冷蔵庫に寄りかかるようにして立つ叶の隣に、いつかも立つ。ほんの少し逡巡して、そして手を繋ぐように叶の右手に触れた。
その手の肌は少し冷たくて、指を絡めると徐々に温くなった。力ない指の一本一本の形を縁取るように確かめていく。撫でた爪は伸びてはいるものの、桜貝のように淡い色をしている。きゅっきゅっと緩急を付けて手のひらを揉んだ。そして指の間にある微かな水かきを、爪弾いた。
「…感触はあるの?」
「それも鈍いかな。今触れてるいつかの手は、ゴムみたいな触り心地だよ。」
ごめんね、と叶は呟く。
「何も謝ることはないよ。」
いつかはそっと叶の右手を放す。右手は重そうに揺れた。
「そろそろ焼けるかな。」
叶はひらりと翻るように、キッチン台に置かれたバットを覗き込む。卵液にひたひたに浸ったフランスパンを見て、満足そうに頷いて二人で焼く作業に入った。

「いただきまーす。」
食卓に並んだフレンチトーストの皿を前に、いつかと叶は手を合わせる。声も揃って、同時にフォークを使い始める。カチャカチャと僅かに食器とカトラリーが触れあう音が響いた。
フレンチーストの中心はプリンのように甘く、充分に柔らかく仕上がっていた。砂糖の甘みが若干強いので、また作る機会があるならば今度は量を控えてみようと思う。
叶は大きな口で頬張るから、リスのように頬が膨らむ。いつかは何となく微笑ましく盗み見てほくそ笑んだ。
半分以上を食した頃、叶が紅茶を飲みながらいつかに言う。
「そろそろ良い子の尋問タイムだぞ。」
いつかは目を瞬かせる。
「え?マジで?」
マジ、と返して、叶はマグカップをテーブルに置いた。
「いつか、この町の人間じゃないよな。今まで会ったことない。」
「たまたまかもよ。」
いつかは意地悪くにやりと微笑む。
「それはない。小さな田舎町だ。町民は皆、知り合いみたいなものだから。」
叶は断言すると、いつかをじっと見た。
「いつかは、どこから来たんだ?何をしに、何のために、そして何が故に?」
「…。」
いつかはフォークを皿の上に置く。海で助けた恩だとしても風呂場と着替え。さらに朝食まで提供してくれた叶には包み隠さず全てのことを話すべきだと思った。
「家出を、してきたの。」
思春期にありがちな鬱屈とした感情ゆえに思い立った行動だと思われたら嫌だな、と思う。
「ふうん。で?」
叶は肯定も否定もせず、いつかに続きを促す。
学校で起こったことや、画集を捨てられかけてさらに家で父親に言われたこと。そうして生まれ育った街を飛び出し、この町に行き着いたことをいつかは話した。
言葉にすると随分と陳腐なものだと思った。だけれど、それでもいつかにとっては耐えがたい出来事だったのだ。
思わず涙が零れそうになって、いつかは唇をきつく噛んで耐えた。
「それは、」
叶がゆっくりと口を開く。くだらない、と言われたらどうしようといつかは身構える。
「ムカつくヤツばっかりだったな。」
「…え?」
「え、じゃねーよ。自分のことだ、よく考えてみろ。絵描きですらないヤツに人の絵を貶められたり、親に大事な画集を捨てられるとかさ、そんなことされたら家出ぐらいするだろ。」
「そう、かな。」
いつかの戸惑いを、叶はうんうんと頷きながら肯定する。
「よくやったよ、いつか。」
「…。」
嬉しかった。叶が共感してくれたのが。怒られたり、けなされたりをされると身構えたが、まさか褒められるとは思いもしなかった。
「いつか、さ。」
「うん、何?」
いつかがぱっと視線を持ち上げると、叶が覗うように見ていた。
「このあと、行く当てはあるの?」
「…ありません。」
目を泳がせるいつかに、叶は笑う。
「なら早く言えよ。いつか、ここにいていいよ。」
「え、いいの?」
「いつかがいいならね。…あれ、これって誘拐になんのかな。」
叶が悩むよりも早く、いつかは立ち上がる。
「誘拐でも何でもいい。私をここにおいてください!」
勢いよく頭を下げると叶は苦笑したようだった。
「誘拐だと俺、捕まるけどね。…まあ、いっか。おもしろいから。」
「! ありがとう!!食器、私が片付けるね。」
いつかはそう言うと皿を片付けようとする。
「待て待て待て、まだ残ってる!」
半分残ったフレンチトーストを、叶はいつかから取り返すのだった。

