叶との不思議な共同生活が始まって、三日が経った。
いつかは今日も、日中掃除に励んでいた。叶の家は広く、とても一日では全体を綺麗に出来なかった。
「今まで何とかなってたから、適当で良いよ。」
叶は掃除用具を抱えて、奮闘するいつかに声をかける。
「そういうわけにはいかないよ。雇われているんだし。」

そう答えると、いつかは気合いを入れるのだった。
「今日は、この部屋からにしようかな。」
どの部屋も入って良いとの許可を得ていたので、いつかは遠慮しながらもドアノブに手をかける。そこは使われていない客間だったようで、薄暗い室内にはベッドや小さな机などが窺えた。
いつかはまず最初にカーテンを引いて、窓を開け放ち、室内の空気を入れ換える。
新鮮な空気が流れ込んでくる瞬間が好きだと思った。これから綺麗にするぞ、と気が引き締まる。
鼻歌を口ずさみながら作業していて、意外と自分は掃除が嫌いじゃないことに驚いた。家に帰ったら、今度は率先して掃除を手伝おうと思う。
「…今は、考えない。」
両親の顔が脳裏に浮かんだが、いつかは頭を軽く振って追い出した。まだ許すことも、素直になることもできなかった。
「いつかー?いつか、どこ?」
階下で叶が自身の名前を呼ぶ声がする。いつかは気を取り直して、返事をするのだった。
「はーい、なあに。叶。」
手をエプロンで拭きながら、叶の元へと行く。
「あ、来た来た。悪いんだけどさ、猫缶の蓋を開けてくんない?」
「猫缶?」
いつかが首を傾げた視線の先で叶の背後に猫が二匹、外のテラスで中の様子を覗っていた。
「猫。」
「前に話しただろ。たまに、ごはんを食べに来るんだ。」
叶の紹介を受けて、わかったかのように黒い毛並みの猫が甲高く鳴いた。
「かわいいねえ。なでられるかな…、あ、触らせてくれる。」
いつかが膝をついて、猫を呼ぶとハチワレ柄をした方の猫が近づいてきてくれた。スピスピと鼻を鳴らしたかと思うと、いつかの足元に体をこすりつけた。柔らかい毛並みと高めの体温が、撫でた手のひらから伝わってくる。
「いつもは魚の骨とかを残しておくんだけど、いつかがいるなら猫缶もいいかなーって。」
「と言うことは、初猫缶?」
「いや、超久しぶり。右腕がダメになる前は普通にあげてたから。」
確かに、片腕では猫缶の蓋を開けるのは難儀だろう。いつかは頷いて叶から猫缶を受け取ると、プルトップに指を引っかけた。パキ、と音を立てると、猫たちは反応して早くと催促するように鳴く。
猫用のごはん皿に解すようにして猫缶の中身を移して、テラスの床に置くと猫たちは狭い額を付き合わせるように食べ始めた。
「よかったな、にゃー。やっぱり猫缶の方が美味しいよな。」
叶は目を細めながら、猫たちを見つめる。
「どっちが、にゃーちゃん?」
座り込んで猫の背中を撫でる叶の隣に、膝を抱えながらいつかも座る。
「え?どっちも。にゃーとにゃーだよ。」
「同じ名前なの?」
いつかは驚きに目を瞬かせる。叶が、うん、と頷いた。
「やだ、何それ。かわいい。」
クスクスといつかから笑いが零れる。
「かわいいだろ。」

