昼食を終えてリビングのソファで二人、寛いでいると不意に窓をパラパラと叩く音が聞こえた。
「雨。」
いつかはいち早く気が付き、庭に干してある洗濯物のもとへと裸足で駆けていった。まるでしなやかな子鹿のようだと叶は思った。
芝生の上に立ち、衣服やシーツを取り込む姿は瑞々しい若さに満ちあふれ、雨に濡れた黒々とした髪の毛が美しかった。
叶が眩しいものを見るように目を細めていると、いつかが戻ってきて首を傾げた。
「どうしたの?」
「何でもないよ。」
呼吸を漏らすように目をそらした刹那、右腕が鈍く痛んだ。湿気が強いと、こうして痛むのだ。
何気なくさすると、違和感に敏感ないつかがすぐに気が付いてくれた。
「痛い?」
「少しね。」
他人の心配がこんなにも甘く嬉しいものだと初めて知った。自分のことを気にかけてくれる存在がいるだけで、心が春のように温かくなる。
「揉めば少しは楽になるかな。」
「どうだろ。少し、揉んでくれる?」
うん、といつかは頷いて、恐る恐るに叶の右腕に触れた。相変わらず感覚は鈍くて、ゴム越しに触れられているようだったが、彼女の手のひらの体温が気持ちよかった。
「…いつかの手は温かいね。」
「私、手のひらだけは温かいの。」
だけ、ということはないだろうにと思う。
いつかの心に触れる度にその激しく燃えさかるような温度や、低温火傷もしないぐらいの心地よい温度を感じていた。それは今を一生懸命に生きている者の特有な温度なのだろう。自分にはないものだった。羨ましいとは、思わないけれど。
「叶の痛いところ、全部、ぜーんぶ飛んでいけー。」
「!」
いつかが小さな声で、歌うように言う。
優しく、慈しみが込められた声色が鼓膜に柔らかく響き、くすぐったくて叶は笑ってしまう。
「子どもっぽすぎた?」
その笑みに気が付いたいつかが恥ずかしそうにはにかんだ。
「いいや。俺は覚えていないんだけど、お母さんみたいだと思った。」
「お母さん?女子としては微妙だけど…、叶が言うならいいか。」
あはは、と朗らかに声を出して笑ういつかが可愛らしかった。
その後もしばらくいつかは叶の腕に触れていてくれた。雨が降るこの時間が愛おしいと思ったのは、久しぶりだった。

午後に降った雨は夕方には止んだものの、夏の気温に相まってじっとしているだけでも汗が滲むような空気を孕んだ。就寝の時間までその空気は滞在し、叶は遠慮せずにクーラーを使えとは言っていたけれどいつかは電気代を気にして、早々にスイッチを切った。
「窓、開けたいな…。」
防犯の都合上、叶から夜間は窓を施錠するように言われている。
用意された部屋は二階だし、いつかは少し過保護すぎないかと思ったが、俺には君を安全に保護する義務がある、と言って叶は頑なだった。
いつかはベッドの上でしばらくごろごろと体勢を変えていたが、その暑さに耐えきれずそっと部屋を出てみた。
枕を抱えて、涼を求める。どこなら涼しく眠れるだろうかと、目をこすりつつ探した。
ペタペタと裸の足音が廊下に響く。家の中を徘徊していて、いつかは耳に違和感を感じた。
「…え…、何…。」
どこかですすり泣くような声が聞こえるのだ。
「誰…?」
まるで、こちらまで悲しくなるような低い声だった。不思議と恐ろしさを感じずに、いつかはすっかり醒めた目で辺りを見渡した。
窓から差す月明かりがいつかをその声の主のもとへと誘う。白い光はまるで飛び石のようだった。一歩一歩、進む毎に声が明確に輪郭を帯びていく。
叶の声だ。
ここだけは掃除しなくて良いと言われていたから、叶の部屋に入ったことはないが場所は知っている。
部屋の前に立ち、いつかは控えめながら扉をノックした。