食後、居間にあるソファに寝そべって二人は、今までの時間を埋めるように会話を交えた。
叶はいつかよりも一歳年上で、高校三年生になる年齢だと言った。その言い回しにいつかが首を傾げると、「高校に通っていない」と叶は笑った。いつかは自分の常識にはない生き方に、目を丸くした。
「両親に反対されなかったの?」
「俺が幼い頃に両親は亡くなっていなかったし、中学生の時に俺を育ててくれた叔父も死んだからね。まあ、保健師と揉めたけど。」
古時計が時刻、午前十時を指してボーンと低く鳴る。いつかの通う高校では午前の授業中だ。いつかたった一人いなくても、世界は順調に回っていくのだ。
天井ではファンが回り、室内の空気を快適に循環させている。いつかは疲れもあり、うとうとと微睡んでしまう。
「そうかー…。でも、叶は寂しくはないの…。」
眠気で舌足らずな声を出すいつかに、叶が笑う気配がする。
「別に?時々、庭に猫たちが来るし。気楽なもんだよ。」
叶の声がいつかに響いたのはこれまでだった。いつかは健やかな寝息を立て、完全に寝入ってしまった。

色彩豊かな夢を見ていた。いつかは憧れの画家の描いた海の世界に潜っている。
翼を広げて空を飛ぶ夢を見る代わりに、水中で呼吸ができる夢をよく見ていたから前世はきっと魚だったのだろうと、いつかは思っていた。
画家の描いた海は真っ青の中に七色の光が柔らかく滲み、白い泡がまるで真珠のように輝いてる。この景色を見たことがあると思って記憶を辿ると、それは叶を追って見た海の中だった。あの時は必死だったが、今思えば何て豊かな海だろうと思う。

「…あれ?」
ふわっとした覚醒に、いつかの意識が夢現に混濁する。全てが夢だった気がして、寂しくなって、叶の名前を呼んでみた。
「何だよ。」
叶の声が即座に返ってきて、いつかは驚きのあまりに飛び起きた。
「え?か、叶?」
その勢いに叶は目を丸くしていた。
「何で、いつかの方が驚くんだ?」
「あー…、ごめん。寝ぼけた。」
いつかはしっかりとするために、両手で軽く頬を叩いた。
「よく寝てたなあ。もう、夕方だよ。」
「そんな時間?」
いつかが時計を見ると午後四時を告げていた。どうやら6時間ばかり、眠ってしまったようだ。
「寝起きで悪いんだけどさ、買い出しに行くぞ。ここら辺、店が閉まるの早いんだ。」
いつかの服や生活用品がいるだろ、と叶は言う。
「私、お金持ってない…。」
はっとして申請する。
「最初に聞いたから知ってる。初期費用で、俺が出してやるって言ってんの。」
「悪いよ。」
いつかは両手を出して、横に振った。
「んなこと言ったって、いつまでも同じ服って訳にいかねーだろ。おまけにセーラー服だし。」
「…ですね。どこかで、アルバイトとか…?」
「高校生の家出少女を雇ってくれる店があるとでも?」
正論に正論を重ねられて、いつかには次に出す言葉が見当たらない。
叶はうーんと何かを考えるように首を傾げる。そしてある提案をする。
「いつか、家事できる?」
「え?まあ、人並みには。」
わかった、と頷き、そして。
「じゃあ、俺の家の家政婦として雇ってやるよ。掃除と洗濯とー、まあ気が向いたら食事を作ってもらうってのはどう?」
「いいの?」
「うん。で、今回かかる費用は、給料から少しずつ返してくれればいいから。」
あまりの好待遇にいつかは驚く。
「どうしてそこまでしてくれるの。」
「別にー。気まぐれだよ。誰にでもしてない。」
さっさと行くぞ、と急かされ、いつかは取り急ぎに用意してくれた叶の服と乾いたという下着に着替えるのだった。
「お待たせ。」
着替えを終えて廊下に出ると、待っていた叶が歩き出す。いつかも慌てて追って、彼の後をついていくのだった。

海辺の町は叶が言ったとおり小さな町で、一時間もすれば生活に必要な範囲を歩くことができた。洋品店、病院、雑貨屋、個人商店、そして町唯一のコンビニが一件。
全てがこじんまりとしていて、確かに町民は知り合い同士のように仲が良い。叶は話しかけられて、いつかの存在に気が付いた町民には「俺の遠い親戚」と紹介してくれた。そしてこの微妙な時期に風光明媚な町に訪れたいつかに対し、町民は複雑な事情があると勘違いして優しく接してくれた。
「ゆっくりして行きなさいね。」
何人目かの町民とすれ違って、叶がいつかに囁く。
「いつか、療養か登校拒否って思われてるよ。」
「…何だか、申し訳ないな。」
「真面目か。」
いつかの罪悪感を吹き飛ばすように、叶は笑う。
「いいんだよ。この町の若者は皆、進学や就職で外で出ちゃうから。賑やかしに俺たちみたいなのがいた方が、喜ばれる。」
叶はいい加減なようで、この町を愛しているようだった。
「良いとこだよ。じっちゃんばっちゃんの距離感って、居心地がいいのはさすがーって思えるし。自然もあるしね。」
「うん。そう思う。」
見つめられる視線が優しく、見守られているような安心感があった。人見知りをするいつかに、過剰に話しかけないところもありがたかった。
散歩をするように買い出しを終える頃には、太陽は傾き空が橙色と紺碧を孕んでいた。