猫たちが食事を終えて、それぞれ毛繕いをし始めた。サリサリと音を立て、小さな舌で器用に前足を動かしている。
その様子を眺めながら、いつかと叶は初夏の日差しに足を投げ出していた。
「いい天気だねえ。」
いつかは足の指を結んだり開いたりを繰り返しながら、呟く。そろそろ爪の切り時かな、などと思った。
「本当だな。そろそろ蚊帳も出すかなー…。」
「蚊帳なんてあるの?」
比較的都会の町に住んでいたいつかにとって、蚊帳は身近ではなかった。
「あるよ。クーラーの冷房嫌いだから、夜、寝るときに窓を開け放つんだけど重宝してる。」
叶の暮らしには、四季がきちんとあるようだ。思えば、夏なのにクーラーで冷えて寒いと言っている方が不健康な気がした。
「いつかはクーラーを使えよ。」
「え、何で?」
せっかくなら蚊帳を体験してみたいと思ったいつかは唇を尖らせる。
「窓を開け放って寝るな、女子。」
叶は呆れたように言う。彼は防犯の意味で心配してくれているらしい。
「て言うか、いつかは危機感がなさ過ぎる。俺が悪い男だったら、どうすんのさ。」
「…勝てそう?」
いつかが考えた末に答えを出すと、叶に額を指で弾かれた。男子としては華奢な部類に入るだろう油断が招いた答えだった。
「っ痛ー!!」
「勝てるわけねーだろ。バーカ。」
「バカって言った方が、バカ…。」
「今、なんつった?」
再び額の危機を感じ、いつかは慌てて手のひらで隠す。
「叶は物騒だ!」
「お前ねー…。俺としては心配なわけよ。のこのこついてきたかと思えば、風呂場とはいえ裸になるしさ。」
叶は大きなため息を吐いた。
「私、人を見る目はあるのよね。」
「人間関係で家出したくせによく言うよ。」
う、と言葉を詰まらせるいつかに、叶は言葉を紡ぐ。
「ごめん。今のは意地悪だったな。…まあ、とにかく今のところ結果論でしかないんだから、以後、気をつけるように。」
「はーい…。」
素直に頷くいつかの頭を、叶が乱すように撫でた。
「わわ、ちょっとー。」
いつかは手ぐしで髪の毛を整えながら、叶を軽く睨む。睨まれた叶は視線を受け流して、笑うのだった。
充分に太陽光で肌を温めて、いつかはようやく立ち上がった。
「さて、と。掃除の続き、してきます!」
敬礼のように手を掲げて、いつかは宣言する。
「どこまで掃除は終わってんの。」
「えーと、客間?まで。」
ふーん、と興味なさそうに叶は呟く。
「ま、ほどほどに。」
「? うん。」

掃除を再開したいつかは客間に向かった。拭き掃除、掃き掃除を終えて、次の部屋に行こうと道具を持った。
「よいしょっと。」
バケツに入った水を替えて、いつかは隣の部屋へと行く。
「…ん?」
扉を開けて室内を覗うと、さっき以上に暗かった。カーテンは遮光性のようで、扉から差す光が一本の道のように床を照らす。
家具という家具はないようで、様々な布で物が覆われているようだった。
「あれ?ここ、倉庫かな…。」
倉庫だったらわざわざ掃除することもないかと思い、確認のために壁を探って灯りの電源を探る。指先が触れた先に電源のスイッチを探り当て、カチカチと鳴らすようにオンとオフを繰り返した。どうやら電灯が切れているらしく、灯りがつくことはなかった。仕方なく、いつかはカーテンを引いて部屋を明るくしようとする。
カーテンは他の部屋の物より些か重く、まるで暗幕のようだった。ジャッと引っかかるような音を立てカーテンが開かれる。束の間の閃光に一瞬、目が眩んだ。フォーカスを合わせるように、しばらく瞬きを繰り返すと目が光りに慣れた。
「…?」
いつかは首を傾げながら、手近にあった一枚の布をめくった。
「これ…、」
そこにあったのは何枚かに重なったキャンバスだった。問題は、描かれている絵画だ。
いつかの宝物の画集に納められていた、あの絵だった。
見間違えるはずがない。何度も、何度もページをめくり、眺めた絵だ。
筆の跡が生きる喜びを語るかのように伸び伸びと引かれ、空気感や光。まるで音や香りまで感じられるような、名作。そして、傑作はキャンバスの数だけ存在した。
画集にある絵の他にも、未収録の物まであった。そのどれもが、作者の名残を残している。
「…。」
いつかは息を呑み、言葉が出てこなかった。どのぐらい、呆けていたのだろう。コンコンコン、と扉をノックされてようやく我に返った。
「見つけちゃったね。」
そこに立っていたのは、叶だった。
「叶…。これ…、」
「叔父の作品。」