二人で手を繋いで、駆けだしたのは夕方と夜の縫い目だった。空は一番星が輝き始めて、地上に生まれる灯りさえも柔らかく受け止めていた。夕日の朱色と夜の帳がカクテルのようにとろりと混ざり合っている。
駆ける彼女を追って蝶々が戯れているように、ひらひらと海里のジャンパースカートにあしらわれたレースが生温い風に揺れる。
夏の名残を惜しみ、秋の虫が控えめに鳴き始めていた。
駅に辿り着いて改札をくぐって、プラットホームへと向かった。いつも使っている路線で行けるところまで行こう、と時生は言った。
電車内は家路につく人々で混んでいたが、駅を何回や乗り過ごすと二人分の座席が空いた。
「終着駅がどんなところなのか、気になってたんだよね。」
座席に座り、海里の手をつなぎ直しながら時生は微笑んだ。海里も手つなぎに応えて、指を複雑に絡める。
「噂だと蛍が生息しているって聞いたことがあるんだけど。どうだろうなー…。」
車窓から外を眺め、時生は呟いた。いつになく多い時生の口数に、少なからず彼の気分が高揚しているのだと海里は悟った。
「時生は、蛍、見たいと思う?」
「見れるものならね。海里は見たことがある?」
時生の問いに海里は頷いて答える。
「昔、家族旅行で行った地方で。」
「そうなんだ。いいね、どんな感じ?」
海里は記憶を辿りつつ、語りだす。
「…逃げることを知らないんじゃないかってぐらい無防備で、簡単に捕まえることができましたね。すぐに逃がしましたけど。」
その名の通り蛍光色の命の灯火は触れても不思議と熱くなく、儚くも力強くゆっくりと明暗を繰り返す。ふわり、ふわりと舞うその姿は真夏に降る雪のようだった。おびただしい量の蛍たちの中心に立つと、星々が輝く宇宙にたった一人立ち尽くす錯覚にも陥ったと言う。
美しさと供に、その命の激しさに泣きたくなった。
「そうか…。そんなに綺麗なんだ。」
海里のうっとりとした説明に時生はため息を零す。
「うん。時生も見れると良いね。」
それから二人、蛍に思いをはせるように黙り込んで流れていく夜景を見つめていた。
マンションのテトリス、車のテールランプのネックレス、赤い目をした信号機。アフターダーク後の世界は澄んだ紺色に空気を染めて、時折通る繁華街の光を強調するようだった。
海里の肩に時生の頭が寄りかかる。いつの間にか、時生に眠気が訪れたようだった。目的地は終着駅なので、乗り過ごす心配は無い。海里は時生を起こさぬように、姿勢を正した。
握られた時生の左手は大きく、男性らしく筋張っている。少し乾燥してざらつく肌は温かく、爪は丁寧に切りそろえられていて健康的な桜色だった。あるべき場所にない愛を誓う指を海里は惜しく思う。
「薬指があれば…おそろいの指輪をつけてくれた…?」
眠る時生に聞こえないように小さな声で、海里は囁く。
「時生。私たちは、唯一無二で…きっと二人で一つなんだよ。何だか、すてきだと思わない?」
海里は、きゅ、きゅ、と強弱を付けて、時生の手を握った。「…うん…。」
「!」
夢現な時生の声が漏れただけなのか、意図しての返事なのかわからなかった。
それでもいい。どこでもいい、一緒に逃げよう。
海里の瞳の淵から涙がほろりと零れた。
「あれ…、おかしいな。」
海里はそっと空いた手で涙に濡れる肌に触れた。さらさらとして熱い涙は次から次へと玉のように盛り上がり、表面張力を破って頬を伝っていく。
時生の健やかな寝息がしんと胸に染みこむようで、嬉しくて、唯々嬉しくて堪らなかった。両親に、もう時生と関わるな、と乞われてもそれを欺いてでも、海里は彼を手に入れたかったのだ。
淡い罪悪感を閉じ込めるように、海里は瞼を閉じた。

