早速、翌日から女中たちから、炊事洗濯、裁縫などの家事全般を教わることになった。
彼女たちは不愉快さを隠そうともせず、失敗をすると容赦なく竹の杖で手や太腿などを叩いてきた。まるで動物を躾けるようだった。
しかし沙苗は外に出られたことへの解放感のほうがずっと大きかったし、これまでの扱いを考えれば、これくらいどうということもないと思った。
この苦しい修行さえ乗り切れば、自分は嫁ぐ。つまりこの家から出られる。
解放されるための代償と思い、じっと耐えた。そもそも反抗したところで意味もない。
だったら何をされても黙っていたほうが楽だ。これまで通り。
最初こそ手間取ることも多かったが、一週間、二週間と時間が経つにつれて、少しずつ上達しはじめた。
学はないが、沙苗は決して愚かではなく、飲み込みも早かった。
それは沙苗自身もこれまで知らなかった。
叩かれる頻度も少なくなった。
そんなある日、扉が開く気配に横になっていた沙苗の意識がゆっくりと覚醒し、うっすらと目を開ける。
草履のまま、栗色の髪の少女が入って来た。
少女が沙苗を見下ろしてきたかと思うと、不意に左目が隠れるように伸ばしていた前髪に触れられた。指秋が額に触れ、ひりっとした痛みが走った。
「やっぱり気持ち悪いわね、あんたっ」
「な、何よ、あなたは!」
沙苗はじんじんと痛む額に触れる。かすかに血が滲んでいた。
――この子、私に何をしたの?
「忘れるのも無理はないわよね。お姉様」
少女はにたり、と不気味に笑った。
「お、ねえさま……?」
「そうよ。私は妹の薫子」
思い出した。自分の腹違いの妹。
子どものころ何度か庭先にいるのを見かけた。
可愛らしい着物をまとった、自分のように監禁されていない、自由に過ごすことを許されたいくらか年下の少女。
丸窓ごしに目があった。
沙苗は同年代の少女と会えるのが嬉しくて、笑いかけた。
しかし少女は手に持っていたものを、投げつけてきた。それは泥団子。里の他の子どもたちを誘い、泥団子をいくつも投げてきた。沙苗は窓辺から逃げ出し、震えるしかなかった。
「その目、半妖の目なのね。気持ち悪い」
そう履き捨てすながら、また前髪をどかそうと手を伸ばしてくる。
「や、やめて!」
沙苗は妹の手を払いのける。当然、大して力は入っていない。
にもかかわらず。
「きゃああああああ! 助けてえええええええ!」
薫子は悲鳴をあげたかと思うと、その瞳からはぽろぽろと涙をこぼした。
悲鳴を聞きつけた女中たちが駆けつけてくる。
「お嬢様から手を離しなさい、化け物!」
容赦なく殴られ、蹴られた。
沙苗は体をくの字に折り、頭を抱える。
「みんな、もうやめて。お姉様の気が立つのも理解できるわ。だって、ずっと座敷牢に閉じ込められて辛い思いをされていたんですもの。私が不用意に交流を持とうとしたのが気に障られたのね……」
妹は、明らかな嘘を流れるように口にした。
「ち、違う。その子は、嘘をついてるわ!」
沙苗が必死に弁明しても誰も耳を貸さない。貸す気がそもそも無い。
終いには父と、見知らぬ女性がやってきた。目元が妹にそっくりだった。つまり、女は後妻。
「どうしたんだ!」
「お、お父様ぁ!」
薫子が抱きつくと、父がよしよしと頭を撫でる。
「薫子、一体何があったの?」
女中たちが、妹の嘘八百の事情をそのまま説明する。
「なんて娘なの! せっかく座敷牢から出してあgて、嫁にまでいかせてやろうっていうのに!」
後妻が女中がもっていた竹の杖を奪うと、沙苗を打ち据えた。
「おい、やめろ!」
父が、後妻の手をつかんだ。
「あなた、この化け物をかばうの!? 薫子が襲われたのよ!?」
「嫁入り前だ! 傷つけて、先方にばれたら面倒だろう!」
「チッ!」
後妻はは舌打ちをすると竹の杖を女中へ押しつけ、「行くわよ」と薫子と一緒に出ていった。
庇ってくれたと思ったが、父は冷ややかな目を向ける。
「……操ではなく、お前が死ねば良かった」
そう吐き捨てるように言われた。
熱いものが頬を伝う。
――どうして私がこんな目に遭わなければいけないの?
一体自分が何をしたというのだ。半妖として生まれたのは自分のせいではない。
もちろん亡くなった母のせいでも。
悪いのは、母を襲ったあやかしだ。
肩を震わせ嗚咽する沙苗の周りに木霊たちが集まり、まるで慰めるように抱きついてくれる。
ぽかぽかとした温かさが、傷を優しく癒やしてくれる。
「……みんな、ありがとう。大丈夫。こんなのに負けたりしないからっ」
沙苗は木霊たちへせいいっぱいの笑顔を見せた。
薫子との一件があったせいで、花嫁修業はより一層厳しいものになった。
女中たちは沙苗がうまくこなしても、些細な粗を見つけては厳しく責めたててきた。
ただ嫁入りが近いということもあってか、罵倒されるだけで暴力を振るわれることはほとんどなかった。
そしてついに夫となる人がやってくる日を迎えた。
その日は朝から水で体を清め、いつものように無地のとは違う、華やかな着物をあてがわれた。
女中たちは不快さを隠さないまま、着物をきつける。
女中たちに付き添われ母屋へ向かう。
離れとは違ってよく日が当たり、庭もしっかり手入れが行き届いている。
女中にここで待つように命じられ、一人ぽつんと部屋に取り残された。
その日は朝から女中たちがつきっきりだったせいで、ようやく一息つくことができた。
――ようやくこの日が来たのね。
まだ癒えきれていない傷がズキズキと鈍く痛んだ。
それでもこれくらいどうということはない。
木霊たちがぴょんぴょんとはしゃぎ回るように、沙苗の体の上で遊ぶ。
「みんなと離れなきゃいけないのは寂しいわ。それだけが心残りかな……え、一緒に来てくれるの? でもみんな、山は……」
木霊たちは木霊なら他にもたくさんいるから問題ない、と言ってくれる。
それよりも、沙苗が心配なのだと。
「ありがとう……」
びっくりだ。まさか木霊たちが一緒に嫁入りについてきてくれるなんて予想外だ。
嬉しくて、泣きそうになるのをぎりぎりでこらえる。今、泣いてしまったら、せっかくのお化粧が崩れてしまう。
「結婚は……どうかな。幸せになれるのかな……」
幸せという言葉は、生まれた時からずっと離れに閉じ込められていた沙苗にとっては最も縁遠いもの。
そもそも何かを望むという行為そのものが、おこがましいと思える。
半妖である自分が、人並みの幸せなど期待はできないだろう。
だから幸せなんて望まない。ただ、これまでの暮らしのように苦しくなければそれでいい。それだけを祈るだけだった。
「――こんな日まで独り言とか、やっぱり気持ち悪いわ」
華やかな着物をまとう薫子の姿に、全身が強張った。
怯える沙苗を蔑むように見つめてくる。
「まさに馬子にも衣装よね。ま、あんたみたいな化け物、どうなろうがしったこっちゃないけどさ。でも婚約者は狩人なんだから、半妖だってことバレないようにしたほうがいいわね。あんたが半妖だって知ったら殺されるかも」
そうだ。どうしてそのことを忘れていたのだろう。
相手はあやかしを狩るのを生業にしている人。その人が迎える妻が半妖だと知ったら。
今まで花嫁修業の厳しさとせわしなさ、座敷牢から出られた喜びで、完全に忘れていた。
全身から血の気が引く。
「ま、頑張って」
クスクスと笑いながら薫子が去っていく。
――どうしよう。
しかし今さらどうにもならない。逃げたところで連れ戻されるのが落ちだ。
そこへ障子ごしに声がかけられる。
「お嬢様、お客様がお着きになりました」
お嬢様。一度もそう呼ばれたことがない沙苗からしたら、失笑してしまう呼び方だ。
しかしわざわざそんな呼び方をしているということは、すでに相手が到着しているのだろう。
「……は、はぃ」
声を震わせ、立ち上がった沙苗は女中に連れられ、広間へ連れて行かれた。
「お嬢様をお連れいたしました」
女中が声をかけ、襖を開けた。
「さあ、沙苗。こっちへ来なさい」
「ふふ、やっぱりよく着物が似合っているわ」
「お姉様! とても素敵!」
偽りの表情と声で、招かれる。
これまでずっと座敷牢と木霊たちに囲まれて暮らしていた沙苗は、人間のおぞましさには馴れない。
軽い吐き気を覚えつつ、引き攣った笑顔を浮かべる。
「こちらが、お前の嫁ぐ、天華家の御当主、天華景虎殿だ」
綺麗な正座でたたずむ青年――景虎の姿を一目見た瞬間、胸を突かれた。
黒い軍服姿の男性は、先見で見たあの人だったのだ。
――え……!
