからだろう。これはこう言うものだと思って楽しもう。隣の奏お姉ちゃんもうふふと楽しそうにしている。それでいいんだ。それで。
最後はダンスだ。ダンスは最近流行っているアニメの爽やかなオープニング曲に合わせて、アシカ達が踊る。トレーナーさんの動きに合わせて胸鰭を上げたり下げたり、後ろを向いたりそれからこっちを振り返ったりと様々な動きで楽しませてくれた。観客からの拍手がアシカの2頭とトレーナーさん達に絶え間なく送られていた。
「さて、お兄さん。今日の勝負はどうしましょうか?」
「どっちも頑張ったので、引き分けでいいんじゃないですか?」
そう言うことで勝負は引き分けとなった。まあ露骨に勝ち負けつけるものじゃないからそうなるよね。私はそう思った。
引き分けということで、パールちゃんリリちゃんどちらにもトロフィーが渡されるそうだ。トレーナーさんからトロフィーが渡されると、鼻先で受け取り、そのままの姿勢をキープしている。
「さあシャッターチャンスです! みなさん今のうちにどうぞ!」
お姉さんがそう案内する。カシャ、カシャとスマホのシャッター音があちこちから聞こえてくる。せっかくだし一枚撮っておこう。楽しかったしね。そう思いながら、私はトロフィーを鼻先で掲げるパールちゃんとリリちゃんをスマホの写真に納めた。
シャッターチャンスが終わると、アシカのショーが終わった。2頭はトレーナーさんについていくようにステージを去っていった。
「アシカのショー、楽しかったねぇ」
奏お姉ちゃんはご満悦といった表情だ。確かに面白かった。アシカの芸も見事だったし、お兄さんとお姉さんの掛け合いも面白かった。ショーとはこう言うものでなくてはいけないのだと、私は思った。
「そうだね。芸も良かったし、話も面白かったしね」
「次のイルカショーも楽しみだねえ」
奏お姉ちゃんは微笑んでいた。それから少しすると、イルカショーの案内が流れた。ここのイルカショーはバンドウイルカ、カマイルカという2種類のイルカに加えて、コビレゴンドウというクジラもショーに参加する場合があるらしい。
「今日はクジラさん見れるといいなあ」
奏お姉ちゃんがキョロキョロと探している。そう言えば昔来た時はクジラはいないショーだったから、観れると嬉しい。
さて、今日はどっちだろうか。ステージの奥のプールに目をやると、イルカの中に少しゴツい生き物が見えた。間違いなくクジラだ。
「お姉ちゃん、あそこにいるよ」
私が指を指した方を奏お姉ちゃんは向く。
「ほんとだ! 今日はラッキーだねぇ!」
奏お姉ちゃんは体を少し揺らしながら喜んでいるようだ。こればかりは運だったから、今日のこの幸運を噛み締めておこう。喜ぶ奏お姉ちゃんが見れてとてもラッキーだ。
「さて、イルカたちの準備も整ったので、ショーを始めていきましょう!」
スピーカーからの案内の声とともに、イルカが水中から高く高くジャンプする。2、3メートルの高さに吊るされているボールに届いてしまうくらいの大ジャンプだ。観客席からおぉっという歓声が上がっていた。
「おおっ! すごーい!」
奏お姉ちゃんは口をあんぐりと開けている。今日は珍しい奏お姉ちゃんの表情が沢山見れる。水族館に感謝しないといけないみたいだ。このまま奏お姉ちゃんの表情をずっと眺めててもいいが、先程同様、話をされると困るのでイルカショーの方に戻ろう。私は視線を前にと戻した。
奥のステージには4人のトレーナーさんがいて、プールの中のイルカ達が軽快な音楽のリズムに乗るように、右から左、左から右へと次々とジャンプを決めていく。クジラはのっそりと動きながら、時折尾鰭を大きく動かして水飛沫を飛ばしている。
ジャンプが終わると今度は、イルカが水中から奥のステージへと凄い速度で乗ってくる。痛くないのかなあと思ってしまうくらいのスピードだが、他の子もやっているし、その後も平気そうに泳いでいるし、そこからスピンを決める子もいる。きっと大丈夫なんだろう。私はそう思うことにした。
一通り終わると、今度はイルカ達の紹介に入った。私達から見て左側のトレーナーさんのそばにいるのがカマイルカらしい。紹介されると、カマイルカは立ち泳ぎの芸を披露しながらこちらの方へと向かってきた。
イルカは芸が達者だというイメージがあったがその通りだ。こういう泳ぎ方って器用じゃないとできないから、きっとイルカは相当器用なのだろう。あと、芸を覚えると言うことは頭もいいはずだ。
「凄いね美優羽ちゃん、立って泳いでいるよ」
奏お姉ちゃんは普段より高い声をしている。興奮しているのだろうか。
「こういう芸を覚えられるって相当頭いいんだろうね」
そう私が優しく返すと、
