私たちは食事を終えると解散した。
 私は『真夜中ルーム』に戻って、篠村は「やっぱり入る気になれない」と帰宅することを選んだからだ。私も到底入る気にはなれなかったが、『真夜中ルーム』に行くと言って出てきた手前、行かずに帰宅する勇気が出なかったからだ。
 今日も作業ルームで宿題をやりながら、篠村との会話を思い出した。
 あの後、私たちはとりとめのない話をした。中学時代の友人たちはどの高校に行ったとか、日本史の先生に最近子供が生まれたらしいとか、まるで天気の話のような当たり障りのない会話だ。
 昼夜逆転症候群の話題をお互い避けるように。
 そう、例えば。どうして昼夜逆転することになったのか、とかを。

 昼夜逆転症候群は原因不明と言われているし、実際医学的には原因不明なんだろう。
 でも、なんとなくわかる。
 朝目覚めたくないと、願ったからだ。

 春、私は希望に満ち溢れていた、と思う。
 自分で選んで、受験で選ばれた、相思相愛の学校だ。徒歩通学から、二駅分電車に乗ってみて。ださくて仕方なかった制服から、かわいい理想の制服に変わった。
 だけど。九年間ほとんど変わらないメンバーで過ごす中学と、ほとんど初対面の人ばかりの高校は想像していたよりもずっと疲れた。
 今まではなんの気も遣わずに発言していたことが(はばか)れる。自分の言いたいことややりたいことよりも、その場の空気になじむことを優先する。
 おかしくもないのに笑って、怒ってもないのに愚痴に共感して。それは「大人になった」ともいえるのかもしれない。
 だけど毎日どんどん「私」がすり減っていて。私はうまく自分の気持ちを出せなくなっていた。

 今まで私はうまくやってこれた、はずだった。でも人付き合いというものは自分が思っていたよりずっと難易度が高いことに気づいた。
 ある日。四人グループの中の一人、マイが彼氏との愚痴をつぶやいていた時のこと。
「別れた方がいいんじゃない? マイのことを大切にしてくれない彼氏なんて最低だよ」
 私の言葉に、その場はわかりやすく凍った。まるでピシッと音が鳴ったように。
 マイのためを思って、言ったつもりだった。マイの彼が浮気をしているのは明白で、約束をすっぽかしてばかりだった。あまりにもおざなりにする彼の対応に、私は腹が立っていたし、そんな男にすがりつく意味も私にはわからなかった。
「そうだよね」
 私の言葉にマイは力なく笑うと同時に瞳に涙がじわりとたまった。絵里が私のことを見た。その瞳はまるで私を敵認定したかのように鋭く見えた。
「でも、マイは好きなんだもんね。そう簡単には割り切れないよね」
 由奈がマイの背中を優しくさすると、耐えきれないというようにマイは涙をこぼした。
「それが恋ってことだよね、信じたいよね」
 絵里が同調してマイは「ありがとう」と微笑んだ。
「ご、ごめんね……。私マイのことを思って、ちょっと酷いこと言っちゃった。恋もしたことないのに……なんの参考にもならないよね、ごめんね……」
 ひゅぅと鳴りそうな喉から、上擦った早口の言葉たちが滑っていく。
「ううん、栞は心配してくれただけってわかってるから」
 マイは小さな声で言った。

 いじめや無視に発展するほど、私たちは子供ではない。
 少しだけマイとの間に距離が開いて、私の前では彼氏の話をしなくなっただけだ。
「栞はちょっとお節介なところあるよね」
「わかる。正論言えばいいってもんじゃないから」
「ま、栞もいい子なんだけどね」
 と、絵里と由奈が話しているのを聞いてしまっただけだ。
 大きな歪みができたわけではない。
 それだけがきっかけなわけじゃない。だけど、何かを口にするのが怖くなった。私ってお節介なのかもしれない。空気が読めないのかもしれない。私の言葉が人を傷つけるのかもしれない。あの場を思い出すだけでお腹が痛くなる。
 ううん。きっと、人との関わりってこんなことばかりのはずだ。みんなそうやって大人になっていくんだ。私だけじゃない。そう言い聞かせても、どうしようもなく足がすくんで、自分が立っている場所がわからなくなっていた。