背中に流された白い髪は、人間というよりも、神仏の遣いであると言われた方が納得してしまいそうなほいどに美しい。
彫りの深い顔立ちは端正であるにもかかわらず、祝いの日であることを忘れてしまいそうなほど、その表情の中には感情らしいものは見てとれない。整いすぎた美形であるからこそ、無表情の印象がよりきつく見える。
刃のように鋭い光をおびた瞳は、燃えるような深紅。
瞬きが少ないせいか冷淡な印象を受ける。
しかし先見で見た時よりも、ずっと強い近寄りがたさを感じた。
「……木霊を飼っているのか?」
抑揚のない冷ややかな声で、景虎は言った。
「……み、見えるのですか?」
この家の誰も見えなかったのに。
「見えないわけがないだろう。どうして木霊がいる? まさか本当に飼っているのか?」
景虎のそばには、赤い柄に黒い鞘の日本刀が置かれている。
「こ、この子たちは友だちなんです。悪いことは何もしません。き、斬らないで下さい……!」
「そんな無駄なことをするつもりはない。まさか、そいつらも連れて行くのか?」
「……だ、駄目でしょうか」
「何を言っているんだ。木霊はあやかし。そんな不浄なものを連れて行くなど、天華の家が穢れるだろう!」
父が激昂する。
「霊護の家系というのも、大したことがないな」
父が言葉を重ねようとするのを、景虎はぴしゃりと遮った。
「な、なんですって」
「あいつらはかなり長くお前の娘と一緒にいるようだ。すっかりなついているようだ。好きにしろ」
「ありがとうございますっ」
「それから、お前、木霊は不浄と言ったな。木霊はあやかしと言っても邪気はない。そもそも大きい括りであやかしとは言われてはいるが、精霊に近い存在だ。穢れることなどありえない。当主だというのに、そんなことも分からないのか?」
ぐっと言葉に詰まった父が恥ずかしそうに俯く。その手がぎゅっと拳を握りしめる。
「霊護と言ってもこの程度か。こんな田舎に引きこもっているんだ。そもそも期待はしていなかったが。おい、荷物は?」
「荷物は……」
「これ、沙苗の荷物をもってきなさい。少しお待ち下さい」
後妻が女中に命じる。
――荷物なんて用意してないのに。
その時、薫子が目を輝かせて景虎へ近づく。
「それにしても美しい髪ですよね。惚れ惚れしてしまいますわ」
薫子は自分がどう振る舞えば相手に可愛いと思ってもらえるかを学習しているのか、媚びを売るような眼差しを景虎に注ぐと、その美しい髪に無遠慮に触れようとする。
「触るな」
景虎が威嚇するように薫子を睨み付ける。まさかそんな反応を見せられるとは思わなかったのか、薫子は「ひ!」と声を震わせ、顔を青ざめさせる。
「誰かに触るのも、触られるのも不快だ」
整った顔が不愉快そうに歪む。
「わ、私たちは今日から、義理の兄妹になるのにそんな冷たいこと……」
「お前たちと家ぐるみの付き合いをするつもりはない。そもそもこの婚約自体、俺は望んでもいない」
広間がいたたまれない空気に支配されたその時、二つの旅行鞄を女中たちが運んでくる。
景虎は立ち上がると、女中からひったくるように鞄を手にする。
――お、大きい……。
沙苗は、景虎の背の高さに驚く。
父よりも二回りは大きいせいか、小柄な沙苗は仰がねばならない。
手足もすらりとして長く、軍服ごしにも均整の取れた身体だというのが分かった。
景虎は、父を一瞥する。
「結納などの面倒な儀式についてはこちらも忙しい故、省略するというので問題ないんだな」
「は、はい、もちろんでございます……」
「結納の品はあとで届けさせる」
景虎はさっさと歩き出して、広間を出る。
沙苗は急いであとを追いかける。
景虎は沙苗の歩幅などまったく気にせず、どんどん歩く。
沙苗は置いてかれまいと息を切らせながら小走りになった。
玄関を出ると、冬晴れの日射しに目が眩みそうになる。
景虎は、門へと続く道の半ばで不意に立ち止まっている。
はぁはぁと肩を上下させた沙苗も立ち止まり、乱れた呼吸を整えた。
景虎は振り返る。
「帝に言われて仕方なくお前と婚約したにすぎない。だから、お前を愛するつもりはない」
ぞわりと鳥肌が立つ。
「無論、お前に、妻としての献身も求めない。それだけは言っておく」
「……かしこまりました」
沙苗は深々と頭を下げた。
そんなことか、と思った。
愛してくれないのは構わない。
生まれてからこれまで、一度だって愛されたことなどない沙苗からすれば、ことさら気に病むことはなかった。
座敷牢から出られて、外を歩く自由があるだけで十分すぎるほどだ。
「何がおかしい」
「え?」
沙苗は自分の頬を触る。自分でも意識していないうちに、口角が上がっていた。
慌てて唇を引き結ぶ。
景虎は呆れたのか溜息ををつくと再び歩き出して、門を出た。
沙苗の背後で、家族たちが見送りに出てくる。
「えっと……?」
門前には馬車も何もなかった。ただ黒塗りの見馴れないものがある。
「何をしている。乗れ」
「……それは、乗り物、なのですか」
「自動車だ」
景虎は扉を開けて、「早く城」と告げる。
「は、はい」
「……土足のままでいい」
田舎者だと馬鹿にされただろうか。恥ずかしさで耳が熱くなってしまう。
沙苗は言われた通り乗り込んで、扉を閉めた。
「……これは何で動くのですか?」
馬は見当たらない。
「エンジンで動く」
「えん……?」
「とにかく、これは乗り物で、馬や人足は必要ない」
自動車が走り出せば、ぐんぐんと景色が後方へ流れていく。
――は、早い!