「そうだよねぇ。頭良くないと無理だもんねぇ。私達もイルカに負けないようにしないとね」
なぜかイルカと張り合おうとしていた。人間だから負けたらダメでしょと思うが、私はそんなこと言わずに、そうだね、と否定せずやんわりと返すだけにした。
なんだか今日の奏お姉ちゃんはいつもより幼く感じる。水族館に来るとこうなるのだろうか。それとも、寝不足のせい? いずれにせよ、こんな奏お姉ちゃんは滅多に見れないから今のうちに楽しんでおこう。それはそうとして、イルカショーも見よう。私は再び目線を戻した。
ステージ真ん中のトレーナーさんのそばにいるのがバンドウイルカらしい。紹介されると、カマイルカの時のように立ち泳ぎを披露しながら、こっちに向かってきた。イルカというのはどの子も賢いんだなあと感じた。
一方のステージ右側にいるクジラは、流石に立ち泳ぎができないためその場でくるくると回りながら泳いでいた。クジラは大きいから無理があるだろうなあ。イルカほど俊敏じゃなさそうだし。
紹介が終わると、トレーナーさんがクイズを出してきた。
「問題です。カマイルカとコビレゴンドウでは、どちらが速く泳げるでしょうか」
そう言うと、トレーナーさん達はリズミカルに左右に揺れ始めた。それに合わせてイルカ達も頭を左右に振っている。ここのイルカは芸が細かく仕込まれているなあと私は感心した。
「これは簡単だよねぇ」
奏お姉ちゃんは自信満々そうにしている。相変わらずかわいくてたまらない。それは置いておいて、答えはカマイルカのはずだ。ショーが始まってからの動きを見れば一目瞭然だ。
「イルカだよね。すばしっこそうだし、これまでの動き見てもそうだろうしね」
「うん。絶対そうだよ」
奏お姉ちゃんの自信は揺らがないようだ。シンキングタイムが終わりいよいよ答え合わせだ。イルカとクジラが一斉にスタートを切る。イルカはとてつもない早さでプールの中をスイスイと泳いでいる。一方でクジラは頑張っているんだけど、動きがイルカに比べると遅いし重い。これはもう決まったようなものだ。
「はいっ。と言うわけで、正解はカマイルカでした!」
その声に合わせてイルカとクジラに対して拍手が送られる。私も拍手をして労った。奏お姉ちゃんも笑顔で拍手をしている。
「では、次の問題です。この中でどの子達が水飛沫をいっぱい飛ばせるでしょうか!」
トレーナーさんの声と共に再びシンキングタイムに入る。これも簡単だ。クジラで間違い無いだろう。確信に近い自信を感じながら、答え合わせの時間を待った。
「それでは、カマイルカ達から順番にやってもらいましょう!」
トレーナーさんがそう言うと、カマイルカがプールの縁を沿うようにゆっくりと泳ぎ出した。そして、観客席のあるエリアに近づくと、尾鰭を勢いよく左右に振り出す。水飛沫が飛ぶ。ただ、そこまで多くはない。
「次はバンドウイルカです!」
バンドウイルカも同じように動いて、水飛沫を飛ばす。今度はカマイルカより体格が大きい分水飛沫の量も多い。流石に私達の席までは飛んで来ないが、それでもかなりの量である。
最後はクジラだ。のっそのっそと動きながら、水飛沫を飛ばす。やはり量は多い。ただ、バンドウいるかとそう差がないかもしれない。と言うことは、答えは二つなのだろう。私はそう考えた。
「答えはバンドウイルカとコビレゴンドウでした!」
やはりそうなったかと私は思った。
と言うわけで、クイズタイムは終了。ここからはいよいよクライマックス。イルカたちのジャンプに入るみたいだ。
夏らしい陽気で軽快なナンバーが掛かると同時に、イルカたちが一斉に高々とジャンプする。そのジャンプに観客席中からおおっと大きな歓声があがる。奏お姉ちゃんも同じような反応を見せて大喜びだ。
それからは、イルカたちが宙返りや捻りながらのジャンプなど様々なジャンプを見せる。その度に観客席と奏お姉ちゃんはキャーとか凄いとか色んな反応を示す。足をジタバタさせて奏お姉ちゃんはやっぱりかわいいなあ。
そして、クジラがついに動き出す。何をするんだろうか。私はワクワクする。次の瞬間。体を捻りながらのダイナミックなジャンプをした。これは凄い。あの重い体をよくあんなに飛ばせるんだと感動する。思わずすごっと声を漏らしていた。
イルカとクジラ達のジャンプが終わりショーも終了。最後はイルカ達が左の胸鰭を振りながらプールを泳いでいた。
「かわいかったし凄かったね!」
奏お姉ちゃんはご満悦のようだ。
「うん。観に来て良かったね」
私は頬を緩めていた。イルカショーにアシカショー。観に来て良かったと心の底でそう思った。
