「いつかー、下着なんだけどさー。」
「えっち。」
「待て待て待て。死活問題。どーすんのって話。」
叶は着替えを用意していて、気が付いたのだろう。いつかも薄々どうしようかとは考えていた。
「買って、まだ使ってない俺のがあるけど、さすがに嫌だろ?」
「え、未使用品なら全然いいけど。」
いつかはお湯から上半身を出して、バスタブの縁に腰掛けながら言う。手で扇を作って、パタパタと涼を仰いだ。
「マジか。女子としてどうなん、それ。」
叶が脱衣所で呆れているのがわかる。
「だって、叶にコンビニで下着買ってきてって頼む方が嫌じゃない?」
「確かに嫌だな。」
苦笑するが脱衣所の棚の扉を開ける音が聞こえた。
「じゃ、まあ出しとくから。ボクサータイプだから、女子でもいけるっちゃいける、と思う。」
「それは嬉しいな。贅沢言える身じゃないけど、トランクスだったら微妙だったよ。」
「俺もトランクス姿の女子想像するの微妙だから、よかったわ。風呂上がったら言って。次、俺も入るから。」
了解、といういつかの返事を聞いて、叶は外に出て行った。それからいつかはもう少し、昼風呂を楽しんでから上がることにした。
叶が用意してくれた下着とTシャツ、ハーフパンツを身に付けて脱衣所を出る。ブラはさすがに用意できなかったので胸元が些か心許ないが、バスタオルで隠しつつ廊下をひたひたと歩いて行く。
「叶ー。出たよー。」
声をかけながら、叶の気配を探った。するとラジオが喋る声が聞こえ、その声を辿ってみることにした。
「ここかな…?」
広い家の奥の部屋、少し開いた扉のドアノブを掴んでそっと押した。キイ、と音を立て扉は軋み、そっと顔を覗かせるとそこはリビングのようで叶がソファに座ってうたた寝をしていた。今は使わない暖炉の上にラジオが置かれ、そこからリスナーのリクエスト曲が流れていた。
叶に声をかけようとして、彼の膝の上にいつかの大事な画集が置かれていることに気が付いた。癖のついたページが開き、そこで止まっている。
「叶。お風呂、どうぞ。」
いつかが叶の肩に触れて小さく揺すった瞬間、彼の目尻から涙が一粒ほろりと落ちた。
「…叶?」
いつかはその手を止める。だが、もしも悲しい夢を見ているというならば起床を促した方が良いだろうと思い、再び肩を揺すった。
「起きて、叶。大丈夫?」
「…んー…、うん…?」
ふわっとした意識の浮上だった。ゆっくりと瞼が開かれて、子どものようにぱちぱちと瞬きを繰り返している。そして小さなあくびを噛み殺した。
「あー…、寝てたかー。」
さりげなく叶は目元の涙を拭い、いつかを不思議そうに見る。
「どうした?」
「いや、泣いてたから…。嫌な夢でも見たの?」
「覚えてないなー。」
嘘か本当かわからない答えだったが、叶が言う気のないことをわざわざ詮索する気はない。いつかは、そっか、と呟いてこの話題を終わらせた。
「これ、この画集…。」
叶が膝に置いていた画集を左手に取る。
「この作者、好きなんだ?」
「え…、うん。」
ふーん、と叶は興味なさそうに呟くと、画集をいつかの胸に押し返した。
「返す。」
「どうも…。」
一瞬、叶の瞳に無色の感情を見た気がした。いつかはその意味を知りたくて口を開きかけたが、叶はさっさと立ち上がって行ってしまう。
「俺も風呂、行ってこよーっと。いつかはここにいていいよ。」
「ありがとう。」
いつかは、あれ、と気が付く。歩く叶の手は左手しか揺れていない。思えば、彼の右手が動いているところ見ていない。…不自由なのかな、と思い、じろじろと見るのは失礼だと目をそらした。
叶が出て行ったリビングで、いつかは所在なさげに視線を泳がせる。