沙苗はあまりの速さに恐怖を覚え、目をぎゅっと閉じて座席にしがみつく。
景虎は沙苗をちらりと一瞥すると少し速度を落とし、田舎道を走っていった。
どこをどう進んだのか、沙苗には正直、自動車に乗っている間の記憶がほとんどなかった。疲れ果てて眠ったのか、はたまた気を失ったのか。
景虎に声をかけられ目覚めると、辺りはすっかり夜で月明かりに照らしだされた大きな平屋建ての屋敷の前にいた。
「……こ、ここは……?」
「帝都。帝のおわす、この国の都だ」
「てい、と……」
一足早く景虎は車から降りると、助手席側の扉を開けてくれる。
「顔が青いぞ。平気か」
「私なら、平気です……。み、みんなは?」
木霊たちはぴょんぴょんと飛び上がって、元気だと教えてくれる。
「自分より木霊の心配か」
――呆れられちゃった……。
「……すみません」
「どうでもいいから、さっさと下りろ」
「は、はい」
沙苗は車から降りたが、馴れない自動車での移動のせいか地面を踏みしめた途端、軽い眩暈を覚え、体勢を崩してしまう。
「掴まれ」
景虎が手を差し出してくれる。
「ですが、景虎様は人に触れられるのが嫌だと」
「病人は別だ。今のお前は病人並にひどい顔色だ。さすがにそんな相手にまで厳しくは言わない。だから、掴まれ」
「すいません……」
しかし景虎の手に触れた瞬間、火花が散った。
「あああっ!」
沙苗はまるで鋭い何かに手の甲を貫かれるような激痛を覚え、手を押さえたまま、その場にうずくまってしまう。
手を見ると、掌が真っ赤に焼け、血が滲んでいた。
――な、なに、今の痛み……。
「おい!」
景虎は明らかな異常に、沙苗の体を支えようと触れる。
しかし景虎が触れた場所からさらなる痛みに襲われた。あまりの痛みに、足元から崩れ落ちてしまう。
触れられた場所を見ると、着物が真っ赤に濡れていた。
あたりに鉄錆の臭気が漂う。
――これは、血……?
心臓がばくばくと痛いくらい脈打つ。
「……あやかしの気配がずっとついてまわっていたから木霊だと思っていたが、違っていたようだな」
景虎は、沙苗の血で汚れた白い手袋を見つめながら独りごちた。
脂汗に全身を濡らした沙苗がぼんやりしながら顔を上げると、真っ赤な瞳とかちあう。
心臓を鷲掴みにされるるような心地になり、体が強張る。
――……私、怖がってるの?
いや、怖がっているのは沙苗ではない。
沙苗の中のあやかしの血が、目の前にいる狩人に怯えているのだ。
「お前は一体何者だ」
「わ、私は……」
景虎の手が、腰に帯びた刀の柄にかかっていた。
もはやこの状況で何を言っても、言い逃れはできないだろうし、景虎がそんなものを許してくれるとも思えなかった。
「……半妖です」
景虎は舌打ちをする。
「春辻は俺を謀《たばか》ったのか」
「お、お許しください……」
沙苗は身を縮こまらせ土下座をして、許しを乞う。今の沙苗にはそれしかできない。
その一方で、どこかでこのまま殺されても、とも考えていた。
自分は半妖。その苦しみは一生ついてまわる。
それを理解してくれるような人間とも会うことはないだろう。
このまま離縁されて、あの地獄に戻るくらいならば、いっそこの場で斬られたほうがいいのではないか。
木霊たちがまるで、沙苗をかばうように立ちはだかった。立ちはだかると言ってもそもそも掌ほどの大きさしかないけれど。
「みんな、大丈夫。覚悟はできてるから……」
しかし膨れあがっていた殺気がふっとなくなる。
「立て」
「は、はい」
「早くしろ」
苛立った声に慌てて従う。痛みのせいで脂汗が背筋を伝う。
「治療道具が家にある。来い」
「……家に入ってもよろしいのですか?」
「お前との婚約は勅命によってなされた。何の事情も聞かずに斬って捨てるようなことは許されない。いいから、来い」
景虎は自動車から旅行鞄を二つ手に取ると、屋敷へ入っていく。
「わ、私が持ちます」
「その傷でか?」
沙苗に選択肢などなく、彼に従う。
長らく留守にしていただろう。
家の空気は冷え切り、強張っているように感じられた。
玄関で履き物を脱ごうとするが、真っ暗なせいでなかなかうまくいかない。
こうして履き物を履くという単純なことさえ、座敷牢生活が長かった沙苗にとっては不慣れだ。
もたついている沙苗を見て、景虎が掌を差し出せば、不意に辺りが青白い照らされた。
沙苗ははっとして息を呑んだ。
景虎が差し出してきた右手の上に、青白い炎が浮き、その淡い光が足元を照らしていた。
「これで見えるか?」
「あ、ありがとうございます。その炎は……」
「霊力で出しているだけだ。そんなことはどうでもいいから、さっさと脱げ」
足元を照らしてくれたおかげでどうにか靴を脱げた。
景虎は居間へ入ると、部屋が明るくなった。
沙苗はぽかんとした顔で、それを眺める。
「……これも、霊力、ですか?」
「電気だ」
「でんき……? 火とは違うのですか」
「触るな」
「し、失礼しました……っ」
「たしかにあんな田舎だからな。電気はまだ通じていないか」
少なくとも離れでは、灯りといえば日射しか月明かり。蝋燭さえ許されなかった。
「電気に不慣れなら、洋灯《ランプ》もある。使いやすいものを使え」
「分かりました。あの……他の方々は?」
「他?」
「こちらのお屋敷で働く方々です」
この屋敷は春辻の家よりもさらに広いかもしれない。
そうであれば住み込みの女中がいてもおかしくないのに、主人である景虎が帰宅したというのに誰も迎えにでないのはおかしい。
それどころか、家には人の気配というものが一切なかった。
沙苗はそれを怪しんだのだ。
「女中ならいない。ここには俺が一人で住んでいる」
「通いの女中もいらっしゃないのですか」
「そうだ。そこに座って待っていろ」
景虎は席を外すと、しばらくして水の入った桶と、薬や包帯を持って来る。
「手伝ってやりたいが、俺が触れるとまたひどい傷になるだろうからな」
「でもどうしてこんな傷に……これまで、こんなことなかったです……」
「俺の霊力のせいだろう。天華は平安の世より、あやかしを斬る一族で、特別強い力を有している。それゆえ、俺の霊力で傷ついたんだ」
清潔な布を水につけ、しっかり絞る。
そして傷から滲む血を綺麗に拭う。傷口に染みて、ズキズキと痛んだ。
「これは消毒液だ。これで傷を綺麗にしろ。感染症を予防する。半妖が病にかかるかどうかは分からないが」
言われた通りにしてから、包帯を巻きつけ、留める。
それから着物をくつろげ、肩口を露わにする。
景虎の手の形に肌が真っ赤に爛れ、血が滲んでいた。
そこも水で血を綺麗に落とし、それから消毒液を塗布する。
しかし包帯が巻けない。
――どうしよう……。
沙苗が困っていると、木霊たちが包帯を持ち上げたかと思えば、ぴょんっと体にとびのってくれる。そして肩口に包帯を巻いてくれる。
「みんな、ありがとう」
木霊たちが照れると、ぎゅっと抱きしめてくれる。
「で、なぜ半妖が霊護の家にいる?」
沙苗は事情を説明する。
と言っても、全て実家で女中たちがひそひそと沙苗の出自について噂をしていたことを繋ぎ合わせたものだから、間違いはあるかもしれないが。
何と言われるだろうか。実家で経験した時のように、気持ち悪いと罵倒されるのだろうか。不安を覚えながら話し終え、景虎の言葉を待つ。
「不用意なことを聞いた。許せ」
沙苗は耳を疑った。
「い、いいえ。疑問に思われるのは当然ですから」
景虎に謝られ、沙苗はただただ恐縮してしまう。
「……それにしても、その半妖の体でこれまでどう家族と接してきた? 父親と妹には大したことはないが、霊力があった。俺に触れられた時ほどひどくはないだろうが、痛みくらいは感じていただろう」
「それは……」
沙苗は言葉につまってしまう。
家族とは一度も接触を持ったことがない。
もしこのことを知っていたら、父親は景虎に沙苗を嫁がせなかったはず。