ショーが終わった私達は色々な所を回った。鮫とかショーに出るイルカより小さいイルカとか、その他色んな魚をみて回った。ラッコも見てきた。タイミングが悪くおねむのの時間だった為、こっちを向いてくれなかった。まあこれは、次回への楽しみにしておこう。
奏お姉ちゃんは、常に明るい顔をしていてとても楽しそうだ。やはり水族館を選んで正解だったようだ。
そういうわけで最後にペンギンが飼育されているペンギンの丘という施設に向かっている。
私はペンギンは好きだが、奏お姉ちゃんもペンギンが超大好きだ。部屋にある人形のレパートリーの中にも確かペンギンがあったはずだ。多分今日もう一体増えるだろうけど。ボールペンか消しゴムも確かペンギン柄のだったはず。
そのくらい奏お姉ちゃんはペンギンが大好きだ。ペンギンを見ている時の奏お姉ちゃんはいつも優しいんだけど、それにも増して優しい気がする。だから私もペンギンが好きだ。
そのペンギンが今日は間近で見られるわけだ。ペンギンもだが、奏お姉ちゃんがどんな反応をするのかが楽しみで仕方がない。
「ペンギンさん元気かなあ?」
「元気だと思うわよ。あと、お昼に近いから、もしかするとご飯をあげるところが見れるかもしれないわ」
「楽しみだなあ」
奏お姉ちゃんからワクワクという文字が浮かび上がってきそうな雰囲気をしている。小学生みたいでかわいいなあ。私はそんなことを考えていた。
ペンギンの丘に辿り着いた。ペンギン達は思い思いのところに散らばっている。水辺で泳いでいる子もいれば、蝶々を追いかけている子、ボケーっとしている子がいたりと、様々な様相を見せている。
ちなみに、ここにいるペンギンはケープペンギンと言う種類らしい。サイズはそこそこと言う感じ。背中は黒だが腹回りは白になっている。それで目の上がピンク色をしているのがなかなかチャーミングだ。
そして他のペンギンの例に漏れず、ヨチヨチ歩きをしている。うん、かわいい。奏お姉ちゃんには負けるけど。奏お姉ちゃんはどんな反応をしているだろう。さっきから少し静かだけどどうしたんだろう。私は左隣をそっと向いてみる。
「かわ……かわ……あぁ……」
どうやら感動のあまり言葉を失っているようだ。こんな奏お姉ちゃんは見たことがない。このまま堪能していたいが、通路の真ん中にいて邪魔になりそうなので移動しよう。
「かわいいよねっ、お姉ちゃん」
「うんっ、うん!」
「けど、ここじゃ邪魔だから、あっちに行こう」
「あっ、そうだね! ごめんなさーい」
奏お姉ちゃんは申し訳なさそうにしていた。私と奏お姉ちゃんは、ペンギンの外側にある木の柵へと移動した。
柵の方に移動すると、丁度飼育員さんがバケツを持って現れる。これは食事の時間だ。ペンギン達も察したようで、飼育員さんの元へと一斉に集まってくる。
「見て見て! ペンギンさんが集まってくるよ!」
奏お姉ちゃんははしゃぎながらペンギンの方を指差している。
「ちょーだいって感じで見てるよっ!」
興奮しながら手を上下に動かしている。ペンギンは飼育員さんが魚を差し出すと、パクッと魚を丸呑みにしていた。
「かわいいねっ。かわいいねっ」
奏お姉ちゃんは興奮しっぱなしだ。私はそんな奏お姉ちゃんの方がかわいくて仕方がない。普段は少し落ち着いた感じもある奏お姉ちゃんが、こんなにテンションをむき出しにするんだ。水族館ってやっぱりいいね。私はそう感じていた。
ペンギン達は飼育員さんが移動するのに合わせて移動する。鰭を目一杯動かしながらヨチヨチと歩きながら必死になってみんなついていく。その様子を奏お姉ちゃんは「かわいいなあ~。かわいいなあ~」と言いながらニッコニコで左右に軽く揺れて見ている。なんと言う眼福な光景だろうか。
好きなものに大好きなものが混ざるとこうも幸せになれるんだ。私はその感覚を噛み締めていた。あぁ、この時が続いたらいいのになあ……。そんなことを思っていると、鼻から何か流れてくる。咄嗟にティッシュを取り出し拭き取ると、なんと鼻血が出ていた。
興奮しているのは奏お姉ちゃんだけじゃなくて、私もだったか。そう思いながら私はティッシュで鼻を押さえていた。奏お姉ちゃんに気づかれないように、静かに。
ペンギンの丘を見終わり、その後お土産コーナーで買い物を済ませ、次の目的地である榛名ヶ丘に向かうため電車に乗っていた。
「今日からよろしくねー」
お土産コーナーで買ったペンギンの少し大きなぬいぐるみに、奏お姉ちゃんは挨拶をしていた。買うとは思っていたが、本当に買ってしまうとは。でも、それが奏お姉ちゃんだからね。かわいいよねえ。私は奏お姉ちゃんを眺めながらそう思っていた。
「お姉ちゃん。家にもペンギンのぬいぐるみあるけど、区別とかつくの?」