柔らかい湖底の泥に沈む気がした。
昔から、空を飛ぶ夢を見ることは叶わなかった。だけどその代わりに、水の中ではうまく呼吸ができた。ゆっくりとした寝息のような呼吸を繰り返し、水底から水上を見上げていた。白い光のカーテンがゆらりと揺れて、生まれた気泡が上下を証明するように昇っていった。
恐らく私は前世、魚だったんだと思う。
時に夜の海でも泳ぎ切れば、そこにある景色を私は知っていた。
「ー…。」
ゆっくりと瞼を持ち上げる。光が網膜を刺激して、パチパチと瞬きを繰り返した。ふと隣を見ると、時生が優しい目色を滲ませながら海里を見つめていた。
「起きた?もうすぐ、駅に着くよ。」
時生の声は温かく、引いては返す波のように柔らかい。
「…。」
「海里?寝ぼけてるの。」
くすりと微笑む気配がする。海里はゆるゆると首を横に振った。
「そう。そろそろ、降りる準備をしようか。」
「…うん。」
時生と海里が降り立った駅で、電車は回送になりゆっくりと元来た線路を辿って行ってしまった。遠ざかっていく電車を見送って、二人は周囲を見渡した。
アーチ状を描く鉄骨で縁取られたプラットホームの角には聞いたことのない町名が書かれた張り紙の貼ってある掲示板があった。その脇には緑色の公衆電話が誰かに使われることを待っているようだった。
終着駅で降りた乗客は少なく、すでに改札をくぐっていた。取り残された時生と海里も言葉少なく、歩き始める。一つしか無い改札を出て、道から伸びる階段を下って行った。目的地のない逃避行の先にあるものが何なのか、純粋に興味があった。
「静かだね。」
時生ののんびりとした声こそが静かに響く。
都会の喧噪から離れ、随分と自然が豊かな地域のようだった。ぽつん、ぽつんと道しるべのように、等間隔に立った街灯が闇の奥へと誘う。蛍光灯に小さな羽虫が数匹引き寄せられて、チカチカと音を立てていた。
海里は時生の腕を抱くように、ぴたりと身を寄せた。
「怖い?」
時生は海里の様子を伺いながら、優しく問う。
「ううん。」
海里の強がりを見抜きつつ、なら良いけど、と時生は微笑んだ。互いに電源を切ったスマートホンと携帯電話でしか時間を知る由がなく、今が何時かわからない。とっくに海里の門限が過ぎていることだけが、夜の深い匂いと月の高さで理解できた。
「行こうか。」
「…どこへ?」
海里が首を傾げながら時生と供に歩んだ。砂利を踏みしめ、足音を二人分立てながら進む。
「蛍を探しに。」
しばらく駅から伸びる一本道を辿った。二人、口数は少なく、繋いだ手から互いの体温を交換し合っていた。
木々の隙間から赤子を守るために存在するお地蔵様が何体かこちらを見ている。昼間に見れば微笑ましい笑みも、暗闇に浸る今は不気味に目に映るから不思議だった。風が吹き、かさこそと木の葉や道の草を揺らす。一際大きく植物が震えた先に、野ウサギが二人を見ていた。警戒するように鼻を鳴らして左右を確認すると、野ウサギは踵を返して駆けていってしまう。
やがて視界が開けてくると古びたスナックパブの看板や、年季の入った赤提灯が軒先に釣らされている小さな繁華街が見えてきた。どうやらこの町のメインストリートのようで、居酒屋の他に明かりの落とされた個人商店も並んでいる。
「…。」
一件の店から人が出てくる気配がして、時生と海里はとっさに電信柱の影に隠れた。二人の逃避行を咎められたら面倒だった。
賑やかに店内の他の客に別れを告げた酔っ払いが、機嫌良く鼻歌をうたいながらその場を去って行く。その後ろ姿を見送って、ようやくほっと息を吐いた。
「ふふっ。」
海里が不意に笑う。
「どうかした?」