テラスに続く大きな窓から光が差し込む、明るい部屋だ。部屋のシンボルのような大きな時計は古く、振り子が一定のリズムで揺れている。大小様々な観葉植物が呼吸して、さながら森の秘密基地のようだった。
感じるマイナスイオンに身を浸しながら、いつかはソファに腰掛けてみる。
「…。」
ふかふかとクッションがよく効いて座り心地が良い。たしかに、うたた寝するにはもってこいだ。背もたれに背中を預けながら、いつかは家族のことを思った。
自分の身を心配してくれているはずだ。断言できるほどの信頼感はある。罪悪感を抱くほどの愛情もある。だけどあの家に、そして街にいたら心が壊れてしまうような危機感があった。
「生きるのをやめろ、か…。」
胸の筋肉に針が刺さるような痛みが走る。
父親にとって、今のいつかは生に値しない存在なのか。
美術高校の受験に落ちて、何者にもなれなかった劣等感と美術の道に進めない焦燥感が常に身にまとわりついて離れない。まるで、海岸の砂のようだ。不快さゆえに完全に取り除いたと思ったのに、ふと瞬間にしつこく現れる。
何度、死ねば良いと自らを呪ったのに、いざ言葉にされると動揺して吐き気がした。
いつかは両手を広げて見つめる。わずかに震えていた。こんなときは画集を開くと決めている。好きな絵を見ると気分が落ち着き、深呼吸ができた。私の心の特効薬だ。
画集をぎゅっと胸に納めるように、抱擁する。
大丈夫。大丈夫。…きっと、大丈夫。
「…!」
キイ、と扉が軋み、開いた。お風呂から上がった叶が髪の毛をタオルで拭いながら、そこに立っていた。
「ん?何してんの?」
「何でもないよ。」
いつかは苦笑しながら、何気なさを装って画集をテーブルに置いた。
「いつか、腹減らない?」
叶に問われ、いつかは自分の胃が空腹を訴えていることに気が付いた。
「減った。」
「朝ごはん、食べるだろ。」
「いいの?」
叶は頷く。
「俺だけ食べるとか、そんな鬼みたいなことしねーよ。」
そして叶に誘われて、いつかたちはキッチン兼食堂に移動した。
「いつかは朝、パン派?ごはん派?」
まあパンしかないけど、と叶は言う。
「私もパン派。」
「なら、良かった。…あー、固くなってんな。」
パントリーを覗いていた叶が小さく舌打ちした。
「何?」
「買い置きのフランスパン。カッチカチだわ。」
いつかは考え、叶に問う。
「フレンチトーストにすればいいんじゃない?卵と牛乳、砂糖はある?」
「ああ、そうすれば食べれるか。」
冷蔵庫を見て材料があることを確認すると、二人でキッチンに立った。
叶は器用に片手で卵を割る。目分量で牛乳と砂糖を加えて、混ぜて卵液を作ろうする。そして、ふと手を止めた。
「いつか、あと任せてもいいか。」
「え?うん。」
いつかは首を傾げて、そして頷く。
「悪いな。片手だと、こぼす確率高くてさ。」
「あ…、そっか。」
材料が入ったボウルを任されて、いつかはかき混ぜていく。その間に叶はフライパンやバターの準備をした。
切ったフランスパンを卵液に浸けている間、叶は自らの右手について語ってくれた。
「いつかも、もう気付いてるだろ。俺の右手が動かないこと。」
「…うん。」
叶は右腕をさするように左手で撫でた。
「昔、交通事故でさ、神経がダメになっちゃったんだ。今では、指先が少し動くぐらい。」
左手で力ない右腕を持ち上げて、見せてくれた指先がほんの少し震えるように動く。そしてぱっと離すと、だらりと右手は垂れた。
「そう、なんだ。」
「まあ、飾りみたいなもんだな。」
「触れてみてもいい?」
いつかの申し出に叶は目を少し見開いて、そしてにっと笑う。
「いいよ。」