「種類が違うから大丈夫! もう一人はコウテイペンギンだから。大きさも違うから見分けは簡単だよぉ」
奏お姉ちゃんは微笑んでいた。奏お姉ちゃんがそう言うなら、大丈夫なんだろう。まあそれに、奏お姉ちゃんだから雑には扱わないだろう。きっと大切に扱ってもらえるだろう。なんなら寝る時に抱きしめてもらうとか、そんなこともしてもらえそうだ。いいなあ。羨ましいなあ。私はぬいぐるみにジェラシーを感じていた。
「美優羽ちゃん? ぬいぐるみさんをじっと見てどうしたの?」
奏お姉ちゃんにそう言われてハッとした。気づかないうちに見つめていたようだ。
「なっ、なんでもないわよっ! べ、別にぬいぐるみが羨ましいとか、そんなこと思ってないからねっ!」
恥ずかしくなりながら、私は照れ隠すように答えた。
「そうなのぉ。でも、ぬいぐるみより美優羽ちゃんの方が私は大事だよ?」
奏お姉ちゃんは優しい。ぬいぐるみより私が大事なんて言ってくれて。私は嬉しい。当たり前のことかも知れないが、それでもいざ言葉にしてもらえると嬉しさが増す。
「そ、そうっ⁈ それはありがたく思っておくわっ!」
こう言う時に優しく私も言えればいいのになあ。今日は素直に言えると思ったのに、実際水族館まではそれなりに出来ていたのに。素直であれば奏お姉ちゃんともっと仲良く、いい関係になれるはずなのに……。そんな自分に自己嫌悪していた。
電車はガタンゴトンと静かに揺れて、次の行き先へと向かって行った。
午後1時にあと少しという時間帯に、私達は榛名ヶ丘に着いた。少し説明すると、榛名ヶ丘は5年前に出来たショッピングモールになる。中にはスーパーも含め180近くの店舗がある県内最大規模だ。駅からも近く、交通の弁も非常に良い。そのせいか、週末はとてつもない人が集まる場所になる。とりあえずこんなところだ。
榛名ヶ丘には主にお昼ご飯と奏お姉ちゃんの眼鏡と洋服を目当てにやってきた。他にも色々と見たり遊んだりするが、ひとまずはこの3つをやろうと決めている。
そんなわけで、まずはお昼ご飯だ。奏お姉ちゃんには好き嫌いが無い。基本どんなものでも食べられる。なので、店選びには困らないと普通は思う。思うじゃない? でもそうじゃないんだなぁ。実は少し苦労してしまうポイントがある。
それは、奏お姉ちゃんは結構な大食いであると言うことだ。いわゆる、痩せの大食いと言うやつだ。
その量は食べ盛りの男子すら凌駕してしまうんじゃないかと言うレベルだ。ちなみに、私はその半分も食べられるかが怪しい。好き嫌いがないのは一緒だが。私だけだったら、適当にいい感じの店でいい。しかし、奏お姉ちゃんとお出かけして店で何か食べる時は、安いけど量の多い店を選ぶ必要がある。
優しくて辛抱も出来る奏お姉ちゃんだから、そうじゃ無い店に行ってもいいんだけどそれだと奏お姉ちゃんがかわいそうだ。学校でのお昼ご飯は時間の関係で、あまり大きくない弁当にしている。休日のお昼くらい我慢はさせたくない。
あと、高い店で大食いをしようもんなら、確実にお財布に大ダメージは避けられない。お父さんとかお母さん、琴姉あたりに言えばその分を何らかの形で渡してくれるが、そう頼っていいわけではない。
だから、安くてそれなりに量のあるお店を選び必要がある。と言うわけで、私達はお店を探している。
「うーん。ここもちょっと高いねぇ……」
店先のメニュー表を見ながら、奏お姉ちゃんは残念そうに呟いていた。メニュー表の釜で炊いたご飯は美味しそうだが、2200円は流石に出しずらい。量も少ないし。
「お姉ちゃんが満腹になるにはキツいわよねえ……」
「やっぱり、私が我慢した方がいいかな? そうすればカフェとかオシャレな店行けるだろうし」
「だ、ダメっ! お姉ちゃん遠慮するのダメ!」
私は奏お姉ちゃんをなんとか押し留める。とは言え店がないのも事実だ。まあ広い店だからいずれは見つかるだろうけど、それでもかれこれ10分以上はこんなやり取りを続けている気がする。
そろそろ見つけないといけないなあ……。そんなことを思いながら、次の店に目を移す。前来た時は見なかった店だから、新しい店かな? 店の前に置いてあるパンフのようなものを読んでみる。ふむふむ。麻婆豆腐の店で名前が神麻婆。
そこには有名な中華料理人のもとで修行して、直接レシピを教わったと書いてある。なら値段は高いんだろうなあ。……、いや、そうでもない。ご飯付きの大盛り麻婆豆腐が1000円。サンプルを見てもかなり大きそうだ。それで、担々麺、汁なし担々麺、酸辣湯麺のどれかをつけても1500円。しかも、ご飯はいくらでもおかわりが自由。これは、高コスパだ。うんっ! この店にしよう!