「何か、かくれんぼしてるみたいで懐かしくて。」
海里はそれからしばらく、くくく、と笑みを零していた。どうやら緊張から転じて、気分が高揚しているようだった。「ねえ、時生。もっと違うところも行ってみようよ。」
楽しそうに時生の手を引っ張る海里は、気まぐれに路地裏へと続く細い道に誘った。野良猫が出されたキャットフードにありついている横を通り過ぎて、落ちそうな観葉植物が置かれた塀の傍らを抜ける。迷路のような狭い路地裏を通り抜けた先は町の角に辿り着いたのだろう、そこに一件のラブホテルが急に現れた。ケバケバしいピンク色のネオンで、『サンクチュアリ』と書かれたラブホテルはまるでこの地の最果てのようにひっそりと建っている。
「…ねえ、海里。提案なんだけど、」
「いいよ。」
時生が最後まで言葉を口にする前に、海里は間髪入れずに頷いた。
「まだ何も提案してないんですけど。」
「時生と一緒なら、いいよ。私も歩き疲れたし。入ろうよ。」
腹をくくれば肝が据わるのはいつの時だって、海里だった。時生が考えたことを汲んで、何なら彼の手を引いて積極的にラブホテルに行こうと言う。
「代金っていくらかな。どういう仕組みなんだろ。時生、知ってる?」
「…耳年増の知識でなら、うっすら。」
ラブホテルのロビーに入り。宿泊代を半分支払うと言う海里を諌めて時生は自動販売機形式のフロントの前に立った。「海里、どの部屋が良い?」
各部屋の写真が貼られている蛍光板を見ながら、問う。
「よくわかんない。」
興味津々ながら首を傾げる海里に、だよね、と時生も頷く。「この部屋が一番シンプルそうだから、ここにしようか。」
時生が案を出し、同意する海里を確認してから宿泊代を支払い、機械から落ちてきた鍵を受け取った。
「行こう。」
「うん。」
エントランスを抜けて、二人はエレベーターに乗り込んだ。狭いエレベーターの箱が上昇すると供に耳に違和感を覚える。軽い浮遊感を感じつつ、じっと目的の階数に着くまでランプを眺めていた。
ゆっくりと開かれた扉から一歩踏み出すと、靴裏の感触がふわっと毛足の長い絨毯のものに変わった。足音は吸収されて、時生と海里は鍵に刻まれた部屋の番号を見つつ移動した。
「…ここだ。」
時生が確認して呟き、カチリ、と音を立て部屋の扉の錠を落とす。滑り込むように入室して、電灯のスイッチを探して壁を手のひらで撫でる。中指で触れたスイッチに力を込めると、何度か瞬きのような点滅を繰り返して明かりが付いた。
扉から室内に続く短い廊下の右にユニットバスがある。部屋は主にキングサイズのベッドで支配され、サイドテーブルと小さな冷蔵庫がそこにある家具の全てだった。
「ねえねえ、時生。」
荷物を置く時生の服の裾を海里がつんと引っ張り問う。
「何?」
「何で、天井が鏡張りなんだと思う?意味あるのかなあ。」
海里は頭上を見上げて、首を傾げていた。言われて気が付いたが、見上げると鏡に映った自分と目が合った。
「これはー…、その、」
シンプルだと思っていた部屋に施された仕掛けに気が付き、時生は二人しかいない室内、小さな声で海里に耳打ちをする。
「…自分たちの性行為を眺めるため?わざわざ?」
時生の答えを聞いて、海里は呆れたようにため息を吐いた。
「それっていやらしすぎませんか。」
「いや…、まあ。いやらしいことをするところだからね。」
時生は人差し指で頬をかきながら、苦笑した。
「ふーん。時生もしたい?私と。」
無邪気すぎる彼女の問いに、本当に意味がわかっているのかと時生は疑問に思う。
「…うん。そうだね。いつかは、したいと思うよ。」