つまり沙苗が生まれてから、父は一度も触れたことがなかったということになる。
だから沙苗の体が霊力を持つ者に触れられると傷つくということを知らなかったのだ。
「景虎様。お願いがございます」
「何だ?」
「何でもいたします。どんな辛い仕事もやります。ですから、どうか、婚約を破棄しても追い出さない手ください。こちらのお屋敷においてください!」
「お前がたとえ半妖でも、婚約者であることに変わりはない」
「で、ですが、狩人の妻が……その……半妖では、外聞が悪いのでは」
「黙っていれば気付かれることもない。強い霊力を持つ者と接触しなければ、普通の人間と変わらぬだろう。そもそも俺は帝の命がなければ、婚約をするつもりはなかった。仮にお前を離縁したとしても、別の女との縁談が持ち上がるだけだ」
「……では、私はここにいてもよろしいのですか」
「お前としても里に戻されるのは望まぬようだしな。この婚約は、互いに利がある契約のようなものだ」
「……契約……」
「不服か?」
「いいえ。ありがとうございます。おいていただけるだけで、ありがたいことでございます!」
沙苗は心の底から礼を述べる。
「ついてこい」
景虎は立ち上がると、屋敷の奥に向かっていく。と、その時、縁側を通りがかったのだが、庭の様子に思わず目を瞠り、立ち止まってしまう。
「どうした?」
「……お庭がすごい……ですね」
月明かりに照らされた広々とした庭は雑草が伸び放題になり、庭木も手つかずで自由に枝葉を伸ばし、ちょっとした森のような様相を呈していた。
「ここへ寝て帰ってくるだけだからな」
「……庭師を呼んだりは?」
「しない。信用できぬ人間を家へ立ち入らせるつもりはない。お前もそれだけは守れ」
景虎の声が低くなる。
「か、かしこまりました」
案内された部屋は十畳ほどの広間だ。そこには箪笥や文机などの家具の他、布団が一組、置かれている。
「今日からここがお前の部屋だ。家の中では一番日当たりがいい。布団はそれを使え。風呂は?」
「この傷、ですので」
「分かった。今日はもう休め」
景虎は旅行鞄を部屋の隅へ置くと、部屋を出ていった。
座敷牢での生活を考えると、この部屋は持て余すほど広い。
さっそく広い部屋に昂奮を隠せない木霊たちがおいかけっこをしたり、ごろごろと転がったり、と遊び始める姿に、くすっとした。
――こんなに広い部屋を私に……。
その上、離縁をしないでいてくれる。
それが沙苗への配慮でなくても関係ない。ただ嬉しかった。
沙苗は布団を敷く。
厚みがあって、ふんわりして、柔らかい。
繕ったあともなければ、湿気を吸ってぺしゃんこでもなく、真新しい匂いがした。
わざわざ沙苗のために新しく用意してくれたものなのだろうか。
自分のために用意してもらえたという事実が嬉しくて、ぐずぐずと鼻を鳴らして涙ぐんでしまう。
怪我に気を付けながら着物を脱ぐ。それから鞄をのぞくと、いくつか地味な色合いではあるものの、上等な着物が入れられていた。
中には浴衣や肌襦袢などもある。
――これまでのことを考えれば、上等すぎる嫁入り道具ね。
着物と肌襦袢を脱ぎ、浴衣を着る。
木霊たちと一緒に布団に潜り込むと、すぐに温かくなる。
考えることは、景虎のこと。
愛するつもりはない。妻としての献身を求めない。彼はそう告げた。
もちろん、愛を求めるつもりもない。
ただ、沙苗にとって、名も知らぬ美しい青年――景虎は幼い頃からの心の支えであり、初恋の人でもあった。
沙苗は半妖である自分を斬らずにいてくれた彼のために出来る限りのことをしようと、胸に決めた。
沙苗が目覚めると、一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなって混乱してしまう。
しばらく寝ぼけた頭で天井をじっと見つめていると、そこが天華家であることを思い出す。
沙苗は思わず手足を伸ばす。座敷牢ではそんなことありえなかった。手と足を伸ばせばすぐに壁に当たってしまう。しかしこの広間ではどれだけ伸ばしたところでどこかにぶつかるということがない。
布団を抜け出すと布団を畳み、浴衣から着物へきがえた。
まだ夜も明けきらぬ時刻である。
広い屋敷は静まり返っていた。さすがにまだ景虎は眠っているだろう。
朝ご飯を用意しておこうか。妻としての献身は求められてはいないが、でも使用人も誰もいないのだ。一人で用意するのは面倒なはず。
沙苗と木霊たちは部屋を一つ一つ見て回り、ようやく台所にたどりついたのだが。
――き、汚い……。
三つある立派な竈には埃が積もり、さらに蜘蛛の巣まで張っている。
木霊たちも驚きを隠せない様子。
――そういえば景虎様、屋敷には寝に帰っているだけって言ってたっけ。使用人もいないんじゃ、掃除をする手間もないのよね。
「みんな、掃除道具を探してくれる? 納戸がどこかにあるはずだから」
木霊たちに納戸探しを任せている間に、沙苗は勝手口から外に出ると、井戸へ向かう。
井戸で水を汲んで木製の盥へ移して台所へ戻ると、木霊たちがどうやら納戸を探し当ててくれたらしい。
さっそくホウキやはたきを取り出し、手ぬぐいで鼻から下、それから髪を覆う。
「よしっ」
まずは蜘蛛の巣をはたきで壊していく。蜘蛛には申し訳ないが、仕方がない。
高い所に溜まった埃も床へ落とす。
それからホウキで履いて、ちりとりで回収し、捨てる。
次に納戸にあった古い布を盥へ溜めた水にさらしてきつく絞る。そして竈に積もった埃を拭っていく。しっかりと磨き上げ、何度か水を替えた。
台所と井戸を三往復してようやく、使えそうなくらいまで綺麗にできた。
それから水甕もしっかり洗い、井戸から汲み上げた水を溜める。
「ふぅ……これでいいかな」
ちょっとした達成感を覚える。まだ一月の寒い中とはいえ、うっすら汗をかいてしまった。
「何をしている?」
「! 景虎様、おはようございます。起こしてしまいましたか?」
「木霊どもがうろちょろする気配で起きた」
「申し訳ありません……」
その場で三つ指をつく。
景虎は軍服ではなく、亀甲柄の羽織袴姿。
「で? 何をしていた?」
「台所が汚れておりましたので掃除をしておりました」
「そんな必要ない」
「朝食の準備などできれば、と思ったのですが、お米やお味噌はどこにございますか?」
「ない」
「ないのですか?」
せっかく花嫁修業の成果を披露しようと思ったのに、出鼻を挫かれた沙苗は言葉につまってしまう。
「毎日、食事は外で取る。お前もそうしろ」
景虎は懐から紙を取り出すと、渡してくる。
「一日分の食費としては十分だろうが、足りなかったら言え」
その紙には人の顔と何かが描かれている。
「……これは何ですか?」
「金だ」
「かね……?」
景虎は眉をひそめた。
「何かの冗談か?」
「あ……申し訳ございません。よく分からないので、教えていただけますとありがたいのですが……」
「いくら田舎に生まれたとはいえ、紙幣も知らないのか? いくらなんでも物々交換でもないだろう……」
「しへい……」
「このお金と引き替えにものを手に入れるんだ」
「そうなのですね……」
人生のほとんどを座敷牢ですごしていた沙苗は当然、お金のことなど分かるはずもない。
「お前にはまず、この街で暮らしていく術を教える必要があるみたいだな。とりあえず風呂に入れ」
「いいえ、お風呂は結構です。水と布さえあれば……」
景虎は眉をひそめた
「水? 何かの修行でもしているつもりか。こんな真冬に行水なんて、いくら半妖でも半分は人間なのだろう。遠慮するにしても度が過ぎているぞ」
「す、すみません」
お風呂の準備は全て、景虎がやってくれた。
沙苗は恐縮して自分がやるからと言うが、失敗されて壊されては困ると取り合ってもらえなかった。
着物を脱ぎ、そして五右衛門風呂に浸かる。
「温かい……」