「「この店、いいんじゃない?」」
良店の発掘に思わずハモってしまった。私も奏お姉ちゃんも恥ずかしそうにしていた。
「じゃ、じゃあ、この店にしましょうか」
「そ、そうだねぇ」
若干の恥ずかしさを残したまま、店内へと入っていった。
店に入ると、まず入口付近にある券売機で食券を購入する。私は通常の量の麻婆豆腐とご飯のセット。これが700円だからかなり良心的だ。奏お姉ちゃんは酸辣湯麺と大盛りの麻婆豆腐のご飯セットを頼む。これが1500円なのだから採算が採れるのか心配なレベルだ。
ウエイターの女性から量多いですけど大丈夫ですかと聞かれたが、大丈夫ですと答えた。辛さも聞かれたので、普通でと答えた。少なめとか多めにもできるようだったが、辛すぎるのも嫌だし、辛くなくても拍子抜けするから、普通を選んだ。
その後厨房に近いテーブル席に案内された。少し手狭な店内には案内する人も含め、4人いるウエイターさんは女性ばかりだ。じゃあ、厨房の料理人は? もしかしたら女の人かな。そう思い厨房の方に目をやると男性の料理人が一人忙しそうに麻婆豆腐を作っていた。
女性ばかりだから、女性の人が作っているのかなと少し思っていただけだけにちょっぴり残念な気分になった。まあ勝手に期待してガッカリするのはどうかと思うから、この辺にしておこう。
しかし、一人で作っているのか。狭くてそこまで席数のない店とは言え大変じゃないかなと感じる。私達は並ばずに入ったが、店内のテーブルは見たところ満席。お昼時だから仕方ないだろうけど、私だったら誰かヘルプが欲しくなる。けど、そうしてないということは余程手際がいいのだろう。流石は職人。有名店で修行していただけある。これは期待して待つべきだろう。
「ねえねえ、美優羽ちゃん! ここの店調べたら最近できたばかりだけど、ネットでの評判がかなりいいみたいだよぉ!」
そう言って奏お姉ちゃんはスマホを見せてきた。本当だ。厳しいことで有名なレビューサイトで5段階評価で4になっているし、他のサイトも満点に近い評価だ。さらに、美味しい店を100店舗厳選した名店100選の中華版にも選ばれている。これには期待が膨らむ。
「ほんとだわ。これなら相当美味しいんじゃないかしら」
「だよね、だよねぇ。期待台だよねぇ」
奏お姉ちゃんもかなり楽しみにしているようだ。
「折角厨房近くの席だから、作る様子も見てみましょ」
「そうだねぇ」
私達は、厨房の方に目をやった。途中からだが、作っている様子を見られるみたいだ。これは楽しみだ。まず、白いプラスティック状の細長い箱を取り出す。そこから、挽肉のようなものを中華鍋に入れている。色合いを見るに加工済みのもののようだ。
「ひき肉かなりはいるねぇ」
「大量に作るから、あれくらい入れないと足りないんじゃない?」
「それもそうだねぇ」
奏お姉ちゃんはふむふむと頷いている。
調理の方は、ひき肉を入れた中華鍋に別の中華鍋で茹でている豆腐をお玉を使って入れていく。これもけっこう大量に入れているなあ。豆腐を入れたところで、れんげで味見をしている。豆腐を入れた所でそうするのは水が出て薄まったタイミングで味を確認したいからだろう。味見をした表情は渋い。すると今度は豆腐の入った中華鍋からお湯を入れている。濃ゆかったということだろう。
今度の味見ではうんうんと頷いている。丁度いい具合らしい。それで、今度は細長い容器から細かく切ったネギを入れる。ネギを入れ終えると、もう一つ中華鍋を取り出し、少しずつ加える。加え終えると、赤い豆板醤のようなものと、ラー油のようなものを入れていた。
なるほど。一人分ずつそうやって辛さを調整していくんだ。けっこう量を入れてたから、これは辛めかな? だとしたら私たちの分ではなさそうだ。少しだけ安心した。それから最後にボウルの中にある白い水溶き片栗粉のような液体を入れて完成のようだ。こうやって作るんだな。私たちの分が楽しみになってきた。
それから2分後。セットについてくるザーサイとワカメスープが運ばれてきた。ザーサイもワカメスープもなんの変哲もない普通のものだ。そして程なくして、私達の分の麻婆豆腐とご飯が運ばれてきた。
こ、これは……。赤い。かなり赤い。匂いからして辛そうな雰囲気が漂う。おかしいなあ。注文では普通にしたはずなのだが。
「うわー、赤いねえこれ。食べれるかなぁ」
奏お姉ちゃんも不安そうだ。私も不安で仕方がない。
「けど、頼んだからには食べないとねぇ」
奏お姉ちゃんは言った。その通りだ。頼んだものを残すのは人としてどうかと思う。ここはなんとしてでも食べ切らないと。