時生の曖昧な答えを言及することなく、そっか、と海里は頷いた。そして、ベッドの上に畳まれて置いてあったバスローブを手にした。
「私、お風呂入ってくる。ロリータの洋服って、色々なところが窮屈なの。今日はもう脱ぎたい。」
確かに海里が身に付けているゴスロリの服は編み上げのシャーリング部分や、レースやリボンで調整するところが多い。かわいらしさを追求したファッションには我慢がつきもののようだ。
「行ってらっしゃい。」
時生に見送られて、海里はユニットバスに向かった。残された時生はベッドに仰向けに寝転んだ。他人が使うシャワーの音は何故、こんなにも安心するのだろう。耳をそばだてながら、時生はふと黒い闇が広がる窓の外を見た。
「…雨。」
窓ガラスに当たる銀色の雫が外の天気を物語っていた。雨に降られる前に眠る場所が確保できて良かったと思う。シャワーの音と雨音の二重奏を聞きながら時生はいつの間にか、うとうとと微睡んでいた。

時生はふと目覚めて、一瞬ここがどこなのかわからなかった。部屋の電気は最小限に落とされて、雨音が響く。鏡張りの天井で自分自身の瞳がゆらりと輝いていた。
「…。」
そっと隣を見ると、海里がバスローブ姿で眠っていた。規則正しい寝息にバスローブのタオル地に包まれた胸が上下する。安っぽい石けんの香りが似合わなかった。
これはずっと見ていられるやつだ、と時生は思う。
柔らかい身体の曲線が女性らしく、黒々とした髪の毛がベッドの上に広がっていた。
「…ん…。」
海里の愛らしい唇から、吐息が漏れる。
繭のように閉じられた二人だけの優しい世界に時生は泣きたくなった。自分の逃避行についてきてくれた、かわいい恋人。許されない、祝福されない恋を知り、時生は初めて自身の両親の苦しさと愛を手にした気がした。
涙に視界が滲み、手の甲で拭っていると隣からそっと起き上がる気配がした。
「…時生…?」
再び瞼を開けた視界に、海里が上半身を起こして時生を見下ろしていた。
「どうしたの…。」
「どうもしないよ。おはよう。」
まだ夜中だけどね、と海里が微笑む。そして体重が移動して、ベッドのスプリングが僅かに軋んだ。
海里が時生の上に乗り上げて、彼の耳の横に手を置いて顔を覗き込んできた。さらりと海里の髪の毛が肩から零れて、時生の頬をくすぐった。音もなく海里は小首を傾げるように時生の目色を伺う。
「時生、よく見せて。」
「ん。」
海里の暗い錆色の瞳に自らの顔が映るのが見えた。やがてその顔は近づいて、唇で睫毛の付け根を柔く挟まれた。つん、と引き攣られる感覚に時生は目を細める。海里の吐息を眼球に感じつつ、時生は海里の体躯を抱きしめた。
「…涙、塩っぽいね。」
時生の胸の上で抱かれながら、海里が額を押しつける。時生は感じる確かな重みは温かく、手放したくなかった。
「海里…、好きだよ。」
子猫のようにすり寄って、海里は時生の心臓の上に耳を当てた。海里はとく、とく、とく、と規則正しく動く鼓動をずっと聞いていたいと思った。
二人はしばらく抱き合いながら、身体を寄せ合っていた。時生は海里の髪の毛をなで続け、指先から零れる毛先の感触を楽しんでいた。海里は時生の耳の裏に鼻先を埋めて、深呼吸をしていた。
「僕、汗臭いんじゃない?」
「そう?お日様の香りみたいで落ち着くけど。」
海里がうふふと声を漏らす度に吐息がくすぐったくて、時生も笑ってしまう。子どもが内緒話をするように楽しかった。
「今、何時かな。」
海里の問いに、時生はデジタル腕時計のバックライト越しに時刻を確認する。
「午前3時12分。まだ寝てられるよ。」
「そうだねえ。ね、時生。」
海里はそっと呟いた。