体に染みるような熱に、涙がこぼれてしまう。
ちゃんとこうしてお風呂に入ったのは人生で初めてだ。
――こんなにお風呂が気持ちいいなんて、びっくり。
沙苗にとって、この季節、体を洗う時間はただただ苦痛だった。
しかしこんなに気持ちいいお風呂ならずっと入っていたい。
三十分ほど湯を楽しみ、教えられた通り上がり湯で体を清めて体をよく拭き、風呂から出ると、居間へ顔を出す。
「お風呂、ありがとうございます」
「出かけるぞ」
景虎と一緒に家を出る。
「あの、お仕事はよろしいのですか?」
「今日は休みだ」
そのまま留めてある自動車へ、景虎は向かう。
――またあれで、お出かけに……。
昨日のことを思い出すと、それだけで冷や汗が出る。
「自動車は苦手のようだな」
「……そのようなことは」
「そんな低い声で否定されても説得力がないぞ。ま、このあたりのことは覚えておいたほうがいいだろうから、歩くか」
「はいっ」
内心、胸を撫で下ろしながら景虎に従う。
まだ早朝だが、街中には大勢の人が行き来していた。
「……た、たくさん人がいらっしゃるのですね」
「昼時になればもっと人手がでてくる」
「も、もっと!?」
これ以上の人なんて実際、目の当たりにしたら目が回ってしまいそうだ。
沙苗は木霊たちと一緒に、道順を忘れぬようしっかり頭に刻み込む。
大きなお屋敷が密集した地域を抜けると、小さな建物が目立つようになる。
景虎曰く、商店が軒を連ねる、商店街という場所らしい。
「ここで、さっき見せた紙幣を使って、ものの売り買いをする」
沙苗には全てがはじめてだった。
魚屋や豆腐屋、雑貨店に食堂。
そしてつい注意が散漫になって向かいから急ぎ足でやってくる男と肩がぶつかり、尻もちをついてしまう。
「おい、気を付けろっ」
男にじろりと睨まれ、沙苗はぺこぺこと頭を下げた。
「す、すみません」
「おい、待て。新聞を読みながら歩いていたお前にも、非があるだろう」
男は明らかに景虎の異相に、息を呑む。
「……も、申し訳ありません。狩人様」
男は色をなくして、逃げるように立ち去った。
「大丈夫か」
景虎は手を貸そうとして右手を差し出しかけたが、すぐに引っ込めた。
沙苗はお尻を叩いて土埃を払い、立ち上がる。
「はい」
道行く人たちが、景虎の異相を物珍しそうにじろじろと眺めていた。
しかし景虎はまったく意に介さず平然と歩く。
沙苗と一緒に商店に立ち寄り、米と味噌、醤油、野菜や干物などを購入する。
さきほどの紙幣を店主に渡すと、たしかに品物が購入できた。
景虎は店主に購入した品々を、屋敷へ届けるように頼む。
「買い物の仕方は分かったか?」
「は、はい。大丈夫だと思います。……あの、景虎様、すみません」
「何の謝罪だ」
「私が自動車が苦手なばっかりに。変に注目を浴びてしまって」
「これくらいのことは馴れているから気にするな。それに、この見た目で狩人と一発で分かるから、面倒な説明もはぶける」
「そういうもの、なんですね」
ここまで割り切るようなことは、沙苗にはできない。生まれてこの方、侮蔑の視線を浴び続けて来た沙苗は、大勢の人間の視線が怖い。
「何か食いたいものはあるか?」
「いいえ。お任せいたします」
「なら、うどんでいいか?」
「はいっ。うどん、好きですっ」
座敷牢で食べる時、冬に食べるうどんが、とても好きだった。この時期、ご飯だとどうしても冷たくなるとかぴかぴになって食べにくいが、うどんはそういうことがない。
景虎が立ち寄ったのは、年季が入った二階建ての建物。
「これは天華様。お二階、あいております」
「あ、こ、こんにちは……!」
沙苗は店主たちに頭を下げると、彼らは目を丸くした。
「……お店の人たち、驚かれていましたが、なにか変なことをしちゃいましたか……?」
「俺が女と連れだって歩くのが珍しいんだろう」
二階の和室へ案内されると、冊子を渡される。
「……これは何ですか?」
「品書きだ。書いてあるだろう」
「あ、……はい」
たしかに何かがずらずらと書かれているが、沙苗は文字が読めなかった。
ずっと続いた座敷牢生活では文字の読み書きを教えてくれる人は誰もいなかったし、沙苗に色々なことを教えてくれた木霊たちも、さすがに文字の読み書きまでは分からない。
「た、たくさんあるんですね……」
――どうしよう。文字が読めないこと言ったほうがいいかな。でも……。
「失礼いたします」
女性がお茶を運んでくる。
――どうしよう。どんなものがあるのか分からない。
沙苗はおろおろしてしまう。
女性が不思議そうな顔で、沙苗を見てくる。
「ご注文の品はおきまりですか?」
「……あ、えっと……たくさんあって、迷ってしまって……」
「山芋を使ったうどんが人気ですよ」
女性が助け船を出してくれると、沙苗は迷わずそれに飛びつく。
「じゃ、じゃあ、それをお願いしますっ」
「俺はいつものを」
「かしこまりました。失礼いたします」
女性は腰を上げて、下がっていく。
「温かい」
お茶を飲むと、ぬくもりがじんわりと体に染みた。
景虎も向かいでお茶を飲んでいる。
二人の間に横たわった沈黙に、そわそわしてしまう。
――何か話したほうがいいのかな。でも何を話したら……。
景虎のことは、狩人であること以外、なにも知らない。だからと言って、あれやこ
れやを聞けるほど打ち解けてもいない。いや、そもそも打ち解けることを景虎は望みはしないだろう。
「落ち着きがないな」
「! すみません……」
「謝ってばかりか」
「す、すみま……はい」
「何か気になることがあるなら言え」
「よ、よくこちらへいらっしゃるのですか?」
「ああ。ここのうどんは帝都でも指折だからな」
「そう、ですか」
あっという間に会話は終わってしまう。気まずさを覚えていると、女性がうどんを運んできてくれる。
「おまちどうさまです。ごゆっくりどうぞ」
湯気があがったうどんにはたっぷりの山芋がのっていた。
景虎が注文したのは、肉をたっぷりのせたうどんだ。
「……景虎様は、お肉がお好きなんですか?」
「ああ」
「私はお魚好きです。めざし……ですとか」
「そうか」
景虎は素っ気なく頷くと、うどんを食べ始める。
いただきます、と手を合わせた沙苗もうどんを啜る。
「!」
口に入れた瞬間、あまりの美味しさに手を止めてしまう。
「こ、これ、なんですか?」
「うどんだ。自分で注文しただろう」
景虎が怪訝な顔で見てくる。
「……すみません。あまりに美味しくて……感動してしまって……私が食べたことのあるうどんと本当に同じものか疑ってしまって……」
汁もしっかり味がついているし、うどんもこしがあって食べごたえがある。
座敷牢で食べていたうどんはぶよぶよしていて、汁もただしょっぱいだけだった。具だって何もなかった。
あまりに美味しくて、汁まで一滴残らず飲み干してしまう。
「ごちそうさまでした」
景虎は毎日、こんなに美味しいものを食べているのだと思うと、そんな彼のために料理を作ろうとした自分が恥ずかしい。
――私の料理は、結婚が決まってから急遽教えられた付け焼き刃。こんな美味しいものを食べ慣れている景虎様にはとても満足していただけないわ……。
こんなにも美味しいうどんを食べたのに――いや、食べたからこそ、というべきか――気分が暗くなってしまう。
でもこれはかえって良かったのかもしれない。危うく、沙苗のどうしようもない料理を食べさせ、不快にさせてしまうところだった。
事前にそれが分かっただけでも良かった。
翌朝、まだ暗い内から沙苗は目覚めたが、そのまま布団の中でうだうだと雨後素。
いつもなら目が覚めるなり起き上がるはずの沙苗が一向に動かないのを心配した木霊たちが、沙苗の顔を覗き込んでくる。
「……そうだね。せっかく台所、お掃除もしたんだけどね……でも、私の料理ではきっと、景虎様は満足していただけないもの。昨日の朝にたべたうどん、それから夜に食べた牛鍋もすごかった……」