それでは。まずは一口。パクリ。
口に入れた途端、辛さと言う暴力が一気に襲いかかってくる。それは辛さと言う次元を超越してちょっとした痛みになってくる。辛い、辛い、痛い、辛い。このループが舌を襲う。
だけど、美味しい。美味しすぎる。舌がやられてるからそう感じる? いや、違う。そのせいでは絶対にない。とてつもない辛さの中に、しっかりとした旨味と深いコクがしっかりと辛さに負けることなく主張してくるのだ。
この味は私、いや、どんな家庭でも食品メーカーでも絶対に出すことが出来ない味だ。塩味も絶妙な具合に決まっている。凄い味だ。辛いだけの麻婆豆腐は食べたことあるが、ここまで凄味のあるものは初めてだ。私は全身を雷で打たれたかのような衝撃に包まれる。
その衝撃は次の一口、次の一口へと手を進ませる。その上、お米が欲しくなって仕方がない。普段のペースではありえないスピードで、お茶碗のご飯が消化されていく。そして気がつくと、お茶碗のご飯は消失していた。これはおかわりが必要だ。ご飯なしに食べることは絶対に出来ない。私はウエイターさんを呼んでご飯のおかわりを頼もうとした。
「「すみませーん」」
あっ、と声が出てしまう。奏お姉ちゃんも同時におかわりを要求していたようだ。またしても少し恥ずかしくなってしまう。それに構わずウエイターさんがこちらへとやってくる。私は二人分のご飯のおかわりを告げ、お茶碗を渡した。
「凄い味だよねぇ。これ、美味しいとかそんな次元じゃないよ!」
奏お姉ちゃんは興奮気味に語った。私は一言一句その通りだと、首を縦に頷いた。
「辛くて食べれないかと思ったけど、そんなことないねぇ」
「そうね。これは凄い味ね。流石は100選だわ」
そんなことを言っていると、おかわりのご飯と一緒に奏お姉ちゃんの酸辣湯麺も運ばれてきた。麻婆豆腐がここまで凄いんだから、酸辣湯麺も少し気になってきた。
「お姉ちゃん。ちょっと一口貰ってもいい?」
私がそう聞くと、
「うん、いいよぉ」
奏お姉ちゃんは快く受け入れてくれた。と言うわけで、一口頂く。ズルズル。
うん。美味しい。これも絶品だ。酸味の中にとてつもない旨味が濃縮されている。麺もしっかりとした食感があって、麺、スープともに隙が全くない。これだけ食べに来てもいいレベルだ。これも家庭では到底出せない味だろう。
「美優羽ちゃん、どう?」
「美味しいわ。私じゃ作れないレベル。お姉ちゃんも美味しいと思うはずよ」
私が少し微笑んでそう言うと、奏お姉ちゃんもズルズルと麺をすする。すすり終えると笑顔を見せていた。
「美優羽ちゃんの言う通りだねぇ。これも美味しい。何食べても美味しいって凄いよこのお店」
奏お姉ちゃんも大満足のようだ。量とコスパだけで選んだ店だが、それ以上の満足感を得ることが出来ている。
「そうね。本当にいいお店見つけたわね」
私はそう答えた。それから食べながらだが、奏お姉ちゃんの食べている様子もこっそり観察した。はふはふとご飯を口一杯に頬張る。今度は麻婆豆腐に手を出すと、またご飯をかき込んで行く。これは、まるでリスが餌を食べているみたいだ。小動物みたいでかわいいなあ。
そして、時々水をごくん、ごくんと飲む。食べるのに一生懸命なのが本当に伝わってくる。それに美味しいものを食べているから、幸せなんだろうなあと言うのが十二分に伝わってくる。この様子を厨房で作っている人に見せてあげたいくらいだ。きっと喜んでくれるし、かわいいということもわかってくれるだろう。
けど、他の人にこんな様子を見られるのもなんか嫌だなあ。出来るなら独占していたいなあ。独り占めして、自分だけのものにしていたい。どうしようかな。どうすれば独り占めできるかなあ。そんなことを考えている時だった。
「美優羽ちゃん、私をずっと見てどうしたの?」
奏お姉ちゃんが少し心配そうに私に声をかけてきた。ちょっと奏お姉ちゃんに集中しすぎていたようだ。なんでもないわよ、と返して私は麻婆豆腐に再び手をつけ始めた。まあ、独占するのは難しいよね。食べている様子を隠すことなんてできないし、そんな顔して食べるなとも言えないし。
ただ、多く見ることは出来るかな。私がご飯を作るんだから、こんな表情がいっぱい出るように美味しいご飯をいっぱい作ろう。そうすればいいや。私はそう考えることにした。
それから食べ終わるまで、私はさっきの分に加えてもう1杯おかわりをすることになった。自分でも驚くくらい食べられた。一方の奏お姉ちゃんはさらに5杯追加していた。どれだけ食べても料金は変わらないし、奏お姉ちゃんが満足できたようなので大丈夫だ。