「…叶?」
返事はない。でも、泣く声だけが響いている。彼はこの中にいて、確実に泣いているのだ。
そっとドアノブに手をかけると、鍵は掛かっていなかった。
「叶…、開けるよ。」
キイ、と蝶番が軋む音がして、ゆっくりと扉を開ける。室内は電灯こそついていなかったが、月明かりに影が濃く床に縫い付けられていた。
「…。」
叶は床に膝をつき、ひれ伏すように頭を垂れていた。
「…ぅ、…う、」
押し殺した声が悲痛に漏れて、背中を苦しそうに震わせている。涙がぱたりと数滴落ちて、カーペットを濡らしていた。
「叶…?どうしたの?」
いつかの声は聞こえていないようで、叶は彼女の目に憚れることなく泣いていた。
徐に叶が顔を上げた。その横顔は涙に濡れてぐちゃぐちゃだった。いつかが何て声をかけようかと迷った瞬間、叶は左手にきらりと光るものを手にした。逆光に見えた影は、カッターナイフだった。叶をそのカッターナイフを右腕に突き刺そうとして、高らかに掲げた。
「やめてっ!!」
いつかの絹を裂くような悲鳴が響いた。
思わず体が動いていた。叶を背後から抱きしめるように、いつかは彼の左腕の動きをとめることに成功した。カシャ、とその存在感の割に軽い音を立てながら、カッターナイフが叶の手から滑り落ちた。
「叶…!叶ぅ…っ!」
いつかは叶の名前を呼ぶ。その声にいつの間にか涙が滲んでいた。
「…、」
まるで手負いの獣のように呼吸を乱していた叶の体の震えが、徐々に収まっていく。いつかはずっと抱きしめていた。
「い、つか…。」
小さな声で、叶はいつかの名前を呼んだ。その声にはっとして、いつかは顔を上げた。
目の前には、ズタズタに切り裂かれた白いキャンバスが置かれていた。足元に破られたスケッチブック。そして折られた鉛筆が数本、転がっていることに気が付く。
「叶…?もしかして…、」
「…っ。」
いつかの問いかけた声に、叶が息を呑む気配がした。まるで、何もかもを拒絶するような様子にいつかは口を噤む。

「…叶。…叶の痛いところ、全部、ぜーんぶ飛んでいけー。」
いつかの呟きが叶の耳に響いたとき、彼は声を上げて泣いた。

「…泣きすぎて、頭が痛え。」
ず、と鼻を啜りながら、叶が顔を上げた。いつかはその間も背中を撫でていた。
「大丈夫?鎮痛剤、持ってこようか。」
「いい…。それよりも、傍にいて。」
いつかが頷くと、叶が安心したように息を吐いた。そして、自分の左の手のひらを見つめた。
「何してんだろ、俺。」
その手のひらは未だに緊張に震えている。いつかは包み込むように、その手を握った。
「叶が…、右手を刺さなくて本当に良かった…。」
いつかは握った左手にそっと口付けながら、囁く。
「…驚かせて、悪かったな。」
叶の指がいつかの唇をなぞった。
「いいの。」
頬ずりをした叶の手のひらには、いつかの涙が滲んでいた。
「何で、いつかが泣くんだよ。」
「わからない。不思議だね。」
いつかの涙は涸れることなく瞳に浮かび、表面張力を破って頬に伝う。ああ、綺麗だ、と叶は思った。
「俺さ…、昔、絵を描くの好きだったんだ。」
「うん。」
「本当に。本当に、楽しくて。ただ、描き続けられたらそれでいいって思った。」
「…うん。」
「俺の右手は…、叔父さんの車に轢かれてダメになった。」
「そうだったんだ。」

「叔父さんは…、俺の絵を盗作していたんだ。」

「…え?」
時間が一瞬、止まった。動かしたのは叶だ。
「俺は評価されるなら、描いた絵が誰の名義でもいいと思っていた。だけど、叔父さんは弱い人だった。」
「そんな…ことが、」
「いつか。…いつか、夢を壊してごめん。」
叶はいつかの目を見ていった。
「画集の絵を描いたのは、俺なんだ。」