「どこまで逃げようか。私、時生とならどこでもいいよ。」
未来は無地のキャンバスのように何色にも染められるのに、海里は時生色に染まっても良いと言う。
狂ったコンパスを胸に抱えながら、時生は二人の未来の行き先を決めた。
「朝になったら帰ろう。それで、逃避行はお終い。」
「…。」
海里が顔を上げて、時生を見る。
「どうして?」
「どうしてって…。海里のお父さんやお母さんが心配してるだろ。」
時生自身でも、何を今更、と思う。だけど、もう両親を悲しませたくない。
海里はふいと視線をそらして、再び時生の胸に顔を伏せてしまう。そしてしばらく身じろぎ一つしなかった。
「…怒ってる?」
ごめんね、と時生は囁く。雨粒が風に煽られて、一際大きく窓ガラスを叩いた。
「謝罪なんか、いらない。」
海里の固い声音が直接、心臓に響くようだった。
「そうか…。困ったな、どうすればいい?」
淡い声色で時生は海里に許しを乞う。
「時生が欲しい。他には何もいらない。」
あなただけがいればいい、と海里は泣いた。シャツに染みこむ彼女の声が熱い。
「僕はもう全部、海里のものだよ。」
時生は海里の手を取って、胸に当てた。
「この心臓も、気持ちも、時間さえも全て海里にあげる。」
白々しい上辺だけの言葉が、ベッドの上を統べる。逃避行を終えれば、全てが砕けることを時生も海里も知っていた。「…いつの間に、こんなに好きになったんだろ。」
海里は目を潤ませながら、起き上がった。共有していた体温が冷めて、肌が心許ない。
ベッドから抜け出して、時生が見ているにも関わらず海里はバスローブを床に落とした。丸い肩やくびれた腰、小さなお尻としなやかに伸びる足が惜しげも無く晒される。そして恥ずかしげも無く、下着を身につけ始める。発光するような白い肌が僅かな布地で覆われていくのがもったいないと思った。
「私、もう行く。駅で始発を待つね。」
「まだ朝じゃない。」
時生は、海里が着込もうとする服の裾を掴んで止める。
「いいの。離して、お願い。」
「嫌だ。」
「離して。」
「嫌だ!」
ベッドから起きて、時生は海里を背後から抱きしめた。いつも細い身体に触れるときには手加減していたが、今ばかりは思い切り腕に力を込めた。海里は泣いていた。あんなにも焦がれた海里の涙に、少なからず時生は動揺していた。「時生、大好きだよ。…あなたが自分の存在を嫌っていることが、とても悲しい。」
海里の肩が震える。俯いた先に、涙が落ちた。
「時生のお父さんたちが双子だったとしても、私は時生が生まれてくれたことが嬉しい。許されないのはご両親の関係で、時生の存在じゃない。」
「…そう、なのかな。でも、じゃあどうして僕は二人に置いて行かれたんだろう。」
僕は許されない存在だ。
「時生。それはね、」
残されたのは、その罰だ。
「愛されているからよ。」
繰り返し、夢に見る。朝日とも夕日ともつかない、朧気な灯りの中にゆらりと二人分の足が揺れている。黒い影に滲み、表情は伺い知れない。ちらちらと二人の背後に光るのは蛍でも、雪でもない。ただの埃なのに、とても美しいと思った。時生の記憶に残る両親だ。
「…愛…?」
時生の中になかった答えに、思わず反芻してしまう。
「そう。時生の両親は時生を愛しているから生むことを決意して、しあわせ全部を託して時生だけを残して逝ったんだよ。」
淀むことなく、海里は力強く断言をする。
「…愛してる、時生。」
その声は海里を通した両親の声に聞こえた。
不意に、心にかけていた鍵の錠が落ちた気がした。最も柔らかく、傷つきやすい部分で自分でも触れるのが怖かったところだ。それを海里は恐れることなく、包み込んでくれた。手のひらに乗るほど小さな心は静かに燃えて、脈打っている。海里は幼子を扱うように優しくあやし、口付けをしてくれた。