最初は赤くて辛そうで食べられないかもなんて思っていたが、そんなことを考えていた自分を恥じたくなるくらい美味しいお店だった。今度は琴姉や唄姉さんも連れてからこよう。私はそう誓った。
麻婆豆腐を食べ終えた私達は、まずは奏お姉ちゃんの眼鏡を見に行くことにした。今はメガネ屋さんに向かっている途中だ。私は目がいいのでわからないけど、奏お姉ちゃん曰く、成長期で度が進んでしまってよく見えなくなってきているとの事だ。
1年前に替えた気がするけど、この年齢だと度が進みやすいらしい。楓にも聞いたらそんな感じの答えが返ってきたから、メガネかけている人は大変なんだなあと私は思う。
ここ榛名ヶ丘には奏お姉ちゃん行きつけのメガネ屋さんがある。そこは安い割にデザインも良いからお気に入りのお店なんだとか。まあ学生からすれば、安くていいデザインのお店は重宝したくなるよなあと思う。ただ、一つ疑問に思うことがある。
「そう言えば、お姉ちゃんはなんでコンタクトにしないの?」
そう。何故コンタクトにしないかだ。今はコンタクトも割と安価で売られている。種類も昔よりは豊富になっていると聞いている。あと、メガネの奏お姉ちゃんもかわいいけど、コンタクトもきっと似合うはずだ。それなのに、コンタクトにしない理由はなんなのだろうか。
奏お姉ちゃんは少し考えた後、こう答えた。
「小さい時からメガネだったから、今更替えたくないっていのが大きいかなあ。もう私と言ったら眼鏡っていうイメージだからねぇ」
言われてみればその通りだ。小さい頃から奏お姉ちゃんはメガネをかけていたから、そのイメージしかない。それをいきなり外したら困惑する人も出てきそうだ。
奏お姉ちゃんは続けてこう語った。
「あと、目に入れるのがどうしても怖いのもあるかなぁ。急いでる時とか失敗したら痛そうだし。樹くんもコンタクトらしいけど、たまに失敗してゴロゴロするって言って痛そうな感じがしてたから、私は一生メガネでいくかなぁ」
なるほど。こう聞くとコンタクトもそう簡単ではないようだ。コンタクトも似合いそうだけど、これは胸に秘めておこう。そんなことを考えているとメガネ屋さんに到着した。
「じゃあ、行ってくるねぇ」
奏お姉ちゃんはそう言うと、店員さんに声を掛けに行った。声をかけられた店員さんは、奏お姉ちゃんを部屋の奥の方へと案内していた。何をしているのかと言うと、視力検査とか色覚の検査とか乱視の検査なんかをしているらしい。
メガネって、フレーム選んで度数調整すれば終わりってイメージだったから色々面倒だなあと聞いていて思った。まあ、私には今の所縁のない話ではあるけど。
もしそうなったらどうしようか。やはりコンタクトかな。今まで裸眼で来ているから、メガネ姿とかは周りが困惑しそうだ。あと、見分けがつかなくなりそうだ。
私と奏お姉ちゃんは二卵性双生児だから似ていると言えば似ているが、見分けがつかないかと言われれば違う。微妙にパーツが違っている。なので見分けがつく人にはすぐにわかる。その一例が楓だ。
楓は一瞬で私と奏お姉ちゃんを判別できる。奏お姉ちゃんが裸眼になっても一発でわかるし、目隠しをしてもどっちの声だかわかってしまう。家族レベル、もしかするとそれ以上に判別できるかもしれない。
だけど、他のクラスメイトは、メガネがないと見分けがつかないと言っている人が多い。と言うことは、半分くらいの人は見分けがつかないそうだ。なのでつけてしまうと誰かわからなくなりそうだ。まあ怖くはないけど、迷惑そうだからつけることはないだろう。
とは言え、メガネ屋さんに来たんだから何もせずにじっとしているのはなんかもったいない気がする。なので、見るだけ見ておくことにしよう。私はそう考えながら、店の売り場を練りあるいた。
へぇー。今のメガネって、案外安いんだなあ。安いとは聞いていたが思っていた以上に安い。昔奏お姉ちゃんのが壊れた時、2、3万円くらいしたとか聞いていたから高いイメージがあった。
だけど、今並んでいる商品はフレームも込みで税込5500円くらいで手に入るらしい。アウトレットメガネというやつに関しては3300円と、イメージしていた数十倍安い値段だ。まあ、品質は悪いんだろうけど、どうしてもの時はこう言うのはでもいいんだろうなあ。私はその安さに驚いていた。
フレームを見ていると、ある一つのメガネを見つけた。それは銀色のフレームで少しだけ細長い丸型のものだ。これって、奏お姉ちゃんが付けているものと同じじゃないか。私はフレームを手に取り、色々な角度から見てみる。これをかければ、ひょっとして奏お姉ちゃんに近い見た目になるんだろうか。