思い出すだけでつばがでてくる。あんなすごい料理を食べてしまったら、一体どんな料理を作れば、景虎に満足してもらえるのだろうか。想像もつかない。仮にそういう料理があったとしても沙苗の腕ではどうしようもないはずだ。
ぎゅう、とお腹が鳴った。
「……せっかく綺麗にしたんだし、私はなにか食べないとね」
木霊たちに励まされた沙苗は布団から這いだした。
そして浴衣から着物へ着替えると、台所に立ち、早速、昨日購入した材料を使って朝食を作りはじめる。
お釜でご飯を炊き、その間に味噌汁をつくる。それからめざしを二匹ほど焼く。
焦がさないよう気を付けつつ、味噌汁やお釜が吹きこぼれないように注意を払う。
味見をする。
――うん、ばっちり。
後ろから足音が聞こえて来たのに気付いて振り返ると、軍服姿の景虎だった。その手には日本刀。
「おはようございます、景虎様」
沙苗は深々とお辞儀をした。
「ああ……。何を作っている」
「朝食を……」
「俺は外で食べると言ったはずだ」
「もちろん承知しております。私の分でございます」
「そうか。ならいい。金は居間においてある。好きなものを食べろ」
「かしこまりました」
その直後、玄関かた声が聞こえた。
「大佐殿、お迎えに上がりました!」
「大佐……?」
「俺のことだ」
景虎のあとにつづいて、玄関へ向かう。
景虎と同じ黒い軍服姿の青年がいた。その顔には少年ぽさが残り、人懐こい笑顔の青年だ。青年は、沙苗を見るなり、体を九十度に曲げ、深々と頭を下げた。
「お初にお目に掛かります、奥様。私は三船と言います。天華大佐の秘書を務めております!」
深々と青年にお辞儀をされ、沙苗も倣った。
「沙苗と申します」
「まだ結婚はしていない。婚約者だ。三船、さっさと行くぞ」
「はっ」
「帰りは遅くなる」
「かしこまりました。いってらっしゃいませ」
沙苗は門前まで見送る。
外にはとまっていた馬車に二人が乗り込み、出発するまでを見届けた。
家に戻ると、朝食を食べる。
ご飯もしっかり炊けたし、味噌汁のだしもうまく出ている。魚も美味しい。
でもこんなものは景虎にはとても食べさせられない。
――こんな私を受け入れてくださった景虎様のために出来ることは……。
食事を終えて洗い物をしていると、木霊たちが話しかけてくる。
「あ……そうね。掃除はいいかも。たしかにこれだけ広いおうちを、お仕事で忙しい景虎様が一人で綺麗にできるはずないものねっ」
これだけ立派なお屋敷なのに、汚れたままなのはさすがにもったいない。
料理では満足してはもらえないかもしれないが、掃除なら。
家が切れになってさすがに文句は言われないはず。
沙苗は掃除道具を引っ張り出すため、さっそく納戸へ向かった。
馬車は、兵部省管轄の特務機関、退魔部隊の専用庁舎前で止まる。
景虎は三船と共に馬車を降りると、庁舎内へ入った。
大佐である景虎は退魔部隊の指揮官を務める。
庁舎内では誰かと擦れ違うたび、敬礼を受ける。
景虎はそれに応えながら自分の部屋へ入った。
三船から処理するべき書類を提示され、黙々とこなす。
退魔部隊と言っても事件が起こらなければ、大半の業務は面倒な書類仕事がもっぱらだ。
誰何《すいか》の声もなく、扉が開けられる。
「よ、景虎。おはようさんっ」
現れたのは、東征一臣《とうせいかずおみ》少佐。
明るい金髪に、両目が夏空のようなみずみずしい青さ。
軟派そうに見えるが、軍服ごしの体はがっちりして、鍛えられていると分かる。
甘く見ると、足元をすくわれる油断のならぬ男だ。
狩人は霊力が高いゆえに、それが髪や目の色に如実に表れる。
つまり、この国では一般的な黒髪茶瞳とかけ離れた容姿であればあるほど、強い霊力を持っていることの証になる。
東征は天華と同様、狩人の名門だが、狩人筆頭の天華と比べれば、東征は数段格下だ。
狩人は天華を筆頭に、西山院《せいざんいん》、南仏《なんぶつ》、東征、北神《きたかみ》という序列になっている。
この五つの家がいわゆる、名門と呼ばれ、長きにわたってあやかしと対峙してきた。
他にも狩人の家門は存在するが、どれもこれも系図を遡れば、五つの家のどれかに行き着く。
元来、人付き合いを煩わしいと言ってはばからない景虎だったが、一臣だけは不思議と話してしまう。一臣がそれだけしつこいということもあるのだが、一臣の本来持っている屈託のなさがそうさせるのかもしれない。
形式的には部下にあたるのだが、退魔部隊は陸軍や海軍のように厳格な上意下達組織ではない。各家同士が序列はあっても、緊密に連携をしてあやかし退治を行ってきたという歴史があるから、階級はあってないようなものである。
とはいえ一臣のように景虎に馴れ馴れしく接してくる人間は、滅多にいないが。
「邪魔だ。仕事に戻れ」
「朝から連れないなぁ」
「どうせ婚約者のことを聞きに来たんだろう。お前に話すことは何もない」
「いくら可愛いからって一人占めはずるいんじゃないか」
――訳の分からないことを。
「三船、少し席を外せ」
「はっ」
三船は景虎と一臣に深々と頭を下げ、部屋を出ていく。
「んじゃ、さっそく教えてくれ!」
一臣は無邪気に目を輝かせた。
どうせこの男は自分の目的を達成するまではしつこく付きまとってくるのだから、話してしまったほうが早く仕事に戻れる。
「少し変わっている」
「その心は?」
「まず紙幣を知らなかった」
「春辻はたしか、男爵だろう。いわゆる、いいところのお嬢さんに違いないんだから、欲しいものがあれば使用人が買うんだろう。金を知らないのはそこまでおかしくないだろ」
それは景虎も思った。
ちなみに、景虎や一臣も爵位を頂いている。景虎は伯爵、一臣は子爵だ。
しかしおかしいところは他にもある。
「風呂を勧めたら、行水で構わないと言ったのはどうだ。この一月の寒空に、だぞ。それに、山かけのうどんで感動していた」
「うどん? 冗談だろう」
「だから、変わっていると言ったんだ」
「お前に良くおもわれようと猫をかぶってるんじゃないか? 贅沢なものはいりません。私はお金がかからない女ですって」
沙苗が猫をかぶるような要領のいい女かと考えてみたが、あれは万事不器用そうだ。とても猫をかぶれるような器用さがあるようには見えない。
「うどんで感動していたと思ったら、夜に牛鍋を食べながら落ち込んでいた」
「は? なんで?」
「さあな」
「……たしかに変わってるのかもな。婚約者の名前ってなんだけっか」
「沙苗だ」
「春辻沙苗ちゃんかぁ。なあ――」
「駄目だ」
「まだ何も言ってないだろ」
「うちへ来たいと言うんだろう。駄目だ。あいつは……まだ新しい環境に慣れてない」
「分かったよ。今すぐは行かない。そのうちに、な」
「そのうちは一生来ない。あいつは人見知りをする。お前みたいに馴れ馴れしい奴が来たら動揺する」
「お前みたいな仏頂面と一つ屋根の下で暮らせてるんだから問題ないだろう」
「話は終わりだ。仕事へ戻れ」
へいへい、と言って回れ右をした一臣は「ああ、そうだ」と振り返る。
「お前、あやかしの気配がついてるけど、出勤途中に狩ってきたのか?」
不意打ちな言葉に、思わず顔に出そうになる。
一臣が気付いたのは、沙苗のまとう気配だろう。
「うちにあやかしがいるんだ」
「退治したのか?」
「いいや。沙苗についてきた木霊だ。悪意がないから放っておいている」
「木霊かぁ。今時めずらしいな」
「都会では、だろう。田舎なら手つかずの自然がたくさんあるから、木霊だってまだ生きているさ」
「ま、言われてみればそうか。でも木霊ってのはそこら辺の人間にほいほいついていくほどお人好しでもないだろ。お前の婚約者、あやかしに好かれるのかもなぁ。狩人の妻としちゃ、いいんだか悪いんだか」
一臣はぶつぶつ言いながら部屋を出ていく。
――少し話しすぎたか?