「…。」
気が付くと、時生の頬に涙が伝っていた。溢れる涙は熱い血潮にも似ていた。
海里がダンスを踊るように時生の腕の中でくるりと身を翻した。そして時生の頬を両の手のひらで包み込む。かかとを持ち上げて、そっと時生にキスをする。柔く唇の先を食み、吐息を飲み込んだ。
「ゆっくりでいいから…、気付いてね。」
そう言って、海里は微笑む。その刹那、海里に対しての愛しさが心に溢れ出した。歪んだ感情が温かい雨に晒されて、汚れを禊いでいくようだった。
海里は涙を摘むように、時生の目尻を吸う。くすぐったい。
「何か、ずっと…海里にリードされっぱなしな気がする。」
照れ隠しも込めて、時生は苦笑する。
「そうだよ、へたれなんだから。たまには強引にでも唇を奪ったらどう?」
「…じゃあ、」
海里の腰に手を添えて、ぐっと抱き寄せた。
「いい?」
時生は海里についばむようなキスをして、徐に彼女を抱き上げてベッドへと連れ戻すのだった。

スマートホンの甲高いアラーム音が鳴る。
「…。」
時生は布団から腕だけを出して、スマートホンに触れアラームを止めた。そっと上半身を起こして外を伺うとカーテンの隙間から白い朝日が差している。昨日の雨が嘘みたいだ。
隣では海里がまだ眠っている。
零れる熱い吐息、触れた柔い肌が未だに脳裏に浮かぶ。時生は昨夜のことを思い出して、手で口元を覆い一人赤面した。早々に落ち着かねばと深呼吸を繰り返した。これ以上、海里に無様な姿を見せたくない。
「んー…。」
海里が声を漏らす。きゅっと眉根を寄せて唸ったかと思えば、手を伸ばして何かを探している様子を見せた。
「…海里。」
時生が海里のその手を握ると、力を込めて握り返された。「時生…?」
舌足らずな発音で海里は時生の名前を呼ぶ。そして瞬きを数回繰り返すと、ようやく焦点が彼に合った。
「おはよ…ぅ。」
「うん、おはよう。」
時生は海里の頭を撫でながら、挨拶を返す。
「朝だねえ。」
うとうととまだ眠たそうな海里の手に、時生はある物を握らせた。
「海里さえ良ければなんだけど…、僕の愛を受け取ってくれる?」
「…?」
海里はそっと手のひらを開く。そこには、時生の薬指。愛を誓う指の樹脂封入標本があった。
「気持ち悪くて、ごめんね。」
本当ならおそろいの美しい指輪を準備したかった。だけど、自分には身に付ける指がない。だから薬指そのものを手渡したかった。
「…どんなに大きなダイヤモンドや、輝くプラチナなんかよりずっと嬉しい。ありがとう、時生。」
海里は嬉しそうに歯を見せて笑う。
「もう返さないから。」
海里は薬指の標本を胸に抱き、上目遣いに時生を見た。
「いいよ。でも、いらなくなったら捨てて。」
海里の頬をふにとつまみながら、時生は言う。
「…傷つけてごめん。痛かっただろ。」
時生の手に海里は自らの手を重ねた。
「全然。私、そんなにやわじゃないので。」
「すごいな。」
彼女の頼もしい答えに、時生は笑ってしまう。そして海里を抱きしめる。
「海里、好きだよ。愛しているから、別れようか。」
一番に見せると言った海里の写真は結局、仕舞われたままだ。いつかこの愛が冷めたとき、再び取り出そうと思う。
「うん。わかった…。」
海里は瞳を伏せるが、口元には笑みが浮かんでいた。
「ねえ、時生。」
遠くで線路が鳴る音が響く。もう、あの街に帰る電車は走っているのだろう。
「大嫌いよ。」
海里の淡い目色が時生を映し、朝の光に柔らかい声音の嘘が二人の恋路の邪魔をする。

これが僕たちの、愛の証。