・・

 翌日、約束通り篠村は十七時に我が家にやってきた。外で集合するのかと思っていたのだが、篠村はなんとお母さんに挨拶までしたのだ。
 好青年かつ、家が近所、高校も同じ。同じ昼夜逆転症候群。二十二時には送り届ける。篠村の爽やかな挨拶にお母さんは私を機嫌よく見送った。
「お母さん『真夜中ルーム』に行きなさいって言うと思った。すごい」
「親は子供が社会から取り残されるのが怖いだけなんだよ。外に出るだけでもいいんだ」
 家を出て歩きながら篠村はそう言った。
「『真夜中ルーム』だってそういう考えから生まれてるんだよ。あそこに行けば、なんとなく許された気がする。だからあそこは必要なんだ」
「そうかも」
 私よりほんの少し昼夜逆転歴が長いだけなのに、篠村はいろいろと考えているんだな。そう思っていると
「今日はどこに行く? まだ外も明るいし」
 篠村が私に聞く。そうか、『真夜中ルーム』に行かないのであれば、自分の居場所を自分で定めないといけないんだった。
「どうしようかなあ」
 意見を口にすることが怖くなってから、私は小さな提案さえうまくできない。
「棚上に特に希望がなければ、公園でサッカーでもしない?」
 公園でサッカー。予想していなかった提案に正直面食らう。女子高生の遊びとしては一般的ではない。
「あー……昼夜逆転してると、身体なまらない? だからなんか身体動かせたらと思って。でも、女子にサッカーはないか」
 私の反応に篠村はきまずそうに言うから、その表情がおかしくて私は吹き出す。
「いいよ。サッカーしよう。私全然できないけどね。でも確かに身体動かしてないから良さそう」
「じゃあ俺んちすぐ近くだから、ボール取りにいっていい?」
 そうして私たちは近所の大きな公園に到着した。遊具もあってグラウンドも広い、小さな小川なんかもある。小学生の頃によく来た公園だ。
「久しぶりに来たなあ。懐かしい公園だ」
「うん」
「歩いてるだけでもちょっと気分いいかも」
「だろ? やっぱ家の中にこもってるより、ちょっとは身体動かした方がいい」
「だけど、めっちゃ暑いね」
 うだるような暑さに本音が滲んで、私はハッとする。せっかく篠村が誘ってくれて、私の身体のことを考えてくれて公園を選んでくれたのに。失礼な発言じゃなかったか、無意識に手が口を覆う。
「だなー。これ、サッカーは無理だな」
 だけど篠村はおかしそうに笑うだけだ。……気を悪くしていないだろうか。そう思って表情を伺うと
「なに? あんまりじっと見られると照れるけど」
 篠村は少しだけ耳を赤くしてそう言った。思っていなかった反応に驚いてしまう。
「暑いし、ちょっとだけ散歩したらアイスでも食べに行くか」

 私と篠村の一日目の夜はすぐに終わった。
 公園をぐるりと散歩して、アイスを買って公園に戻った。身体が冷えたからと、少しボールを蹴ったらすぐに汗だくになった。次は銭湯に行くのもありだな、なんて話して。それから昨日も行ったファミレスで私たちにとってのお昼ごはんを食べて、九時半頃には家まで送ってくれた。お母さんはもちろん喜んでいた。
  
 昼夜逆転が始まって。家族が眠りについた後、朝が来る前の四時間程。私はずっと孤独だった。
 部屋の明かりをつけて、イヤホンから好きな音楽は流れても。静かな夜に私ごと溶け込んでしまっている気がした。この世界には誰もいなくて、私だけで。
 真っ暗で、終わりのない、泥のような暗闇に。自分が溶け込んでしまっているようで。もがいても、出れる気がしなくて。
 朝目覚めたくもないのに、夜に沈む勇気もない。夜に一人起きていると、この世界に私しかいない気がして。言いようもない恐ろしさが足元に渦巻いていた。
 でも、今夜は違う。
 私がこうして眠れずに過ごしている夜。同じく眠れずに夜を過ごしている篠村がいる。真夜中を一緒に過ごさなくても。