あやかしの気配については下手に誤魔化すより、真実を織り交ぜたほうがそれなりに聞こえて突っ込まれにくいと考えたのだ。
一臣は勘のいい男だ。沙苗が半妖と分かってすぐに処理しようとはしないだろうが、知られなに越したことはない。
――少し変わっている、か。
自分で口にしたことを反芻する。一臣と話していた自然と出た言葉だったが、言い得て妙だなと我ながら思う。
沙苗は男爵令嬢だが、そういう気位の高さを微塵も感じさせない。
そもそも令嬢が半妖ということを知られたとはいえ、土下座など簡単にできるだろうか。
――一臣のせいで、くだらんことを考えてしまうな。
景虎は余計な考えを頭から追いだし、書類作業に戻った。
沙苗は着物を紐で縛ってたすき掛けにし、腕をまくった。
髪と口元を布で覆い、戦闘態勢に入る。早速、屋敷の掃除に取りかかった。
まずは廊下の大きい綿埃をホウキであつめ、ちりとりで回収。
井戸から桶に水を汲み、古布をつけて廊下を水拭きする。
「ふぅ。廊下はおしまいっ」
襖を開け放ち、雨戸を開け、屋敷の中の換気をおこないつつ、部屋の掃除にとりかかる。
一番使用する機会が多い居間から。
居間は普段から使うせいかそれほど汚れていないが、鴨居には埃がたまっていたりするから、はたきでしっかり落とし、念入りに掃除をおこなう。
居間の掃除を終えると他の部屋の掃除に移る。
――景虎様はどうして女中を雇わないのかな。
これだけ広い屋敷を持っているのだから、かなりの偉い人なのだろう。
そういう人は、春辻家のようにたくさんの女中を雇うものではないのだろうか。
少なくとも身の回りの世話をする誰かくらいはいてもいいはずなのに。
景虎には部外者を屋敷にあげるなと釘を刺された。
過去に酷い目にあったのだろうか。
そこまで考えてから、「いけない」と頭を振った。
――誰にだって知られたくないことはあるんだから。どうして女中を雇わないとかはどうでもいいこと。私がこうして掃除をすればいいじゃない。
部屋に入ると、そこは仏間だった。
他の部屋とは違って、しっかり手入れが行き届いて、鴨居に埃が溜まっていることもない。
大きな仏壇が置かれているが、今は観音扉が閉まっていた。
婚約者としてはどうしたらいいのだろう。
開けるべきだろうか。しかしわざわざ閉められているということは、開けるべきではないのかもしれない。
――家の事情をよく知りもしないのに、手を合わせるのもおかしいわよね……。
沙苗は仏壇に向かって頭を下げ、仏間をあとにした。
最後に入ったのは、景虎の書斎。
文机にはたくさんの書類が置かれている。
何が書いてあるのかは分からないが、何も分からない沙苗が不用意に触れたら大変なことになりそうだ。
――ここは、景虎様にちゃんと確認をとってからしたほうがいいわよね。
書斎には手をつけず、換気だけして保留にすることにした。
座椅子に引っかけられた羽織りを手に取ると、脇の部分が、ほんの少し破れていた。
沙苗は木霊たちにお願いして、裁縫道具を探してもらう。
「もう、見つけてくれたのね。ありがとう!」
木霊たちに見つけてもらった裁縫道具で、破れを繕う。
――勝手なことをするなって怒られないかな。
繕いを終えてから、そんな考えが頭を過ぎった。
――……怒られたら、元に戻せばいいよね。
羽織を座椅子の背もたれに引っかける。
屋敷の掃除は、だいたい終えた。
これだけ広い屋敷だと掃除だけで一日仕事。
気付くと、日が傾きはじめていた。
ただ掃除をしておかげか、清々しかった。
景虎が庁舎を出た頃には、日付が変わろうとしていた。
こんなに遅くなったのは、あやかし討伐の出動がかかったからだ。
日本橋に犬型のあやかしが現れ、その討伐指揮を担当した。
相手は大したあやかしでもなく、あっという間に討伐は完了した。
帝都は各地に五色不動を安置していたり、強い霊力が溜まる地点に神社仏閣を建設したりと江戸の頃から、対あやかしの結界が厚く張られている。
景虎や一臣の先祖たちがその結界作りに深く関わっていた。
しかし帝都がまだ江戸と呼ばれていた時代から、三百年。
結界は少しずつ弱まっているのを感じている。だからこそ、大して力の強くないあやかしが帝都へ侵入するようになってきていたのだ。
景虎は陸軍を通じ、政治家に対して結界強化の術法を行うべきと献策しているのだが、遅々として進まない。
結局、いつまでも呪術などの前時代的なものにこだわっていると思われては西洋諸国からの印象が悪いし、近代化の妨げになることを懸念しているのだ。
開国と共に日本に入ってきた技術を否定するつもりはない。
自動車だったり、電気だったり、素晴らしい技術は技術として景虎も認めるところだが、だからと言って、この国が数千年もの時間、紡いできた伝統を蔑ろにするべきではない。
軽んじれば、そのつけを払うのは現代を生きる景虎たちなのだから。
「大佐、つきました」
「ご苦労」
景虎は馬車を下りると、帽子を取って小脇に挟むと屋敷に入った。
しんっと静まり返っている玄関で靴を脱ごうとした時だ。上がりがまちに木霊たちが並んでいた。
「なんだ、お前ら」
木霊たちは何かを囁き会うような素振りを見せる(しかし木霊の顔にあたるだろう場所には耳はもちろん、口も見当たらない)。
景虎は腕を組んでその様子を見つめる。
すると、二体の木霊が進み出る。
片割れが不意に四つん這いになったかと思えば、上がり框を四つん這いで行ったり来たりを繰り返す。
「俺は沙苗のようにお前たちの言葉が分からない。もっと分かるようにしろ」
――俺は一体何をしているんだ。
さっさと風呂に入って休みたいというのに、木霊と向き合おうとしている自分に呆れる。
すると、木霊たちは廊下を指さす。そして四つん這いになると、やっぱりその場を行ったり来たりする。
景虎は廊下を見てみると、いつもより艶があるように見えた。
試しに触れてみると、つるつるしている。
「……沙苗が掃除をしたのか」
木霊たちはコクコクと大きく頷く。
それからさっき進み出て来た二体の木霊のうち、直立不動のまま立っていたほうの木霊が、四つん這いになっている木霊の頭を撫でるそぶりをする。
「……褒めてやれ、ということか?」
木霊たちは「そうだ!」と言わんばりに飛び跳ねた。
――あやかしのくせに人間のような反応をする連中だな。
沙苗と長らく一緒にいたせいなのか。
しかし褒めるにしても明日になるだろう。
景虎は靴を脱いで木霊たちをまたぎ、居間の襖を開けた。と、灯りが漏れた。
沙苗が卓袱台に突っ伏すように、眠っていた。
襖が開く音にはっとした顔をして顔をあげれば、眼が合った。
「か、景虎様、おかえりなさいませ」
「待つ必要ないと言わなかったか?」
「そういうわけには。お風呂にも入られると思いまして。一人ではご不便かと」
「お前が来るまではぜんぶ一人でやっていて、不都合はなかった」
「あ……すみません」