少しくすぐったい感じがするが、悪い気はしない。まあ鏡で見た私に惚れるって事はないけど、大好きな人に近づくと言う事に憧れがないかと言われれば嘘じゃない。奏お姉ちゃんになれるセットと考えれば悪い気はしない。けど、これはメガネだから私はかけられない。諦めよう。
そう思いフレームを下ろそうとした時だった。
「お客様、気に入られましたか?」
女性の店員さんに優しい声をかけられた。まさか店員さんに見られていたとは思わず、私はビクッと体を上下させてしまった。
「あっ、いえ。気になったんですけど、私目がいいので買えないなあって思ってたんですよ」
私は買う気はないよというつもりで答えた。しかし、店員さんは笑顔を崩さない。
「でしたら、伊達メガネというのはどうでしょうか。丁度そのフレームと同じものが伊達メガネのラインナップにあるんですよ」
伊達メガネ⁈予想もしない答えに私はまた驚かされた。確かに伊達メガネならかけることは出来る。出来るんだけど、その分お値段が張るとかそういうのがありそうだ。それを聞いてみたが、店員さんは表情を崩さない。
「いえいえ。お値段はこちらのフレームとご一緒の5500円でございます。今なら無料でブルーライトカット加工もお付けできますよ?」
なんということだ。安値で奏お姉ちゃんになれるメガネが手に入るわけだ。これは、買い一択だ。
「お願いします! 買います!」
私はついうっかり興奮気味に答えてしまった。少し恥ずかしさで体温が上がる。
「あらあら。余程お気に召されてたようですね。でしたら、調整のために一度かけてみましょうか」
店員さんは笑顔のまま、商品を探しに少しこの場を離れた。と言うわけで、一度試着してみることになった。今までかけたことがなかったので、どんな風になるか楽しみだ。
1分後。店員さんがそれを持ってきた。鏡の前での試着だ。少し緊張するな。手を少し振るわせ、目を閉じてながらメガネをかける。
スチャっ。
目を開けると、メガネをかけた私が居た。当たり前と言えば当たり前の感覚だ。でも、奏お姉ちゃんに見えないこともない。いや、少し遠目で見れば奏お姉ちゃんに酷似している。私は奏お姉ちゃんになった。なってしまったのだ。
ゾク……。ゾクゾクっ!
なんとも言えない全能感のような感情が私の全身を包み込み、発散される。この感じ、嫌じゃない。むしろ快感だ。これ以上の快感なんてないんじゃないか。そう思えるくらい、私はこの感情と感覚に支配されていた。
店員さんは何か言っている様だが私はあまり聞こえず、うん、うんと生半可な返事をしていた。
そして、店員さんがメガネを取った。その瞬間にそれは一気に消え去った。ただ、満たされたふわふわとした感覚を残して。
「サイズ調整も終わりましたので、レンズを付けてきますね。伊達メガネですので、30分程で終わると思いますので、あちらの席でお待ち下さい」
そう言うと、店の奥の方へと店員さんは行ってしまった。私は言われるがまま、ふわふわとした足取りで席へと向かった。
「あれぇ? 美優羽ちゃんも何か買ったのぉ?」
隣の席に偶然いた奏お姉ちゃんに声をかけられる。私は少し目を凝らして奏お姉ちゃんを見る。
「ど、どうしたのぉ⁈ 私を急にそんなに見つめて」
奏お姉ちゃんは少し恥ずかしそうにしている。うん、改めて見て奏お姉ちゃんは奏お姉ちゃんだし、私は私だ。正常な感覚に戻ったのを感じて私は一安心する。
「い、いやっ。なんでもないわっ。それより伊達メガネを買ってみたの」
私は誤魔化すように話を別の方向に逸らした。
「おぉ。美優羽ちゃんも伊達だけど、メガネデビューするんだね!」
奏お姉ちゃんはメガネ仲間が増えて嬉しいのか、喜んでいるようだ。喜ぶ姿、かわいいなあ。やっぱり奏お姉ちゃんはこういう人だし、こうでないとね。私はそう思った。
「ま、まあ、そう言うことになるわね。けど、毎日はかけないわ。休みの日だけにするわ」
まあ、毎日この感覚になっていては体が耐えられそうにないし、たまに味わえるからいいのである。だから、この場でだけどそうすることに決めた。
「じゃあ、休みの日どっちが私でしょうかゲームとかお姉ちゃん達に出来るねぇ」
「ええ、そうね」
私はそういう目的では買ってないが、奏お姉ちゃんはそういう使い方を楽しみにしているようだ。まあ、奏お姉ちゃんに付き合うのも悪くない。いや、むしろ最高だから、そういう遊びを一緒にしよう。
しかし、私はいいものを手に入れた。簡易的だが奏お姉ちゃんになれる恐ろしい道具だ。まあ、使い方を間違えない様にして楽しもう。私はそう心に誓った。