沙苗は目を伏せる。
「そういえば掃除をしてくれたようだな。すまない」
「どうしてそれを」
「木霊たちから聞いた」
「景虎様もこの子たちが何を言っているのか分かるのですか?」
「いや。身振り手振りで説明されてようやく気づけた」
卓袱台の片隅に一日の食事代としておいておいた金がそのままになっていることに気づく。
「食事は家で食べたのか」
「はい」
「うどんや牛鍋は口に合わないか?」
沙苗の顔が強張る。
どうしてそこまで大袈裟に反応するのか。怒っているわけではないのだから、申し訳なさそうな態度などとらなくてもいいだろう。
そんな態度を取られると、かえって不満があるのかと勘ぐり、不快になる。
「他人の嗜好に口を挟む趣味はないが、不満があればはっきりそう言え」
「……そういうわけではないんです。おうどんも、牛鍋も、とても美味しかった」
「なら、どういうことだ?」
「……お、美味しすぎるんです」
「は?」
予想外な言葉に、景虎は虚を突かれてしまう。
「うどんも、牛鍋も、美味しすぎたんです。私を受け入れてくださった景虎様に少しでも恩返しがしたいと思ったんです。でもこの街では、あんなに美味しいうどんや牛鍋が食べられるんですよね……。私の料理の腕はとうてい、あんな素晴らしいものに太刀打ちできないんです。食べている途中でそう思いはじめたら、どんどん落ち込んできて……」
「そんなことを考えていたのか……。食事を作れないから、掃除をしていたのか?」
「……掃除は元々するつもりでした」
「妻としての献身は求めないと言ったはずだ」
景虎は呆れ混じりに呟く。
「献身ではなく、感謝の気持ちでございます。半妖である私との婚約を続けてださったせめてもの……」
「分かった。もう遅い。休め」
「ですが、景虎様はこれからお風呂に入られますよね。でしたらお手伝いを」
「いらない。一人のほうが楽だ」
「……か、かしこまりました。では、おやすみなさいませ」
沙苗は深々と頭を下げると、居間を退出していく。
景虎は書斎に入った。
積まれた書類や本などは特に動かされたという痕跡はなかった。
きっと下手に動かしてはいけないと手をつけなかったのだろう。
堅苦しい軍服を脱ぎ、着物に着替える。
座椅子の背もたれに引っかけていた羽織を手にとった時、破けていたはずの右脇の部分が、しっかり繕われていた。小さな破れだったから、特に気にもしなかったのだが。
――これも沙苗がしてくれたのか。
翌朝、沙苗は台所に立って朝食を作る。
ご飯を炊き、大根の味噌汁、玉子焼きに焼き鮭を仕上げる。
鮭の身に綺麗な焼き目がついたのを確認し、お皿に盛り、卓袱台へ並べていく。
そこへ重たい足音が近づいてくる。
「景虎様、おはようございます」
「……おはよう」
景虎は手に、昨日繕った羽織を持っていた。
「あ、それ……すみません、勝手に」
景虎は「謝るな」と少しうんざりした顔をする。
「怒ってるわけじゃないから頭を下げるな。繕ってくれて助かった。ありがとう」
「!」
景虎から感謝してもらい、それだけで心臓が飛び跳ねる。それからじんわりと体が熱くなる。
「いえ……出来ることをしただけですから」
たった一言の感謝で、高揚してしまう。
「ところで朝食だが、俺の食べる分はあるか?」
「え?」
「わざわざ俺のために花嫁修業をしたのだろう。食べさせてくれ」
「それは……!」
予想もしない要請に、困惑し、慌ててしまう。
「もちろん、無理にとは言わない」
「そういうわけではありませんが……よ、よろしいのですか。外で食べたほうがずっと美味しいと思います……」
自信がなくて、声が尻すぼみになってしまう。
「少なくとも匂いは、うまそうだ。それに、繕いもしっかりできているんだ。料理のほうも問題ないんじゃないか?」
――せっかく景虎様がこう仰ってくださってるんだから。
「そちらを召し上がってください」
「これはお前の分だろう」
「そのつもりでしたが、景虎様はこれから出勤されますよね。お時間もないでしょうし。どうぞ。私はのちほどゆっくり頂きますので」
「そうか。すまない」
景虎は美しい姿勢で正座になると、手を合わせ、「いただきます」と食事をはじめる。
まずは味噌汁から。
「具材は大根です」
向かいに座った沙苗は、緊張の面持ちでじっと見つめてしまう。
花嫁修業で最低限の料理は習ったが、沙苗の作った食事を女中たちは手をつけてはくれなかった。
結局、自分で作って自分で食べただけだったから、こうして料理を誰かに食べてもらうのは、生まれて初めて。
味見はしているから不味いということはないだろうが、景虎がどう思うかはまた別の話。
景虎が味噌汁に口をつける。
「いかがですか?」
「美味い。しっかり出汁の味が出ているな」
「良かったです」
景虎は焼き鮭を箸でほぐして口に含み、ご飯を食べる。
「ご飯もちょうどいい硬さで、美味い。焼き鮭の焼き加減もちょうどいい」
「お世辞ではなくて、本音でお願いしますっ」
「不味いものを無理して食うほど、食には困ってはいない」
「実は、玉子焼きは少し焦がしてしまって……それはどうですか?」
「気にするほどではない。十分、うまい」
景虎はあっという間に朝食を食べ終えてしまう。
「ごちそうさま」
「御粗末様でございました」
食器を片付けようとして手を伸ばすと、景虎も同時に食器に手を伸ばす。
危うく手が触れかけ、バチッと二人の間で火花が散った。
はっとして手を引っ込める。
「大丈夫ですか?」
「問題ない。お前こそ」
「触れてなかったので大丈夫です。私が片付けますから。今、白湯をお持ちしますね」
食器を片付けて水を溜めた桶に浸け、水を火に掛け、湯飲みに注ぐ。
――今日、お茶葉を買いにいこう。
花嫁修業でお茶の淹れ方も勉強した。白湯では味気ないだろう。
「どうぞ」
「すまない」
景虎はほとんど表情は変えない、冷ややかな仏頂面なのに、お礼をきっちり言ってくれる律儀さが、可愛いなと感じた。
玄関のほうで「おはようございます」と、声がかかった。
沙苗は玄関に立った。
「おはようございます、三船様」
「様づけなんて、おやめください。三船で結構でございます。大佐は?」
「景虎様でしたら……」
「来たか」
景虎が居間から出てくる。
「いってらっしゃいませ」
沙苗は三つ指をついて見送る。
「基本的に帰りは遅くなる。待ってないで寝ていろ。それから、今日から朝はお前の料理を食べたいと思うが、どうだ? 無論、作るのに抵抗がなければだが」
沙苗は自然と目を細め、笑みに口元をほころばせた。
「作らせていただきます。お夕飯はどうしますか?」
「帰りの時間は不規則になる。無駄にしてしまう可能性もあるから朝食だけで構わない」
「かしこまりました」
沙苗はいつものように門前まで景虎たちを見送った。
――景虎様が私の料理を美味しいと言ってくれた!
景虎たちをのせた馬車を見送りながら、喜びのあまり小さく跳びあがった。